「坂龍飛騰」考察(「十口伝」との比較メイン)
過去作復習必死の作品
「坂龍飛騰」単体の感想は挫折したので舞台の「十口伝」との比較を中心に全体考察の一環として他の考察と絡めながらとりあえず今の時点で整理出来そうな「坂龍飛騰」の筋をまとめます。
当たり前ですがネタバレしまくりなのでまだ観ていない方はご注意ください。っていうかそういう方はここを見てる場合じゃない。
今回の話、ミュージカルの過去作を観てるか観ていないかが重要になるからそっちを見た方がいいって。
1.今回は「名もなき人」が主役の物語(以前の話の復習必須)
「悲しい役目とは なんじゃろうか」
正直今回の「坂龍飛騰」はこれまでの話の中で、人によっては一番読解が難しかったんじゃないでしょうかね。
と、言うのも今回は、「物部」という集団に属する一人の名もなき青年が主人公の物語だったからです。
この集団、劇中でもそもそもあまり解説がされておらず、歴史から外れて生き残ってしまった、あるいは三日月に助けられて生き残った、そういう名もなき人々のことのようだ、という扱いです。
この辺の「まず物部とは何者か?」の問いは「坂龍飛騰」中でもはっきりした説明がなされておらず、観る側としてはこれまでの「名もなき存在」それぞれがどういう行動をしていたかどういう想いを持っていたかという下地あってようやく、今回の主人公「名もなき青年」を理解する足掛かりとなります。
今回の「名もなき青年」も「物部」とこそ呼ばれていましたが、だかといって以前の話で「物部」を名乗っていた人物と特に接点があるようでもなく、本当にただなんか「三日月に助けられた人間」くらいの扱いです。
しかし、ミュージカルのこれまでの話全体を振り返ると、人間・遡行軍問わず「名を持たぬ物語」「名もなき存在」の話自体はかなりやっている(というかミュージカルは今のところそこがメイン)ので、それを知っているか知らないかで解釈は大幅に変わると思われます。
とうらぶの演劇は舞台にしろミュージカルにしろ、わりと途中の話から観ても大丈夫と勧める方がおりますが、話としては一応続き物なので最初から全部順番に観るのが一番なのは言うまでもありません。
それでも舞台は大河ドラマのような連続性のある物語をきっちり表明しているのでできれば最初からと勧める人も多いでしょうが、ミュージカルはこれまでの話は、まだここまで過去の話をきちんと押さえておかないと話の筋がわからないものはなかったと思います。
単体で見ても平気だと勧める人が多かったジャンルで、単体だと話の中核がわからない話をお出しされたのでなんかよくわからない、と思う人はいつもより多くなると思われます。
もし今回の「坂龍飛騰」を一番最初に観てなんかよくわからなかったよ! という方はまず他の話を一通り見てくることをお勧めします。それだけでだいぶわかりやすくなると思いますので。というかそれしたら別に俺の考察なんか読む必要はないと思うんだ。
私も初見でこの話は前回の「陸奥一蓮」、「物部」という言葉が初登場した「静かの海のパライソ」、肥前くんのスタンスや発言の意味を知れる「江水散花雪」、三日月がその時代の人々に指示して行動していることが判明した「つはものどもがゆめのあと」辺りは見ておかないと話が通じないと思いました。
Twitterなんかで他の方の感想を読んでも、やはり大体この辺りは押さえておきたいと名を挙げる人が多かった作品です。
それに加えてあれもこれもとやはり読解に必要な作品を挙げるとキリがないくらいなので、最初から一通り観るのが一番いいと思います。
2.「十口伝」(舞台)との比較
今までの考察からして、舞台とミュージカルは同時期の話はまあ大体同じようなポイントを抑えた脚本だなと(主旨自体は逆かもしれないが)いう結論になりました。
という訳で、今回は2月の舞台「十口伝 あまねく刻の遥かへ」と比較しながら考えたほうがいいかなと思います。
「十口伝」は正直舞台を見た時に初見であんまりピンと来なくて「昭和の鎌田魚妙」について考えましたが、結論として
「あの世界で普通に生まれ、江戸時代の研究者の名前を与えられた『昭和の鎌田魚妙』はつまり、『山姥切長義』と同じ存在」
というのが肝だと思います。
名前がかつて存在した他の誰かのものを貰っていたとしても、存在そのものには別になんら手が入っているわけでもない。
その世界で普通に生まれて普通に生きている「昭和の鎌田魚妙」は、つまり別に長義くん本刃に何があったわけではないけど、途中から国広関係の事実誤認という特殊な事情で「山姥切長義」になった刀と、同じ。
だからその「昭和の鎌田魚妙」がどういう存在で、彼とどう相対するかこそが、「十口伝」という「山姥切長義メインの短編連作集」の主題なのだと。
そこから考えると、今回の「坂龍飛騰」はどうか。
一人の「名もなき青年」が、「坂本龍馬」として死ぬ話。
彼の人生の意味、彼の選択、彼の答。
それが「陸奥守吉行」にとってどういう意味を持つのか、というのが今回の物語の主題でしょう。
これまでの主人公は刀剣男士や、歴史上の人物など我々にとって定義を理解しやすい、「名のある存在」が多かった。
けれど今回は、一人の「名もなき青年」こそが主人公で、彼を理解することが「陸奥守吉行」を理解する道のりになります。
むっちゃん以外の刀剣男士もそういうわけで、今回はひたすらサポートに徹していた印象が強いですね。それもあって余計に今回はこちらが見たい刀剣男士単体で語ろうとするのは難しい内容だと思います。
