じゅずまるつねつぐ
概要
「太刀 銘恒次(名物数珠丸)」
『享保名物帳』所載。備中青江恒次の太刀。
天下五名剣の一つ。
『諸家名剣集』
(東京国立博物館デジタルライブラリー)
時代:享保4年(1719) 写本
コマ数:38
『日本刀大百科事典』によれば「珠数丸」であって「数珠丸とは書かない」そうだが、現在は「珠数」でも「数珠」でもどちらでも検索でヒットする。
「珠数」と「数珠」の違いは昔からどちらも使われどちらも正しいとされているようである。WEBで検索するとこの話だけで解説ページがいくつも出てくる。
「数珠」表記が増えてきたのは室町時代以降らしいので、鎌倉時代の日蓮上人の太刀の名としては「珠数丸」が正しいと言われればそんな気もする。
しかし、現在では「数珠」が一般的であり、また日蓮上人の太刀と呼ばれる刀は「太刀 銘恒次(名物数珠丸)」で文化財登録されている。
『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:じゅずまる【珠数丸】
ページ数:3巻P48、49
日蓮聖人遺愛の太刀
『日本刀大百科事典』によれば、『享保名物帳』の享保8年(1723)本に、「法主大上人之御太刀也ト云」とあり、日蓮聖人遺愛という。
文永11年(1274)、日蓮聖人が初めて身延山に登るとき、当時山林に山賊が棲んで往々旅客を悩ませていた。
聖人一人が登るのは危険だと止めたものの日蓮は聞き入れなかったので、山の麓南部という地の郷士がこの太刀を日蓮に護身のためにと寄進した。
日蓮はその太刀に数珠をかけ、杖として登山した。
つつがなく踏査して草庵を結んだ。
『諸家名剣集』
(東京国立博物館デジタルライブラリー)
時代:享保4年(1719) 写本
コマ数:38
『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:青江、恒次、左文字、三原、安綱の部 珠数丸恒次
ページ数:185 コマ数:107
寄進者は誰か? 「波木井実長」説と「北条弥源太」説
内田疎天氏の『日本刀通観』と、川口陟(室津鯨太郎)氏の『刀剣随筆』で
身延山の仏堂を寄進したのが、波木井実長であるため、恒次寄進の大檀那は波木井実長とする説
をあげている。
ただこの話の大元は「数珠丸恒次」の再発見者である杉原祥造氏の話(日蓮聖人遺愛 名物数珠丸記」)のようである。
どちらの本も杉原祥造氏の文章の引用である。
『日本刀通観』(データ送信)
著者:内田疎天 発行年 1935年(昭和10) 出版社:岡本偉業館
目次:第一章 日本刀史の十斷面
ページ数:28、29 コマ数:59
『刀剣随筆』(データ送信)国立国会図書館/図書館送信限定 図書
著者:川口陟 発行年:1927年(昭和2) 出版者:南人社
目次:一〇 國賓數珠丸恒次問答
ページ数:231 コマ数:140
福永酔剣氏は『日本刀大百科事典』で
しかし、聖人が身延山に入る三か月前、北条弥源太が大小二振りを寄進した。
それに対する聖人の礼状に、「あまくに、或は鬼きり、或はやつるぎ、異朝には、かむしやう・ばくやが剣に、争(いかで)かことなるべきや」とある。
おそらくその大刀が珠数丸であろう。
としている。
この話の出典『邑久郡史』は国立国会図書館デジタルコレクションにもあるが、該当箇所を見つけ出せなかったのでとりあえず「あまくに、或は鬼きり、或はやつるぎ、異朝には、かむしやう・ばくやが剣に、争(いかで)かことなるべきや」という文章が載っている「弥源太殿御返事」という日蓮上人の手紙が収録されている資料を挙げておく。
『日蓮上人遺文大講座 第5巻』
著者:小林一郎 講述 発行年:1936、1937年(昭和11、12) 出版者:平凡社
目次:彌源太殿御返事
ページ数:302、303 コマ数:156
本阿弥光甫の拵え
江戸期になって、日蓮宗の信者だった本阿弥光甫が、蓮花を紋にした四分一すり剥がしの金具つきの拵えを奉納した。
ただしこの拵えは現存していない。
『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:青江、恒次、左文字、三原、安綱の部 珠数丸恒次
ページ数:185 コマ数:107
