回想140「葦辺の鶴雀」についてもう一度考える
原作ゲームの回想の考察ですが、メディアミックスの話も交えます。
前回の回想141考察「無頼の梅、無頼の桜」と、以前の小烏丸や大典太さんの修行手紙からメタファー「鳥」に関して考察した「極修行の関連性、『鳥』について」の記事を踏まえてもらった方がいいと思います。
1.葦は古今東西、人間の比喩として使われる
まずは「葦」が何を示すか軽く調べましたが、とりあえず葦という植物に関しては東洋でも西洋でも基本的に「水辺に生える弱々しい草であり、人間の比喩として使われる」って感じですね。
パスカルの考える葦とか、仏教の二つの葦束が支え合っていることから縁起を説明する例とか。
他のメタファーと同じように最終的にはもうちょい名前(あしともよしとも読まれ悪し良しに通じるとか)や性質に通じた特徴が明らかになるかもしれませんが、今の時点だと普遍的な前提である「水辺に生える」「人間の比喩」にまず着目しとこうかと。
回想140の内容自体も雑にまとめると姫鶴一文字と後家兼光による人間との距離の取り方の話ですので、タイトルの「葦辺」の葦が示すものは人間と考えて良いと思われます。
葦は水辺に生える草ですが、「水」はとうらぶにおいては大体「歴史・物語」の意で使われているという解釈にもあまり異論はないと思います。
「水」に関して更に詳しく性質を分析するのはまたの機会にしますが、今の時点ではだいたい「葦辺」とは人間の歴史や物語と考えていいと思います。
2.葦辺の鶴と雀
歴史の大河の畔に生える弱々しい草こと人間。
そこで鶴と雀が、そんな人間たちとの距離の取り方について話をしている。
回想140「葦辺の鶴雀」って言ってしまえばこれだけの内容だと思うんですが、これをもっと掘り下げていく時は姫とごっちん、それぞれの性質が大事になってくると思います。
回想140で二振りはそれぞれどういう主張をしているか。
鶴……姫鶴一文字は、後家兼光に対して「直江を真似るな、反面教師にしろ」という主旨の忠告している。
姫鶴の主張は、元主の物語から距離を取れ、近づきすぎるなという話ですね。
刀身御供という言葉の意味は現時点で考えても判明はしないと思いますが、字面的にまあ不味いことになるのは疑いようもありません。
一方で雀……後家兼光は、元主の模倣を肯定する。
人に倣い、習うことを肯定し、その性質を引き継ぐ。元主に近づく。
二振りの意見は正反対で対立しますが、この二振り自体は公式で気の置けない仲とされています。
ただ、二振りの主張のうちどちらが正しいのかという観点になると、この次の回想141で山姥切長義が後家兼光を「難儀」と評したことから、実際後家兼光には危ういところがある可能性が高く、客観的に見ると姫鶴の主張が正しいように見えます。
3.鳥の一家の飾り尾羽(バランサー)
姫鶴に関しては、道誉一文字の登場である程度性質が明らかになった男士のうちの一振りだと思われます。
道誉は登場時点である程度スタンスが明確な男士であり、その主張の最も重要なものはおそらく「バランス」。
回想163で道誉が姫鶴の機嫌を取って協力を求めようとしていること、姫鶴は道誉に釘を刺しつつも、彼の要求であるバランスを取る事そのものは否定していないこと。
また、回想109の時点で姫鶴自身が自身を「飾りの尾羽」と言っていることから考えると、姫鶴ももともと道誉と同じく「バランサー」の一振りと考えていいと思います。
鳥の尾羽の役割は大体バランスに関するもの、空中での方向転換やブレーキを担う羽であり、揚力や推進力を担う主翼とは役割が違います。
そして姫鶴の役割がそう言ったバランサーであることを考えると、回想140で元主の性質に近づきすぎている後家に彼のもう一つの性質である刀工・刀派寄りに戻るよう勧めていることの意味がわかりやすくなると思います。
4.鶴と雀、鳥の性質
メタファー「鳥」に関しては以前小烏丸パパと大典太さんの極修行手紙からある程度結論を得ました。
刀剣男士が「鳥」に例えられるとき、その役割は大体人間を救おうと願っているもののようです。
小烏丸は亡者の嘆きに引きずられそうになり翼が重いと言いながらも、悲しみにも意味があったと信じることによって彼らと決別して帰って来た。
大典太は地に落ちた鳥のことを考えながらかつての主のもとへ向かい、病魔を斬り伏せ姫君を救えた時、自分が還る時は鳥を供にしようと考えている。
どちらも「鳥」という存在と誰かを救いたいという想いが関係している極修行です。
