山姥切国広

やまんばぎりくにひろ

概要

「刀 銘 九州日向住国広作 天正十八年庚寅弐月吉日平顕長(号 山姥切)」

1590年(天正18)、安土・桃山時代の刀工・堀川国広が長尾顕長のために打った作。
銘文からそれが明らかである。

「九州日向住国広作 天正十八年庚寅弐月吉日平顕長」

(銘文の「寅」の字がPCで通常打てない字なのでできれば参考文献を直接見てもらいたい)

『新刀名作集』(1928年発行)掲載の、1920年(大正9)に杉原祥造氏が採った押形によると、

北条家の遺臣・石原甚左衛門が信州へ行く途中、小諸において妊娠中の妻が産気づいてしまった。
山中のあばら家にすむ老婆に妻をあずけ、小諸に薬を求めて下って行った。
石原が帰ってみると、その老婆が産み落とした嬰児を、むしゃむしゃ食べていた。
石原が、この国広で切りつけると、斬られながら虚空へと消えていった。
これにより「山姥切」と名付けられた。

関ヶ原の役が始まると、石原は井伊家の陣に加わった。
渥美平八郎が刀を打ち折り、困っていたので、この刀を渥美に贈った。
明治維新後、困窮した渥美家では、この刀を彦根市長曽根の北村醤油屋に質に入れ、流してしまった。
それを旧藩士の三居氏が買い取り、秘蔵していた。

しかし、この来歴が掲載された『新刀名作集』が発刊されたのは押形を採取した発見者・杉原祥造氏の死後、その弟子たちの手によるものである。

発見者の杉原祥造氏は生前に山姥切国広に関し、後北条氏から長尾顕長に下賜された備前長船長義作の「刀 銘 本作長義 天正十八年 庚寅五月三日ニ 九州日向住国広銘打 長尾新五郎平朝臣顕長所持 天正十四年七月廿一日 小田原参府之時従 屋形様被下置也」の写しだと考えられることを発表していた。

杉原祥造氏の死後、後北条氏から長尾顕長に下賜された長義の写しであること、当時発見済だった刀工・堀川国広の作刀の中でも名作であることは広まっていた。

しかし、来歴や逸話の話が周知されている痕跡が当時の刀剣書になく、『国広大鑑』(1954年発行)などによると一時期は関東大震災で焼失と考えられていたことがわかる。

その後、1960年に鑑定家の本間薫山氏のもとに持ち込まれ、1962年発行の『堀川国広とその弟子』によって発見が斯界に周知される。

しかし、『堀川国広とその弟子』の記述は『新刀名作集』の記述に反して、号の由来をもともと本歌の長義の刀が山姥を斬った刀であり、山姥切国広はその号を写したという一説を紹介しており、さらに来歴に関しても井伊家伝来の刀という事実誤認と目される情報を載せている。

以上の経緯を整理すると、発見者である杉原祥造氏の死と、その後の関東大震災による混乱が重なったことで、昭和前期に来歴や逸話が周知されず、その情報を見落とされたまま再発見時に新しく「本歌が山姥切でありその号を写した」という逸話が創作された可能性が高い。

更に、その後、1975年には福永酔剣氏の手により逸話の情報も再び発見された。

そのため今日では後北条氏から長尾顕長に下賜された長義の写しであることはよく知られているものの、逸話と来歴に関しては刀剣の研究書、ならびに概説書の記述にばらつきがあって、山姥を斬った刀は本歌であるとする本、写しであるとする本の両方が存在する。

『国広大鑑』によれば焼失だと考えられていた間も有名であったが、再発見後の評価は更に高く、堀川国広作の刀の中でも傑作中の傑作と呼ばれる一振り。

1962年(昭和37)6月21日、重要文化財指定。

再発見時に高橋経美氏から買い取り『堀川国広とその弟子』を刊行した伊勢寅彦氏の所有となってからしばらくは個人蔵。

2023年、所有者との話し合いにより購入を決めた足利氏がクラウドファンディングで購入資金3億円の一部である1億円を募った。

1590年(天正18)作刀、長尾顕長所持

銘文から刀工・堀川国広が天正18年(1590)に長尾顕長の依頼によって鍛刀した刀であることが明確。

『日本趣味十種』で発見者の杉原祥造氏は、山姥切国広が北条家の長義(「刀 銘 本作長義 天正十八年 庚寅五月三日ニ 九州日向住国広銘打 長尾新五郎平朝臣顕長所持 天正十四年七月廿一日 小田原参府之時従 屋形様被下置也」)を写したものだと考えられることを説明している。

『日本趣味十種 国学院大學叢書第壹篇』(データ送信)
著者:芳賀矢一 編 発行年:1924年(大正13) 出版者:文教書院
目次:八 刀剣の話 杉原祥造
ページ数:371、372 コマ数:206、207(205、206)
(デジコレに同じ本が2冊あるのでコマ数が1コマずれる可能性があります)

