光と影の情動

影の考察

今最高にホット……か、どうかはわからないが、原作ゲームで千代金丸の「影」を自称する治金丸の存在から、派生を含む「影」と呼ばれる敵の存在と、その対照的存在を想定して考察する。
いつものごとく過去の考察を読んでいないと話通じないと思います、はい。
前回の言葉遊び編の続きみたいな感じです。

1.疲労と影

これまでに触れた時は見落としていたんですが、治金丸がそもそも千代金丸の「影」を演じた最初の回想93の中で、治金丸が疲労について触れていますね。

治金丸が「影」として動こうとしたそもそもの理由は千代金丸が疲れていたようだったからだと。

と、いうことは、「疲労」要素そのものがメタファーなのではないだろうか。

原作ゲームで疲労と言えば去年、「疲労困憊」のバランスおかしすぎるだろ! と大型アップデートの時に揉めたのは記憶に新しいところですが……。

あの時私も含め色々な人が何故こんなバランスにするのかと首を捻っては考え込んでいた「疲労困憊」の導入理由ですが、単純に「疲労」がそもそもメタファーとして重要だったのでは……?

大型アップデートのタイミングで疲労可視化と疲労困憊が導入されたことは、我々が考えていた以上にあのアップデートの重要なメイン要素だったと思われます。

疲労と言えばもう一つ思い当たる場面があります。

舞台の夢語りのコマーシャルのシーンで、身内(堀川、山伏)にダメ出しされまくった国広が疲れた様子を見せる場面です。
台詞とかで疲れたと口にした訳ではないんですが、あのシーンは普通に見て国広は疲れた顔をしている、という演技だったと思います。

あのコマーシャルの内容自体が三本立てで今後の展開を予告しているというか、物語の基本構造を暗喩しているように思いますが、とくに堀川派の三振りが登場する一本目は、炭水化物の摂りすぎを筋肉に替えるという話でした。

これ、原作ゲームで言うところの「疲労散露」では?

食べ過ぎ、炭水化物摂りすぎに対し、摂取をやめるのではなくもっと摂取させる方向の話でかつ疲労が絡む。

影の発生には、本体の疲労が絡む。
その疲労は戦闘による統合(食らう)行為が絡むもの

この辺りの要素が原作ゲームからすでに存在していたと考えていいと思います。

2.宝物の名前、城の名前

回想93の前に92がありますが、回想92のタイトルは『揃いし沖縄の宝剣』です。

もともと千代金丸、治金丸、北谷菜切は琉球三宝とか三宝剣とか言われているのでそのまま受け取っていましたが、前回「宝」という要素が鬼に関連して非常に重要だったことを考えると、「影」である治金丸の登場を機にこのタイトルの回想が追加されたのもやはりメタファーとして一貫しているように思われます。

名前をつけるというイベントは直近の異去実装で

・異去の敵が「戦鬼」と名づけられる
・宝物の使用回数1000回で刀剣男士の名前がつく

という要素がありました。

その他に名付け要素を振り返ると、これも大型アップデートの時に「城に名前をつけられる」ようになりました。

大型アップデートの際は一気に色々来たのでなんかもうそれどころじゃなかったんですが。

・疲労の可視化、疲労困憊導入
・城に名前をつける
・UIが一挙に変更、和風デザインから全体的に白紙っぽいイメージへ

この辺りの要素はシナリオの進捗に関わるものと考えられます。

派生の中で名付けが重要だった部分と言えば、悲伝の「鵺と呼ばれる」。

この考察だと雑に鵺鵺言っていますが戯曲本の表記だと「鵺と呼ばれる」が正式です。

その鵺が義輝に名前、「時鳥」を与えられることによって、これまでつたないひらがな喋りしかできない存在からまともに言葉を話せる存在になり、刀剣男士としての自我を確立させたようです。

これまで刀剣男士の名付けイベントはこの鵺の件だけ単体で見ていましたが、去年の城、今年の宝物、そして異去の敵・戦鬼と立て続けに名付けイベントが来たということは、舞台の悲伝だったり今回の異去だったりシナリオの転機で名前の重要性に触れるという流れを定期的に繰り返していると見ていいのではないかと思います。

そもそも、原作ゲームの最初の転機、第一節の前半と後半を分かつ特命調査・聚楽第で実装された刀剣男士こそ、「山姥切長義」です。

名付に関して大型アップデートの城と今回の宝物で2回大きな話題があったということで、刀剣男士の方もそうっぽいですけどね。

特命調査以前で名前絡みのイベントを探すなら、検非違使と髭切・膝丸実装辺りじゃないでしょうか。

検非違使ドロップは詳細な情報はまだ後発プレイヤーである私の頭に入っていないんですが、虎徹から源氏兄弟になったという話は聞いています。

真作・贋作問題が横たわる虎徹の兄弟。
そして幾度も号を変えた源氏の重宝の兄弟。

真贋、つまり「本物」「偽物」問題に「重宝」ですから、テーマ被せてきている気がするんですよね。

山姥切の「偽物」問題と虎徹の「贋作」問題は刀剣というジャンルで考えると決して一緒くたにしてはいけないと思うんですが、とうらぶのシナリオとしてはそのまんまどちらも広義の「にせもの」問題として扱ってほしいんだと思います。

3.波と浪

回想94が『兄の影として 波』
回想118が『風浪』

メタファーの一つとして同じ「なみ」を持つ男士でも、千代金丸は「波」で笹貫は「浪」の字で表されるようです。

前回軽く笹貫は千代ちゃんの裏側な気がすると書いた気がしますが(うろ覚え)、今回この辺をもう少しやりましょうか。

共通点の一つはこの「なみ」要素。

「波」は「水」に「皮」
「浪」は「水」に「良」

更に重要なのは、千代金丸も笹貫も「捨てられた逸話」の持ち主です。

・千代金丸の逸話

北山王攀安知は常日頃から神として拝んでいた石を叱り、千代金丸でその石を切りつけ、自害しようとした。
しかし神剣は主に傷を作るに忍びなかったため少しも斬れなかった。
北山王はその剣を志慶間渓(重間河)へ棄て、別の刀で自害した。

ちなみにこれは『旧記』の主の腹を斬れなかったパターンですが、きっちり斬ってるものもあるという。
主の腹を斬れなかったために河へ捨てられてしまった話です。

また、石を斬りつけたことを重視して「受剣石」の逸話という文類で語られていることもあります。

・笹貫の逸話

応永(1394)頃の波平行安が妻に、鍛冶場を決して覗いてはならぬ、と厳命した。
妻は鍛冶場を覗いてしまったので行安は怒り、仕上げ中の刀を家の裏の竹藪に投げ棄てた。
その竹藪から夜な夜な妖しい光が発するので、村人たちが捜索すると、刀が地中に逆さに立ち、その切先に竹の落ち葉が無数に突きささっていた。
妖しい刀というので、海中に投棄したところ、海中からも光を発するので、村人たちは刀を海中から引き揚げた。
話を耳にした島津の分家・樺山音久がそれを召しあげ、島津家に献上した。
しかし、島津家宗家でもまた怪異なことが起こったので、樺山家に返却された、という伝説がある。

笹貫は竹藪と海中と両方に捨てられてますね。こっちは酔剣先生に創作だろうと言われているんですが。

こうして比べてみると話のジャンルとしてはえらく似通っています。

島津の刀は琉球を攻めた。
だから治金丸が笹貫に反応していること自体に違和感はないとして……しかし会話の内容は完全に史実の因縁のみとは考えにくいいつものパターンでしたが、影のメタファーとしてはかなり重要です。

治金丸は千代金丸に付き従い、その苦しみ(疲れ)を自ら背負うものとしての「影」ですが、一方で千代金丸の反対側にあたるような場所に笹貫がいて、こちらには敵意を示している。

