千子村正

せんごむらまさ

目次
  1. 概要
    1. 刀工の略伝
    2. 村正の出自
      1. 室町時代から村正を正宗の弟子とする説があり、それを否定する説もある
      2. 『全休庵楠系図』を参考に、正長(1428年頃)の刀工とされる
      3. 現存する作品の年紀銘からは文亀(1501年頃)の刀工とされる
      4. 正宗の門人という創作
      5. 明治時代の荒唐無稽な説
      6. 村正の銘を見ただけでは、何代目と断定することは不可能
    3. 千子の名について
      1. 千子村と解する説(しかし桑名付近にその地名はない)
      2. 母が千手観音に祈って授かった子という説(郷土史の通説)
      3. その他の説
      4. 初代村正の法名を「妙台」とする説
    4. 村正の屋敷跡
      1. 1、村正の母が祈った千手観音
      2. 2、桑名郡東方村宇尾畑の村正屋敷
      3. 3、奉納刀の銘文
      4. 4、茂福村居住という説がある
      5. 5、昭和9年の墓の発見
    5. 村正の妖刀伝説
      1. 1、家康の祖父・清康
      2. 2、家康の父・広忠
      3. 3、家康の少年時代
      4. 4、家康の長男・信康
      5. 5、関ケ原合戦
      6. 妖刀伝説とそれでも現在残る村正
    6. 村正の妖刀観と歌舞伎
      1. 『八幡祭小望月賑』『木間星箱根鹿笛』『敵討天下茶屋聚』
      2. 『籠釣瓶花街酔醒』
      3. 村正妖刀観からの付会
    7. 作風
    8. 村正の代表作、あるいは代表的な所持者
      1. 豊臣秀次の村正「一胴七度」
      2. 真田幸村の村正
      3. 鍋島勝茂の村正「妙法村正(題目村正)」
      4. 由井正雪
      5. 竹中重義
      6. 西郷隆盛の村正
  2. 調査所感
  3. 参考文献
  4. 概説書

概要

刀工の略伝

千子村正は室町時代の伊勢国桑名の刀工。その作品は俗に“妖刀村正”と呼ばれて有名。

村正の出自については古剣書に濃州「赤坂」左兵衛兼村の子と明記したものがあるという。
濃州「関」の出身とする説もあり、「於関村正」と切られた脇差があることからそれも頷けるという。

室町時代から村正を正宗の弟子とする説があり、それを否定する説もあるという。

『日本刀大百科事典』によると、村正の門人・正重の家の『全休庵楠系図』が歴史家によって信用度の高い史料とされている。
初代正重の没年から考えると、その師である村正は正長(1428)頃の刀工ということになるらしい。

ただし、現存する作品の年紀銘を重視する説によると、文亀(1501年頃)の刀工とされる。

どちらにしろ活動時期が早くてもこの頃ならば、鎌倉時代の刀工・正宗の弟子説は時代が遠すぎて否定される。

しかし、村正が正宗の弟子であるという創作は有名で、

『翁草』『『桑名郡人物志』』『伊勢名勝志』などによると、

正宗が伊勢参宮の途中、村正の打つ槌の音を聞いてまだ修行が足りないと評したことを、村正が聞き、後から追って行って入門を乞うたという伝説がある。

「千子」という名については、「母が千手観音に祈って授かった子」というのが、郷土史などでの通説になっているが、千子村説を始め、他にも様々な説があるらしい。
また、初代村正の法名を「妙台」という。

村正の屋敷跡と伝えられるところに関しても、数か所ある。
村正の母が祈った千手観音、桑名郡東方村宇尾畑の村正屋敷、桑名郡益田庄、茂福村。
また、昭和9年の『伊勢新聞』で墓の発見も伝えられたという。

村正は切れ味の良さを買われ、三河武士の愛用するところとなったが、それがかえって仇となり「妖刀」という不名誉な名前を冠せられる結果となった。
その原因は徳川家にあるという。

『改正三河後風土記』などで、家康の血縁がそれぞれ村正の刀によって殺されたり怪我をした逸話が語られ、村正は徳川家に祟るとされた。

・家康の祖父、清康が家臣の阿部正豊に殺された。
・家康の父・広忠が家臣の岩松八弥に股を刺された。
・家康が今川家の人質となり、駿河の宮ケ崎にいた少年時代に怪我をした。
・家康の長男・信康が自害させられた時、天方山城守通綱の刀が村正だった。
・関ケ原の戦いで織田有楽・長孝父子の武勇を賞賛する際に家康が槍に触れると怪我をした。この槍は村正の作ではないかと訊くとその通りであった。

など、様々な逸話がある。

また、村正の妖刀観は、歌舞伎を通して民衆の間に浸透していった。
『籠釣瓶花街酔醒』では千寿院村正の名で登場するが、「村正は血を好む」「血を見ねば納まらぬ」「これを持てば短慮になる」「持ち主に祟る」などと語られてるらしい。

