ほりかわくにひろ
概要1 土方歳三の堀川国広
新選組副長・土方歳三佩刀の堀川国広について。
新選組副長・土方歳三の脇差
近藤勇が佐藤彦五郎(土方歳三の義兄・姉の夫)に送った手紙に登場する
近藤勇が文久3年(1863)10月20日付けで土方歳三の義兄・佐藤彦五郎に送った手紙がある。
その中で土方歳三の差料は大が二尺八寸(約84.8センチ)の「和泉守兼定」
小は一尺九寸五分(約59.1センチ)の「堀川国広」の作と説明されている。
土方歳三佩刀の堀川国広に関する確実な情報はどうやらこの文面のみのようである。
『新選組始末記』(データ送信)
著者:子母澤寛 発行年:1928年(昭和3) 出版者:万里閣書房
目次:四一 勇江戸入
ページ数:238 コマ数:142
土方氏も無事罷在候。殊に刀は和泉守兼定に尺八寸、脇差一尺九寸五分堀川国広。扨、脇差長き程宜く御座候。
一般的には贋作だろうと言われている
新刀の名工である堀川国広の真作は、土方歳三が差料にできたとは考えられないため、贋作だろうと言われている。
『日本刀物語』(紙本)
著者:杉浦良幸 発行年:2009年(平成21) 出版者:里文出版
目次:Ⅱ 名刀の生きた歴史 2 剣豪と刀 新選組と刀 土方歳三の刀
ページ数:76、77
この兼定刀の添差しに刃長一尺九寸五分、生茎、在銘の「堀川国廣」の脇差を使用していたとの記録がある。しかし堀川国廣は室町時代末期、日向国飫肥(宮崎県)から山城(京都)に出て、堀川派といわれる刀剣工房を作り上げた、「新刀の祖」といわれる新刀期一番の名工で、万が一この刀が正真であったら、このような名刀が幕末の一浪士の差料になるとは考えられない。また、国広の作刀期は江戸時代初期の徳川幕府が政権を掌握して間もない時期なので、刃長一尺九寸五分なる中途半端な長さの刀は先ず造らない筈である。
概説書による出典不明の説
土方歳三佩刀の堀川国広に関しては、いわゆる研究書と呼ばれるような本に載るような確実な情報はほぼないと言っていい。
載っているとしても、上記の近藤勇の手紙の文面を繰り返したもののみになる。これしか確実な資料がないのでその状態こそが正しいと言える。
一方で、刀剣の逸話だけ集めたような近年の概説書などには、どこを出典としたものかわからない謎の情報が付記されている。
・太平洋戦争後のGHQによる刀剣接収騒動で土方歳三の「堀川国広」は「和泉守兼定」の代わりに接収された
・接収された刀のほとんどが海上投棄されたため、「堀川国広」も海上投棄されただろう
『刀剣説話』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2020年(令和2) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
(『刀剣物語』発行年:2015年を加筆修正して新たに発行しなおしたもの)
目次:江戸・幕末の名刀 堀川国広 ページ数:194、195
この説に関しては確実な出典を示した書籍がまず存在しないようだ。
ネットを検索すれば探している人も大勢いるが、見つかったという報告はないようである。
研究者が書いている刀剣の本には登場せず、上記の概説本のように研究者以外が出典を明示せず書いたタイプの本に登場する。
調査所感1
・刀工名で顕現した男士の研究史の再調査について
ここは個人によるとうらぶの考察を載せているので、刀の調査は実装されている刀剣男士の情報を主眼として出すことにしている。
刀剣男士の「堀川国広」に関しては当初、土方歳三佩刀としての意識が主体としてあるようだと判断し、ここまでの調査結果はそれを念頭に置いてまとめたものである。
しかし、2023年10月に実装された「孫六兼元」と一文字則宗の回想138の内容からすると、どうも刀工名で顕現している男士は最初から全員「その刀工の刀の集合体」を基本とし、特定の使い手の一振りではなく、会話内容が特定の使い手の話題に集中することこそ兼元と則宗のいう「枝葉」への執着であるように考えられる。
従って、これまで特定の号がないゆえに刀工名で顕現されているのだと思われていた刀剣男士の再調査が必要になった。
