骨喰藤四郎

ほねばみとうしろう

  1. 概要
    1. 「薙刀直シ刀 無銘伝粟田口吉光(名物骨喰藤四郎)」
    2. 大友家から足利尊氏への献上時期は「延文(1356頃)」と「建武(1336頃)」の2説
      1.  延文(1356)の頃、足利尊氏が九州落ちしたとき、豊後の大友氏時が献上したとする説
      2.  建武3年(1336)、足利尊氏が九州落ちしたとき、大友家から献上した、とする説
    3. しかし、もともと足利家伝来という説もある
    4. 1487年(長享元年)9月12日、9代将軍・足利義尚が江州出陣の時に帯びた
    5. 1565年(永禄8)、永禄の変で足利義輝を殺した松永久秀が奪取
      1. 京都所司代の多賀豊後守高忠が所持していた(誤説)
      2. 松永久秀が将軍・足利義輝を殺して、奪取
    6. 大友宗麟は、さっそく毛利鎮実を使者として、骨喰の返還を申し入れた
    7. 天正頃か、豊臣秀吉が千利休を使者にして、大友宗麟の嗣子・義統から召し上げる
    8. 豊臣時代の骨喰藤四郎
    9. 大阪落城後、徳川家に渡るまでの骨喰藤四郎の諸説
      1. 骨喰も焼失した説(誤伝)
      2. 秀頼の茶坊主が盗み出した説(誤伝)
      3. その頃木村重成の刀だったので、井伊直孝に分捕られ徳川家康に献上された説
      4. 木村重成の所持は否定する異説もある
      5. 落城ののち、河州の農民が拾ってきて2代将軍・徳川秀忠に差し出したとする説
      6. 落城のあと、お堀から出てきたと町人が本阿弥光室のもとに持ち込んだとする説
      7. 木村重成が討死のとき、井伊家の家来が佩刀を分捕り、本阿弥光室に売りに来たという説
      8. 井伊家の家来が、京都七条の某寺において、本阿弥光栄に売りつけたとする説
    10. 2代将軍・徳川秀忠が買い上げた
    11. 1657年(明暦3)、明暦の大火で焼身になり、後に越前康継に再刃される
    12. その後、紀州の徳川家が拝領していたが、明治2年7月、再び大徳川家に返還されたという話がある
    13. 明治時代、豊国神社の再建に先駆けて寄進
    14. 1925年(大正14)4月24日、国宝(旧国宝指定)
    15. 現在も「豊国神社」蔵
    16. 作風
    17. 「骨喰」という異名について
      1. 表記揺れ
      2. 語源
    18. 「骨喰」の号を持つ他の刀
      1. 源三位頼政の「骨食」
      2. 三池作の骨食
      3. 奥州鬼王丸作の骨食
      4. 藤六左近貞国作の骨喰
    19. 越前康継の写し物
  2. 調査所感
  3. 参考サイト
  4. 参考文献
  5. 概説書

概要

「薙刀直シ刀 無銘伝粟田口吉光(名物骨喰藤四郎)」

いわゆる薙刀直しの脇差で、無銘だが粟田口藤四郎の作と極められている。

『大友興廃記』によると、1336年(建武3)、足利尊氏が九州落ちしたときに大友家から献上した刀である。
しかし、『梅松論』によればもともと足利家の重代であったとある。

どちらにせよその後足利家の重代となり、1487年(長享元年)9月12日、9代将軍・足利義尚が江州出陣の時に帯びている。

そして1565年(永禄8)、永禄の変で足利義輝を殺した松永久秀が奪取した。
その話を聞いた大友宗麟は、さっそく毛利鎮実を使者として、骨喰の返還を申し入れた。
その時、大友宗麟から松永久秀に渡された品々は金額にして三千両にもなろうという大金だったと言う。

天正15年頃になると、島津家に攻撃されていた大友家は、豊臣秀吉の島津征伐によって、危うく滅亡を免れた。
千利休から骨喰の事を知った秀吉は利休を使者にして、宗麟の嗣子・義統から、骨喰を召し上げた。

豊臣家時代は、大阪城では刀箱の一之箱に納められ、腰物帳でも筆頭にあげられているなど、豊臣秀吉が特に重要視した刀であることがわかる。

大阪落城後、徳川家に渡るまでの骨喰藤四郎のことは諸説紛々である。
『本阿弥行状記』にある豊臣秀頼から木村重成に与えられこの刀を佩いて討ち死にした説や、『享保名物帳』にある大阪城の堀から拾われて本阿弥家に持ち込まれたという説がよく知られているように思われる。

実際は誰がどこで拾ったかはともかく、本阿弥家に持ち込まれたところまでは共通する資料が多く、『享保名物帳』によれば本阿弥家の人間がこの刀をまず徳川家康に見せ、良い刀だが自分には重すぎると家康が断ったため、2代将軍・秀忠に見せたところ秀忠が買い上げたという。

1657年(明暦3)、明暦の大火で焼身になり、後に越前康継に再刃される。

『日本刀大百科事典』によるとその後、幕末頃か紀州徳川家に伝来したという話もある。
(しかしこの話の出典はよくわからない)

明治元年になると、徳川家康によって取り潰されていた豊国神社再建の話が持ち上がり、明治31年4月の「豊太閤三百年祭」に先駆けて徳川家達公爵が豊国神社に寄進した。

1925年(大正14)4月24日、国宝(旧国宝指定)され、戦後に法律が変わった現在では重要文化財となっている。

現在も所有者は豊国神社であり、保管施設は京都国立博物館である。

大友家から足利尊氏への献上時期は「延文(1356頃)」と「建武(1336頃)」の2説

 延文(1356)の頃、足利尊氏が九州落ちしたとき、豊後の大友氏時が献上したとする説

『筑紫軍記』によると、
延文(1356)のころ、足利尊氏が九州落ちしたとき、豊後の大友氏時が献上したという説がある。

『軍談家庭文庫 第1冊』
著者:久保天随 (得二) , 青木存義 校訂, 芳賀矢一 解題 発行年:1911年(明治44) 出版者:広文館
目次:筑紫軍記 巻之第十五 吉光骨啄木を秀吉公に献ずる事
ページ数:7 コマ数:445

