北谷菜切

ちゃたんなきり

概要

青貝微塵塗腰刀拵(号 北谷菜切)

琉球王国の王族・尚家伝来の三振りの宝剣の一つ。

号は所蔵館の那覇市歴史博物館だと「ちゃたんナーチリー」と呼んでいる。
民話の本だと「妖刀ナーチラー」「北谷(ちゃたん)ナーチラー」などと呼ばれていることもある。

刀身は日本製で平造り、三ツ棟、反りがわずかにつくが、現状はかみそり風に鋭く尖る短剣。
鞘は夜光貝を細かな方形に切った螺鈿で覆われている。
金を着せた小柄や笄の裏には「天」の字や分銅形・鼓胴形(鼓の胴の形)の記号が彫られている。

これらの情報は「那覇市歴史博物館」のWEBサイトに写真や特徴が掲載されている。

後述する妖刀伝説は「北谷菜切説」と「治金丸説」の両方があるのだが、所蔵元の那覇市歴史博物館の認識は妖刀は「北谷菜切」の方であるようだ。

妖刀ナーチラーの逸話、そして石切包丁へ

・触れもせず子どもの首を斬った妖刀

北谷のある農家の母親が、肉を小刀で切っていた。
子どもが肉をねだるので母親は仕方なく肉を与えたが子どもはもっと食べたいとねだった。
母親は子どもをいさめようと冗談のつもりで小刀を振った。
すると、刃先が触れてもいないのに子どもの首が斬れて落ちた。
首里城から役人がやってきたが、母親は触れてもいないのに子どもの首が切れたことを説明し、役人は試しにヤギに向けて刃先をふってみた。すると目の前の山羊は刃をふった数だけ切断されてあっという間に肉の塊と化した。

『北谷村誌』(データ送信)
著者:真栄城兼良 編 発行年:1961年(昭和36) 出版者:北谷村
目次:第八編 伝記伝説名所旧跡 一五、名刀北谷ナーチラー
ページ数:402、403 コマ数:238

・その後、今帰仁城を造る際に活躍

この妖刀ナーチラーは首里城に献上されて保管されていたが、今帰仁城を造る際に石が硬すぎて工夫が困っていた際に、石を切断するために使われた。
そのため今帰仁城の岩はすきまなく詰まっているのだと伝えられている。

『琉球妖怪大図鑑 上』(紙本)
著者:小原猛 発行年:2015年(平成27) 出版者:琉球新報社
目次:妖刀ナーチラー(北谷菜切)
ページ数:66、67

・刀剣中心概説書の抜き出しと、民話の全容の差

近年の刀剣の概説書だと上の子どもの首を触れもせず斬り落とした話だけ抜き出されていることがあるんですが、おそらく最初の出典だろう民話の本を読むと後者の石切り包丁のエピソードがくっついていて、これがあるのとないのとで大分印象が変わります。

ネットでも「妖刀ナーチラー」「北谷ナーチラー」などで検索するといくつかこの話を載せているサイトが出てきます。
農婦が切っているものが肉ではなく菜であったり、子どもをおどすのではなく手元が狂って振ってしまったり細部はちょこちょこ変わりますが、大筋は同じです。

刀剣中心ではなく民話中心のエピソードで載せているサイトは後半の今帰仁城を造る際にこの斬れ味鋭い妖刀が役立った、という話まで載っていることが多いので、こちらがやはり原型だと思われます。

・子どもが死んでいない版もあるの!?

母親が我が子を深く傷つける事件が起きた。
しかし母親は包丁で斬る真似をしただけで、触れてもしないのに斬れてしまったという話をした。
役人は山羊を使って試したところ触れもせずに山羊が鮮血をしたたらしてうめいている。
かわいそうな母親はすぐ無罪放免となった。

子どもが死なずに深手を負うだけですんだこと以外は現在刀剣書で流布しているパターンに近い。

『沖縄年鑑 1960年版』(データ送信)
発行年:1960年(昭和35) 出版者:沖縄タイムス社
目次:沖縄の伝説 北谷菜切(北谷村) 触れもせずに切る 田んぼと替えた妖刀由来記
ページ数:339 コマ数:177

