どんな地獄でも予想したいドMあるいはドS向けの蛇足
斬ると食うと、呪いの話(付舞台考)
斬ると食うと、呪いの話(付舞台考)2
の続きですが蛇足かもしれない、そんな微妙な雑予想(完全に舞台関連)。
正確な考察のためには無駄に楽観的になるのも悪戯に悲観的になるのもよくないので中庸を心がけてマイルドな結果をお出ししたいものですが、例外と限界は当然あります。
そもそも考察対象である物語がどこを目指しているのか? という根幹です。
想定より明るい結果になる場合はやっぱり素人の予想なんかゴミだよな! 公式は俺たちの想像を超えていくぜ! って喜べばいいんですが、想定より過酷な場合になるときはどうしたらいいのか。
よし、地獄を予想しよう!(待て)
今回はそんなもはや必要なさそうなところまで無駄にナイーヴに今見えている不穏フラグを全部拾っての考察です。
もとが憶測に憶測を重ねているので不穏なフラグばっかり拾ったら当然結果も酷いものになります。
今から過酷な結末を予想して自分自身にダメージを与えたいドM、あるいはそれだけキャラクターのバッドエンドを考えるドS向けの記事ですので、ノーマルな方はここでさようなら。
ここで最悪の予想をしておけばどんなシナリオでも楽しめる! 予想は外れてなんぼ! の方はようこそ。
「では参りましょう インフェルノへ」
1.地獄への道連れは誰か
前回綺伝をベースに考えると国広は「高山右近」「地蔵行平」「歌仙兼定」三者の立場をなぞることになるので忙しすぎやしないかと言いました。
これをざっくり解決する手段はまぁ、一役は別のものに担当してもらうことですね。
ただし長義を花ことガラシャ様の位置で考え、更に斬ることによる「統合」の原則を踏まえた時、この三者の役割はおそらく全て国広のものであって、他のキャラには代わることができない。
例外的に審神者だけは刀解という形で歌仙の役目を担う可能性はあるが、悲伝の三日月の時を考えると結局本丸側の刀剣男士が刀解までの間に追手として差し向けられている。
ガラシャを守るためにその夫であり、自らの友人でもある忠興を斬った高山右近。
ガラシャを守るために時の政府や兄弟の古今を裏切って、地獄へもついていこうとした地蔵行平。
刀剣男士としての使命を果たし、ガラシャを救うためにも忠興に代わり彼女を斬った歌仙。
正直、上の三者で言ったら「地蔵」くんのポジションを「誰か」に奪われるのが国広的には一番いやだよねという話。
綺伝においては、あくまで右近、地蔵、歌仙の三者はまったく別々の存在であって、だから同時に存在している。
けれど感情や目的の方向性、舞台の第二部はあくまで「名前」にまつわる「山姥切国広」と「山姥切長義」の話であるということを考えると、その物語は長義と国広の抱える問題におけるメタファーとしていずれ機能する予感しかない。
慈伝の時点で二振りの物語が交じり合う可能性が示唆されていて(主にED「心茲に在り」の歌詞)、長義はすでに国広の影である朧を綺伝で斬っている。
そうなると国広側も長義の何かを斬って統合が完成する可能性が高く、綺伝で考えるなら右近のポジションはまず逸れないと思われる。だから残り2役。
地蔵と歌仙。
ガラシャを生かすために何もかも裏切ってついて行った地蔵くんと、ガラシャを殺し、けれどそれ故に彼女の願いを叶え彼女の魂を救ったと言える歌仙。
……慈伝の時点でその裏の悲伝の意味を考えた時にやりましたが。
「足利義輝の刀」という「創作」のある「三日月」の本音は「鵺(時鳥)」の発言の方であるはず。
けれど三日月は決して自分ではその想いを口にせず、何もかも黙したまま、本丸にとっての裏切り者として戦い最後には刀解された。
三日月の本音が「鵺(時鳥)」と同じものであったなら、口にしなかった意味は理解できる。
刀剣男士として、死するべき定めにある足利義輝を守りたいなどと言えるわけはない。それこそ本丸への裏切りになる。
三日月は一見本丸を裏切っているように見えて、実際には裏切っていない。
裏切らなかったからこそ、あの結末なのだと。
三日月単体ではなく他の義輝刀も含むとはいえ、「鵺」が三日月の分身であり三日月が胸に秘めて言えない本心を語って心のままに行動していた存在であること。
第2部のラストがその悲伝の裏側にある慈伝をなぞるだろうことを考えると。
綺伝の始まり、ガラシャ様をまず彼女が属するキリシタン大名たちから攫って逃げた、彼女を守り彼女と共になら地獄へ落ちてもかまわないと行動していた地蔵くんの立ち位置は。
「朧」みたいに、国広自身から生まれた「影」のような何かが担当するんじゃ?
……つまり国広からすれば、自分が最も欲しかった立場を己の分身に奪われるのでは?
地蔵くんのガラシャ様への願いは、原作ゲームの時点で国広が本歌である長義に抱いているものと同じに見えます。
原作の方の慶長熊本の考察でもやりましたが、地蔵くんは裏切ったと言っても、そもそも歴史を改変したいわけではないんですよね。
ガラシャ様に生きてほしい。ただそれだけ。
それが要するに歴史改変だと言われればその通りであるけれど、それでもその違いを理解しておくことは大きい。
地蔵くんの望みが歴史改変ではなくガラシャ様の生であるならば、ガラシャ様の問題をなんとかできれば歴史を改変する必要がなくなるからです。
正史が自分の大切な存在の命を奪う不幸な物語にしか見えない。
だから相手を連れて閉じた世界を逃げ回るしかない。
そこに答なんてないのに。どこにも辿りつけはしないのに。
その姿勢は、原作ゲームの極修行の時点で山姥切国広が選んだ答と同じ。
山姥を斬ったのは自分で、それで本歌が山姥切になったのだと言われた。
それなら国広は認識を更新して堂々と自分が本当は山姥切だと名乗っても良かった。
けれどそれをしなかった。本歌の存在感を食うことを望んではいなかったから。つまり。
「山姥切長義」を消したくなかったから。本歌に生きてほしかったから。
そのせいで、国広自身の山姥切の名も逸話も本当に大事なものではないなんて否定しても。
それが自分にとって大事なものだと思っていなかったなら、そもそもわざわざ修行先でまでそれを調べに行ったりしないだろうに……。
だからこそ、綺伝の地蔵くんのポジションは悲伝の三日月に対する「鵺」のように国広の本音をぶちまける存在が担当するだろうと考えられますが、国広自身がその立場を得られる保証はない。
国広にとって最悪のパターンを想定すると、その立ち位置を「影」に持っていかれる可能性がある。
これが今のところ一番きつい予想ですね。
2.繰り返される物語
前回までで一度考察をまとめて思いましたが、舞台の第2部の結末は、国広が本丸で長義と出会った「慈伝」をおそらく繰り返すのだと思います。
もともと慈伝の時点で出した予想でも舞台のシナリオはひたすら入り組んだ繰り返し構造なので、第2部ラストは悲伝と慈伝のひっくり返しという感じに考察しましたが。
「名前」にまつわる第2部は、「悲伝」から連続性のある「慈伝」に始まり、維伝、天伝と无伝、綺伝、禺伝、夢語、単独行、そして次の慶応甲府の物語を経てそろそろ終局に向かうはず。
その中でも、特に「愛憎」という関係を明確に描いた綺伝が一番の注目ところだと思われます。
舞台における山姥切の本歌と写しの関係性は、長義初登場の慈伝の時点で、お互いに相手への「怒り」を伴うものとして描かれている。
仏教における三心所の一つ、「慈」の裏が三毒の「瞋」。「怒り」と「憎しみ」。
