メタファー「血」の考察

メタファー「血」の考察

9月頃に新男士関連の回想とその前月の対百鬼夜行の関連性について考えていたあれこれ。
その後ちょっと用事を挟んで文章にまとめるのが遅くなったので何書こうとしていたんだったかな……と思いましたがもともと当時の考察もどちらかというと「あれとこれが一緒では?」みたいなギミックやメタファーに関する知識の集積から来る閃きに近かったような気がします。

いつも以上に説明が雑な可能性がありますがとりあえず今の時点で「あれとこれが一緒では?」と思ったものを整理していきたいと思います。

いつも通りですが、原作ゲーム考察でメディアミックスの話をばんばんします。

 

1.異去とは葬られた歴史の世界なのではないか?

今年もレイドイベ対百鬼夜行迎撃作戦が実施されましたが、去年にも増して重要っぽい情報が増えました。

特に「鬼」こと戦鬼に関しては、その姿から「面を被っているのではないか?」という可能性が指摘されました。

鬼が面を被っているとなると、活撃で足利義輝の亡霊に鬼の面が憑りついたような演出や、舞台の外伝で長尾顕長に山姥の面が憑りついた描写などとギミックにはっきりとした共通性が見られることになります。

正直このとうらぶ全体でメタファー関連ギミックが共通しているという部分はもう疑うどころか大前提として共有しといたほうがいいと思います。

で、肝心のそれぞれの要素がもつ役割は何か。

今回、8月の対百鬼夜行からの9月の倶利伽羅江実装の流れの中でこれまでのメディアミックス中のギミックを色々と思い返しながら考えていた時にふっと思ったのですが、

異去という世界はもしかして、映画風に言うならば「葬られた歴史」の世界なのではないか?

原作ゲームの第二節は「鬼」である戦鬼を中心としたシナリオです。
だからメディアミックスの中に答を探すならば鬼に近接したストーリーを探せばいい。

「鬼」という言葉自体は舞台でもミュージカルでも花丸でも他でも多分ちょこちょこ出てきますが、今のところ一番「鬼」要素が強いのは実写映画の二作目だと思います。

そして映画の2作目である「黎明」と共通する1作目の「継承」の方がどういう話だったかというと、こちらは正史には伝わらない「葬られた歴史」の話でした。

「黎明」で登場する鬼、酒呑童子とその生まれ変わりの少年。
彼らは時の朝廷に従わぬ民、まつろわぬものとして滅ぼされた。

映画は第1弾、第2弾共に歴史の表から消されたものを中心として描いています。
更にその裏側として第1弾も第2弾も審神者の存在や特殊性が強調されています。

メタファー「鬼」を中心に展開する原作ゲームのシナリオと「葬られた歴史」「鬼」を中心に展開した映画を比べるなら、今やっている原作ゲームの第二節も映画の方の酒呑童子たちと同じ、表舞台から無惨に滅ぼされて葬られてしまった歴史にまつわるものたちなのではないか?

だからこそ昨年の戦鬼の叫びが「刀剣男士など生まれなければ」という呪詛なのではないか?

「鬼」「葬られた歴史」「三日月」「朧」「血」など、近接したメタファーの構成を突き詰めていくとそういうことになるような気がします。

ここから「鬼」や「血」についてもうちょっと考えてみたいと思います。

 

2.メタファー「血」の考察

「血」のメタファーに関しては、私が見たメディアミックスだと舞台の悲伝で足利義輝の死体から流れた血を桜が吸いあげて「鵺」が生まれたというのが一番早いですね。

これは「桜」と同じく「血」というものに何か意味があるからこそ挟まれた描写であることを強く感じる演出です。

同じく舞台では无伝のラストでもまた桜から「鬼」が生まれています。
シルエット的には鬼丸さんですが、これも「鬼」のメタファーの一つではないかと思います。

そして「血」かつ「鬼」という要素が近接して強調されているメディアミックスがもう一つ。

映画「黎明」で山姥切国広が酒呑童子側に攫われる描写は、小説版を参考にすると酒呑童子の首を国広の刀本体で無理矢理斬らせた後、「流れ出た血から噴き出した桜吹雪」が関係しています。

酒呑童子として今まさに滅ぼされそうになっている青年が鬼になってやると決意し、国広の刀で自分の首を斬らせその血が桜吹雪となって国広を連れ去ったということは、やはりここでも一番重要な媒介は「血」のようです。

そして次に未来というか2024年の世界で登場する国広は記憶を失って酒呑童子の生まれ変わりである伊吹を主としています。

「黎明」の国広は一時的に記憶を失っていたらしいんですが、だからと言って何も考えずに伊吹に従っていたというわけでもなく、「歴史の闇に消え忘れ去られた者」である伊吹を案じて傍にいたというのが正しいようです。