妖刀は「治金丸」か「北谷菜切」か、沖縄の民話研究の歴史

現在では「北谷菜切」のものとして知られる「子どもの首を触れずに切った妖刀」の逸話は「治金丸」にも存在する。

農婦の女から農夫の男になっていたり、それ以外にも来歴に合わせて細部の情報が違う。

詳しくは「治金丸」の項目の参考文献を見てもらった方がいいが、「治金丸」が子どもの首を触れずに切った妖刀だという話は戦前の民話本から見られ、印象的にはこちらの方が古くから知られている気がする。
どこの図書館にも置いてあるだろう『日本の民話』シリーズの「沖縄の民話」の巻が「宝剣治金丸」としてこのエピソードを含んでいるので、日本の民話全般を学んでいる方には治金丸パターンの方が馴染み深いかもしれない。

北谷菜切と治金丸の妖刀伝説に関しては、2019年に「琉球サウダーヂ」というテレビ番組内で、昔はこの話は治金丸のものとして語られていたが、いつからか北谷菜切と結びついた可能性があると沖縄の学芸員さんによって指摘されているという。

ただ、この二つの逸話に関しては

・治金丸の来歴は仲宗根豊見親がムタ川で直接拾ったという話が一応あって、肉切包丁だったものを献上したという話と両立しないこと
・どちらの逸話も出典が民話であって所有者の言や歴史書など信頼性の高い資料がないこと
・沖縄はそもそも民謡文化であるため民話の文書化作業があまりされていなかったらしく、戦前は喜納緑村氏、戦後は伊波南哲氏らが逸話の採集に尽力して研究が進んだこと
・他の民話でも、喜納緑村氏採集のものと伊波南哲氏発表のもので内容の同異があること
・元沖縄国際大学教授の遠藤庄治先生を中心とした人々が昭和48年あたりから10年かけて沖縄中の口承伝承を聞き取り記録する活動を大々的に行い、遠藤庄治先生が亡くなる際にそれら沖縄の伝承を集めたテープを博物館に寄付されたおかげで最近でも沖縄民話研究が進んでいること

などを考えると、一概にこの逸話の持ち主が、先に文献に名前が見えた治金丸のものであることを正しいとするわけにはいかないと考えます。

文書化に積極的でなかった背景が割と明確にあって、最近の他の民話の論文でも地域ごとの内容の違いを一覧表にできるくらい差があるようなので、単に治金丸の話だけ先に採集された可能性があるからです。

(というか、「菜切」という名前的にも北谷菜切の方が元の持ち主っぽい気はする……)

現在沖縄関連のサイトが出している民話も微妙にあちこち細部が違いますし、単純なコピペではなくわりとみんなどこからかしっかり話を仕入れてきて、今でもこの逸話を語っていることもあり、これはもう現時点では両方に妖刀の逸話がある、と結論するしかないような気がします。

それ以上細かいことを知りたいなら、今後の沖縄の民話研究の発展に期待するぐらいしかないと思います。

私が上で逸話の出典資料とした『琉球妖怪大図鑑 上』は児童書ですが、その著者の小原猛氏も近年沖縄の伝承関係を調べて何冊も著作を出されている方です。

この話、結構現在進行形で語り伝えられている民話なのです。

伝来は一応不明となっているが

北谷間切の領主の家、北谷王子の家から尚王家へ十七世紀初頭を下限として伝世したと考えられているらしい。

拵えにある「天字形」「団扇形」「鼓銅形」の印を伴う漆器や刀装具類が琉球王府の所蔵品もしくは下賜品であり、それらの製作年代を十六世紀中から十七世紀初期と考えることができるらしい。

「浦添市美術館紀要 = Bulletin of Urasoe Art Museum (6)」(雑誌・データ送信)
著者:浦添市美術館 編 発行年:1997年(平成9)年3月 出版者:浦添市美術館
目次:資料紹介 天字形・団扇形の印のある漆工品–ドイツ・ハンブルグ工芸美術館の収蔵品より新出資料紹介 / 宮里正子
ページ数:43、44 コマ数:24、25

南島風土記に鑑定文が載っている(北谷田園と交換した話も)

鑑定文と、俗伝で「北谷田園」と交換した話が読める。
東恩納寛惇氏による『おもろそうし』の考察も載っているが、のちの研究書でこの部分は否定されているというか、『おもろそうし』解釈の研究の方が進んでいるようである。

『南島風土記:沖縄・奄美大島地名辞典』(データ送信)
著者:東恩納寛惇 発行年:1950年(昭和25) 出版者:沖縄文化協会ほか
目次:北谷村 北谷田園
ページ数:377、378 コマ数:208、209

琉球三宝剣の国宝指定について

千代金丸たちの国宝指定は、刀剣単体ではなく歴史資料などの文書類も含む「琉球国王尚家関係資料」としての指定である。

尚家の文書・記録類は尚裕氏により平成六年(1996)から八(1998)年にかけて那覇市に寄贈されたことにより、調査が可能になりその重要性があらためて明らかになったことが、「文化遺産データベース」の「琉球国王尚家関係資料」のWEBページで確認できる。

