前回の「煩悩即菩提、「山姥(謡曲)」と山姥切考」の続きです
以前の続きからです
『謡曲大観 苐五巻』(データ送信)
著者:佐成謙太郎 著 発行年:1931年(昭和6) 出版者:明治書院
目次:紅葉狩 ページ数:3079~3092 コマ数:142~149
目次:山姥 ページ数:3165~3184 コマ数:186~196
『謡曲選 : 附・狂言選』
著者:高野辰之 編 発行年:1921年(大正10) 出版者:光風館書店
目次:一八 山姥
ページ数:157~167 コマ数:97~102
『謡曲解説 第1編』
著者:川島金五郎 編 発行年:1913年(大正2) 出版者:謡曲解説発行所
目次:紅葉狩
ページ数:137~158 コマ数:84~95
この前の「煩悩即菩提、「山姥(謡曲)」と山姥切考」の蛇足的続きです。
一言でいうと長義くん極予想・謡曲オマージュ編。
何ならその先、「極の先」も予想しようぜ! という来年どころか何年後になるかもわからないことを予想する、鬼が爆笑するレベルで気の早い駄文です。
なに、そんなもん極が来てから考察しろ?
それはそれでもちろんやるに決まってる(真顔)。
その時はその時やるべきことを、今は今できることを。
と、言うわけで前回の考察で得られた
回想56、57から始まった「ふたつの山姥切」シリーズは「山姥(謡曲)」と「紅葉狩(謡曲)」の二つの物語を組み合わせて配役を入れ替えながら交互に展開するのではないか?
という前提から予想を組み立ててみます。
原作ゲーム回想の考察と予想
「山姥(謡曲)」その1の考察(回想57・長義と極国広)
すでに実装されている回想57の考察です。
まずこちらがとうらぶの回想その57、「ふたつの山姥切」
長義「やあ、偽物くん」
国広「……写しは、偽物とは違う」
長義「俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?」
国広「……名は、俺たちの物語のひとつでしかない」
長義「……なに?」
国広「俺たちが何によって形作られたのか。それを知ることで強くもなれる。けれど、もっと大切なことがあるのだと思う……」
長義「……なにを偉そうに語ってるんだよ」
国広「お前とこうして向き合うことで、またひとつわかった気がしたんだ……」
長義「俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺だ! お前が御託を並べようと、それは変わらない」
国広「そうかもしれない。……すまんな、俺もまだ考えている。……こうして戦いながら」
国広「……また話をしよう」
長義「…………」
長義「……くそっ……くそっくそっくそっ! なんなんだよ!」
こちらが「山姥(謡曲)」の一場面
“
シテ「今宵のお宿参らすること。とりわき思ふ仔細あり。「山姥の歌の一節謡ひて聞かさせ給へ。年月の望みなり鄙の思出と思ふべし。『そのためにこそ日を暮らし。御宿をも参らせて候へ。いかさまにも謡はせ給ひ候へワキ「これは思ひもよらぬ事を承り候ものかな。さて誰と見申されて。山姥の歌の一節とは御所望候ぞ
シテ「いや何をか包み給ふらん。あれにまします御事はひやくま山姥とて隠れなき遊女にてはましまさずや。まづこの歌の次第とやらんに。『よし足引の山姥が。山めぐりすると作られたり。あら面白や候。「これは曲舞によりての異名。さて真の山姥をば。如何なる者とか知ろし召されて候ぞ
ワキ「山姥とは山に住む鬼女とこそ曲舞にも見えて候へ。
シテ「鬼女とは女の鬼とや。よし鬼なりとも人なりとも。山に住む女ならば。妾が身の上にてはさむらはずや。『年頃色にはいださせ給ふ。言の葉草の露ほども。御心にはかけ給はぬ。「恨み申しに来りけり。『道を極め名を立てて。世情万徳の妙花を開く事。此一曲の故ならずや。然らば妾が身をも弔らひ。舞歌音楽の妙音の。声仏事をもなし給はば。などか妾も輪廻を遁れ。帰性の善所に至らざらんと。恨みを夕山の。鳥獣も鳴きそへて。声を上路の山姥が。霊鬼これまで来りたり。
”
訳文の方も見てみましょう。『謡曲大観 苐五巻』の188、189コマの引用です。
“
女「今夜お宿を致しましたのは、実は特別な理由があるのです。どうぞ山姥の歌を一曲謡ってお聞かせ下さい。永らくの間聞きたいと願つてゐたのです。このやうな田舎での、いつまでも忘れられない楽しい思出となりませう。歌を聞きたいばかりに、日を暮れさせて、お宿をしたのです。どうぞ是非ともお謡ひ下さい」従者「これは意外なことを伺ふものです。一体こちらを誰だと思つて、このやうに山姥の歌を一節謡つてくれと仰しやるのです」
