不動行光

ふどうゆきみつ

概要

「短刀 銘行光(名物不動行光)」

『日本刀大百科事典』によると、
豊前小倉藩主・小笠原家伝来で、由緒は不詳。

伝来については、小笠原貞慶が天正3年(1575)、長篠の役の功により、織田信長より拝領、という伝承があるが、貞慶がこれに参戦した、という事実はないらしい。

『日本名宝展覧会目録並解説』によると、もとは織田信長の遺愛の刀。
信長の息子・織田信雄に伝えられ、信雄から小笠原忠真へ贈られたとなっている。

『豊前叢書』によると、寛保2年に「甲破の刀」「不動正宗」と共に将軍の台覧に供している。

戦前まで小笠原家所有で昭和4年の「日本名宝展覧会」にも出品されている。

『武将と名刀』によると、戦後に小笠原家を出て個人蔵になったようである。

昭和の半ば頃からの刀剣書では何故か森蘭丸が織田信長から拝領したという説が広まっている。

『日本刀全集』の発行頃は石居健次氏蔵。

現在も個人蔵らしいが、佐野美術館が2018年(平成30)「上杉家の名刀と三十五腰」という展覧会を催したとき、不動行光も同時展示されていた。40年ぶりの展示だったらしい。

豊前小倉藩主・小笠原家伝来だが、由緒は不詳

『日本刀大百科事典』によると、
豊前小倉藩主・小笠原家伝来で、由緒は不詳。

小笠原家への伝来についての伝承1

『日本刀大百科事典』によると、
伝来については、小笠原貞慶が天正3年(1575)、長篠の役の功により、織田信長より拝領、という伝承があるが、貞慶がこれに参戦した、という事実はないらしい。

小笠原家への伝来についての伝承2

『日本名宝展覧会目録並解説』によると、
もとは織田信長の遺愛の刀。
信長の息子・織田信雄に伝えられ、信雄から小笠原忠真へ贈られたとなっている。

『日本名宝展覧会目録並解説』(Googleブックス)
発行年:1930年(昭和5) 出版者:読売新聞社
目次:不動行光短刀
ページ数:50

不動行光短刀
長 八寸五分
銘 行光
作者 相模国行光 弘安(六百五十二年前)頃
伝来 織田信長の遺愛にして、子内大臣信雄に伝へ、信雄より小笠原右近大夫忠真に贈れり。
備考 不動の像を彫りたり。

1742年(寛保2)5月26日、8代将軍・徳川吉宗の台覧に供した

小倉藩についてまとめられた下記の『豊前叢書』によれば寛保2年に「甲破の刀」「不動正宗」と共に将軍の台覧に供しているようである。

(※この「不動正宗」に関する詳細は不明。同名で有名な尾張徳川家の「不動正宗」とは別物のようである)

『豊前叢書 本輯 第8号 (小倉藩政雑志歴代藩主 第5)』(データ送信)
著者:吉永禺山 編 発行年:1963年(昭和38) 出版者:豊前叢書刊行会
目次:小笠原忠基(三代) 寛保二年壬戌(一七四二年)
ページ数:62 コマ数:33