1920年(大正9)、斯界に発見される

1920年(大正9)に刀剣研究者の杉原祥造氏が押形を取ったことが1928年(昭和3)の『新刀名作集』により判明する。

その押形には

北条家の浪人石原甚五左衛門が妊娠中の妻女を連れて信州小諸を通行する時山中にて産気づき途方に暮れた、谷間より煙が立ち上るのを見て人家があることに気づき谷を下って一軒の家を訪ね、そこに住んでいた老婆に妊婦を託して薬を求めに小諸へ行った
急ぎ帰ってみれば婦人の泣く声が聞こえ、妻の生んだ児を老婆がむしゃむしゃと貪り喰っているところだった
甚五左衛門が怒り一太刀切付けると老婆は窓を蹴破って外に出て跡を追いかけると血汐の後山腹の岩窟まで続いていたので松葉を以て燻し出した
出てきた老婆が怒りの形相でものすごく牙を噛み鳴らして飛びかかってきたのを一刀の許に切り伏せた
依って山姥切と名付けた
その後関ケ原の井伊家の陣を借りて一働きせんと待ち構える折柄井伊の家来渥美平八郎が刀を打折って困っていたのでこの刀を渥美にやった
石原渥美両家とも三四百石を賜う 井伊家の足軽大将を承り維新後まで続く
その後渥美の家が困窮に陥った節彦根の長曽根の醤油屋北村方へ質に入れたものの受け出すことができず、遂に同藩三居氏の有に帰す

という号の由来となる逸話と来歴がセットになった話が書きつけられている。

しかしこの時の事情は少々複雑で、杉原祥造氏は1924年(大正13)頃には国学院大学の講演で「山姥切国広」の存在に言及していたが、その後、「山姥切国広」の初出となる『新刀名作集』を自らの手で完成させることなく1926年(大正15)に急逝してしまう。

遺された研究の一部は杉原祥造氏の二人の弟子、加島勲氏と内田疎天氏が引き継ぐことになり、『新刀名作集』も弟子二人の名義で無事に出版された。

『新刀名作集』により「山姥切国広」の存在に関しては広まったが、ここで押形と逸話を直接採集した杉原祥造氏本人の手で発表できなかったことが、後々の「山姥切国広」に関係する斯界の事実誤認を生んだ可能性がある。

『新刀名作集』(データ送信)
著者:内田疎天、加島勲 発行年:1928年(昭和3年) 出版者:大阪刀剣会
目次:堀川國廣
ページ数:31 コマ数:29

此時国広小田原にあり、北條氏の重宝長義を摺上げたる序に、顕長の爲めに此一刀を鍛えしものと見え、地刃ともに長義写とよりは見えざるものなり、

ページ数:44、45 コマ数:36

捕遺
国広は何日頃より相州伝を打ち始めしか、其動機如何は甚だ興味ある問題なるが、故杉原祥造氏は國學院大學に於ける講演中、此点に論及して曰く。
此時より以前(北条家の長義を摺上げ且つ長尾顕長の為めに長義寫しの一刀を鍛えし時を云ふ)の作刀には相州伝見えず、此時より以後のものに至って、始めて相州伝が加味されしものの如し。之れによって観るに、国広は北条家の長義を磨り上げ且つ其長義を顕長の為めに写せしことによって、相州伝の鍛法を会得せしめ為め、其作風に一輔機を割せしものと思ふ、爾来国広は相州伝を得意とせしを以て其の門下の堀川物は、皆相州風を帯ぶるに至れり、

この時点では、「山姥切国広」を発見し、その号の由来も押形に記録した杉原祥造氏自身は、本歌を「北條家の長義」と認識し、「山姥切国広」をその写しと考えていたことがわかる。

来歴と山姥切の号の由来はどこまで知られていたか、空白の40年

杉原祥造氏亡き後、弟子二人の手により『新刀名作集』にて斯界に発表された形になる「山姥切国広」だが、刀本体を直接見て逸話を聞いた本人が亡くなったことで、どこまでその来歴や号の由来となる逸話がこの時期斯界に周知されたのか不明である。

この後「山姥切国広」は「関東大震災により焼失」という誤解が刀剣の研究者たちの間に広まっていたことが、1960年の「山姥切国広の再発見」時に判明する。

焼失扱い中でも、堀川国広作の名刀の一振りとして有名だった

本阿弥光遜氏の『日本刀大観』では堀川国広作の名刀として加藤国広や布袋国広(足利學校打)と並んで名作の一振りにすでに数えられていた。

また、『国広大鑑』においてもはっきりと“山姥切と号して名高かつた”と説明されている。

『日本刀大観 上巻』
著者:本阿弥光遜 発行年:1942年(昭和17) 出版者:日本刀研究会
目次:第七全國刀匠傳系一覧表
ページ数:251 コマ数:134

名作 加藤、山姥切り、足利學校打

『国広大鑑』(データ送信)
著者:日本美術刀剣保存協会 発行年:1954年(昭和29) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:(五)所持銘及び添銘考
ページ数:21 コマ数:43