おそらくこの二つの修行手紙は連続性があって、小烏丸が亡者の嘆きに引きずられて本丸に帰ってこれなかったとしたら、大典太の言う地に落ちた鳥になるのではないかと思います。
「鳥」は誰かを救おうとするもの、「地に落ちた鳥」は誰かを救おうとして救えなかったもの。
そして大典太さんの結論からすると、刀剣男士はそうして目的を果たせず力尽きてしまった者たちも他人事とは考えず、自分たちの同胞としていつかは一緒に還ろうとしている。
「鳥」がそういうものを表していると考えると、「鳥」に関係する要素もそれを踏まえて色々考える必要が出てくると思います。
回想140に出てくる鳥は「鶴」と「雀」。姫鶴一文字と後家兼光。
このうち姫鶴に関しては上で書いた「バランサー」要素である程度説明できると思います。
地に落ちず飛び続けるためにバランスを取ることこそ「鶴」の役目なのでしょう。
「鶴」という字の部首は右(旁)も左(偏)も「鳥」を意味する字なので、これ一文字で鳥が二羽いると考えられます。
これまでの考察で名前の重要性、漢字の意味や言葉遊び的な構成にさんざん触れてきましたが、その観点からすると「鶴」はもともと鳥が二羽いるからこそバランスが保たれている状態なのではないか? と推測します。
陰陽的な発想で、二つの属性のものの調和がとれているからこそ、バランスが大事。
姫鶴の名前自体はもちろん他の字もありますが、今回は回想140が特に二振りの「鶴雀」要素に着目させているところから紐解きを試みます。
鳥が二羽いる「鶴」に対して「雀」は「小さい」「鳥」という構成の字です。
姫とごっちんの「人」に対するスタンスの違いはどうもこの辺が関係しているような気がします。
回想140のタイトルが「葦辺の鶴雀」である以上、その名に鶴を持つ姫鶴のスタンスが意味するものが「鶴」、刀紋に上杉関連の雀を持ってきた後家のスタンスが「雀」、この前提は動かない。
「雀」の解釈は原作ゲーム中に別の角度から推察できそうな材料がまだないので保留にします(雀の字だけなら「九曜と竹雀のえにし」などがあるが現時点では考察が進んでいない)。
鶴に関してはもう一振り鶴の字を持つ刀がいますのでそちらにも一応言及しておきたいと思います。
「鶴」の字がバランサー要員なら姫鶴一文字と同じように鶴丸国永もバランサーではないか? という疑問が浮上したんですが。
個人的にはメディアミックスから判断した感じ、鶴丸も普通にバランサー寄りではないかなと思います。
鶴さん驚きを求める性格の割には、基本的に任務で無茶をしている場面ないですし。むしろ他の男士の方がよほど無茶やりだした時のフォロー要員を務めている方が多いと思います。
と、いうことでやはり鶴は「鳥」が飛び続けるためにある程度人間と距離を取るためのバランサーだと思います。
そうでなければ結局は、救えるものも救えないのだから、と。
一方で、小さな鳥である「雀」は人に近づく。人に倣い、人に習って主の物語に寄っていく。
そしてその性質は「刀身御供」やら「難儀」やら、あるいは「虎アレルギー」やらと、どうやら不穏っぽい方向なのかもしれません。
5.回想142「あこがれとげんじつ」についても考える
回想140でごっちんが口にした「人に倣い、人に習う」という模倣要素。
その次に回想141で写しを持つ本歌である山姥切長義と会話することを考えると滅茶苦茶意味深ですね。
しかも姫鶴も長義も後家のスタンスをある程度否定する形なので、やはりそのスタンスには何か問題がありそうだ、と。
もともと後家兼光は実装時の紹介で取り上げられた本丸ボイスで「長船ってわりと放任主義だから、ボクも上杉の刀って意識がつい強くなっちゃってさ」と、己の偏りを自覚している。
長船であることにこだわらず上杉に寄る、そのせいでバランスを欠いて姫鶴に窘められる。けれどその人を模し、人に倣い習うスタンスを後家自身は肯定する。
回想140の内容からするとまさにそれこそが「雀」の性質ともとれ、それが元主への愛情から来ていることから、次の回想141の「難儀」へと引き続く。
回想140と回想141の連続性が示すものは、「愛」と「模倣」の相関性。
そして回想141の考察につなげますと、それは更に「争いを引き起こす」ものでもある。
「愛」「模倣(写し)」「争いを引き起こす」
……この要素、ごっちんだけじゃなく長義くんにも関連が強いものだと思います。
何故この要素が相関性を持つのかの解こそが次の回想142「あこがれとげんじつ」なのではないか?
