回想181~183について軽く考える

回想181~183について軽く考える

鍛刀CPでの実装なのでもうあらかたの情報は出回っているでしょうし、全文じゃなく適度に引用しながらさっくりと簡単に触れてみます。

 

回想181

回想其の181『山と歌と温泉と』
(祢々切丸、三郎国宗)

祢々さんに初の回想が追加です。
公式Twitterの紹介で温泉好きが示されていた祢々切丸ですが、それに絡む回想と言えましょう。
一方で当然今回実装された三郎国宗の方の話も展開していますね。

号のある一振りではなく備前三郎国宗という刀工名の方で来ましたが、公式の紹介によると日光東照宮の国宝の一振りを強調されています。
この後の回想だと刀工の話の方も触れていますが、回想181だとやはり日光東照宮の国宝要素が強いです。

「御辺の軒先を煩くしておりますほうの国宗にございます」と言う名乗りは、日光東照宮が日々観光客で賑わっていることをそう言っているのだと思います。

祢々切丸は日光二荒山神社、三郎国宗は日光東照宮が所蔵しています。

三郎国宗の口調として、二人称に「御辺」を使っています。
「御辺」は対等またはやや目上の相手に対して武士などが用いた二人称だそうです。

その二振りが温泉トークで盛り上がっています。

温泉の話で意気投合した後、国宗は祢々切丸の声を褒めます。
国宗は歌業の新人? らしく、祢々切丸の良い声が気になったらしく後半今度は歌トークにうつり、国宗から祢々切丸にこう提案します。

「ここから遠くないところに温泉街がありますでしょ。飛び込み流し、ちょいと腕試しにいかがかと」

「流し」というのは楽器を持って酒場などを周って歌を披露したり客のリクエストに応える芸人のこと。

つまり国宗は祢々切丸に、そこらの温泉街で余興として歌う芸人として働いて、自分たちの歌の腕試しを一緒にしないかと持ち掛けているようです。

祢々さんは「国を守護するが己が定めと、山を降りたのでは」と尋ね返しているので、そんなところで小金稼ぎなんかしていいのかと疑問に思っているようです。

それに対し国宗は「稼いだ銭を日光山に埋めておけば、それこそ立派に守護となりましょや」と説得しているようです。

まさか祢々切丸が流しの芸人をやる、国宗と二振りで美声を客に聞かせて小遣い稼ぎをするとか二次創作以上に二次創作みたいな内容で面白いんですがそこはまあ置いといて。

継続的なメタファー考察としては気になる単語がちらほらと。

温泉を含む「風呂」の描写はメディアミックスのあちこちに登場しています。
今回で少なくとも「温泉」の意味は「人が集まり、身も心も温まる」「人の身も心も温めてこそ、天下泰平」という要素が提示されました。

「歌」に関しては一つ前に実装された倶利伽羅江と、古今伝授の太刀の回想179でも「歌は光」「心を見つけ、届けてくれます」と提示されたばかりです。
今回の国宗の台詞でここに「歌は人の身で得た新たな得物」という要素が加わります。
得物とは武器や道具のことなので、刀剣男士にとって人の身で得た新たな武器、力が歌だということになります。
……これ、ミュージカルの方の原理なのでは?

そして最後に日銭稼ぎとその銭を埋めるという要素。

これまでメディアミックスの方で比較的早めに意味ありげに描かれていながら何の意味だかわからなかった要素に、活撃の序盤で遡行軍が埋蔵金を運んでいるという描写がありました。

あの小判、埋蔵金らしきことは示されていても、実際どういう扱いだったのかは描かれておらず、むしろ堀川くんの台詞で遡行軍は埋蔵金をどうするつもりだったのかとわざわざ謎を振っておきながらあえて回収しないという演出がされています。

つまりあの時点で答を出さないが描いておかなければならない要素だったはずですが、その意味がもしかしたらこれなのかもしれません。

三郎国宗「なんのなんの。稼いだ銭を日光山に埋めておけば、それこそ立派に守護となりましょや」
(回想其の181 『山と歌と温泉と』)

銭を埋めておくと守護になる。
遡行軍は埋蔵金を掘り出したのか埋めたかったのか、どこかに埋め直したかったのかわかりませんが、この守護と関係しているような気がします。