金100枚の折紙付き

『日本刀大百科事典』『詳註刀剣名物帳』によると、
本阿弥家で金百枚の折紙をつけている。

戦前まで小笠原家所有

昭和4年の「日本名宝展覧会」に出品された。

戦後、小笠原家を出て個人蔵になる

『武将と名刀』によると、戦後に小笠原家を出て個人蔵になったようである。
下記の本の発行頃は石居健次氏蔵。

『日本刀全集 第9巻』(データ送信)
発行年:1968年(昭和43) 出版者:徳間書店
目次:古刀
ページ数:74、75 コマ数:41

現在

佐野美術館が2018年(平成30)「上杉家の名刀と三十五腰」という展覧会を催したとき、不動行光も同時展示されていた。

「佐野美術館」の収蔵品ではなく個人蔵扱いで、40年ぶりの展示だと話題になった。

「佐野美術館」のサイトより。

作風

刃長八寸四分(約25.5センチ)弱
身幅はハバキもとで七分(約2.1センチ)強。
平造り、真の棟。無反りに近い。

差し表には、樋の中に梵字・蓮台・不動明王・矜羯羅(こんがら)と制多迦の二童子などの浮き彫り、裏には長い腰樋を彫る。

地鉄は小板目肌つまるも大肌まじり、地沸えつく。
刃文は直刃に小乱れまじり、刃縁よく働く。
鋩子は小丸尖り。
中心はうぶ、目釘孔は三個。
「行光」と在銘。

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:ふどう【不動】
ページ数:4巻P303、304

『享保名物帳』の「不動」は「行光」か? それとも「貞宗」か

『日本刀大百科事典』によると、
『享保名物帳』の原本にはなく、本阿弥長根が幕末になって追加したもの。

「不動行光」の絵図は『光山押形』に出ているが、『享保名物帳』には、単に「不動」とだけあって、刀工名は書いてない。

『享保名物帳』の「不動」が果たして行光かどうか、疑問なので、今村長賀が明治34年5月28日拝見したのち、本阿弥長識に照会したところ、「不動」の作者は相州貞宗、と回答してきたという。

これによって、『日本刀大百科事典』では
すると、現存の不動行光は、『名物帳』にいう“不動”ではないことになる。

と、結論している。

『詳註刀剣名物帳』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:貞宗、行光、新藤吾の部
ページ数:141、142 コマ数:85、86

『光山押形 乾』(データ送信)
著者:本阿弥光山 発行年:1967年(昭和42) 出版者:雄山閣出版
目次:四、 本書の掲載諸刀散見 乾の巻 ページ数:9 コマ数:26
目次:光山押形 乾 ページ:5 コマ数:48

『剣話録 下』
著者:剣話会 編(今村長賀) 発行年:1912年(明治45) 出版者:昭文堂
目次:二八 本阿弥光山押形(下)
ページ数:288 コマ数:154

異説 森蘭丸拝領説

昭和17年の『日本刀大観』ではすでに森蘭丸が鞘の刻みを数えたという有名な逸話の刀と説明されている。

『日本刀大観 下巻』
著者:本阿弥光遜 発行年:1942年(昭和17) 出版者:日本刀研究会
目次:第三章 各國刀匠の略歴と其の掟と特徴 第一 古刀の部
ページ数:442、448 コマ数:96、99

『武将と名刀』(データ送信)
著者:佐藤寒山 発行年:1964年(昭和39) 出版者:人物往来社
目次:織田信長と長船光忠その他
ページ数:95、96 コマ数:52、53

森蘭丸拝領説と小笠原貞慶拝領説との矛盾

『日本刀大百科事典』によると、

不動行光が焼け身の焼き直し物であることについても、森蘭丸が信長から拝領していて、本能寺の変で焼けた、ともいう。

すると、小笠原貞慶が拝領したことが否定されるし、では、その焼け身がどうして、小笠原家に伝来しているのが、それも疑問になってくる。

という。

伝承の混乱、「不動行光」と「不動貞宗」との混同

『享保名物帳』の記述や拝領した相手の食い違いに関して、『日本刀大百科事典』では、こうした疑惑は「不動行光」と「不動貞宗」との混同から生じたものであろうと推測している。

調査所感

「享保名物」ではない?

『享保名物帳』の原本には記載がなく追記で、しかも何故か刀工に関する記載がなく「不動」とだけある。
それを今村長賀氏が本阿弥長識氏に確認をとったら作者は貞宗と回答されたと。

そう聞くと「享保名物」の「不動」は現在の「不動行光」ではないとも考えられる。

ただ、『享保名物帳』を調べるにあたって中央刀剣会発行の『刀剣名物牒』などを見るとわかるんですが、持ち主が「小笠原右近将監殿」なんですよ。
これは小倉藩小笠原家の忠政(忠真)だと言われています。

そして実際に小笠原家には不動という号の行光が伝わっていたのだから不動行光でいいような気がするんですが、なんで本阿弥家の回答がずれているのかよくわからない、と。

このよくわからない状況のせいで当時の刀剣書でも微妙な扱いです。

昭和頃の刀剣書では『享保名物帳』の「不動」は「不動行光」としているようである

上のようなよくわからない状況を処理するのに二つのやり方があります。
研究者の性格によって説明がわかれます。

1.名物帳との齟齬をあくまで気にしていく

名物帳には「不動」とだけあって刀工名はないが今日では「不動行光」とされている、みたいな説明の仕方をしているのは戦前だと『刀剣刀装鑑定辞典』とか平成だと『日本刀大百科事典』の書き方です。「刀剣と歴史」にも一つくらいこんな感じの記事があったかと。