紀州徳川家との関わり
紀州頼宣がこの刀を神聖視していたということが杉原祥造氏の「日蓮聖人遺愛 名物数珠丸記」に記されている。
『刀剣随筆』の中でも松平頼平氏が「数珠丸恒次」と紀州頼宣との関わりに言及している。
『南葵文庫』にその記録があるというが、刀剣関係の書籍でも実際に見たという表現より上記の「日蓮聖人遺愛 名物数珠丸記」の文章からそう考えているようだ。
『南葵文庫』自体は国立国会図書館デジタルコレクションで読めるようだが、該当記述を見つけ出せそうにない……(誰かやってくれないだろうか)。
この紀州徳川家との関わりに関しても『日本刀大百科事典』で福永酔剣氏が検討している。
・数珠丸が身延山を出て、紀州徳川家に入った時期については、寛永(1624)末年、とする推論がある。
・紀州頼宣の生母・お万の方が、身延山の日蓮の大信者だったとはいえ、寺宝三種の一である珠数丸を紀州家に渡したとは考えにくい。
・本阿弥光甫が拵えを寄進したとき、もし紀州家にあったら、その後の『享保名物帳』(※1700年代)でも、所蔵者は紀州家となっているはずである。
・そうなっていない所を見ると、先の寛永末年説は誤りのようである。
・すると、考えられるのは明治初年、廃仏毀釈の嵐が吹きまくった時、重宝の安否が気遣われたので、紀州家に持ち込まれたのか、引き取られたのか、そのどちらかであろう。
『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:じゅずまる【珠数丸】
ページ数:3巻P48、49
1920年(大正9)、杉原祥造氏が入手、本興寺に奉納
大正9年(1920)、杉原祥造氏が入手し、尼崎市の日蓮宗・本興寺に納めた。
この時はどうやらいろいろあったらしい。
杉原祥造氏は松平頼平子爵の縁でどこからかその刀を入手し、「数珠丸恒次」として本興寺に納めた。
この刀の元の持ち主は「某侯爵」などというふうに濁され、杉原氏が一体どの華族家から買い取ったかその名が明かされていないために伝来が判然としない。
また、最初は身延山久遠寺に買ってもらおうとしたところ、商談がつかなかったという話もある。
最終的に尼崎の本興寺に「数珠丸恒次」として納められることになったが、その本興寺は杉原祥造氏の隣家らしい。
こうした様々な理由により、「数珠丸恒次」の価値や真贋が疑われたこと、杉原祥造氏の行動にかなり批判があったことが、「数珠丸恒次」について直接杉原祥造氏に尋ねた川口陟氏の『刀剣随筆』から伺える。
『刀剣随筆』(データ送信)国立国会図書館/図書館送信限定 図書
著者:川口陟 発行年:1927年(昭和2) 出版者:南人社
目次:一〇 國賓數珠丸恒次問答
ページ数:231 コマ数:140
今現在「数珠丸恒次」に関して伝わっている内容の多くは、この「日蓮聖人遺愛 名物数珠丸記」を参考にしていると考えられるのでこれを下記に引用する。
ちなみにこの文章、『現代人の日蓮聖人伝』だと松平頼平子爵が杉原祥造氏に与えたとも言われている。
※( )の中は半角二行
日蓮聖人遺愛 名物数珠丸記
一、剣史数珠丸は、日蓮聖人遺愛の名剣也、文永十一年五月聖人将に身延に法幢樹立の地を相せられむとするや山麓の大檀那波木井三郎実長拝跪して是れを聖人に献ず、聖人喜悦して法衣の下に帯び其刀柄に念珠を掛けて山に登らる、由つて数珠丸と号すと謂ふ(聖人は刀剣を愛好せられ、殊に数珠丸は座右を離されざりしと伝ふ、また一説に曰、聖人鎌倉に在はせし時、大檀那此刀を献ず、聖人之を須弥壇に安置し、「昨迄は殺人の刀なりしも今よりは活人の剣たり」云々とて読経せられ、夫れより法刀として深く秘愛し常に之を帯せられたりと)弘安五年十月、聖人池上に遷化せられ、尋いで身延山に葬儀あり、天蓋の次に兵衛志この剣を棒持せしこと、日蓮聖人絵巻に見ゆ爾来同山に於ける門外不出の重宝三種(御袈裟、中啓、数珠丸)の一となり、貫主の外は猥りに見るを許さずして伝来せり(甲斐国史、身延根元記、身延鏡、身延山宝物目録、本化高祖年譜考異参照)元和寛永の交、紀伊大納言頼宣頗る此刀を聖視し、錆渋の生ぜむ事を虞て、年々人を同山に派遣し、之れが浄式に力められたる事、南葵文庫に記録あり、後原因詳ならざるも、同山と深き関係を有する某候の手に移り、襲蔵せられて今に至れり。