女「いえ、どうしてそのやうにお隠しになるのです。あそこにお出でになる方は、ひゃくま山姥といつて、有名な遊女でいらつしゃるぢやありませんか。まづこの曲舞の次第とやらに、『山姥が山廻りをするのは苦しい、人も善し悪しの差別観に捉はれて、六道を輪廻するのが苦しい』と、作られてゐます。ほんとに面白いことです。遊女の方にはこの曲舞から山姥といふ異名がついたのですが、一体ほんとの山姥といふものは、どういふものかご存じですか」
従者「山姥といふのは、山に住む鬼女だと、曲舞にも謡はれてゐます」
女「鬼女といえば、女の鬼のことですね。まあ鬼であらうと人であらうと、とにかく山に住む女が山姥ならば、私がその山姥ぢやありませんか。永い年月、美しい歌にはお謡ひになりながら、その本人の私のことを、少しもお心におかけ下さらないのを、お恨み申しに参つたのです。芸道の奥義を極めて名誉を博し、世間で大した評判をお取りになつたのも、この曲舞のお蔭ぢやありませんか。それならば、私の回向をもして、美しい舞歌音楽を奏して、音楽供養をして下されば、妾も苦しい迷ひの世界を離れ、本性に立ち帰つた極楽世界へ行くことが出来ようものをと、お恨み申すために、この夕暮、山の鳥獣も声をあげて鳴く時に、この上路の山の山姥の霊魂がここへやつて来たのです」
”
じっくり比べてみるとわかりますが、とうらぶの回想56、そして57は、この「山姥(謡曲)」の流れを「なぞっていない」。
むしろ、長義・国広の言い分は「山姥(謡曲)」の「逆」を行くものになっています。
これが一つのポイントです。
結果としては「山姥(謡曲)」と違う話になっていますが、骨子となる論理構造は同じ物語、という見方が出来ます。
そして「山姥(謡曲)」の逆だね、だけだと話はここで終わりですが、国広の言い分「……名は、俺たちの物語のひとつでしかない」まで考えると、派生作品の複数で山姥切の本歌と写しに絡む要素からもう一つの物語が見えてくるような気がします。
「紅葉狩(謡曲)」
長義も国広も直接的に「紅葉」とは何の関係もない刀である。
しかし、とうらぶは事あるごとにこの二振りに関して「紅葉」や「秋」の「葉」に繋がるキーワードを差しはさんできます。
(「離れ灯籠、道すがら」の歌詞や慈伝のタイトル「日日の葉よ散るらむ」など)
最初は派生での描き方だけかと思いましたが、回想57のモデルが「山姥(謡曲)」なら、むしろ「ふたつの山姥切」の回想の続きがもともと「紅葉狩(謡曲)」要素を持っている……つまり、原作要素を派生が先出ししていると考えたほうが自然な気がします。
おそらく次の極長義と極国広の回想の内容が「紅葉狩(謡曲)」オマージュ(「紅葉狩(謡曲)」を骨子としながらその展開をなぞらない」)なのだと考えられます。
「山姥(謡曲)」と「紅葉狩(謡曲)」の考察は前回やりましたので、今回はそれを前提に内容に迫りたいと思います。
回想56、57において、最初に話しかけた長義の配役が「山姥」だとしたら、相手の国広は「百ま山姥」になるはずです。
しかし、国広は「山姥(謡曲)」の「百ま山姥」と違い、長義の問いに望む答を返さない、つまり「応えない」という結果になっています。
それ故に回想56、57はどちらも方向性は違えど本来の長義の思惑からは逸れた流れ、「山姥(謡曲)」の物語の「否定」になっています。だから最後が長義側の疑問と罵倒で終わるのだと考えられます。
「山姥(謡曲)」本来では、「百ま山姥」は鬼女たる「山姥」を恐れながら、断ったらそれこそ悪いことが降りかかるかもしれないと、要請に応えて曲舞を始めようとします。そこで「山姥」が日の暮れるのを待って月の夜に謡ってくれ、そうすれば私も真の姿を現して、あなたの真似をして舞おう、と約束して一度姿を消す流れになっています。
この流れをなぞらず、ただし後半から「紅葉狩(謡曲)」の方に繋がると考えると、国広が名の問題を濁した理由にも見当がついてきます。
「紅葉狩(謡曲)」は、名前を名乗らない美女(鬼女)が、平維茂を酒宴に誘うところから始まります。
回想57は国広がここで名の問題を濁したことで、次の「紅葉狩(謡曲)」への転換を示しているのだと考えられます。
