やまんばぎりちょうぎ
- 概要
- 「刀 銘 本作長義 天正十八年 庚寅五月三日ニ 九州日向住国広銘打 長尾新五郎平朝臣顕長所持 天正十四年七月廿一日 小田原参府之時従 屋形様被下置也」
- 1586年(天正14)、小田原北条氏から足利城主・長尾顕長に下賜
- 1590年(天正18)、5月3日に刀工・堀川国広により拝領経緯を銘文として刻まれる
- 1681年(延宝9)、尾張徳川家三代綱誠によって購入される
- その後、尾張徳川家時代の記録
- 明治の発見と評価、「尾州の長義」として有名になる
- 1920年、写しである「山姥切国広」が発見される
- 1938年(昭和13)の鑑定
- 1939年(昭和14)9月6日 重要美術品認定
- 1949年(昭和24)2月18日 国宝(旧国宝)指定
- 1960年、焼失扱いになっていた写し、「山姥切国広」が再発見される
- 以後の事実誤認の発覚と「山姥切」の二振り
- 現在も「徳川美術館」蔵
- 作風
- 調査所感
- 参考文献
- 概説書
概要
「刀 銘 本作長義 天正十八年 庚寅五月三日ニ 九州日向住国広銘打 長尾新五郎平朝臣顕長所持 天正十四年七月廿一日 小田原参府之時従 屋形様被下置也」
南北朝時代の刀工・備前長船長義作。
「山姥切長義」と呼ばれることもあるが、所蔵元の徳川美術館では「本作長義」と略すことが多いため、ここでもその表記に従って「本作長義」の略称を用いることにする。
「本作長義 天正十八年 庚寅五月三日ニ 九州日向住国広銘打 長尾新五郎平朝臣顕長所持 天正十四年七月廿一日 小田原参府之時従 屋形様被下置也」
(銘文の「寅」や「時」の字がPCで通常打てない字なのでできれば参考文献を直接見てもらいたい)
この銘文からもと小田原北条氏の所有で、1586年(天正14)、足利城主・長尾顕長に下賜されたことが判明している。
この銘文は1590年(天正18)、5月3日に刀工・堀川国広により刻まれたが、刀工・堀川国広は同じく1590年に本作長義を写したと目される刀を一振り打っている。
その後、この長義の刀は尾張徳川家に伝来した。
1681年(延宝9)、尾張徳川家三代綱誠によって購入されたことが同家の記録によって明らかにされている。
明治になってから、臨時全国宝物取調鑑査員に任じられ、愛刀家たちの研究組織・刀剣会(中央刀剣会)の発起人の一人でもある今村長賀氏の手による『刀剣講話』『剣話録』などによって斯界に存在を知られるようになる。
大正時代には刀工・堀川国広が1590年に作刀した山姥切国広が発見されるが、その刀は本作長義を写したものとみられ、以後二振りの本歌・写し関係に言及されるようになる。
しかし大正当時、山姥切国広の発見者が急逝した上にその後の関東大震災が重なり、山姥切国広は斯界ではその後しばらく焼失扱いとなった。
戦後の1962年、写しである山姥切国広が再発見されたが、その再発見を知らせた『堀川国広とその弟子』により、山姥切国広の号の由来が“一説に山姥切の号は、元来この長義の刀に付けられた号で、信州戸隠山中で山姥なる化物を退治たためという。その写しであるから山姥切国広と呼びならしたという。”と説明されたことにより、本歌である本作長義が「山姥切」と呼ばれるようになった。
昭和期の刀剣書の記述を整理すると、山姥切国広再発見当時の関係者たちの認識は、大正の山姥切国広発見当時の情報と食い違いがあり、どうやら再発見時に事実誤認があったものと考えられる。
2020年に本作長義の所蔵元である徳川美術館が逸話と来歴に関する論文を発行してその辺りを明らかにした。
1939年(昭和14)9月6日 重要美術品認定。
1949年(昭和24)2月18日 国宝(旧国宝)指定、現在は重要文化財。
指定時の銘文は一部省略されて
「刀 銘本作長義天正十八年庚寅五月三日ニ 九州日向住国広銘打 長尾新五郎平朝臣顕長所持云々」
となっている。
現在も徳川美術館蔵。
1586年(天正14)、小田原北条氏から足利城主・長尾顕長に下賜
刀工・堀川国広による切付銘
「長尾新五郎平朝臣顕長所持」
「天正十四年七月廿一日小田原参府之時従屋形様被下置也」
の部分から明確。
天正14年(1586)7月21日、長尾顕長が小田原に出府した際に拝領した刀である。
『刀剣雑話』
著者: 室津鯨太郎(川口陟) 発行年:1925年(大正14) 出版者:南人社
目次:二、足利学校其他の考察
ページ数:33~38 コマ数:40~43
1590年(天正18)、5月3日に刀工・堀川国広により拝領経緯を銘文として刻まれる
上記と同じく銘文
「本作長義 天正十八年 庚寅五月三日ニ 九州日向住国広銘打」
の部分から明確。
天正18年(1590)5月3日、刀工・堀川国広が銘文を刻んでいる。
同時にこの年、刀工・堀川国広によって写しである「山姥切国広」が作刀される。
1681年(延宝9)、尾張徳川家三代綱誠によって購入される
本作長義は銘文から後北条氏所有、長尾顕長への拝領が明確な刀であるが、文献史料で言えば延宝5年(1677)3月3日の「折紙」が最古となる。
「備前國長義 正真 長サ弐尺参寸六分 表裏樋 磨上中心ニ彫付有之 代金子拾五枚 延寶五年巳 弥生三日 本阿(花押)」
延宝5年時点で大判15枚の代付がなされている。
尾張徳川家購入以前の日付であるため、本阿弥家に代付を依頼したのは元の持ち主ということになるが、その人物が誰かは不明である。
「「刀 銘 本作長義(以下、五十八字略)」と山姥切伝承の再検討」
著者:原史彦 発行年:2020年(令和2) 金鯱叢書 史学美術史論文集 第47輯