此の太刀は昔延文年中、足利尊氏卿摂州豊島河原の合戦に討ち負け玉ひ、鎭西に落ち行き玉ふ時に、大宰の小貳筑後守頼尚、大友左京太夫氏時一番に馳せ参る尊氏卿感じ玉ひ、君臣三世の約をなす。此の時大友氏時此の剣を献る。是れより公方家に連綿として重器となる。其の後近江国の住人宇多源氏多賀豊後守高忠之を得て秘蔵せり。

 建武3年(1336)、足利尊氏が九州落ちしたとき、大友家から献上した、とする説

『大友興廃記』によると、
建武3年(1336)、尊氏が九州落ちしたとき、大友家から献上した、とする説がある。

『日本刀大百科事典』によると、献上時期は上の「延文説」よりこの「建武説」の方が史実にかなうとしている。

『故実叢書 武家名目抄(塙保己一)』
著者:今泉定介 編 発行年:1899~1906(明治32~39) 出版者:吉川弘文館
目次:第二百七十二冊刀剣部五
ページ数:3382、3382 コマ数:36

『大分県郷土史料集成 下巻(戦記篇(後))』(データ送信)
著者:垣本言雄 校訂 発行年:1936~1940年(昭和11~15) 出版者:大分県郷土史料刊行会
目次:大友興廢記 卷第二十二 骨啄刀之事
ページ数:138、139 コマ数:95、96

右骨啄の刀は、大友家重代の宝刀なり。然を建武三年丙子の頃、尊氏将軍鎭西御下向の時、大友氏時御馳走被成、深く一味の誓を以て、此刀を尊氏公に進ぜらる。

しかし、もともと足利家伝来という説もある

『梅松論』によると、
足利尊氏が九州に着き、多々良浜の合戦に臨んだとき、「御重代の骨食」を帯びていたという。

すると、大友家伝来でなくて、足利家伝来だったことになる。

尊氏が帯びていたとすれば、太刀だったことになるが、のちの将軍義尚が長享元年(1487)9月12日、六角高頼を討伐するため、江州坂本に出陣したとき、小者に「御長刀ほねかみと申す御重代をかつ」がせていた。

『日本刀大百科事典』では「骨かみ」は「骨喰み」に違いないから、当時はまだ薙刀だったことになる、としている。

『新釈日本文学叢書 第10巻』
著者:物集高見 監修, 物集高量 編著 発行年:1924~1925(大正12~13) 出版者:日本文学叢書刊行会
目次:梅松論 下
ページ数:72 コマ数:145

将軍其の日は、筑後入道妙恵が、頼尚を以て進上申したりし赤地の錦の御直垂に、唐綾威の御鎧に御剣二あり。一は御重代の骨食なり。

1487年(長享元年)9月12日、9代将軍・足利義尚が江州出陣の時に帯びた

『長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』によると、
9代将軍・足利義尚は長享元年(1487)9月、江州への出陣の時に帯びた。

『群書類従 第拾九輯』
著者:塙保己一 編 発行年:1894年(明治27) 出版者:経済雑誌社
目次:巻第五百十一 長享元年江州御動座在衆着到
ページ数:687、688 コマ数:349、350

中に御刀は御長刀。ほねかみと申御重代をかつぐ。

1565年(永禄8)、永禄の変で足利義輝を殺した松永久秀が奪取

京都所司代の多賀豊後守高忠が所持していた(誤説)

『筑紫軍記』によると、足利家の次に、京都所司代の多賀豊後守高忠が所持していた、との説がある。

高忠は永禄8年(1565)5月19日、松永久秀が将軍義輝を二条館に囲んで殺したとき、いっしょに討死したので、骨喰は久秀に分捕られたという。

しかし、高忠はそれより80年も前に死去しているので、この説は誤りである。

松永久秀が将軍・足利義輝を殺して、奪取

『大友興廃記』によると、松永久秀が永禄の変で足利義輝を殺して奪取したものである。

上の多賀高忠所持説も混ざっているが、どちらにしろ奪った人物に関してははっきりと松永久秀と書いてある。

『大分県郷土史料集成 下巻(戦記篇(後))』(データ送信)
著者:垣本言雄 校訂 発行年:1936~1940年(昭和11~15) 出版者:大分県郷土史料刊行会
目次:大友興廢記 卷第二十二 骨啄刀之事
ページ数:138、139 コマ数:95、96

尊氏公御刀を得て、本意を遂られ、代々公方の重代と成して、何の時にか、多賀豊後守此刀を求得て所持せし所に、永禄八年乙丑五月十九日に、三好左京大夫、松永弾正逆心を起し、義輝公方を弑し奉りし時、豊後守戦死を遂げし後、松永霜壹此刀を得て、天下の権柄を執り御秘蔵有を、大友家先祖の重宝なる故、御所望なされんために、同八年に毛利兵部丞鎭西に使者として、錦繡厚板巻物以下、金銀凡三千両の価を松永公へ献じ申請らるる。

大友宗麟は、さっそく毛利鎮実を使者として、骨喰の返還を申し入れた

『大友興廃記』によると、
その話を伝え聞いた九州探題の大友宗麟は、さっそく毛利鎮実を使者として、骨喰の返還を申し入れた。
久秀はしぶしぶ承諾せざるを得なかった。
何しろ錦繡・厚板織・巻紙・金銀など、金額にすれば三千両にもなろう、という豪華な土産物を持ってきたからである。