少なくとも活撃の描写だと普通に金に困ってたという理由ではないようですし。

他に小金稼ぎをしているという話だとミュージカルの方で山姥切国広が傘づくりだの浮世絵だので金を稼いでいる描写があります。

こうした金稼ぎと、それを土、あるいは山に埋めることの意味は今後もちょっと注目したいと思います。

 

回想182

回想其の182『大江戸物見遊山』
(ソハヤノツルキ、三郎国宗、2-3江戸の記憶・江戸(元禄))
……其の28を回収済、左記の刀剣男士を編成し出陣

回想182はソハヤとのもので、ソハヤと大典太さんの回想28から引きつづいているようです。
回想28はかなり短いのでこれを頭に入れながら見るのはそれほど難しくありませんが、解釈できるかはまた別ということで。

とりあえずストレートに読むと、ソハヤは幕府の守りをしていて、回想28で自分たちにもっと霊力があれば幕府は続いていたのかもしれないという話をしていますが、その一方でその時代はこうして徳川家康の作った天下泰平の世を見ることはなかったという複雑な心理が描かれているようです。

ソハヤノツルキは徳川家康がはっきりと「西国を見張って幕府を守護するために」と久能山東照宮に収められたという伝承のある刀なので、その辺りが日光東照宮に収められた国宗の「私どもがあったからこそ徳川の治世は260余年続いたのだと、胸を張りましょ」の台詞に続きます。

刀時代は二振りとも、山の上から人の営みを見下ろすだけで天下泰平の世に直接触れることはなかった。
けれどそうして幕府の守護を任された刀たちがあるからこそ、260年もの泰平の世が続いたと。

ソハヤはそれでも回想28のように、自分に霊力があればもっと幕府は続いたのかもしれないと後悔のようなものを抱いているようですが、国宗はその心情にある程度決着をつけているようです。

 

国宗はこの回想182と次の回想183で「山の高いところ」に言及しているのですが、これが何を意味するのかはいまいちわかりません。今後の情報に期待します。

この回想182でソハヤと国宗の意見が分かれた要因は霊力と歌力に関する見解かなと思います。

「歌」に関しては江だの古今伝授の太刀だのミュージカルだのとちょいちょい「光」「人の心を動かす」ものであるという言及が入っているので国宗が求めているものはその辺からある意味わかるような気がします。

一方で、ソハヤや大典太さんの言う「霊力」がどういう力なのかはこれまで言及があまりなかったような気がするので、この辺ちょっと回答が欲しいところですね。

大典太さん極が霊力で人を救うことができたと言っているので、「歌力」が人の心を動かす力ならば、「霊力」は人を救う力なのかもしれない。

救う力であればこそ、救えなかった時の後悔は募る。ソハヤが後悔を抱えているのはだからこそであり、大典太さんが姫を救えたのもだからこそであるのかもしれません。

回想182の国宗は「万事を尽くしてそうならば、それが人の選択。詮無き事ですよ」と言っていますので、人の選択を尊重している。

その一方で、今は歌力が欲しいと――人の心を動かす力を求めている。

……と、いうことは。

幕府を続けたい、自分にもっと霊力があればと思いながら家康の築いた天下泰平の世を眺めるソハヤも。

万事を尽くしてそうなったことは、自分たちの力不足ではなく人の選択でありどうにもできないと納得しながら、それでも今は人の心を動かす歌力を求める国宗も。

もしかして、あまり違いはないのかもしれない。

 

回想183

回想其の183『眠れる猫と遠鳴きの鶴』
(鶴丸国永、三郎国宗、5-2武家の記憶・博多湾(元寇))

冒頭しょっぱなから同格かどうかの話をしています。
刀剣男士に身分の上下あるのかどうかこれまでまったく言及されていませんでしたが、少なくともここ二振りは実は結構格について気にしていたと。

最終的に鶴丸と国宗は同格で決着しているようですが、一方で最後の結論だと鬼丸国綱、髭切、菊御作は彼らより権威があるような話もしています。

……これまでいくつかの回想を考察した感じ、冒頭で示された結論は最後の内容で一周する、むしろ話題が移り変わっているように見えて最初から最後までテーマが一貫している内容の回想がいくつかあったと思います。