昭和の研究書だと「二代光友の差料にするため買い上げた」となっていることが多いが、現在の所蔵元であり1681年の購入時よりこの長義の刀を300年以上所有している徳川美術館が出した論文によれば、購入したのは光友ではなくその息子である三代綱誠である。
上記の原史彦氏の論文によれば、尾張徳川家の重宝管理台帳である蔵帳で、本作長義の名が初めて登場するのは
「泰心院様御部屋住當御代 御腰物元下帳」
だそうである。三代綱誠が「御部屋住」だった時代の刀剣管理台帳であり、綱誠が家督を継ぐ1693年(元禄6)までの綱誠所持刀が記載されている。
それによると綱誠の「御指料之御用」とするため、1681年(延宝9)年6月に本阿弥光務より「臨時御金之内」から「百五十二両一分」で購入したとなっている。
しかし、綱誠は自分の佩刀にする名目で購入したにもかかわらず、後の蔵帳で綱誠が佩刀した形跡が見当たらないという。
つまり本作長義が実際に尾張徳川家で使用されたことはない。
これに関して、原史彦氏はこの購入の背景にはこういう事情があったのではないかと論文で詳細を解説しているので、詳しく知りたい方は直接論文を読むことをお勧めする。
「泰心院様御部屋住當御代 御腰物元下帳」
「中将様御道具 御腰物御脇指帳 元帳」
二種の蔵帳に書かれた金額の表現から細かく背景事情を推測している。
その後、尾張徳川家時代の記録
「「刀 銘 本作長義(以下、五十八字略)」と山姥切伝承の再検討」
著者:原史彦 発行年:2020年(令和2) 金鯱叢書 史学美術史論文集 第47輯
を参考とする。
1693年(元禄3)以後の記録「中将様御道具 御腰物御脇指帳 元帳」
「中将様御道具 御腰物御脇指帳 元帳」
(綱誠が家督を継いだ1693・元禄6年、従三位中将に叙任されて以後も所持していた刀剣の管理台帳)
「拵なし」となっており、綱誠は白鞘状態で本作長義を購入したことが判明している。
なお本作長義には「金無垢二十鎺」が付属している。
尾張徳川家の白鞘が鎺を必要としない特殊な構造であるため、この金無垢の鎺は購入した時点での白鞘に付属していたものと考えられる。
蔵帳にハバキのことが記載される1745年(延享2)成立の「御腰物元帳」が製作される以前までに尾張徳川家仕様の白鞘に作り直されたと思われるが、その現在の白鞘が江戸時代中期の鞘であるか否かは不明。
現在の白鞘には墨書による鞘書として
柄の部分に「第壱部 第二十三號」
鞘中央に「仁一ノ七十九 備前國長義御刀御 磨上無銘長弐尺参寸六分」
鞘の物打ち付近に「延宝五巳年 折紙 代金拾五枚」
と記されている。
1745年(延享2) 「御腰物元帳 坤」にて「れの十」に分類
付属品としてのハバキの記載と銘文全体を記載する形式になった。
この蔵帳における「れ」番号は「御買上御刀之分」という購入品に分類される番号。
1824年(文政7) 「御腰物元帳」六分冊のうち二冊目の「御腰物元帳 義壱 禮壱 弐」にて「禮一ノ六」に分類
「禮」は「御帯御手當之部」として当主の差料として用いられる刀剣に分類されていることを示す。
1872年(明治5) 「御腰物元帳」大名家として最後の蔵帳、六分冊のうち一冊目の「御腰物元帳 仁壱」にて「仁一ノ七十九」に分類
記載内容はひとつ前の蔵帳と大差ないが、分類が「仁」に格上げされた。
明治になって本作長義は朝廷や将軍家拝領刀と並ぶ最も大切な刀剣として門外不出扱いになった。
この明治の蔵帳(六分冊に加え他の道具帳とも合綴されて一冊となっている、全体を統一する表題は「御腰物御小道具帳」)が作られた当時の当主、尾張徳川家16代義宜か、その実父の14代慶勝の判断で本作長義は格上げされたと考えられる。
明治の発見と評価、「尾州の長義」として有名になる
江戸期の本作長義は原史彦氏の論文によると『享保名物帳』の異本と考えられる「刀剣名物記」という写本の「尾張殿御所持名物可成物」という追記に記載があり、全く世間に知られなかったわけではないようであるとされている。
しかし、実際に明治以降の刀剣関係の書籍を見ると今村長賀氏の『刀剣講和』で取り上げられ、これ以後から「尾州の長義は有名」という文言が資料に見えてくるため、ひとまず一般的には明治以降に発見された扱いと考えてよいと思われる。
今村長賀氏は1889年臨時全国宝物取調鑑査員に任じられた人物で、全国の大名家や社寺の名刀をその目にした人物であり、刀剣会(中央刀剣会)という、愛刀家たちの研究組織の発起人の一人でもある。
『刀剣講話 4』
著者:今村長賀 発行年:1898~1903年(明治31~36)
目次:明治三十一年十一月十三日於遊就館 東山道之部 刀工の事に就て 今村長賀君述
ページ数:44 コマ数:48、49
此の国広が足利学校に居ったと云ふ証拠が一つ出ました、それは尾州徳川家の長義の刀であります是れはすり上物にて、中心の表に本作長義天正十八年庚の五月三日九州日向国住国広銘打と致し裏に長尾新五郎平朝臣顕長所持天正十四年七月廿一日小田原参府の時従屋形様被下置也と切付けてあります此の刀は大すり上物で、表裏共に樋があります其樋が中心の先きまでかき通して見事な乱刃の刀で根元ハ余程長剣であつたと見へます今は上げ残り刃の長さ二尺三寸六分ありまして此の作中では小田原大久保の名高き六股長義と並び立つものであります察するに小田原陣は天正十八年でありますから右戦役中に実地に帯びる爲めに其頃滞留中の国広をして良き程にすり上げさしたものと思ひます此長尾氏ハ由良信濃守の弟で長尾家に養子に参り上州館林に住し足利学校近傍を領し、小田原北條の麾下であったと申すことであります
