八丁念仏

はっちょうねんぶつ

概要

雑賀孫市こと鈴木重朝の佩刀、八丁念仏

雑賀孫市の佩刀。

「八丁念仏」は「八町念仏」とも書く。「八丁念仏団子刺」と呼ばれることもある。

明治の高瀬羽皐氏の著作『刀剣談』によると、この刀は雑賀孫市の佩刀であり、月夜にある者を袈裟斬りにしたところ、八町も念仏を唱えながら歩いてから倒れたことにより「八丁念仏」という号がつけられた。

また、その時に杖について行った刀を見ると往来の石が切先に団子のように刺さっていたので「八丁念仏団子刺」とも呼ばれる。

作者は備中片山一文字派の行家だと言われていた。

しかし、同時期に江戸時代後期の儒学者で水戸藩士・鈴木黄軒の著作で備前長船派の守光という説も挙げられていて、一定しない。

幕末まで雑賀家に伝来したが、雑賀家が零落したため水戸徳川家が買い上げた。

その後、関東大震災で焼身になる。

そのため刀剣書では永く焼失したと考えられていたようだが、水戸徳川家はこの刀を保管し続けていて、現在も「徳川ミュージアム」に焼身ながら現存している。

「徳川ミュージアム」によれば、作者は行家でも守光でもなく古備前派の助村の銘が残っているという。

ここまで書くと、では行家説や守光説は間違いで、現在の所蔵元が発表した古備前の助村説が正しいということで綺麗に来歴が一本化されたように見える。

しかし、実は昭和期の『大日本刀剣史』の時点で、雑賀孫市の刀は「八丁念仏」「団子透し」「橋渡し」の三刀だという情報が寄せられている。

現在刀剣関係で引用されている書籍は『刀剣談』が多いが、江戸後期の小宮山楓軒の『楓軒偶記』によれば、また違った作者が紹介されているうえに、「八丁念仏団子刺」ではなく「八丁念仏」と団子刺しによく似た「団子透し」という名の刀の存在が紹介されている。

これらの資料からすると、八丁念仏と言う刀の来歴は一度大きく見直す必要があるかもしれない。

号の由来は、斬った相手が八町も念仏を唱えながら歩いてから倒れたという逸話

月の夜、ある者を袈裟斬りにしたところ、八町も念仏を唱えながら行ったあと、倒れたという伝説のある刀。

またその時、杖について行った刀を見ると往来の石が切先へ刺し貫かれて団子の串刺しのようになっていたと言う。

『刀剣談』
著者:高瀬真卿 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第五門 名士の遺愛 雑賀の八丁念仏
ページ数:114~116 コマ数:82、83

幕末まで雑賀家に伝来し、その後、水戸徳川家が買い上げた

『刀剣談』によると、

孫市はのち徳川家康に仕え、水戸の頼房付きとなったので、幕末まで子孫の家に伝来していた。

雑賀家が零落したので、水戸の徳川家が買い上げたという。

明治から大正にかけての刀剣書で、作者については、守光説と行家説があった

明治から大正にかけての刀剣書では、雑賀孫市の「八丁念仏」の作者は守光説と行家説がある。
しかし、現在も八丁念仏を補完する「徳川ミュージアム」のブログによると、伝備前助村作(古備前派の助村の作)であるらしい。

守光説

備前長船守光説は、『日本刀大百科事典』では「刀剣と歴史」や「刀剣会誌」など当時の雑誌と『剣甲新論』を出典としている。

守光説によれば、備前長船守光の作で、永享7年(1435)8月の銘がある。
五分(約1.5センチ)ほど磨り上げて、刃長二尺六寸一分(約79.1センチ)刃文は五の目丁子乱れ。

維新後これが売りに出たので、今村長賀が岩崎弥之助男爵に買い取らせたという。

『剣甲新論』は同名の書籍が国立国会図書館デジタルコレクションにあるものの、何故かこの本は出版者と発行年が不明である。本文の内容から一応昭和10年前後の発刊だとは思われる。

『剣甲新論』(データ送信)
著者:鈴木鐸 編 発行年:不明 出版者:不明
目次:劍甲新論
ページ数:8 コマ数:8

我藩の雑賀氏に橋渡(在銘備前一文字助宗長二尺六寸余太閤より拝領)八丁念仏(在銘備前長船守光長二尺六寸余)と云へる名刀を蔵す是先祖重光自ら試されし刀と云ひ伝ふ。

他に国立国会図書館デジタルコレクションで読めるものの中だと下記の本に収録されている『甲寅紀略』に雑賀孫市の八町念仏の作者が守光であることが載っている。

『剣甲新論』と『甲寅紀略』はともに鈴木黄軒の著作なので、情報の出所はこの人物でよいのではないだろうか。

『近世文芸叢書 第12 (国書刊行会刊行書) 』
著者:国書刊行会 編 発行年:1912年(明治45) 出版者:国書刊行会
目次:甲寅紀略
ページ数:415、416 コマ数:213、214