刃傷沙汰で使用された詳細は不明であるはずの刀にも、村正妖刀観からの付会がされているという。

村正に関しては、このように様々なもはや伝説といえる話があるが、その分、実態はつかみにくい。

『日本刀の歴史 古刀編』によれば、“村正は古来から諸説紛々としていて、まだ定説がありません”という。

これが全てなのかもしれない。

 

村正の出自

村正の出自については濃州赤坂左兵衛兼村の子と明記したものがあるという。
(『如手引抄(十一冊本)』)

『日本刀大百科事典』によると、「村」の字が共通しているからであろう、とのこと。

村正を濃州関の出身とする説がある(『関目録』『桑名志』)。

差し表に「兼永」、裏に「於関村正」と切った脇差があることから頷けるという(『新刀古刀大鑑』)。

村正の刃文に関伝が濃厚なことは古剣書でも認めている。
(『花実明徳聞書集』『享保午記』『如手引集』『魂魄人間五体国分之書』)

相州正宗の門人説は、茎の形が相州茎のタナゴ腹に似ているところからの発想だろうという。

『新刀古刀大鑑 上卷』(データ送信)
著者:川口陟 発行年:1930年(昭和5) 出版者:日本刀剣学会
目次:古刀之部
ページ数:50 コマ数:48

「刀剣 (戊申第11集)」(雑誌・データ送信)
発行年:1908年11月(明治41) 出版者:花月庵
目次:花實明德聞書集下之卷
ページ数:176 コマ数:8

 

室町時代から村正を正宗の弟子とする説があり、それを否定する説もある

『日本刀大百科事典』によると、

足利末期から初代を相州正宗門とする説がある。
(『文明十六年銘盡』『古刀銘盡伝書』『三好下野入道口伝』)

時代も長谷川忠右衛門で、暦応4年(1341)とした。
(『長谷川忠右衛門刀工系図』『日本国鍛冶惣約』)

これを受けて本阿弥家でも初代村正を貞治(1362年頃)としている。
(『校正古刀銘鑑』『掌中古刀銘鑑』)
しかし、そんな古い作刀が実在しないためそれを否定する説も安土時代からあるという。
(『新刊秘伝抄』)

 

『全休庵楠系図』を参考に、正長(1428年頃)の刀工とされる

『日本刀大百科事典』によると、

村正の門人・正重の家の『全休庵楠系図』が歴史家によって信用度の高い史料とされている。
それによると初代正重は康正二年(1456)2月没、54歳となっている。
するとその師である村正は正長(1428)頃の刀工ということになる。

実在刀最古の年紀は文亀元年(1501)であるため、『全休庵楠系図』を参考にすれば文亀の村正は三代目ぐらいになる。
年紀のない二字銘の実在刀には文亀の村正より古く見える銘があるという。

『楠氏後裔楠正具精説』(データ送信)
著者:藤田精一 発行年:1938年(昭和13) 出版者:湊川神社
目次:第二章 特說其の二(伊勢全休庵楠系圖精說)
ページ数:32 コマ数:36

 

現存する作品の年紀銘からは文亀(1501年頃)の刀工とされる

古剣書と呼ばれるものでは村正の活動年代は諸説紛々で曖昧である。
正宗の弟子であると書いてあるものもあれば、それを否定するものもありと古来から定説と呼べるものがない。

『日本刀大百科事典』の正長(1428年頃)説は『全休庵楠系図』を基に導き出された説だが、あくまで現存する刀の銘文だけを確実視する場合、初代村正の活動年代は文亀(1501年頃)とされるらしい。

『日本刀の歴史 古刀編』(紙本)
著者:常石英明 発行年:2016年(平成28) 出版者:金園社
目次:第2部 全国刀工の系統と特徴 伊勢国(三重県) 村正一派の伝系
ページ数:142~149

 

正宗の門人という創作

正宗との出会いに関する創作がある。

正宗が伊勢参宮の途中、村正の打つ槌の音を聞いてまだ修行が足りないと評したことを、村正が聞き、後から追って行って入門を乞うたというものである。
(『翁草』『『桑名郡人物志』』『伊勢名勝志』)
『翁草 : 校訂 11』
著者:神沢貞幹 編, 池辺義象 校 発行年:1905~1906年(明治38~39) 出版者:五車楼書店
目次:鍛冶近江守の言
ページ数:19~21 コマ数:13、14

或時正宗其所を經歷するに、とある民家に唯ならぬ槌音聞ゆ、怪て其名を問に、村正と云鍛冶なりと云正宗深く嘆じて、斯る山中の民村に此の人物有事をと則其家に入て渠が鍛を見、如何にして習練せしやと問ふ、村正元より土人なれば、さもむくつけなる返答して何の爲に尋ねらるゝやと云、其時我は正宗と云鍛冶なり、汝の槌音尋常ならぬに仍て爰に來て尋試るなりと云へば流石に正宗事は聞及しにや、俄に敬伏して師とせん事を請ふ、正宗諾して、夫より村正を純粹の弟子として、許可を傳へて、後世正宗にまがふ如き名鍛冶となせりとかや、