目次:明治三十二年六月四日於遊就館 相州伝備前物及び吉井一流の事に就て 今村長賀君述
ページ数:129 コマ数:133、134
錵の無い匂出来の分が地鉄も宜しく、確かなものがあります。此作は兼光の如く沢山ないもので先づ差當り良いものを見受けましたは先程も申し上げました旧小田原藩主大久保家の六股長義刀、旧尾州徳川家にございます長尾新十郎平顕長所持とある小田原北条より貰つた長義の刀が優れて居るやうにございます
『刀剣講話 6』
著者:今村長賀 発行年:1898~1903年(明治31~36)
目次:明治三十四年三月三日於遊就館 堀川物に就て 今村長賀君述
ページ数:26、27 コマ数:31
又尾州徳川家の御道具に磨上物の長義の良い刀その中心の表に『本作長義天正十八年庚寅五月庚寅三日九州日向国住国広銘打』とあつて裏に『天正十四年七月廿一日小田原参府ノ時従屋形様被下置也長尾新五郎平朝臣顕長所持』と彫附けたる慥かなる参考品があります 尤も此長義のことは、此前備前の部にて詳しく申し上げましたから、唯だ野州足利に寓居仕って居た証だけの所を申上げます
明治の尾張徳川家の什宝整理の様子はこれも原史彦氏の論文が詳しいが、この時に本作長義は刀剣研究の世界において発見されたと言ってよく、その評価は小田原藩の大久保氏の「六股長義」とならぶ傑作というものである。
『刀剣談』
著者:高瀬真卿(高瀬羽皐、羽皐隠史) 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第六門 諸家の名刀 ▲尾州家の長義
ページ数:134、135 コマ数:92
名古屋の友人より足下天下の名刀を記して大久保家の六股長義を称美せしも、吾尾州徳川に天下無二の備前長義ある事を何故に披露せざるやとの注意であつた、吾等も曽て尾州の長義の事を聞た事がある、けれども未だ一見した事がない、某氏この長義を見て天下に長義の刀少なきにあらず、然れども真に長義の傑作と称すべきは尾州の長義と、大久保の六ツ股長義であらふと言はれた事がある。吾等先年桶狭間、長久手の古戦場踏査に赴き、友人に依頼して徳川家の名刀を見るつもりであつたが、先方に差支あって本意を果さなかった、いかにも尾州の長義は有名である。此刀は下野の佐野の一族長尾新六郎秋長と云ふ武士の佩刀であつた、新六郎は有名な佐野天徳寺の弟と云ふ事だが、天徳寺は昌綱の弟で佐野系図には二人しかない、長尾に養なはれて下野、足利に住んだと云ふ説もあるが、長尾系図にもない、どうも此の人のことは分からぬが、正しく其刀に名が切てあれば疑ふに及ばぬ。さて此刀は長尾が小田原北條家より貰た物で、初めは余りに長刀である処から、其頃堀川の国広が武者修行をして下野へ来て居たのを頼んで摺上させ二尺四寸程にしたと云ふ、長義の長の字のみ残たと云ふから元は三尺内外の大刀と見ゆる、国広摺上の由来も忠へ切てある、至極の大出来の刀で、実に目を驚す程のものだと云ふ、これが何として尾州徳川家の物となったか一向に分らない。
1920年、写しである「山姥切国広」が発見される
1920年(大正9)に刀剣研究者の杉原祥造氏が押形を取ったことが1928年(昭和3)の『新刀名作集』により判明する。
しかしこの時の事情は少々複雑で、杉原祥造氏は1924年(大正13)頃には国学院大学の講演で「山姥切国広」の存在に言及していたが、その後、「山姥切国広」の初出となる『新刀名作集』を自らの手で完成させることなく1926年(大正15)に急逝してしまう。
遺された研究の一部は杉原祥造氏の二人の弟子、加島勲氏と内田疎天氏が引き継ぐことになり、『新刀名作集』も弟子二人の名義で無事に出版された。
ここで押形と逸話を直接採集した杉原祥造氏本人の手で発表できなかったことが、後々の「山姥切国広」に関係する斯界の事実誤認を生んだ可能性がある。
「山姥切国広」を発見し、その号の由来も押形に記録した杉原祥造氏自身は、本作長義を「北條家の長義」と認識し、「山姥切国広」をその写しと考えていたことがわかる。
『日本趣味十種 国学院大學叢書第壹篇』(データ送信)
著者:芳賀矢一 編 発行年:1924年(大正13) 出版者:文教書院
目次:八 刀剣の話 杉原祥造
ページ数:371、372 コマ数:206、207(205、206)
(デジコレに同じ本が2冊あるのでコマ数が1コマずれる可能性があります)
国広が漫遊中、小田原北條家の長義の刀を磨上げたことがある。其際同家の被官長尾新五郎顕長の為めに鍛えた一刀がある。其銘に「九州日向国住藤原国広作天正十九年八月日主平顕長」とある。此刀は地刃共に長義と見える。之れは北條家の長義を写したものと思はれる。而して此時より以前の国広の作品には、相州伝が見えない。此時より以後のものに至って、始めて相州伝が加味されているやうである。之れに依って観るに、国広は北条家の長義を磨上げ且つ其の長義を顕長の為めに写したと云ふことに依って、相州伝の鍛法を会得した為め、其作風に一輔機を割したものと思ふ。
『新刀名作集』(データ送信)
著者:内田疎天、加島勲 発行年:1928年(昭和3年) 出版者:大阪刀剣会
目次:堀川國廣
ページ数:31 コマ数:29
此時国広小田原にあり、北條氏の重宝長義を摺上げたる序に、顕長の爲めに此一刀を鍛えしものと見え、地刃ともに長義写とよりは見えざるものなり、
ページ数:44、45 コマ数:36
捕遺
国広は何日頃より相州伝を打ち始めしか、其動機如何は甚だ興味ある問題なるが、故杉原祥造氏は國學院大學に於ける講演中、此点に論及して曰く。
