映画花丸考 1.鬼斬り逸話とにせものの名前

花丸映画三作見ました

ようやく派生を追加で摂取したよ!

もう派生は全部相関関係にあるでしょうってスタンスでいくので過去記事を読んでいないとわからない話を続けます。

とりあえず体力的に無理のない摂取範囲ということで花丸の映画版を見てみました。

これまでおもに雪の巻のコミカライズを参考にしてたから映画版と結構違うなと。

映画にしかない情報もあるけど長義くんに関してはコミカライズにしかない描写があって結構補足されているので正直花丸そのものの考察はかなり難易度が上がりました。

とうらぶジャンル全体の考察に関しては登場キャラが多くどういうメタファーを背負っているのか比較的わかりやすいような気もしないでもない。
ここで花丸のおかげでわかりやすくなったよ! と言い切れるなら文句なしに褒めちぎっても良かったんですが、内容としては長義くんの内面が補足されてるコミカライズの方が自然でここをカットするって逆にどこに比重が置かれているんだろうとわからなくなってしまったので難しい。

これは自分の方も段階的に頭を整理していかないと結論にたどり着けないかもしれないということでこの記事のタイトルが最初から1になっています。

とりあえず考えやすいところからまず情報を整理して、それでも残った部分は映画版以外の花丸も見たり他の派生にヒントがないか探したりで地道に埋めていくしかないかと。

1.対大侵寇相当のラスト

花丸映画版やっと見たけど、これ、内容から言って花丸は原作ゲームと同じく第一節終了ってことだろうな。
だからいったん完結扱いなんだと思う。

(花丸がここで完結というのは2024年1月13日に配信された9周年記念番組情報。
2月6日まで配信ってなってたからその日付過ぎたら見れるかどうかわからない)

審神者が「犬神の呪い」で悪夢に倒れるイベントは、原作ゲームで言うところの対大侵寇防人作戦と同一の話と考えていいと思います。

その場合特命調査が終わっていないので一見原作ゲームとタイミングがずれているように見えますが、もともととうらぶに関しては原作からまずここを一区切りとして次の展開を始めます的な綺麗な区切りではなく、ちょっとずつ要素をずらしながらターニングポイントをぶちこんでくる構造だと言えます。

現在でしたら特命調査が第一節と違うタイミングで復刻しだしたその2つ目の直前に新たな合戦場として異去を実装したりしています。

舞台の方を見ると特命調査の始まり・聚楽第(ダイジェスト)が含まれる慈伝はその前の悲伝を受けてのエピローグ兼プロローグ的構成。

この舞台の構成と比較すると次の予想を立てやすいと思います。

花丸がここまでの話で触れなかった特命調査は慶長熊本と慶応甲府。

花丸の場合は安定・清光が主人公だから、第二節の頭は前半に元主のために相方の古今を裏切った地蔵くんの話をやって、後半で清光メイン御前登場の慶応甲府になると予想。

花丸の場合はもともと聚楽第も天保江戸もとばしてますから、慶長熊本をやらずに本丸に地蔵と古今が来たところから始めてもおかしくないですしね。

加州主人公だからさすがに慶応甲府はやると思いたいんですが、逆に予想に反して慶長熊本をしっかりやって慶応甲府をとばしたらぶったまげますね……ありそうだな!(おーい)

どちらにせよ、いったん完結ということは現段階ではプロジェクトが動いていないってことでしょうから考えるだけ無駄と言えば無駄なんですけど。

2.クソの話(通算4度目?)

そういえばクソの話!(通算4度目)

花丸見てて気づいたけどクソ発言はこれまで食った側の台詞だと思ってたんだけど、花丸で長義くんのクソが使われていたタイミングからすると、食われる側が言うのかこれ。今までの理解と逆だた。

そうすると長義くんに関しては破壊ボイスの意味がはっきりするなぁ。

「斬られ殺される」は「物語を食われる」にやっぱり等しく、敵に食われるからこそ破壊ボイスはクソクソなんだろうあれ。

戦いでの敗北は遡行軍側に「食われた」ってことなんだろう。
他の子の破壊ボイスもこの路線で解釈できそう。

天伝で最後に家康がクソをもらすところだった云々言ってたのは、加州の説得に呑まれて結論を譲ったからだろう。
ここで加州を食うんじゃなく言い負けて食われるところだった家康がクソ言うのはあれ? ってなってたので食われる側がクソクソ言うとなったらこっちは納得いきました。

ただそう考えるとそれはそれで、天伝は本来正史で勝つはずの家康が物語として冒頭からわざと豊臣に食われに行こうとしているってことになるのでえええええって頭を抱える。食う意欲じゃなくて食われる意欲ぅ――!?