4.鳥と風

治金丸と笹貫の回想が「風浪」なあたり、治金丸のモチーフは「風」のようです。

ところで治金丸はキャラクターデザイン的には「風」でもあるけど「鳥」も大分強調されているようです。

つまり「鳥」と「風」はほぼイコールで繋いじゃっていいのではないかと思います。

「鳥」と「風」は原作ゲームだけだとピンと来ないんですけど派生作品だと特に舞台が両方かなり強調しているように思います。

「鳥」は悲伝の鵺辺りからずっと重要ですし、風の描写はさりげなくちょこちょこ入っています。

もう一つ長義推しとしてかなり気になる部分を挙げますが、山姥切の本歌と写しのキャラソン、「離れ灯篭、道すがら」で風要素がかなり強調されています。

パート的には国広の方なんですが、その国広は舞台でいえば「朧」であり、「朧」は「鵺」と同じような存在であることが暗に示されています。

「鳥」=「風」

この図式は覚えておきたいと思います。

舞台的に言えば「花」は「蛇」ですが北谷に蛇要素があるかどうかは謎。子殺し妖刀要素はありますが。
原作と史実的に言えば千代金丸は「波」であり「石切(受剣石)」でもありますが、これも即座につないでいいのかは謎。

保留しかできない要素がまだまだあるなということは確認しつつ、今回は治金丸と国広、「影」属性の男士に着目したいと思います。

5.自分と他者、二つのベクトルで働く影

影の敵は原作ゲームだと「天保江戸」の窪田清音たちと、舞台の「朧なる山姥切国広(山姥切国広の影)」が私が今現在把握している分なのですが(ミュージカルにもいるかもしれないがまだ見れてない)。

男士と「影」の関連だと治金丸の他に気になるところは、やはり離れ灯篭の国広パートだと思います。

長義パートが「光」から始まるのに対し、国広パートは「影」の話から入ります。
しかも国広が影に言及する部分の最初も「風」要素です。

離れ灯篭は今見返すとこの歌詞やっぱ原作のメタファーの解そのまんまでは? ってなりますね。

しかし情報が増えた今、逆にこうして最初のパートの光要素と影要素で永遠に詰まって話が先に進まん!

とはいえ治金丸の「風」と「鳥」要素の同一性から考えても、この最初の部分の光と影はめちゃくちゃ重要だった可能性が浮上してきました。

治金丸は自分ではなく兄である「千代金丸の影」を名乗り、舞台で登場した「朧」は山姥切国広自身の影である「朧なる山姥切国広」である。

そして、ここに離れ灯篭の情報を加えると……国広の影は国広自身に働く舞台の「朧」だけではなく、根本的に「長義の影」となる要素があると言えます。

舞台の三日月周りから刀剣男士の分身は二体以上発生するのは確定ですが、更に「自分に働くもの」と「他者に働くもの」の2通りで考えるのかもしれません。

(……ん? そうすると无伝で三日月が生んだ鬼は鵺と逆に三日月側に働きかけるのでは?)

……離れ灯篭の歌詞、国広側は一見苦境的な意味で影になるのかと思ったら、あの歌詞全部見ていくと、風が意味する人の声たる冷たい物語は、国広自身にとっても愛すべきものになるみたいな解釈を以前出しました。

原作ゲームの要素を重視しても、治金丸は自分から望んで千代金丸の影になる、自分から背負っています。
それが自分の生き方だと。

つまりちがちゃんの言を参考にすると、国広が長義の影になりがちなのも国広自身の望みなんじゃないかこれ……?

国広は基本的に極前は長義との関係に対し色々自覚がない状態だと思うのですが、それでも原作ゲームの極修行にしろ、派生の各作品にしろ、常に長義を庇い長義を立てる方向だと思うんですよねこれ……。

花丸でははっきりと物理的にかばい、舞台では行動としてはガチの手合わせで本気になろうとしても、言動の面では長義の偽物呼びを否定せず、自分は自分だからどう呼ばれようとかまわないという形で消極的にですが長義の意見を立てます。

要素を抽出すると国広は意識的にしろ、無意識にしろ、行動として基本的に長義を庇う(長義の影)になる方向に動くのだと思われます。

影は基本的に、本体を守る方向に働く。

そして回想118の治金丸の台詞からすると

・影は勝手に決めることはない
・主のもとで同じ目的のために力を尽くす限り、影はただ影のまま

これが「影」に関するおもな性質として押さえておかねばならないポイントと考えられます。

影は影。あくまで本体を離れず、本体の意志に殉じる。
例えばかつてその物語を食らった鬼が、今は同じ主のもとで同じ目的のために力を尽くすならば。

だとしたら。

もしもそれを……鬼側が破ったらどうなる?

6.影が本体を離れる時

舞台は基本的に国広が強いのでその可能性が頭からすっぽぬけてたんですが、もしも「影」に負けたらどうなるんでしょう?

……もしかして。

それこそが、「時間遡行軍」として完成された「創作(名前のない物語)」の姿なのでは?

これまでの考察でさんざん、敵が段階的に成長しているという話をしました。

「朧」こと「月」の「龍」の次は言葉遊びの法則性から言って「星」の「鬼」で「魁」ではないかと予想もしました。

「魁」という言葉は天保江戸で蜂須賀が口にした「先鋒」と同じ意味を持っていて、そこから行くと両者は同じ存在と考えられる。

「星」の「鬼」は「魁」、すなわち「先鋒」。
おそらくそこまで行けば、もはや刀剣男士とほとんど変わらない存在となるのではないか?

舞台の「影」こと「朧なる山姥切国広」は長義くんにあっさり負けていましたので、強さ的にはそれほどではないと思われます。

慈伝の国広は長義を圧倒どころか6対1を力技で切り抜けていたくらいですので、朧はやはりあくまで所詮は影であって、本体であり国広の強さには及ばないと思われます。

そもそも、朧が国広に敵対する存在かというと微妙なところです。
三日月を取り戻したいのは国広の本心でしょうから。この点において両者が対立するとは考えられません。

まぁこれに関しては私がまだ見てない単独行ですでにやっていそうですからとりあえず流して。

朧はそんなに強大な敵としては現れない……というかすでに綺伝で退場していますが、无伝の三日月を考えるなら国広の分身も最低2体は登場すると考えられますし、もう1体は今度こそ国広の敵になる存在ではないかと考えられます。

そしてその方向性としては、三日月ではなく長義との関係性から来ることも予想しました。

国広のもう1体の分身たる「仮称・魁」は、おそらく意識的か無意識かはともかく国広にとって最重要な存在である本歌・長義を守る存在。

長義と共に死ぬ立場、という物語を国広から奪い、国広に憎悪される存在になると考えられます。

つまり、「朧」から「魁」に進化すると、「影」はもはや「影」ではなく「鬼」となって、本体から離れて独立行動をとりはじめると思います。

この流れ、よく考えたら悲伝の「鵺」が簡易的にやっていないか?

悲伝の鵺は、

1.最初はあちこちの時代に出現して物語を集める(骨喰くんに手傷を負わせたあと言葉が発達する)
2.最愛の主・足利義輝のもとへ向かう
3.三日月を自分と同じ義輝の刀だと判断し、一緒に行こう、義輝さまを守ろうと誘い掛ける
4.三日月は鵺と義輝からさんざん協力を求められて断る
5.鵺は義輝を慰め、三日月も骨喰も大般若もいらない、自分が義輝を守ると決意し、義輝から「時鳥」の名をもらう
6.「時鳥」として義輝と共に戦い死ぬ

っていう感じだと思います。

悲伝の三日月、足利義輝、鵺の関係性について注目すべきところがあります。

鵺は義輝のもとへ行ってからずっと自分が彼を守ると訴えかけますが、足利義輝があまりそれを相手にしていません。
足利義輝が鵺の存在を意識して名前をあげたのは、彼が三日月に協力してくれと何度誘っても結局三日月が断ったあと、三日月に振られた後です。

そこで初めて鵺の存在に気づいたかのように、足利義輝は鵺を「時鳥」と命名します。

これが要するに「鵺」は三日月の「影」ってことなんでしょうね。
本体である三日月と離れない限りは意識されない。

義輝が本当に求めていた「不如帰」は三日月宗近。
けれど三日月が完全にその縁を否定したからこそ、「影」である「鵺」の存在が目に留まった。

そして「鵺」は「時鳥」という名を得たことで、「鵺」ではなく一振りの「刀剣男士」となった。

……本体と「影」の縁が断ち切られ、独立進化したものが「鬼」であり「刀剣男士」の裏側なのではないか?

あのとき「時鳥」は長谷部と不動に勝てずに滅んだわけですが、もしもそこで、勝てていたら……。

三日月から分離し、物語を集め、もとは同一存在である三日月に働きかけ、けれど拒絶され、その結果自分からも縁を否定し、大切なものを守るために新たな名を与えられて鬼となる。

それが「時間遡行軍」としての、物語の完成ではないだろうか?