此時より以前(北条家の長義を摺上げ且つ長尾顕長の為めに長義寫しの一刀を鍛えし時を云ふ)の作刀には相州伝見えず、此時より以後のものに至って、始めて相州伝が加味されしものの如し。之れによって観るに、国広は北条家の長義を磨り上げ且つ其長義を顕長の為めに写せしことによって、相州伝の鍛法を会得せしめ為め、其作風に一輔機を割せしものと思ふ、爾来国広は相州伝を得意とせしを以て其の門下の堀川物は、皆相州風を帯ぶるに至れり、
1938年(昭和13)の鑑定
1935年(昭和10)、徳川美術館が開館。
尾張徳川家伝来の什宝・書籍類が財団法人尾張徳川黎明会に寄付され、多くの人々の目に触れるようになる。
1938年(昭和13)、1939年(昭和14)には、本間順治(薫山)・小泉久雄両氏により鑑定を受けたことが徳川美術館台帳に記録されているという。
両氏ともに本作長義派優れた出来であること、刀工・堀川国広による銘文の歴史的貴重性を指摘している。
「「刀 銘 本作長義(以下、五十八字略)」と山姥切伝承の再検討」
著者:原史彦 発行年:2020年(令和2) 金鯱叢書 史学美術史論文集 第47輯
1939年(昭和14)9月6日 重要美術品認定
昭和14年(1939)9月6日、重要美術品認定。
尾張徳川黎明会名義。
「刀 銘本作長義天正十八年庚寅五月三日ニ九州日向住国広銘打云々」
認定時の銘文は一部省略されている。
『官報 1939年09月06日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1939年(昭和14) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第四百九号 刀剣之部
ページ数:148 コマ数:5
1949年(昭和24)2月18日 国宝(旧国宝)指定
昭和24年(1949)2月18日、国宝(旧国宝)指定。
尾張徳川黎明会名義。
「刀 銘本作長義天正十八年庚寅五月三日ニ 九州日向住国広銘打 長尾新五郎平朝臣顕長所持云々」
指定時の銘文は一部略されている。
旧国宝指定された作品は後の定義では重要文化財となる。
『官報 1949年02月18日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1949年(昭和24) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第十六号 刀剣之部
ページ数:141 コマ数:3
1960年、焼失扱いになっていた写し、「山姥切国広」が再発見される
1960年(昭和35)、名古屋の愛刀家・高橋経美氏が本間順治氏のもとに「山姥切国広」を持ち込んだことにより、斯界での再発見となった。
再発見を知らせる書籍は高橋経美氏から「山姥切国広」を買い取った伊勢寅彦氏協力のもと、『堀川国広とその弟子』として出版された。
この時に、実質的な著者である佐藤貫一(寒山)氏が“一説に山姥切の号は、元来この長義の刀に付けられた号で、信州戸隠山中で山姥なる化物を退治たためという。その写しであるから山姥切国広と呼びならしたという。”という記述をし、これ以後、「山姥切国広」の本歌である本作長義が「山姥切」と呼ばれることとなった。
『堀川国広とその弟子』(データ送信)
著者:佐藤貫一編 発行年:1962年(昭和37) 出版者:伊勢寅彦
目次:堀川国広とその弟子図譜
ページ数:10 コマ数:110
銘文に明らかなように田中信濃守国広が関東への旅行中、下野国足利に於て城主長尾新五郎顕長のために鍛刀したものである。この刀は古来山姥切と号しているが、号のいわれは明らかでない。
長尾顕長は新田金山城主由良氏の出で、足利城主長尾但馬守政長の養子となった。長尾氏はもと越後上杉家に属していたが、政長の代に至って小田原北条氏に降った。顕長は館林新五郎と称し、天正十一年には佐野宗綱を亡ぼし、足利・安蘇の諸郡をその領とした。天正十四年七月二十一日、始めて小田原に参府し、その時、北条氏康は長義の太刀を顕長に贈った。この長義の刀の写しがこの山姥切である。長義の刀には「本作長義 天正十八年庚寅五月三日ニ九州日向住国広銘打」と磨上げ銘を入れているのも国広である。長義の刀はその後幾変転があったであろうが、延宝九年尾張大納言光友の差料として、金百五拾二両一分で売上げたものという尾張家に記録があり、今に黎明会に現存する。一説に山姥切の号は、元来この長義の刀に付けられた号で、信州戸隠山中で山姥なる化物を退治たためという。その写しであるから山姥切国広と呼びならしたという。
以後の事実誤認の発覚と「山姥切」の二振り
1962年の『堀川国広とその弟子』以後、主に佐藤貫一氏こと佐藤寒山氏を始めとする一部の研究者たちが本作長義を「山姥切」、「山姥切長義」と呼び始める。
しかし、1975年(昭和50)、福永酔剣氏がその著書『日向の刀と鐔』において『新刀名作集』の押形に記載された「山姥切国広」の逸話を紹介し始める。
これによって、山姥切伝承は
・佐藤寒山氏による「本歌である長義が山姥を斬った」逸話
・福永酔剣氏による「写しである国広が山姥を斬った」逸話
の二つに分かれることとなる。
本作長義側の歴史を振り返れば、300年来の所蔵元である徳川美術館側は一貫して本作長義を「山姥切長義」として紹介したことはない。