慈伝は悲伝を受けて第一部のエピローグの位置にあるので、「三日月と国広の物語」に対し、後から本丸にやってきた長義の存在が一つの答・一つの救いとなって国広を修行に送り出す物語としてあれはあれで見事なエンディングです。
ただし、「国広と長義の物語」としては不完全燃焼もいいところ。
長義は慈伝において望む答を得られていない。
かといってその結果は長義の望み自体が間違っていて諦めるべきものだったから、というようなものではなく、単純に国広が三日月との問題に捉われて長義を見ていなかった、長義の本心に触れるに至らなかったから、というのが主な原因でしょう。
慈伝において本歌と写しの関係の問題は、三日月の喪失という本丸の事情の前に棚上げにされています。
じゃあこのまま棚上げで終わるのか、と思ったらいやそうじゃないなこれ……と、維伝、天伝、无伝、綺伝と名前の問題がその話においてかなりの比重を占めていることから察せられます。
名前のない世を作りたいという龍馬の願い、天下を継ぐことで、自分も父の名を得たいという秀頼の願い。
本名と洗礼名、二つ以上の名を持つキリシタン大名たち。そして。
綺伝でガラシャ様が地蔵くんに自分を「姉上」と呼ばせている。
ここが重要だと思われる。
慈伝で長義が同田貫を通して間接的にですが国広のことを「なんと呼べばいい?」と聞いている。
これはその行為の反対側にある。
なんと呼ばれたいのか。
そして、なんと呼びたいのか。
長義くんは多分……国広には「本歌」って呼ばれたいんだろうね。
原作ゲームから顕現時の名乗りが「本歌・山姥切」だから。
自分が本物だから偽物である国広はいらない、というわけではなく、あくまで自分は「本歌」で国広は「写し」、そういう「ふたつの山姥切」として在りたい。
形としてはこれ、寒山先生の唱えた説そのままなので長義の本音として別に不自然ではない。
けれどその前に長義は常に国広を試している。偽物と呼ぶことでどんな反応が返ってくるか。
その結果、舞台に限らずどの派生……というか原作から、国広は長義の意図を読み取れていないように見える。
そして国広だけでなく、長義自身もまた、国広がどんな思いでいるのかを読み取れない。
お互いに相手を想いながらもすれ違ってしまっている。
第1部において慈伝が虚伝から悲伝というそれまでの話の要素を引き継ぐ構造、かつ悲伝のひっくり返しで一つの「答」という図式だったこと。
更に維伝以降が慈伝で棚上げされた名前の問題を見事に引き継いでいることを考えると。
舞台のシナリオ構造は、
悲伝・慈伝をプロローグにおいて維伝以降展開された物語がそれをなぞり、更にもう一度慈伝・悲伝型の二つセットのクライマックスとエピローグを置いて繰り返す構造だと考えられます。
つまり何が言いたいかというと、虚伝はおそらく第2部だと朧が登場した維伝以降に相当する物語であって、三日月の物語の本当のプロローグはその前。
更にその本当のプロローグはおそらく国広側のエピローグと連結しているものと考えていい構造だと思います。
慈伝相当物語
悲伝相当物語
虚伝
義伝
ジョ伝と外伝
悲伝
慈伝(第1部エピローグ兼第2部プロローグ)
維伝
天伝と无伝
綺伝
禺伝
夢語
単独行
慶応甲府
慈伝相当の話
悲伝相当の話(第2部プロローグ兼第3部プロローグ)
慈伝における山姥切の本歌と写しの問題は、ほとんど棚上げになっている。
長義と国広の巴戦と一対一は、国広側が三日月に関する心の問題に決着をつけるための役割に終始した。
解決できなかった「名前」の物語。
国広の「名前などどうとでも呼べばいい」という結論は、長義が望んでいた答ではない。
棚上げしてしまった問題を第2部ラストで下ろす時が来るんでしょう……。
名前のない世が欲しい。
親の威光を継いで名を示したい。
信仰の変化により洗礼名をもらいうける。
そして、名ではなく、「姉」と「弟」という関係性での「呼び方」をしてほしい。
これらの問題に決着をつけなければならない。
今予想しているのは舞台のシナリオですが、これらの問題自体は、原作ゲームから国広と長義の二振りの間に厳然として横たわるものである。
どうあってもここを避けては通れないし、そもそもシナリオ側はやはりそれを避けさせる気などないでしょう。
二振りの刀剣男士があの二振りの刀をモデルとしている限り、それは真正面から取り組まなければならない問題だと。
長義と国広の関係、そこに横たわる問題への一つの決着。これが多分第2部のラストですね。
慈伝の繰り返し。
けれど、そもそも慈伝は悲伝と表裏の物語。
三日月と国広の物語の裏にある、長義と国広の物語。
慈伝の中で国広と長義は紆余曲折あれどお互いに怒りを抱いた。
その怒りはそもそも相手が自分にとって大切な存在であるが故のもの。
その繰り返しにより、今度はお互いに「憎しみ」を抱くんでしょう。
「慈」の裏側にある「瞋」の物語。
「慈」は「与楽」、相手に本当の幸福を与えること。
その与えたいと思った心が裏切られたと感じたとき、それは激しい「怒り」と「憎しみ」に代わる。
三毒の「瞋」を象徴する獣、「蛇」の物語。
そして「蛇」を斬る「鬼」の物語。
慈伝においてお互いへの「怒り」がはっきりと描写された以上、愛する者に対しての「憎しみ」をメインで描いた綺伝が第2部の話の中核に来るのはまず間違いないと思います。
3.鬼はいつ生まれるか
登場と発生の順序に関する話です。
「朧」こと「朧なる山姥切国広」、「山姥切国広の影」は維伝で初登場。
綺伝で本歌である山姥切長義の手により撃破。
そして今ちょうど公演中のはずの単独行によりその発生が語られている(はず)。
時系列的には発生、登場、消失になるはずですが、公演順すなわち物語の演出としては、登場、消失、発生というように描く順番をずらしています。
この描き方に関して沸き起こる疑問の1つ目は、シンプルに「朧」の退場が早すぎること。
てっきり「朧」こそ第2部の「鵺」ポジションでラスボス化と思ったのに斬られるのはえーよお前!
綺伝の時点だと第2部はまだ半分程度しか終わってない。
例え第2部ラストで長義が「蛇」を生み出すことになったとしても、半分くらいの話で国広側の描写に空白が生じます。
なので、発生登場即消失した「鵺」ポジションとは別にこの立ち位置の敵を想定したほうがいいかなと。
その場合、その敵は第1部第2部といった話の区切りをまたいで登場することが考えられます。
そもそも「鵺」のような刀剣男士の分身について一体限定なのかと考えればそうでないことはすでに結論が出ています。
无伝で、三日月がもう一体「鬼」にまつわる敵を生み出している。
ただ、シナリオ構成を考えた場合、この敵のメインの活動期は第3部になるはずでこの第2部で活躍するとは思えない。
慈伝から始まる第2部はあくまでも国広と長義を中心としたふたつの山姥切の物語だと思われますので、三日月から生み出された敵として无伝の「鬼」の活躍も第3部と見たほうがいいと思われます。
登場ぐらいは第2部でする可能性もありますが。
逆に、第2部で登場する敵の発生が第3部で描かれる可能性については、それこそ「朧」方式で発生の種明かしを第3部でするだけですから、ありえないこともない。
国広の分身は「朧」だけだと思わせるのがまずミスリードで本命の敵が出てきて、その分身に綺伝のガラシャ様にとっての地蔵くんの立場……つまり、長義にとっての「写し」として愛情をもらう立場をかっさらわれる可能性があります(地獄)。
それと、正直あんまり興味がなくて忘れていたんですが(オイ)、
第1部の黒甲冑あれなんだ???