7.光の物語

ここまで「影」系男士を考察して、前回は凝り固まった世界の話もして。

その辺の発展をもうちょい考えたいと思います。

回想118で治金丸に対し笹貫が「凝り固まった」奴の話をしているのがフラグではないだろうか。

前回はそこから放棄された世界の対極、凝り固まった世界が考えられる話をしたのですが、今回は「凝り固まったの」そのものの話をしたいと思います。

笹貫曰くの「凝り固まったの」は、これまでのセオリーからするといわゆるイマジナリー男士じゃないでしょうか。

名前が出ていないだけで、そういう存在がいると示唆されたからにはそういう性質を持つ誰かが来るのだと思います。

そして、笹貫が治金丸と対峙している場面でわざわざその話題を持ち出した意味を考えたいと思います。

つまりこの「凝り固まったの」は、治金丸と同じく「影」的存在、ただし「影」そのものではなくよく似た別の性質のもの。

笹貫は治金丸を見てその「凝り固まったの」に想いを馳せた。

「凝り固まったの」は影である治金丸の延長戦上の存在とも考えられると思います。

性質は反対。
ただし「影」と別のものではなく、むしろ「影」の延長線上にいる。
シナリオ的に登場はこの先になる。

っていうところを取り出すとですね、端的に言って「朧」と仮称「魁」の関係になるのではないか?

本体を挟んで本体の味方をする側と、本体の敵に回る側です。

そしてその方向に向かう要素として示されたのは「凝り固まった」ものであること。

……前回、私は「凝り固まった」思考の男士の例としてそもそも長義くんを挙げました。

後家兼光との回想141からすると、山姥切長義はおそらく憶測を許せない性格。

史実を確定できる事項でしか認めない。諸説や憶測の存在を許せない性格だと思います。
刀工の話に関しては今はこだわっていませんが、長義くんの拘りどころが「山姥切」の名であることを考えると、やはり最初から問題はここにあります。

憶測を認めるか、認めないか。

認めなければ、それはそもそも山姥切長義の「自壊」を意味する。

凝り固まるということは、そういうことではないか。
史実しか正しいと認めない。

けれど刀剣に限らずどんな分野でも歴史を紐解けば史料はあくまで断片的なもので、憶測のまったく介在しない歴史はそれこそ存在しないと思います。

歴史を守る立場であればむしろ、憶測を普通に認めないとまず話が進みません。

長義くんの場合は国広側の極による変遷から考えるとむしろ憶測を肯定してくるようになると考えられます(立場の逆転)。

ある意味ではここで凝り固まった自分と分離すると言えるのではないか。
そして次に立ち向かう敵は「凝り固まった」自分であり、攻略すべき世界も「凝り固まった」世界と言えるもの。この世界名誰かなんか格好いい名前考えてください。

もともと原作オンリーの考察だけやっていた時点で、監査官時代から正史を守ることに厳しい長義くんのスタンスは「検非違使」よりではないかという結論になりました。

極修行で長義のために、自分が本来は山姥を斬った逸話を認められなかった国広はどちらかと言えば時間遡行軍寄り。
正史でなければどうだっていいと放棄された世界の北条氏政に対して冷静を通り越して冷徹ですらあった長義は検非違使寄り。

山姥切の本歌と写しはちょうど正反対のスタンスによる、対極の二つの陣営の姿を映していると考えられます。

離れ灯篭の歌詞的にどちらかと言えば「影」、時間遡行軍寄りの「陰」の考え方をする国広の立場はこれまでの考察的に「慈悲」だと思われます。

遡行軍は字で見るとだいたい「月の逆を行く車」ですね。

一方、「光」である長義は「検非違使」、これが陽だとして、その性質本来は「般若(智慧)」だと考えられます。

検非違使も字を見ると「違い」「非ず」のものを「検める」使いですから……この辺もいつも通り言葉遊びだと思われます。

相変わらず言葉遊びの解読は山姥切の本歌と写しのスタンスに照らし合わせると割と直感的に納得できます。

そんなわけで、国広が「影」の敵の性質を表すものだとしたら、対極に来る長義こそ「光」の敵の性質を表すものだと考えたいと思います。

8.巡る凝り固まった想い、凍る疑いの古き国

「凝り固まったの」は字で見ると「こおる」、「こごえる」などを意味する二水に「疑い」、「国」を意味するくにがまえに「古」いで構成されています。

念のため検索かけたら部首の「くにがまえ」には「巡る」「囲う」などの意味があります。
なるほど……? こんなところにまた一つ円環が。え。じゃあ名前に国のつく男士の重要性ってそれ……?

凝り固まった世界は凍っているのだろうか……。

憶測を許せない心理の深化、率直に言って悪化すれば、それは史実は正史とされるもの以外何も認めない凝り固まった性質になると考えられます。

長義くんの態度が悪化した時に懸念されるのはこういう問題ですが、実際に原作ゲームの長義くんそこまでか? と言われると違うと思います。

ただ国広の発言がどうも正史否定の歴史修正主義を感じさせるのと同様、悪化すればそのまま敵陣営に転がり落ちかねない素養はあると思います。

そしてその場合の敵陣営とは遡行軍ではなく検非違使方面、正史に拘り過ぎて、生き残った人々を全て殺す方面だと考えられます。

これが凝り固まった敵、仮称「光」の敵の性質だと考えられます。
名前的には「影」と区別されるのかどうか気になります。

そもそも古語で月影と言えば月光を指すように、もともと「光」と「影」は区別されない存在です。
「光」があれば「影」がある。まさしく表裏一体で、根本的には同じものを指す言葉でもあります。

舞台の星フラグや原作ゲームの七星剣の存在などからするとそこから更に「鬼」が絡んできて、前回の特命調査絡みの言葉遊びを見ていくと、そこに「宝」という条件も密接に絡んできます。やはり第二節のボス坂上宝剣じゃねえのこれ???

鬼と宝。もしかして両方とも同じものなのか。

鬼が影ならば、宝こそ光なのか。そして両者には、本質的な意味での違いはきっとない。
異去の実装により、我々は「過去」で「刀剣男士」を拾い、「異去」で「宝物」を拾うようになった。

「過去」で拾えるのは最初から名前を持つ刀剣。
「異去」で拾えるのは、我々自身が結合して名前をつける断片。

うん、同じものの気がするわこれ。

刀剣研究的には最初は刀剣の名前で検索をかける。記述を探す。名前があるから気づける。
でも自分の知識が増えれば違う。今度は名前のないその刀を見つけて、ここでこう書かれているのがこの刀です、と自分で記述を繋ぎ合わせて名を与えることができる……。

9.蔵の話

そういえば前回書き忘れましたが、「宝」には「蔵」要素がつきものです。

文久土佐と火車、そして鬼と宝物の要素が近接していることには触れましたが、それと同時に「宝」要素は「蔵」とも近接しています。

江戸城の「宝物庫」が一番わかりやすい例だと思いますが、そのほか最近思い出した例はというと、无伝の三日月の台詞です。

刀とは切るか語られるかしかない、の後に「蔵にしまわれる」ときもあるという話をしています。

さらっと流してたけどもしかしてこれ、重要なのでは……?