この刀は山姥切と号して名高かつたが、大正震災に焼失した。杉原祥造氏手拓の押形が遺されていることがせめてもであつて、これが新刀名作集その他に掲載されている。

1960年(昭和35)、斯界にて再発見される

1960年(昭和35)、名古屋の愛刀家・高橋経美氏が本間順治(薫山)氏のもとに「山姥切国広」を持ち込んだことにより、斯界での再発見となった。

再発見を知らせる書籍は高橋経美氏から「山姥切国広」を買い取った伊勢寅彦氏協力のもと、『堀川国広とその弟子』として出版された。

鑑定家の本間順治氏こと本間薫山氏に、刀工・堀川国広の最高傑作として評価される。

同時にこの時、実質的な著者である佐藤貫一(寒山)氏が“一説に山姥切の号は、元来この長義の刀に付けられた号で、信州戸隠山中で山姥なる化物を退治たためという。その写しであるから山姥切国広と呼びならしたという。”という記述をし、これ以後、「山姥切国広」の本歌である本作長義が「山姥切」と呼ばれることとなった。

『堀川国広とその弟子』(データ送信)
著者:佐藤貫一編 発行年:1962年(昭和37) 出版者:伊勢寅彦
目次:堀川国広とその弟子図譜
ページ数:9 コマ数:109

薫山曰く「旧幕時代に尾張家に伝来し、いまは財団法人黎明会の所属となっている多くの名刀の中に、天正十八年五月三日に国広が彼が愛顧をうけた足利城主長尾新五郎顕長の命によって大磨上にして「本作長義云々」と銘を切っている同作中随一とも云うべき姿・刃文の剛壮なものがある。それとこれとを比較すれば一見してこれはそれをねらった作であることが直感される。しかも単なる模作ではなく、地刃の働きと、すすどしさは長義をさらに強調し、放胆の味さえ加わって長義の作中にあっても出色のものと云い得よう。国広の古屋打銘の作風は末相州物をおもわせ、堀川打のものには正宗、志津をおもわせるものがあるが、そこに至る一段階がこの長義へのねらいであり、これと取組んだことであり、このことが彼の心技を脱皮せしめる契機となっているのではなかろうか。この作こそは彼の一生涯中自らかえりみても最も記念すべき、そして誇るべきものであろう。かつて国広大鑑編集の折に当時の界の誰もが信じていたこの刀が、関東震災で烏有に帰したという巷説を私も寒山も信じていたことを恥じるが、出現は戦後の斯界に於ける朗報中の屈指のものであり、自他ともに歓喜するものである。」

ページ数:10 コマ数:110

銘文に明らかなように田中信濃守国広が関東への旅行中、下野国足利に於て城主長尾新五郎顕長のために鍛刀したものである。この刀は古来山姥切と号しているが、号のいわれは明らかでない。
長尾顕長は新田金山城主由良氏の出で、足利城主長尾但馬守政長の養子となった。長尾氏はもと越後上杉家に属していたが、政長の代に至って小田原北条氏に降った。顕長は館林新五郎と称し、天正十一年には佐野宗綱を亡ぼし、足利・安蘇の諸郡をその領とした。天正十四年七月二十一日、始めて小田原に参府し、その時、北条氏康は長義の太刀を顕長に贈った。この長義の刀の写しがこの山姥切である。長義の刀には「本作長義 天正十八年庚寅五月三日ニ九州日向住国広銘打」と磨上げ銘を入れているのも国広である。長義の刀はその後幾変転があったであろうが、延宝九年尾張大納言光友の差料として、金百五拾二両一分で売上げたものという尾張家に記録があり、今に黎明会に現存する。一説に山姥切の号は、元来この長義の刀に付けられた号で、信州戸隠山中で山姥なる化物を退治たためという。その写しであるから山姥切国広と呼びならしたという。

1962年(昭和37)6月21日、重要文化財指定

昭和37年(1962)6月21日、重要文化財指定。
伊勢寅彦氏名義。

「刀 銘 九州日向住国広作 天正十八年庚寅弐月吉日平顕長(山姥切)」

『指定文化財総合目録 [昭和43年版] (美術工芸品篇)』(雑誌・データ送信)
発行年:1968年(昭和43) 出版者:文化財保護委員会
目次:東京都
ページ数:251 コマ数:137

山姥切伝承の混乱、事実誤認について

1928年(昭和3)年の『新刀名作集』発刊の時点では「国広が山姥を斬った」ため、「山姥切」であるという逸話がすでに発表されていた。

しかし、1962年(昭和37)、再発見を知らせる『堀川国広とその弟子』の記述の中では、「本歌である長義が山姥切という号の持ち主で、国広の号はそれを写した」という旨の一説が記載されている。