4.そういえばあの黒鎧何?
2作目の義伝で出てきた「黒甲冑」はどうやら伊達政宗の妄執由来っぽいけど何がなんだかよくわからないし三日月とも国広とも直接関係あるように思えない……。
ということで、すこーんと今までの考察から抜けていたんですが、そろそろこれに手を付ける時が来たか。
戯曲本の表記だと一応「黒甲冑」なんだけど、原作ゲームとの相関考えたら理解の助けとしては「黒鎧」の方がいいような気もします。
というのも、厚藤四郎が「鎧通し」であるのと関係あるのではないかと。
武器である「刀」の大義、防具としての「鎧」であることには意味があるんでしょうね。
そんな「黒甲冑」に一番近い刀剣男士は、あれに一度体を乗っ取られた「鶴丸国永」。
……乗っ取り?
ということはもしかして、「黒甲冑」が鶴丸を乗っ取った原理は、外伝の方で山姥の面が長尾顕長にとり憑いたのと同じ意味では?
ああ、つまりあれか。
「国広」の対が「長義」なら、「三日月」の対は「鶴丸」なのか。言われてみればそうですね。
天を驚かせたい。
鶴丸のその意志は、刀剣男士として歴史を守るという使命にがんじがらめになって足利義輝を見捨てる嘆きに「鵺」を生み出し、高台院を斬る嘆きに「鬼」を生み出した三日月とは対極だ。
舞台だと三日月ははっきり「不如帰」なので「鳥」だし、対の相手としては鶴丸が第一に来るのか。
鶴丸にとって元主の伊達政宗を介した「黒甲冑」という存在こそが己の半身、「朧」みたいな「影」としての存在か?
この概念にもそのうち名前を与えられるだろうことを考えると安直に「影」って呼んでいいのか微妙なんですが、今のところ物語序盤の登場で考えると位置的にはそう呼ぶしかない。
伊達政宗を介した黒甲冑と鶴丸。
長尾顕長を介した山姥と……。
黒甲冑が鶴丸の半身とするなら山姥も長義くんの半身と考えた方がいいんですが。
むしろ長義くんに関しては鶴丸よりもっとはっきり、第2部ラストで蛇を生み出すことが予想されるので国広の朧と対になる存在がいてもおかしくはないんですが……。
仮面を介して長尾顕長にとり憑いた「山姥」。
義伝の「黒甲冑」と外伝の「山姥」は、もしかして元主を介しているところ、「人間側の妄執」に引っ張られているところがポイントなのかも。
悲伝の「鵺」が足利義輝を守りたいと言うのは三日月の本音。
維伝から登場した「朧」が三日月を取り戻すために動いているのも国広の本音だろう。
この辺りは刀剣男士自身の願いそのもの。
一方で「黒甲冑」「山姥」はその対極にある存在として、人間を介して刀剣男士に働きかける存在だなこれ。
だからこそ、外伝で国広に問いかけるのは「長尾顕長にとり憑いた山姥」だったのか。
鶴丸を乗っ取った「黒甲冑」のように、ある意味で、あれは人間が「山姥切長義」を生み出した根元だから。
生きることは惑うこと。いくら乗り越えようとも決して抜け出すことのできぬ終わりなき地獄。
それに対し国広は、「その地獄で惑い続ける」ことを答えている。
「山姥」の恨みがましい「偽物の分際で」という台詞は慈伝の長義の「偽物のくせに」という罵りを思い起こさせる。
とはいえ何が長義にそう言われているかを考えれば、やはり本作長義以下58字略と呼ばれていた刀を山姥切長義にした人間の都合の方なわけで。
あの「山姥」は全ての元凶。
けれど国広にとって最も重要な人間である長尾顕長にとり憑いた存在で、彼を傷つけず、山姥だけを倒さなければいけない。
斬らねばならないのは「山姥の面」だけであって、決してそれを被った長尾顕長自身ではない。
国広は先ずそれを知らなければならないと……。
とりあえず今まであいつ本当なんなんだ? だった「黒甲冑」と、重要なのはわかるけどやっぱりこっちもなんなんだ? だった「山姥」についてざっくりとはいえイメージが出来てきたかもしんない。
舞台のシナリオは全てに意味がある以上、ただここだけオカルトにしてみましたみたいな適当な理由で山姥を出すことはありえないんだよな。
舞台だと長尾顕長が山姥の面にとり憑かれましたが、活撃だと足利義輝の霊も能面にとり憑かれるという演出があります。
ここの連動部分の考察はいつかやらなきゃと思っていたんですが、やっぱり一つ一つに意味があり、そのギミックは原作及びすべての派生で共通のものと考えられます。
5.光と龍と、本物と
「黒甲冑」が鶴丸側のニア「朧」だとすると、国広と長義が対になっているように三日月側も対を想定したほうがよくて、多分それは鶴丸だろうと。
夜の鳥、「鵺」に対する白い鳥。
无伝で三日月に対し永遠に戦いが続くならどうしたら狂わずにいられると問いかけたのが鶴丸で、更にそのやりとりの先に「ここは俺に任せて先に行け」があるんですよね。
ここの三日月がかなり驚いた顔をしている、と。
三日月は高台院との約束があり、全てが終わったら彼女を斬らねばならない。
本心では斬りたくなくとも、大事な大事な元主との約束であり刀剣男士として歴史を守るための行動、それを果たすのに一役買ったのが鶴丸。
刀剣男士としての、今の三日月として正しい道を行かせるために、その背を押す。
一方で、三日月は本音では高台院を斬りたくないと思っている。
元主を自分の手で殺すのが辛いのは当たり前だ。
そのことにずっと言及し続けているのが骨喰くんですね。
元主を斬るのは辛いだろう、本当はそんなことしたくないだろう、だから自分が替わってあげなければと。
骨喰くんは第1部の頃から三日月の内面をずっと思いやってます。
更に「鵺」はどうも三日月単体の「影」ではなく複数の刀の集合体である以上、もともと義輝様の刀である骨喰くんも交じっている可能性が高い。
そして悲伝で、三日月が救いたかった義輝を最終的に斬ったのは骨喰藤四郎。
斬ることは殺すこと。
けれど、斬ることが救うこと。綺伝の歌仙とガラシャのように。
高台院を斬るのは彼女の刀である三日月でなければならない。
足利義輝を斬るのは彼の刀である骨喰でなければならない。
その役目は誰にも替われない。
替わってあげたくても、その辛さから逃がしてあげたくても、それではいけないのだと。
三日月に対する鶴丸、そして骨喰。
この対称というか、三日月相手の骨喰と近い言動を国広相手にしているのは天伝の加州じゃないかと。
近侍を苦労しながら務める国広に「俺が替わってやろうかって喉から出かかったことが何度もある」と。
こうなってくると、三日月も国広も連動している関係性の刀剣男士が複数いることになるので……国広側は素直に原作ゲーム通りの「始まりの五振り」で考えたほうがいいか。
長義は? というと三日月にとっての足利義輝のように特別すぎるほどに特別な位置なのである意味この構図からは抜いても構わないというか。あるいは国広の対応なんだから国広自身を抜いて長義を含めて五振り?
一方で、そもそも国広と長義は極で国広のスタンスが明確に変化することから時系列上の変化を一個として増えていく分身方式も考えられるわけで。それが朧を始めとする影。
三日月側は鶴丸、骨喰、父親役としての小烏丸、悲伝で同じ足利義輝の刀として語られた大般若……あとは……鶯丸か?