天正頃か、豊臣秀吉が千利休を使者にして、大友宗麟の嗣子・義統から召し上げる

薩摩の島津家の攻撃の前に、風前の灯だった大友家は、天正15年(1587)、豊臣秀吉の島津征伐によって、危うく滅亡を免れた。

『大友興廃記』によると、
千利休から骨喰の事を知った秀吉は利休を使者にして、宗麟の嗣子・義統から、骨喰を召し上げた。

その時は、大友家で薙刀を磨り上げ、すでに大脇差になっていたという。

この召し上げ時期は『大友興廃記』では1589年(天正17)としているが、『日本刀大百科事典』では下記の『光徳刀絵図』の押形を根拠にそれは誤り(天正16年に豊臣で押形を採っているということは召し上げ時期はそれ以前)としている。

豊臣時代の骨喰藤四郎

『豊臣家御腰物帳』によると、
大阪城では刀箱の一之箱に納められ、腰物帳でも筆頭にあげられている。
いかに秀吉が重視していたかがわかる。

『日本刀大百科事典』では、『光徳刀絵図』の石田を出典として、
本阿弥光徳は石田三成の需めにより、天正16年(1588)極月、骨食の押形をとっている、という。

すると、『大友興廃記』による、秀吉が大友家から召し上げたのを、天正17年(1589)3月とする説は、誤りとなる。

『日本刀大百科事典』では『光徳刀絵図』の寿斎本を出典として、
打ち刀拵えの金具は、埋忠寿斎が作ったが、同時に中心尻を七分(約2.1センチ)ほど切り詰めた。
彫物もむらがあったので、寿斎が手まめに直した、としている。

『光徳刀絵図集成』(データ送信)
著者:本阿弥光徳 画, 本間順治 編 発行年:1943年(昭和18) 出版者:便利堂
目次:三五 骨喰藤四郎 ページ数:18、19 コマ数:32、33
目次:解説 ページ数:2~4 コマ数:112~114
目次:御太刀御腰物御脇指 太閤様御時ゟ有之分之帳 コマ数:115

大阪落城後、徳川家に渡るまでの骨喰藤四郎の諸説

大阪落城で豊臣家が滅亡してから、徳川家に渡るまでの骨喰藤四郎に関しては江戸時代には諸説紛々だったようである。
『日本刀大百科事典』では焼失や秀頼の茶坊主が盗み出した説は誤伝であるとし、『本阿弥行状記』に言う木村重成が関わる経緯や、『享保名物帳』や『徳川実紀』の記述の方を重視している。

骨喰も焼失した説(誤伝)

『春湊浪話』『難波戦記』によると、
元和元年(1615)、大阪城が落ち、豊臣家が滅ぶと、骨喰も焼失したとする説が流れたという。

『三十輻 第1』
著者:大田南畝 編 発行年:1917年(大正6) 出版者:国書刊行会
目次:春湊浪話 中
ページ数:223、224 コマ数:130、131

秀頼の茶坊主が盗み出した説(誤伝)

『難波戦記』によると、
秀頼の茶坊主が盗み出してはみたものの、売ろうとしても、骨喰ときくと恐れをなし、買い手がつかなかったともいう。

『通俗日本全史 第11巻 第11巻: 三河後風土記(成島司直改撰) 下,難波軍記(万年頼方,二階堂行憲撰 清範忠増補) 川角太閣記(西川原角左衛門)』
著者:早稲田大学編輯部 編 発行年:1912年(大正1) 出版者:早稲田大学出版部
目次:難波戰記 萬年賴方 二階堂行憲原撰 淸範忠增補 巻第二十三 秀頼公御生害の事
ページ数:201 コマ数:188

その頃木村重成の刀だったので、井伊直孝に分捕られ徳川家康に献上された説

『本阿弥行状記』によると、
木村重成が佐竹義宣の陣をおそい、殊勲をたてたので、豊臣秀頼は感状とともに、骨喰を重成に与えた。
次の夏の陣で、井伊直孝の軍とややかい討死すると、骨喰は分捕られて、徳川家康のもとに届けられた。

家康はそれを見て、秀頼より拝領の骨喰をさして討死するとは、屍の上の面目というものだ、と感じ入った。
本阿弥光室はその声を聞いていたという。

『本阿弥行状記』(紙本)
著者:日暮聖、加藤良輔、山口恭子 訳注 発行年:2011年(平成23) 出版者:平凡社(東洋文庫)
目次:第五七段
ページ数:296

このほねばみは、大坂冬陣の時、秀頼公の御めのと子木村長門守鴫野口の御門を開き、佐竹殿の備へ押寄、一番鎗を突、渋谷内膳といふ家老を打取ける。流石かたきそなへなる故早々引取りける。後藤又兵衛、真田左衛門佐など見物して古今無双の花鎗なりと感じけるとなり。此時に秀頼公御かん状に添て、此ほねばみを拝領申なり。明る五月六日此ほねばみをさして打死しける。権現様此刀を御覧被成、これは秀頼公より木村に給はりけると聞召けるが、これをさしていさぎよく打死しける、かばねの上の面目これなるべしと御意被成けると、光室同苗共に語り申也。

木村重成の所持は否定する異説もある

しかし、これには異説がある。

『名将言行録』によると、
秀頼から感状とともに、相州正宗の刀と脇差を与えようとしたが、勝利は家来たちの奮戦があったればこそで、それに討死覚悟の身に、なんで褒美などいりましょう、ときっぱり断ったともいう。