『桑名郡人物志』
著者:桑名郡教育会 編 発行年:1921年(大正10) 出版者:桑名郡教育会
目次:千子村正
ページ数:71、72 コマ数:46、47

『伊勢名勝志』
著者:宮内黙蔵 著 発行年:1889年(明治22) 出版者:川島文化堂
目次:村正屋敷址
ページ数:437 コマ数:245

 

明治時代の荒唐無稽な説

『日本刀大百科事典』によると、「刀剣会誌」を出典とした話で

明治末年、桑名に村正の後裔と称する千子家があった。
同家所蔵の系図には、先祖は千子正重といい、肥前唐津島の住人で、仲哀天皇に仕えていた
その子孫が伊勢国に移住してきて、初代村正は正重より十九代目、という荒唐無稽な説があったという。

郷土史(『桑名志』)がそれを信じて非常識な説を掲げたとしている。

 

村正の銘を見ただけでは、何代目と断定することは不可能

「村正」という銘を複数の刀工が使用している。つまり村正には数代ある。

しかし、『日本刀の歴史 古刀編』によると、

村正の銘を見ただけでは、何代目と断定することは不可能。
系図自体が古来から明確ではない。
初代村正さえいつ頃の人か、或いは村正に何代あったかについても結論が出ていないのが現状。

とのことである。

『日本刀の歴史 古刀編』(紙本)
著者:常石英明 発行年:2016年(平成28) 出版者:金園社
目次:第2部 全国刀工の系統と特徴 伊勢国(三重県) 村正一派の伝系
ページ数:142~149

 

千子の名について

千子村と解する説(しかし桑名付近にその地名はない)

『日本刀大百科事典』によると、

千子という俗称千子村と解する説がある。
(『校正古刀銘鑑』『掌中古刀銘鑑』『楠氏後裔楠正具精説』)

しかし、桑名付近に千子という地名はないという。

 

母が千手観音に祈って授かった子という説(郷土史の通説)

『日本刀大百科事典』によると、

郷土史では村正の母が千手観音に祈って授かった子だから、というのが通説になっている。
(『九波奈名所図会』『桑名志』『桑名郡人物志』)

しかし千子を千五または仙五と書いたものもあり、
(『古今鍛冶備考』『如手引抄(十一冊本)』)

古剣書には、千子をセンコと仮名書きしたものがあるという。
(『文明十六年銘盡』『天文目利書』『古刀銘盡伝書』『三好下野入道口伝』)

桑名には千子姓が数件あるがセンコと発音しているようである。

 

その他の説

『日本刀大百科事典』によると、その他にも

村正の本姓は青江説(『桑名郡人物志』)
初代の幼名は正三郎説(『桑名郡人物志』)
通称は彦四郎説(『如手引抄(十一冊本)』)
または正三郎説

などがあるが、いずれも信じがたいという。

ただし、文亀(1501)ごろの村正が右衛門尉、その後、木右衛門尉と称する者のいたことは、刀銘によって証明できる。

 

初代村正の法名を「妙台」とする説

『日本刀大百科事典』によると、

初代村正の法名を妙台とする説は古くからあった。
(『古今鍛冶備考』『如手引抄(十一冊本)』『本朝鍛冶考』)

妙大(『新刊秘伝抄』)
妙太(『関目録』)
名代(『解紛記』)

などと書いたものもある。

千子家の菩提寺である桑名市南魚町の仏眼院にあった、初代の墓碑には「隠音妙台」とあったという。

 

村正の屋敷跡

村正の屋敷跡と伝えられるところは複数ある。

 

1、村正の母が祈った千手観音

『日本刀大百科事典』によると、

走井山観音堂、走井山公園にある観学寺付近に村正宅址の碑がある。
走井山は南北朝期、矢田次郎左衛門が立て籠もった、いわゆる矢田城であって、観学寺はもともとその山麓に在った。
山上に移転したのは江戸初期、元和(1615)年間のことである。

村正の屋敷も山麓、下道の左側で、
幕末には庄屋の屋敷(『九波奈名所図会』『桑名志』『桑名郡人物志』)
明治後半には清水初次郎の葉茶屋になっていた(「刀剣会誌」)

 

2、桑名郡東方村宇尾畑の村正屋敷

『日本刀大百科事典』によると、

桑名郡東方村宇尾畑にも、村正屋敷があった。
(『三国地誌』『桑名郡人物志』『伊勢名勝志』)

村正の脇差に「勢州桑名住東方村正」と銘したものがある。

 

3、奉納刀の銘文

『日本刀大百科事典』によると、

桑名総社の奉納刀に「勢州桑名郡益田庄藤原朝臣村正作 天文十二天癸卯五月日」と切った太刀が現存する。
「勢州益田郡藤原村正」と切った銘もある。

庄や郡では屋敷の位置までは特定できない。

 