後者は憶測であり、さらに本間薫山氏、佐藤寒山氏等、再発見時の研究者たちには山姥切国広の来歴に関する事実誤認らしきものが伺える。

初出である『新刀名作集』では、杉原祥造氏は「三居翁」という人物から「山姥切由来」として「山姥切国広」の号の由来を聞いて押形に書き留めていたようである。

そのことに佐藤寒山氏を始めとする再発見以後の研究者たちが一切言及せず、しかも押形の来歴とは違う「井伊家」伝来の刀だと説明している。

そもそも「山姥切国広」が「焼失」扱いになったことに関し、佐藤寒山氏は“関東大震災のおりに、井伊家の蔵が焼け落ちた”時に焼けてしまったと説明している。

しかし実際には「山姥切国広」は焼けておらず、1920年の発見から1923年の関東大震災までに発見時の「三居家」から「井伊家」に移動したことを示す資料がない。

これらの事実を合わせて考えると、「山姥切国広」の逸話に関して「本歌の長義が山姥切でありその号を写した」とする説は事実誤認である可能性が高い。

再発見時の研究者たちは「山姥切国広」の存在と来歴、あるいは逸話に関しても先輩世代からの伝聞だけで知っており、『新刀名作集』の押形の存在が見落とされたと考えられる。

『日本名刀物語』(紙本)
著者:佐藤寒山 発行年:2019年(令和1) 発行社:河出書房新社
(中身は1962年(昭和37)白凰社より刊行のもの)
目次:堀川国広
ページ数:187

ところで「山姥切」の刀は、故杉原祥造氏の遺された押形類のなかに粗末な押形があって、わずかにその面影をしのぶにすぎなかった。それは、この刀が、その後大正十二年の関東大震災のおりに、井伊家の蔵が焼け落ちたときに焼けてしまったということになっていたからである。したがって、我々の先輩たちのなかにもこの「山姥切」を見知っている人は誰もなく、焼けた、惜しい、という話であった。私どもが昭和二十九年に国広大鑑の出版にあたっても、「焼失」と注して杉原氏の押形を掲げたのであった。
ところが昭和三十五年になって、偶然、「山姥切」の健在を知ったときは、まったく信じられないほどであった。よく事情を聞いてみると、「山姥切国広」は、杉原氏がどういう関係で押形をとられたかをいま明らかにしないが、当時この刀が井伊家にあって、それを押形にしたのち、まもなく、井伊家から旧家臣の某に与えられた。某氏は愛刀家でもなく、蔵刀家として知られた人でもなかったので、自然研究家や愛刀家の目に触れることもなく、そのまままったく埋もれていたというのが事実である。
ところが、某氏の子孫が金銭の必要上、旧主家である井伊家にこの刀を買い取ってほしいといって持参したことから、世にわかったのである。これを名古屋の愛刀家として知られている高橋経美氏が三顧の礼をとって手に入れたが、かねて男同士の面白い約束があって、これを伊勢寅彦氏に譲ったものである。

山姥切国広の逸話の検討に関しては本歌である長義の所蔵元・徳川美術館が発行した論文が詳しい。

「「刀 銘 本作長義(以下、五十八字略)」と山姥切伝承の再検討」(論文)
著者:原史彦 発行年:2020年(令和2) 金鯱叢書 史学美術史論文集 第47輯

山姥切国広の逸話の再発見

1962年の『堀川国広とその弟子』以後、主に佐藤貫一氏こと佐藤寒山氏を始めとする一部の研究者たちが本歌である長義の刀を「山姥切」、「山姥切長義」と呼び始める。

しかし、1975年(昭和50)、福永酔剣氏がその著書『日向の刀と鐔』において『新刀名作集』の押形に記載された「山姥切国広」の逸話を紹介し始める。

これによって、山姥切伝承は

・佐藤寒山氏による「本歌である長義が山姥を斬った」逸話
・福永酔剣氏による「写しである国広が山姥を斬った」逸話

の二つに分かれることとなった。

紹介しておいてなんだが『日向の刀と鐔』は私も『日本刀大百科事典』でその存在を知っているだけで直接目にしたことはないので、ここでは『日本刀大百科事典』による「山姥切国広」の逸話を改めて引用する。

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:やまうばきり【山姥斬り】
ページ数:5巻P228、229

やまうばきり【山姥斬り】
堀川国広作の刀の異名。上州の舘林・足利両城主・長尾顕長が、天正十八年(一五九〇)、国広に打たせたもの。小田原が落城し、顕長も領地を没収されると、この刀は、北条家の遺臣・石原甚左衛門の手に渡った。石原が安住の地を求め、信州へ行く途中、小諸において妊娠中の妻が産気づいてしまった。山中のあばら家にすむ老婆に妻をあずけ、小諸に薬を求めて下って行った。
石原が帰ってみると、その老婆が産み落とした嬰児を、むしゃむしゃ食べていた。驚くとともに怒り心頭に発した石原が、この国広で切りつけると、斬られながら虚空へと消えていった。そんな怪談があって、山姥斬りという異名がついた。関ヶ原の役が始まると、石原は井伊家の陣に加わった。同家の渥美平八郎が刀を打ち折り、困っていたので、これを渥美に贈った。
明治維新後、困窮した渥美家では、これを彦根市長曽根の北村醤油屋に質に入れ、流してしまった。それを旧藩士の三居某が買い取り、秘蔵していた。大正九年、時の国宝審査員・杉原祥造が、それを買い取った(213 571)。今次大戦後、重要文化財に指定された。