一口にサポートと言っても、彼らがどうしてそういう方向のサポートを選んだのかが、やはり主人公の「名もなき青年」がどういう存在であるから、彼らが彼をどう考えてどういう言葉を贈っているのかを考える必要があります。
3.「慈伝」と「十口伝」、「結びの響き、始まりの音」と「坂龍飛騰」
「十口伝」と「坂龍飛騰」の比較もそうですが、同じく押さえておきたいところとして、「十口伝」は長義くん登場回の「慈伝」、「坂龍飛騰」はむっちゃん登場回の「結びの響き、始まりの音」と対応しているように見えます。
もともと舞台の方の考察はあっちの話にこっちの話が対応して、こっちの要素にあっちの要素が対応して、というタイプの考察を重ねていたので長義くん初登場回の「慈伝」と長義くん主役オムニバスの「十口伝」の比較は当然すべきところなんですが、今回の「坂龍飛騰」と「結びの響き、始まりの音」の関係性を推測するなら、そろそろミュージカルに関してもその辺の構造論側からの考察を進めた方が良いようです。
「結びの響き、始まりの音」に関して最も重要な部分は、巴形薙刀の台詞周辺にあると思います。
「名もなき遡行軍」「物語なき刀」である敵の目的が、刀の時代の終わりを背負った「土方歳三」と共に生き、共に死ぬことだと。
そして実際に自分と戦って死んだ遡行軍たちにこう告げている。
「良かったな 物語に出会えて」
そして巴形薙刀は後に、本丸で審神者に「欠けているのは俺だけではない 皆、何かが欠けている」という話をします。
えー、とても良いシーンなのでまだ観ていない方はぜひ本編を見るか、あるいは「結びの響き、始まりの音」は戯曲本も出ているのでそちらを読むことをお勧めします。
ミュージカル本丸の物語は正直第一作目の「阿津賀志山異聞」の今剣の台詞「れきしをかえてはなぜいけないの?」(台詞自体は元は原作ゲームの回想8)と、この巴形の「皆、何かが欠けている」を主軸に「名のある者」と「名もなき者」の関係性を描いているものだと思います。
「花影ゆれる砥水」もライター交替のタイミングと重なったせいかよくわからないみたいな意見が当時の感想に散見されますが、あっちはまだ主軸が「一期一振」だから、一期を中心に見て行けばわかりやすい構造になっています。
今回読解の難易度をあげているのは「名もなき青年」の方が主人公だからであり、その「名もなき物語」が主人公だというのは、この「結びの響き、始まりの音」を「逆側から描いた物語」だと考えられます。
「結びの響き、始まりの音」で、「物語なき刀」が土方歳三という名のある物語と共に死ぬことを選んだ。それに対し巴形が「物語に出会えて良かった」と判断したように。
今回は「名もなき青年」が「坂本龍馬」になるその道のりを、彼の希望も苦悩も絶望も意地も、その総てを「龍馬が死ななければその逸話を得られない陸奥神吉行」が見つめている話だと言えます。
4.修行に行った刀
冒頭のむっちゃんと審神者の会話を聞くに、ミュージカル本丸では誰かが修行に行ったようです。
「陸奥一蓮」の流れから考えたらここはまあ多分山姥切国広でしょう。
「陸奥一蓮」は国広が過去本丸で起きたことの詳細を加州や蜂須賀たちに話す流れで、その内容は観ている側には明かされませんでしたが、その結果として内面に一区切りのついた国広が修行に行ったんじゃないでしょうかね。
ミュージカル本丸の物語としてはだいぶ進んだようです(いや回想も見せてくれよ)。
山姥切国広と陸奥守吉行の連続性と表裏の関係はそこかしこの作品で見られます。
特命調査などを描く話は「聚楽第」の次が「文久土佐藩」なのでこの順番になるのは必然だと思っていましたが、参照するメディアミックスの範囲を広げれば広げる程、謎に国広とむっちゃん、あるいは国広からのむっちゃんという流れが多いので、意図のある構成ではないでしょうかね。
とりあえず一応ここは確定しないのでメモ程度で終わります。
ちなみに国広だけでなく、今回の比較のように「陸奥守吉行」と「山姥切長義」の組み合わせも「外伝 あやかし奇譚」なんかがあります。
5.八か月の佩刀、陸奥守吉行の来歴
陸奥守吉行が龍馬の佩刀だったのは『坂本龍馬と刀剣』によると8か月。1年間もなかったんですね。
慶応2年12月4日、坂本龍馬は兄・坂本権平宛の手紙で家宝の甲または刀の拝領を願っている。
翌年、慶応3年2月に土佐藩に赦免されてから龍馬の兄・坂本権平が西郷隆盛に坂本家の家宝である「陸奥守吉行」を託し、中岡慎太郎を経て龍馬のもとへ届けられた、と。
坂本龍馬はすでにこの時、国難にのぞむにあたって、いつ死んでもおかしくないことを自覚していた。
だから郷土を感じられるものをわざわざ兄に贈ってほしいという手紙を出していたと。その龍馬のことを考えてお兄さんが西郷隆盛たちを通じて届けてもらったのが故郷・土佐の名工「陸奥守吉行」の刀だった。
坂本家の家宝の一振りだった「陸奥守吉行」は、もともと自分の死を覚悟していた龍馬が求め、実際に龍馬が死んだときに握っていた刀でもある。
来歴考えると「坂本龍馬の死」と「陸奥守吉行」の存在はどう足掻いても切り離せないのだな、と。
慶応3年6月24日の坂本権平宛の書簡に、龍馬の喜びようが残っていると言う。
京都での鑑定結果を色々な人々に自慢するほどの喜びようだったと。
だから龍馬の「陸奥守吉行」ってのはただの佩刀じゃなくて、まさしく愛刀だったんだねって。
この辺の話は大きめの図書館になら『坂本龍馬と刀剣』(小美濃清明著)が入っていると思いますが、デジコレの利用者登録をしていれば雑誌掲載時の記事が読めます。
『刀剣と歴史』(590),日本刀剣保存会,1992-11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/7901284 (参照 2025-03-28)