一部の研究者たち(一部というが佐藤寒山氏は刀剣研究においてとても高名な方でありその影響力は強く幅広い)が本作長義を「山姥切長義」と呼び始めてからも、別の場面ではこれまで通り徳川美術館視点の「本作長義」として紹介され、常に名刀として評価されてきた。
一方、写しである「山姥切国広」も再発見後すぐに重要文化財認定されるほどの名刀であり、佐藤寒山氏やその教え子などの関係者によって「山姥切国広」が紹介されるほど、本歌である長義が山姥を斬った逸話も知られていった。
この流れによって、本作長義に「山姥切」の号があるのかないのか、国広の逸話はどちらが正しいのか、という混乱が一部で見られるようになった。
所蔵元である徳川美術館側は所蔵品の一つである本作長義が何故記録にない「山姥切」の号で呼ばれるのかを論文によって明らかにした。
大正時代の発見時から本作長義(北条家の長義)の写しと目されていた「山姥切国広」は、斯界での発表前に発見者が急逝するという状況にあった刀であり、本作長義が「山姥切」と呼ばれるようになった事実は、写しである「山姥切国広」の再発見に絡む。
再発見当時、本間薫山氏や佐藤寒山氏、斯界の研究者たちがそもそも「焼失していない」山姥切国広を「焼失したと考えていた」事情は、発見者急逝により来歴と逸話が十分に周知されていなかった「山姥切国広」が、その来歴の事実誤認により別の場所にあったと考えられていたことが原因であると察せられる。
そのような事情により、本作長義の逸話の方はおそらく事実誤認であろうと考えられるが、徳川美術館が2020年に発行した論文を除けばそのことに言及した刀剣の研究書はまだ存在しない。
本作長義の山姥切の号が事実誤認と考えられる一番大きな理由は、そもそも『堀川国広とその弟子』において著者の佐藤寒山氏が『新刀名作集』に載っていたはずの「山姥切国広」の逸話に言及していないことである。これはおそらく佐藤寒山氏側の見落としであろう。
一方、「山姥切国広」の逸話を1975年以降、その著書で紹介し始めた福永酔剣氏は逸話の出典こそ『新刀名作集』だと明言しているが、山姥切国広が再発見されたこと、本作長義の写しであることなど、「山姥切国広」の実物から判断するような情報を載せていない。
福永酔剣氏側の発表も、佐藤寒山氏たちが「山姥切国広」を紹介していることを見落としているのではないかと考えられる。
このような経緯により現状、本作長義が「山姥切」の号で呼ばれることがあり、「山姥切国広」の逸話は二つ存在することになる。
現在も「徳川美術館」蔵
尾州徳川家は1935年(昭和10)に尾張徳川黎明会として「徳川美術館」を開館。
本作長義は尾州徳川家に伝来してから以後現代まで同じ家が所有し続けていることになる。
『徳川美術館所蔵 刀剣・刀装具』(紙本)
著者:徳川美術館 編 発行年:2018年(平成30) 出版者:徳川美術館
目次:47 重要文化財 刀 銘 本作長義天正十八年庚寅五月三日ニ九州日向住國廣銘打 長尾新五郎平朝臣顕長所持天正十四年七月廿一日小田原参府之時従屋形様被下置也
ページ数:52
「徳川美術館」のWEBページでも確認できる。
作風
備前長船の刀工・長義作。
いわゆる相伝備前の典型で、身幅広く豪快な出来。
地刃ともに健全で長義の最も優れた作品の一つ。
刃長:二尺四寸五分
反り:八分
元幅:一寸一分
先幅:一寸
元重ね:二分五輪
先重ね:二分
茎長さ:五寸五分
鎬造り、庵棟、大磨上げ、身幅広く反りが高い。
表裏に棒樋をかき通し、樋先は上がる。大切先。
鍛はえは小板目に杢まじり、地沸えよくつく。
刃文は大互の目乱れ、乱れの谷に小乱れ交じる。
乱れ頭丸く、刃縁こまかに沸えて匂い足まじる。
鋩子は表裏ともはげしく乱込み尖り心に返る。
茎大磨上げ、先一文字、棟平、目釘孔三。
『黎明会名刀図録』(データ送信)
著者:近藤周平、吉川賢太郎 共編 発行年:1960年(昭和35) 出版者:日本刀剣保存会本部
目次:七六 刀 本作長義天正十八年庚寅五月三日九州日向住国広銘打 天正十四年七月廿一日小田原参府之時従屋形様被下置也 長尾新五郎平朝臣顕長所持
ページ数:110、111 コマ数:126、127
調査所感
・実はまだ読めていない『日向の刀と鐔』
上で普通に『日向の刀と鐔』について書いてますが、私自身はまだこの本読んだことないです。
ただ福永酔剣先生は『日本刀大百科事典』の「山姥斬り国広」の項目の出典の一つを自身の著書『日向の刀と鐔』としているので、間接的にその本に載っていることは証明できるかなと。
この本の内容にまでは言及できないんですが、他の本だと国広の再発見を知らなさそうなんで、福永酔剣先生の本だけ見ても長義・国広の関係と逸話に関する問題が決着しないことまでは確実です。
ここで決着……できてたらなぁ(遠い目)。
長義くんの研究史に関しては過去記事で死ぬほどやってますのでよろしければそちらもご覧ください。
・銘文の順番の話とか
たまに銘文の表記において文節の順番が入れ替わっていることがありますが、裏銘の長文が二行にわたるためどちらを先に読んでいるかの違いだけです。
・「ちょうぎ」か「ながよし」か
読み方の問題は登場初期くらいの話で今はみんな普通に知っているかもしれませんが一応触れておきましょうか。
昔(大正・昭和初期くらい)の研究書だと刀工長義は慣習的に「ちょうぎ」と読む、と説明されています。
ただもちろん「ながよし」読みも間違っていません。
・本作長義の評価、明治から長義の傑作の一振りとして有名な刀
山姥切関連の話題でたまに長義より国広の方が有名みたいな考え方をしている人がいますがそれは違います。
単純にどちらも有名です。