4、茂福村居住という説がある

『日本刀大百科事典』によると、
『慶長以来 新刀弁疑』『含笑集』に三重の茂福村居住という説があるらしい。

室町期には朝倉氏が茂福城主として、威を張っていた。
それで朝倉氏の招きにより一時ここに駐槌が考えられるという。
屋敷跡と称するところは残っていない。

 

5、昭和9年の墓の発見

『日本刀大百科事典』によると、

新刀期になり、桑名城下町が整備されると、村正は三之丸と堀を距てた片町に居を構えていた。
墓地も片町の西方約200メートル、南魚町の仏眼院にあった。
そのことが判明したのは、昭和9年の『伊勢新聞』らしい。

明治30年頃まで「隠音妙台」と刻まれた初代の墓ほか、十数期あった。
しかし村正家は100年ぐらい前に断絶して墓も無縁になっていたので有力者がその墓域を譲り受け墓碑を撤去した。

そのうちの一つ「千子宗入禅定門承応四乙亥年正月十六日」と誌された千子新右衛門の墓が土中に半ば埋めてあったのを、水谷長之助氏が昭和9年に発見したという。

現在桑名付近にある千子姓の家は、村正直系ではなく弟子筋の子孫ということになるという。

 

村正の妖刀伝説

村正は切れ味の良さを買われ、三河武士の愛用するところとなったが、それがかえって仇となり「妖刀」という不名誉な名前を冠せられる結果となった。

その原因は徳川家にあるという。

 

1、家康の祖父・清康

『翁草』『改正三河後風土記』(他に『雑話筆記』『松平記』など)によると、

清康が織田信秀を討つべく尾張の守山に出陣中、天文4年(1535)12月5日早朝に家臣が馬を放った。
清康が「それ逃がすな」と大声で指揮していると、阿部弥七郎(阿部正豊)は父・大蔵が敵に内通しているという噂を耳にしていたため、父が殺されると早合点して村正の刀を持って清康を背後から斬り伏せた。

『翁草 : 校訂 11』
著者:神沢貞幹 編, 池辺義象 校 発行年:1905~1906年(明治38~39) 出版者:五車楼書店
目次:鍛冶近江守の言
ページ数:19~21 コマ数:13、14

其の所以は神君の御祖父清康公御橫死も村正の刀なり、御父廣忠公も此刄にて御怪我を被成し事も有り、其外御家に於て每度御碍の事有しに仍、村正を禁じ給ふ故に、天下の諸士是を禁止する樣に成ぬ、因茲、大阪御陣の節、御敵方眞田左衞門佐信仍は、態と村正の佩刀を用ゐしとかや、是御家調伏の意成べし定めて今も村正の刀世に隱て幾等も有べきなれども、名を顯しては、普通せざる故に多くは正宗に成て通用すと永りぬ、

『改正三河後風土記 下』
著者:成島司直 撰 発行年:1886年(明治19) 出版者:金松堂
目次:第三十九
ページ数:1699 コマ数:408

河内守家人にもたせし鎗を取て近臣にわたす神君其鎗を御みづから鞘を脱し御覧ぜらるるとて御取落しあり御指にあたりいささか血の出給ひしなりと其儘御覧有て此鎗は尋常ならず作は千子村正にはなきかとの御諚あり有楽いかにも村正の銘候申上程なく御前を退き近習の人々にむかひ先刻鎗を御覧に入し時村正が作かと御尋ありしは何ぞ子細候かと問しに近習の人申けるはされば内府の祖安祥の三郞殿家人阿部彌七郞があやまつて不慮に弑しける刀村正が作に候又其子岡崎二郞三郞殿を家人岩松八彌酒に犯し傷しも村正なりと承り候と答ふ有樂聞て然らば內府の御味方に參る程の我々村正が作は用ゆべきにあらずと近臣の見る前にて其鎗をば微塵に打くだきおし折て退去せり

 

2、家康の父・広忠

『古老茶話』『翁草』『改正三河後風土記』(他に『雑話筆記』)などによると、

広忠は天文14年(1545)3月、譜代の臣・岩松八弥が酒乱を起こし、村正の脇差で股を刺された。

『日本随筆大成 巻六』(データ送信)
著者:日本随筆大成編輯部 編 発行年:1927年(昭和2) 出版者:日本随筆大成刊行会
目次:古老茶話/(1)
ページ数:6、7 コマ数:12

天文十四年三月、岩松八弥 いふもの徳川家の旧臣也。その眼瞎なるゆへ片目八弥とふ。此もの先祖の遠忌を行ひ候とて、成道山大樹寺にて法事の酒に況酔して、廣忠卿の御居間に参り、千子村正の刀を以て害し奉らんとす。然れども其刀御股を切る。

 

3、家康の少年時代

『徳川実紀』、(『落穂集』)などによると、

徳川家康が今川家の人質となり、駿河の宮ケ崎(静岡市)にいた少年時代、村正の小ガタナで怪我をし、たいへん痛んだことがあった。

『徳川実紀 第壹編』
著者:成島司直 等編, 経済雑誌社 校 発行年:1904~1907年(明治37~40) 出版者:経済雑誌社
目次:東照宮御實紀附錄
ページ数:161、162 コマ数:89、90