同じく坂本龍馬が脱藩時に持ち出した「肥前忠広」の話はこっち。
『刀剣と歴史』(597),日本刀剣保存会,1994-01. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/7901291 (参照 2025-03-28)
ちなみに「岡田以蔵の肥前忠広」は昔は「坂本龍馬からもらった」とされていましたが、最近の研究では武市半平太の手紙で言及されていることから、もとは武市半平太が岡田以蔵に渡したものではないか、とされているそうです。
研究史の細かい話はそういうページを見てもらった方がいいんですが、今回の「坂龍飛騰」を見る時は細かい研究史を知っていることよりも、
「結びの響き、始まりの音」で陸奥守吉行のことを新選組の刀たちが話している時に堀川くんが
「主が殺されたときに その手に握られていたんですもんね」
と、その心情の辛さに触れたところや、
「江水散花雪」で、正史と異なる歴史を辿り最終的に放棄される世界にいた岡田以蔵を前に、肥前くんが色々と悩んだこと。
などなど、やはり以前の話でその心情や言動がどのように描写されていたかを知っていることが重要だと言えます。
6.月の反射
月は映すもの、人の気持ちを反射するものというのが今回一番重要情報かなと。
月が人の想いを反射するものだとしたら、単純に考えてその反対側にある太陽は想いそのもの、自ら発する心、自らの意志でしょうねと。
自らの意志を持たねばならないって話はどちらかと言うと舞台の方が常に強調している気がします。
今まで「月」だの「太陽」だの強調してたのはこれかあって感じ。
これに関してはミュージカル内はもちろん、他の作品でもこれまで「月」というメタファーがどういう使われ方をしてきたか考える必要があるなと。
メディアミックスどころか、原作ゲームでも三日月が修行手紙で「月として幾星霜」と書き綴ってきたものの「月として」ってどういう意味やねんと思っていましたが、ちょっとこの時点で全体的に見直す必要がありそうです。
この部分は今後の考察のとっかかりとして意識しておきたいところです。
7.見守る神
陸奥守「怒りは もちろんある けんど 色々な思いが渦巻いている どろどろじゃき こりゃ海じゃあない 心っちゅうもんは 濁った泥水じゃ」
後家「わかるよ 怒ってムカついて何度も考えてしまうけど それでも考えてしまう でもさ そういうのを愛って言うんじゃないかな だから そう きっとキミからは綺麗な花が咲くよ 泥中の蓮 知らない? 蓮って濁った泥水の中でこそ あれだけ美しい花を咲かせるんだ」
南海「まさに僕たちだね どんなに理不尽でも無慈悲でも この歴史を愛して守るために戦う」
今回は主人公の「名もなき青年」を部隊全員でバックアップする形式の物語だったので、刀剣男士としての特徴そのものは出ていても、個々の男士の活躍に関してはいつもより抑えめだった気もします。全体的に歌が少なかったような気も。
ただ部隊そのものはバランスが良く、統率がとれていて良かったと思います。
肥前くんが最初に物部による龍馬の代役を受け入れがたいとして「降りる」宣言をしたことは肥前くんの心情を考えれば当然のことですし、それが当然であることを全員がわかっていて、だからみんな無理に追わない。
そして結局そういう肥前くんも使命を完全に放棄したわけではなく、こっそり様子を見守っている辺り、結局面倒見が良いんですよね。
浅井さやか氏の脚本の良さはここだと思います。相手の心情を考えられなくて衝突するシーンというのはほぼなく、口論が発する時は大体信念のぶつかり合いになる。繊細な心情の描き方が特徴です。
御笠ノ忠次氏の脚本の時は片側が相手の考えをわかっていないから口論に発する展開が多めだった気がします。こちらの手法だと何が起きているのか事態がかなりわかりやすくなります。
大慶直胤は誰に対しても細かくツッコミを入れて全体的に入れ込み過ぎないよう忠告を出している傍ら、あの面子の中では人間の心情に対する理解がやや浅いような印象も受けました。
科学の徒らしい性格と言えばそんな感じも。知識や計算はできても、それを起こす欲求の方には浅い。子どものような無邪気な探求心と科学者の冷静さの同居でしょうかね。
大慶に関しては原作ゲームでも「坂龍飛騰」でも「反射炉」に言及してたことと、「坂龍飛騰」の方で「月は気持ちを反射する」という重要ポイントが明かされたのでちょっと原作ゲームの回想から見直す必要がありそうなので割愛。
後家兼光は、南海先生のフォローをする形で「名もなき青年」を励ましていたシーンが一番の見せ場かな。
「坂本龍馬」にならなければいけない青年に対し「キミと坂本龍馬は違う だから キミでいいんだと思う」と端的に伝えています。ある意味今回の話のポイントです。
「坂本龍馬」にならなければならない。そう聞くと一見何もかも龍馬を演じるために捨てなければいけないように聞こえますが、ごっちんの言葉からわかるのは、そうではないこと。自分のままで龍馬になるということ。物語なき者が、そのままで誰かの名を得るための道のりです。
序盤ではむっちゃんのことも気遣っていましたし、今回のごっちんは本当にサポート役が多かったと思います。
笹貫は「薩摩の刀」であるところを見せてくれたのであの中だと割と描かれた方かと。
未来の出来事を知ってしまったからこそ心持が変わってしまいそうな西郷隆盛に対し叱咤するところは後半の見せ場の一つだと思います。