回想142を簡単にまとめると、どうやらあこがれとは「虎」、げんじつとは「猫」のことのようです。
人は「虎」を見たことがないのに絵を描いた。「猫」は現実にそこにいた。
だからシンプルに考えると「虎」=「憧れ」、「猫」=「現実」ですが、ひらがな表記なので言葉遊び的にはまだまだ色々なものに絡められます。
見たことのない憧れ。
そこに存在する現実。
ただどちらにしろ、後家兼光は「虎アレルギー」。
猫だろうが虎だろうがどちらもネコ科なんだからどっちもだめじゃん、という話になります。
免疫の過剰反応、自分の体が自分を攻撃してしまうアレルギー反応は、これ以上体に取り込めないものを摂取してしまった時に引き起こされます。
虎に近づいてくしゃみをした、アレルギー反応を起こした回想142の内容からすると、ごっちんにとって「憧れ」はもう容量限界だということを示すのではないかと思われます。
この辺りの解釈は以前に出したものと今の時点では大きな変化はない感じですかね。
6.眠り猫と雀
鳥の一家である一文字の中に「子猫」こと南泉がいるのはどうしてか。
南泉はメディアミックスの方ですとちょこちょこ眠っている描写が挟まれます。
舞台、ミュージカル、花丸と、シチュエーションはちょっとずつ違いますが、どれも「南泉が眠る」という表現を比較的気合入れて描写しているように感じます。
これ自体が何かの比喩のようです。
猫斬りとは言えメタファー的に南泉は「猫」と同義で考えるようなので(山鳥毛や日光も子猫やどら猫と呼んでいる)、素直に「猫が眠る」と考えると日光東照宮の「眠り猫」ぐらいしか見つからなかったんですが。
モチーフの意味はそう変わらないだろうと考えて「眠り猫」を参考に猫が眠る描写の意味をちょっと考えましょうか。
東照宮の眠り猫の裏には、竹林で遊ぶ二羽の雀が彫られているそうです。
猫が眠っているからこそ、雀が平和に遊んでいられる。
と、こういう意図の意匠だと言われているようです。
鳥にとって、それも雀のように小さな鳥ほど、猫は天敵であるという自然界の法則を思えば妥当な解釈のように思います。
つまり古来日本では猫と鳥を両方配置する時は、そうした力関係を念頭に置いて描かれてきた可能性が高いと。
とうらぶ上で猫と鳥が近接する時ももしかして同じ考えのもとで配置されているのでは?
鳥の一家(一文字)の中にいる猫(南泉)。
雀である後家兼光の回想で猫と虎の違いについて論じられたこと。
猫は鳥の天敵、猫が眠っているうちは平和、目覚めた猫は鳥を襲う。
雀と猫ならば雀が圧倒的に不利ですが、体の大きな鳥と体の小さな子猫の場合はどうか。
南泉は子猫と呼ばれていますので、姫鶴の鶴を始めとして大型の鳥と生まれたての子猫だと拮抗するのかもしれません。呪いを解いて目を醒ました南泉は猫斬りでもあるわけですし。
(鶴の体長はタンチョウで102~147㎝、子猫は品種にもよるけど20~30㎝ぐらいらしい)
……道誉に姫鶴、一文字一家の一部派閥がバランスに拘っていることを考えると、鳥を強調するからこそ内部に猫としての南泉が必要なのか?