「蔵」要素。「蔵」とは何を示すのか。

前回やりましたが特命調査・慶応甲府の府の字も意味は「蔵」。

物語外で気になるところと言えば『伊勢物語』の「芥川」で男が盗んできた女を一晩入れておいたのが蔵。そこで女は鬼に一口で食べられてしまう。

「鬼」―「宝」―「蔵」の関係性。

「蔵」要素が「鬼」と「宝」と結びついてる、そしてこれらは文久土佐とも結びついていると考えるなら、大典太さんの極がそろそろ来そう。
まぁ大典太さんに関しては長義くんより前に実装された刀剣で唯一極来ていないので予想もへったくれもないんですが。

ただ、もし来月、再来月辺り、つまり文久土佐のイベントと近接して大典太さん極が来るようならやっぱり「蔵」要素重要なのではないか? と見ていいと思います。

それと、他にも「蔵」要素を探してみたいと思います。

地蔵行平。
岡田以蔵。

自分で舞台の台詞メモの中からさっきの三日月の蔵にしまわれる云々の台詞を検索かけていて引っかかりました。

地蔵くんと岡田以蔵は、名前の中に「蔵」がありますね。

特に地蔵くんは「花」であるガラシャ様を「鬼」である歌仙たちに斬らせたくないと連れ出す役目。
原作ゲームでは「花守」と古今に呼ばれています。

舞台で言えば「花のようなる秀頼様を、鬼の様なる真田が連れて……」の歌に重ね合わせて「鬼」である真田信繁が「花」である秀頼を守る構造ですし、「鬼」は「花守」としての側面があるのだと考えられます。

ただ一方で、同じく「鬼」と呼ばれた忠興と、その刀である歌仙は「花」を斬る役目。

しかし話の流れとタイミング的には、ガラシャ様は忠興に対して鬼の妻には蛇がお似合いだと、忠興に対する自分を「蛇」だとしています。

岡田以蔵は、維伝において坂本龍馬と武市半平太の間で揺れ動く存在。

維伝の以蔵さんは龍馬と大好きじゃー言い合っていた面からしても龍馬の半身として描かれているのが明確だと思いますが、一方で彼は常に武市半平太に従い、命令され、武市半平太と運命を共にする存在です。

この以蔵さんの立場、刀剣男士側だと「顕現前」の状態じゃないかと思うんだよな。三日月と鵺が分離する前。
生存欲求を全面に押し出している。これが自分の生存を投げ捨てても相手を守りたいに深化(状態としては悪化)すると綺伝の地蔵くんになるのではないかと。

維伝の以蔵が蔵、綺伝の地蔵が蔵、そして慶応甲府は舞台そのものの府が蔵か……。
「蔵を以て」「地の蔵」「慶びの蔵」でこれ自体関係ありそうだよな……。

すっきり解答にはまだ遠いですが、ひとまず「蔵」の重要性はここで確認しておき、今後大典太さん極が来るタイミングに注意したいと思います。

10.言葉遊びと仏教の世界、あと陸奥関係

舞台は仏教色が強いという話はずっとしているんですが、そもそも仏教と言葉遊びは関係あるのか? という根本的な疑問に対して答を見つけました。

「言葉遊びと仏教の関係――『古今和歌集』物名をてがかりとして――」

という論文がネットで読めます。

タイトルの時点でそのまんま仏教と言葉遊びの関係に言及されています。

仏教と言葉遊びの関係に関しては言葉遊びをする「理由」と言葉遊びしている「結果」、実態の両面から探していたのですが、この論文に関しては後者でした。

『古今和歌集』に仏教思想で言葉遊びをしている和歌がいくつかあるという話でしたので。

理由の方は調べてもまだよくわからんちんなのですが、とりあえず仏教と言葉遊びはそもそも縁が深い、歴史も長いという結果に関しては到達しました。

とりあえず一つゴールにたどり着いたかなと。やっぱり仏教と日本的な言葉遊びは関係があったぜ!

そのついでにこの論文のおかげで「陸奥」に関してわかったことなんですが、「陸奥(みちのく)」を言葉遊びで和歌に持ち込む場合は「みちのく」と「満ちる」という掛詞になります。

とうらぶで「満ちる」というとついつい前に月を連想したくなりますね……。

そのついでにさらに「陸奥」と和歌で検索しましたが、「陸奥」は「しのぶ」の枕詞です。

「陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり誰ゆえに 乱れそめにし我ならなくに」

と、いう歌が百人一首で聞いたことあるかと思います。
さらにこの歌、『新古今和歌集』と『伊勢物語』でも有名らしいです。

あとは源頼朝も「陸奥」を使った和歌を詠んでいます。

和歌のルール的には「陸奥(みちのく)」は「しのぶ」の枕詞、「しのぶ」とセット。
さらに最初の「満ちる」との掛詞ですが、文久土佐関連で肥前君の「肥」の意味が「肥える」だというのも重要と考えられます。

ぶんとさ関連の情報出しはこのぐらいが今の限界かな。

陸奥守吉行が「満ちる」。
肥前忠広が「肥える」。

で似たような印象の組み合わせ。
じゃあ最後の南海太郎朝尊は? ってなるんですがこれがわからない。

南の意味がわかれば南泉あたりも解けるから知りたいんですが今のところこれだってものはない感じです。

11.「青野原」と大侵寇

仏教関連の本はちまちま読み進めていますが、インド哲学、中国仏教を超えて日本の仏教編に入ったらどこもかしこも重要そうに見えて一周してまとめるのが追い付かないぜ! 状態です。

インド哲学や中国の仏教も色々押さえておかないといけないポイントはあったのですが、やはり直截的に解釈に関係がありそうなのは日本の仏教です。

ざっくり言うと、天体関係は弘法大師空海の真言密教、更に色彩の話も空海の密教です。
浄土に関するのは法然と親鸞で、特に親鸞は人気があり、その教えは信仰の喜びに関するものがあります。
今読んでいるのは道元の巻ですが、道元はやはり模倣・学習を強調したとはっきり書いてありました。

ネットだけだとあくまでそれっぽいフレーズはあるもののはっきり模倣と言っているかどうかわからなかったのですが、市販の本だとやはり道元は古仏の模倣・学習、先人に倣うことを推奨しています。

今読んでいる『仏教の思想』シリーズだと全体を理解するためのざっくりとした説明なので細かい対応はわからないのですが、どこに何の話があるかようやくはっきりしてきただけでも収穫があったと思われます。読むべき経典もこの分だと一番名前が挙がって有名な坊さんたちがみんな大事にしている法華経かなと。

読んで直答が見つかるとは限りませんが、とりあえず引き続きその辺りを中心に調べていきます。

今の時点で明確に答えが得られたものの一つに、「知恵」を「男性的」、「慈悲」を「女性的」に例える考え方があります。
空海の真言密教です。

やはり知恵は男性、慈悲は女性。
これを陰陽説に従って智慧は陽、慈悲は陰とするのはそれほど不思議ではない考え方のようです。

もう一つは、「青」はやはり重要だろうということ。

同じく真言密教の話で、密教は「色彩文化」と解説されています。

そして同時に、日本語の「アオ」ほど不明確な色彩用語はないとも言われています。

「青丹よし奈良の都」の仏教は青と朱との二色の文化だったとか、禅の無彩色文化と密教の色彩文化とか、なかなか気になる表現が出てきましたが、まだ知識が浅くてうまくまとまりません。

ただ仏教ネタの作品で青と赤の二色が重要視されるのは理解できてきたと思います。

とうらぶで青というと、原作設定の一人? である芝村氏が青に拘るとかそっちのファンである審神者がちょこちょこコメントしているのを目にします。
三日月がとうらぶの顔である理由の一つも「青」を基調としたキャラだからだろうと。

その理由がこういう仏教的理由ではないかと推察します。

ところで、文久土佐などの特命調査が言葉遊びなら他の合戦場やイベント名もそうだと思うんですよ。

「青野原」

8面のステージ名ですが、同時に対大侵寇にあたってプレ青野原として高難易度戦場が期間限定で開放されたのも「青野原」です。

あの頃も審神者たちは何故この時代なのか関ケ原の戦いに理由があるのかとさんざん考えをめぐらせているのを見たものですが……。

もしかして:戦場の名前

……これもやっぱりそうだったのでは?