南海先生は基本は土佐無関係の三振り(大慶・後家・笹貫)と同じラインで行動しつつ、土佐の刀として坂本家の刀である陸奥守吉行・肥前忠広に一番踏み込んだことを言える独特のポジションだったと思います。
歴史を守る意志や姿勢がかなりはっきりしていたので、正直他のメディアミックスの南海先生よりなんか真面目に見えました(オイ)。
一振り一振りどういう場面でどういう形で活躍したか振り返ってみても、やはり今回は全振りサポート全振りというスタイルで、主人公である「名もなき青年」を支える立場だったなって感じですね。
(いやこっちとしては君らが主人公してる方が見たいのが正直なところなんだが……)
南海・笹貫・後家・大慶に関しては一方でむっちゃん自身のことも気遣っているのでやはりバランスのいい隊だなと思います。
「坂龍飛騰」はそもそも冒頭、本丸で三日月宗近をあまり知らない大慶・笹貫・南海が話している場面が入るんですよね。
三日月のやっていることは何なのか。
自分たち刀剣男士という神様の意味。
人の心とは何なのか。
物語全体的にこういったことについてちょこちょこ話しながら、特に三日月のやっていることに関しては「敵と同じじゃないか?」という疑問を持ちながらも、役割としては「名もなき青年」のサポートにひたすら徹する。
今回の話、微妙に起伏を感じづらい平坦な構成な気がしますが、その一端は刀剣男士側が意見別れの衝突のようなものを起こさず、全員が歴史を守る役目に忠実にひたすらやるべきことをこなしていたという実情があるかなと思います。盛り上がりがある意味ありません。
あれだな、こうして言葉にまとめてみると特命調査の「天保江戸」に近い構成ですねこれ。
そうか舞台側が「十口伝」の次は天保江戸の「士伝」だしここも対構造の可能性があるわけか……。
原作ゲームの「天保江戸」は波乱らしい波乱がなく、見どころと言えば水心子くんが心に迷いを生じたらしい時に、蜂須賀が「進んだ先でだけ、出会える答えもある」と、ほんのり背を押す言葉をかけるところぐらい。
大きな失敗とか裏切りとか計算違いはなく、やるべきことをやることこそが、自分たちにとって大切なことだと進む話。
なので、傍から見ると起伏のないストーリーに見えますが、その場面で彼らの内面にどんな葛藤があるか心情に思いを馳せてこそ意味がある構成です。
「坂龍飛騰」の場合は、大慶を筆頭にみな、三日月のやることに薄々疑問は抱きつつも、自分たちがやるべきことは歴史を守ることだと目の前の任務に徹することで、
「名もなき青年」が「坂本龍馬」になるという物語の完成を見届け、さらに彼のお守りであった「蓮の実」から三日月の想いの一端、「人は皆誰しも 次に繋ぐ種となる」を知るような感じですかね……。
失敗と言えばごっちんが戊辰戦争についてもらしたことや、南海先生が戊辰戦争について聞かれたからと教えてしまったことはー? という小さな失点らしきものの話もありますが。
個人的にはその辺は大した問題ではないと思います。
一番の失敗は序盤で本物の龍馬を守り切れなかったことで、物部に代役をさせるという選択自体が別に最適解でも何でもない以上、その辺は任務の本質でも、任務の達成を妨げるほどの暴挙でもない。
実際今回は戊辰戦争について知っても最終的に龍馬の代役を務めることを選んだ。
逆にこの史実を隠しても後に暗殺されると知った時点で代役を拒否される可能性は十分高かった。
知らないことが良いわけでもないし、遡行軍だって手紙を届けたりあの手この手で干渉してくるんですからその辺をチクチク言っても仕方ない。
むしろその出来事周辺のやりとりから色々読み取りたいなと。
ごっちんはもともと「一言多い」だけあってその辺迂闊だということは否定できず、けれどのちにその件について本人としっかり会話する通り、そもそも戊辰戦争について絶対に隠し切らなければならない未来とは考えていない様子。
一方で笹貫は平泉出身の青年にその辺りはあまり教えたくなかった向きもあれば、ごっちんより慎重な性格っぽい部分もある。
(この辺はそれぞれの原作回想見ると原作ゲーム通りの性格かなと思います。初対面の長義くん相手に何の説明もなく「おつう」の話してるごっちんと、琉球の刀で複雑な関係にある治金丸に敵意を向けられながらも気遣う笹貫のイメージ通りかなと)
個々の男士の細かい印象に関してはもう正直プレイヤーそれぞれが趣味で分析する範囲かなと。
8.物語なき者の物語
前提の整理が大体終わったところで、今回のハイライト。「物部」に属する「名もなき青年」の視点をいよいよ追求していきたいと思います。
「坂龍飛騰」では刀剣男士がある意味彼を「龍馬の死」の物語に導きますが、これを考えるにはやはりここまで見てきた「名もなき者」たちの物語を振り返る必要があります。
一番重要なのはやはり上でも触れた「結びの響き、始まりの音」の物語なき刀、土方歳三と共に死ぬことを選んだ遡行軍たちだと思います。
巴形は彼らの想いがわかると言った。
物語がないからこそ、それを得たいと言う行動の行き着く先は「死」であると。
これに関しては舞台の方も合わせて観ると理屈がいい感じに補完されるというか。
舞台では結構なキャラ、おもに敵である放棄された世界の住人たちが、死を望むことがある。「慶長熊本」のガラシャ様なんかもそれですが、一番象徴的なのは「慶応甲府」というよりは舞台の「心伝」の新選組ですね。
彼らは、物語を完成させるために「死」を与えられることを望む。
舞台の場合はただ死ぬわけじゃなくあくまで戦って、ですけど。
「刀剣乱舞」における「死」そのものが何を意味するかを考える必要があります。