なお、上州館林城主・秋元家に、差し表に「洛陽堀川住藤原国広上之」と切りつけ、裏に「道芝露 木村長門守」、と金象嵌の入った刀が伝来していた。
『明良洪範』によると、これが重成の討死のときの佩刀、という説があるが、『日本刀大百科事典』によると国広の磨り上げ銘は偽銘らしい。

『名将言行録 前編 下巻』
著者:岡谷繁実 発行年:1909年(明治42)4版 出版者:文成社
目次:卷之三十九 木村重成
ページ数:1299 コマ数:360

『明良洪範 : 25巻 続篇15巻』
著者:真田増誉 発行年:1912年(明治45) 出版者:国書刊行会
目次:巻之三 木村重成死後の名を惜む附佩刀の事
ページ数:31 コマ数:29

落城ののち、河州の農民が拾ってきて2代将軍・徳川秀忠に差し出したとする説

『徳川実紀』によると、
落城の後、阿州(河州の誤り)の農民が拾ってきて、将軍秀忠に差し出した。

『徳川実紀 第1編』
著者:経済雑誌社 校 発行年:1904~1907年(明治37~40) 出版者:経済雑誌社
目次:台徳院殿御実紀 巻卅八 (元和元年六月−閏六月)
ページ数:782 コマ数:398

○廿九日秀賴秘藏せし藥研藤四郎吉光骨喰と名付たる太刀を。阿州の農民拾ひ得しとて。本阿又三郎二条城へ進覧せしかば。又三郎に返し下されしに。又三郎これを伏見城に持参して献ず。

落城のあと、お堀から出てきたと町人が本阿弥光室のもとに持ち込んだとする説

『享保名物帳』によると、
落城の後お堀から出て来たと、町人が本阿弥光室のもとに持ち込んだ。
銹が入り始めていたが、見ると骨喰だった。
びっくりして徳川家康に見せたという。

『刀剣名物牒』(データ送信)
著者:中央刀剣会 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:中央刀剣会
目次:(下) 同右〔燒失の部〕
ページ数:63 コマ数:34

『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:名物「燒失之部」 骨喰藤四郎
ページ数:212~215 コマ数:121、122

骨喰藤四郎 長一尺九寸六分 無銘

昔の大友の長刀なり尊氏鎮西下向の時に誓詞後味方に参り候時上る、骨喰と申子細はたはむれに切るまね致しても先の者骨くだけ死する故名付る、段々不思議なる事数々有之、大内に有之刻刀に直す、長刀直し表本樋の内に、倶利伽羅、裏樋の内に梵字、其下に不動有之段々将軍家へ伝はり、秀吉公御物になり秀頼公へ伝へ大坂落城の刻失る、其後御城の堀より出候由にて町人光室方へ持参候間指留め早速二条御城へ持参致し家康公へ御覧に入れ奉る、以の外御喜悦に思召れ候、然ども寸も長く重く候間御指には難被成由上意に付、伏見へ持参致し秀忠公へ奉入御覧候所、御意に応し御指し可被遊旨にて、白銀十枚拝領仕る今焼直しに成て御城に有之。

木村重成が討死のとき、井伊家の家来が佩刀を分捕り、本阿弥光室に売りに来たという説

『日本刀大百科事典』では木村重成が討死のとき、井伊家の家来が佩刀を分捕り、光室に売りに来たという説を上げている。

出典として『豊臣家御腰物帳』を挙げている。

井伊家の家来が、京都七条の某寺において、本阿弥光栄に売りつけたとする説

『日本刀大百科事典』では『名物扣』を出典として
分捕った井伊家の家来が、京都七条の某寺において、本阿弥光栄に売りつけた。
それを本家の光室が二条城に持って行って、家康に見せたという説を挙げている。

『名物扣』は国立国会図書館デジタルコレクションでは読めない。

2代将軍・徳川秀忠が買い上げた

『享保名物帳』によると、
本阿弥光室は骨喰藤四郎を徳川家康に見せた。
家康は、それを褒めたが、長くて重い、わしの差料にはならぬと言った。

それで伏見城にいた2代将軍・秀忠に見せたところ、秀忠が買い上げてくれた。
落城してから10日ほど経ってのことだった。

ご褒美は

『享保名物帳』『名物扣』では白銀千枚
『享保名物帳(享保8年本)』では銀三十枚
『駿府記』では黄金十枚
『徳川実紀』では金百両
『関難間記』では黄金五百両・銀二千両

ともあって、諸説紛々である。

『日本歴史文庫 〔13〕』
著者:黒川真道 編 発行年:1911~1912年(明44~45) 出版者:集文館
目次:関難間記 坤
ページ数:421 コマ数:218

『史籍雑纂 第2』
発行年:1911年(明治44) 出版者:国書刊行会
目次:駿府記 慶長廿年 六月廿九日
ページ数:304、305 コマ数:156

廿九日、秀賴所持之骨喰刀吉光一尺九寸五分、本阿彌又三郞尋出獻御前處、則被下於本阿彌、然所本阿彌將軍家差上る、則黄金十枚賜之云々、

1657年(明暦3)、明暦の大火で焼身になり、後に越前康継に再刃される

明暦3年(1657)正月、江戸城炎上のさい骨喰も焼け身になった。
将軍家ではお抱え鍛冶の康継に焼き直させた。

『東京市史稿 市街篇第七』
著者:東京市 編 発行年:1930年(昭和5) 出版者:東京市
目次:今度於御城内焼失御腰物並御脇差之覚
ページ数:20 コマ数:31

