「混」から「分」へ「淆」から「離」へ

 蜂須賀についに理解者が! ということでここ数か月石田君との回想131について考えていたんですが、つまりこれって蜂須賀・石田組は「個」の「境界」を保ちたいタイプという話なのではないだろうかと思いました。
 そこから第一節のボスが「混」だったことと何度目だの山姥切回想57からの考察。

 「混」は「神仏混淆」の「混」じゃないだろうか。そして次の敵は「淆」じゃね? という考えもすでに披露済なんですが、この辺について更に掘り下げたい。

 山姥切国広は、山姥切は本歌のことで自分はその写しという二つの刀の歴史が「混ざり合った」「一つ」の物語しか認識していなかった。
 極修行で、自分と本歌の両方に逸話があると、山姥切についての認識を「二つ」に「分けた」。
 
 これが「混」の正体じゃないだろうか。
 
 
 対大侵寇のボス「混」は七星剣でしたが当然あれ以外にも敵はいるわけで、その敵はどこから生まれるのかといえば多分我々自身の認識なのだろう。
 この辺りは原作ゲームだけだと可能性として考えられるものの対大侵寇まで不確定要素が大きかったんですが、対大侵寇を考えると混=七星剣でいいのだろうということとあと派生がもう露骨にやってんじゃねーか! ってことでやはりまぁ我々の敵は我々自身なんでしょう。
 
 国広の自己認識は極修行を切っ掛けに「混」から「分」へ移行と考えてよいと思われる。
 
 そうなると、国広と対になっている長義の自己認識は。
 
「俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?」

 これが要するに「淆」(まじる、みだす、にごる、入り乱れる)だと思われる。

 国広は単純に物語は「一つ」だと思っていた。
 二つの刀の歴史なのに完全に混ざり合った一つしか知らなかった。
 だから「混」。
 
 長義はおそらく最初から自分と写しのどちらも「山姥切」と呼ばれていることまでは知っている。
 ただ回想57と国広をあえて「偽物」と呼ぶ姿勢から、極国広のように双方に逸話があると認識しているようには思えない。

 国広の逸話の存在を知りながらわざわざそれを否定して国広の物語を削る意味はないと思うので、多分単純に長義は国広に逸話があることそのものを「知らない」のだと考えたほうが自然である。
 

 そして逸話が一つしかないのに両方が山姥切だと呼ばれることは二つの刀の歴史の「淆」であり、それは避けるべきだと考えた結果こそが本物論争に決着をつけようとする姿勢になるのではないか。
 
 「俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺だ!」

 長義の認識は「淆」、けれど「淆」はあまり望ましい状態とは言えないので彼の立場でできる対策として、二振りの認識がにごらぬように、どちらが本物なのかをはっきりさせたがる。
 
 そして極める前の国広にしても、認識の「混」に対して「俺は偽物なんかじゃない」と訴え続けていたことを考えれば、両者とも内容は違っても「自己認識の否定」方向という意味では言動が一致する。
 
 「混」から「分」へ。
 そして仮に「神仏混淆」から便宜上の概念名を探すなら、長義はおそらく「神仏分離」の「離」を極修行で選んでくるのではないだろうか。
 「淆」から「離」へ。

 この動きは何かというと、単純にふたつの山姥切の研究史を正しく理解するための正当なステップそのものである。

 一つしかないと思っていた逸話が本歌と写しの両方に存在すると知ること。
 どちらが本物かわからないふたつの山姥切をもっとよく知るために、まず長義は長義、国広は国広、と二振りの来歴を引き離して考えること。

 考察の内容自体は前に出した長義くんの極予想とまったく同じです。それに被せる名前を探していたら極める前の国広と対大侵寇のボス名「混」はそのまま一致するのではないか? と考え付いただけで。

 国広の手紙から、刀剣男士の自己認識は彼ら自身の経験としての記憶ではなく、人間の語った言葉の反射であることが明白である。ただしその認識に対する解釈は男士たちが自分でしている。

 思い返すと国広のように実装の早い刀剣たちの極修行、対大侵寇より前に極が実装された男士の作業は多くが「混」から「分」への行動ではないか。
 国広の場合は混ざり合った相手が本歌の長義一振りであることがはっきりしているが、他の刀はそれぞれの歴史に合わせて曖昧な全体像から一つの明確な特徴を切り分けてくる作業が多い気がする。
 
 一方で、今回の考察の切っ掛けである石田君をはじめとした最近の実装男士は登場時から「分」もしくは「離」のように、己と他を明確に区別している、境界線の強い性格が多くないだろうか。
 今回追加された京極君と石田君の回想がいい例であるが、例えば八丁君なども基本的に元主の混然とした偶像を否定する性格である(ただし泛塵君には夢を見させておく)。

 多分我々が戦っている敵は過去の自分たち。正しい歴史を認識する、歴史を守る過程で一度切り捨てなければならなかった間違った知識たち。
 だから手元の刀の極修行により変化した認識と敵の属性はおそらく一致する(淆や分や離自体は私が今回便宜上に適当につけたんで実際どんな名前で来るかは不明)と思われる。

 というのが今回の考察で、ただしこれは長義くんの極予想から出している部分と連動させているのでそこが間違っていると足元から破綻する可能性があります。
 
 逆に言えば極予想がある程度当たっていたら男士たちの極修行による変化と敵の属性一致の連動がある程度証明できるので、つまり山姥切の本歌と写しのやりとりはそのままとうらぶのシナリオと一致するという方向で考察が固まります。
 
 予想を大幅に外したら? そん時は一から考え直しですガハハ。
 

 ついでに今の時点でもしかしてと思った話をすると、国広が「混」から「分」へ、長義が「淆」から「離」への変化だった場合、1「混」2「淆」3「分」4「離」という変遷はアップデート前、第一節の合戦場の構造に近くなると思います。

 現在の内容からしても、例えば8面は1と3が井伊、2と4が真田と関連が強い戦場という交互の関係図です。

 私自身は基本原作考察派しかも後発審神者なのでようやく最近派生を少しずつ見始めて知識が追い付いてきたんですが、派生の一部のシナリオを見ると、派生もまた原作ゲームがこうして合戦場展開や回想で暗に示している構造と同じ構造で話を作っているように思えます。

 ということでとうらぶは原作も派生も同じ「輪廻構造」だと考えていいような気がします。
 舞台がループだとは聞いてたけど、その言葉よりはとうらぶそのものが輪廻の構造だと考えたほうがいいかなと。
 
 今回はこの辺り。石田君と蜂須賀の回想のおかげでようやく全体の話がはっきりつかめてきた気がする!
 
 蜂須賀も描写的に「混」認識でありながらもとから「分」への志向が強いタイプだからそりゃスタンス(話展開)は長義くんに似るし、石田君が「分」や「離」だとしたら自分と似たような印象(タイプ)になるのは自明の理かもしれん。

 ちなみに自分の長義くん極予想が外れた場合の可能性もいくつか検証したかったんですが、ここで長義くんの極予想を国広の対称からとる前提を崩すと原作の輪廻構造の方がそもそも破綻する計算になるのでなんかうまくいきませんでした。というわけでやはり今は長義くんの極待ちに戻ります。