1922年(大正11)4月13日、旧国宝指定(現在は重要文化財)
大正11年(1922)の4月13日に国宝(旧国宝)指定され、現在は重要文化財となっている。
『官報 1922年04月13日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1922年(大正11) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第三百六十八号 大正十一年四月十三日
ページ数:346 コマ数:6
杉原祥造氏によって奉納され、旧国宝にも指定されたこの大正頃から現在までずっと本興寺所蔵。
作風の話その1、本阿弥家の記録
刃長二尺七寸七分(約83.9センチ)、本造り。
澄肌まじりの小杢目肌に、乱れ映りが出る。
刃文は中直刃、彎れがかり、小乱れ・足まじる。鋩子は詰まるが、大丸でわずかに返る。 生茎、目釘孔一つ、「恒次」と刀銘に切る。
『享保名物帳』に、「後の恒次也」とある。
本阿弥家では古青江恒次に二代あるほか、建長(1249)の恒次をあげている。
(『校正古刀銘鑑』『掌中古刀銘鑑』)
「後の恒次」というのは、この建長恒次の意味であろう。
『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:じゅずまる【珠数丸】
ページ数:3巻P48、49
『日本刀大百科事典』の酔剣先生のこの記述は本阿弥家の記録と見解を重視したもののようである。
現在「数珠丸恒次」と呼ばれる刀の「恒次」がどの刀工であるかというのは斯界では昔から取りざたされてきた問題であるらしく、あちこちの研究書でこの恒次に関する検討がされている。
作風の話その2、古備前の恒次説
日蓮上人の「数珠丸恒次」は『享保名物帳』の頃より青江派、「古青江の恒次」とされてきた。
しかし刀の銘文からわかるのは「恒次」のみであり同名の刀工がいる場合、作風と照らし合わせねばならない。
近年の研究では「数珠丸恒次」の作者は「古備前の恒次」だろうと言われている。
この話題だと佐藤寒山氏の『新・日本名刀100選』あたりが出典としてよく挙げられているが、別の研究者もそれに触れている例として下記の常石英明氏の本がわかりやすいと思うので引用させていただく。
『日本刀の歴史 古刀編』(紙本)
著者:常石英明 発行年:2016年(平成28) 出版者:金園社
目次:備中国(岡山県の一部) 古青江鍛冶の一門 古青江の特徴 恒次
ページ数:407、408
なお数珠丸恒次について『ケチ』をつける訳ではないが、この太刀は伝承通りの古青江恒次ではなく、古備前正恒の子である古備前恒次とする近代の説に全面的に賛成する者です。その理由は次の通りです。(これは古青江物と古備前の相違点を示す。)
(1)古備前の特徴である小丁子乱の刃取りであって、古青江の直刃仕立の小乱という原則に反していること。
(2)鋩子は焼の弱い小丸風の古備前鋩子で古青江のやや焼の強い大丸方式の鋩子とは全く違うこと。
(3)古青江にはない地映りが現れ、地肌も古備前通りの小板目鍛えであり、古青江の縮緬肌とはならず、また澄肌も現れていない。
(4)銘も青江鍛冶特色の刀銘ではなく、銘字の切り方も青江方式ではなく、古備前恒次同様の太刀銘であり、特に古青江なら必ず大筋違いであるべき鑢目が、古備前同様の筋違いである。
(5)その他種々の点でも、古備前の掟に妥当しており、古青江の特徴に照らすとその一つ一つがみな反している(例えば備前地鉄であって備中地鉄ではない)。これらのことは鑑定学上では許せないことです。いわば昔の鑑定の未熟さ、或いはいい伝えとの矛盾を示した一例と解します。但し、伝来は重んじます。
調査所感
・上手くまとめられなかったんでできれば出典とした書籍も読んでください
一応まとめてみたけど自分で書いてても他の刀より特にわかりにくいなと。
いや、私の文章が下手なのはいつものことだけど。出典をきっちりできる限りチェックしてもらいたいのもいつものことなんだけど。
今回は特に出典とした本をそれぞれ読んでいただいた方がいいと思います。