鳥の性質が強くなり過ぎないよう、バランスをとるために。だから日光もある程度は南泉を自由にさせているのが回想96?
「鳥」が力を蓄えるターンでは、猫にはある程度鳥に構わずに遊んでいてもらう必要がある。
逆に鳥が強くなりすぎると猫も暴れて相殺する。
あるいは鳥が鳥として全てを振り切って跳ぶためには猫が邪魔になるというなら猫斬りが必要にもなりそうだ……?
一文字一家に関しては今はこのぐらいの仮説にしておくとして、回想140と回想142の関係性としてはどうでしょうかね。
雀である後家兼光と、猫、虎アレルギーの話。
虎が憧れだというのならば、人に倣い人を習うというスタンス、憧れへの接近はどこかで頭打ちになるという話ではないのか?
回想141の方では例え並び立つ春の花同士である桜梅でも、山姥切長義と後家兼光のスタンスがどうやら正反対であることが判明しました。
そして桜である長義は猫である南泉と回想があり、梅の兼光は虎の五虎退と回想がある。
猫と虎の違いはそのまま桜と梅の違いと言い換えてもいいような気がします。
桜は猫(現実)寄り、梅は虎(憧れ)寄り。
メタファーの性質の方向性が最近徐々に整理されてきた気がします。
7.ごっちん関係の考察を軽くまとめ
回想141、140、142の考察を一通りやりなおしたのである程度整理されてきた内容まとめ。
7-1.直江の刀、難儀な刀
回想141の考察の結果からすると、刀剣男士としての後家兼光のスタンスはまんま直江兼続だなと思います。この結論自体は以前も何回か出した気がするんですが改めて。
上杉家では主君の上杉景勝と家臣である直江兼続が同じくらいの権力を持っている二頭政治だったとか聞くんですが、だからと言って直江兼続が偉ぶっていたわけではなく、むしろ直江兼続のスタンスはとにかくひたすら主君である上杉家に尽くしている。
でも同時に直江兼続はその上杉家のためにという姿勢のせいでたびたび問題と言えるような事態も引き起こしているらしい。
その最たるものが関ケ原の戦いの遠因である直江状。
後家兼光の「一言多い」を山姥切長義の台詞で「難儀」だと示した回想141の主旨は、「愛故に争いを引き起こす」ものの話だと考えられます。
元主への愛、元主の主君への忠誠、不確かな逸話に関する人間の憶測への肯定。
まとめて一言で「愛」と呼べるようなそれらは、けれど時に災いを引き寄せる、争いを引き起こす。
山姥切長義から言えばそれは難儀なものだけれど、後家兼光自身はその難儀さに自覚がいまいち薄いからこそあの回想の最後は「……え?」で終わるのではないか。
回想141は、桜と梅のスタンスの違いが表されている。
7-2.人に倣い、習う
回想140で模倣要素への言及があります。
今の時点では「葦辺」は歴史の中にある人それぞれの物語的な要素だと思われます。
回想140はそれに寄り添うように水辺にいる二種類の鳥の話。
回想140のタイトルが「葦辺の鶴雀」でありあの内容ということから、模倣要素と鳥の一種であり「小さい」「鳥」である「雀」が結びつくことがわかります。
そしてバランサーである鶴の目線からすると、雀が人を模倣していくその方向性はどこかでストップをかけないとどうやら危ないようだということも。
7-3.鶴の相方、バランスと偏り
姫鶴にしゃきっとしなと言われ、長義に難儀だなと言われる。
バランサーである姫に苦言を呈される以上、後家兼光が偏っているのは事実なんでしょう。
ただ、今年の3月にミュージカルの方でメディアミックス側の情報が出た感じ、ごっちん単体で見ると別の部分でバランスを取っている気がします。
「坂龍飛騰」でも愛に関してさんざん言及していたごっちんですが、だからと言って愛に耽溺する性格というわけではなく、人に入れ込み過ぎて同情するわけでもなく、一見人に寄り添っているように見えるけれど、実際のところこれから死ぬ相手を止めるような言動はゼロで、むしろ死に向かう相手の背もガンガン押せるタイプだと思いますあの性格。