『史籍雑纂 第2』
発行年:1911年(明治44) 出版者:国書刊行会
目次:駿府記 慶長廿年 閏六月十六日
ページ数:307 コマ数:157

その後、紀州の徳川家が拝領していたが、明治2年7月、再び大徳川家に返還されたという話がある

『日本刀大百科事典』によると、
その後、紀州の徳川家が拝領していたが、明治2年7月、再び大徳川家に返還された。
というが、この話は『日本刀大百科事典』をはじめとする福永酔剣氏の著書以外で見かけないのでもうちょっと詳しい資料がほしいところである。

『名刀と名将』などでは拝領時期を幕末になってからと推測しているが、出典が書かれていないので何を根拠としているのかがよくわからない。

大正、昭和前期頃の他の刀剣書だと特に徳川宗家を出た様子はなくそのまま伝来したと思われている書き方のようなのだが……。
もしも資料を発見したら追記したい。

明治時代、豊国神社の再建に先駆けて寄進

『日本刀大百科事典』によると、
京都の豊国神社は、徳川家康によって取り潰されていた。
明治元年、明治天皇のご沙汰によって、再建されることになった。

将軍家の後継者である徳川家達公爵は、骨喰に金百円をそえて豊国会へ寄付した。
となっている。

再建は国営だったため、骨喰も国有だったが、大正の末年、豊国神社へ下賜された。

家達公爵が寄付をした時期そのものは色々言われているが、豊臣秀吉没後300年に豊臣恩顧の旧大名家の華族が「豊太閤三百年祭」を開いた1898年(明治31)の4月とされることが多い。

『豊臣時代品陳列目録』
発行年:1898年(明治31) 出版者:帝国京都博物館
目次:ホ之部
ページ数:5 コマ数:7

1925年(大正14)4月24日、国宝(旧国宝指定)

大正14年(1925)4月24日、国宝に指定。
豊国神社名義。
戦後は重要文化財。

「薙刀直シ刀 (骨喰)無銘伝粟田口吉光 附白鞘 徳川家達寄進ノ鞘書アリ」

『日本刀分類目録』(データ送信)
著者:郷六貞治 編 発行年:1944年(昭和19) 出版者:春陽堂
目次:目録
ページ数:9 コマ数:21

『官報 1925年04月24日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1941年(昭和16) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第二百三十七号 昭和十四年四月二十四日
ページ数:618 コマ数:2

現在も「豊国神社」蔵

「国指定文化財等データベース」によると、

所有者は「豊国神社」。
保管施設は「京都国立博物館」となっている。

重要文化財としての指定名称が登録時と変わっているようだ。

「薙刀直シ刀 無銘伝粟田口吉光(名物骨喰藤四郎)」

作風

元薙刀で、刃長も一尺九寸五分(約59.1センチ)34、523、または一尺九寸六分(約58.8センチ)に短縮された。

鵜の首造りで、差し表は広い櫃のなかに、剣巻き竜の浮き彫り、裏は同じく櫃のなかに、不動明王の浮き彫りと、梵字がある。
『日本刀大百科事典』によると、粟田口吉光はこんな濃厚な彫物はしない。
吉光の作であれば、後彫りであることは明白であるらしい。

刃文は焼き直し前、もと小乱れ、さき直刃となり、鋩子は尖り、尋常に返っていた。
焼き直し後は、直刃ほつれに変わっている。

中心は薙刀を脇差に直したさい、切除されているが、残った中心の長さから見て、もともと無銘だった。

本阿弥家では、これを粟田口吉光の作と極めているが、『名刀と名将』によると古剣書には異説が多い。

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:ほねばみ【骨喰み】
ページ数:5巻P28~30

『名刀と名将 (名将シリーズ) 』(データ送信)
著者:福永酔剣 発行年:1966年(昭和41) 出版者:雄山閣
目次:豊臣秀吉のコレクション
ページ数:149~169 コマ数:81~91

「骨喰」という異名について

「骨喰」はもともと古名刀の異名の一つとしてよくあるものであったらしく、この名をつけられた刀剣は複数あると考えられる。
また、同一と目される刀剣でも漢字表記は複数ある。

表記揺れ

「骨喰み」『享保名物帳』『名物扣』『如手引抄(十一冊本)』『豊臣家御腰物帳』
「骨食」 『名物扣』『古刀銘盡大全』『梅松論』『源平盛衰記』
「骨啄」 『筑紫軍記』『大友興廃記』
「骨喰丸」『表海鍛冶伝』
「骨噛み」『長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』

などと複数の表記がある。

『表海鍛冶伝』という古剣書は読めないが「刀剣と歴史」にこの部分に触れている記事があった。
この記事で今野繁雄氏は『表海鍛冶伝』を福永酔剣氏から拝承と言っているので、福永酔剣氏しか持っていない資料の可能性がある……。
当時は上野図書館に上巻だけ秘蔵されていたらしい。

「刀剣と歴史 (480)」(雑誌・データ送信)
発行年:1974年7月(昭和49) 出版者:日本刀剣保存会
目次:好古庵刀話(二七) / 今野繁雄
ページ数:15 コマ数:12

語源

・戯れに切るまねをしても、相手の骨が砕けてしまうから
『享保名物帳』

・相手が骨にしみるように感じるから
『日本刀大百科事典』によると『享保名物帳(享保8年本)』

・刀で切られると、骨を縫い綴ったように痛みを訴えるから
『日本刀大百科事典』によると『豊臣家御腰物帳』

さらに『日本刀大百科事典』では福永酔剣氏が、
あるいは“骨噛み”という別称からみて、これで切られると、骨を噛み砕かれるような痛みを覚えるからとも考えられる。
と語源を推測している。

「骨喰」の号を持つ他の刀

源三位頼政の「骨食」

『源平盛衰記』によると、
頼政が鵺退治に行くとき、郎党の猪早太には、「骨食といふ太刀を、ふところにささせたり」という。

『日本刀大百科事典』によると、太刀を懐にさすことはできないから、太刀は小刀の誤写のはずである。

『刀剣録』『鵞峰文集』によると、
寛文(1661)のころ、頼政の子孫である遠州浜松城主・太田資宗の家に、伝来していた。
それは刃長五寸八分(約17.6センチ)、銘に「国吉」とあった。