ここで終わらずに増える可能性、場面によって組み合わせ変わる可能性も無限にありますからね……考え出したらキリがない。ただ第1部を基準に考えるなら鶴丸、骨喰、小烏丸、大般若、鶯丸の五振りくらいか。
国広と始まりの五振りに関してはそれぞれ特命調査回で果たした役目がそのままかと。
龍馬を斬る陸奥守、ガラシャを斬る歌仙。
次の慶応甲府なんですが、原作ゲームから重要なのは最終ボスが局長と一番隊隊長、つまり近藤さんと沖田くんのなりかわりセットだと思われるところです。
史実の沖田総司は、病死する最期まで近藤勇の斬首を知らず、その身を案じていたと言われている……。
放棄された世界の慶応甲府ではまず間違いなく、沖田総司は近藤勇を守るものとして出てくる。
加州はそこに向き合わねばならない。
正史で斬首の運命にある近藤さんを守るために、死に物狂いでかかってくるだろう沖田くんを討たねばならない。この辺まではまず逸れないだろうとして。
もう一振り、まだ特命調査を描かれていない蜂須賀。
蜂須賀は原作の天保江戸の解釈と、蜂須賀極で話題に挙がった破壊ボイスの本音が重要ではないかと。
真作とか贋作とかどうでもよかったんだ。
あれだけ普段真作と贋作に拘っているように見える蜂須賀の本音も結局それなんだと。
そしてこれ、蜂須賀が真作贋作に拘る理由の方は自分たちを打った虎徹や、その虎徹の刀の名誉を守るために様々な努力をしてくれた人々のためだということを石田正宗との回想で明かしている。
主張と本音の表面上のずれと真の意図が明かされてきている。
真作とか贋作とか……本物とか偽物とか。
名前だとか呼び方だとか。
そんなもの、本当は、どうだっていい。
これはある意味、国広の本音ではないかと思います。
「名前など どうとでも呼べばいい」
号は大事だ逸話は大事だと人は言うけれど、国広自身の本音としてはそんなこと関係なく本歌と一緒にいたいというただそれだけだろう。
本音で、でもある意味では本音の対極。
どっちだよ!? と突っ込まれそうですが、そりゃ一切妥協しない本当の本当の本音だったら呼び名も関係性も満足いくものの方がええやろ。
心が二つあるー(刀剣男士だと文字通り)。
この辺の相関はもうちょっと情報増えてから構造図見たいところですね。
始まりの五振り側だとむっちゃん関係で気になるところもう一つ。
「鬼と蛇」の細川夫妻みたいな夫婦のなぞらえだと、坂本龍馬夫妻は「龍馬」に「お龍」で両方「竜(蛇)」なんだよな(活撃漫画版で「楢崎龍」って書かれてて気づいた)。これだけ一応メモしておきます。
6.花を救えぬ鬼たち
不穏なフラグは全部拾うということで、維伝から綺伝までの超不穏な部分ピックアップ!
維伝 龍馬は武市半平太と岡田以蔵を救いたいが、武市半平太が受け入れてくれない
天伝 真田信繁が豊臣秀頼を救えず、歴史に抗うために自刃
无伝 高台院は豊臣家を終わらせるために行動、秀頼の介錯を務め、自らも三日月に斬られることを望む
綺伝 忠興はガラシャを斬ることが叶わずに右近に斬られる、忠興に代わり歌仙がガラシャを斬る
特に、これまですごい重要であることはわかっていたけどどうとも言い難くてそれこそ棚上げにしていた問題、
天伝における「真田信繁の自刃」を中心に考えていきたいと思います。
前回までの考察じゃここに深く触れられなかったけど、今回の考察の方向性、国広は長義を守る役割を敵である己の「影」に奪われるのでは? を踏まえると割と簡単に答は出ますね。
本丸側と敵側の物語の逆転、次は国広が弥助や信繁の立場になる。
とは言ってもさすがに国広を自刃させるわけにはいかないが……敵である「影」だったらできるというか。
地蔵くんがガラシャ様を救えなかったときに死を望んで歌仙に自分も斬れと言っていたことを考えると答になってしまう。
命をかけても、信長を救う刀剣男士を顕現させられなかった弥助。
命をかけても、信繁に刀剣男士を与えられなかった真田家の家臣たち。
彼らの犠牲と避けられぬ死の運命に絶望して、歴史を改変するために自刃した真田信繁。
天伝は花を救えぬ鬼たちの物語。
命を懸けても、守りたい人を守り切れなかった。
その歴史への抗いが後に「真田十勇士」を誕生させ、放棄された世界を作り出す……。
物語の逆転により誰かがこの立場を引き継ぐとしたら、それは朧とは別の、もう一つの「山姥切国広の影」かもしれない。
弥助は100体200体と無数の時間遡行軍を自分にとり憑かせることによって刀剣男士と戦う力を得た。
これ原理的にはジョ伝の「山姥」と近いかもしれない。
一方、真田信繁は「つくも刀」という、時間遡行軍99体の思念が込められた刀を使っていた。
(※戯曲本がまだ出ていないのでつくも刀の漢字は不明)
刀に物語を与えて励起させるということで、弥助たちと時の政府側のやっていることはまあ一緒かと。
結果に違いが出るのは物語の煮詰まり具合か。
国広の分身であるにも関わらず、朧が長義にあっさりと撃破されたように。
「影」や「つくも刀」ではまだ弱い。
これから先、その概念を強化した敵が出てくることが予想されます。
どちらの陣営も何度もいろいろ命がけで試しては失敗を繰り返しているんでしょう。
ふたつの山姥切の統合はこれまでの世界の変質を見ていると本丸滅亡へ一直線の案件で、それを防ぐ手立てをと考えると多分基本的には長義を消すしかない。
それを国広が見過ごせるかと言うと見過ごせるわけはないんですが、かと言って国広の立場でそれを止められるはすもなく。
とはいえ止められないからと言って長義くんと心中できるはずもない……とは思っていたんですが、国広の「影」的な何かの立ち回りによってはそっちが心中・自決エンドの可能性が出てきてしまった……。
天伝で真田信繁は国広を罠にはめて斬りつけている。
弥助は第1部から因縁の敵。
そして天伝の結果が无伝に引き継がれ、真田十勇士という新たな「物語」が生まれ、三日月が高台院を斬って「鬼」を生み、あの世界は「放棄された世界」になった。
「鬼」が「花」を救えなかった時、「放棄された世界」が生まれる。
天伝と无伝では「花」である秀頼はひたすら父を求めていましたが、无伝で高台院によって父の名と天下を結びつけることを否定されます。
そして豊臣秀頼と徳川秀忠、両陣営の大将同士が最終的に選んだ生き方は「英雄ではないもの」。
名を求めることに始まった物語は、名を否定してようやく己の物語を生きることができたと……。
それに真田信繁は大野治長との会話の中で、父への憐れみを語っている。
父を憐れに思い、その父と違う生き方を選ぶ。その父を超えるために。
そのために花である秀頼を守ろうとする。
この真田信繁の複雑な心理を短い台詞で端的にまとめるのめっちゃセンスあると思うんですよ。
要はこれだよね。
父親と違う生き方を選ぶのは父への想いがあればこそであり、父を超えたいと願っているからといって、父を憎んでいるわけではない。むしろ表裏比興と呼ばれた父を憐れに思っている……。
一方、大野治長は実は豊臣秀頼の実父ではないかという噂というか説がある存在ですが、ここではそれを明言しません。
天下人である豊臣秀吉を父と信じて、天下人の名の重さに自分を見失いそうになりながらも父の名の下、自分の存在を示すために戦おうとする懸命な秀頼。
その姿を描く一方で、その父が本当の父親ではない可能性を示唆し、さらに无伝では実母ではない高台院をもう一人の母として描く。
親子関係の捉え方が単純な血の繋がりだけではなく様々な角度から描かれています。
また、太閤くんの言葉によって秀吉と秀頼が同じ、そして一期一振も同じ、みんな同じ「蒼空」であるという図式も天伝では展開されています。
ここでは割愛しますが、天伝の一期・秀頼の関係は綺伝の地蔵・ガラシャと対比させる必要があるかなと。