色々な資料を並行して読みながら自分で書誌を整理してこの時代の本にこう書かれている、という内容を理解しないと事情が掴みにくい。
お勧めは『刀剣随筆』。
「数珠丸恒次」に関してはその他にも日蓮聖人関係で日蓮宗の方の資料にちょこちょこ記述が遺っているようですね。
今回はそこまでやってられなかったんですが、もっと詳しく知りたい方は日蓮聖人関係を調べるのも面白いと思います。
・恒次という名の刀工の話
本阿弥家が鑑定した「恒次」は「建長の恒次」だろうということを酔剣先生が言っていると上で書きましたが、「建長の恒次」は古青江の3代目のようです。
『日本刀の歴史 古刀編』を参考に系譜を見ると「恒次」は古青江だけで4代いて、時代はそれぞれ承元、建暦、建長、正和。
「珠数丸」の作者は「後の恒次」、つまり「初代ではない」と言われていたようです。
「珠数丸」については『名物帳』と『諸家名剣集』で記述がかなり違うようなのでどの史料かよくわかんなくなってきましたが、作者の話をするときに「後の恒次」は誰か研究者たちが結構気にしているようなので、ここが重要なポイントです。
『大日本刀剣史 上巻』で原田先生がその辺りを整理しているのがわかりやすいと思います。ここでは古青江の恒次の話は3代まで触れています。
伝承のような「初代の恒次」ではないと当時の本阿弥家が鑑定している。
2代目は初代に劣らぬ名工なので、初代でなかったら2代と短絡的に考えることはできない。
では3代か? と言われるとそこにも研究者は難色を示す。
そして現代での研究者・鑑定家の意見だと「そもそも古青江ではなく、古備前の恒次」だという結果のようである。
・謎に包まれた発見先
杉原先生も松平頼平子爵も、結局誰もどこからこの刀を発見したのか明かしていない。
表面的にはこれが要するに一番の問題のように見えます。
それで再発見者の杉原先生は不正をしたのかどうかと当時色々言われたと。
・邪推してみる
最低限の情報だけですが一通り調べ終わったところでハイパー無責任タイムに突入していいですか。
今現在「数珠丸恒次」と呼ばれる刀の真贋について、再発見者・杉原祥造先生周りの事情を考えながら下世話にも邪推してみよう。
大正11年から今も国宝として扱われているこの刀……これ多分、杉原先生視点だと普通に本物の「日蓮聖人の数珠丸」の可能性が高いってことでは?
大正の国宝選定時に真贋を問われた、杉原先生不正してない? とさんざん突っ込まれた。
そう言うとまるで贋物のようだけれど、それにしては杉原先生の態度が変だなと。
再発見場所をどこの華族のオークションか明かさなかったら怪しまれるのは当然じゃないですか。
それを明かしてしまえばいいのにしない……いや、できなかったのでは?
杉原先生が買った先、杉原先生と、仲介者である松平頼平子爵だけが知るその相手は、自分の素性やこの刀の伝来について世間に出すことを良しとしなかった。
そうなるとどうなるか。刀の来歴に関する、ある意味一番重要な部分の情報が欠けてしまいます。
これまで見てきた古名刀の評価と伝承に関しても、両者が一致しているものってなかなかありませんでしたよね。
文献と刀工が違うことは当たり前、現物からすると逆に史料の方が批判できる、しかしその前提にはまず伝来の確かさも重要で、一般家庭から何の資料もなくこれはあの名刀! とかいう刀が出てきてもそうそう信用されはしない。色々なパターンがありました。
身延山から行方不明になったタイミングもいろいろ説があるけどいまいちはっきりしない、その状況でもともとの所有者を隠したら伝来の保証などあったものではない。
けれどそれが所有者の意向で発表できなかったのなら、そういう刀の扱いはどうなるか。
伝来情報を明かすことができない。その時、重要になるのは、近年の研究者たちの評価、史料批判の観念に基づく純然たる刀そのものの鑑定者による考察ではないか。
この刀は――「古青江」ではなく、「古備前」の「恒次」。
伝来情報が欠けた状態で、「伝承」と刀工までも違ったら、その刀は「日蓮聖人の数珠丸」だと認識してもらえるのか?
普通に考えて無理ではないか? だから。
どこの華族から買ったのか、この刀の伝来を知っていた杉原先生は、「日蓮聖人の数珠丸」の国宝への登録を急いだのでは?