「琉球国王尚家関係資料」自体の国宝指定年月日は2006年6月9日となっている。

調査所感

北谷菜切の妖刀伝説は出典を探しても最近の概説書ばっかりで、できればはっきり資料名を書けるように紙の本はないかと探していたんですが、調べ始めて他のことやりながら一年くらい放置していたら国立国会図書館デジタルコレクションが日を追うごとにパワーアップしていく関係で、今は簡単に読める資料がかなり増えました。

下の文章はちょっと古い一年前の調査結果のまとめです。

琉球で赤ん坊の首を落とした妖刀の話は「治金丸」のものと「北谷菜切」のものと二つある。

ここまでは他の審神者も調べていて、北谷菜切を紹介した動画で沖縄の学芸員さんが、戦前はこの妖刀は治金丸になっていたが戦後に北谷菜切だと言われるようになったという感じのことを説明している。

これだけ聞くと山姥切みたいなある時期からの逸話の対象の入れ替えを想定してその時期を調べていたんですが、琉球の妖刀はちょっと話が違うかもしれない。
最近の沖縄関係のサイトを調べると、北谷菜切の逸話は日本刀の概説書に載ってるものとは別のパターンがあるんですよね。

まず従来の逸話を確認すると、農婦の女がつまみ食いをする子供をいましめようと包丁を振ったら子供の首が落ちてしまったという話で、この農民の「女」を「男」に入れ替えただけでほぼ同じ内容が治金丸の逸話になっています。

この、現在ネット上に流布している「つまみぐいをいましめるために包丁を振ったら子供の首が落ちた」逸話の出典は、探すと結局最近の刀剣の概説書が大本になっているようです。その更に大本はこれじゃないかな? という書名も出てきましたが自分ではまだ確認できてません。

つまみぐいをいましめるために脅しで包丁を振った逸話に対し、沖縄ゆかりのサイトのいくつかで紹介されている逸話の方の大筋は、「北谷の農婦の女が菜っ葉を切っている時、空腹でむずがる赤子をあやしながら包丁をしまおうとしたら振ってしまい、赤子の首が落ちた」という話になり更に続きがあります。

「その頃、今帰仁城を建設する際に石が硬くて困っていた工事人たちがこの話をきき妖刀を取り寄せると、スパスパ切れたので無事に今帰仁城の石垣を築き上げることができた。そのため、今帰仁城の石垣にはノミの跡がないのである」……と、言う感じに赤子殺しから今帰仁城建築話に続く逸話です。

その後王家に献上されたよーという話と相まって、内容的にはこっちの逸話の方が、「北谷菜切」という名の由来や来歴とか全部説明していてそれっぽいなと思います。

……ただまぁ、出典がそもそも「民話」というところを考えるとどこまで確かかはわからない。どちらの逸話であっても史実ではないでしょうし。

つまり沖縄の妖刀伝説はほぼ同じ逸話が治金丸になっているものと北谷菜切になっているものがあるうえに、更に北谷菜切の逸話は微妙にパターンや意味合いが違う別の逸話が存在する。
もとをただせば一つの逸話の変質かもしれませんが、それを考えるには沖縄の民話研究の足跡を軽く理解する必要があります

妖刀伝説の出典は沖縄の「民話」になります。

この民話の扱いなんですが、沖縄はもともと民謡文化があるので、昔から伝わる話が多いけど文書化されていない伝承が普通に多かった。
戦前からも研究者はいたけれど、更に最近この民話研究が活発化しています。

農夫の男がつまみぐいをいましめるために包丁を振ったらという「治金丸」の逸話は伊波南哲氏の『沖縄の民話』などに載っていますが、これはそれ以前に喜納緑村氏が採集した話です。喜納緑村氏が採集した方は『南の昔話』という本の116、117コマ目、つまりデジコレでも読めます。

伊波南哲氏は喜納緑村氏の民話に触れて育ち、戦前から民話を愛好して児童学友会の顧問として広める活動をしていましたが、この流れが大戦によって打ち切られます。そして戦後にもう一度立ち上げようとしたときにはうまくいかなかったという事情が、『沖縄の民話』のはしがきで説明されています。

終戦直後はやはりそういう大変な状況が民話研究にも影響を及ぼしていました。
しかしその後も民話の研究自体は続けられていて、元沖縄国際大学教授の遠藤庄治先生を中心とした人々が昭和48年あたりから10年かけて沖縄中の口承伝承を聞き取り記録する活動を大々的に行ったそうです。