『刀剣刀装鑑定辞典』(データ送信)
著者:清水孝教 発行年:1936年(昭和11) 出版者:太陽堂
目次:フドウ【不動(行光、貞宗)】
ページ数:418 コマ数:220

2.小笠原家伝来の不動行光が「享保名物」だと断定しちゃう

戦前だと『日本刀大観 下巻』、戦後は『武将と名刀』辺りの本はこっちです。
うーん、確かに持ち主が小笠原右近将監殿だし『光山押形』にも出ているしで違うとも言い切れないし微妙っちゃ微妙なところです。

突然生えてきた森蘭丸拝領説

小笠原家伝来の不動行光という一振りの刀の研究史として追うと昔はこのような説明が言われてなかったわけですから、突然逸話が生えました、としか言いようがありません。

話の追い方として享保名物を追うか、森蘭丸の刀を追うかでも若干違うのでしょうが、誰もこの現象に関し不動行光と森蘭丸が鞘の刻みを数えていた刀が同一であるという判断に納得のいく根拠を出していないので、不動行光側から追うとまあ突然逸話生えたね、と。

不動行光が「享保名物」である可能性は本阿弥家側の鑑定が実は違ったとか長識さんがたまたま間違えたとかそういう可能性がまだ残されていますが、森蘭丸拝領説は出典なしに出ていい話じゃないよな、と。
そんでもってこの話してる人誰も根拠出してねぇ――!!

森蘭丸が鞘の刻みを数えていたというエピソードは『常山紀談』なんかに収録されていますが、刀の名前は記されていません。

『常山紀談 (有朋堂文庫) 』
著者:湯浅元禎 輯, 永井一孝 校 発行年:1926年(大正15) 出版者:有朋堂
目次:卷之五 森蘭丸才敏の事
ページ数:167、168 コマ数:101、102

寒山先生の『武将と名刀』は大きい図書館などには入っているし、武将関連の刀を調べるのに便利な本としてよく読まれていると思うが、この辺りの本からはっきりとこのエピソードの刀がこれだよという扱いです。

と、いうかネットでざっくり「不動行光、九十九髪、人には五郎左御座候」と織田信長が歌ったエピソードの出典調べようかと思ったんですが 出 て こ な い。

寒山先生の本だけかこれ。うわマジか……。

信長が歌ったのは「不動行光」か「不動国行」か

言ってるの両方寒山先生だけかよー―!!
まさか他に一件も引っかからないとはな……。

「不動行光、九十九髪、人には五郎左御座候」(『武将と名刀』)
「不動国行、つくも髪、人には五郎左御座候」(『日本名刀物語』)

私のヘボい検索能力のせいで結果が引っかからない可能性はまあ十分にあるんですけどね。
これらの本より前、つまり1960年代より前の本にこのフレーズが書かれているという情報が全然ないので寒山先生初出の情報つまり当時の愛刀家界のただの憶測の可能性が浮上してきた。

刀剣関係の通説はとかく寒山先生の本が有名で、大体今出回っているのは寒山先生発。

ただし寒山先生が一人で言っているわけではなく、おそらく当時の刀剣研究界・愛刀家界隈で普通に話されている内容を寒山先生が本を書く時にまとめる形になったと思われるものだらけです。

そもそもこの歌の出典は?

……あのー、ということは、もしかしてなんですけど。

信長がこのように歌った、というところからそもそも怪しいんじゃないの?