逸話の内容に関しては大体『新刀名作集』の押形通りである。
ただ、「山姥切国広」に関しては杉原祥造氏は買い取っていない。
また、福永酔剣氏がもう一冊「山姥切国広」に関して書いた『日本刀おもしろ話』のほうでは大正時代以後の所在に関して一切不明とされている。

著者が同じであるにも関わらず少なくとも『日本刀大百科事典』と『日本刀おもしろ話』で記述が整理されていないところをみると、福永酔剣氏は山姥切国広の押形は『新刀名作集』を見ているが刀そのものを見たわけではなく、佐藤寒山氏側の研究内容もチェックしていないと思われる。

以後の「山姥切国広」と「山姥切長義」

※本歌である長義の呼び方は所蔵元である徳川美術館が使うことのある略称「本作長義」に倣う。

「本作長義」側の歴史を振り返れば、300年来の所蔵元である徳川美術館側は一貫して「本作長義」を「山姥切長義」として紹介したことはない。

一部の研究者たち(一部というが佐藤寒山氏は刀剣研究においてとても高名な方でありその影響力は強く幅広い)が「本作長義」を「山姥切長義」と呼び始めてからも、別の場面ではこれまで通り徳川美術館視点の「本作長義」として紹介され、常に名刀として評価されてきた。

一方、写しである「山姥切国広」も再発見後すぐに重要文化財認定されるほどの名刀であり、佐藤寒山氏やその教え子などの関係者によって、刀工・堀川国広の最高傑作である「山姥切国広」が紹介されるほど、本歌である長義が山姥を斬った逸話も知られていった。

この流れによって、「本作長義」に「山姥切」の号があるのかないのか、「山姥切国広」の逸話はどちらが正しいのか、という混乱が一部で見られるようになった。

所蔵元である徳川美術館側は、2020年に発行した論文において、所蔵品の一つである「本作長義」が何故記録にない「山姥切」の号で呼ばれるのかを明らかにした。

しかし徳川美術館が2020年に発行したその論文を除けば、この逸話に関する事実誤認に言及した刀剣の研究書はまだ存在しない。

『堀川国広とその弟子』『日本名刀物語』という佐藤寒山氏側の著書。
『日本刀大百科事典』と『日本刀おもしろ話』という福永酔剣氏側の著書。

読み比べると、どちらの研究者も一部情報をおそらく見落としているだろうことが考えられる。

このような経緯により現状、「本作長義」が「山姥切」の号で呼ばれることがあり、「山姥切国広」の逸話は二つ存在することになっていると言える。

2023年、足利市が買い取りのためのクラウドファンディング実施

再発見からの60年、山姥切国広は所有者が何度変わったかはともかく、個人蔵という扱いであった。
2023年に足利氏が現在の所有者から買い取ることを発表し、購入費用3億円のうちの一部、1億円を目標としてクラウドファンディングを開始した。

2023年9月1日開始、2023年10月31日まで。

最終的に目標額の1億円を超えたという。
この辺りは最近の話なのでネット記事がいくつも書かれている。

調査所感

長義くんのついでに考察で死ぬほどやった国広の研究史。

再発見時の事実誤認周りについては別の考察記事でじっくりやったのでこの辺りがよくわからないよという方にはそちらの過去記事もどうぞ。

・重要事項:寒山先生は基本的に写し好き

山姥切国広の再発見時、『堀川国広とその弟子』を書いたのは佐藤寒山先生です。

写し物で有名な越前康継の大鑑を個人名で出したり、他にも名高い写し物がある名刀の話題になると写しの方の話題も持ち出したり、寒山先生は誰がどう見ても「写し」を高評価してる方です。

刀剣の研究者の名前にまったく知識がない状態で調べ始めると寒山先生がどうして憶測にしても国広は写しだから山姥を斬っていないと言ったのか、その心がわからなくて悩むのですが、実際に寒山先生の研究例を調べてみるとなんのことはない、寒山先生は写しをめっちゃ評価してます。

寒山先生はもともと写しというものが好きで、山姥切国広という写しが在ることで文献史料に残らなかった本歌の号を伝えているのではないかという先輩の説に賛同しただけで、刀としては本歌も写しも同様に一振りの名刀として愛していると思います。

と、いうわけで逸話や号の問題に関して、国広が写しだから評価が低い、ということはありえません。
この刀を刀工堀川国広の最高傑作として、何冊も本を書き、その評価を広めた方でもその当時わからなかったことがあるというだけの話です。

二振りの刀が400年前の史実をただありのままに伝えているというのは確かに物凄く浪漫を感じる考え方だと思います。

ただ、当時の国広再発見時に混乱があったにしても、現代の我々は『新刀名作集』や福永酔剣先生の紹介する逸話を無視して寒山先生の物語だけを語るわけにはいかないので、山姥切国広の号と逸話に関しては内容が矛盾する複数の資料を丁寧に見て整合性をとるべきだと思います。