『刀剣一夕話』によると、
資宗の兄・正重の子孫である水戸家の重臣・太田丹後守家にも、骨食と称する短刀があった。
これと資宗所持と同じかどうかは不明。

『日本刀大百科事典』によると、「刀剣会誌」を出典として
同じく頼政の遠孫で、千石取りの旗本だった高田斧太郎家にも、猪早太が鵺を刺殺した、という短刀があったという。
刃長はハバキより上七寸(約21.2センチ)ぐらい、平造りで、差し表に不動明王、裏の樋のなかに、八幡大菩薩の文字が浮き彫りになり、その下に蓮華が毛彫りになっていた。
刃文は直刃。無銘ながら相当の名刀だったようであるが、天保11年(1840)10月4日の夜、頼政の太刀と伝承するものとともに、盗賊に盗まれてしまった、という話も載せている。

これらの出典のうち、『刀剣録』は国立国会図書館デジタルコレクションにもない。
『鵞峰文集』もないが、『大日本刀剣史』で頼政の骨食国吉を取り扱っており引用文が読める。
高田斧太郎家の鵺殺しの短刀に関しても『大日本刀剣史』が詳しい。

『源平盛衰記 上 (友朋堂文庫) 』
著者:石川核 校 発行年:1911-1912年(明治44-45) 出版者:有朋堂
目次:第十六巻 三位入道芸等事
ページ数:534 コマ数:275

『大日本刀剣史 中卷』(データ送信)
著者:原田道寛 著 発行年:1940年(昭和15) 出版者:春秋社
目次:源三位賴政の骨食國吉
ページ数:27、28 コマ数:23、24

『刀剣一夕話』
著者:羽皐隠史 発行年:1915年(大正4) 出版者:嵩山房
目次:一 骨喰刀二振
ページ数:18~21 コマ数:16、17

三池作の骨食

源氏重代で、三池光世の作とも、三池利延の作ともいい、薙刀だった。

『日本刀大百科事典』では出典を『天文目利書』、『文明十年銘盡』としている。

奥州鬼王丸作の骨食

太刀で、骨喰丸ともいう。

『日本刀大百科事典』では出典を『如手引抄(十一冊本)』『古刀銘盡大全』『新刊秘伝抄』『文明十六年銘盡』『表海鍛冶伝』『鍛冶銘集』を出典としている。

『表海鍛冶伝』の該当部分は上記「刀剣と歴史 (480)」で引用が読める。

『古刀銘尽大全 巻之4-6』(データ送信)
著者:菅原弘邦 著, 富田正二 編 発行年:1944年(昭和19) 出版者:立命館出版部
目次:古代名物之剣
ページ数:17 コマ数:19

藤六左近貞国作の骨喰

『日本刀大百科事典』によると、吉野宮にあって、末細くハバキが短いとあるから、短刀であろう、という。

出典は『正和銘鑑(観智院本)』。

国立国会図書館デジタルコレクションにもあるはずだが私の知識では該当記述を探し出せなかったので挑戦する人は頑張ってほしい。

越前康継の写し物

越前康継は焼身となった名刀を再刃することで模造の腕を磨いたらしく、名刀の写しを多数打っている。

下記の本では本歌である骨喰藤四郎とその写しの比較写真を載せている。

『康継大鑑』(データ送信)
著者:佐藤貫一 発行年:1960年(昭和35) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:(二) 本科と康継作摸
ページ数:105、106 コマ数:131、132

調査所感

・「骨喰(骨食)」という名の刀は複数ある

「骨喰」と言う名は刀剣のことをまったく知らなかった頃は珍しいなと思ったものですがこうして調べ始めるとこの名前の刀結構あるよ! って出てくる。
刀の世界は割と予想外の常識出来ているなと。

しかしそうなってくると「骨喰」や「骨食」と資料に記載されている刀は同一なのか、別物なのかという話が出てくるわけで。

本気で調べる時は骨喰という記述の出てくる資料をもっと丁寧に寄り分けて同時に源頼政の骨食国吉のことなんかも調べなきゃいけないんでしょうね。

『日本刀大百科事典』でも作者に関しては異説が多いとなっていますが、これは古剣書にただ「骨喰」と書いてある刀が現在骨喰藤四郎と呼ばれている刀と同物なのか別物なのかわからないからだと思われます。

刀剣に骨喰という号が多いためか、骨喰藤四郎の研究史は鎌倉時代の刀にしては複雑な方で、鎌倉刀と平安刀の中間くらいの難しさはあります。

ただ現在骨喰藤四郎と呼ばれている刀が粟田口藤四郎作という極めの内容に特に異論が出ているとかそういうわけではないようです。

・『豊臣家御腰物帳』が出典?

『日本刀大百科事典』でいくつか『豊臣家御腰物帳』が出典となっている情報があったんですがこれそういうこと書いてあるような資料じゃないけどどうしようかなと思った箇所がいくつかありました。
酔剣先生たまに出典番号の方を間違えているとしか思えないことがあるのでもしかしたら出典史料が違うかもしれない。
酔剣先生『表海鍛冶伝』みたいに貴重な資料を自前で持っていることがあるので実はこういった情報が書いてある『豊臣家御腰物帳』があるのかもしれない。

とはいえ秀忠が買い上げた時の金額に関しても『日本刀大百科事典』の記述はちょっと出典と内容がずれてたんで私の方でわかるところは調整したんですよね。うーん、普通に間違いだろうか……?