しかし、家康に関してはえええええだけど慈伝で長義くんはやたらと国広を煽りに行ってたよね、まるで自分から食われたがっているみたいに、という方向性とはぴったり一致してしまう。

原作は元から判断が難しいところに、花丸は敵の攻撃をくらって負傷した時に長義くんが口にする、舞台は天伝の家康が加州の説得を受け入れた時に言う、という派生での一貫性を考えると「クソは食われる側の台詞」という結論でファイナルアンサーしてもいいかなと思います。

メタファーの解釈はもっと5W1Hを丁寧にやれ! ってことですね。ぐえー!
いつどこで誰が何を何故どのように言ったかシチュエーション別にもっと細かく整理しろー!

しかしクソ発言。

この解釈になると、山姥切の本歌と写しは原作からもう完全に手遅れでは。

原作ゲームだと国広は極修行手紙2通目の時点で本科の存在感を食ってしまったようなものだとは確かに言っていたんですが、その後の3通目で自分にも長義にも両方逸話があるという結論になってきたはずなんですけどね……。

つまり、修行手紙2通目から3通目までの国広の悩みは無駄だったということになるのかこれ……。

「今」、どれだけ悩もうが、修行に行った「過去」で得た認識が「本科の存在感を食った」である以上、山姥切国広は本歌・山姥切長義を食い殺している。

どう足掻いても原作から派生まで登場作品全てでお前らには「物語」的に殺し合いをしてもらいます、状態だわこれ……花丸は話で解決(に表面上は見える)するけど舞台は話の性質上、どう足掻いても国広が長義を直接殺すことになるよねこれ……。

いっそ維伝からさんざん丁寧に敷いてる地獄フラグをきっちり回収しつつそれでも全部守り通すぜルートだとスタオベしますが、もともと舞台のシナリオ、たぶん20年そこらで終わるとは思えない規模なところに9周年で原作はやっぱり超長期運営路線だったんだなって情報が重なったので望み薄。

3.メタファーの段階性、食事とおやつ

クソに関しては前回の考察でちょっと書き落したけど、食う食われるクソと言った人体機能へのなぞらえはかなり丁寧にやってるよねって。

人体機能だけじゃなく月が昇る日が沈むの天文系や、花が咲く花が散るみたいな自然のなぞらえ全部、もともとの生態や物理法則や作用や摂理を丁寧になぞっていると思う。

このなぞらえの丁寧さから感じ取れることの一つは、メタファーの方向性の示唆。
物理法則というか自然の摂理と合致する方向で基本的に考えていく。

そしてもう一つは、メタファーを通して状態変化の段階性を描写しているということですね・

春の次は夏、夏の次は秋、秋の次は冬。
朝の次は昼、昼の次は夕方、夕方の次は夜。

そういう段階性がどんな事項にも存在するように見える。

ただこの場合、春だの朝だの花だの子どもだのは次の段階に多少予想もつきますが、「大小」「前後」みたいなメタファーの段階性を全て見抜くのは難しいと思われます。

とりあえず比較的わかりやすい自然法則系から、段階性がある、物語は段階的に発達していくことを念頭に置いては置きたいですが。

メタファーの整理を本格的にやる場合に、一度同系統のもので大別してから、さらに細分化して順番法則がありそうなものをシナリオに沿って並べ替える分析を延々としなきゃいけなくなる予感……というか悪寒。

一つ試しに考えてみますと、今年の2月から原作ゲームでどうやらバレンタインモチーフらしい新しいイベントが始まるようなんですが、そこで「菓子」「すいーつ(甘味)」系のメタファーの重要性を引き上げたほうが良い気がしてきました。

それこそ今回のメイン、花丸の話で言うと、長義くんが江戸への出陣でいろいろやらかした後に各所に「菓子折り」持って謝りに行ったらしいよと安定たちが話しているシーンがあります。あとはかき氷とかバウムクーヘンとか。

舞台だと菓子、甘味系は「おはぎ」が多用されていると思います。私が知るだけでも慈伝維伝夢語と3作品も出てきます。

また、菓子に関しては原作ゲームだと、派生とのコラボ記念アイテムが花丸もなかだったり実写映画が抹茶ラテアートで飲み物とスイーツの中間っぽいアイテムだったりします。

原作に元からある要素だと、「兎追いし団子の里」と疲労回復アイテムの「一口団子」が縁深いです。

この疲労イベ、前回の考察で治金丸の回想を通して「疲労」と「影」の発生が結びついているよねって分析をやった後だと何か引っかかりませんか……?