又八町念佛は備前長船もり光(盛光守光あり、何なるか、)長二尺六寸餘、白柄朱鞘、(系書には鍔柄笄とし奈良安親とある由の處、先年淩濱屋質入、其後出せし時小柄笄無之と、鍔は名ありと云、)

行家説

行家説の出典は、高瀬羽皐氏の『刀剣談』である。

国立国会図書館デジタルコレクションを検索した感じでもこちらの方が有名な説のようであり、よく他の資料に引用や出典元として明記されている。

刃長二尺七、八寸(約81.8~84.8センチ)
または二尺八、九寸(約84.8~87.9センチ)

激戦の跡を物語る切込みや刃切れが数か所あるという。

『日本刀大百科事典』によると、
備前行家の作というが、備前に行家はいないので、備中片山一文字派でなければならぬ。
とのことである。

「徳川ミュージアム」では「伝備前助村作」と発表している

明治・大正の刀剣書で「守光」や「行家」作とされていた八丁念仏だが、現在保管する「徳川ミュージアム」のブログによると古備前派の助村の作になるという。

博物館では実際に助村の銘も見ることができるという。

また、戦後の研究者たちによる『日本刀全集 第1巻』でもすでに備前の助村作になっているので、その頃には作者に関する見解はある程度まとまっていたようである。

『日本刀全集 第1巻』(データ送信)
発行年:1966年(昭和41) 出版者:徳間書店
目次:武将と刀剣 沼田鎌次 雑賀孫市の八丁念仏
ページ数:201 コマ数:104

1923年(大正12)、関東大震災で焼身になる

刀剣書で「焼失」扱いになっているものは、刀剣関係で関東大震災の被害が一番大きかったのが所蔵元の水戸徳川家であるからだと考えられる。

実際にはこの時焼身にはなったが、水戸徳川家にその後も保管されていた。

現在は「徳川ミュージアム」保管

「徳川ミュージアム」のブログによると、水戸徳川家の名宝を展示する「徳川ミュージアム」で現在も保管・展示されている。

「八丁念仏団子刺」という名称は二刀混ざったものか

『大日本刀剣史』によると、「八丁念仏」は一名を「弊衣(やれごろも)」とも言ったという。

さらに雑賀の家には雑賀の三刀というものがあったと述べている。

一、八丁念仏 備前行家作
二、団子透し 手掻包永作
三、橋渡し 太閤より拝領 備前助宗作 二尺六寸余

この三刀が雑賀の重器で、いずれも希世の名刀だが三刀の異名が殆ど判然しないとされている。

さらにこの時期すでに、八丁念仏は水戸家に現存するが他の二刀は行方不明扱いになっている。

『大日本刀剣史 下巻』(データ送信)
著者:原田道寛 発行年:1941年(昭和16) 出版者:春秋社
目次:八丁念佛、寒念佛、念佛刀
ページ数:21~24 コマ数:21~23

雑賀孫市の刀に関する江戸時代の記録(『楓軒偶記』)

上の『大日本刀剣史』の情報の出典が気になったので検索をかけたところ、江戸時代後期の随筆といわれる『楓軒偶記』が引っかかりました。

作者の小宮山楓軒(1764~1840)は水戸藩士で学者、民政家。

下記の引用文中に登場する人物のうち加藤八郎大夫(1832~1867)は水戸藩士。
戸田八郎は似た名前の人物が幾人かいるのでちょっと断定しがたい。
戸田銀次郎で検索をかけると幕末期の水戸藩家老(1829~1865)が引っかかる。
ただし父親も通称・銀次郎なのでこの人かどうかは断定できない。

道口隆碩はよくわかりませんでしたが、文中で八郎の父銀次郎は隆碩の弟と解説されているのでそのぐらいマイナーな人物でおかしくない、と。
加藤八郎大夫の年齢が作者の年齢からするとちょっときついんですが、まぁこの時期の人は親子で同じ名前とか名乗ってたりしますから幕末の水戸にそういう人がいたということが分かっただけでよしとしましょう。

明和年間は1764~1772年、火事が明和の大火のことならこれは明和9年(1772年)。

登場人物の多くが幕末の人物、それも水戸藩関連で、悪僧を斬ったとされる刀の話をしているということは、ここで言われている鬼塚吉国の作で弊衣(やれ衣)と名付けられた刀が本当に雑賀孫市の八丁念仏と同じなら結構古くから逸話が伝承されていることになるかもしれません。