根源にあるのは「名前」。
天下人の名、真田の名や物語、実父やもう一人の母という地位。名乗り出ない本当の父親かもしれない男。
真田信繁の自刃、命をかけても花を救えない鬼の立場は刀剣男士が完全になぞるには問題がありそうですが、彼の抱えた事情や想い、彼が救おうとした秀頼側の事情や想いは、決して無視できない。
天伝でメインを張るのは国広ということもあって、その国広に対峙する弥助と信繁の末路の意味は重い。
国広がそのままストレートに弥助や信繁のように死ぬことはほぼ考えられないのでその方向だとそこで詰まるわけですが、国広であって国広でないもう一振りの「影」がいればこの最も重い結末、刀剣男士側が命を懸けても叶えられなかった願いの話を描くことができると思います……。
7.燃える本能寺、彼の謀反から全て始まる
ジョ伝・天伝の弥助は信長を救うことを目的としていて、信長絡みで一番重要な人物だと思われます。
一方、綺伝の忠興・ガラシャ夫妻とも信長は無関係ではありません。
第1部から出演している弥助にとって最も重要な人物は織田信長。
信長が死んだのは本能寺の変、明智光秀による裏切り。
明智光秀の娘である明智玉ことのちの細川ガラシャは、それによって夫の忠興に幽閉され、幽閉先でキリスト教と出会った。
「本能寺の変」すなわち、明智光秀による織田信長への謀反からすべては始まっている。
第一作目である虚伝は不動くんが信長を死なせたくないからとその光秀を殺そうとする、ある意味際どい話から始まります。
誰の中にもその人の信長がいるという宗三の説得の甲斐あって、不動くんは己の中以外にも様々な信長像があるということを認め、歴史を守るために光秀のことも守る選択をします。
が。
織田信長が死んだことにより、弥助は命を懸けてでも歴史を改変しようとする。
明智光秀の娘である細川ガラシャとその夫・忠興の愛憎が放棄された世界を作る。
虚伝での出来事は、舞台のシナリオにおいては特に国広側の物語のメタファーとなっている人物たちにとって重要な出来事です。
本能寺の変がなければその後の諸々も引き起こされることはなかったと。
ここでそもそもの「燃ゆる本能寺」というタイトルについてちょっと思ったんですが。
原作から派生まで同じ言葉は同じ意味で同じように捉えるという原則を適用すると、
歴史を守るのは、刀の「本能」。
――燃ゆる「本能」寺。
虚伝のタイトルは「歴史を守る」という「刀の本能」が燃えてしまうという意味になるのでは……。
更に「明智光秀」というこの有名すぎるほど有名な謀反人の名前は、字だけを見ると明るい智に光が秀でるというとても良い名前です。
というか、仏教の「般若(智慧)」そのものみたいな名前だと思います。
虚伝のタイトルが意味するものは、歴史を守る刀の本能と、般若(智慧)の関係性ではないかと思います。
智慧が失われれば、歴史を守るという本能もまた失われてしまうと。
それこそが渇愛の「貪」と「瞋」を生む無明の「癡」だと。
信長とガラシャ、両方に関わる明智光秀の存在。
第1作目の内容がその光秀を守るようなものだったこと。
一方で、直前まで不動くんは信長の敵となる光秀を殺したいと思っていたこと。
史実通り光秀を守り本能寺の変が起きた結果、弥助やガラシャ様の結末に繋がったこと。
史実としての配置、物語展開としての配置、メタファーとしての配置が「明智光秀」の存在によって大分収束してきたと思います。
時系列や因果関係は虚伝の前にも遡れますが、物事の始まりとしては公演順の第1作目である虚伝の内容、明智光秀を守り本能寺の変を史実通りに引き起こしたことから始まっています。
不動くんが宗三の言い分、誰の中にも自分の認識と違うその人の織田信長がいるという話に納得して刃を納めたのは刀剣男士としては立派な態度だと思うんですが。
一方で、この物語が仏教モチーフであることを考えると、理屈に納得しただけで心の底からその感情を乗り越えたのでなければ、それがまた次の悲劇の火種を生む構造だと考えられます。
誰かのためを思って刃を納めても、己の心が本当に納得できていなければ意味がない。それは乗り越えたとは言わない。ただの「妥協」や「諦観」である。
毎度思いますが、判定めっちゃ世知辛いですねあの世界。
8.信仰の行末
ここまで大体物語の論理構造の方から予想を出してきて何ですが、一番重要な問題が残っています。
長義くんがそもそもそんなことしそうにない(確信)。
という、ある意味絶対的で一番重要な問題が……。
地蔵くんがガラシャ様を連れていくことが出来たのはそれこそ地蔵くんとガラシャ様だったからでは?
例えばそれが悲伝の三日月みたいに本丸側から追われている究極的にピンチな状況だったとして、長義くんが国広の分身におとなしくさらわれてくれるとか本当かー? 本当にそんな適当な予想成り立つかー?
と、言うことでこの辺をちょっと考えてみたいと思います。
基本の長義くんの性格を考えたら絶対ありえないだろう、見ろよ綺伝で「朧」を容赦なくぶった斬った爽快さを! と言いたいところですが、探せば結構いろいろなところに不穏なフラグが。
せっせと拾い集める不穏なフラグ……。
・慈伝の結論的に長義は一度「妥協」している
・慈伝で長義も国広も一度は相手を「鶴丸」と間違えている
・慈伝の展開は、お互いに会おうとしていた本歌と写しを周囲がかなり強引に引き離す演出が入る
・綺伝におけるガラシャ様をはじめとした「信仰」と「洗礼名」の問題
・綺伝で信仰を裏切ったとみられる発言をした大友宗麟が伊東マンショに刺される
・夢語の入れ替わりのように、第2部の展開は国広が立場を入れ替えて三日月の物語をなぞっていく
おもに気になるのはこの辺りで。
慈伝は他の話ほどきちんとメモとってないので大分記憶がうろ覚えになってきましたが、長義にも国広にも自分のまとっている布を被せて視界を隠したうえでそれぞれ回収されていくシーンがあったような。国広が山伏に軽々担がれてはけていったような。
慈伝はコメディチックに演出されていましたが、それぞれの演出の意味をシリアスの骨組みにすればどこまでもきつい展開になります。
お互いに会いたくて、話したくて、けれど強制的に引き離された末に、長義の方がまず周囲の態度から自分と写しを会わせないようにしている、国広が自分を避けているのだ、自分に会いたくないのだと感じて態度を硬化させる。
その時に長義の「偽物くん」呼びを聞いた同田貫も、最初は軽く考えていた国広の問題について真剣になりはじめ激昂する。
その後、今度は鶴丸の悪戯だと思っている状態で思いがけず長義に出会った国広は動揺し、長義の偽物呼びにも傷つく。
コメディであれば事態が登場人物たちの思わぬ方向に悪化したなーぐらいの軽い感想で済みますが、シリアスでこれをやるってことは、周囲の行動は抗えない大きな流れに、他愛のない悪戯やすれ違いは深刻な決裂の下地になりえます。
そしてやはり第2部の長義と国広を考える上で重要なガラシャと忠興の関係。
細川夫妻の出来事になぞらえるなら、ガラシャ様というか玉様の幽閉時代の話も入るんですかねこれ。
綺伝に歌仙がナレーションしながら細川夫妻の間のエピソードを語っている部分がありますよね。
ガラシャ様には本来何の罪もない。
しかし父である明智光秀が謀反人となったことで彼女の運命は目まぐるしく変わった。
本来離縁されるだろうところを引き留めたのは忠興公の愛ではあろうが、あまりにも数奇な境遇がその愛をも、歪な形へと変えてしまう。
妻に見惚れた庭師を斬り殺し、自分以外を見ることは許さないと独占欲を示し……
……えーと、男女の間柄ならある意味その残酷さすら美しいとも思ってしまう「鬼と蛇」の強烈なエピソードですが、これ本当になぞるんです???