三郞殿二股にて御生害ありし時。撿使とし渡邊牛藏守綱。天方山城守通興を遣はさる。二人歸りきて。三郞殿終に臨み御遺托有し事共なくなく言上しければ。君何と宣ふ旨もなく。御前伺公の輩はいづれも涙流して居し內に。本多忠勝榊原康政の兩人は。こらへかねて聲を上て泣き出たせしとぞ。其後山城守へ。今度二股にて御介錯申せし脇差はたれが作なりと尋給へば。千子村正と申す。 君聞し召し。さてあやしき事あもるもの哉。其かみ尾州森山にて。安部彌七が清康君を害し奉りし刀も村正が作なり。われ幼年の比駿河宮が崎にて小刄もて手に疵付しも村正なり。こたび山城が差添も同作といふ。いかにして此作の當家にさゝはる事かな。此後は御差料の内に村正の作あらば。みな取捨よと仰付られしとぞ。

出典の一つ『落穂集』(大道寺友山、江戸初期)は国立国会図書館デジタルコレクションにも『落穂集 (江戸史料叢書) 』として収録されているようなのだが、今回は該当の記述を発見できなかった。
(全文読んだわけではなく検索に引っかからなかったというだけなので思いもよらない文章が載っている可能性はある)

 

4、家康の長男・信康

『徳川実紀』『改正三河後風土記』、(『落穂集』)などによると、

信康はその生母とともに、織田信長から甲州の武田家に内通・謀反の嫌疑をかけられ天正7年(1579)9月15日、切腹を命じられた。

そのとき天方山城守通綱が介錯した刀が、村正の作だった。

 

5、関ケ原合戦

『改正三河後風土記』、『耳袋』(『雑話筆記』)などによると、

1600年(慶長5)の関ケ原合戦で西軍が敗走すると、織田有楽は子息・長孝とともに家康の本陣に駆け付けた。
長孝が槍を持って敵将・戸田勝成の兜を突くと、左から右へ貫いた。
家康がその話を聞き槍を見ているうちに取り落とし、指を負傷した。
この槍は村正の作ではないかと訊くと、果たしてそうであった。

『耳袋 上巻 (岩波文庫 ; 1964-1965,1966-1967) 』(データ送信)
著者:根岸守信 編, 柳田国男, 尾崎恒雄 校 発行年:1939年(昭和14) 出版者:岩波書店
目次:耳袋卷之二 御當家にて村政の刀禁じ給ふ事
ページ数:146 コマ数:75

村政の刀を御當家にて禁じ給ふ事は、後風土記三河記等にも委しく、人の知る所也。或書に有りしとて人の語りけるは、難波御陣とや、又は其以前なりけるか。織田有楽軒手づから討留めし首を持参し、御前へ出けるに、手柄致したりやと上意あり。老人のおとなげなく少々働き、手作りの首の由申上げければ、あつぱれの由御賞美にて、其打物御覧遊ばさるべき由にて、有楽の鑓を上覧の處、如何遊ばされけるや少々御怪我ありし故、此鎗は村政の作なるべしと御尋あり。御意の通りの由申上げけるに、村政は不思議に御當家に相應なき由人々申しける故、即座に折捨てしとかや。

 

妖刀伝説とそれでも現在残る村正

『日本刀大百科事典』によると、

村正の作はこのように徳川家に数度不幸をもたらした。
信康の介錯刀が村正の刀だったことを聞き、家康は納戸方に対して、村正の作はすべて取り捨てよと命じた。

そのことが発端となって村正の刀を差料にすることを遠慮する風潮が生じ、さらに誇張され、村正佩用は禁止された、と思い込むようになった。

しかし尾州徳川家にも村正の刀が伝来していて、刀剣台帳には「潰し物になる筈、用たちがたき部類に入置く事」、と書いてあるが、潰し物にならず現在まで残っている。

徳川一門でもそうであるから、外様藩では憚るところなく愛蔵されていた。

親藩に準ずる仙台藩の老臣・三好家の「狐切り村正」、肥前小城藩主・鍋島家の「題目村正」など、昔から有名だったらしい。

 

村正の妖刀観と歌舞伎

『日本刀大百科事典』によると、村正の妖刀観は、歌舞伎を通して民衆の間に浸透していったという。

 

『八幡祭小望月賑』『木間星箱根鹿笛』『敵討天下茶屋聚』

村正が登場する。

 

『籠釣瓶花街酔醒』

千寿院村正の名で登場するが「村正は血を好む」「血を見ねば納まらぬ」「これを持てば短慮になる」「持ち主に祟る」など、いろいろ拡大解釈され村正に対する恐怖感を強めていった。

 