この話の大元である『久方定明見聞録』は国立国会図書館デジタルコレクションでは読めないようですが。

『百家随筆  第2 (国書刊行会本) 』
著者:図書刊行会 編 発行年:1917~1918年(大正6~7) 出版者:国書刊行会
目次:楓軒偶記 二
ページ数:153 コマ数:82

一、義公の時、鬼塚吉國(柳川人筑後柳川住、鬼塚吉國と銘す、)の刀にて、悪僧を斬り試させられしことあり、能斬れたればとて、弊衣と名付けらる、後に加藤八郎大夫に賜じ、それより何れに伝へ、いかなる故にや、道口隆碩の家に典物となり、明和の火に焚たり、隆碩惜みやきをかへし、罪人の尸をためしたるに刃かけたり、焼物は刃こぼるるものなりと戸田八郎云へり、八郎の父銀次郎は隆碩の弟なり、(後按に、久方定明見聞録曰、やれ衣又八町念佛と云ふ、雑賀孫市の蔵なり、團子透し銘手掻包永、又備前助宗、異名橋渡しと云、みな雑賀蔵の名刀なり、)

調査所感

八丁くんの研究史どうすりゃいいねん(疲)。

刀剣書に『楓軒偶記』やその大元の『久方定明見聞録』のことについて触れているものがほとんどなく、それこそ原田道寛先生の『大日本刀剣史』くらい。

義公は水戸藩2代藩主の徳川光圀、つまり水戸黄門です。

義公の時代に「悪僧を斬った」という逸話から「弊衣(やれごろも)」または「八丁念仏」という号がつけられた……ということは雑賀孫市が坊主を斬ったわけではないんですが、今現在『刀剣談』を参考にした本だと雑賀孫市が辻斬り的行動をしたことになってますね。……あれ?(いいのかそれ)

高瀬羽皐氏の鑑定眼に関してあんまり言及されているのを見ませんが、少なくとも『刀剣談』の内容は結構うろ覚えで書いている文面なので行家説は普通に間違いで、その刀自体は水戸徳川家が買い上げて今現存している助村作の「八丁念仏」と考えても問題はないように思います。

作者がばらつきすぎて気になりますが、現存物をしっかり鑑定したり、信頼性の高い文献の情報でもない限り、名刀の作者は結構間違っていることが多いので、水戸徳川家が買ったよという情報が一致しているなら現在の所蔵元の意見を疑う理由は特にないです。

守光説の鈴木黄軒と、鬼塚吉国という新しい説を引っ提げてきた小宮山楓軒は共に水戸藩士なので、情報の出所は雑賀家(鈴木家)の在る水戸藩のようですから、江戸期からすでに伝承が文献になっている刀だとは思います。

しかし、そちらを重視するとそもそも雑賀孫市の刀は三振りあってしかも「八丁念仏」と「団子刺し」ならぬ「団子透し」は本来別の刀だったという問題にぶち当たります。

上で簡単に引用しましたが、守光説でも鬼塚吉国でも雑賀孫市の刀を質に入れたところまでは同じです。
高瀬羽皐氏の『刀剣談』の方でも雑賀家が零落したので水戸徳川家が買ったという流れですし、江戸時代からすでに雑賀孫市の刀として有名だった「八丁念仏」を、雑賀家が零落して質入れしたものを水戸徳川家が買ったということなら、話の大枠はどの説でも逸れていないように思います。

作者に関しては行家説が有名で守光説もあるけれど多分正しいのは助村説。

号に関しては「八丁念仏団子刺」と呼ばれるが、後半のエピソードは別の刀の名が混じっている可能性があり、その代わり「八丁念仏」の別名は「弊衣(やれごろも)」かもしれない。

えーと、実は高瀬羽皐氏も水戸市の生まれではあるんですが、年代を考えたらやはり早い方が信憑性があるということで、『刀剣談』の記述は一度見直す必要があるでしょうね。
孫市は別に辻斬りをしていないかもしれないが、念仏を唱える僧が斬られたという内容は2代藩主・光圀の時代の出来事として幕末にすでに文献になっていると。

作者? 作者についてはもう考えることをやめたぜ!
(鬼塚吉国は新刀なので雑賀孫市蔵だとそもそも時代が合わない)

ところで、守光銘の刀を今村長賀氏が岩崎弥之助男爵に買い取らせたという話の方はどうなんでしょうね。

デジコレで確認できる範囲だと『剣話録』、つまり『刀剣講和』で講演した明治30年代に今村長賀氏が雑賀孫市の八丁念仏を気にかけていたことはわかりますが、その後の様子はよくわからない。

『日本刀大百科事典』の話は当時の刀剣雑誌を出典としたものはこちらも確認がとりにくいし、どういう形態の情報だったのかわからないのでなんとも言い難いところがあります。