回想57は、
「山姥(謡曲)」から「山姥」(長義)、「百ま山姥」(国広)
この配役を長義がなぞり、国広が否定するところから始まりました。
「紅葉狩(謡曲)」その1の予想(極国広と極長義)
以前、長義くんの極予想を出してみたのでそれをもとに考えます。
ざっくり言うと、長義くんは基本国広の対で「真逆」なのがポイントだと思います。
研究史の事実誤認の発覚について大体は長義くんが自分を山姥切でなかったと知って落ち込む、という風に予想されてる方が多いんですが、私は異論を唱えます。
山姥切長義は、そもそも山姥切国広と同じようには考えない。
むしろ、国広と常に「逆」のことを考える。
だから、
長義は修行先で「国広の逸話の再発見を知って、喜ぶ(俺たちはどちらも山姥切だと結論する)」と、予想します。
さらに、次の回想の内容として、そういう状況になった経緯がそもそも事実誤認を生んだ根本の理由、写しの号の由来を考えるときに本来の逸話に関係のなかった本歌との関係性を混ぜ込んでしまったからだということを理解して、国広と距離をとる選択をする、ということを予想します。
国広の極修行の内容とその変化が、
・自分が本物だと喜ぶよりも、本歌の存在感を食ってしまったと落ち込む
・自分たちどちらにも逸話があるんだとしながら、どちらも山姥を斬ったりしていないのかもしれないと逸話に対して否定的になる
・「名は物語の一つに過ぎない」と号の問題に関して否定的になる
・長義に対して「また話をしよう」と積極的になる
なので長義極の予想はこれを反転させてこんな感じと予想します。
・国広が本物ではないと嘆くよりも、その号が本物であったことを祝福する
・両方に逸話があるなら自分たちどちらも山姥切だと、名に関して積極的に肯定する
・しかし、名の問題を生んだのは本歌・写し関係が原因だと、本歌・写し関係の方に対して否定的になる(距離を取ろうとする)
・国広に対して距離を置こうとして、対話を拒否する
ここまで研究史と国広の変遷を基準に出した予想だったんですが、さらに「ふたつの山姥切」シリーズが「山姥(謡曲)」と「紅葉狩(謡曲)」オマージュだった場合、次はこうなると思います。
長義極と国広極で、
「鬼女(紅葉)」(国広)が話しかけ、「維茂」(長義)がそれを拒否。
今回は「また話をしよう」と回想57で持ち掛けた国広側から長義に話しかけて、その対話を長義が拒否、つまり「維茂」の役割を拒否する内容、「紅葉狩(謡曲)」を「なぞらない」展開になると思われます。
原作回想の予想ですが、補完要素として派生作品の一つである舞台の長義の描写が重要になります。
「酒は呑まない」
舞台長義の慈伝でのスタンスであり、さらに綺伝においても「酒は呑めない」として飲酒を拒否します。
舞台を見ていない方に一応説明しておくと、慈伝で「酒は呑まない」と言ったことを「弱みをみせたくないからだ」とさんざん突っ込まれたために綺伝ではちょっと言い方が変化して(正直に)「呑めない」という言い方になったと思うんですがそれはどっちでもよくて。
そもそも原作ゲームにないこの長義くんの下戸? 設定は何なのか。
これが「紅葉狩(謡曲)」をなぞっているのではないか? と考える一番の根拠です。
“されば仏も戒めの道は様々多けれど。殊に飲酒を破りなば。邪淫妄語も諸共に。”
仏の戒律で飲酒が禁止されている。
しかしまぁ、「紅葉狩(謡曲)」の「維茂」は「呑む」んです。
“げにや虎渓を出でし古も。志をば捨てがたき。人の情けの盃の。深き契りのためしとかや”
昔の禅師が友人の親切を無下にしないために禁足を破ったことを例に出してなんだかんだで鬼女の酒宴に乗ってしまうのです。
つまり、舞台の長義くんがかたくなに酒を呑まずにいるのは、これももしかしたら原作要素の先出し、「極長義要素の先出しなのではないか?」と推測します。
もともと舞台は国広側がまだ極めていないにもかかわらず、原作ゲームの極国広に近いことを言い出します。
「写しがどうとか考えるのはもうやめようと思った 俺は主の刀だ それだけで十分だったんだ」
国広側が極める前から極に近い台詞を口にしているということは、長義側も話のスタートからそうであっておかしくないと考えていいと思います。それがこの「酒は呑まない」なのかもしれない。
(つまり次の回想は極国広が極長義を酒に誘うところから始まる……?)