元の所有者から買った人間がこの刀の情報を残さなければ、この刀は伝承で日蓮聖人の刀であると言われた「古青江の恒次」とは無関係な、ただの「古備前の恒次」として処理されてしまうだろうから。
はい、この辺りで一度冷静になりましょうねー。これ私の邪推ですからねー。
この邪推には何も保証はありませんからねー。
ただ、杉原先生の研究から読み取れるもともとの性格や能力、かなり親しい友人らしき川口陟先生が『刀剣随筆』に残してくれた態度のおかしさ諸々から考えるとこの仮説が正直しっくりくるような。
そもそも杉原先生は、この刀が近年の研究者たちの言うように「古青江ではなく古備前の恒次」であることに気づいていたかどうかがポイントなのではないかと思います。
気づいていた、と考えたほうがこの話の場合しっくりくる。
今現在「数珠丸恒次」とされる刀は、杉原祥造先生が新聞記者たちに名剣として随分喧伝したという話だそうです。
その割に、愛刀家や鑑定の玄人には全然見せていない、ここを『刀剣随筆』で川口陟先生が不審がっています。前に別の名刀を買ったときは自慢してただろう、って。
間違いなく古青江の恒次だと確信していたならむしろ方々に見せてあの鑑定家もこの愛刀家もこう言ったよと保証を得たほうがよさそうなものです。
この、玄人に見せなかった理由が、見識のある人によって古青江ではなく古備前の恒次だと看破されることを恐れたのだったら納得が行くかなと。
文献資料を重視するなら、日蓮聖人の恒次は古青江であって古備前ではない。
だからこの刀は日蓮聖人の数珠丸ではない。そう結論されてしまう恐れがある。
しかし所有者の華族を知っている杉原先生がそこに自信を持っていたなら、そういうことを言わせないためにさっさと寺に奉納して国宝登録させ、事実上の数珠丸恒次としての地位を確立させたかったのでは?(※何度も言いますが邪推です)
杉原先生は『刀剣人物誌』などでこう言われています。
何事も徹底的にやらなければ気が済まない人だ、と。
知った情報は基本的に全部書くし、保留事項もそれはそれとして書き留めておき、出典もきっちり挙げる。上で引用した「日蓮聖人遺愛 名物数珠丸記」もそんな感じですしね。
その杉原先生が国宝、天下五名剣の一つ、日蓮聖人の遺愛刀である数珠丸恒次にだけ適当になったと考えるよりは、全部わかってての行動なのかもな……と。
『刀剣随筆』だと川口陟先生が松平頼平子爵をたじたじにさせているのがまた面白いんですよね。
(杉原先生も川口先生も個性的過ぎる)
この時の松平頼平子爵の言い分は国宝への認定に関して「伝来は取りません。刀其物を取りました」。
光山押形に押形があって同一品らしいですが、杉原先生が一方で数珠丸を喧伝しながら、国宝としては刀其物の出来を取る。
現在重要文化財の数珠丸恒次に関しては、古青江ではないとは言われるものの名刀ではないみたいなことを言われているのは特に見かけなかったので、名刀は名刀なんじゃないでしょうか。ただし伝承通りの刀工ではない、と。
作風の話で常石英明氏の見解を載せました、その最後にこうあります。
“これらのことは鑑定学上では許せないことです。いわば昔の鑑定の未熟さ、或いはいい伝えとの矛盾を示した一例と解します。但し、伝来は重んじます。”
伝来は重んじるけれど、昔の鑑定が未熟だったり、言い伝えに矛盾があることも考えねばならない。
近年の研究者が出したような、この結論が欲しかったからこそ、所有者の名を明かせず伝来の証明ができなくとも、数珠丸恒次として身延山に売ろうとしたり自分と縁深い本興寺に奉納したり色々と画策したのかなぁと。
伝来者の名を明かせない以上、この刀が「数珠丸恒次」だと知っている、確信している人間がその情報を残すのと残さないのとじゃ大違いですから。
ま、何度も言いますが、完全な邪推です。
本当のところはまったくわかりません。
杉原先生が本当になんか企んでた可能性だってあるし。
ただ杉原先生が所有者の華族の名を明かさなかったという行動に、実際この刀は恒次の名刀ではあるけど恒次は恒次でも青江じゃなくて古備前やないか! と現在言われている状況を加味するとこんなことも考えられるのではないかと。
刀は語らない。己の元の主も来歴も。その刀について見たり聞いたりした人間だけがただ語ることによって今の歴史がある。
この刀こそが「数珠丸恒次」だと語った人がいるから今あの刀は「数珠丸恒次」と呼ばれている。
結論は当然出せそうもないので、各自資料を引き比べてお考え下さい。
意外と考察しがいのある調査結果になりました。
・ところで高瀬羽皐氏が少年時代に見たと言っているんですが
えー?