・焼失扱い時代も名刀として語り継がれる

審神者というかとうらぶプレイヤーの間では写しは本歌と比べられて低い扱いをされる、という言い分があるかのような風潮が広まっていますが、そもそも写しが本歌と比べられて不当に低い扱いをされている様子なんてそうそう見かけません。

山姥切国広に関しては特に焼失扱い中も「名作の一振り」「名高かった」と資料ではっきり確認できるくらいですから、経緯的に直接目にした人物が発見者の杉原祥造先生しかいないだろうにも関わらず、最初から高評価されています。ディスられてるという資料がまず存在しない。

一般的に写しが本歌より評価が低いというのは、模作であることを考えればある意味当たり前ですが、それは本当に本歌より作品としての完成度が低い写し物一般に対する評価だとしたら適正でしょう。どんなジャンルだろうが本歌と同格レベルで優れた模作はそうそう生まれません。

ただし、山姥切国広に関してはそもそも本歌より上だの下だのという話をされている様子がまずありません。

刀工が別の刀工の腕前に迫っているかという比較話なら結構あるんですが、刀の評価としてはその一振りが単純に上手か下手かという言い方をされます。

また、例えば写しを評価しないという発言者がいても、その人物が「刀工」である場合は自分でオリジナリティのある作品を生み出す向上心が必要な立場ですから、作品の評価だけをすればいい鑑賞者や研究者とは理由が違います。

写し物の話をするなら、まず「写し物とは何か」という歴史自体を調べ、いつどういうときに写し一般がどう評価され、それぞれ個としての写しがどう評価されているのかも合わせて考えなければいけないと思います。

・刀剣乱舞の山姥切国広を考えるには

モデルとなった実在の刀剣・山姥切国広は発見時から焼失扱い中、再発見後までずっと高評価です。
本阿弥光遜先生が名作の一振りに数えているのでおそらく発見当時から傑作という認識はされていたと思われますし、再発見後はその時同格だと思われていた加藤国広・布袋国広の二振りをしのいで堀川国広の最高傑作、傑作中の傑作と表現される地位にまで上り詰めます。

逆に言えば、とうらぶの国広が卑屈なコンプレックス持ちキャラであることは、実際の刀剣の評価からは乖離があります。

この乖離は国広に限らず大なり小なり他の刀剣男士も同じことで、むしろその乖離こそがとうらぶがどういう物語を描こうとしているのかというテーマに直結すると考えられます。
極のように明確なパワーアップイベントがある以上、普通に考えれば成長によって実際の自分の歴史を理解することが最終目標だと思われます。

とうらぶの山姥切国広を考えるには刀剣の研究史を無視するのではなく、むしろ逸話や来歴の事実誤認、実際の高評価などあらゆる方向性の情報を踏まえた上でとうらぶの描こうとしている国広がどんなキャラなのか考察したほうがいいと思います。

一番の問題として、「刀剣乱舞」という物語自体がそんなにわかりやすくないというかクソ難しいなオイ……と常日頃考察をしている身からは思いますが、世界のギミックとかオマージュの元ネタである日本美術ネタとは違って、男士の本心みたいなものは刀の来歴を正しく踏まえてから台詞の一つ一つを確認していけばなんとなくつかめるようになっているのではないでしょうか。

私の調査は他の本格的なサイトとは違って基本的に「誰でもインターネットや近所の図書館で簡単に読める」レベルの本しか使わない、非常に初歩的なものとなっておりますので、まだそういった本を読んでいない、どの資料から読めばいいのかよくわからない、という方は下記の参考文献をお勧めします。

「データ送信」と付記してある本は、国立国会図書館の登録利用者になると読めます。

実際に刀剣がどのように語られてきた歴史を持っているか、できる限り自分の目でお確かめください。
結局それが一番楽しめる、自分の本当に望む結果が返ってくる行動だと思うので。

参考文献

『日本趣味十種 国学院大學叢書第壹篇』(データ送信)
著者:芳賀矢一 編 発行年:1924年(大正13) 出版者:文教書院
目次:八 刀剣の話 杉原祥造
ページ数:371、372 コマ数:206、207(205、206)
(デジコレに同じ本が2冊あるのでコマ数が1コマずれる可能性があります)

『新刀名作集』(データ送信)
著者:内田疎天、加島勲 発行年:1928年(昭和3) 出版者:大阪刀剣会
目次:堀川國廣
ページ数:31 コマ数:29
ページ数:36 コマ数:32
ページ数:44、45 コマ数:36
ページ数:8 コマ数:125(押形の初出)

『剣甲新論』(データ送信)
著者:鈴木鐸 編 発行年:不明 出版者:不明
目次:堀川国広集説竝私考(著者:内田疎天、加島勲)
ページ数:5 コマ数:71

『大日本刀剣新考 訂』(データ送信)
著者:内田疎天 発行年:1934(昭和9) 出版者:岡本偉業館
目次:第二章 新刀略志 第一 五畿内
ページ数:711 コマ数:791