この歌の出典どこ? 寒山先生の話以外で。

割と刀剣研究の世界は歴史を調べなきゃいけないのに史学に弱くて来歴創作しちゃう部分があって。

(刀剣研究の世界が史学に弱いことはどこかで酔剣先生が指摘していたと思う。
『日本刀物語』の「鬼切りと童子斬り」で酒呑童子退治がフィクションだという話の文脈とか)。

間違っても史実とは思えない講談や軍記の話がまかり通っているので、それもありえないことではないかなと。

『日本刀大百科事典』ではとりあえず主に「不動行光」を説明している「不動」の項目でも「不動国行」の項目でもこの話はされていませんね。

他の出典こまめに書くタイプの研究者も何も言っていない……。

「つくも髪」こと「つくも茄子」とか「茄子茶入」とか言われている茶器関連もちょっと検索したんですけどやっぱり引っかからない。

それと、このタイプの「戦国武将が自分には過ぎたものがある、〇〇と〇〇と〇〇」ってタイプのフレーズというかうたい文句にはどうやら定型があるみたいです。

刀剣だといくつかの刀がその大名家のどこどこに過ぎたるものは~~みたいな言われ方をしているので、一つ原型があったら誰かが替え歌みたいに別パターンを作る、の流れでできた可能性も否定できない。

史料に触れていない寒山先生の話だけじゃなく、きちんとした出典さえあればこの辺の疑惑全部晴れるんですが、誰か知ってる人いませんかね……?

逸話がそんなほいほい生えていいのか

そもそも逸話ってそんなほいほい生えるものなんですか? という視点に戻りましょう。

生える。

この研究史調査シリーズをここまでお読みくださった方々はなんとなくあー……と思うと思います。

逸話や来歴は割と途中から生えたり、原型があってもさらに内容盛られたり、他の刀の話と混ざったり、逆にこれだけ大きな家なら伝来も固いと思われたものが途中で消滅していたり、なにかと波乱万丈です。

だからまあ逸話が途中で生えるのは「おかしなこと」と言ったらそりゃそうなんですが。
逸話が生えるのはよくあるの? って言ったら「よくある」ね、と思います。

状況としては不自然で史実の研究・伝達としてはダメダメなんでしょうが、現象として珍しいかありえないかと言われたらむしろよくあります! と言うしかない。

あれ? じゃあそもそも焼けてなくない?

焼けてないかもしれない。

不動行光が焼き直し物とか再刃とか言われ出したのも蘭丸拝領説が広まって以降の時代からのものしかないと思います。

蘭丸が拝領してたって話が出たから焼けたと言われるようになった可能性があり、刀そのものは焼けていない可能性がある。

同じ号を持つ刀との混同問題なのかそれ以前の問題か

混同問題自体はそれこそ今まで見てきたように死ぬほどよくあることですね。

ただ、今回はちょっと上の「不動行光、九十九髪、人には五郎左御座候」の出典がわからない方が問題としては大きいと思います。

これが出典なかったら、そもそも不動行光だろうが不動国行だろうがどっちだって同じだってことになります。

歌われたのがどっちだ? という問題ではなく、おそらくこの歌そのものが歌われてないのではないかと。

マジで誰か突っ込んで調べてくれてねえかなこれ。
今ネット上とかで、歌われたのは不動行光じゃなく信長の趣味的に不動国行じゃないか、って言われてる話も、そもそも原典を確認すればそれで済む話じゃないのか。

原典の物理的な破損か何かで読めない文字があったとしても、それはそれでそういうものだという情報が必ず出るはず。
そういう話が何もないってことは、そもそも原典が存在しないと考えるのが自然では。

そして、そういう風に原典に言及する発言がないってことは、そもそも誰もこの歌自体が史料として存在するかどうかを誰も調べてないってことですよね……。

小倉藩小笠原家の由緒不詳の刀たち

他の刀の項目でも書きましたが、小笠原家の刀は特に由緒がわからないんですよ。

秋田藤四郎、博多藤四郎、豊前江、不動行光。

不動くんはまだいい方で豊前は本当に来歴真っ白で何一つわからない。
『享保名物帳』追記の部に載ってる博多くんがようやく他の刀並みの情報量で、秋田くんは秋田実季所有と言うけどこれも美術館側には伝わっているけれど研究書に資料が載っているような来歴ではなく。

この辺も話を難しくしていると思います。

そんでもってとうらぶの不動くん

ここでは小笠原家伝来の一振りの刀としての不動行光の来歴の固そうな部分を中心にまとめましたが、ぶっちゃけとうらぶというゲームに関しては語られたものはみなその刀の物語! 的にどの刀剣男士も創作部分を持って顕現しているので、まあ正直刀剣男士としては他の刀と変わらないと思います。