最初はさすがにここまではと別に考えていたんですが、この話、美女に対する男の独占欲という点では『伊勢物語』第六段「芥川」に通じるところがあるんだよね。
というわけで「山姥(謡曲)」の考察のあれがまた絡みます。
「芥川」の男は盗んできた女を蔵に入れた後、外ばかり見張っていて、女が鬼に食われた声も雷に紛れて気づかない。
鬼は蔵の外ではなく、最初から蔵の中に――自分自身の心の中にいたことに気づかない。
女を誰にも渡したくはないからと蔵に入れた男は、追手から逃げることに夢中で、かつて女の問いかけにも答えてやりはしなかった。
明智家から嫁いだ玉様が「ガラシャ」となったのは、父である光秀の謀反の後、夫である忠興によって味土野へ幽閉されてから。
この幽閉実は幽閉じゃなかったんじゃないかとかそういう史実のあれこれは置いといて、この場合は歌仙のナレーションを基準に考えます。
自分ではどうにもならない事態に押し流された先で、新しい信仰との出会いを果たす。
それが後の世で「細川ガラシャ」と呼ばれることになる、キリシタンとしての運命。
あの女の夫は自分ではない、「信仰」だと。
愛する妻と信じるものを違えてしまった忠興の怒りと悲しみが語られている。
一度は間男の疑いめいた言葉をかけながらも、忠興は本気でガラシャ様が右近を選んだとは思っていない。
憎いのは「信仰」。
玉は他の男になど靡かない、庭師だろうと右近だろうと、妻が自分以外の男と軽率に情を交わすなんて夫自身も思ってはいない。
けれど彼女は彼女である故に、何よりも彼女自身の信仰を優先してしまう。
それが憎いと……。
信じ仰ぐもの。信仰。
そして綺伝のキリシタンたちの信仰についても複数の姿が描かれている。
マルチリマルチリ言ってるのは、殉教(マルチリ)……信仰を持ったまま死ねば天国に行けるというキリシタン特有の考え方と、舞台のシナリオ的には天伝で秀頼とかもやたらと戦いを望む好戦的な性格(統合への欲求)を描かれていたというのもあると思うんですがもう一つ。
キリシタン大名のまとめ役である大友宗麟が報われぬ信仰に疲れ果て、その信仰を手放すかのような発言をした際に、伊東マンショに刺されている。
伊東マンショ少年は長義推しには言わずとしれた刀工・堀川国広の主君ですね。
歴史の授業で誰もが一度は名前を覚えさせられる「天正遣欧少年使節」の一員であり、特に伊東マンショは大友宗麟の名代です。
名代。つまりまた「名前」の問題。
名代であるはずのマンショが大友宗麟を刺すのは、これも一種の名前に絡んだ「親殺し」のメタファーと考えられます。
しかも彼は山姥切国広をその手で作り上げた堀川国広の主君。
信仰を手放したものへの下克上を伴う親殺し、身内の裏切りと主従関係の重さ。
キリシタンの信仰にはそれだけの想いが込められている。
特にあの時代、信仰を持つのも変えるのも軽い気持ちでできることではない。
それでも彼らは自らの意志で仏を捨て異国の神を選んだ。
これを刀剣男士側で考えると思想の変化という話になりますが、やはり極修行による思想の変化が重要だと思われます。
自分の知識が増え認識が変化すれば信じるものも変わらざるをえない。
変わっていく。どうあっても。信仰も、認識も。
自分の意志で変えることもあれば、時代の大きなうねりに否応なしに理解させられることもある。
信仰の重さもその変化の重さもこれだけがっつり描いたならば、それを本丸側、つまり長義国広になぞらせる展開もあるかもしれない……。
もともと国広が極修行で主張を変えてきたように、長義も極修行まで行けば主張の変化は予想されます。
ただ舞台は原作ゲームと違ってメインで描かれるものが三日月を絡めた本丸の物語とのトレードオフであるところがポイントだと考えられます。
極修行がなくても長義は国広側の変化に影響を受けざるを得ないポジションである、と。
すでに夢語において「めっちゃいい時間遡行軍」という概念を予告していること、長谷部と長義がこの件で揉めることを示唆していることからも、お互いの思考や思想の変化による立場の逆転によって、長義が意見を変える可能性はなくはない。
また、長義は綺伝で「朧」こそ迷いなく斬れたものの、次に出てくる「国広の影」の性質が「朧」と同様とは限らない。
むしろ敵の性質は「鵺」「朧」とそれぞれ違っていることを考えると、次に出てくる敵は「朧」よりもっと本来の山姥切国広に近い性質、思想であったり強さであったり、本体である国広の特徴を強く引き継いでいる可能性があるとしたら、対峙する長義がどういう感情を抱くかは未知数と言えます。
9.汝の敵を愛せ、されど愛せぬその敵の名は
とりあえず細かいところをごちゃごちゃ言ったのでそろそろ前回、前々回と合わせた予想のうちの一つとして、「最悪の予想」をまとめましょう。
国広が修行から帰る、
極修行で大分性質が変わっているので長義はその国広を敵認定する、
しかしそれも国広自身の選択なので、長義は我慢と妥協の末に国広のその選択を受け入れる、
その際に長義が自分から切り離した感情「怒り」「憎しみ」の「瞋」が敵の「蛇」(蟒?)になる。
本丸襲撃
国広が「蛇」を斬る
襲撃の原因が長義だと特定される
追われるか幽閉されるかでピンチになる
国広の分身たる「影」のような存在に攫われる?
本来敵であった関係のはずだが、長義側がその存在に気を許してしまう
追手として来た国広が長義を斬る
……ここまでの最悪フラグ全部合わせるとこうなるのでは?