「鬼」とはやはり葬られしもの、歴史の闇に消え、忘れ去られ、顧みられなくなったもののことを差すようです。

この表現は戦鬼の台詞や異去の突入時のキャプションなどとも一致するのではないかと思います。

「水」というメタファーはどのメディアミックスでも「歴史」を差すと思われます。
この場合の歴史とは厳密な史実のみを指すのではなく、今に伝えられている物語も含む広範な意味での歴史のようです。

「水」がそれだとしたら、渇いた肌を持つらしい戦鬼は歴史から切り離された存在、つまり葬られた歴史に関わる存在と考えていいと思います。

滅ぼされて物語を残すことが叶わなくなった存在、歴史の闇に消え、忘れ去られたものたち、歴史上の人物が関わるが史実としては伝えられなかった事実。

それら諸々、現在に語り継がれなかった史実や物語はすべてひっくるめて「葬られた歴史」扱いなのではないかと思います。

だからこそ、刀剣男士の顕現は基本的に水面に桜が触れる演出であるが、悲伝の鵺は桜が血を吸い上げて誕生した。

「水」が「歴史」を指すのであれば。
「血」が意味するものはその裏側にある「葬られた歴史」なのではないか?

「水」と桜の接触で歴史を守る刀剣男士が顕現するように、「血」と桜の接触は何らかの形で正史から葬られしものたちの媒介となるのではないか?

だからこそ映画第2弾で酒呑童子の血を浴び、その血が生み出す桜に連れ去られた国広は正史から葬られた側に肩入れすることになったのではないかと推測します。

 

3.回想76「言えない過去」の考察

この辺まで考えたところでもっとメタファー「血」について考えようと思い、原作ゲームだとそもそも「血」のメタファーがそんなに強調されている要素ないよな。松井関連くらいか、と思って映画第1弾のある部分について以前気にかかったところを思い出しました。

映画第1弾では葬られた歴史として「信長が死んだのは本能寺ではなく安土城」という設定があります。
一見本丸を裏切ったように見えた三日月の真意が判明した際に、長谷部や日本号など同じ部隊の面々はそのことを知って「言わなかったんじゃない、言えなかったんだ」と受け止めます。

つまり「葬られた歴史」周りはそういう設定なんでしょう。

読者、視聴者側である私としてはいや任務遂行のためなら普通に部隊に共有してよくね? と突っ込みたくなりますが、まあほら多分刀剣男士はそういう性質なんでしょう。

と、言うことで「葬られた歴史」にまつわるものは「言えない」という辺りから原作ゲームのこの回想の解釈がようやく出せるのではないかと思います。

回想其の76『言えない過去』

松井江「……」
豊前江「……また多くの血が流れたな」
松井江「豊前、僕は……」
豊前江「いいよ、言わなくて」
松井江「……え」
豊前江「誰にでも言えないことのひとつやふたつ、あるもんなんだろ? 無理して言わなくてもいいよ」
松井江「……」
豊前江「ま、でも、ひとりで抱えきれねーくらい重たいんだったらいつでも言ってくれ。ほら、俺、両手空いてっからさ」
松井江「……豊前」

「葬られた歴史」にまつわるものは、同じ刀剣男士にも、同じ部隊の仲間にも、「言えない」。

現状原作ゲームで唯一「血」というメタファーを他の刀剣男士より意味深に強調する松井江関連の事情はこれかと。

とうらぶの松井は松井興長の刀であることを強調しているので、それ故「血に塗れている」という設定のようです。

上で出した通り「血」というメタファーが意味するものは「葬られた歴史」関連ではないかと思います。

だからこそ島原の乱で活躍した松井興長の刀であった松井は「血」というメタファーが強調されている男士なのではないか。

島原の乱で殺された者たちの多くは名もなきキリシタンとして扱われる、まさしく葬られし者たち。
敗者であっても何らかの形で歴史に個人としての名が残った戦国武将や幕末の幕臣、維新志士たちとは違って本当に個としての名が何も残らなかった者の方が多いだろう、歴史の闇に消えた犠牲者たちです。

松井の極自体の考察はまだノータッチですが、少なくとも「血」の意味、「鬼」の意味は原作ゲームからメディアミックスまで全て共通してこれだろうと思います。
ここまでは対百鬼夜行や倶利伽羅江との回想、メディアミックス辺りから考察できると。

葬られしもの関係。
だから、誰にも言えなかった。

松井自身の修行手紙に関する分析は結構時間を要しそうな感じですね。

 

4.「鬼」は死にまつわるものか?

葬られた歴史、葬られしもの。
歴史の闇に消え去れ、忘れ去られたものたち。顧みられないものたち。

「血」、「鬼」、「葬られた歴史」。

これらに介在するものはすべて、「死」。

……ということは、「鬼」とは死にまつわるもの、死に執着する感情なのではないか?