・そんな酔剣先生の性格と文体の話

Wikipediaの方にちょっと気になる記述があるというか、酔剣先生が骨喰藤四郎を大友家伝来ではなく足利家伝来だと結論付けたという旨が書かれているんですが。

あー、酔剣先生の著書を何冊か読まれた方ならわかると思うんですが、酔剣先生はとりあえず資料の情報は全部書いて全部検討する、というスタイルの人なので『日本刀大百科事典』のその部分は、この資料(『梅松論』)の書き方的にはこの刀は足利家伝来だろう、ぐらいの話で、大友家ではなく足利家の伝来だったんだ! って話ではないと思います。
あくまで「『梅松論』の記述とると足利家伝来になるよ」ってくらいです。

『名刀と名将』や『日本刀物語 続』も合わせて読めば、酔剣先生が正しいと思っているのは一応大友家伝来説の方だとわかります。

『日本刀大百科事典』の方が出版は後ですがこの本は結構古い内容をそのまま流用しているところもあり、骨喰藤四郎に関する内容は特に更新されていないと思います。

まぁ酔剣先生の文体はこの調子に慣れていないとどこからどこまでが説の紹介で、どこまでが説の検討で、どこからが酔剣先生の結論なのかちょっとわかりづらいところがあるのは確かです。

・『本阿弥行状記』は図書館で借りられます。

『本阿阿弥行状記』は2023年現在国立国会図書館デジタルコレクションでは読めません。
しかしこの本に関しては図書館に普通に置いてあるタイプの本なのでお近くの図書館で探すのが早いと思います。

参考サイト

「文化遺産データベース」
「国指定文化財等データベース」

参考文献

『諸家名剣集』
(東京国立博物館デジタルライブラリー)
時代:享保4年(1719) 写本
コマ数:45

『群書類従 第拾九輯』
著者:塙保己一 編 発行年:1894年(明治27) 出版者:経済雑誌社
目次:巻第五百十一 長享元年江州御動座在衆着到
ページ数:687、688 コマ数:349、350

『豊臣時代品陳列目録』
発行年:1898年(明治31) 出版者:帝国京都博物館
目次:ホ之部
ページ数:5 コマ数:7

『故実叢書 武家名目抄(塙保己一)』
著者:今泉定介 編 発行年:1899~1906(明治32~39) 出版者:吉川弘文館
目次:第二百七十二冊刀剣部五
ページ数:3382、3382 コマ数:36

『徳川実紀 第1編』
著者:経済雑誌社 校 発行年:1904~1907年(明治37~40) 出版者:経済雑誌社
目次:台徳院殿御実紀 巻卅八 (元和元年六月−閏六月)
ページ数:782 コマ数:398

『刀剣談』
著者:高瀬真卿 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第四門 武将の愛刀 藤四郎吉光
ページ数:48~51 コマ数:49、50

『軍談家庭文庫 第1冊』
著者:久保天随 (得二) , 青木存義 校訂, 芳賀矢一 解題 発行年:1911年(明治44) 出版者:広文館
目次:筑紫軍記 巻之第十五 吉光骨啄木を秀吉公に献ずる事
ページ数:7 コマ数:445

『史籍雑纂 第2』
発行年:1911年(明治44) 出版者:国書刊行会
目次:駿府記 慶長廿年 六月廿九日 ページ数:304、305 コマ数:156
目次:駿府記 慶長廿年 閏六月十六日 ページ数:307 コマ数:157

『日本歴史文庫 〔13〕』
著者:黒川真道 編 発行年:1911~1912年(明44~45) 出版者:集文館
目次:関難間記 坤
ページ数:421 コマ数:218

『剣話録 上』
著者:剣話会 編(別役成義) 発行年:1912年(明治45) 出版者:昭文堂
目次:一 京物(上) ページ数:6 コマ数:13
目次:三十 刀剣の模造 ページ数:246 コマ数:133

『剣話録 下』
著者:剣話会 編(今村長賀) 発行年:1912年(明治45) 出版者:昭文堂
目次:二十七 本阿弥光山の押形(上)
ページ数:270、271 コマ数:145

『通俗日本全史 第11巻 第11巻: 三河後風土記(成島司直改撰) 下,難波軍記(万年頼方,二階堂行憲撰 清範忠増補) 川角太閣記(西川原角左衛門)』
著者:早稲田大学編輯部 編 発行年:1912年(大正1) 出版者:早稲田大学出版部
目次:難波戰記 萬年賴方 二階堂行憲原撰 淸範忠增補 巻第二十三 秀頼公御生害の事
ページ数:201 コマ数:188

『刀剣一夕話』
著者:羽皐隠史 発行年:1915年(大正4) 出版者:嵩山房
目次:一 骨喰刀二振
ページ数:18~21 コマ数:16、17

『三十輻 第1』
著者:大田南畝 編 発行年:1917年(大正6) 出版者:国書刊行会
目次:春湊浪話 中
ページ数:223、224 コマ数:130、131

『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:名物「燒失之部」 骨喰藤四郎
ページ数:212~215 コマ数:121、122

『新釈日本文学叢書 第10巻』
著者:物集高見 監修, 物集高量 編著 発行年:1924~1925(大正12~13) 出版者:日本文学叢書刊行会
目次:梅松論 下
ページ数:72 コマ数:145

『刀剣名物牒』(データ送信)
著者:中央刀剣会 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:中央刀剣会
目次:(下) 同右〔燒失の部〕
ページ数:63 コマ数:34

『刀剣談 再版』(データ送信)
著者:羽皐隠史 著, 高瀬魁介 訂 発行年:1927年(昭和2) 出版者:嵩山房
目次:第四、武将の愛刀 一期一振と骨喰藤四郎
ページ数:158~161 コマ数:91、92