「疲労」回復アイテムは一口団子という「菓子(甘味・すいーつ)」

大型アップデートによる疲労困憊の導入、異去実装により存在を示された戦鬼という新たな鬼、そして予定表に予告されている次の新イベントは「戦術強化訓練 ~ちよこ大作戦~」。

「ちよこ」という言葉からおそらくバレンタインモチーフと思われるイベント、つまり菓子とか甘味とかすいーつとか要はおやつ関連ですよね。

そこに「戦術強化訓練」という単語が結びついているカオスです。

「戦術強化訓練」という名前は「戦力拡充計画」と対になっていると思われます。

戦力と戦術。
力と頭脳。

……舞台で国広が圧倒的な力、長義くんが戦術勝ちで6対1にもっていった構図が気になります。

戦術は戦力の対極にあり、そこに必要なものは食事というよりおやつ、ちよこというすいーつ、菓子なのだと。

もともと戦闘をこなせばこなすほど経験値を得て強くなるとはいうものの、出撃のたびに気力が減り疲労が溜まるというシステムだった。

疲労を回復する手段こそが一口団子に代表される菓子、甘味。

食べて(戦闘)は疲れ、その回復に菓子(一口団子など)を食べてまた戦う。

食べて(戦闘)は疲れ、「影」が生み出される。

この相関を考えると「戦術強化訓練」は要は「影」対策なのではないかと思われる。

とりあえずここから察せられるメタファーの段階性として、「力」関係が来たらその次は「知」や「術」に属する要素。
食事関係の次は、菓子・甘味関係の要素が来るものと思われます。

ご飯の次の段階がおやつが一般的かどうかはともかく、とうらぶ内のメタファーの段階としては食事(疲労)回復におやつ(一口団子)という図式は前々からあったので、それが「ちよこ」に替わっただけとも言える。

「ちよこ」は「ちよこ」で漢字で書くと「猪古令糖」「貯古齢糖」「千代古齢糖」の当て字があり、いままでのような「団子」ではなく「戦術強化訓練」は「ちよこ」ではないといけない理由は理由でまた個別にあると推測されます。

まぁ、原作のこれからのことはこれから考えることにして、今はおもに花丸が代表するメタファーについて考えたいと思います。

4.菓子と謝る

「菓子」に関しては上でやったとも言えますが、まだまだ中途半端です。

小豆さんいわくの「すいーつ」系のものは個別の意味も考える方が必要がありそうですが、「菓子」は「菓子」で字を見ると意味がありそうです。

草に果物の子ですからね……。植物関係かつ子の字がつくので重要そう。
ただ今のところそれ以上の思考は深められそうにない。もうちょい情報欲しい。

その「菓子」と一緒に出てくることもあるメタファーのうちの一つに「謝る」があるとも思います。

それが雪の巻で長義くんが菓子折り持って謝りに行ったらしい(と加州たちが話しているシーン)あたりの意味だと。

映画では「謝る」「謝れば」という表現が頻発したこと、そして口ではそういう割に実際に謝ることの重要性を描かれたシーンが「ない」ことから、ここの「謝る」はただのメタファーの強調、読解のヒント要素だと考えられます。

これ、思い返すと映画当時の審神者たちの反応で突っ込まれててちょっと気になった部分だよな。
雪の巻見に行くかどうか迷っていて他の人の感想漁ってた時に、謝ることがどうのって気にしていた人が何人かいたのはこれだったのか。

雪の巻内の「謝る」に関しては静と小夜ちゃんの方で違和感を結構的確に指摘していたような人がいたような。

静形と小夜のやりとりは、そもそも静形だけがそんなに気にするようなものなのか、と。

小夜や安定が箒や雑巾を取りに行くのは成長の証という対比ではないかとか。

改めて自分の目でチェックした感じ、
そもそも静形が「大きく力のあるものは小さいものを~」という話を始めているので「大小」というメタファー、

小夜が持っていた花瓶が割れる、しかもこの割れた花瓶に花が活けてあるというアイテムは映画ラストの華の巻で審神者の夢の中にも出てきたことから花とそれを活けていた花瓶が割れることというメタファー、

片づけのための箒はまだよくわかりませんがぞうきんという「布」はとうらぶ内のあらゆる場面で使われているメタファーであること、

などを考えると、ここで動揺する静形に清光が「お互い様だし気にしなくていいと思うけど」と前置きした後で「普通に謝ればいいじゃない」と助言していること含めてすべてメタファーだと思われます。

もう全部メタファー!!(でも基本とうらぶってそういう作りだし)

そもそも静も小夜も最初にぶつかったときに「すまない」「すみません」とお互いに謝罪の言葉を述べているので、それだけ見てもここの主題は明らかに、言葉で謝ることの重要性ではないと言えます。