『日本刀物語』
著者:前田稔靖 発行年:1935年(昭和10) 出版者:九大日本刀研究会
目次:三十 堀川國廣考
ページ数:261 コマ数:140
ページ数:270 コマ数:145

『日本刀通観』(データ送信)
著者:内田疎天 発行年 1935年(昭和10) 出版社:岡本偉業館
目次:第四章 日本刀其物に就て 第五節 銘及銘字に就て ◇花押
ページ数:282 コマ数:186
目次:第二章 一国縦観 山城国鍛冶考 第十六節 堀川一派に就て
ページ数:401 コマ数:245

『新刀押象集 上巻』
著者:内田疎天・加島勲 発行年:1935年(昭和10) 出版者:大阪刀剣会
目次:本集所載の作家と作刀 堀川国広 ページ数:5 コマ数:17
目次:目次(銘文) ページ数:2 コマ数:78
目次:押形 ページ数:17 コマ数:95

『日本刀大観 上巻』
著者:本阿弥光遜 発行年:1942年(昭和17) 出版者:日本刀研究会
目次:第七全國刀匠傳系一覧表
ページ数:251 コマ数:134

『名刀集美』(データ送信)
著者:本間順治 編 発行年:1948年(昭和23) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:古刀の部
コマ数:203

『国広大鑑』(データ送信)
著者:日本美術刀剣保存協会 発行年:1954年(昭和29) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:研究篇 堀川國廣の研究 一、略伝 ページ数:1 コマ数:23
目次:(五)所持銘及び添銘考 ページ数:21 コマ数:43
目次:解説篇 一、年紀のあるもの ページ数:27 コマ数:49
目次:図譜 國廣(年紀のあるもの) ページ数:11 コマ数:99

『堀川国広とその弟子』(データ送信)
著者:佐藤貫一編 発行年:1962年(昭和37) 出版者:伊勢寅彦
目次:「堀川国広とその弟子」の発刊を祝う 佐藤寒山 コマ数:11、12
目次:(一)小伝 ページ数:3 コマ数:31
目次:堀川国広とその弟子図譜 ページ数:9~11 コマ数:109~111

『日本古刀史 改訂増補版』(データ送信)
著者:本間順治 著 発行年:1963年(昭和38) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:五、 室町時代
ページ数:211 コマ数:141

『日本名刀物語』(紙本)
著者:佐藤寒山 発行年:2019年(令和1) 発行社:河出書房新社
(中身は1962年(昭和37)白凰社より刊行のもの)
目次:堀川国広
ページ数:186~189

『日本古美術展図録』(データ送信)
発行年:1964年(昭和39) 出版者:東京国立博物館
目次:図版 ページ数:177 コマ数:213
目次:作品解説 ページ数:296 コマ数:332

『オリンピック東京大会日本古美術展』(データ送信)
発行年:1964年(昭和39) 出版者:東京国立博物館
目次:日本古美術展目録
コマ数:55
ぺージ数:205、206 コマ数:109、110

『文化財保護委員会年報 昭和35-37年度』(データ送信)
発行年:1964年(昭和39) 出版者:文化財保護委員会
目次:資料編 (指定関係)
ページ数:57 コマ数:36

『日本刀講座 第4巻 新版』(データ送信)
発行年:1966年(昭和41) 出版者:雄山閣出版
目次:新版日本刀講座<新刀鑑定編> 図版
ページ数:12、13 コマ数:10

『日本刀大鑑 新刀篇一』
著者:本間順治、佐藤貫一(監修代表者) 発行年:1966年(昭和41) 出版者:大塚工藝社
『日本刀大鑑 新刀篇一』解説1-28P P10、11
『日本刀大鑑 新刀篇一』図版1-28P P26、27

『図説日本文化史大系 第8 改訂新版』(データ送信)
著者: [図説日本文化史大系]編集事務局 編 発行年:1966年(昭和41) 出版者:小学館
目次:遺品目録
ページ数:408 コマ数:212

『日本刀全集 第2巻』(データ送信)
著者:石井昌国、加島進(監修:本間順治、佐藤貫一) 発行年:1966年(昭和41) 出版者:徳間書店
目次:新刀 新々刀 加島進
ページ数:216 コマ数:112

『日本刀全集 第5巻』(データ送信)
著者:加島新、藤代松雄、池田末松、高橋信一郎(監修:本間順治、佐藤貫一) 発行年:1967年(昭和42) 出版者:徳間書店
目次:新刀 池田末松
ページ数:141~143 コマ数:78、79

『指定文化財総合目録 [昭和43年版] (美術工芸品篇)』(雑誌・データ送信)
発行年:1968年(昭和43) 出版者:文化財保護委員会
目次:東京都
ページ数:251 コマ数:137

『原色日本の美術 21』(データ送信)
著者:尾崎元春、佐藤寒山 発行年:1970年(昭和45) 出版者:小学館
目次:図版解説Ⅲ ページ数:136 コマ数:142
目次:図版解説ⅠⅤ ページ数:144 コマ数:150
目次:一、日本刀概説 ページ数:236、237 コマ数:242