回想57が「山姥(謡曲)」のオマージュであるなら、国広側が配役を否定
長義(山姥)、極国広(百ま山姥)
その結果、国広は「名」についてはっきり答えないという要素から「紅葉狩(謡曲)」の「鬼女(紅葉)」に配役変化
次の回想はおそらく
極国広(鬼女)、極長義(維茂)
で、極国広が「百ま山姥」をなぞることを拒否したように、長義も「維茂」役を拒否すると考えられます。
「山姥(謡曲)」その2の予想(極2(仮)国広と極長義)
国広極側が「山姥(謡曲)」の「百ま山姥」を拒否して「紅葉狩(謡曲)」の「鬼女(紅葉)」へと移行したように、長義側も「山姥(謡曲)」の「山姥」として拒絶された結果、「紅葉狩(謡曲)」「維茂」へと移行したなら、配役拒否による物語の破綻の繋がりが次の立場への移行を導くと考えられます。
それと、ここまでの構造は前回の考察でも触れた気がしますが、原作ゲームの合戦場の構造、8面だったら8-1・8-3が井伊家関係、8-2・8-4が真田家関係の組み合わせになっているような構造に沿った形で展開すると考えられます。
二つの物語の組み合わせ、その配役を次々に立場を交替しながら演じていく展開。
この構造はおそらく、舞台のシナリオも同じ構造だと考えられます。これも以前の考察で出してます。
ついでに付け加えるなら、原作ゲームの展開として「認識の構築、研究史の統合」という方面からもこの構造は一致すると考えております。
と、いうわけで「山姥(謡曲)」と「紅葉狩(謡曲)」を論理モデルとして「極の先」、ここでは仮に「極2」と超適当な仮名をつけておきますが、その辺りもちょっと考えたいと思います。
合戦場構造に倣うなら、次の話は最初と同じく「山姥(謡曲)」に戻り、そして
極2国広(山姥)の恨み言から始まり、今度は極長義(百ま山姥)が応える。
この内容になると思います。この時点で「山姥」と「百ま山姥」の配役は最初と逆になると思います。
そして、相手側の結論も逆になって長義がその要請を拒否せず「応える」と考えられます。
この内容を導くのが、国広の極2だと思います。
極で自分の逸話なんてどうでもよかったんだと否定的な見方をしてきた国広が、今度こそ自分こそが「山姥切」の物語のオリジナルだと自覚し、長義に山姥的恨み言(私のために謡ってくれ、私を救ってくれ)を言う番ではないかと。
正直この辺りまで行くともうほぼ予想つかないんですが、「原作ゲームの合戦場構造」と「慈伝の構成逆転から予想する次のターニングポイント展開」から導き出しています。
予想の上に予想を立ててるから足元ガタガタだぜ! なんて暇人向けの考察だ!