これらの話は沖縄県立博物館のサイトで説明されていました。
遠藤庄治先生が亡くなる際にそれら沖縄の伝承を集めたテープを博物館に寄付されたそうです。
それが、ここ最近の沖縄の民話研究が活発化している理由のようです。
沖縄の民話・伝承系の情報を調べると論文にしろ本にしろ割と最近の日付です。

沖縄の妖刀伝説が治金丸だったり北谷菜切だったりいろいろなことになっているのはそうした文化的背景による事情が考えられます。
これ以上の調査、逸話が最初はどちらのものだったのか調べようとすると素人には無理なのと、調べなくてもすでにそういう研究されているなら期待して待っていいかも。

とうらぶ的に考えると、他の刀剣も比較的最近の誤伝やらなんやらを熱心に取り入れているところから考えて、とうらぶの北谷菜切の中核はただの赤子殺しではなく、赤子殺しから築城伝説の石切包丁へ続く話の方じゃないかな、と思いました。

赤子殺しというと忌まわしい妖刀伝説のようなイメージになりますが、そこに石切包丁として今帰仁城の工事人を助けた伝説がくっつくことによって、あれ、北谷菜切が「恐れられている話」からそういう逸話で「愛されている」話に変わるという……。もしかしてこれ美談扱いなの!? って正直一番驚いた。

一応最近だと沖縄の怖い話系で「妖刀ナーチラー」が盛んに紹介されているようなので恐れられているのも本当なんでしょうが、そういう怖い話があった、よし、ドラマやイベントで紹介しよう! って企画物が続々検索に出てくるあたり、結局沖縄民はなーちりー大好きやん。

もう何度目の結論かわかりませんが、刀の研究史は大体初期に抱いていたイメージと違うところに着地する。

参考サイト

「那覇市歴史博物館」

参考文献

『南島風土記:沖縄・奄美大島地名辞典』(データ送信)
著者:東恩納寛惇 発行年:1950年(昭和25) 出版者:沖縄文化協会ほか
目次:北谷村 北谷田園 ページ数:377、378 コマ数:208、209

『北谷村誌』(データ送信)
著者:真栄城兼良 編 発行年:1961年(昭和36) 出版者:北谷村
目次:第八編 伝記伝説名所旧跡 一五、名刀北谷ナーチラー
ページ数:402、403 コマ数:238

『北谷町史 第2巻 (資料編 1 前近代・近代文献資料)』(データ送信)
著者:北谷町史編集委員会 編 発行年:1986年(昭和61) 出版者:北谷町
目次:二 北谷町関係おもろ―語釈と解説
ページ数:48、49 コマ数:43

『北谷町史 別巻 (近代統計資料)』(データ送信)
著者:北谷町史編集委員会 編 発行年:1987年(昭和62) 出版者:北谷町
目次:II 本巻収録〈統計資料〉にみる北谷の概要
ページ数:14 コマ数:21

「浦添市美術館紀要 = Bulletin of Urasoe Art Museum (6)」(雑誌・データ送信)
著者:浦添市美術館 編 発行年:1997年(平成9)年3月 出版者:浦添市美術館
目次:資料紹介 天字形・団扇形の印のある漆工品–ドイツ・ハンブルグ工芸美術館の収蔵品より新出資料紹介 / 宮里正子
ページ数:43、44 コマ数:24、25

『琉球妖怪大図鑑 上』(紙本)
著者:小原猛 発行年:2015年(平成27) 出版者:琉球新報社
目次:妖刀ナーチラー(北谷菜切)
ページ数:66、67

概説書

『日本刀図鑑: 世界に誇る日本の名刀270振り』(紙本)
発行年:2015年(平成27) 出版者:宝島社
目次:北谷菜切 ページ数:101

『図解日本刀 英姿颯爽日本刀の来歴』(紙本)
著者:東由士 編 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:琉球刀の世界 北谷菜切 ページ数:12

『物語で読む日本の刀剣150』(紙本)
著者:かゆみ歴史編集部(イースト新書) 発行年:2015年(平成27) 出版者:イースト・プレス
目次:第7章 短刀 北谷菜切 ページ数:179

『刀剣物語』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:名刀の逸話 北谷菜切 ページ数:234

『刀剣説話』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2020年(令和2) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
(『刀剣物語』発行年:2015年を加筆修正して新たに発行しなおしたもの)
目次:名刀の物語 北谷菜切 ページ数:237

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