ということは、この回想183も冒頭と終盤で持ち出した「権威」がテーマの回想と見ていいのかと。

更にこれまでの考察で、地域指定回想は基本的にその合戦場で特定の戦を見ながら交わしている会話だろうという結論も得ました。

回想183に関してはその部分は普通にわかりやすく、鶴丸と国宗の会話は元寇、博多湾にやってきたモンゴル兵との戦いを見ながら交わしていることが明らかです。

そこから一度同格だのどうだのの話をやって、海の向こうから来た敵と戦乱の世の話をやって……。

鎌倉幕府と執権北条氏に関する国宗の一連の台詞を見ると、この回想はやはり「権威」の話だなという気がします。

三郎国宗「坂東武者の……、鎌倉幕府という政治機構は、とっくに限界を迎えていたのだと思いますよ」
三郎国宗「源氏将軍が滅びたとき、泰時公が死んだとき。北条は幾度となく終わり損ねた。その死に体にとどめを刺したのがこの戦い」
三郎国宗「人間は権力の奔流に巻き込まれると世の理が見えなくなってしまう。正直、ほっとしたのだろうと、得宗の威信材として生み出された刀は思いますね」
(回想其の183『眠れる猫と遠鳴きの鶴』)

鶴丸は得宗と言う権威に振り回されて墓に入れられたり出されたりした。
備前三郎国宗という刀工の刀は、執権北条氏によって刀工たちが相模に召されたことにより、得宗の威信材として生み出された。

鶴丸が国宗に「長くこの世にあって、いいことはあったか?」と問いかけているところが一番難しいような気がします。

確かに鶴さんは驚きを欲するというか、そういう意味では長く世にあることに飽いている男士なのかもしれませんが、そういうふわっとした理解じゃなく「長くこの世にある」ことの具体的な意味として何かまた中核的な要素がありそうなんですが、今のところ情報が少ない気がします。

長く世にあることに関してはこの回想でも名前が出た髭切が弟の名前を忘れる理由として提示されていたと思いますが、それ以上はちょっとわからん。

わからない部分はとばしてその先の国宗の台詞を見てみますが……

三郎国宗「泰平の世のほとんどを山の高いところから見下ろしていたでしょ。暗い顔でも明るい顔でも今日という時の長さは変わらない。それなら、恨みつらみも歌にして、泣いて流して、養分としたほうがよほど健全だと思えるようにはなりましたよ」
鶴丸国永「お前さん、随分と変わったな」
(回想其の183『眠れる猫と遠鳴きの鶴』)

鶴丸が国宗を変わったと評しているということは、以前の国宗はこうではなかったということを示唆していますね。

タイトルの「眠れる猫」に関わるのはこの部分かなと思います。

泰平の世を山の高いところから見下ろすということは、国宗と泰平の世に距離があったという要素を示す。
泰平の世を見下ろすうちに「猫」要素を眠りにつかせたからこそ、穏やかな結論を得た。

「猫」、それも「眠り猫」要素に関しては割と最近回想140、142の方の考察で触れましたが、日光東照宮の「眠り猫」の裏側には雀の彫りものがあって、「猫が眠っているからこそ雀が遊んでいられる」=「天下泰平の世」を示すそうですね。

「猫」は鳥を食らう存在であり、平和を脅かすものの象徴でもある。

その猫は今は眠っている。
だからこそ鶴丸に「戦乱の世が恋しいですか」と問いかけた国宗は、自分はそうは思っていないらしい。猫を眠らせ泰平の世を享受し、戦乱の世を否定する。

では鶴丸を意味するだろう「遠鳴きの鶴」とは?

回想140の考察の方でやりましたけど、「鶴」が意味するものはバランサーで、バランスを取るために偏りから距離をとるというスタンスなのではないか? という結論を得ました。

回想140は姫鶴一文字と後家兼光の話ですので上の属性はおもに姫鶴の話ですが、鶴丸も同じ「鶴」ならばバランサーなのではないか? という仮説も立てました。

で、今回の鶴丸はどうか?