村正妖刀観からの付会

文政6年(1823)4月22日、江戸城で刃傷沙汰に及んだ松平外記の差料は無銘で『古今史鐔』で子孫も作者は不明と言っているのに、『半日閑話』『甲子夜話』によると噂では村正の作となっている。

『日本刀大百科事典』によれば、これも村正妖刀観からの付会とみるべきだという。

 

作風

鎬造りの刀や脇差よりも、平造りの短刀が多く、まま真の棟を見る。
彫物もかなりあるが、「草花の与三」という白銀師の作ともいう。

地鉄は小板目肌流れ、地沸えつくが、肌立つものもある。
鎬地は柾目肌。刃文は腰開きの五の目乱れを好んで焼くが、乱れの谷が特に長く、かつ刃文の形が表裏よく揃うのが特徴で、特にこれを「村正刃」ともよぶ。そのほか、皆焼や直刃もある。
鋩子は地蔵になり、反りの深いものが多いが、小丸や火炎風のものもある。
茎はタナゴ腹であるが、茎先に近いところから、急に細くなる、という独特の形であるため、「村正茎」または「匙茎」と呼ぶ。

銘は「村正」と二字が多いが、時に「勢州桑名住」のほか、「藤原」や通称を入れた長銘がある。
これは棚橋という研師が切ったものともいう。

年号を切ったものは稀であるが、「文亀(1501)」「永正(1504)」「大永(1521)」「天文(1532)」「天正(1573)」「慶長(1596)」と経て「寛文(1661)」に至るまである。

 

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:むらまさ【村正】
ページ数:5巻P166~169

 

村正の代表作、あるいは代表的な所持者

『日本刀の歴史 古刀編』によると、

村正は徳川家に祟るとの噂から親藩大名や旗本などは主家に遠慮して村正の作品を使用しなくなっているという。
一方で、徳川家に恨みのある外様大名や豊臣家に恩顧を受けた武家は村正を秘かに愛用している。
そして幕末の勤皇倒幕の有力志士たちは、こぞって村正の刀を望んでいたという。

 

豊臣秀次の村正「一胴七度」

豊臣秀次が七度も試し斬りに用いた千子村正。
「一胴七度」という金象嵌銘があるらしい。
『今村押形 第2巻』
著者:今村長賀 発行年:1927年(昭和2) 出版者:大阪刀剣会
目次:ム 村正
ページ数:13 コマ数:17

「政経人 29(6)」(雑誌・データ送信)
発行年:1982年6月(昭和57) 出版者:政経社/総合エネルギー研究会
目次:百剣一夕話 / 秋吉茂
ページ数:127 コマ数:64

 

真田幸村の村正

真田幸村は戦場へ出るときは村正の刀、村正の槍を帯びていた。
それは村正が徳川家に祟る不吉な刀故のことであり、徳川へ敵対の意志を示すこの姿勢を他でもない水戸黄門こと光圀が褒めていたという。

(※しかしすでに上でまとめた通り村正の妖刀観は戦国より後世に出来上がったものなので、もし真田幸村が村正を持っていたとしても徳川に祟る妖刀だからではなく単に切れ味の良い刀だからだろうと刀剣書では解説される)

『英雄と佩刀』
著者:羽皐隠史 発行年:1912年(大正1) 出版者:崇山房
目次:村正を佩た英雄 ページ数:56~66 コマ数:40~45
目次:真田幸村の佩刀 ページ数:223~228 コマ数:126

 

鍋島勝茂の村正「妙法村正(題目村正)」

「妙法村正」と呼ばれる刀は妙法蓮華経の題目が彫られ、日蓮上人の入滅日と同じ日付(10月13日)に作刀されたことから刀工・千子村正が歌舞伎や講談の印象とは違って本来は信心深い人柄であったことを示す。

同時に「鍋信」と銀象嵌された刀は鍋島信濃守勝茂の所持であったことを物語っている。

鍋島藩は外様大名であり徳川幕府に対して好感を持っていなかった。
そのため徳川家に祟る村正の刀を持っていたと見ることもできるが、普段人に見せない茎の銀象嵌と考えればその造反は「ほほえましい」というのが寒山先生の意見である。

この刀は終戦まで同家に伝来され、村正ではただ一刀、重要美術品に認定されているという。

ちなみに寒山先生は「妙法村正」として紹介しているが酔剣先生は「題目村正」の名で呼んでいる。そして国立国会図書館のデジタルコレクションでも「題目村正」で検索したほうがヒットする雑誌記事が多い。

『新・日本名刀100選』(紙本)
著者:佐藤寒山 発行年:1990年(平成2) 出版社:秋田書店
(中身はほぼ『日本名刀100選』 著者:佐藤寒山 発行年:1971年(昭和46) 出版社:秋田書店)
目次:70 妙法村正
ページ数:209~212

「刀剣と歴史 (500)」(雑誌・データ送信)
発行年:1977年11月(昭和52) 出版者:日本刀剣保存会
目次:口絵 題目村正の刀 高瀬羽皐先生発刊の辞
ページ数:口絵 コマ数:3

