(仮置)本歌・写し関係の再考察

安宅切登場で長谷部くんことへし切の衣装が安宅切の拵(衣装)の完全模倣であり、実は刀派要素がほぼほぼないらしいことが判明しそうな今日この頃。

今までのセオリーからすると結構重要な話で、ただの刀装(ただのってことはないが、あれはあれでむしろ刀本体とは別の美術品なので完全別枠で考えてた)の類似が衣装全体そしておそらく所作にもあれだけ影響を及ぼすとなると、

「本歌・写し関係は」それだけ「似ている(似せなければならない)」

という結論(まだ安宅切実装前なので仮)が得られる。

刀本体はへし切の方が早く作られているし、同所蔵だからって別に似る理由はない。そんなこと言ったら土方組とか沖田組の新選組刀とか山ほどある豊臣刀とか徳川刀が大変なことになるわい、と。

しかしそういう同所蔵以外には刀派も制作年代も現在の価値も何もかも特に接点のない刀二振り、安宅切とへし切長谷部、その二振りが似ていると感じるならば、それはもう100%全て、「拵の本歌・写し関係」に起因するとしか考えられない。

しかし外装である拵の影響力が強いとするならば、他のものの本歌・写し関係は?

本体の本歌・写し関係。
そして、号の本歌・写し関係。

この二つを持ち合わせると考えられるのが、すでに本歌と写しが両方実装されている山姥切長義・山姥切国広の関係である。

今回安宅切とへし切が拵の本歌・写し関係だけであれだけ同じ衣装と似た雰囲気の所作であることが判明したので、逆説的に本歌・写し関係は似ているというよりも、それだけ「似せなければいけない」のだと感じる。

これに近いことを言っていたのが、「花影ゆれる研水」の長義くんである。

小竜くんとの手合わせで国広と「太刀筋」が似ているとの指摘に対して

「好きで似せているわけじゃない」

と、こう返している(はず)。

花影のここの部分からすると、長義くんはどうやら意図的に太刀筋を国広に「似せている」らしいことがわかる。なんで本歌が写しの太刀筋に似せる必要があるのか。

刀剣本体の本歌・写し関係に関してはどうやら「顔」が似ているものであるらしいことは判明している。

もともと山姥切国広は襤褸布を纏った姿ではあったが、あれは全身ではなくどうやら明確に「顔」を隠したいのだと判明したのが南泉との回想54。
つまり、刀剣本体に本歌・写し関係がある場合、写しの「顔」は本歌に似たものになる。

一方で山姥切国広と山姥切長義には、もう一つ、号の本歌・写し関係と言うものが存在する。

これは「山姥切長義」と言う名を生み出したと言える佐藤寒山氏の説明によれば「本科が山姥切だからその号も写した」という関係になっているが、実際のところはむしろ写しである国広の号が山姥切だったので本歌もそう呼ばれるようになった可能性の方が高い。

むしろ山姥切伝承という観点で言えば、本歌である長義の方が国広の号を「写した」と言える関係であって、佐藤寒山氏の説明とは逆転するのではないか?

しかし、その「号の本歌・写し関係」に関しては研究史の整理からそういう状況を見いだせはしても、実際にとうらぶ作中で明確に言及されたことがあるかと言えばなんとも言えない微妙な感じではあった。

この研究史に関してはそもそも山姥切国広が極修行手紙の中で説明している。
一方で、国広極後に実装された山姥切長義と山姥切国広の回想は、事実誤認と言われる佐藤寒山氏の説明「本科が山姥切だからその号も写した」の方をなぞっている。

更にややこしいことに、今年迎えた山姥切長義の極修行手紙からすると、長義はむしろ最初からそれを知っていた可能性の方が高い(長義極に関しては情報量極少で推察も多く含むので断定しにくいが)。

知っていて、けれど本丸実装時点では事実ではなく誤認の方に合わせた説明をしているのある。なんで?

これは花影の台詞と、今回の安宅切・へし切の拵本歌・写し関係と同じ理由なのではないか。

「好きで似せているわけじゃない」

本歌と写しはどうあっても似ているというより、その関係を含む時点で「似せなければならない」のだろう。

だから本体が写しであり顔という変えようがない箇所が似ている国広は顔を隠すしかなかったし、長義はどうやら「太刀筋」を国広に似せているらしい。

つまり、伝承の力はそのまま刀剣男士の「太刀筋」、戦い方そのものに現れると考えられる。

そして同所蔵で拵の本歌・写し関係くらいしか接点がないはずの安宅切とへし切は、それだけであれだけ格好や所作が似る。

 

ここまで判明するとなかなかうわっちゃーとなると思います。

ああ、長義くんの国広への苛立ちの理由の全景がこれでようやく掴めて来たな。

伝承の本歌・写し関係は、太刀筋――刀剣男士の戦い方そのものに密接に関係する。

修行手紙にしろメディアミックスの言動にしろ、どちらかと言わずとも現実主義というか実存主義? 的な山姥切長義だが、彼が欲する刀としての本質を示すのに必要な「太刀筋」、戦い方は彼が写す国広の「山姥切伝承」部分に強く左右されてしまう。