「遠鳴き」の鶴ということで、やはり主題からある程度距離を取る存在のような気はします。あくまで遠くで鳴いている鶴。人の近くには、そもそも近寄らない。

ではその遠鳴きの鶴がどういうスタンスかというと、内容自体はどうも戦乱に焦がれているような感じがしますが、一方で元寇が元主の執権北条氏にとっては災難であることも理解している。

一つ前の回想182でソハヤと国宗それぞれのスタンスがある意味その立場からこその矛盾を孕んでいたように、回想183の鶴丸も同じなのではないかなと思います。

鶴丸国永「冗談。でもまあ、まさか海から災厄がやってくるとは思わなかったよな」
三郎国宗「戦乱の世が恋しいですか」
鶴丸国永「ははは。俺たち北条家の刀にとって、災難には違いない」
(中略)
鶴丸国永「共通の敵がいれば、内心はどうあれ手を取り合って、一つの問題に対処できる」
(回想其の183『眠れる猫と遠鳴きの鶴』)

今回引用がぶつ切りですみませんがこれは多分細かくみないと駄目ですね。

ここで取り上げた鶴丸の台詞から何が言いたいのかを読み取ると、結局鶴丸は執権北条氏に振り回された刀でありながらも、権威的に何度も死に損なった執権北条氏を引きとどめたのもまた戦乱であったと考えているので、だから――執権北条氏が続いていくための戦乱の世が恋しかったんでしょうね。死に体の幕府にトドメを刺した元寇ではなくて。

国宗が言うように、二振りが眺めている元寇は鎌倉幕府の弱体化を招き後に滅亡の一因となった戦い。

それまでは争いながらもなんとか続いていた幕府が、外敵の脅威によって崩壊へと向かう。モンゴル軍を追い返しただけの元寇では、幕府は御家人たちに恩賞を出せなかったから……。

やはり回想182のソハヤと同じような心情ではないかと思います。

ソハヤは幕府を続かせるためにもっと霊力が欲しかった。
けれどそれではソハヤ自身が家康の築き上げた天下泰平の世を目にすることは叶わない。

鶴丸は北条得宗家のせいで墓に入れられたり出されたり何度も振り回された。
けれどいざ元主の滅亡の要因を目にしたとき、戦乱の世こそ共通の敵を作ることで手を取り合って問題に対処できる、幕府存続の鍵だったことに思いを馳せずにはいられない、と。

鶴丸のスタンスはやはり回想140の姫鶴と似ているように思います。

人に振り回されたくないと、元主から距離を取りたいと、バランスを意識した行動を取る。
けれどそれでも、「鶴」は本当の意味で人を見捨てることはできない。

一方その対極に来る三郎国宗は回想182でも183でも表向きのスタンスはソハヤ、鶴丸とは反対ですね。

鶴丸やソハヤは細かい違いはともかく大筋では幕府の存続を願っている存在。
国宗は幕府の滅びを受け入れ、その代わりに「歌」を選んだ。
一見運命に納得しているように見えるけれど、「歌」が「人の心を動かす」とされている以上、「歌」の道を選んだ国宗は国宗で、人の心を動かすことによって得られる何かを欲しているのでしょうね。

そして忘れちゃいけないのは、その結論が最終的に権威の話と合流するところですよね。

ソハヤと鶴丸のスタンスは似ているようで、けれどこれが別々の回想である理由は、ソハヤの動機は人を救いたい、幕府を守りたいという方向だけれど、鶴丸の見解は権威への執着を示すというところでしょうか。

別に鶴丸自身は権威に執着したいどころか、北条得宗家には振り回されたと感じている。
それでも鎌倉幕府滅亡の一因である元寇を眺めると何がしかを感じずにはいられない。
遠鳴きなのでそうした執着から鶴丸自身はある程度距離をとっているものの、その権威への熱情自体は理解してしまっている感じですかね。
これはたぶん男士自身にもどうしようもない矛盾する性質でしょう。

そうした権威への執着と本質的に同質であるものを、眠り猫である国宗は否定する。

長くあることによる変化を受け入れ、権威を手放し、争いの源たる猫を眠らせ、その代わりに人の心を動かす光たる歌力を欲する。

……8月の対百鬼夜行2で剥落という要素を持つ童子切が実装されて第二節もいよいよ中盤まで来たのではないか? と思うのですが、それ以後に増えた刀の性質はこういうものなのかもしれない。