思い返せば納得がいく理由として、刀工・堀川国広の作品の展示・展覧会でコラボキャラとして選ばれていたのは何故かこの土方歳三佩刀だと思われていた刀剣男士の「堀川国広」である。
上記の調査結果通り、土方歳三の脇差が堀川国広の真作だったというのは史実とはとても考えにくい。
確実に刀工・堀川国広作と言える刀に関しては「山伏国広」も「山姥切国広」も実装されている。
なんなら三振り全員出すこともできるだろうに、真作である保証のない刀だけを単体で展示会とコラボするのは違和感があった。
しかし、土方歳三佩刀主体だと思われている刀剣男士が実は「刀工・堀川国広作の刀の集合体」であるならば話は変わってくる。
これらの理由によって、この項目は刀工・堀川国広の略伝もまとめる必要性を感じたが、かといって何の工夫もなく「堀川国広」と題したページに土方歳三の佩刀と刀工・堀川国広の略伝を載せれば、土方歳三佩刀が刀工の真作だと無批判に捉えていることにも繋がりかねない。
この結論はあくまで新キャラの実装とストーリーの進展によって段階的に得られたものであり、刀剣男士の堀川国広の理解としては最初は刀工・堀川国広の略伝が必要になる存在だとは思っていなかったことを鑑み、まずは土方歳三の脇差が刀工・堀川国広の真作でない可能性を踏まえながら、なお集合体としての刀工・堀川国広作の刀の意識を考えるために、二つの項目をそれぞれ分けて記載することにする。
参考文献1
『新選組始末記』(データ送信)
著者:子母澤寛 発行年:1928年(昭和3) 出版者:万里閣書房
目次:四一 勇江戸入
ページ数:238 コマ数:142
「刀剣と歴史 (431)」(雑誌・データ送信)
発行年:1966年(昭和41)5月 出版者:日本刀剣保存会
目次:幕末志士と佩刀 / 長野桜岳
ページ数:43 コマ数:26
『幕末志士愛刀物語 (物語歴史文庫 ; 17) 』(データ送信)
著者:長野桜岳 発行年:1971年(昭和46) 出版者:雄山閣出版
目次:幕府附属隊士と佩刀 近藤勇ほか隊士の刀
ページ数:176、177 コマ数:94
「刀剣と歴史 (499)」(雑誌・データ送信)
発行年:1977年(昭和52)9月 出版者:日本刀剣保存会
目次:近藤勇の帯刀(補考) / 浦郷喜久男
ページ数:56~59 コマ数:33、34
『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:ひじかたとしぞうのかたな【土方歳三の刀】
ページ数:4巻P238、239
『日本刀物語』(紙本)
著者:杉浦良幸 発行年:2009年(平成21) 出版者:里文出版
目次:Ⅱ 名刀の生きた歴史 2 剣豪と刀 新選組と刀 土方歳三の刀
ページ数:76、77
『新選組と刀』(紙本)
著者:伊東成郎 発行年:2016年(平成28) 出版者:河出書房新社
目次:5 土方歳三と和泉守兼定 副長が愛した会津の銘刀
ページ数:33、34
概説書
『刀剣目録』(紙本)
著者:小和田康経 発行年:2015年(平成27) 出版者:新紀元社
目次:≪第四章 安土桃山・江戸時代≫ 山城国堀川 国広 堀川国広
ページ数:321
『物語で読む日本の刀剣150』(紙本)
著者:かゆみ歴史編集部(イースト新書) 発行年:2015年(平成27) 出版者:イースト・プレス
目次:第6章 脇差 堀川国広
ページ数:144、145
『刀剣物語』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:堀川国広作の刀 堀川国広
ページ数:128、129
『刀剣説話』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2020年(令和2) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
(『刀剣物語』発行年:2015年を加筆修正して新たに発行しなおしたもの)
目次:江戸・幕末の名刀 堀川国広
ページ数:194、195
『刀剣聖地めぐり』(紙本)
発行年:2016年(平成28) 出版者:一迅社
目次:堀川国広
ページ数:92
概要2 刀工・堀川国広