小笠原家伝来の「不動行光」が享保名物だと言われたり、森蘭丸が拝領したと言われたりしていること自体は事実ですので。
その話が史実であるかの根拠がないし証明もしかして誰も出してないんじゃないかってだけで……。

ゲームキャラの方に関してひとつ気にかかることを書いておけば、そういえば不動くんって「信長の刀」であることは強調されてますけど蘭丸を自分の元主として言及している部分ほとんどなくないか? 公式Twitterの紹介部分がその説明になっているにも関わらず。

一応極ではちらっと蘭丸の名前も出しているボイスがあるくらいか?
なくはない。けれど多いとも言えない。そういう男士自体は結構いるけども。

小笠原家伝来の不動行光の来歴は森蘭丸にはわたってないけど信長の遺愛刀だとは言われてますから、制作側は最初からわかっていて設定していると思いますこれ。

参考文献

『刀剣談』
著者:高瀬真卿 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第十二門 名物牒(目録略す)
ページ数:302 コマ数:176

『剣話録 下』
著者:剣話会 編(今村長賀) 発行年:1912年(明治45) 出版者:昭文堂
目次:二八 本阿弥光山押形(下)
ページ数:288 コマ数:154

『詳註刀剣名物帳』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:貞宗、行光、新藤吾の部
ページ数:141、142 コマ数:85、86

『日本趣味十種 国学院大學叢書第壹篇 (国学院大学叢書 ; 第1編) 』(データ送信)
著者:芳賀矢一 編 発行年:1924年(大正13) 出版者:文教書院
目次:八 刀剣の話 杉原祥造
ページ数:350 コマ数:196
(本によって1コマずれる)

「刀剣と歴史 (201)」(雑誌・データ送信)
発行年:1927年9月(昭和2) 出版者:日本刀剣保存会
目次:口繪 不動行光短刀
コマ数:5

『刀剣銘字典』(データ送信)
著者:川口陟 等著 発行年:1928年(昭和3) 出版者:商人社
目次:ユの部
ページ数:465 コマ数:244

「刀剣と歴史 (220)」(雑誌・データ送信)
発行年:1929年4月(昭和4) 出版者:日本刀剣保存会
目次:雜報
ページ数:53 コマ数:27

『日本名宝展覧会目録並解説』(Googleブックス)
発行年:1930年(昭和5) 出版者:読売新聞社
目次:不動行光短刀
ページ数:50

『新刀古刀大鑑 上卷』(データ送信)
著者:川口陟 発行年:1930年(昭和5) 出版者:日本刀剣学会
目次:古刀之部
ページ数:63 コマ数:54

『刀剣実証鑑定法』(データ送信)
著者:清水孝教 発行年:1934年(昭和9) 出版者:太陽堂書店
目次:第三章 古刀の變化と彫銘及掟
ページ数:401 コマ数:209

『日本刀研究便覧』(データ送信)
著者:内田疎天 発行年:1934年(昭和9) 出版者:岡本偉業館
目次:第四章 日本刀の沿革 第三期の鍛冶と刀
ページ数:36 コマ数:61

『大日本刀剣新考 訂』(データ送信)
著者:内田疎天 発行年:1934年(昭和9) 出版者:岡本偉業館
目次:第四章 日本刀形體通解
ページ数:270 コマ数:350

『日本刀講座 第6巻 (刀剣鑑定・古刀)』(データ送信)
著者:雄山閣 編 発行年:1934年(昭和9) 出版者:雄山閣
目次:(古刀鑑定)東海道 甲斐國 伊豆國 相模國
ページ数:60 コマ数:40

『日本刀講座 第11巻 (雑)』(データ送信)
著者:雄山閣 編 発行年:1935年(昭和10) 出版者:雄山閣
目次:第九章 作風と作刀吟味 相州
ページ数:54 コマ数:35