『刀剣談』
著者:高瀬真卿 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第三門 堂上家及社寺 身延山の珠数丸
ページ数:31、32 コマ数:40、41
参考文献
『諸家名剣集』
(東京国立博物館デジタルライブラリー)
時代:享保4年(1719) 写本
コマ数:38
『刀剣談』
著者:高瀬真卿 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第三門 堂上家及社寺 身延山の珠数丸
ページ数:31、32 コマ数:40、41
『剣話録 上』
著者:剣話会 編(別役成義) 発行年:1912年(明治45) 出版者:昭文堂
目次:十三 青江物(上)
ページ数:117 コマ数:68
『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:青江、恒次、左文字、三原、安綱の部 珠数丸恒次
ページ数:185 コマ数:107
『官報 1922年04月13日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1922年(大正11) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第三百六十八号 大正十一年四月十三日
ページ数:346 コマ数:6
『国粋美集 下』(データ送信)
著者:兵庫県 [編] 発行年:1922年(大正11) 出版者:藤井藤吉
目次:五 國寳刀劒寫眞竝解說
コマ数:107
『日本趣味十種 国学院大學叢書第壹篇』(データ送信)
著者:芳賀矢一 編 発行年:1924年(大正13年) 出版者:文教書院
目次:八 刀剣の話 杉原祥造
ページ数:348 コマ数:194
『刀剣雑話』
著者: 室津鯨太郎(川口陟) 発行年:1925年(大正14) 出版者:南人社
目次:六 本阿彌家の人々 六 第一別家光二系
ページ数:123 コマ数:85
『刀剣談 再版』(データ送信)
著者:羽皐隠史 著, 高瀬魁介 訂 発行年:1927年(昭和2) 出版者:嵩山房
目次:第四、武将の愛刀 身延山の珠数丸
ページ数:165~167 コマ数:94、95
『修養全集 第12巻 (日本の誇)』(データ送信)
著者:大日本雄弁会講談社 編 発行年:1929年(昭和4) 出版者:大日本雄弁会講談社
目次:霊器日本刀
ページ数:723 コマ数:374
『尼崎志 第1篇』
著者:尼崎市 編 発行年:1930年(昭和5) 出版者:尼崎市
目次:チ 本壽院
ページ数:199~201 コマ数:112、113
『日本刀通観』(データ送信)
著者:内田疎天 発行年:1935年(昭和10) 出版者:岡本偉業館
目次:第一章 日本刀史の十斷面
ページ数:28、29 コマ数:59
『日本刀講座 第9巻』(データ送信)
著者:雄山閣 編 発行年:1935年(昭和10) 出版者:雄山閣
目次:名士と刀劍
ページ数:71 コマ数:195
『現代人の日蓮聖人伝』(データ送信)
著者:星野武男 発行年:1935年(昭和10) 出版者:文松堂出版部
目次:5 寶物篇
ページ数:235 コマ数:131
『武道全集 第5巻』(データ送信)
著者:原田道寛 発行年:1935年(昭和10) 出版者:平凡社
目次:天下出群の五名劍
ページ数:263、2641 コマ数:143、144
『上田保遺秉』(データ送信)
発行年:1935年(昭和10) 出版者:上田秋夫
目次:日本刀に就て
ページ数:56 コマ数:49
『日蓮主義大講座 第6巻』(データ送信)
著者:師子王文庫 編 発行年:1936年(昭和11) 出版者:アトリヱ社
目次:日蓮聖人と剣 村瀬龍淵
コマ数:176
『尼崎今昔物語』(データ送信)
著者:畠田繁太郎 発行年:1937年(昭和12) 出版者:万有社
目次:第八卷
ページ数:411、412 コマ数:237、238
『東京帝室博物館復興開館陳列案内』
著者:帝室博物館 編 発行年:1938年(昭和13) 出版者:東京帝室博物館
目次:四、陳列總目錄
ページ数:173 コマ数:90
『東京帝室博物館復興開館陳列目録 第6』
著者:東京帝室博物館 編 発行年:1938年(昭和13) 出版者:東京帝室博物館
ページ数:134 コマ数:71
『大日本刀剣史 上巻』(データ送信)