新刀の祖とも呼ばれる安土・桃山時代の刀工・堀川国広について。
ここでは主に『日本刀大百科事典』の記述を参考に簡単な確認のみに留める。
『日本刀大百科事典』で出典とされる古剣書は素人には簡単には読めないものが多いので、その辺りのチェックはできていない。そこまで調べる人は頑張ってほしい。
刀工の略伝に関しては常に研究され続けているので、できれば直接研究書に目を通した方が良いと思われる。
堀川国広
新刀初期の第一人者で、『刀剣正纂』によると古刀の相州正宗、新々刀の水心子正秀と並んで、「中興の三傑」とさえ言われる。
現在の宮崎県東諸県郡綾町古屋の出身
1531年(享禄4)に誕生。
現在の宮崎県東諸県郡綾町古屋の出身。
本名は田中角左衛門(俗称を金太郎)という。
日向国飫肥城主伊東義祐の重臣であった国昌の子とされる。
父について
父については『日本刀大百科事典』によると、
・伊賀守実昌
『田中氏系図』
・実忠
『古今鍛冶備考』『古今鍛冶銘早見出』『土屋押形』『新刀賞鏨余録』『新刀鑑賞録』
・国昌
『古今鍛冶備考』『新刀賞鏨余録』『本朝新刀一覧』『新刀鑑賞録』 『刀匠国広顕彰碑』『田中信濃守国広像碑文』
などの三説あるが、国昌説が正しいとされる。
また、『国広大鑑』によれば、通説では実忠は国広の祖父、国昌が父とされているらしい。
通称について
『日本刀大百科事典』によると、
・覚右衛門
『雑抄(日向文献史料)』
・安兵衛
「刀剣会誌」
・山伏としての名は旅泊庵
「旅泊庵」の出典は『日本刀大百科事典』の著者と同じ福永酔剣氏自身の著著『日向の刀と鐔』。
国立国会図書館デジタルコレクションにも置いていない。
『堀川国広とその一門』に作刀年譜があるのでそれを見ると天正5年に打った刀で「旅泊庵」を名乗っていることがわかる。
受領銘について
受領銘は『日向記』『日向纂記』よると「信濃掾」。
または現存物の刀から「信濃守」が判明している。
信濃掾銘の刀は現存しないが、信濃守銘は天正18年(1590)から現存する。
(そのうちの一振りは現在「布袋国広」と呼ばれている足利学校打ちの刀)
ただし『田中氏系図』によると
天正乙亥つまり天正3年(1575)受領説があるらしい。
『日本刀大百科事典』ではこれは天正丁亥つまり十五年(1587)の誤りかも知れないとしている。
国広の前半世は、刀の鍛錬と修験道の修行
『日本刀大百科事典』では刀工・国広の前半世は、父の助手として、鍛錬及び修験道の修行をしていたという。
『錦袋録』によると、
天正5年(1577)の暮れ、藩主・伊藤義祐が島津軍に大敗し、豊後の大友家を頼って逃れると、国広は義祐の外孫・伊藤満千代(祐益)のお守り役として、同じく豊後の臼杵城に逃れた。
伊東家が没落し、満千代が少年使節としてローマへ旅立った後、国広は山伏として鍛刀をしていた。
鍛刀場所は
『校正古刀銘鑑』による宮崎(市)のほか、
『宮崎県史蹟調査』ではその近郊の跡江・瀬ノ口、あるいは調殿(西都市)・富田(児湯郡新富町)などが、口碑として残っている。
様々な研究書が載せている年譜によると1577年(天正5)、刀工・国広は47歳。
山伏時の作と「山伏国広」
刀工・国広が山伏であったことは、彼の作刀した刀の銘文から明らかである。
そのうちの一振りは1584年(天正12)作刀で、「山伏国広」として知られる。
「太刀 銘 日州古屋之住国広山伏之時作之 天正十二年二月彼岸 太刀主日向国住飯田新七良藤原祐安」
年譜によると刀工・国広54歳。
埋忠明寿に弟子入り説、在京中人を殺した説(現在の研究だと否定されている通説)
『慶長以来 新刀弁疑』によると、その後、上洛して、埋忠明寿と交わりを結んだようであるが、在京中、人を殺害し、難を下野の足利学校に避けたという。
『新刀弁惑録』『本朝新刀一覧』によると、国狭と変名して銘を切ったともいう。
これらの古剣書はみな江戸期に入ってからのものであり、もともと信憑性は高くない。
埋忠明寿と親交があったことまではいいとして、人を殺害としたから逃げた説は特に信憑性が低いと言われている。
刀工が実は人を殺してその供養のために刀を打ち……という話のパターンは堀川国広だけでなく他の刀工にもあるので尚更である。