『剣甲新論』(データ送信)
著者:鈴木鐸 編 発行年:不明 出版者:不明
目次:刀剣彫物の研究
ページ数:10 コマ数:9

『刀剣銘大集 (第十一輯)』(データ送信)
著者:清水澄 編 発行年:1935年(昭和10) 出版者:美術倶楽部出版部
目次:行光 古刀/第46葉
コマ数:50

『刀剣刀装鑑定辞典』(データ送信)
著者:清水孝教 発行年:1936年(昭和11) 出版者:太陽堂
目次:フドウ【不動(行光、貞宗)】
ページ数:418 コマ数:220

『不動尊霊験祈祷法 : 他4篇』(データ送信)
著者:小野清秀 発行年:1938年(昭和13) 出版者:日本仏教新聞社
目次:刀匠と不動尊
ページ数:136、137 コマ数:78

『小笠原中将想ひ出の記』(データ送信)
著者:陸軍航空本部 編 発行年:1939年(昭和14) 出版者:陸軍航空本部
目次:小笠原中將の想ひ出
ページ数:185、186 コマ数:116、117

『大日本刀剣史 下巻』(データ送信)
著者:原田道寛 発行年:1941年(昭和16) 出版者:春秋社
目次:琉球中山王進獻の行光
ページ数:90 コマ数:56

『日本刀大観 下巻』
著者:本阿弥光遜 発行年:1942年(昭和17) 出版者:日本刀研究会
目次:第三章 各國刀匠の略歴と其の掟と特徴 第一 古刀の部
ページ数:442、448 コマ数:96、99

『豊前叢書 本輯 第8号 (小倉藩政雑志歴代藩主 第5)』(データ送信)
著者:吉永禺山 編 発行年:1963年(昭和38) 出版者:豊前叢書刊行会
目次:小笠原忠基(三代) 寛保二年壬戌(一七四二年)
ページ数:62 コマ数:33

『武将と名刀』(データ送信)
著者:佐藤寒山 発行年:1964年(昭和39) 出版者:人物往来社
目次:織田信長と長船光忠その他
ページ数:95、96 コマ数:52、53

『光山押形 乾』(データ送信)
著者:本阿弥光山 発行年:1967年(昭和42) 出版者:雄山閣出版
目次:四、 本書の掲載諸刀散見 乾の巻 ページ数:9 コマ数:26
目次:光山押形 乾 ページ:5 コマ数:48

『寒山刀剣教室 基礎篇』(データ送信)
著者:佐藤寒山 発行年:1968年(昭和43) 出版者:徳間書店
目次:正宗と相州伝
ページ数:32 コマ数:20

『日本刀全集 第9巻』(データ送信)
発行年:1968年(昭和43) 出版者:徳間書店
目次:古刀
ページ数:74、75 コマ数:41

『日本刀講座 第10巻 新版』(データ送信)
発行年:1970年(昭和45) 出版者:雄山閣出版
目次:図版
ページ数:図―75  コマ数:51

「刀剣と歴史 (462)」(雑誌・データ送信)
発行年:1971年7月(昭和46) 出版者:日本刀剣保存会
目次:名物の相州物(下) / 辻本直男
ページ数:21 コマ数:15

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:ふどう【不動】
ページ数:4巻P303、304

概説書

『剣技・剣術三 名刀伝』(紙本)
著者:牧秀彦 発行年:2002年(平成14) 出版者:新紀元社
目次:第三章 戦国武将 不動行光 織田信長
ページ数:132~135

『名刀 その由来と伝説』(紙本)
著者:牧秀彦 発行年:2005年(平成17) 出版者:光文社
目次:武将・大名の名刀 不動行光
ページ数:116~118

『図解 武将・剣豪と日本刀 新装版』(紙本)
著者:日本武具研究界 発行年:2011年(平成23) 出版者:笠倉出版社
目次:第3章 武将・剣豪たちと名刀 織田信長とへし切長谷部、他
ページ数:162~167

『刀剣目録』(紙本)
著者:小和田康経 発行年:2015年(平成27) 出版者:新紀元社
目次:≪第二章 鎌倉時代≫ 相模国鎌倉 行光 不動行光
ページ数:132、133

『刀剣聖地めぐり』(紙本)
発行年:2016年(平成28) 出版者:一迅社
目次:不動行光
ページ数:84