回想などでもなんでこの二振りがここで話をしているんだろうってものがたまにあります。
大体はその刀の背景たる史実から考えますが、それでもやっぱりしっくりこなくねーか? というものもいくつかありますよね。

その場合これまでは戦場情報が不明であることから逆に見えない部分に関係者がいるのではないかという方向で推測する場合も結構ありましたが、最近の言葉遊びの重要性から考えると単純に他のすべての要素に先んじて言葉遊び要素が重要視されているのではないかと思います。

今は青のターン、月のターンで、これから赤と太陽のターンになるかもしれない。

最近の回想でいうとにっかり青江と京極正宗の回想134『京極の丹碧』とかタイトル的に重要そうなんですけどまだ解釈追い付いてません。

青の重要性はもうちょっと踏み込んで具体的な回答が欲しいところなんですが、とりあえず真言密教を中心としてやはり仏教的観点の中に答がありそうだなとわかったのを今は収穫としたいと思います。

12.謙り信じる心

名前がメタファー(比喩)と言われても人名そのままの謙信くんとかどうすんのかなと思ってたんですが、火車切との回想144、『謙信のおこころ』がそのまま答っぽいですね。

「謙り」「信じる」

回想144の冒頭も入っていますが、謙信くんがよく言ってる「がまん」と「ぼくはつよいこ」系等なんでしょう。

そして回想144では転んだのを我慢したあと、心配して声を掛けてきた火車切にお腹が空くと寂しくなると言って自分のご飯を半分渡します。

中に梅干しが入っているご飯なので普通におにぎりでしょう。……御握り? 鬼斬り?(ダジャレ)

つまり「謙」「信」の心とは、具体的な行為としては「自分の食べるものを相手に半分あげる」ことだと。

謙信くんからの説明として、上杉謙信が米を分け与えて人を養っていたことと、もらった人が嬉しそうだったことが説明されます。
そして上杉謙信の米だけでなく、本丸の米もおいしいと。

「謙る」は「言」と「兼」から成っていますね。
今まで兼定とか兼元の「兼」の意味わからなかったけどもしかしてここ重要。二つ以上のものを合わせることだと。

意味としては、「謙遜する」「敬う」「自分を低くして譲る」。

謙譲語の謙がわかりやすい通り、自分の方を低くして相手を立てるという意味です。

「信」の字は「人」に「言」。
嘘を言わないこと、疑わないこと、信じる。
それ以外にしるし、合図、任せる、便りや手紙的な意味もあるようですが……。

上の回想からするとシンプルに疑わないこと、信じることだと思われます。
(でもいつものように標とか合図とかの意味もどこかでかけてそうだ)

謙り信じる、自分を下げながら相手を立てる。

こういう態度だと言われるとまさに今回の主題である治金丸や国広の「影」系男士の性質という気がします。

慈伝の国広は謙る通り越して卑屈でしたし原作回想のちがちゃんはむしろ喜んで千代ちゃんの「影」をしていましたが、自分を下げて相手を立てる、という性質に変わりはないと思われます。

火車切、罪人を地獄に連れていく車、あるいは死体を奪う猫の妖怪、それを斬ったという名の刀が追加されたタイミングで、謙信の心とは「食べるものを分け与えること」という意味の回想が追加か。

では罪人とは、食べ物を分け与えずに全てを食らおうとする在り方……?

強い子はご飯を分け与えられる子、それができないのは、我慢ができない、弱い子のすることだと。

憧れの虎に対して、現実を示す猫が妖怪へと変わる。

……舞台の方の進捗と合わせると割と洒落にならん。全てを呑むか食らうか。

回想144でもう少し気になるところは

・お腹が空くと寂しくなる(一つ前に実装された後家兼光のランクアップ台詞がお腹が空く)
・すねこすり

あとは言葉遊びの方で、「謙」は「謙遜」の意であることを確認しましたが、その謙遜の後ろの字である「遜」もこのままへりくだるという意味があります。

謙遜の「遜」は「へりくだる」の意味で、字としては「孫」が「行く」。
「謙」は「言」に「兼」。

……字的に孫六兼元の部分と色々被る気がするんですよね。

前回の特命調査言葉遊び考の時からちらっと「兄弟」が重要だと思ったんですが
(聚楽第の第が「竹」に「弟」だから)

今回考えると多分「孫」も重要な気がします。

「弟」の重要性は今回それに「子」をつけて火車切と大倶利伽羅の回想143のタイトル『竜の弟子』が重要な気がしてきました。

これまでとうらぶがやたら兄弟を強調してきたのはそのまま「兄」と「弟」が大事なのでは。

なんで「兄」が……と思ったけどおおっと、「口」に「人」で「神を祀る人」の意があるだと!?
めちゃくちゃ重要じゃん(真顔)。

じゃあ「弟」は……「年下の者」「力の劣る者」「従う」、そして「順序」。
矛にらせんを巻き付けた象形文字だそうです。

弟は単体だと直感的に意味を掴みがたい気もしますが、兄が「神を祀る人」だとするとこう、審神者とそこに従う刀剣男士の関係性を連想します。

あ、これマジで大事なやつ!?

一つ一つの要素は詰め切れないけどなんかこうまた一つの回想に重大な要素詰まってる~~という感じになってきました。

名前だけ出た「すねこすり」も雑に猫の妖怪みたいに考えていたんですが、いざ調べてみると「雨の降る夜に現れる」「犬のような姿かたちと言われていたものが後に猫になった」と聞くとまた非常に重要な感じが。

もう何もかも重要すぎて、ラインマーカー引きすぎで真赤になった参考書みたいになっとるやろがい。

13.深化と反転、自壊と他害の心理

メタファーを拾いながら「影」とその対照となる敵の性質を解き明かそうとすると、大体二つに分かれると思います。

これまでのシナリオ構造でもひたすら2と2の組み合わせを繋ぎ合わせて作っていた感じだったので、「影」の成長も2パターン考えるんじゃないでしょうか。

まずは情報の多いというか、わかりやすい「影」、つまり「朧なる山姥切国広」側をこれまでの考察の結果を総集します。

「影」の敵は原作ゲームの治金丸の台詞を参照すると、本体が疲労すると登場し、本体の代わりにその望みを叶えようとする存在だと思われます。

悲伝の「鵺」がはじめは三日月を共に行こうと誘い、「朧なる山姥切国広」が単独行予告PV(本編まだ見てない)で三日月宗近を救わないのか云々と国広に呼び掛けていたことを考えると、「影」は基本的には本体と融和・和合しようとする存在だと考えられます。

その一方で、悲伝の三日月が鵺と足利義輝の誘いを拒み彼らと道を違った末に鵺は足利義輝を守る者としての地位を確立したことを踏まえると、「影」は経過によって本体を離れて独立することが考えられます。特に主として愛する者から名前をもらうイベントは重要なようです。

また、国広の心理を参照するに舞台の「花(蛇)」と「鬼」にまつわるメタファーも重要ですがもう一つ、花丸の安定の件があります。

花丸安定の考察でやりましたが、元主や己の愛するものを守りたいと願う男士はそのせいでどちらかというと歴史改変方向に走りがちです。

ただしその内面はスタートから固定で歴史改変を望むのではなく、状況によって段階的に進化するものであることが考えられます、というのがこの前やった話です。

「影」が見る夢は、初めはただこの物語で愛するものと「一緒にいたい」「ずっと傍にいて」という願望です。

それが状況の悪化により愛するものの死が避けられない状況が確定すると、その願望は深化して、愛する者と「共に死にたい」というものになります。

それが原作からの安定の極修行の内容であり、舞台であれば綺伝の地蔵くんの心理であり、ある意味では、原作から山姥切国広が自分の逸話を知っても己を堂々と山姥切だと主張せずに長義側の逸話を維持してきた理由だと思われます。

「影」は自分だけが生き残ることを望まない。本体を決して離れられない。
本体が滅びる時は、本体と共に死ぬことを選ぶという方向性が考えられます。

一方で、では永遠に本体から離れられないのかというと、そうでもないというのが「鵺」の去就から明らかです。

最初はあくまで義輝を守りたいからこそあれこれやっていたはずの「鵺」は、「黒甲冑」に利用されることによって本丸の刀剣男士と明確に敵対します。ただこの部分はまた後でやります。

ここではあくまで他者という外の力ではなく影そのものの深化と、その反転の瞬間に着目したいと思います。

「鵺」は当初こそ三日月にお前も義輝様の刀だ一緒に行こうと誘いかけてきますが、三日月がその未練を断ち切って義輝を拒絶したと思われる後で三日月も骨喰も大般若もいらない、と。おそらく自分を生み出すもととなった刀剣男士たちを否定します。

影はその半身が己の主を裏切ることによって、己の半身に牙をむく存在となると考えられます。

元主等の誰かを「守りたい」と願う「影」系男士の性質は

・一緒にいたい、傍にいてほしい
・愛するもののために戦いたい、共に死にたい、本体である半身も同じ気持ちだろう?(自壊)
・愛する者を守り抜きたい、そのためなら敵は殺す、それが自分の本体であろうとも(他害)