 

由井正雪

『日本刀の歴史 古刀編』によると、

江戸時代前期の軍学者であり、慶安の変(由井正雪の乱)を引き起こした由井正雪が村正の刀を非常に望んでいたという。

 

竹中重義

『日本刀の歴史 古刀編』によると、

長崎奉行の竹中重義が寛永11年(1634)不正事件を起こし、浅草海善寺で切腹を命ぜられた際の罪状申渡書に「村正の刀、脇差二十四振りあり……村正は御当家不吉の例あり、之を多く蓄え起きたるは何故ぞ……不忠の徒と云はん」とあって、本来ならば島流しの刑に処すべきところを不忠の下心あったとして切腹を命ぜられている、という。

西郷隆盛の村正

西郷隆盛は村正が徳川家に祟るという噂を信じて、幕府打倒の意志の証として村正を所有していたという。

外装が鉄扇造りの短刀であり、その鉄扇に「匕首腰間ニ鳴リ 蕭々トシテ北風起ル 平生壮士ノ心 以テ寒水ヲ照ラス可シ」という漢詩(原文は漢文)を彫り込んでいたという。

さらに西郷隆盛を介錯した別府晋介の刀も村正であったという(ただしこれは偽銘らしい)。

『名刀と名将(名将シリーズ)』(データ送信)
著者:福永酔剣 発行年:1966年(昭和41) 出版者:雄山閣
目次:西郷南洲の遺愛刀
ページ数:231~244
コマ数:122~129

 

調査所感

◎ 一度大幅にまとめ直しました!

が、村正に関する話題はまだまだあるよ! って感じでこれでも割と一部なところがあります。
また、大分省略気味、記述を簡素にしても情報の少ない刀工に比べるとかなり記事が長くなったので、細かい作業がまだだいぶ雑に済ませてしまったところがあります。

読む手段のない古剣書は無理ですが、読める古剣書の細かいチェックなどはもう好きな人にお任せします。

年紀をそれほど細かく切らない刀工かつ同名で何代も重ねているので、村正と言ってもどの村正かという問題があり、その代について考える初っ端から正宗の弟子という創作に泣かされます。

今回調べ残したことといえば仙台藩の老臣・三好家の「狐切り村正」の存在でしょうか。
酔剣先生は有名って言ってるけどデジコレで検索して出てこなかったんですよね。
うわー。どこに情報あるんだろうこれ。

◎ 村正の弟子の「千子正重」=「楠木正重」

『全休庵楠系図』という史料から初代村正の活動年代を推測するのに出てくる名前、「村正の弟子の正重」。

この「千子正重」は別名を「楠木正重」と言って、あの楠木正成の玄孫(やしゃご)だそうです。
(だから史料名も『楠系図』)

初代村正の活動年代を現存物からもっと後の時代と考えるとこの推測も別になるかもしれませんが、楠木氏の棟梁と千子派の名工を兼任ってのも凄い話ですね。

 

参考文献

『改正三河後風土記 下』
著者:成島司直 撰 発行年:1886年(明治19) 出版者:金松堂
目次:第三十九
ページ数:1699 コマ数:408

『伊勢名勝志』
著者:宮内黙蔵 著 発行年:1889年(明治22) 出版者:川島文化堂
目次:村正屋敷址
ページ数:437 コマ数:245

『刀剣講話 1』
著者:今村長賀 発行年:明治31~36年
目次:第四 相州物 コマ数:87~96

『徳川実紀 第壹編』
著者:成島司直 等編, 経済雑誌社 校 発行年:1904~1907年(明治37~40) 出版者:経済雑誌社
目次:東照宮御實紀附錄
ページ数:161、162 コマ数:89、90

『翁草 : 校訂 11』
著者:神沢貞幹 編, 池辺義象 校 発行年:1905~1906年(明治38~39) 出版者:五車楼書店
目次:鍛冶近江守の言
ページ数:19~21 コマ数:13、14

「刀剣 (戊申第11集)」(雑誌・データ送信)
発行年:1908年11月(明治41) 出版者:花月庵
目次:花實明德聞書集下之卷
ページ数:176 コマ数:8

『刀剣談』
著者:高瀬真卿 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第七門 古代の名匠 村正の事
ページ数:205~209 コマ数:127~129

『剣話録.上』
著者:剣話会 編(別役成義) 発行年:1912年(明治45) 出版者:昭文堂
目次:六 相州物(下)
ページ数:54~60 コマ数:37~40

『英雄と佩刀』
著者:羽皐隠史 発行年:1912年(大正1) 出版者:崇山房
目次:村正を佩た英雄 ページ数:56~66 コマ数:40~45
目次:真田幸村の佩刀 ページ数:223~228 コマ数:126