普通の人間にとっての死と同じように、ミュージカルの登場人物の多くも死にたくないと願っているものが多い。特に今回の物部の「名もなき青年」や「静かの海のパライソ」のキリシタンである民衆のように、一般人の方が多いようには思います。
しかし同時に、今回の「名もなき青年」は、回想シーンで三日月が提示した「人の子よ 静かに生きよ」「お前の命運はもう尽きた 人知れず生きるほかない」という選択肢を自ら否定して、「坂本龍馬の影」になることを自分で選んだ存在でもあります。
この場面の台詞は「人知れず」に関する解説されない解釈が大事で、三日月の言葉に対し子どもだった彼自身が「人知れずって 一人ぼっちで生きろってことかい? 一人ぼっちはいやか」と拒否しています。
この辺から考えても、やはり「結びの響き、始まりの音」の巴形の理屈が基準なのだと思われます。
物語なき遡行軍たちは、土方歳三と共に生き、死ぬことを選んだ。
それを巴形は「物語に出会えて良かった」と判断している。
「死」を選ぶからこそ、物語に出会える。その生き方こそがミュージカルの「影」とも考えられます。
「影」という言葉に関しては舞台でも重要ワードの一つなんでもうちょっと考えを深めたいところですが今回はちょっと割愛。
「江水散花雪」の方でも、吉田松陰と井伊直弼の出会いが、彼らを放棄された世界という正史とは別の意味での死に追いやっている。
とりあえずメタファーとしてミュージカルでは「出会い」と「死」がセット要素のようです。
この辺りを踏まえると、「坂龍飛騰」で坂本龍馬となることを選んだ「名もなき青年」は、そもそもただ一方的に死を押し付けられた被害者というわけではない。
もともと死ぬはずだった存在として、人知れず生きるという選択肢もあった。
それを蹴ったのは彼自身。
とはいえ、影として生きるには、坂本龍馬という僅か31歳で暗殺された青年の人生は若すぎるとも言う。
傍で観ている側が惨いと感じるのも、本人が嫌だと感じるのも当然は当然です。
一方で、彼は本来その名で語られるべき坂本龍馬の人生を乗っ取る、なりかわる行為に出たのですから、批判もあって当然です。
最初に肥前くんが彼の代役を否定して怒っていたのは正しい。
龍馬になりかわることを選んだのだから、龍馬の人生は全て引き受けなければならない。
それが、暗殺される末路であろうが。
「坂本龍馬」として殺されたくなければ、「坂本龍馬」を演じる必要など最初からなかった。
それだけの話。
歴史上の人物も、自分がいつどこで死ぬかは知らない。
本物の龍馬だって、その危険ももちろん視野に入れてはいましたが、実際にあの日あの場所で31歳で死ぬ覚悟まではあったわけではない。
歴史とは人が必死に生きた結果。死を覚悟して生きるのとはまた違う。けれど。
歴史に名を残す人物とは、それだけのことを成し遂げたから名が残った。
ただ漫然と生きてきただけの人間を誰かが後から褒めたたえて歴史上の人物としてくれたのではない。
人々に記録されるだけのことを成し遂げたから名が残った人物、その人物になりかわるのなら、その人物の成し遂げたことを自分が代わりに成し遂げなければならない。
そしてその人物の名を名乗りながらその人物とはまったく別の道を行くのなら、それは歴史改変だ。
刀剣男士の立場からすれば見過ごすことはできず、殺すしかない。
陸奥守「刀を下ろせ この男は坂本龍馬じゃ 名乗ったじゃろう」
肥前「こいつは龍馬じゃねえ!」
坂本家の家宝の一振りとして龍馬を愛し、そもそも彼の物語を乗っ取られることを望まない肥前忠広は、代役自体を認めないというスタンスを最初に示した。
あとの五振りのうち四振りは、そもそも龍馬の直接の関係者ではないので、隊長である陸奥守吉行の方針に従い、「物部」の青年を「坂本龍馬」に仕立てることを、任務達成の手段の一環として了承した。
けれど、刀剣男士の側からすれば別に何が何でも彼を龍馬に仕立て上げる必要性は薄い。
最初に南海先生が提案したように、陸奥守吉行が代役を演じて、最期は代わりの死体でも用意して辻褄を合わせればそれで充分。
別にごっちんが戊辰戦争について情報を漏らそうが、南海先生が教えてしまおうが、どうでもいい。
それで変わる可能性があるのは「名もなき青年」が代役を拒否することぐらいであり、そうしたら最初の計画通り陸奥守吉行が龍馬を演じればいい。
問題など何もない。実際、一時期その状態になった。
そしてそれでも、変わるものが物語。
勝麟太郎「捻くれついでに言うとな おいら前のお前さんの方が好きだった」
龍馬としては完璧な代役を演じられるだろう陸奥守吉行。
けれど勝海舟は、前の龍馬の方が好きだったという。
その僅かな差こそが、その人がその人であるという証。
「坂本龍馬」ではない一人の青年が、けれど久坂玄瑞と友好を築き、勝麟太郎に弟子入りし、西郷隆盛と面識を持ち、「坂本龍馬」になっていく。
陸奥守吉行は、「影」であった「名もなき青年」に坂本龍馬の代役という道を示した。
けれど刀剣男士たちは、何が何でも彼を龍馬の代役にしたいわけではない。他の四振りによってはどちらでもよかった。龍馬の代役が自分たちの隊長であろうと、物部の「名もなき青年」だろうと。
どちらであろうと、歴史を守ることに変わりはないと。
引用が多少前後しますが、刀剣男士たちのスタンスに関しては結局、むっちゃんによる代役後の四振りの会話が全てを示していると思います。
大慶「吉行は物の見事に龍馬の代役を演じた」
笹貫「そりゃそうだよ 彼だからね」
南海「いろは丸の沈没事件も薩土盟約も正史通り」
後家「大政奉還に向けて山内容堂公に建白書を書かせることにも成功した」