『新・日本名刀100選』(紙本)
著者:佐藤寒山 発行年:1990年(平成2) 出版社:秋田書店
(中身は『日本名刀100選』 著者:佐藤寒山 発行年:1971年(昭和46) 出版社:秋田書店)
目次:72山姥切國廣
ページ数:213、214

『寒山刀話』(データ送信)
 著者:佐藤貫一 発行年:1973年(昭和48) 出版者:東京出版
 目次:六 堀川国広(2)山姥切
 ページ数:130、131 コマ数:99

「Museum (265)」(雑誌・データ送信)
著者:東京国立博物館 編 発行年:1973年4月(昭和48) 出版者:東京国立博物館
目次:出羽大掾国路に関する一私考 / 小笠原信夫
ページ数:19 コマ数:11

「刀剣と歴史 (491)」(雑誌・データ送信)
発行年:1976年5月(昭和51) 出版者:日本刀剣保存会
目次:『新刃銘尽』と同『後集』比較 / 山本天津也
ページ数:37 コマ数:23

『寒山刀剣講座 第一巻 京鍛冶篇』(紙本)
著者:編集 刀和会(代表 広井雄一) 発行年:1980年(昭和55)出版者:大塚工藝社
目次:堀川国広の研究・図版
ページ数:160

『栃木県史 通史編 3 (中世)』(データ送信)
著者:栃木県史編さん委員会 編 発行年:1984年(昭和59) 出版者:栃木県
目次:第四章 室町時代の下野 第五節 諸産業の発達と文化の普及
ページ数:672 コマ数:367

「刀剣と歴史 (547)」(雑誌・データ送信)
発行年:1985年9月(昭和60) 出版者:日本刀剣保存会
目次:足利庄と新田庄を訪れて / 三嶋青山
ページ数:36、37 コマ数:23

「刀剣と歴史 (570)」(雑誌・データ送信)
発行年:1989年7月(平成1) 出版者:日本刀剣保存会
目次:野州足利学校 / 村山汎悠
ページ数:38 コマ数:24

「刀剣と歴史 (576)(雑誌・データ送信)
発行年:1990年7月(平成2) 出版者:日本刀剣保存会
目次:鑑刀随感 / 片岡銀作
ページ数:9、10 コマ数:9、10

「刀剣と歴史 (577)」(雑誌・データ送信)
発行年:1990年9月(平成2) 出版者:日本刀剣保存会
目次:鑑刀随感 / 片岡銀作
ページ数:6 コマ数:8

「刀剣と歴史 (578)」(雑誌・データ送信)
発行年:1990年11月(平成2) 出版者:日本刀剣保存会
目次:鑑刀随感 / 片岡銀作
ページ数:6 コマ数:8

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:やまうばきり【山姥斬り】
ページ数:5巻P228、229

「文化庁月報 (10)(349)」(雑誌・データ送信)
著者:文化庁 編 発行年:1997年10月(平成9) 出版者:ぎょうせい
目次:イベント案内 東京国立博物館日本のかたな――鉄のわざ・武のこころ
ページ数:40 コマ数:21

『日本刀おもしろ話』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1998年(平成10) 出版者:雄山閣
目次:山姥斬り国広
ページ数:97~104

『堀川国広とその一門』(紙本)
著者:「堀川國廣とその一門」展 実行委員会 発行年:2014年(平成26) 出版者:古河歴史博物館
目次:年紀作から見た堀川國廣の考察(著者:岩田隆
ページ数:10~12

『日本刀を嗜む』(紙本)
著者:刀剣春秋編集部監修 発行年:2016年(平成28) 出版社:ナツメ社
目次:名刀図譜12 加藤国広
ページ数:P44、45

「「刀 銘 本作長義(以下、五十八字略)」と山姥切伝承の再検討」(論文)
著者:原史彦 発行年:2020年(令和2) 金鯱叢書 史学美術史論文集 第47輯

概説書

『図解日本刀 英姿颯爽日本刀の来歴』(紙本)
著者:東由士 編 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:大名家が所有した名刀たち 堀川国広 ページ数:22、23

『刀剣目録』(紙本)
著者:小和田泰経 発行年:2015年(平成27) 出版者:新紀元社
目次:≪第四章 安土桃山・江戸時代≫ 山城国堀川 国広 山姥切国広
ページ数:319

『物語で読む日本の刀剣150』(紙本)
著者:かゆみ歴史編集部 発行年:2015年(平成27) 出版者:イースト・プレス(イースト新書)
目次:第5章 打刀 山姥切国広
ページ数:126

『刀剣物語』(紙本)
著者:編集・東由士 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社
目次:堀川国広作の刀 山姥切国広
ページ数:124、125

『刀剣説話』(紙本)
(上の『刀剣物語』を加筆修正したもの)
著者:編集・東由士 発行年:2020年(令和2) 出版者:英和出版社
目次:鬼・妖を切った刀 山姥切国広
ページ数:42、43

『刀剣聖地めぐり』(紙本)
発行年:2016年(平成28) 出版者:一迅社
目次:山姥切国広
ページ数:69