1590年(天正18)頃、足利周辺での足跡
この時期の事は、堀川国広を専門的に研究している研究者とそうでない研究者との間で意見の違いが大きい。
福永酔剣氏の『日本刀大百科事典』ではこの部分の記述が簡素なので、ここは『国広大鑑』『堀川国広とその弟子』を執筆した佐藤寒山氏の著書、さらに刀工・国広研究では新しめの研究書である『堀川国広とその一門』などを参考に簡単にまとめる。
刀工・国広は天正18年に二振り作刀していることが年紀銘から明確である。
「刀 銘 九州日向住国広作 天正十八年庚寅弐月吉日平顕長(号 山姥切)」
「脇差 銘 日州住信濃守国広作 天正十八年八月日 於野州足利学校打之」
上は現在「山姥切国広」、下は「布袋国広」と呼ばれている刀で、更に5月には足利城主・長尾顕長の求めに応じて長義の刀に銘を切っている。
「刀 銘 本作長義 天正十八年 庚寅五月三日ニ 九州日向住国広銘打 長尾新五郎平朝臣顕長所持 天正十四年七月廿一日 小田原参府之時従 屋形様被下置也」
黎明会所有の「本作長義(以下、五十八字略)」または「山姥切長義」と呼ばれるこの三振りの銘文から、1590年(天正18)年に刀工・国広が小田原または足利周辺にいたことは明らかであり、特に8月は布袋国広鍛刀のために足利学校にいたと考えられる。
1590年(天正18)、刀工・国広60歳。
山姥切国広鍛刀、また本作長義(以下、五十八字略)に銘を切った場所
長尾顕長が当時その場所にいたとされる「小田原」周辺と、彼の領地であり8月に布袋国広を鍛刀している足利学校のある「足利」のどちらかだと言われている。
『国広大鑑』発行頃には前者の「小田原」説が通説だったようだが、それを佐藤寒山氏は否定し「足利城下」としている。
『堀川国広とその一門』でも「足利説」を推している。
長義の写しとして山姥切国広を打ったことが作風の転機となったか
山姥切国広の発見者である杉原祥造氏は『日本趣味十種』において、北条家の長義の写しとして山姥切国広を鍛刀したことが、刀工・国広の作風の転機となったという説を提示した。
その後、山姥切国広が関東大震災の関係で一時期焼失扱いになったこともありその説に続く研究者は長くいなかったようだが、戦後に山姥切国広が再発見された際に、再発見者の本間薫山氏も『堀川国広とその弟子』内で同じ見解を示している。
刀工・国広と足利学校の関わり
当時の足利学校の庠主が刀工・国広と同郷の日向の人(宗銀和尚)であることから、刀工・国広が当時この人を頼って足利学校へ行ったという説が大正頃に『刀剣雑話』で浮上した。
『国広大鑑』で佐藤寒山氏は宗銀和尚との繋がりよりも長尾顕長との縁ではないかと、宗銀和尚を頼った、という部分を否定。
更に、『堀川国広とその一門』の岩田隆氏は、足利学校側が刀工・国広を招聘したのではないかという説を提示した。
刀工・国広はその経歴のほとんどが謎に包まれた伝説的な刀工であり、日向の人でありながら足利を経て京へ上ったという遍歴から流浪の刀工というイメージを持たれているが、実際にそうとは限らない。
刀一振りを打つためだけに長尾顕長が招いたというのも、長尾顕長と刀工・国広に綿密な繋がりが見いだせないために現実味に欠けるという。
岩田隆氏は足利学校の歴史側から当時の情勢を推測して、足利学校による刀工・国広の招聘説を挙げている。
刀工・国広と、布袋国広作刀場所である足利学校との繋がりは、昔からかなり議論されているポイントであり、それによって山姥切国広の作刀場所や本歌の長義の刀への銘入れがどこへ行われたかも左右する話題である。
1588年の上杉や長尾顕長の軍に足軽として加わったと言う説
『田中氏系図』によると、
天正十六年(1588)、足利の領主・長尾氏を小田原の北条氏が攻撃してきたとき、国広は長尾顕長の軍に加わり、足軽大将として殊勲をたてたので、感状と吉広の槍を拝領した。
となっているらしい。
この話も古くは長尾顕長の軍ではなく上杉の配下として戦ったとされていた。
受領銘の話
刀工・国広が「信濃守」の受領銘を切ったのは布袋国広が初めてだと言われる。
そもそもこの「信濃守」を刀工・国広はどういった経緯で正確にはいつ受領したのかということが不明であり、これも古くから議論されている。