これを考えるにあたって「面を被ったもの」としてギミックの似ている「山姥」のことを同時に考えました。

つまり、「鬼」と「山姥」は何が違うのか?

どちらも化け物であり、山姥は「山の鬼女」とも謡曲「山姥」で言われるので、ある意味鬼の同類ではありますが、完全に同じではなく何か差があるからこそ別物としてカウントされるはず。

特にとうらぶでは「山姥切」関連のエピソードが多いことから、鬼と山姥は類似要素ではあっても最終的には明確に別物と表現できる差異があるはず。

メディアミックスの両方の代表的な描写を比較してみるか。

「鬼」に関しては、活撃の足利義輝と映画2弾の伊吹辺りが特に強調されています。
更に舞台のほうだと天伝の真田幸村、綺伝の細川夫妻の「鬼と蛇」要素などもあります。

「山姥」は今のところは舞台の方の外伝という一つのエピソードだけでしょうか。
長尾顕長に憑りついた能面の話です。

外伝の山姥は媒体として長尾顕長に憑りついていますが、正体と言う意味ではどちらかと言わずとも北条氏直の不安が形となったもののようです。

豊臣秀吉と戦えば父・北条氏政が死ぬかもしれない。その不安、氏政に生きてほしいと願う氏直の感情が能面を介して長尾顕長に憑りついた。

ということは――「山姥」とは、生にまつわる執着なのではないか。

生きて欲しい。死んでほしくない。そういう感情。

なんで氏直の不安が顕長に憑りついたのかとかそういう力関係や構造はわかりませんが、「山姥」というメタファーの本質は「生」への執着にあるような気がします。

それと比べると鬼はやはり死にまつわる執着なのではないか。

殺されたことへの恨み、滅ぼされたものの慟哭、他者への殺意。

活撃の足利義輝の亡霊だとか、映画の伊吹もこちらかと。
伊吹の弟への想いに関しては最初は黄泉返りを狙っていたものの、その望みが絶たれた果てに日本そのものを恨む酒呑童子に飲み込まれた。

死への執着、滅ぼされたことへの恨みつらみ、他者への憎しみ。

「鬼」のメタファーが意味するものはそういうことかと。

……この観点で考えると舞台やミュージカルでそれとなく「鬼」に例えられてきたものたちの描写でいくつか切ないものもありますね。

鬼が死への執着や恨みの化身だとすると、妻であるガラシャを殺せなかった忠興と、忠興が死んだからこそなお死を求め始めたガラシャ様とか。
最初は諸説へ逃げようとしていた、わらべ歌に鬼と例えられた真田幸村の天伝の結末とか。
他にももろもろ。

とりあえず鬼はやはり死への執着、他者への恨みなどを根源とした存在だと見て考えようかなと。

 

5.「山姥」は生への執着か?

これまで長義・国広の考察で特にメディアミックスで重要な位置に来る国広の物語の主題なんかは「山姥切」として完成すること(堂々と自分は山姥切だと名乗れるようになること)なのではとか、その場合の意味は仏教的な阿弥陀の剣やらそういう立ち位置になるのでは? というメタファーや構造上からの推測をつらつらと書き連ねて来たんですが。

もしかして「山姥」というメタファーが「生への執着」そのものだとするとその名の「山姥切」がまんまその意味になるのでは?

仏教において刀、名刀は悟りを得るための般若(知恵)としてよく喩えられる。
阿弥陀の剣は煩悩を、生死の絆を断ち切る剣らしいですよというのはこれまでも何度か触れたんですが。

「山姥(生にまつわる執着)」を切る刀だという「山姥切」の名前の意味自体が最初から生死の絆を絶つという意味なのかもしれない???

そう考えるとこの台詞の意味が今までになくしっくり来るんですが。

「待たせたな。お前たちの死が来たぞ」

山姥が指し示すのが「生への執着」ならば、常に山姥切たらんとしている長義くんのこの出陣ボイスがめちゃくちゃしっくりきます。

メディアミックスを全体的に見渡してもとくに長義くんは、歴史を変えてでも生にしがみつこうとする対象にはいつも容赦がないと思います。
ミュージカルの「花影ゆれる研水」などでも鶴松を死なせなければならないとなった時に迷わず動こうとするのもこの辺りかなと。
相手に対しての慈悲はある、鶴松などは幼い子ども相手ですから苦しめないように殺せればとは思っていたようですが、生かそうという考え自体はまったくない。

逆に、割と他者に同情して生きていてほしいと願う気持ちを捨てきれないタイプである国広が山姥切の名に拘らないのも同じ理由かなと。

もともと謡曲「山姥」に登場する山姥自体が、こういう存在かもしれない。

謡曲の山姥は、「煩悩即菩提」を説きながら自分自身は煩悩から逃れられずに苦しみ、だからこそ山姥を題材にした曲舞で名を挙げた遊女・百ま山姥に舞を見せて私を救ってくれと頼む存在でもある。