下の参考文献の項目で紹介する本を読んでもらえばわかると思いますが、国広再発見により山姥切と呼ばれるようになってからもそれとは関係なく本作長義として高評価されている機会があります。
号で刀剣を判断しているのはむしろ普段刀を直接扱わないとうらぶ経由で刀を見ている我々のような素人だけで、長義くんの場合山姥切の号で呼ばれる前から「尾州の長義」「北条家の長義」などを通称として有名でした。
基本は銘文中心に、どの刀工のどんな作品であるか、誰が所持していたか等で判断しているようです。
刀の世界をまったく知らない人間からすると不思議な気もしますが、刀剣研究ってその刀がどこでどうつくられどういう歴史を持っているか詳しく語るためにはこれこれこういう銘文の刀がある、これは……という感じでいきなり銘文からその性質を話し出すことが多いのではないかと。
もちろん特定の名刀の来歴や逸話について詳しく語りたい場合もあるんですが、逆に言えばどんな由来か不明でも号っぽいので呼ばれている刀はそういう話をされるクラスなんで、そういう形で話題に挙がっている時点ですでに名刀の物語を持っていると言えます。
号が事実誤認であるかどうかなど刀自体の評価には関係ないようです。
上でまとめた通り、そもそも本作長義は「山姥切長義」と呼ばれる前から長義の傑作の一振りとして有名でした。
特定の逸話しか知らないでそれより前のことは知らない、ではやはりその刀の歴史を知っているとは言えないでしょう。
事実誤認を含めた「山姥切長義」の歴史、そう呼ばれていない時期もそう呼ばれ始めた事情も事実誤認と言われる背景も、「山姥切長義」の辿った歴史をきちんと追ってこそ、「山姥切長義」を知っていると言えると思います。
刀の来歴自体に空白が多いことは事実ですが、せめて判明している事情ぐらいは把握して、できる限りの歴史を語りたいものです。
・徳美の論文について
上で結構参考にしているように見えますが、まとめながらやっぱり記述を省略してああああこことかこことかこことか面白いけどまさかその内容全部取り上げるわけにはいかないしと触れずに終わったり簡略化した話も大分ありますので、長義くん好きは直接原先生の書いた論文を読みに行くのがオススメです。
オススメです(大事なことなので二度言いました)。
これを無料でネット公開してくれた原先生、徳川美術館の皆様、どうもありがとうございます。
参考文献
『刀剣講話 4』
著者:今村長賀 発行年:1898~1903年(明治31~36)
目次:明治三十一年十一月十三日於遊就館 東山道之部 刀工の事に就て 今村長賀君述
ページ数:44 コマ数:48、49
目次:明治三十二年六月四日於遊就館 相州伝備前物及び吉井一流の事に就て 今村長賀君述
ページ数:129 コマ数:133、134
『刀剣講話 6』
著者:今村長賀 発行年:1898~1903年(明治31~36)
目次:明治三十四年三月三日於遊就館 堀川物に就て 今村長賀君述
ページ数:26、27 コマ数:31
『刀剣談』
著者:高瀬真卿 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第六門 諸家の名刀
ページ数:134 コマ数:92
『剣話録 下』
著者:剣話会 編(今村長賀) 発行年:1912年(明治45) 出版者:昭文堂
目次:五 東山道の刀匠 ページ数:32、33 コマ数:22
目次:十二 相州伝備前物及び吉井一流 ページ数:90 コマ数:53
目次:二十五 堀川物 ページ数:232 コマ数:126
『刀剣雑話』
著者:室津鯨太郎(川口陟) 発行年:1925年(大正14) 出版者:南人社
目次:二、足利学校其他の考察
ページ数:33~38 コマ数:40~43
『日本趣味十種 国学院大學叢書第壹篇』(データ送信)
著者:芳賀矢一 編 発行年:1924年(大正13) 出版者:文教書院
目次:八 刀剣の話 杉原祥造
ページ数:371、372 コマ数:206、207(205、206)
(デジコレに同じ本が2冊あるのでコマ数が1コマずれる可能性があります)
『九段刀剣談叢 第1輯』
著者:中央刀剣会本部 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:中央刀剣会本部
目次:十三 東山道の刀工 ページ数:25 コマ数:17
目次:四 山陽道の刀工 ページ数:83 コマ数:46
『刀剣談 再版』(データ送信)
著者:羽皐隠史 著, 高瀬魁介 訂 発行年:1927年(昭和2) 出版者:嵩山房
目次:第五 諸家の名刀 尾州家の長義【長義】
ページ数:169 コマ数:96
『新刀名作集』(データ送信)
著者:内田疎天、加島勲 発行年:1928年(昭和3) 出版者:大阪刀剣会
目次:堀川國廣
ページ数:31 コマ数:29
ページ数:44、45 コマ数:36
『剣甲新論』(データ送信)
著者:鈴木鐸 編 発行年:不明 出版者:不明
目次:堀川国広集説竝私考(著者:内田疎天、加島勲)
ページ数:5 コマ数:71
『大日本刀剣新考 訂』(データ送信)
著者:内田疎天 発行年:1934(昭和9) 出版者:岡本偉業館
目次:第二章 新刀略志 第一 五畿内
ページ数:711 コマ数:791
『日本刀物語』
著者:前田稔靖 発行年:1935年(昭和10) 出版者:九大日本刀研究会
目次:三十 堀川國廣考
ページ数:261 コマ数:140
ページ数:270 コマ数:145
『日本刀通観』(データ送信)
著者:内田疎天 発行年 1935年(昭和10) 出版社:岡本偉業館