倶利伽羅江も自分は謀反人の刀だからと一歩引いたスタンスのようでしたが、倶利伽羅江と三郎国宗の共通点は、こうした一つの諦めなのかも。

元主が謀反人であることも。
自分と関わりが深い幕府が二つも滅びたことも。

受け入れてここに在る。
その代わり今度は人の心を動かすもの――「歌」を欲する。

共通性がなんとなく見えると今後実装される男士たちの性質も楽しみになってきましたね。

メタファー考察的にはこの1か月の極四振りと新刀剣男士実装によってまたメディアミックスと相関する情報が増えたな……と思いますが、キリがないので今回はこの辺にしましょう。

回想183では最後に、権威面しても滑稽ではない刀の例で鬼丸、髭切、菊御作の名が出ました。
鬼丸さん極の内容は北条得宗家の心の錆と鬼の話、それに権力の話でもあったので……あー、この回想183の内容を踏まえて一度鬼丸極の修行手紙の内容を解釈しないと駄目な気がしてきました。

三郎国宗は「歌」を選んだ。「歌」はこれまでに何度か「人の心を動かす」ものとして言及されている。
けれど、「鬼」もまた人の心から生まれるものだと修行から帰還した鬼丸国綱は言う。

今回は内容的にもこれまでの考察の積み重ね的にも最初からある程度それぞれのスタンスを読み取れたような気がしますが、実際にはまだまだ内容不明のメタファーがあちこちに鏤められています。

また次の極、次の実装男士の情報を待って、少しつずつそれぞれの物語の読み解きを進めていくことにしましょう。

追記(11月27日)

昨日は回想183だけ冒頭のやりとりと終盤のやりとりが同じ、そして全部同一テーマという観点で整理をしたんですけど。

回想181、182も、というか全部その観点でやり直すべきなのかもしれないと。

とりあえずこの記事では回想181と182のその部分まで整理してしまいます。

冒頭と終盤が同じ意味ということは、回想181の場合は「山を降りる(国を守護する)」と「銭を稼ぎ埋める」が同じということですよね。

山を降りるだけだとなんのこっちゃですが、祢々さんの終盤の台詞を考えると山を降りることこそ国を守ることのようです。

ふむ。「山」「国」「銭」。
……昨日の時点でも書きましたが、この要素ミュージカルの山姥切国広ですよね。
山であり国であり、そして何故か日銭稼ぎをしている。
その理由やっぱりこれなんでは?

そしてこの日銭稼ぎは間に挟まれた温泉(身も心も温める)と歌(人の身で得た新たな得物)の話と、本質的には同一のはず。

回想182の方も見てみましょう。
こちらの話の始まりは、そもそも縁日の話でした。
そして回想28を前提とした回想182のメインの一つは、ソハヤのもっと霊力があれば幕府が続いたのではないかという想いだと思われます。

これも要するに「国を守る」と同じことだと思うんですよね。
ソハヤの国を守りたいという想い、国宗の歌で人の心を動かす、あるいは回想183の方で言っているように恨みつらみも歌にして泣いて流し養分とするという願い。
これと表裏の関係にあるのが、縁日……つまり、祭りだと。

祭りと言えば愛染くんですよね。
愛染「国」俊。

……今回の回想どれも国・家の存続という要素がありますが、特に「国を守る」という要素が強いのは最初の二つ、回想181と182ではないかと思います。

しかもそこに関わるメタファーからメディアミックスを含めて辿っていける男士が山姥切国広、堀川国広、愛染国俊。
みんな「国」の字がついている。

ということは、国を守るという要素と対や表裏になっている要素が「銭を稼ぐ」「銭を埋める」というものと、「縁日(祭り)」なのでは?

ミュージカルで山姥切国広が様々なバイトに勤しんで金を稼いでいるのも、活撃で真っ先に堀川くんと使途不明の埋蔵金ネタをやったのも、愛染くんが祭り好きなのもメタファー上計算された構成だと思われます。

ちょっとこれは過去の回想も本格的に全部見直す必要がありそうですね。

多分、回想も一つ一つの話が「円環」になっている論法で成立しているのではないかと思うんですよね。

序盤のあまりに短すぎる回想だけだとそこまで察せられないので序盤はメタファーをぽんと置いているだけのような気がするんですが、メタファーが増えてくることで円環が見えてくる構成なのでは……?

今は仮説の状態ですのでそのうち他の回想も再検討してある程度数を出して判断したほうが良さそうです。