研究史の認識は最初は一つ一つの物語を見るために一度要素を引き離して個別に見ますが、最後にはその全てを統合して一つの歴史として捉えなおさなければなりません。
極2ではこの「統合」が始まると思います。
だから国広は自分のもう一つの逸話を拾ってきて本来の立場「山姥」(逸話の本歌)になる。
そして今度は、その名の縁で結ばれた「百ま山姥」(逸話の写し)である長義は拒否しない。
山姥のために月夜に舞う。
ただ舞台の義輝の台詞とか鑑みるにとうらぶで言う「舞」=「戦い」だよね、と。
大まかにこういう流れを予想します。
「紅葉狩(謡曲)」その2の予想(極2(仮)長義と極2(仮)国広)
で、国広極2まで予想したならもう最後まで行っちゃいましょう。長義極2も上の流れから予想します。
ふたつの山姥切、第4弾目は再び「紅葉狩(謡曲)」。
国広側が「百ま山姥」→「鬼女(紅葉)」への移行だったように、長義側も「百ま山姥」を辿ることによって、次は「鬼女(紅葉)」の位置に行くと思います。
長義(鬼女)は縁への執着を口にし、国広(維茂)はその想いに応える。
「紅葉狩(謡曲)」の鬼女は最終的に維茂に退治される役なんですけどどうなるんでしょうねこれ。
お互いに自分の中の「鬼」の存在に気づく感じになるのではないかと思います。
自分の心の中の鬼は、自分自身で斬らねばならない。
それで本当に物語として完成できる、「名もなき鬼女」が「紅葉」になれるのだと。
とりあえず、前半二つ(極)は物語の否定と役柄の分離のターン、後半二つ(極2)で物語の肯定と立場の習合のターンという四部構成までは展開するとみたいと思います。
この先を更に考えるなら次の5部で「山姥(謡曲)」が最初のターンに戻って再び
長義(山姥)、国広(百ま山姥)
更に6部まであるなら「紅葉狩(謡曲)」も最初の配役
国広(紅葉)、長義(維茂)
に一周しますので、ある意味本人だけじゃなく相手の救いまで考えるなら6部まで行くと一番最初に相手が何を考えていたのか本当の意味で理解できることになります。
6部までやるかどうかは微妙。
原作ゲームの合戦場の構造は一面四戦場だけど、シナリオとしては特命調査5つ+対大侵寇防人作戦のイベント6部構成が基本のシナリオじゃないかなと思います。
つまり4部でも6部でもどっちの構成でもおかしくないなと。
全体としては6部でも長義・国広の物語としては4弾で終わりかもしれないし。
舞台の話
というわけで、とりあえず謡曲二種との関連からだいぶ先まで原作ゲームの「ふたつの山姥切」に関する展開を予想してみました。
まずは長義極がどうなるかだよな。ここで大ハズレになる可能性はもちろんめっちゃあるぜ!
まぁ考察の恥はかき捨てということでさらに国広が中心キャラである舞台にもちょっと触れてみましょう。
上ですでに書きましたが、、長義くんの「酒は呑まない」は原作要素の先出しではないかと思います。
ところで10月に山姥切国広の単独行があるわけですが、そもそも舞台本丸の国広は上記のように極める前から極みたいなことを口にしています。
じゃあ舞台国広が修行で「極の先」へ行くというのは?
……これ多分方向性としては極2(仮称)じゃないの?