つまり、
国広自身が長義そのものを斬る。
これが他でもない「最悪の結果」かと。
書いといてなんですが、正直長義くん側が「影」に気を許すのは基本的な性格からは想像がつかないのでかなりシチュエーション次第。
敵との立場の逆転は結果も含めて逆転と考えればそもそも地蔵くんに応じたガラシャ様と違って長義くんは黙って攫われてはくれないんじゃないか? と思いますしねぇ。
ただ、長義くん側のそこは想像できないんだけど、こっちは想像余裕っていうのが、この展開になると国広が長義に対してはっきりと「憎しみ」を抱くってところですかね……。
ガラシャ様は地蔵くんに自分を「姉上」と、身内としての関係性から来る呼び名で呼ばせている。
このやりとりを長義が国広自身ではなく、その「影」と思われる相手と何らかの形でなぞるなら。
自分ではない自分が、長義を「本歌」と呼ぶことを許してしまうなら。
――その時こそ、国広は長義に対して間違いようもない明確な「憎しみ」を抱くだろう。
……山姥切の本歌と写しは、それぞれに、それぞれが我慢をしている。
国広は原作ゲームの時点ですでに、極修行で長義の逸話を食わないために、自分こそが山姥切であるという説をとってこなかった。
事実誤認を明確にすることを避け、逸話がふたつあるという曖昧な結論で誤魔化したがった。
そのために自分の号が否定され続けたとしても、本物の山姥切だと名乗れなくても、偽物と呼ばれ続けたとしても。
長義の本心はまだ原作でも明かされていないが、舞台や花丸など派生側に考察を入れると国広に国広自身の逸話を誇ってもらいたいというのが本音のようだ。
もともとその解釈は原作を考察した結論としては有力だったと思うが、派生が少なくとも舞台・花丸の二作品でここをかなり補強する内容なのでもう完全にこっちの方向性でいいかと。
そもそも長義の逸話というのは、焼失扱いから再発見された国広の号の由来が不明だったからこそ、本歌がもともと山姥切と呼ばれていたのではないかというもの。
長義の顕現時の名乗りも「本歌・山姥切」という部分を強調していることから考えても、山姥切は長義と国広の二振り在るのはすでに前提であり、その上でどちらが本歌でどちらが写しなのかをはっきり認識してほしいという程度の意味なのではないか。
長義はもともと国広を偽物にしたいのではなく、あえて煽ることで国広に反論させたい。国広自身に国広自身の「山姥切」の名に、長義の写しであることに、誇りをもってもらいたいだけではないか。
けれど、舞台の本丸ではそれは叶わない。
舞台の国広は原作ゲームの国広とは違い、完全に自分の名を否定している。
「名前などどうとでも呼べばいい」
慈伝で国広が長義と向き合えずに自暴自棄だった間の台詞であり、綺伝で黒田孝高に扮した朧も口にした台詞。
国広がこのスタンスなら、原作と違って完全に自分の名を捨てている。
一応慈伝の最後には「だから 俺のことは好きに呼べばいい 例え偽物と呼ばれようと、俺は俺だ」ぐらいには回復するんですけどね。
むしろそうなったからこそ、修行で完全に号と逸話を放り出してくる可能性があって……。
舞台の国広は本丸の近侍としての立場に依存して、喪った三日月のことしか考えていないように傍目には見える。
ただし、慈伝でも夢語でも実際の行動を追うと口に出さないだけでかなり本歌である長義を意識している。
一方舞台の(というか原作も)長義は傍目には己の号にこだわっていて、国広を嫌っているようにも見える。
こちらも言動をよく注視すれば、むしろ認めたいからこそ国広自身に実力を示させるために煽っているというのがわかるものの、その本心を読み取るのはかなり難しいと思われる。
だからこそ、お互いの考えがすれ違う。原作以上に絶望的に。
長義は国広が自分を、自分との間にある本歌と写しという関係について思うことはないのだと考えている。
それは三日月を喪ったこの本丸の事情故にもたらされた結論であれば仕方ないと。
国広に対して怒りを抱きながらも、慈伝で「妥協」と「慈悲」から自分の主張についての問題を押し通すことを諦めた。
おそらく次も長義はそうするだろう。
国広との対話を妥協し、自分の願いを、名を通じて表される本歌と写しという関係性を求めることを捨てる。
己を見ない国広に抱いた「憎しみ」と共に。
考えを変える。信仰が変わる。
大友宗麟がキリシタンたちに神は報いなかったのだと嘆き信仰に疑いを抱いたように、己の中の物語に疑いを抱き、信仰を捨てる。
その時、感情の方にどんな変化が起きるかはわからない。
そこにもしも国広の「影」が現れて、義輝に対する「鵺」のように、ガラシャに対する「地蔵」のように、ただあなたを守りたいと、あなたのための刀でありたいと言うのであれば……?
もしも、それを受け入れてしまったら。
長義くんの性格的に考えにくくとも、どうしても疑念が消えないのは、夢語で長谷部が「めっちゃ良い遡行軍」と交流しているというあれですよね。
良い遡行軍のメタファーは多分国広。交流する長谷部は長義自身のメタファーではないか。
……というか長谷部のメタファーとしての一番シンプルな役割は「長」?
長義くんも「長」義なので、もしかしてここでこの二振りのメタファーとしての同一性を見るのか……?
「蛇」の古い異称を「長虫」と言って、さらにこの言葉、サンスクリット語の蛇である「ナーガ」から来ているっていう説があるみたいなんですが……。
サンスクリット語といえばいつものごとく仏教由来ですが、もともと蛇と言えば長いものや縄などに例えられます。
長義も長谷部もメタファーとしての役割が「長」同士ならば、夢語の長谷部とめっちゃ良い遡行軍の交流が意味するものはやはり。
そして慈伝からこっち、舞台ではいつも長義の邪魔をするのが長谷部という構図にも大きな意味が出てきます。
名前を通じて長義と同じ役割を持つからこそ、長義の心が二つに分かれることを現す?
長谷部の立ち位置は決して主役にならない第五の主人公感あると思ったらお前そういう……。
長谷部が長義を邪魔している、ではなく。
長義への試練は長義自身が作りあげているんだな。
国広が乗り越えるべき壁も、結局は国広自身が作り出しているように。
そういう流れで長義が国広の「影」に心を許して、何らかの交流をするとしたら。
もしもガラシャ様が地蔵くんに願ったように、身内としての関係性で呼び合っていたとしたら。
それを見た国広の心境は?
国広が自分の号や逸話を否定するのは、むしろ本心では長義と喧嘩したくないからだろう。
本歌の存在感を食うことに何の躊躇いもなければ、極の時点で自分こそ本物の山姥切だと主張できたのではないか。それをせずに偽物と呼ばれる立場に甘んじているのは、本歌である長義を喪いたくないからだろう。
苦手な近侍としての仕事も頑張って。
三日月を喪うという出来事にも耐えて。
本歌と喧嘩したくないから、自分の名前さえ捨てる。
本当は本丸で築き上げた近侍としての立場を認めて褒めてほしいけれど多くは望まない。
強くなった自分を認めてほしいけれど、力だけ示しても納得してくれなかった。
同じものを見て同じように考えてほしいけどそれは叶わない。
「鵺」が足利義輝から「時鳥」の名をもらってようやく存在が安定したように、名前に関する認識は刀剣男士にとって命そのもの。
その名すら、命に等しいものすら、捧げても。
――「山姥切長義」は振り向いてはくれない。
それなのに、自分ではない自分には、「写し」として「本歌」と呼ばせている。
……うん、国広の立場でこの予想のシチュエーションをリアルに想像すると脳が破壊されそうになるな!
自分はずっと「偽物」呼ばわりなのに自分以外の存在には「本歌」と「写し」特有の呼び方を許しているとか国広の立場でそんな場面を見ちゃったら……もう殺すしかないじゃん!
長義くんは「憎しみ」を一度抱いてそれを捨てるんだろうけど、国広はずっと堪えていた「憎しみ」をむしろ呼び起こされるのではないか。
きっちりトドメまで刺すか三日月の時と同じく刀解までの時間稼ぎかはわからないけれど、その「怒り」と「憎しみ」のまま長義を斬っちゃいそうだよねこの流れだと。
その時、ようやくこれまで斬り捨ててきた数々の敵の想いを知る。彼らと立場が逆転する。
命をかけても救えないもの。
愛情と憎しみが並立するもの。
半身たる花を救えずに、鬼となる。
国広は真田信繁や弥助の提案した「歴史を変えずに諸説に逃げる」という道を認めなかった。
ならば山姥切国広自身の「逸話が二つある」という「諸説」への逃亡も、認められるはずがない。
自分で言ったことの責任は、自分でとらねばならない。
そこに懸っているものが自分の命ではなく、最も大切なものの命であっても。
山姥切の号の問題は「事実誤認」。
正しく歴史を追うなら、「山姥切長義」の物語を消さなければならない。
弥助や信繁の目論見が否定されたように、歴史を守るために今度は、山姥切国広自身の本歌への想いが叩き潰される番だ。
それを叩き潰すのはおそらく……国広が救いたかった長義自身。
……と、言う感じでこれまで拾わなかった数々の不穏フラグを拾って最悪の結果をとりあえず予想しました。
慈伝の時点では言葉遊びの結果しか見えてなかったので結果から判断して運命を憎む方向かと思いましたが、ガラシャ忠興の関係を考えると、長義と国広はもっと直接的に本気でお互いを憎み合い殺し合うのかもしれない。
……いやマジでやるの?