目次:第二章 一国縦観 山城国鍛冶考 第十六節 堀川一派に就て
ページ数:401 コマ数:245
(Google Play ブックス P477)
『日本刀物語』
著者:小島沐冠人 編著 発行年:1937年(昭和12) 出版者:高知読売新聞社
目次:備前の長義父子
ページ数:112 コマ数:64
『官報 1939年09月06日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1939年(昭和14) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第四百九号 刀剣之部
ページ数:148 コマ数:5
『大日本刀剣商工名鑑』(データ送信)
著者:金関阿久利 編 発行年:1942年(昭和17) 出版者:日本刀剣新聞社
ページ数:42 コマ数:25
『重要美術品等認定物件目録』
著者:文部省教化局 編纂 発行年:1943年(昭和18) 出版者:内閣印刷局
目次:東京府
ページ数:260 コマ数:136
『名刀集美』(データ送信)
著者:本間順治 編 発行年:1948年(昭和23) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:古刀の部
コマ数:203
『官報 1949年02月18日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1949年(昭和24) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第十六号 刀剣之部
ページ数:141 コマ数:3
『日本案内記 中部篇』(データ送信)
著者:観光事業研究会 編 発行年:1953年(昭和28) 出版者:日本交通公社
目次:豊橋 名古屋間
ページ数:145 コマ数:103
『国広大鑑』(データ送信)
著者:日本美術刀剣保存協会 発行年:1954年(昭和29) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:研究篇 堀川國廣の研究 一、略伝 ページ数:1 コマ数:23
目次:(五)所持銘及び添銘考 ページ数:21 コマ数:43
『指定文化財総合目録 〔昭和33年版 第2〕』(データ送信)
発行年:1958年(昭和33) 出版者:文化財保護委員会
目次:東京都
ページ数:241 コマ数:129
『黎明会名刀図録』(データ送信)
著者:近藤周平、吉川賢太郎 共編 発行年:1960年(昭和35) 出版者:日本刀剣保存会本部
目次:七六 刀 本作長義天正十八年庚寅五月三日九州日向住国広銘打 天正十四年七月廿一日小田原参府之時従屋形様被下置也 長尾新五郎平朝臣顕長所持
ページ数:110、111 コマ数:126、127
『正宗とその一門』(データ送信)
著者:本間順治、佐藤貫一編 発行年:1961年(昭和36) 出版者:日本美術刀剣保存協会
コマ数:89 重文 国広磨上銘 長義 1口 黎明会蔵
ページ数:178、179 コマ数:224、225
『堀川国広とその弟子』(データ送信)
著者:佐藤貫一編 発行年:1962年(昭和37) 出版者:伊勢寅彦
目次:(一)小伝 ページ数:3 コマ数:31
目次:堀川国広とその弟子図譜 ページ数:9、10 コマ数:109、110
『日本名刀物語』(紙本)
著者:佐藤寒山 発行年:2019年(令和1) 発行社:河出書房新社
(中身は1962年(昭和37)白凰社より刊行のもの)
目次:堀川国広
ページ数:186~189
「刀剣と歴史 (414)」(雑誌・データ送信)
発行年:1963年7月(昭和38) 出版者:日本刀剣保存会
目次:本部だより 五、黎明会名刀鑑賞会
ページ数:49 コマ数:30
『日本古美術展図録』(データ送信)
発行年:1964年(昭和39) 出版者:東京国立博物館
目次:作品解説
ページ数:296 コマ数:332
『オリンピック東京大会日本古美術展』(データ送信)
発行年:1964年(昭和39) 出版者:東京国立博物館
目次:日本古美術展目録
ぺージ数:205、206 コマ数:109、110
『日本刀講座 第4巻 新版』(データ送信)
発行年:1966年(昭和41) 出版者:雄山閣出版
目次:新版日本刀講座<新刀鑑定編> 図版 一、刀 銘 九州日向住国広作 天正十八年庚寅弐月吉日平顕長
ページ数:12 コマ数:10
『図説日本文化史大系 第7 改訂新版』(データ送信)
著者:[図説日本文化史大系]編集事務局 編 発行年:1966年(昭和41) 出版者:小学館
目次:遺品目録
ページ数:423 コマ数:215
『日本刀大鑑 新刀篇一』
著者:本間順治、佐藤貫一(監修代表者) 発行年:1966年(昭和41) 出版者:大塚工藝社
『日本刀大鑑 新刀篇一』解説1-28PのPDF31、32コマ、本のページ数だとP10、11
『日本刀大鑑 新刀篇一』図版1-28PのPDF26、27コマ、本のページでもP26、27
「刀剣と歴史 (432)」(雑誌・データ送信)
発行年:1966年7月(昭和41) 出版者:日本刀剣保存会
目次:黎明会名宝鑑賞記 / 恩田繁
ページ数:50 コマ数:30
『日本刀全集 第2巻』(データ送信)
著者:石井昌国、加島進(監修:本間順治、佐藤貫一) 発行年:1966年(昭和41) 出版者:徳間書店
目次:新刀 新々刀 加島進
ページ数:216 コマ数:112
『日本刀全集 第5巻』(データ送信)