1591年(天正19)、小田原落城後の上京
『日本刀大百科事典』では、
再び足利学校に戻っていたが、ちょうどそのころ伊藤満千代がローマから帰ってきた。
その報に接したからであろう、天正19年(1591)の前半頃上京した。
と、している。
実際の理由は不明だが1591年(天正19)に京都へ赴いたことは
「脇差 銘 藤原国広 在京時打之 天正十九年八月日」
という銘文の刀から判明している。
1591年(天正19)、刀工・国広61歳。
埋忠明寿に弟子入り説(現在では否定説が有力)
刀工・国広は小田原落城後に京都で埋忠明寿に入門した、という説が多くの古剣書に残っている。
『古今鍛冶備考』『古今鍛冶銘早見出』『慶長以来 新刀弁疑』『本朝新刀一覧』『日向私史』『日向地誌』
しかし、『日本刀大百科事典』では国広は年齢・手腕からいっても、明寿より上であるから、『刀剣正纂』のような否定説が有力であるとしている。
この件に関しては大正頃の杉原祥造氏(山姥切国広の発見者)、昭和の佐藤寒山氏(『堀川国広とその弟子』著者)、福永酔剣氏(『日本刀大百科事典』著者)など、大概の著名な研究者は埋忠明寿への弟子入りを否定している。
しかし、昭和の研究者でも『日本刀の歴史 新刀編』の著者である常石英明氏は弟子入り説を支持している。
やがて石田三成に抱えられたという説がある
この時期の刀工・国広は石田三成の配下として働いていたという。
しかしこの時期(文禄年間)は、そもそも刀工として刀を打ってはいなかったようで、鑑定家が正真と言える作刀がそもそも存在しない。
佐和山打や釜山打の銘を持つ刀は国広の作ではなく贋作だとされる。
そのためこの時期の詳細はほとんどわからないと言える。
佐和山打、釜山打という贋作の存在
『日本刀大百科事典』では、
以下の古剣書に佐和山城下での作があるというが、正真と見えるものはないとしている。
『新刃銘盡』『古今鍛冶備考』『首斬り浅右衛門刀剣押形』『新刀十哲』
さらに石田三成に従い朝鮮にわたり、釜山における作があるという。
『古今鍛冶備考』『慶長以来 新刀弁疑』『刀剣正纂』『刀剣弁疑』『新刀弁惑録』『新刀賞鏨余録』『楓軒偶記』『新刃銘盡後集』『本朝新刀一覧』『刀剣武用論』『日向私史』『日向地誌』『田中氏系図』
さらに朝鮮人に密売して利を貪ったため、流罪になった、という説さえある。
しかし「於釜山海」と切った刀に正真を見ない。
なお、文禄の役の際、石田三成は京都に滞在していた。
その臣下の国広だけが釜山に滞在していたのもおかしいが、渡韓説を否定する決定的な根拠も見出せない。
と、している。
つまり昭和年代の研究者の意見としては、佐和山打や釜山打に真作と見える刀がないので釜山に行ったという説には否定気味だが、完全否定できるだけの根拠もないので一応文献にそう書かれていたと紹介していることになる。
1595年(文禄4)頃、文禄の役が終わったあと検地に参加、伊東家に復帰
『日向記』『雑抄(日向文献史料)』『日向纂記』『庄内平治記』『庄内軍記』によると、
文禄3年(1594)9月から、国広は石田三成の命をうけて九州にくだり、都城島津領の検地に従事した。
『田中氏系図』『日向纂記』によると、
文禄の検地の結果、旧主伊東家の新領地も決まったので、国広は伊東家へ復帰した。
『日本刀大百科事典』では福永酔剣氏のこの意見が付け加えられている。
その時期は文禄4年(1595)と思われるが、石田三成の佐和山入城も同年である。
この意味からも、国広に佐和山打ちはあり得ないことになる。
1595年(文禄4)、刀工・国広65歳。
その後、京都一条堀川に定住
その後、京都の一条堀川に定住し、鍛刀一筋の生活に入った。
1599年(慶長4年)に打たれたことのわかる銘文の刀があり、この頃から京都に定住したと言われるようになる。
同時に1599年(慶長4)には、豊臣秀頼の依頼で高野山金剛峰寺に奉納する太刀を打ったという。
1599年(慶長4)時点で刀工・国広69歳。
刀工としての評価は一条堀川に定住してからの「堀川打」や「慶長打」と呼ばれる作品が高い。
日向に帰省した時の銘は国広ではなく弟か?