物語の読み込みという意味で一応伏線は全部拾いたい派ですけど予想は当てる気がないので外れても別に構わない。
というか今回でむしろこの通りになる方が困るよというぐらいの最低値までたどり着いちゃったんですけどどうすれば。
ジョ伝で山姥相手に宣言したように、舞台の国広は地獄で惑い続ける。
そこは国広自身が選んだ地獄の世界。
そして原作ゲームの極修行で国広が最も避けたかったものは、自分が本歌を食い殺す結末。
原作が避けたその道を突き進んでしまうことこそが、国広にとっての地獄ではないか。
切っ掛けが運命の悪戯だとしても、結末までの道行きで本当に、心から相手を憎んでしまう。
それこそが蛇だと。それこそが罪だと。
戦々恐々としてきました。
弥助は言う。汝の敵を愛せと。
かつて山伏を折られた恨みがあるにも関わらず、命をかけても刀剣男士を励起できなかった弥助にさえ同情する国広は、本来の性格的には他者を憎むことはほぼないと言える。
けれど、他者を憎むことがない性格ならばなおのこと、自分のことが赦せなくなるものではないか。
三日月を喪い、自分が写しだからと何も関係ないのに自分を責める国広にとって、一番許しがたい存在は自分自身。
長義のことはそれこそ衝動のままに斬ってしまいそうなほど一瞬激しく憎みそうなんですが、悲伝の後に慈伝が来て長義のおかげで三日月の心を見つけ出せたように、多分長義の本心に関する誤解は次の話で三日月が解いてくれるのではないかと思います。
一方、国広の中で長義ではなく自分の半身に対する感情はどうなるか。
三日月は「鵺」とは敵対していない。むしろ導きさえしていた。
けれどそれは三日月自身の認識が自分は義輝の刀ではないというものなので、「鵺」を自分と同じものだとは考えていないからだろう。
三日月にとって義輝は創作上の主であって史実の中での主ではない。彼の刀であるという物語には最初から自分のものではないという諦観を抱いている。
しかし、長義はどの名を背負おうと、国広の本歌であることは常に変わらない。
どんな存在であろうと長義である限り国広の本歌。たとえ山姥切ではなくとも。
その長義にとっての写しの立場を、自分の「影」に奪われることを国広は赦せるだろうか。
国広にとって最大の敵となりうる存在は、自分から「長義の写し」という立場を奪い、本歌からの愛情をかすめ取り、その果てに自分の手で本歌を斬らせるであろう存在。
汝の「敵」を愛せ。
その「敵」は他でもない、「自分自身」。
(……どうやって愛するんだこれ?)
10.その手を取り君が望む地獄へと
舞台のシナリオは「三日月の物語」と「国広の物語」の組み合わせで形作られている。
三日月の苦しみ、夜の鳥「鵺」の物語は、「虚伝 燃える本能寺」から始まる。
信長の刀であり、下賜された森蘭丸の刀でもある不動くんの慟哭から。
信長を殺すことになる光秀を殺してしまいたい。歴史を変えたい。
それでも彼は絶望と憎しみに耐え、歴史を守ることを選んだ。
悲伝で「鵺」こと「時鳥」、三日月の半身を斬る不動行光。
光秀の謀反が本能寺の変を引き起こし、弥助にとってこの日本で唯一自分を奴隷ではなく人間として扱ってくれた最愛の主君・信長は死んだ。
光秀の謀反による本能寺の変によって、細川夫妻の運命は激変し、愛情深かった夫婦は妻の壮絶な死により引き裂かれた。
そして、本能寺の変を引き起こしたことにより、明智光秀自身もその人生に幕を閉じた。
信長への下克上を果たしたのも束の間、山崎の戦いにて豊臣秀吉に敗北する。
もしも明智光秀に、お前は本能寺の変を引き起こさない方がいい、信長を裏切らなければお前自身もそのほうが幸せな人生を生きられるはずだと、あらかじめ教えたらどうなるのだろう?
――それでも。
それでも、光秀は行くのではないだろうか。
戦わない方がいいなんて、それでみんな幸せだなんて、そんなのは妥協ではないか。
妥協ではなく、真に己の求めた答を掴むために、様々な人々の不幸と彼自身の死の引き金である、「本能寺の変」を引き起こさせねばならない。
光秀を行かせなければならない。歴史を守るために。
主君への愛と憎しみ。
その感情を、彼らも――刀剣男士自身も、知っているから。
……三日月の物語が不動くんと蘭丸の慟哭になぞらえて始まるのは、最終的に国広の物語がその対極に帰結するということではないか。
すなわち、虚伝で森蘭丸と対峙した、明智光秀の愛と憎悪。
これを理解すること。
蘭の「花」である森蘭丸。
般若(智慧)の光である明智光秀。
今回の予想で組み立てた、国広の物語の最初のクライマックスが憎しみで終わるの凄い構成だなこれ……と思いましたが、歴史を本当の意味で守るなら、その時その生き方をした人々が何故その行動を起こしたか理解するために「憎しみ」を知ることも大事ではあるんですよね……。
明智光秀が織田信長を裏切った理由はそれこそ諸説ありで結局わからないんですが、舞台ではここを愛情と憎悪、使命感と我欲を切り離せぬ複雑な感情として描きつつ正史として肯定するのでは。
国広自身が、自分の本歌・長義とそのような歴史を辿るからこそ。
己の欲する答を謀反という戦いに求める光秀を、止める権利は誰にもないと……。
死を約束された反逆者の背を押してやらねばならない。
その時、ようやく国広も虚伝の三日月の物語へと還れる。円環が完成するのではないか。
虚伝の光秀なんか意味深な割にそう深く触れられなかったのは、むしろ結末担当だからか。
魔王こと信長の方はどうなるんだこれ……。
ところで虚伝のタイトル「燃ゆる本能寺」の「もゆる」は「萌ゆる」とも音が同じです。
歴史を守るのは刀の「本能」。
「寺」は色々ありますけどサンスクリット語の「ビハーラ」でとると「安らぎ」や「くつろぎ」「休息の場所」という意味があるそうです。
寺が「安らぎ」の意味であるなら、炎を植物に転じることができれば歴史を守るという本能が安らぎを得られるという意味になりそうですね。唯識の種子とアーラヤ(住居)か。
綺伝を中心に考えると光秀・信長の関係に行き着くからやはり綺伝は重要……。
予想としてはかなり過酷な展開なんですが、これまで今一つ腑に落ちなかった不穏なフラグ、真田信繁の自刃や弥助の命を懸けた刀剣男士励起などをしっかり拾えた上に「愛憎」という問題が物語の始まりにある光秀の感情と結びついてしっかり円環回帰したので、そこそこ無視できない結論に。
とはいえまだ見ていない話が結構あるんで、そこでこの予想をひっくり返すネタ出てきますかね。
なければ予想は今度こそ本当に新情報入手するまではこの辺りにしておきます。