『刀剣一夕話』
著者:羽皐隠史 発行年:1915年(大正4) 出版者:嵩山房
目次:一 村正論
ページ数:58~66 コマ数:36~40

『世界奇聞全集』
著者:加藤栗泉 編 発行年:1917年(大正6) 出版者:法曹閣書院
目次:刀剣村正の怪異
ページ数:973~985 コマ数:509~515

『桑名郡人物志』
著者:桑名郡教育会 編 発行年:1921年(大正10) 出版者:桑名郡教育会
目次:千子村正
ページ数:71、72 コマ数:46、47

『日本随筆大成 巻六』(データ送信)
著者:日本随筆大成編輯部 編 発行年:1927年(昭和2) 出版者:日本随筆大成刊行会
目次:古老茶話/(1)
ページ数:6、7 コマ数:12

『新刀古刀大鑑 上卷』(データ送信)
著者:川口陟 発行年:1930年(昭和5) 出版者:日本刀剣学会
目次:古刀之部
ページ数:50 コマ数:48

『秋霜雑纂. 前編』
著者:秋霜松平頼平 編 発行年:1932年(昭和7) 出版者:中央刀剣会本部
目次:解説五十七條 二百十七 富田大鳳村正の大小刀を佩し事 コマ数:88
目次:解説五十七條 二百十八 真田幸村村正の大小刀を佩し事 コマ数:88
目次:名器五十六條 二百七十七 刀工千子村正 コマ数:104
目次:人物九十六條 刀工千子村正 コマ数:109

『日本刀物語』
著者:前田稔靖 発行年:1935年(昭和10) 出版者:九大日本刀研究会
目次:九 村正の傳說とその作風
ページ数:74~81 コマ数:47~50

『日本刀物語』
著者:小島沐冠人 編著 発行年:1937年(昭和12) 出版者:高知読売新聞社
目次:千子村正の業物
ページ数:59~64 コマ数:37~40

『楠氏後裔楠正具精説』(データ送信)
著者:藤田精一 発行年:1938年(昭和13) 出版者:湊川神社
目次:第二章 特說其の二(伊勢全休庵楠系圖精說)
ページ数:32 コマ数:36

『耳袋 上巻 (岩波文庫 ; 1964-1965,1966-1967) 』(データ送信)
著者:根岸守信 編, 柳田国男, 尾崎恒雄 校 発行年:1939年(昭和14) 出版者:岩波書店
目次:耳袋卷之二 御當家にて村政の刀禁じ給ふ事
ページ数:146 コマ数:75

『日本刀と無敵魂』
著者:武富邦茂 発行年:1943年(昭和18) 出版者:彰文館
目次:村正の爲に辨ず
ページ数:203~208 コマ数:116~119

『武将と名刀』(データ送信)
著者:佐藤寒山 発行年:1964年(昭和39) 出版者:人物往来社
目次:徳川家康とその愛刀
ページ数:232~247 コマ数:121~128

『名刀と名将(名将シリーズ)』(データ送信)
著者:福永酔剣 発行年:1966年(昭和41) 出版者:雄山閣
目次:西郷南洲の遺愛刀
ページ数:231~244 コマ数:122~129

『日本刀物語.続』(データ送信)
著者:福永酔剣 発行年:1969年(昭和44) 出版者:雄山閣
目次:西郷南洲の遺愛刀
ページ数:231~244 コマ数:127~134

『原色日本の美術.21』(データ送信)
著者:尾崎元春、佐藤寒山 発行年:1970年(昭和45) 出版者:小学館
目次:一、日本刀概説
ページ数:235 コマ数:241

「刀剣と歴史 (500)」(雑誌・データ送信)
発行年:1977年11月(昭和52) 出版者:日本刀剣保存会
目次:口絵 題目村正の刀 高瀬羽皐先生発刊の辞
ページ数:口絵 コマ数:3

「政経人 29(6)」(雑誌・データ送信)
発行年:1982年6月(昭和57) 出版者:政経社/総合エネルギー研究会
目次:百剣一夕話 / 秋吉茂
ページ数:127 コマ数:64

『新・日本名刀100選』(紙本)
著者:佐藤寒山 発行年:1990年(平成2) 出版社:秋田書店
(中身はほぼ『日本名刀100選』 著者:佐藤寒山 発行年:1971年(昭和46) 出版社:秋田書店)
目次:70 妙法村正
ページ数:209~212

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:むらまさ【村正】
ページ数:5巻P166~169

『日本刀の歴史 古刀編』(紙本)
著者:常石英明 発行年:2016年(平成28) 出版者:金園社
目次:第2部 全国刀工の系統と特徴 伊勢国(三重県) 村正一派の伝系
ページ数:142~149

 

概説書

『図解 武将・剣豪と日本刀 新装版』(紙本)
著者:日本武具研究界 発行年:2011年(平成23年) 出版者:笠倉出版社
目次:第3章 武将・剣豪たちと名刀 真田幸村と千子村正
ページ数:138、139

『刀剣目録』(紙本)
著者:小和田康経 発行年:2015年(平成27) 出版者:新紀元社
目次:≪第三章 南北朝・室町時代≫ 伊勢国桑名 村正 妙法村正
ページ数:310