著者:原田道寛 発行年:1938年(昭和13) 出版者:春秋社
目次:日蓮の珠數丸
ページ数:535~539 コマ数:279~281
(『大日本刀剣史』はデジコレに2冊あるのでご注意)
『皇道と日蓮』(データ送信)
著者:堀内良平 発行年:1941年(昭和16) 出版者:文昭社
目次:貴重なる國寶として現存する名劍「珠數丸」の由來
ページ数:56、57 コマ数:32
『日本刀と無敵魂』
著者:武富邦茂 発行年:1943年(昭和18) 出版者:彰文館
目次:珠數丸恒次
ページ数:164、165 コマ数:97
『刀剣随筆』(データ送信)国立国会図書館/図書館送信限定 図書
著者:川口陟 発行年:1927年(昭和2) 出版者:南人社
目次:一〇 國賓數珠丸恒次問答
ページ数:224~247 コマ数:137~148
(印刷ミスがあるようで129コマが引っかかりますが、137コマ以降を見たほうがいいです)
『武将と名刀』(データ送信)
著者:佐藤寒山 発行年:1964年(昭和39) 出版者:人物往来社
目次:日蓮上人の愛刀珠数丸恒次
ページ数:39~41 コマ数:24、25
『日蓮教団全史 上』(データ送信)
著者:立正大学日蓮教学研究所 編 発行年:1964年(昭和39) 出版者:平楽寺書店
目次:第二節 聖人伝に関する二、三の問題
ページ数:43 コマ数:33
『日本刀講座 第3巻 新版』(データ送信)
発行年:1967年(昭和42) 出版者:
目次:各流派と作人個々の作風 青江系
ページ数:225 コマ数:168
『寒山刀剣教室 基礎篇』(データ送信)
著者:佐藤寒山 著 発行年:1968年(昭和43) 出版者:徳間書店
目次:平安時代の銘
ページ数:161~164 コマ数:84~86
『日本刀講座 第10巻 新版』(データ送信)
発行年:1970年(昭和45) 出版者:雄山閣出版
目次:山陰・山陽・西海道
ページ数:199~201 コマ数:221、222
「Museum (280)」(雑誌・データ送信)
著者:東京国立博物館 編 発行年:1974年7月(昭和49) 出版者:東京国立博物館
目次:青江刀工の研究 / 加島進
ページ数:22 コマ数:13
『新・日本名刀100選』(紙本)
著者:佐藤寒山 発行年:1990年(平成2) 出版社:秋田書店
(中身はほぼ『日本名刀100選』 著者:佐藤寒山 発行年:1971年(昭和46) 出版社:秋田書店)
目次:18 数珠丸恒次
ページ数:138
『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:じゅずまる【珠数丸】
ページ数:3巻P48、49
「法華 : 宗教文化誌 82(4)(850)」(雑誌・データ送信)
発行年:1996年(平成8)4月 出版者:
コマ数:2
概説書
『剣技・剣術三 名刀伝』(紙本)
著者:牧秀彦 発行年:2002年(平成14) 出版者:新紀元社
目次:第一章 天下五剣・天下三槍 数珠丸恒次 日蓮上人
ページ数:32、33
『日本刀図鑑: 世界に誇る日本の名刀270振り』(紙本)
発行年:2015年(平成27) 出版者:宝島社
目次:天下五剣 数珠丸
ページ数:16
『図解日本刀 英姿颯爽日本刀の来歴』(紙本)
著者:東由士 編 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:古今東西天下の名刀 数珠丸恒次
ページ数:67
『刀剣目録』(紙本)
著者:小和田康経 発行年:2015年(平成27) 出版者:新紀元社
目次:≪第二章 鎌倉時代≫ 備中国青江 恒次 数珠丸恒次
ページ数:61
『刀剣物語』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:天下・神代・伝説の刀 数珠丸恒次
ページ数:48、49
『刀剣説話』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2020年(令和2) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
(『刀剣物語』発行年:2015年を加筆修正して新たに発行しなおしたもの)
目次:神仏・霊力にまつわる刀剣 数珠丸恒次
ページ数:96、97
『刀剣聖地めぐり』(紙本)
発行年:2016年(平成28) 出版者:一迅社
目次:数珠丸恒次 ページ数:33