『東京市史稿 市街篇第七』
著者:東京市 編 発行年:1930年(昭和5) 出版者:東京市
目次:今度於御城内焼失御腰物並御脇差之覚
ページ数:20 コマ数:31

『秋霜雑纂 前編』
著者:秋霜松平頼平 編 発行年:1932年(昭和7) 出版者:中央刀剣会本部
目次:雑話三十三條 三百三十八 明暦焼失の名刀 ページ数:200 コマ数:126
目次:圖書十五條 三百五十 大阪御物押形 ページ数:213 コマ数:132

『日本刀剣の研究 第1輯』(データ送信)
著者:雄山閣編集局 編 発行年:1934年(昭和9) 出版者:雄山閣
目次:文献に表はれた名剣名刀譚 源秋水編
ページ数:112 コマ数:66

『大分県郷土史料集成 下巻(戦記篇(後))』(データ送信)
著者:垣本言雄 校訂 発行年:1936~1940年(昭和11~15) 出版者:大分県郷土史料刊行会
目次:大友興廢記 卷第二十二 骨啄刀之事
ページ数:138、139 コマ数:95、96

『日本刀物語』
著者:小島沐冠人 編著 発行年:1937年(昭和12) 出版者:高知読売新聞社
目次:大阪城壕中の吉光
ページ数:78、79 コマ数:47

『大日本刀剣史 中卷』(データ送信)
著者:原田道寛 発行年:1940年(昭和15) 出版者:春秋社
目次:大友の名器骨喰み藤四郞
ページ数:193~200 コマ数:106~110
(『大日本刀剣史』はデジコレに2冊あるのでご注意)

『官報 1925年04月24日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1941年(昭和16) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第二百三十七号 昭和十四年四月二十四日
ページ数:618 コマ数:2

『光徳刀絵図集成』(データ送信)
著者:本阿弥光徳 画, 本間順治 編 発行年:1943年(昭和18) 出版者:便利堂
目次:三五 骨喰藤四郎 ページ数:18、19 コマ数:32、33
目次:解説 ページ数:2~4 コマ数:112~114
目次:御太刀御腰物御脇指 太閤様御時ゟ有之分之帳 コマ数:115

『日本刀と無敵魂』
著者:武富邦茂 発行年:1943年(昭和18) 出版者:彰文館
目次:鍋通吉光・藥研藤四郎・骨喰藤四郎
ページ数:170、171 コマ数:100

『日本刀分類目録』(データ送信)
著者:郷六貞治 編 発行年:1944年(昭和19) 出版者:春陽堂
目次:目録
ページ数:9 コマ数:21

『康継大鑑』(データ送信)
著者:佐藤貫一 発行年:1960年(昭和35) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:(二) 本科と康継作摸
ページ数:105、106 コマ数:131、132

『武将と名刀』(データ送信)
著者:佐藤寒山 発行年:1964年(昭和39) 出版者:人物往来社
目次:大友宗麟と骨喰藤四郎
ページ数:113~116 コマ数:61~63

『日本刀講座.第1巻(新版日本刀講座<概説編>)』(データ送信)
発行年:1966年(昭和41) 出版者:雄山閣
目次:新版日本刀講座<概説編>目次 コマ数:55

『名刀と名将 (名将シリーズ) 』(データ送信)
著者:福永酔剣 発行年:1966年(昭和41) 出版者:雄山閣
目次:豊臣秀吉のコレクション
ページ数:149~169 コマ数:81~91

『日本刀物語 続』(データ送信)
著者:福永酔剣 発行年:1969年(昭和44) 出版者:雄山閣
目次:豊臣秀吉のコレクション
ページ数:149~169 コマ数:86~96

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:ほねばみ【骨喰み】
ページ数:5巻P28~30

『本阿弥行状記』(紙本)
著者:日暮聖、加藤良輔、山口恭子 訳注 発行年:2011年(平成23) 出版者:平凡社(東洋文庫)
目次:第五七段
ページ数:296

概説書

『名刀 その由来と伝説』(紙本)
著者:牧秀彦 発行年:2005年(平成17) 出版者:光文社
目次:足利将軍家の名刀 骨喰藤四郎
ページ数:85~90

『図解 武将・剣豪と日本刀 新装版』(紙本)
著者:日本武具研究界 発行年:2011年(平成23) 出版者:笠倉出版社
目次:第3章 武将・剣豪たちと名刀 豊臣秀吉と一期一振
ページ数:168~171

『日本刀図鑑: 世界に誇る日本の名刀270振り』(紙本)
発行年:2015年(平成27) 出版者:宝島社
目次:骨喰藤四郎
ページ数:11

『図解日本刀 英姿颯爽日本刀の来歴』(紙本)
著者:東由士 編 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:大名家が所有した名刀たち 骨喰藤四郎
ページ数:38

『刀剣目録』(紙本)
著者:小和田康経 発行年:2015年(平成27) 出版者:新紀元社
目次:≪第二章 鎌倉時代≫ 山城国粟田口 吉光 骨喰藤四郎
ページ数:85~87

『物語で読む日本の刀剣150』(紙本)
著者:かゆみ歴史編集部(イースト新書) 発行年:2015年(平成27) 出版者:イースト・プレス
目次:第6章 脇差 骨喰藤四郎
ページ数:142、143

『刀剣物語』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:粟田口吉光作の刀 骨喰藤四郎
ページ数:88、89

『刀剣説話』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2020年(令和2) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
(『刀剣物語』発行年:2015年を加筆修正して新たに発行しなおしたもの)
目次:三英傑と名刀 骨喰藤四郎
ページ数:128、129

『刀剣聖地めぐり』(紙本)
発行年:2016年(平成28) 出版者:一迅社
目次:骨喰藤四郎
ページ数:91