大慶「なんで最初から自分でやるって言わなかったんだろう こんなにスムーズなのに」
南海「出陣で何度も見かけて情が湧いたのかもしれない あと 三日月宗近への義理という可能性もあるね」
彼が自分で選んだから、その道のりを見守り、手助けした。
「物部」の青年が龍馬の影となることを望んでいたからこそ、刀剣男士側はそれを手助けしたに過ぎない。手間暇を考えるなら最初から陸奥守吉行に任せた方が早く、南海に言わせればそもそも陸奥守の選択自体が「義理と人情」だという。
結局そうやって手助けし続けた「影」が薩摩でついに代役を拒否しても、刀剣男士たちは別に彼を責めなかった。
西郷隆盛が「名もなき青年」に思わず謝ろうとした時にそれを責めた笹貫は、相手が「西郷隆盛」本人だからこそ、正史の自分の選択を否定する態度を叱咤したのだろう。
けれど「物部」の青年に対し、刀剣男士たちが一度その名を引き受けたからそのまま死ねと強要するようなことはない。
薩摩で龍馬の死について知った時の男士たちの反応は一見冷たく見えるかもしれないけれど、人がいずれ死ぬというのは当たり前であり、本当に龍馬の人生を完璧にやりきるつもりがあるならばその寿命について尋ねておく必要があったのは名もなき青年自身も同じことですからね。
どちらが良いとか悪いとかではない。
歴史上の人物の「なりかわり」とは、そういうものだと。歴史上の人物の名は、「物語なき青年」が都合よく生きるために消費されるものではない。
龍馬の人生を乗っ取る時点でその死も引き受けねばならなかった。
死を引き受けるつもりがないのであれば、龍馬を名乗る役割を引き受けてはならなかった。
ただ、もともと代役に反対していた「坂本龍馬の刀」、肥前忠広は言う。
肥前「散るべき時に散れなかった花は 何も残さず腐るだけだ」
「江水散花雪」で散るべき時に散れなかった花(岡田以蔵)の末路を見てきた肥前忠広だからこその言葉。
逃げて逃げて、誰とも関わらず人知れず、ただ生きることを選んでも良かったのかもしれない。
けれど「名もなき青年」は自ら戻ってきた――「坂本龍馬」になるために。
生きていたいならば、誰かになりかわる必要などない。
刀剣男士はそれを止めない。別に彼がいなくても何も変わらない。
すべては「結びの響き、始まりの音」で巴形薙刀が示したこと。
物語なきものが、物語を求めること。
その意志を刀剣男士は尊重した。
これが、「坂龍飛騰」の主軸たる、「物部」の「物語なき青年」の物語だと思います。
他人様の感想見た感じ、刀剣男士が冷たく感じられるって?
それに関しては時系列通りにメモとって話の流れを確認するのが一番だと思います。
上でちょこっと会話引いてきた通り、刀剣男士側からすれば最初から南海先生が提案していた通りに陸奥守吉行が代役を務めるのが楽だった。
それでも「物部」を見守ったのは、彼自身が名のある物語すなわち、「坂本龍馬」になることを望んでいたから。
けれど、誰かの人生に「成り代わる」ことは、決して楽な道のりではなく。
途中で怖気づいたり拒否したくなることもあるだろう。それならそれでいいというスタンスだったのでしょう。だからごっちんや南海先生が戊辰戦争について教えてしまおうと、どうでもいいと言えばいいのです。
教えたからと言って、ごっちんが言っていた通り名もなき青年一人で戊辰戦争の発生を防ぐことはできませんからね。ただ彼が龍馬の代役を拒否する可能性があるだけ。
彼らには「名もなき青年」が、その死まで引き受けてまで「坂本龍馬」に成り代わりたいのか、そうでないのかまでは知る由がない。別に彼がいなくてもかまわない。それでも多分結果は変わらない。
「坂本龍馬」になる。それを望んだのは、「名もなき物語」である彼自身。
これまでミュージカルの様々な公演で描かれてきた「名もなき物語」の数々。それらの人や刀たちは決してみな同じことを選んだのではない。
忌み嫌われた双子だろうと別に不幸などではないという「葵咲本紀」の永見貞愛。
キリシタンではないけれど食うために一揆に参加したと言い放ち、最期は弟を守って死んだ、「静かの海のパライソ」の名もなき一人の少年。
悲しい役目を背負わされたと言われて三日月を怒鳴りつけたという「東京心覚」の平将門。
放棄された世界で、出会ってしまったからこそ破滅に陥るが、それまでむしろ正史以上に楽しそうに生きていた「江水散花雪」の吉田松陰と井伊直弼。
一期一振として豊臣秀吉の刀になることを望み、叶わずに散るも自分を忘れろと言った「花影ゆれる研水」の影打であるカゲ。
死んでいった仲間たちのために、自らの命を自ら使うと決めた「陸奥一蓮」の阿弖流為と母禮。
自分で生き方を選べたものもそうでなかったものもいるけれど、結局みんなどこかで大事な選択をしながら生きて、時には死んでいった(上の例だとむしろ最終的に死んだ方が多い)。
そして今回の「物部」であり「坂本龍馬の影」となった青年は、そのために生きるか死ぬかを選ぶことも出来た中で、「坂本龍馬」として死ぬことを自分で選んだ。
生きたいという本音。名のある者になりたいという願望。
死にたくないという本能。見事な散り際でありたいという願い。
これらはそもそも全て並立する。それでも、たった一つの道を選ばなければならない。
「坂龍飛騰」は「坂本龍馬」になることを自ら選んだ、「名もなき青年」の選択の物語だと思います。
9.いっとう格好ええ龍馬へ
例え自分で選んだことだとしても、それでも、
誰だって――死ぬのは、怖い。
「時代は変わる あぎも喜んでくれゆう」
「何を震えゆう」
だってこれから、刀で斬られるんだよ?