『土屋押形』によると、
関ケ原の役後、日向に帰省したときの銘には「国筫」と切ったという説がある。
「国筫」を『本朝新刀一覧』によると国ヨシ『土屋押形』では国セバと訓ませてあるが、『日本刀大百科事典』によると国マサと訓むのが正しいので、国広同人ではなく、国広の弟・壱岐守国政かもしれないとのことである。
1614年(慶長19)4月18日没
『田中氏系図』『錦袋録』によると、
国広は多くの門弟に囲まれながら亡くなった。
慶長19年(1614)4月18日没、84歳。
法名は明海祖白居士。
作風
初期作は古刀風に地肌もあらわれ、尖り心の五の目乱れを焼くが、後期作は新刀風にきれいな地鉄に地沸えつき、沸えの多い五の目や大乱れ刃を焼く。
なお、彫刻に非凡な手腕を見せている。
『古今鍛冶備考』『懐宝剣尺』によると、切れ味も「大業物」の部に入れてある。
『古今鍛冶備考』によると、華実兼備の良刀を世に送ったので、“新刀の祖”と讃えられている。
『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:くにひろ【国広】
ページ数:2巻P163、164
調査所感2
刀工・堀川国広の略伝まとめるの面倒くせえ!(叫)
今までも何度かやろうとしてはなんか果てが見えなくてすぐにやる気をなくしていたんですが、こうして必要になって改めてまとめてわかりました。
他の刀工に比べて刀工・堀川国広の記事まとめるのが普通に大変だわこれ。
どんな刀工も割と不明点や曖昧なところがあって特に系図関係なんかはほぼ当てにならない状態を、それでも研究者が一生懸命作品を観察しながら資料を突き合わせて出しているところあるんですが、刀工・堀川国広は新刀の刀工の中だと特に面倒な部類ですね。
上の内容は本当に軽い内容だけで本当はあれもこれも書かなきゃいけないんでは? と思うことがいっぱいあるのですが、余計混乱しそうなのでここらで一度終わりにしておきます。
そのうちもっと参考文献を理解できるようになったら書き直すかもしれません。
刀剣単体もそうですが、刀工について調べる時には特に、出典資料名見て大体どんな本だったか思い浮かぶくらいには知識がある状態で、更にそれを土台として検討を繰り返している研究書を読む必要があります。正直私の力ではそんなのはまだまだ無理です。
割と諸説紛々な刀工なので一番新しい研究書だけ読んで全部理解できたような気になるような手抜きはできませんね。
(そもそも刀剣の研究書って発行が新しくても実は新装版の復刻だったりで中身がずれてたりするんですが)
研究書の方も、一冊の中で略伝を全て完成させるとは限らないので普通に触れられない話題があってその先生がどう考えているかわからないとか結構いろいろあります。
結局のところ、その刀工に関する研究書と呼ばれるものを古い順に読んではまた最初に戻り、読んではまた同年代の他の本と比べ、繰り返し読み返しながら自分で気になる点をまとめるしか理解への近道はないと思われます。
参考文献2
『日本趣味十種 国学院大學叢書第壹篇』(データ送信)
著者:芳賀矢一 編 発行年:1924年(大正13) 出版者:文教書院
目次:八 刀剣の話 杉原祥造
『刀剣雑話』
著者: 室津鯨太郎(川口陟) 発行年:1925年(大正14) 出版者:南人社
目次:二、足利学校其他の考察
ページ数:33~38 コマ数:40~43
『堀川国広考』
著者:中央刀剣会 編 発行年:1927年(昭和2) 出版者:中央刀剣会
『新刀名作集』(データ送信)
著者:内田疎天、加島勲 発行年:1928年(昭和3) 出版者:大阪刀剣会
目次:堀川國廣
ページ数:28~46 コマ数:28~37
『日本刀物語』
著者:前田稔靖 発行年:1935年(昭和10) 出版者:九大日本刀研究会
目次:三十 堀川國廣考
ページ数:255~271 コマ数:137~145
『国広大鑑』(データ送信)
著者:日本美術刀剣保存協会 発行年:1954年(昭和29) 出版者:日本美術刀剣保存協会
『堀川国広とその弟子』(データ送信)
著者:佐藤貫一編 発行年:1962年(昭和37) 出版者:伊勢寅彦
『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:くにひろ【国広】
ページ数:2巻P163、164
『日本刀の歴史 新刀編』(紙本)
著者:常石英明 発行年:2016年(平成28) 出版者:金園社
目次:第2部 全国刀工の系統と特徴 近畿地方 山城国(京都府) 二 堀川一門
ページ数:42~54