ううううん、ここで対百鬼夜行関連の考察に戻ると、今年のイベントで戦鬼が酒呑童子の名を得たことから、やっぱり「鬼」と「名」の問題は関係が深いんですよね。
鬼と死の恨み、生への執着と名への執着は結びつく。

だとしたらやはり、回想56、57「ふたつの山姥切」は謡曲「山姥」がモデルかもしれない。

長義くんは山姥切たらんとしているけど煩悩即菩提はその理屈を知っていてもなお簡単には達成できない話で、だからこそ苦しみが生まれる。
国広に実力を示せと訴えるのはそれこそ謡曲の山姥が百ま山姥に曲舞を乞うたのと同じなのではないか?

名と煩悩(執着)を巡る図式の物語。

「山姥切(生死の絆を絶つ剣)」としての自覚はあるか否か。
自覚はあってもその道のりはただ遠く、遠く……。

長義くんの出陣ボイスが極めて「お前たちの死だ」と断言系になったのも、「主が歴史を守る限り山姥切を名乗り続ける」という決意が前より強くなったからということか。

ついでにメディアミックスそれぞれでの国広・長義の動きとも連動しているような気がします。
山姥切の意味が生への執着を捨てたものだとするのならミュージカルの国広が他のメディアミックスより堂々としているのは、初期刀の一件で自分も後進のために死んで当然と思っているからではないか。

あの性格なのにというより、あの性格だからこそミュージカルの国広はああなるのではないか。

舞台や花丸などから考えると、「山姥切」の立場ってどうやら競合するんですよね。
他のメディアミックスの国広が長義が登場すると一歩引くのはその調整っぽい面があるので、逆に言えばミュージカルの国広はそれができないからこそ、他のメディアミックス本丸と違って長義に対して真正面から向き合えないのかもしれない。

長義は基本的に常に「山姥切」として、生への執着を絶つものであろうとしている。
国広はメディアミックスごとの差は大きいものの、基本的には相手に生きていてほしいと願いがちなので、だからこそ山姥切の名もどこか放り出そうとしているように見える。

山姥切という名の意味を考えるならまず「山姥」の意味を考えなくてはならないということで、ようやくこの辺がすっきりしました。

舞台の外伝で示された「山姥」に、最初から答はあったんだと。

 

6.童子切の別名、「血吸」

鬼の物語である対百鬼夜行2でついに実装された童子切安綱、ただし剥落。

童子切には「血吸」という異名があると言われることもあります。

酒呑童子退治ものの絵巻の一部で酒呑童子を退治するのに使った刀の名前が「血吸」とされているとかで。
絵巻を直接見ることは難しいですが刀剣関連とか武器関連の本などで絵巻を根拠に「もともと血吸という名だった源頼光の刀が、酒呑童子を斬ったことから童子切となった」と説明されることもあります。

まあ大江山伝説自体がフィクションだろうとされていますがその辺は置いといて、刀剣関連のサイトなどでも童子切と言う刀はもともと血吸と呼ばれていたと伝説を紹介しています。

「血」のメタファーが示すものが「葬られた歴史」にまつわるもの、歴史の闇に忘れ去られたものだとしたら、戦鬼から童子切剥落が生まれるのもなかなか深い意味がありそうですね。

というか、今の今までそこを考えるのを忘れてたけど、「異去」産の刀剣男士って童子切オンリーか。

イベントの舞台は疑似平安京フィールドだったとはいえ、戦鬼が異去産だからその戦鬼の腕から明らかに生えてるっぽい童子切も異去産。

……つまり童子切はその別名というか、童子切と呼ばれる前の名「血吸」のごとく、葬られた歴史の世界である異去の物語、名もなき鬼たちの物語を吸い上げ、酒呑童子と成った戦鬼完成体を斬ることで「童子切安綱」として完成するのか?

これまでの刀剣男士たちは「水」……史実か物語かはともかく今に伝えられる「歴史」とされる逸話を、敵を斬ることで食らい続けた。

今度の童子切安綱剥落は、「血」――歴史の闇に葬られしものたちの物語を吸って成長する。

「血吸」から「童子切」へ。

それが剥落の物語。それが鬼斬りの物語。
葬られた歴史を再び葬るものの物語だと。

……第二節が終わったら、我々はもしかして童子切タイプの葬られた歴史を吸い上げた男士を得たりするってことなのでしょうか……。

今回は異去と対百鬼夜行関連を中心にメタファー「血」にまつわるあれこれの推測をまとめてみましたが、なかなか面白い構造になってきたなと。
構造が複雑すぎて読み解けない部分が多すぎてああああと頭を抱える部分も増えましたが。

とりあえずこの辺で失礼します。