著者:加島新、藤代松雄、池田末松、高橋信一郎(監修:本間順治、佐藤貫一) 発行年:1967年(昭和42) 出版者:徳間書店
目次:新刀 池田末松
ページ数:141~143 コマ数:78、79
『名古屋の文化財』(データ送信)
発行年:1967年(昭和42) 出版者:名古屋市教育委員会
目次:目録
ページ数:8 コマ数:203
「刀剣と歴史 (438)」(雑誌・データ送信)
発行年:1967年7月(昭和42) 出版者:日本刀剣保存会
目次:徳川黎明会鑑賞紀行 / 恩田繁
ページ数:59 コマ数:34
『指定文化財総合目録 [昭和43年版] (美術工芸品篇)』(データ送信)
発行年:1968年(昭和43) 出版者:文化財保護委員会
目次:東京都
ページ数:309 コマ数:166
「刀剣と歴史 (444)」(雑誌・データ送信)
発行年:1968年7月(昭和43) 出版者:日本刀剣保存会
目次:黎明会雑記 / 刀菊山人
ページ数:65 コマ数:37
『原色日本の美術 21』(データ送信)
著者:尾崎元春、佐藤寒山 発行年:1970年(昭和45) 出版者:小学館
目次:図版解説ⅠⅤ ページ数:144 コマ数:150
目次:一、日本刀概説 ページ数:236、237 コマ数:242
『新・日本名刀100選』(紙本)
著者:佐藤寒山 発行年:1990年(平成2) 出版社:秋田書店
(中身は『日本名刀100選』 著者:佐藤寒山 発行年:1971年(昭和46) 出版社:秋田書店)
目次:72山姥切國廣
ページ数:214
『寒山刀話』(データ送信)
著者:佐藤貫一 発行年:1973年(昭和48) 出版者:東京出版
目次:六 堀川国広(1)流浪の刀鍛冶国広
ページ数:129、130 コマ数:98、99
「Museum (265)」(雑誌・データ送信)
著者:東京国立博物館 編 発行年:1973年4月(昭和48) 出版者:東京国立博物館
目次:出羽大掾国路に関する一私考 / 小笠原信夫
ページ数:19 コマ数:11
『寒山刀剣講座 第一巻 京鍛冶篇』(紙本)
著者:編集 刀和会(代表 広井雄一) 発行年:1980年(昭和55)出版者:大塚工藝社
目次:堀川国広の研究・図版
ページ数:160
「刀剣と歴史 (547)」(雑誌・データ送信)
発行年:1985年9月(昭和60) 出版者:日本刀剣保存会
目次:足利庄と新田庄を訪れて / 三嶋青山
ページ数:36、37 コマ数:23
「刀剣と歴史 (570)」(雑誌・データ送信)
発行年:1989年7月(平成1) 出版者:日本刀剣保存会
目次:野州足利学校 / 村山汎悠
ページ数:38 コマ数:24
「刀剣と歴史 (576)(雑誌・データ送信)
発行年:1990年7月(平成2) 出版者:日本刀剣保存会
目次:鑑刀随感 / 片岡銀作
ページ数:9、10 コマ数:9、10
「刀剣と歴史 (577)」(雑誌・データ送信)
発行年:1990年9月(平成2) 出版者:日本刀剣保存会
目次:鑑刀随感 / 片岡銀作
ページ数:6 コマ数:8
「刀剣と歴史 (578)」(雑誌・データ送信)
発行年:1990年11月(平成2) 出版者:日本刀剣保存会
目次:鑑刀随感 / 片岡銀作
ページ数:6 コマ数:8
「文化庁月報 (10)(349)」(雑誌・データ送信)
著者:文化庁 編 発行年:1997年10月(平成9) 出版者:ぎょうせい
目次:イベント案内 東京国立博物館日本のかたな――鉄のわざ・武のこころ
ページ数:40 コマ数:21
『堀川国広とその一門』(紙本)
著者:「堀川國廣とその一門」展 実行委員会 発行年:2014年(平成26) 出版者:古河歴史博物館
目次:年紀作から見た堀川國廣の考察(著者:岩田隆
ページ数:10~12
『日本刀を嗜む』(紙本)
著者:刀剣春秋編集部監修 発行年:2016年(平成28) 出版社:ナツメ社
目次:名刀図譜12 加藤国広
ページ数:44、45
『徳川美術館所蔵 刀剣・刀装具』(紙本)
著者:徳川美術館 編 発行年:2018年(平成30) 出版者:徳川美術館
目次:47 重要文化財 刀 銘 本作長義天正十八年庚寅五月三日ニ九州日向住國廣銘打 長尾新五郎平朝臣顕長所持天正十四年七月廿一日小田原参府之時従屋形様被下置也
ページ数:52
「「刀 銘 本作長義(以下、五十八字略)」と山姥切伝承の再検討」
著者:原史彦 発行年:2020年(令和2) 金鯱叢書 史学美術史論文集 第47輯
概説書
『日本刀図鑑: 世界に誇る日本の名刀270振り』(紙本)
発行年:2015年(平成27) 出版者:宝島社
目次:長義
ページ数:85
『刀剣目録』(紙本)
著者:小和田泰経 発行年:2015年(平成27) 出版者:新紀元社
目次:≪第四章 安土桃山・江戸時代≫ 山城国堀川 国広 山姥切国広
ページ数:319
『物語で読む日本の刀剣150』(紙本)
著者:かゆみ歴史編集部 発行年:2015年(平成27) 出版者:イースト・プレス(イースト新書)
目次:第5章 打刀 山姥切国広
ページ数:126
『刀剣物語』(紙本)
著者:編集・東由士 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社
目次:堀川国広作の刀 山姥切国広
ページ数:124、125
『刀剣説話』(紙本)
(上の『刀剣物語』を加筆修正したもの)
著者:編集・東由士 発行年:2020年(令和2) 出版者:英和出版社
目次:鬼・妖を切った刀 山姥切国広
ページ数:42、43