伝承が写しの国広の写しだから、長義は本歌なのに写しの太刀筋に「似せなければならない」。

と、考えると最初に「特命調査 聚楽第」で国広の戦いを見ているだけで何故か苛立っているような様子なのも。

メディアミックスの数々の言動、特に花丸の国広が慎重派なのに対してまだるっこしいと言う様子だったのも。

この関係故だと考えると今までより納得できるのではないか。

刀剣男士なのだから太刀筋、戦い方は刀としての強さに直接的に影響する。
でも刀剣男士に関してはその部分はまとう伝承と密接に結びついていて、特に「山姥切伝承」を国広から写している長義は、本歌なのにその号にまつわる関係性故に、その刀の本質に近い太刀筋を国広に似せなければならない。

だから国広が戦い方まで卑屈だったり臆病だったりすると、長義もそちらに寄せなければならないということになる。そりゃキレるわ(深い納得)。

なまじ国広自身に実力があって本来なら本歌である自分と同等クラス(伯仲)の実力を発揮できるとわかっているからこそ、尚更腹立たしいでしょうね。
ただ戦っているのを見ているだけの聚楽第はもちろん、花丸は尚更。

これでようやく長義くん関連の考察、最後の1ピースが埋まった気はします。

花影の台詞からやはり本歌・写し関係は「似せなければならない」事情がありそうな感じでしたが、安宅切・へし切の拵のみの本歌・写し関係という対比要素が出されたことではっきりした。

そしてそれを知っていても、外に物語を語る時は表向きの説明(事実誤認の方の逸話)に則った話をしなければならないし、結局のところそれがあったとしても、「本歌なのに諸事情によって写しの方に戦い方を寄せなければならない」というのは正直腹立たしいのでしょうね。伝承がややこしいことになっていようと、刀そのものの本歌・写し関係を軽んじられては困る。

国広はもともと長義に似ているのだから、似ていることを誇って長義に限りなく近くなる方向に研鑽してくれる方が長義の立場からすれば楽だし、話の方向性的にもまあ正しいと言えば正しいですよね。

でも、国広の立場からすると写しだから写しだからと号の方までコピー扱いにされているような状況では一度全てを振り切って本歌・写し関係ではない部分から自己を見つめなければいけないというのも尤もな話ではある……。

 

えー、というわけで何故か安宅切・へし切の「拵の本歌・写し関係」が明確になったことで山姥切の本歌と写しの関係に関する考察が進みました。

ついでに私の中で長谷部くんの呼び方がへし切に変わりそうですがまあいいか(よくないです主)。

実際に実装された回想によって結論がまた変わる可能性はありますが、要所要所のポイントはこれまでもあちら(メディミとか)こちら(原作ゲームとか)で出ていた話なので、プラスアルファはあっても基本は動かないかなと。

祐定の安宅切と長谷部のへし切じゃ拵を重視しなければ所蔵元ぐらいしか本気で共通点ないですしね。

そして真田組みたいな例外はともかく、これまでも伝来先や現所蔵元である美術館が共通する関係はいくらでもあったのに、それだけでここまで似ているということはまずほとんど考えられない。
比較的似ている関係でも同じ上杉の一文字同士である山鳥毛と姫鶴とか、同じく上杉の長船派同士である小豆長光と謙信景光のひらがな喋りとか、少なくとも刀派まで近くないとそこまでは似ない。徳美組なんかがいい例だと思います。

安宅切(室町時代)とへし切(南北朝時代)の関係も、拵の本歌・写し関係が優先されているならへし切側が安宅切に似せているということになります。
そうなるとますます制作年代の後先と似せなければいけない関係の後先が逆転していることになります。

安宅切側が長谷部側に似ている可能性は? というと、やはり「似せる理由がない」に尽きるのではないでしょうかね。

何度も繰り返しますが、「同所蔵というだけではそこまで似ない」が一番の真理だと思うんですよ。
それができるなら我々は刀剣男士を見ただけで所蔵元同士でくくれるほど判別がつくことになりますが、おそらく無理です。

むしろこれまで山姥切たちに感じていた疑問を払拭する方向、やはり何らかの形で「本歌・写し関係」があると写しは「本歌に似ている(似せなければならない)」を補強する形になるのではないかと。

思えばごっちんの「いっちぃ……。元の主が「生き残れば勝ち」って戦いばかり、してきたもので……へっ、ボロボロだ」とかも刀剣男士の「戦い方」が纏う物語に依ることを示していますよね。
私がぱっと思い浮かんだのがこれだけで探せばもっとあるでしょうね。人間無骨が鬼武蔵を強調するのとかもそうですかね?

自分という実存よりも、客観的に見てこうなっているという伝承優位の刀剣男士の存在にとっては、「本歌・写し関係」だからこその相似はそれだけ強く影響を与える脅威なもの、例えそれが刀剣本体ですらなくとも、と。

さて、あとは本当に安宅切が来てから考えますか。
冬の連隊戦は大変なので何週間かかかりますけども……。