という方向に深化し、影はいずれ本体から分離するのだと思われます。
そして完全に分離した時に敵となる。

また、影の性質は基本的には上のようにただひたすら相手に尽くすものと思われますが、その想いが報われなかったときに反転することも予想されます。

それが舞台の綺伝における細川忠興とその妻・ガラシャの二人を中心としたメタファーで、とうらぶに関しては愛と憎しみは表裏一体です。

これまでの考察通り、長義と国広に関しては慈伝の時点で相手に多少の怒り、愛故に相手が自分と同じ道を選ばないことへの怒りを抱いているのが明らかですので、そのうち怒りを超えて相手を一度本気で憎む展開が来ると思います。

こういう予想から、「影」の敵の性質は2方向と推測します。

・自壊、自分で自分を傷つけ否定する方向
・他害、対立相手を傷つけ否定する方向

そして困ったことに自壊も他害も両方ともある意味自分の歴史の否定であることには間違いなく、性質が反転し自壊から他害に走った瞬間、影は影ではなく明確な敵となり、最終的にその影が本体を呑みこんでしまったものが相手を食い殺して名前のない物語として完成した瞬間、時間遡行軍が誕生すると予感されます。

始まりと終わりは多分繋がっている。自分たちの物語の終わりがおそらく敵の物語の始まり。
我々は負けたら――影に食われて、自分の歴史を守り切れなかったら、正史を変えたものとして歴史修正主義者となる。

「影」と呼ばれる敵の性質はだいたいこんなところかなと思うんですが、この対比として対極の性質である「光」方面の敵もこの逆を想定すれば行けるんではないだろうか?

ということで今回はそっちを考えます。

多分最初の愛するものと一緒にいたい気持ちには差はないと思うんですよね。問題なのはその次から。

・正史を守りたい、そのために敵は殺す(他害)
・正史を守りたい、そのためなら自分も殺す(自壊)

シンプルにやべえな(感想)。

ただこれまでの長義くんだったり、検非違使だったり、凝り固まったのだったり、放棄された世界の逆である凝固する世界であったりを予想した感じ、こういうところかなと。

原作ゲームのみで考察した時に、時間遡行軍はどうもそれこそ「影」である国広側のように、歴史を変えることで自分自身の存在を否定する(自壊)存在だという結論に一度落ち着きました。

そしてその対極である検非違使は彼らと逆、歴史を守ることでむしろ自分自身の存在を否定する(自壊)存在という結論でした。

どちらも敵を容赦なく殺しているように見えて、確かにそういう面はあるけれど、おそらくその行動で消している歴史はむしろ自分自身のものなのではないかと。

自壊と他害に分けられるように見えて、実際にはどちらも同じ意味ではないかと。

まったく正反対、完全に別のものの対極が、最終的には同じものとして一致するのがとうらぶの考察で何度もぶち込まれてきた結果です。それを人は円環と言う。

そして「正史を守りたい」という想いが報われなかったときに何が起きるか、「影」が状況によっては己の本当に愛するものを憎むことがあるように、「光」の敵にはどういう状況が想定されるか。

愛する者を守るために命をかける「影」がその想いが報われなかった際に愛を憎しみに転じると言うのであれば。

正史を守ることに拘泥する「光」の反転は――正史の否定。

ストレートに歴史修正主義者では?

一口に歴史を変えたいと言っても複数のパターンが考えられますが突き詰めれば二極しかないということかと思います。

・正史を正史と認めた上でそれが気に入らないから改変したい
・正史とされているものがまず間違っていると否定

後者って多分普通に歴史修正主義者じゃないですか、とうらぶ的な意味ではなく現実の意味での。

みんなが正史だと信じている通説が間違っているので修正すべき、という考えですが、現実の歴史修正主義はそれを歴史の真実を守るべきという観点から行うのではなく当事者を攻撃する性質を有することがあるので、そういう性質を持つ論者を批判的に呼ぶときに主に使われるようです。

ただ、刀剣男士に関しては、その否定論者、歴史修正主義によって攻撃され否定されるのも自分自身であるという構図が話を複雑に見せているのだと思います。

スタートの逸話が創作である男士は、己の価値を、己の歴史を、だからこそ疑ってはならないのだと思います。

離れ灯篭の歌詞で国広パートが迷いを描かれたのに対し、長義側は疑いを斬って捨ててでもただ信じることを強調されていたのは何故かなとずっと思っていたのですが、その理由がこれなのだと思います。

正史を守る立場だからこそ、創作を疑ってはならない。それもまた歴史なのだから。
それは憶測だ、創作だ、史実ではないのだと否定してはならない。己自身を。

創作側の逸話を持つ男士にとってはそれが最終関門となるほどに難しいことなのだと思われます。

愛故に相手を守ろうと動く「影」がその愛に振り回されて相手を憎まないように耐えるのと同じくらい難しい。

「影」と「光」の敵に関する深化と反転の予想を含む分析はこんなところかなと。

原作ゲーム考察で一度そういう結論になった通り、時間遡行軍も検非違使も結局はどちらもその行為(歴史を変える・守る)によって己の身を削ってでも誰かを守りたいという話だと思うんですよね。

「光」と「影」は、だから最終的には同じもの。
お前は俺だ、俺自身だ、になるのではないかと思います。

14.刀身御供、利用するものされるもの

おつうとごっちん回想140のこれまでで最大級に不穏なワード「刀身御供」について考えたいと思います。

桜梅考察の方でやった通り、模倣は人身御供ならぬ刀身御供へのやばい道だという話という解釈でいいと思うんですよね、あれ。

葦辺は葦が生えている水辺でこれも意味深ですが、鶴雀の解釈がどうにも難しい。

ことわざなど検索に引っかかる内容からすると、この二種類の鳥が並ぶときは鶴は立派なものの例えで雀はつまらないものとして扱われます。

刀剣男士としては単に名前だの元主の家紋などで鶴と雀が二振りを象徴するということでしょうが、言葉遊びとして鶴雀の組み合わせがシナリオ的に意味するものはなんでしょうか。

立派な鶴とつまらない雀……立派なものとつまらないものの反転……?

直江兼続を倣うな、反面教師としろ、人間を模倣することは刀身御供への道だと警告する姫鶴と。
刀剣男士は人の姿を模した時点で人に倣い、習っていると肯定的な後家と。

話題の最初が上杉では別にいいけど長船派としてしゃきっとしろという話題で、模倣から刀身御供の話題に移り、最後は後家兼光の方から姫鶴一文字に「慣れた?」と聞く。

人の姿を得ること、人を倣うことにはそれなりの慣れが必要なようです。

また、今回最初からやった治金丸と笹貫の回想118でも彼らは刀剣男士としてこの姿を得たことに何らかの意味を持ちそれによって考えて動いた結果が「影」と「凝り固まったの」の話題のようです。

慣れること、真似すること、変化すること、~~らしくと型にはまること。
一方でそれを否定し、人を反面教師として同じ道を辿らないようにすること。

話をまとめると刀剣男士が己を保つにはある程度の自覚と結構なバランス感覚が必要に見えますね。

そして回想141の長義の意見からすればそれこそ愛を肯定し模倣を肯定する後家の方が難儀だと。
愛情が深い方がおそらくバランスを崩しやすく、長義や姫鶴より後家の方が危ないということでしょう。
だからこの二振りに難儀だの反面教師にしろだの忠告をされている。

逸話が大事名前が大事とは言いながら、それに関して刀剣男士側の自覚がそれほどまでに重要であることを示しているのはここ最近のおもにこの後家兼光周りが初めてじゃないですかね?