『刀剣談』「徳川ミュージアム」の刀が同一物だとしても、この守光銘の刀が別物だとしたら当時「八丁念仏」と言われていた刀が二振りになってまう……。

色々気になる点のある刀ですが、これ以上は考えも調査も追いつかないようなので、この辺にしておきます。

参考サイト

「徳川ミュージアム」「徳川ミュージアムのブログ」

参考文献

『刀剣談』
著者:高瀬真卿 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第五門 名士の遺愛 雑賀の八丁念仏
ページ数:114~116 コマ数:82、83

『近世文芸叢書 第12 (国書刊行会刊行書) 』
著者:国書刊行会 編 発行年:1912年(明治45) 出版者:国書刊行会
目次:甲寅紀略
ページ数:415、416 コマ数:213、214

『剣話録 下』
著者:剣話会 編(今村長賀) 発行年:1912年(明治45) 出版者:昭文堂
目次:二十八 本阿弥光山の押形(下)
ページ数:286 コマ数:153

『刀剣一夕話』
著者:羽皐隠史 発行年:1915年(大正4) 出版者:嵩山房
目次:一 名物の刀剣
ページ数:193 コマ数:103

『百家随筆  第2 (国書刊行会本) 』
著者:図書刊行会 編 発行年:1917~1918年(大正6~7) 出版者:国書刊行会
目次:楓軒偶記 二
ページ数:153 コマ数:82

『百家随筆 第二 (国書刊行会刊行書) 』(データ送信)
著者:図書刊行会 編 発行年:1917年(大正6) 出版者:国書刊行会
目次:楓軒偶記 二
ページ数:153 コマ数:83

「刀剣と歴史 (119)」(雑誌・データ送信)
発行年:1920年8月(大正9) 出版者:日本刀剣保存会
目次:保存刀劍の分類
ページ数:3 コマ数:2

『刀剣談 再版』(データ送信)
著者:羽皐隠史 著, 高瀬魁介 訂 発行年:1927年(昭和2) 出版者:嵩山房
目次:第四 武将の愛刀 雑賀の八丁念仏
ページ数:143、144 コマ数:83、84

「刀剣と歴史 (210)」(雑誌・データ送信)
発行年:1928年6月(昭和3) 出版者:日本刀剣保存会
目次:日本刀の拵 試斬の禮式 古武士の面影 / 福島靖堂
ページ数:14、15 コマ数:12

『古今名家珍談奇談逸話集』
著者:実業之日本社 編  発行年:1928年(昭和3) 出版者:実業之日本社
目次:名刀に纏はる逸話 八丁念佛
ページ数:26~28 コマ数:28、29

『金属と人生』(データ送信)
著者:加瀬勉 発行年:1931年(昭和6) 出版者:内田老鶴圃
目次:第十八章 刄物の切味
ページ数:202 コマ数:88

『剣甲新論』(データ送信)
著者:鈴木鐸 編 発行年:不明 出版者:不明
目次:劍甲新論
ページ数:8 コマ数:8

『刀剣刀装鑑定辞典』(データ送信)
著者:清水孝教 発行年:1936年(昭和11) 出版者:太陽堂
目次:ハツチヤウネンブツ【八丁念佛】
ページ数:525 コマ数:273

『大日本刀剣史 下巻』(データ送信)
著者:原田道寛 発行年:1941年(昭和16) 出版者:春秋社
目次:八丁念佛、寒念佛、念佛刀
ページ数:21~24 コマ数:21~23

「日本刀及日本趣味 6(7)」(雑誌・データ送信)
発行年:1941年7月(昭和16) 出版者:中外新論社
目次:刀劍知識 左劍右書錄(承前) / 福島靖堂
ページ数:2、3 コマ数:6

『日本刀全集 第1巻』(データ送信)
発行年:1966年(昭和41) 出版者:徳間書店
目次:武将と刀剣 沼田鎌次 雑賀孫市の八丁念仏
ページ数:201 コマ数:104

『茨城県史料 近世地誌編』(データ送信)
著者:茨城県史編さん近世史第1部会 編 発行年:1968年(昭和43) 出版者:茨城県
目次:水府地理溫故錄
ページ数:165 コマ数:86

『紀州雑賀衆鈴木一族』(データ送信)
著者:鈴木真哉 発行年:1984年(昭和59) 出版者:新人物往来社
目次:水戸家への仕官
ページ数:215 コマ数:111

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:はっちょうねんぶつ【八町念仏】
ページ数:4巻P199

概説書

『物語で読む日本の刀剣150』(紙本)
著者:かゆみ歴史編集部(イースト新書) 発行年:2015年(平成27) 出版者:イースト・プレス
目次:第3章 太刀 八丁念仏団子刺し
ページ数:90