もともと原作ゲームだけで考えても、ごっちんはストレートに優しいと評せるような性格はしていません。
「ボクは後家兼光。キミが新しい主? 戦う条件はお腹いっぱい食べさせること。あ、ボクじゃなくて、上杉の刀に」(入手画面)
「ちっ……おめたちに付き合うのは、もう飽きたな……」(中傷ボイス)
この性格はあくまで上杉家の刀という自分にとって大事な存在に注力する性質であって、万人に対して慈悲深いいわゆる優しいひととは別だなと。
刀剣男士の中には元主どころか自分に何の縁もゆかりもない人間の死にすら同情したり嘆いたりする刀も結構いますので、逆に言えばごっちんは愛を謳う割にはそうした部分がないなと。
人に倣い習う模倣を肯定し、人の愛たる憶測を肯定するけれど、一方で決して人に入れ込み過ぎない。
その命を助けない、死者に同情しない。
そういうところで一応バランスはとれているように思えます。
なるほど放任主義の長船派か……。
姫鶴に長船派らしくしろ的な忠告を受けていますがある意味最初から長船らしいとも言える。
常に人に寄り添いその残酷な運命に憐れみを覚えるような、そういう性格はしていない。
人間に対しての想い自体は色々あるけど、彼らの持つ物語を称揚するからこそむしろその死に対してはさっぱりしている。ある意味面白いスタンスと言えます。
……そう考えると「坂龍飛騰」はある意味後家兼光の初登場らしい物語ではあるのか。
人に倣い人に習う、人に近づくことを肯定し、刀身御供への忠告も気にしないならごっちんなら、坂本龍馬に近づくために努力する物部を賞賛し、坂本龍馬になるために死ぬ彼をただ応援する。
あー、なるほど、納得してきた。そうか。そうだな。そういうことだな。
これまでもミュージカルの浅井氏担当脚本の刀剣男士の描き方は、原作ゲームの要素を非常に丁寧に拾ったストレートな描写だと感じていましたが、坂龍の後家兼光像も原作の回想情報を整理すると確かにこういうキャラクター像になるんだなと今完全に腑に落ちました。
姫鶴から刀身御供を心配されても動じない、長義から難儀だなと言われてもピンと来ていない。
むしろひたすら虎(憧れ)について考え続ける。
それはつまり後家兼光自身が、憧れのためならば刀身御供であっても構わない、言い換えれば
なりたいものになるために、死ぬ
という「坂龍飛騰」の主題を完全に肯定している存在だからか。
その「なりたいもの」、得たい物語が、誰かの借り物であっても、模倣であっても構いはしないと。だからこその愛だ。
逆に自分にとって何の縁もゆかりもない相手でもその死に対して深く同情してしまうような、そういう性質がメディアミックスで明らかになっているのはごっちんの相方であり忠告をしている姫鶴自身の方なのかもしれません。
禺伝で葵上が死んだときに亡骸を抱きかかえながら明らかに同情していたと思う。
長義くんに関しても同様。回想141は長義くん自身も自分も一言多かったと言っているからまぁ最初からそういう内容の話ではある。
7-4.ごっちん飯の話
ミュージカルの方で出た話で「焚きそこないの飯をごっちん飯という」らしいので、どうやら「ごっちん」というあだ名の元は焚くのに失敗したご飯のようです。芯が残った状態だとか。
刀剣男士にとって物語を食う食われるの話題は結構重要なものなので、「ごっちん」が失敗したご飯、つまりそのままでは「食べられないもの」であるということは重要だと思います。
今のところ回想140~142周りの考察はこんなところでしょうか。
他の考察に繋がる要素と、他の考察から繋がりそうな要素がある程度出て来た気がします。