ゲーム開始からいた刀や初期実装勢にこの見識の刀いないと思います。その辺は大体自分の逸話よくわかんないよね勢が多くて、三日月みたいに複雑な意見を持っている刀の極は第二節以後ではないかと思います。

長義、治金丸、姫鶴は第一節後半実装。
笹貫、後家は第二節前半実装。

話の切り替わるタイミングは関係あると思います。

治金丸と笹貫の会話は笹貫の言う「凝り固まったの」が登場してから真意がはっきりしそうですが、後家と姫鶴、長義に関して「刀身御供」周りはある程度整理しておきたいですね。

人の身を得たことはそれなりに背負う覚悟が必要で、例えば京極くんあたりは兄の石田くんとも伝来先が同じにっかりともものすごく意味深な会話をしています。意味深すぎてどう解釈しようこれ。

治金丸・笹貫の回想118から背負うことで得た形の話をして、石田・京極の回想135では顕現の負荷の話になってくる。
そして回想140の姫鶴・後家で「刀身御供」の話をして、回想141の後家・長義で後家が「難儀」だと評される。

うーん、やはり第二節後半の流れは顕現のメリットとデメリットの話になってきた気がします。

そしてターニングポイントとなる特命調査復刻と異去実装のタイミングで登場した火車切は、地獄へ罪人を運ぶ車を斬る名を持つもの。

まぁ派生の一つである舞台を見ていれば国広が分裂してその「影」が「朧」として存在していること、国広が三日月を取り戻すためにその後を追ってしまっていること、そもそも長義の模作(写し)であること、虎(あこがれ)と猫(現実)の狭間で悩むキャラであることなど完全にシナリオ一致していますねと言いたい流れです。

しかし、それを踏まえても更に難解なのが「刀身御供」。

それは、「人身御供」の代わりなのだと。

そこまで考えた時に舞台方面で直感的にぱっと思いついたこと言っていいですか?

舞台の魔王信長(遡行軍)の中身、国広なんじゃないの?
円環を繰り返した先の世界戦で弥助に負けて信長の核としてぶちこまれてない?

姫鶴の忠告は元主の模倣をやめろという話でしたが、これをただの元主の真似じゃなく模倣要素そのものがリスクを秘めていると見るなら一番模倣要素に近いのは当然、写しである山姥切国広。
しかも舞台の重要人物である弥助と事あるごとに対立している邪魔者筆頭格。

維伝の吉田東洋の台詞から、同じ本丸の刀剣男士が同じように放棄された世界に挑む円環を何度も繰り返していることはほぼ確定です。
あの時のむっちゃんは初耳だという顔をしていましたが、輪廻転生ならば当然記憶はない。本丸という存在は何度も円環を繰り返す……輪廻を繰り返して無限に戦っていることが推測されます。仏教的に。

元主への敬慕から、その有様を肯定しすぎて「刀身御供」になる。

この条件でぱっと思いついたのはまず文久土佐の龍馬が陸奥守吉行であろうということです。
むっちゃんは龍馬を常に意識していますから、元主を肯定して近づきすぎてしまったらそうなるだろうと。

一方で、「鵺」の件で何度か触れましたが、敵側の在り方は全員が全員よーし歴史改変するぞ! と強い意志をもって歴史修正主義者と時間遡行軍やってるわけではないことも明らかです。

天保江戸の窪田清音たちは「仕立てられた影」の可能性もあると言われている。
刀剣男士としての治金丸は好きで千代金丸の「影」をやっているようですが、悲伝の「鵺」は黒甲冑に連れ攫われて利用されている存在です。

「影」の在り方にもまた2パターンあって、姫鶴が後家に忠告したように自分から刀身御供になってしまうパターンがあるなら、敵にその路線で利用されるパターンもありそうかなと。

舞台を見ていると敵も出てくるたびに手を変え品を変え自分の望みを叶えようと努力しています。

また舞台だと真田十勇士との交流のように、敵との交流場面すら描かれます。

愛情と憎しみの関係を築くのは何も、本丸の刀同士とは限らない。敵相手でも同じです。

国広は「朧」と対峙することは単独行PVから確定、无伝の三日月を考えればもう一体の自分とも対面すると思います。
そしてそれぞれに異なる感情を抱くことになるだろうと。

「影」との関係性に二通りあるなら、それ以外の敵との関係性も二通りあるのでは。

特に弥助の目的は悉く国広に阻まれていますから向こうもそろそろ怒り心頭でしょうし、国広側もお守りのお蔭で無事だったとはいえ一度兄である山伏を折られています。このまま何度も対面を果たすようならいい加減お互いにキレてもおかしくないなと。

人身御供、という言い方はやはり自発的な献身よりは他人の手で差出される生贄のような気がするんですよね。
文字単位で分解すれば「御」「供」ですから自分から供をするとも見えますしそれが姫鶴の警戒する元主に近づきすぎてなってしまう刀身御供なんでしょうけど。

とうらぶのシナリオにおいて敵の情報は基本ほとんど明かされないけれど、断片を繋ぎ合わせれば彼らは決して自分たちと無関係ではない、むしろ自分たち自身なんだなと考えられます。

そして、だからこそ、国広は仮称「魁」を許せないだろうと思うように、敵である弥助との因縁もこの先まあ悪い意味で発展していくんじゃないか? と。

回想140を振り返るなら、重要なのはやはり「模倣」要素。

人に倣い、人に習う。

この点が最初から重視されているのが、舞台の主人公の一振りが山姥切国広である理由の一つだと思います。

何かを得るために、代償を捧げる。

天伝で弥助たちは物語のない刀にそれを与えようとして命を懸けたが失敗した。
ならば次はどう出ると思う?
やはり自分たちの陣営にもともと強力な逸話を持つ刀を引き込むか、利用するかではないか。

また、模倣要素が立場の交換を引き起こすのは、長義と国広の立場が実際に研究史の世界で逆転してしまっていることを考えれば想像に難くない。

模倣。何かを真似ること、倣い、習うことは逆転の始まり。

「刀身御供」という概念は模倣要素が絡むこと、姫鶴・後家のこの回想の直後が後家と長義の桜梅であることなどから山姥切の本歌と写し的にもクソ重要な話だと思うので今後も注意してみていきたい要素です。

15.君を光で照らしたい

「影」の想いは愛するものを、ただ守りたい、傷つけたくない、というものだと結論しました。

それは「慈悲」の根幹であると。

では「光」の想いとは何か。

それは……愛するものを、真理と真実の光でただ照らしてあげたい、ということではないかと思います。

舞台や花丸のこれまでの長義くん考察からすれば、彼は写しである国広に俯いてほしいわけではなく、むしろ国広自身を誇ってほしいというのがどの作品の世界でも変わらない「山姥切長義」像だと思われます。

「般若(智慧)」の光。

その光で、照らしてあげたい。

自分は大した価値のあるものではないと、いつも俯いて、布で顔を隠してしまうお前を。

この辺はそれこそ慈伝の演出が丁寧ですよね。
俺なんかが相手で悪かったなと言う国広に、この本丸は良い本丸だと返す長義のやりとり。
だからこそ「まだ」認めるわけにはいかないと、認めたいからこそ戦いを挑んでいるという長義の意志がはっきりしている。

相手を認めているからこそ、その実力を自分で示してもらいたい。国広の価値を、国広以上に長義が知ってる。
正史のためなら元主だろうが自分自身だろうがなんでも否定しそうな長義の逸話を、多分長義以上に国広が守ろうとしているように。

長義は最初から言っていることがよくわからないと思われていたようですし、実際山姥切長義登場時点でその研究史をしっかり把握している人はいなかったようです。

そして長義登場で、むしろ国広の方がよくわからなくなったという意見も見かけます。

しかしまあ、色々考察した感じ、正直どっちもストレートに感情を表現しているわけではなく思惑をもって相手に接しているため、どちらもわかりにくい、が真実だと思います。

文章をただ追えばストレートに考えていることがわかるわけではなく、そもそも二振りの研究史からその言動から全てを一度理性で分析しなければ解答が出ないタイプの言動を両方がしている。

しかしある程度「光」と「影」の性質を理解してしまえば、お互いの言い分は決してわからないわけではない。

国広側の長義を守りたい想いもそうですが、長義側の想いが「光で照らしたい」になるのも、それこそ国広が自分を影に影に置こうとしているのを考えれば長義くんが持ってきたものは、一番国広に必要なものだよなと。

自分から影に身を徹してしまう子だからこそ、お前は影になんてならなくていいんだよと。
お前は俺の影じゃなく、お前自身をただ誇ればいいんだと。

けれど国広は背負ってしまう。本歌のために長義のために、自分自身でも自覚しないまま望んで背負っている。

その辺りがちょうど治金丸と千代金丸の関係性なんですよね……。
兄は決して弟を影だなんて思っていないのに、弟が兄を守りたいと、いっそ無邪気なほどに望んで背負ってしまう。
そしてそれに気づくのはもう一振りの兄である小さな花だと……。