それを目の前の、共に殺される中岡慎太郎に教えてやることすらできない。
龍馬はまず額を割られると知っていても、咄嗟に逃げたり防ごうとすることすら許されない。
幾度も繰り返されたろう、慶應3年11月15日の夜。
龍馬自身の誕生日でもある近江屋事件のその日。
最後の「坂本龍馬」と中岡慎太郎の会話が、冒頭と変わっている。
死の恐怖から来る震えを、「名もなき青年」は風邪をこじらせたからだと誤魔化す。とても寒い夜だったと。
近江屋事件の際、龍馬は即死に近かったが、共にいたこの中岡慎太郎は襲撃からしばらくは生き延びていたため、龍馬の死の光景は詳細な証言が残っている。
その記録通りに死ななければならない。
……どんなに覚悟していても、怖くて怖くて、仕方なかったろうね。
きっと心臓がばくばくして、冷や汗が止まらなくて、胃が締め付けられるように痛くて、陸奥守吉行に教えられた死の光景が頭の中でずっとぐるぐると回って、目の前の中岡慎太郎に一緒に逃げようと叫び出したくなるのを堪えて――そんな状態でも龍馬を演じるための言葉を紡いで。
「坂本龍馬の影」として生き続けた一人の「名もなき青年」は、ようやくその時を迎える。
――彼が「歴史」になる時。
額を斬られ、鞘を刺客に削られてそのままおしきられ、その手に「陸奥守吉行」を握ったまま、息絶える。
陸奥守「なんじゃあその顔 男前が台無しぜよ とうとう言えた 止め方がわからんぜよ ははは」
台詞の上では笑っていても、ここから陸奥守吉行は泣いている。
そして「坂本龍馬」が完全に事切れたあとに告げる。
陸奥守「お勤めご苦労様じゃった 立派な いっとう格好ええ 坂本龍馬じゃった おんしに握られたこと 誇りに思うぜよ」
きっとね、この台詞、この瞬間までむっちゃんは言うことが出来なかったんだろうなって。
本人に聞かせてあげてと思っても、それは決してできない。
坂本龍馬の名を名乗っているだけでは本人とは言えない。
どれほどそれまでの龍馬の歴史をトレースすることができても、この近江屋事件を生き延びてはそれはもう龍馬とは言えないから。
ここで死んで初めて、「名もなき青年」は「坂本龍馬」となる。
龍馬であるから陸奥守吉行の主であって、龍馬になるから死ななければならなくて、龍馬だからこそ死んでほしくなくて。
彼が死んで「坂本龍馬」になったからこそようやく言えるのだ。
立派な いっとう格好ええ 坂本龍馬じゃった
「坂本龍馬」に「なった」、一人の青年の死により、ようやく「陸奥守吉行」の物語が見えてくる。
その怒りや矛盾でどろどろと、暗く濁った泥水のような――愛が。
すり切れるほどに、繰り返していった。冒頭で審神者に、坂本龍馬に関する出陣は全て任せてほしいと頼んだ陸奥守吉行。
正史で死を意識した龍馬が頼んで兄に贈ってもらった家宝。死んだその時に握っていた刀。
どこまで行っても、「龍馬の死」から逃れられず、刀剣男士の使命感や歴史を守る刀の本能故に「龍馬の死」を守る。
けれど繰り返すうちに、本当の「坂本龍馬」がわからなくなっていった。
「坂本龍馬」という人物がいたはずだからこそ、「陸奥守吉行」の物語は生まれた。
けれど時間遡行軍が龍馬を生かす作戦をとった時には、彼自らが龍馬を殺さねばならない。
そして今回のように龍馬が正史より早く殺されてしまった場合は、自分が代役を務めたこともあったかもしれない。
繰り返すうちに、本物の龍馬が、そもそもどんな人物だったのか――わからなくなっていく。
書物の上での辻褄合わせに本質はない。本当にそこで死ぬわけではない陸奥守吉行の代役では、その本質は見えてこない。
まだまだ人生これからの31歳の若さで死ぬ惨い歴史を何故、何故そんなにも刀剣男士なる存在は守らねばならないのか。
何故自分は――それでも龍馬のそんな歴史を、守りたいと思っているのだろうか。
陸奥守「怒りは もちろんある けんど 色々な思いが渦巻いている どろどろじゃき こりゃ海じゃあない 心っちゅうもんは 濁った泥水じゃ」
後家「わかるよ 怒ってムカついて何度も考えてしまうけど それでも考えてしまう でもさ そういうのを愛って言うんじゃないかな だから そう きっとキミからは綺麗な花が咲くよ 泥中の蓮 知らない? 蓮って濁った泥水の中でこそ あれだけ美しい花を咲かせるんだ」
南海「まさに僕たちだね どんなに理不尽でも無慈悲でも この歴史を愛して守るために戦う」
愛しているから、その歴史を守りたくて。
けれど愛しているから、死んでほしくなくて。
龍馬になってほしくて。龍馬になってほしくなくて。
矛盾している。歴史を守りたい。けれど否定したい。
物語など、逸話など、本当は否定してしまっても構わないのではないか。当人でないのなら尚更。
生きたいなら生きればいい。
名もなき「物部」の青年から見れば、暗殺される龍馬の最期はあまりにも残酷なもの。他人をそういう運命に巻き込んでも仕方ない。
「坂本龍馬」の物語は、本当は誰かが成り代わりたいと願うほど魅力的なものなどではないのかもしれない。その名を得るよりも、名も物語も得ずに人知れず生きていた方が幸せなのかもしれない。