原作ゲームと舞台は多分構造が同じだけど表象、展開そのものは大分違うのでまるまる同じかというとちょっと疑問ですが。
原作ゲームの国広が修行で自分の研究史を見に行くことで得た結論を、舞台国広は「本丸の物語」で得ている構造だと思われます。
そしてそれが結局いいこととは限らない、というのが舞台の展開だと思います。
と言っても最終的に自分たちのゴールへたどり着けばいいという意味ではどの本丸も同じでしょうが。
この辺は慈伝考察でやったので置いといて。
原作ゲームの長義と国広の回想シリーズがもしも本当に「山姥(謡曲)」と「紅葉狩(謡曲)」をなぞるとしたら、その構造は舞台の基本ラインと同じではないかと思います。
そしてそうなると、舞台は三日月の物語と国広の物語の組み合わせですので、最初に「山姥(謡曲)」を演じるのは三日月と、三日月にとって最も大事な人物の一人、足利義輝ということになります。
前回の考察でも長義・国広というか舞台の義輝・三日月に「山姥(謡曲)」味を感じると書きましたがこの辺が理由かなと。
一方の山姥切の本歌と写しは直接「紅葉狩(謡曲)」、つまり国広は「百ま山姥」を長義は「維茂」を、お互いが相手に望んでいる役割を思いっきり拒否している状態に近いところから始めているのではないか。
これを考えると他の派生に比べて舞台の二振りが一番愛憎が激しい関係なのにも納得が行きます。
とうらぶに関してはどの派生も、というか原作からすべて同じ構造を表象を変えることで違う物語に見せかける構造ではないかと考えられます。
仏教的解釈でいう「空(シューニャ)」を具象化した構造。
ラノベ・セカイ系辺りの話題が好きな人に通じやすそうな言い方をすると「アカシックレコード」。
自分たちの生み出す作品で同一論理構造の複数展開をメタファーという仮面の一致から読み解ける疑似アカシックレコードとして紡ぎあげるとか、ニトロのやってることは頭おかしい(誉め言葉)。
「山姥(謡曲)」と「紅葉狩(謡曲)」のセット構成は「刀剣乱舞」における山姥切国広と山姥切長義の物語であると同時に、これ自体が「刀剣乱舞」のテーマをシンプルに凝縮したものだと考えられます。
舞台の三日月と義輝の組み合わせが「山姥(謡曲)」っぽいのは、本当に全部これが基軸なのか、それとも「紅葉狩(謡曲)」がとうらぶ原作における長義側の物語だけど、舞台では長義と三日月が立ち位置をスイッチする関係で組んでいる前提から考えて、そもそもの三日月の物語モデルが長義側と似通っているからそう感じるだけなのか。
どちらでもおかしくない上に結局回答は謡曲という仮面の下の「論理構造モデルが共通」ということになるので同じことではないかと思います。
つまり舞台国広が極めて帰ってきた本丸で「山姥(国広)」まで物語が一周した時に「百ま山姥」を演じるのは三日月? それとも逆か?
あ~~書いてて気づいたけどもしかして三日月・義輝ラインは普通にあるとして悲伝ラストで三日月と国広が戦っていたようにあれを基準にもう一つ三日月・国広ラインを出す……? そうか。そっちっぽいな……。
そもそも舞台の第1部は三日月と国広で「山姥(謡曲)」か。
「俺を見送る不如帰は、山姥切、おぬしのようだ」
だもんな……。
あと舞台は潜在的に「三日月と国広に敵対関係がある」ようなんだよね。
无伝で黒田官兵衛が出てきて、綺伝で「朧なる山姥切国広」が出てきたということは両者は繋がっている。
ってことは三日月に元主の高台院を斬らせる羽目になった敵である奴らと「山姥切国広の影」が繋がってるんですが……。
三日月を苦しめる奴らの一味に国広の一部分が協力しちゃってるじゃーん。
しかし、あの「朧なる山姥切国広」の目的は三日月を救うことである。
その一方で、この先の展開によっては国広側に最悪の絶望をもたらすのも三日月の選択、「近侍としての山姥切国広を育てる」ことが原因になりかねない。
第2部ラストで一度全て破綻して、三日月側の思惑(国広に本丸の近侍としての物語を与える)も、国広側の思惑(三日月を救いたい)も両方否定されて仕切り直しになると思います。
これって要は上の山姥オマージュ2のあたりだよな、と。
一度両方が相手のためを思ってやったことが報われずに終わり、最初と逆の立ち位置から改めて己自身の「統合」を目指すターンが始まる、と。
潜在的敵対関係に見える要素が、反転して本当の意味でお互いを救うために自らの姿を以て、相手に自分の本当の姿を教える鏡となる。
煩悩即菩提。
そして、生死即涅槃。
まぁ上でも断りましたがこの考察は予想の上に予想を積み立てるジェンガ状態なので一個破綻すると全部崩壊する暇人の戯言です。
原作ゲームを考えるのに舞台他派生の情報を取り込むのはいいんですが、舞台を中心に考えると構造が一気に複雑化して訳わからなくなるのでこの辺にしたいと思います。
とりあえず舞台も3部から統合のターンだろうなとは思います。
それではこの予想という名の妄想、蛇足的考察はこの辺で。失礼します。