離れ灯篭の歌詞は光に言及する長義パートから始まり、国広は風と影を歌う。

そして国広側の歌詞が明らかに光である長義の存在を意識したものである以上、長義側も一見そうは思えなくても国広側に最初から対応していると見たほうがいいと思います。

相手が影だからこそ、自分は光を放って照らしてやりたいのだと。
相手が光だからこそ、自分は影を貫いて守ってやりたいのだと。

離れ灯篭的に言うなら長義と国広の関係は最初からもう完全に完成しているような気もします。

それを知るのに、逆に長い長い道のりを辿らねばならない……。

シナリオの構造はもう本格的に、原作ゲームから派生まで全作品完全一致の同じ論理構造と見ていいと思います。
同じ話を何度も何度もぐるぐると繰り返している。

ならば何故違ったシナリオに見えるのか、メタファーは何でもいいのか、都合良く使っているのか、というとそういうわけでもなくてですね。

最近これに関して実感したのは、認識のカレイドスコープ……「万華鏡」の原理ですね。

私はとうらぶにこれまで実装された刀百振り以上(現時点で110振り)の研究史を一通り軽く調べたんですが、ちょこちょこ意識的に書き方を変えたり試行錯誤したのもあって、最初の方と最後の方だと随分内容に差ができてしまいました。

知識だけでなく形式も変更したのでそういう面も含めて最初の方の刀の研究史をまとめ直す作業に入ったところです。
(一応表面上100振り全部終わったのでかなりゆっくりやる予定ですが)

そうすると、その時はこれで十分だと思えた最初の方の刀の研究史が、今だとあれもこれもこの話も追加したい! ここはこうやってまとめたい! と色々出てきてしまいました。

一度自分で設定したはずの調査の合格ラインがどうして変わったのか。
それはやはり他の刀を調べたことによって、刀剣関係の知識が一回り充実したこと以外にないでしょう。

一度自分でこれでOKを出したはずの内容に自分でダメ出しをする。過去の自分を否定する。
けれど内容として物語は充実する。記述は増え、内容が整理され、出典情報が細かくなる。

なのでこのサイトの同じ名前の記事の内容が大幅に変更される。

変更があったのは刀の情報に違いが出来たからか? この一年で研究史に動きがあったからか?

否。

ほとんどの刀剣の研究史はたった一年でそう大きく動いたりはしない。

変わったのは私、私だ。

私が変わったから認識が変わる。認識が変わったから物語が変わる。サイトの記述を変える。

刀は何も変わっていない。変わったのは自分。だから世界が違って見える。

この感覚を何に例えようかで咄嗟に思い浮かんだのが「万華鏡」でした。

カレイドスコープこと万華鏡の原理は、三角形に鏡を張り合わせた筒の中にビーズなどの封入物を入れて閉じると、筒を回した際に見える模様が様々に変化するというものです。

(世の中には万華鏡を簡単に作る方法を紹介している面白いサイトがいっぱいあります)

レンズを通して見る模様は、鏡の反射によってつくられている像です。
筒を回すとその像が変わる。見える模様が全然違ったものになる。

けれど、たとえ見える模様が変わったとしても、中の封入物に違いはない。

中に入っているものは最初から変わらないのです。けれど鏡による光の反射によりまったく別のものが見える。

同じ調査を繰り返すことで得られる認識の変化は、この万華鏡の仕組みのようだと思いました。

相手は変わっていない。中身は変わっていない。でも筒を回すことを覚えればまた一瞬前とは違った模様が映る。
世界は自分の認識でできている、という仏教の唯識のような構造。
自分が変われば世界が変わる。

とうらぶの構造もこの「万華鏡」のような構造と呼んでいいと思います。

刀剣たちの回想は決して絶対に内容を想像できないような刀本体に何も関係のない明後日な会話というわけではなく、その刀の研究史や刀の所有者の歴史を知っていればなんとなくここはこうかな、と連想できる範囲です。

情報は最初からそこに在る。
けれど物語という名の筒を回せばメタファーの鏡像は一瞬前とは別の組み合わせによる別の模様を見せる。

そのように一振りの刀剣男士に無数に込められたメタファーが認識という鏡を通して原作の第一節目、第二節目、それぞれの派生作品によって、同じ構造、同じ内容物をまったく別の話のように見せる構造だと思います。

刀剣男士それぞれの事情が、表面をなぞるだけの人よりも深く調べて理解しようとした人の方が途中で混乱をきたしやすいのもこれでしょうね。
鏡像のメタファーの無限の連なりは美しい模様を描いているけれど、それを理屈に直すタイプはこの無限の華物語の限界が見えなくて途中で演算が追い付かなくなるんでしょう。

(慈伝の舞台見て頭パーンした人の経験談)

それでもある程度理屈に直した方が理解しやすい時はあるもので、そういうタイプを自負する人間として今回のまとめとしてこれを突っ込んでおきたいと思います。

これまで、とうらぶとしてはどの言葉にも良い意味と悪い意味があるという二面性についてさんざん触れてきました。

だとしたらやはり――「偽物」も最初から二重の意味があることが大前提と結論して良い。

これまでは良いだろう、という仮説の状態でしたが最近言葉遊び要素が煮詰まってきて、原作と派生の相関にもはや疑いなしというところまでは構造が見えてきたのもあって、ここはもう断言していいと思います。

「偽物」。

「人」の「為」の「物」。

愛を語るのに憎しみに触れずにはいられないように、「偽物」について語るならそれを分解した「人」の「為」の「物」にもむしろきちんと触れなければならないんだと思います。

最初にこの可能性に言及した悲伝のシナリオがやっぱりわかりやすかったんじゃないでしょうか。

足利義輝は三日月を死出の使い「不如帰」と呼んだ。

しかし彼の辞世の句に他でもない「不如帰」が登場することを想うなら、その名は円環に縛り付ける呪いだけではなく、彼の刀の物語、三日月宗近への限りない「愛」でできている。

我が名をあげよ 雲の上まで

三日月、他でもないお前にあの空の向こうへ、永禄の変の向こうへ連れて行ってほしいと。
自分を救えるのは、自分の刀であるお前だろうと……。

長義が国広に呼び掛ける「偽物」もこれと同じ意味でしょう。
つまり私みたいに派生ガン無視で原作だけやってる人じゃなく最初から舞台見てたら秒で答出たなこれ(澄んだ目)。

「偽物」だと言いながら結局は求めている。
「偽物」がいれば自分が「本物」になれるから? いや……

「人」の「為」の「物」――お前がいるから俺は「本歌」になれる。

天伝で一期一振が兄という立場と関係性から自己を認識していたように、長義は多分関係性から自分を定義している側面が強いと思われます。

「本歌」は写しがいるから存在する呼称。
名刀には己単体の評価でなれるかもしれないが、写しが存在しなければ本歌にはなれない。

そこに重きを置いているからこそ、「偽物」の呼び名なのではないか。

お前は「偽物」なのか。それとも「人」の「為」の「物」――俺の写しなのか。

そして流れ的にはどうあっても、国広側は一度はこの縁を否定しなければいけない。
「鵺」はある意味三日月との同化の道を捨てたことで「時鳥」として確立することができた。

元々が別の存在である国広・長義も一度は相手との縁を否定して、自分一振りで自分を見つめなおさなければ真の意味で己を確立できない。

永い、永い道のりですね。

メタファーの連続をくるくると、万華鏡を回すように覗き込んで廻り廻り、答にたどり着くまでにそれこそ何度でも同じ円環を廻らなければならない。
けれど廻るたびに物語はやはり力になる。

光も影も最初からそこにある。そして最初から同じものである。

そこに気づくのに、永遠とも思える円環を繰り返さねばならない……。

敵が深化していく自分自身ならば、その敵を斬って統合すればゴール。
だとしたらやはり魔王は最初から自分自身。

記憶のない前世できっと誰かと殺し合い食らい合っている。けれどそれは自然の摂理そのもの。
否定されるべき歴史はどこにもない。最初からきっとすべて正しい。

その答えを探し続ける。滅亡と輪廻を繰り返しながら、その円環を抜けるまで。

そういう話だと思います。

以上、原作ゲームと舞台の慈伝の後、維伝から綺伝までと花丸雪の巻とミュージカルは阿津賀志山だけ見ての考察はここまで。

さすがに次は他の派生の情報を摂取してから出したいです。