生を望むなら、思考は当然そういう方向に流れるだろう。
けれど、彼は戻ってきた。
「坂本龍馬として立派に死んでやるって言ってんだよ」
その歴史を守り続けた陸奥守吉行にもわからなくなっていった、本物の「坂本龍馬」の物語。それは果たしてどんなものだったのだろう。
未来の人間は過去を所詮書物の文字の上でしか知ることはできない。
そして文字の上の正史などというものは、歴史研究の発展によっていくらで動く。新資料が発見されたり、単純に再検討によって通説が否定されもする。
「坂本龍馬」とはどんな人物だったのだろうか。
あの世界の本物の龍馬が死んでしまった今、それを知ることはできない。出陣した部隊にできるのは、代役によって書物の上での辻褄を合わせることだけ。
けれど今回の代役は、死を偽装して本当に文献上の辻褄だけを合わせる陸奥守吉行ではなく、「坂本龍馬」として死ぬことで、あの世界の正史で「坂本龍馬となる」存在。
「名もなき青年」が「龍馬になる」ために辿った道のりは、ある意味で本物の龍馬と同じもの。
歴史上の人物、と呼ばれる人々は最初からそのように生まれてくるわけではない。
生きて成し遂げたことがあるから、後世でそのように呼ばれる。
もともとはただの青年であった坂本家の龍馬が、もともとは名もなき坂本家の家宝の一振りである吉行の刀と辿った道のりを、別の形でなぞる物語。
「物語なきもの」が、「物語」になる旅路。
それは命を賭した「坂本龍馬の死」、すなわち「陸奥守吉行の物語」の肯定。
だから、陸奥守吉行は歴史を守る。
一人の青年が龍馬という空高く翔る「竜」となるための旅路。
死にたくない死にたくないと叫びながら、それでも何故人は「死」の物語を受け入れるのか。
死なせたくないのに、刀剣男士が代役をすればいいと考えているのに、それでも何故彼らは一人の人間が、その名を得る道のりを手助けしたのか。
その総てが、龍馬の物語を守るという、愛にある。
10.優しさを否定せよ
陸奥守「悲しみ言うもんは優しさで埋めることができるもんかのう」
後家「どうかなあ 優しさにも色々あるから 時に残酷だしね もしも埋められるものがあるとしたらあれじゃない」
陸奥守「あれ?」
後家「愛」
この会話からすると、陸奥守吉行は、「悲しみ」を埋めるために必要なのは「優しさ」だと考えていたようです。
そして後家兼光は、その答えをやんわりと否定する。
「悲しみ」を埋めるのは「優しさ」ではなく「愛」だと。
これが今回の話の結論であり、あの本丸の結論にもなるのではないかなと思います。
それが終盤の陸奥守吉行から三日月宗近への台詞になるのかと。
人の悲しみに寄り添っても何にもならない。
陸奥守吉行は、今も自分たちを見ているのだろう三日月宗近に呼び掛ける。いい加減降りてこいと。
月は映すだけ、三日月は月として人の気持ちを反射する。
だから三日月のやっていることというのは、人の悲しみに寄り添うこと。
それは「優しさ」の一つなのだろう。
けれど「優しさ」だけでは、決して「悲しみ」は埋まらない。
三日月が優しさを発揮した相手は「物部」だけではない。
「物部」にならなかった人物として、例えば「東京心覚」の平将門や、「陸奥一蓮」の蝦夷たちがいる。
特に「陸奥一蓮」に関しては、三日月による救済を拒んだ阿弖流為や母禮はもちろん、三日月に「もう聞かなくていい」と言った少年・弥比古などもそちら側かと。
「優しさ」だけでは本当の救いにならないものもある。何より、それでは三日月自身の「悲しみ」は埋まらない。
平将門や弥比古はそれを理解しているからこそ、救いの手を求める三日月への労りを口にしたのだろう。
……これ、舞台の方も合わせて考えると非常にしっくり来るんですよね。
優しさが無用なわけではないけれど、「悲しみ」を本当に埋めるものは「お前はお前であれ」という「愛」だと。
後家兼光「キミと坂本龍馬は違う だから キミでいいんだと思う」
月は映すもの、人の気持ちを反射するもの。
ならばその対極にある光は、太陽こそは「自分は自分である」という意志ではないのか。
「自分」を捨てて「坂本龍馬」にならなければならないのではなく、「自分の意志」で「坂本龍馬」になる。
その意志こそが、その物語こそが、「悲しみ」を埋める「愛」なのではないか。
と、いうことで。
「坂龍飛騰」一作のみならず、「刀剣乱舞」の根幹的なものを貫く部分に触れて今回の考察を終わります。
改めて今回の考察を振り返っても、舞台との比較が入っているとはいえミュージカル一公演の考察に留まらない程過去作の名がずらっと挙げられた考察だと思います。
千秋楽派だとしてもあと1か月半もないのに全作品見るのはさすがに無理じゃね? とは思うんですが、ゆっくりとでもこれまでの作品を振り返って今まで気にしていなかったところまで考えながら振り返ることでよりシリーズ全体の魅力を再発見できる、そういう作品だと思います。
私も1回しか見ていない話とか結構うろ覚えもいいところなんで、これを機にちょっと過去のミュージカルを観返して来ないとですね。
それではこれにて失礼します。