そして文久土佐出陣の後、改めて謝る静形に小夜が言ったのは自分は「花ははじめ小さくて弱いものだと思っていました(中略)触れたことで花はこんなに強いものだったんだってわかったんです」ということでした。

作品の主題として重きを置かれているのは小夜のこの説明のほうですね。

ここまでの考察としてそもそもの「花」のメタファーの意味はおそらく「物語」だと思われます。

華の巻の審神者の夢の中に割れた花器に活けられた花があるところを見ても、小夜が運んでいた花瓶は本丸と言う物語の比喩でしょう。

それを静形が「大」きなものである自分が壊してしまった、小夜もその花器も「小」さなものを傷つけてしまったと思い込んでいることが事態の原因で、それに対して提示された小さなものこと小夜からの解決法が、「花はこんなに強いもの」だというものです。

……というわけで、まず注目しなければならないのは、そもそも謝ることが事態の直接の解決にはなっていないことですね。行動の切っ掛けではありますがそれだけです。

長義くんの菓子折りにしろ、小夜と静のこのやりとりにしろ、謝る謝らないのやりとりに反応する人とというのは、謝るという行為に関して真剣に捉えていて、だからこそ謝らなければならない場面ではしっかり謝るべきだし、謝ったらそれは報われてほしい、謝ることで事態が解決してほしいと考えている。

あるいは謝るということはそれだけ重要なことなんだから、謝るということは悪い事態が発生しているということである、そんな事態をそもそも発生させないでほしい、という考えが根本にあると思います。

ただ花丸のこの描写を見る限り、そもそも「謝る」はただ単にそういうメタファーってだけでシナリオとしては謝ることに特別な意味はなんらこめられていませんね、これ。

謝ることに本当に重きを感じている作者がそういう作品を書いたのなら、謝るシーンそのものやその謝罪によって事態が解決し、登場人物たちが前に進めるようになったことや、作品テーマにとってはその逆など、どちらにしろ謝罪の前後状況とその結果と影響まできちんと描写されるはずです。

しかし長義くんが菓子折り持って謝りにいったよ~のシーンは安定と清光がそういう会話をしているだけで、実際にそういうことを長義くんがしている描写は描かれずに台詞だけでさらっと流されるような軽い扱いです。

そもそもそのシーン、私は映画の方を見て初めて知ったぐらいで、コミカライズ版だとカットされています。情報としてはもともとさして重要ではないという判断なんでしょう。

静と小夜のシーンも重要なのは謝るとかそういうことよりも、一見かよわげに見える花はこんなにも強いものという結論の方なので、妥当だと思います。

長義くんの菓子折りの件と静の悩みで「謝る」という表現事態が連続したので「謝る」自体もメタファーだとは思うのですが、どういう意味があるのかは正直よくわかりません。

あるいはそれそのものより次の単語を導き出す枕詞的なものかもしれませんが今一つ判然としない。

部首単位で分解すると「言」で「射」るので非常に意味深です。

今後同じメタファーが重視されている場面、作品がないか気にかけていきたいところです。

5.鬼斬りの逸話と広義の「にせもの」にまつわる名称の相関

そろそろ今回のハイライトに行きましょう。

花丸映画版3作通して見た事により、鬼斬り(源氏兄弟)の名前と逸話、鬼女斬り(山姥切)の名前と逸話、そして虎徹の贋作と名前の問題に連続性があるような気がしてきました。

大前提として、これまで舞台・花丸を通した山姥切の本歌と写しの考察により、「そもそも国広は何故長義にどう呼んでほしいか希望を出さないのか?」とさんざん突っ込んできたという問題があります。

今回の映画の冒頭は時系列をいじる構成であり、長義と国広に関して本丸での邂逅の場面より先に、畑当番の場面を通して

「じゃあなんと呼べばいい?」

という名前の問題を挟んでいます。

長義と国広、山姥切の本歌と写しの号の問題に関してはそもそもどこに根元があってどんな事態を引き起こし、何をすれば解決なのかという道筋が原作ゲームから派生作品まで見てもおそらく描かれていない、という事実があります。

長義は舞台では同田貫を通して間接的に、花丸では国広に面と向かって直截的に、「なんと呼べばいい」かを尋ねています。

国広側が「偽物くん」の呼称を嫌がるなら、ここで「○○と呼んでほしい」と言えば傍目にはそこで問題が解決しそうなものです。

しかし、国広はそこで答えない。

何故答えないのか。……それとも、「答えられない」のか?

二次創作で山姥切問題を考える人々は長義側が妥協して偽物以外の呼称で呼ぶことや、偽物呼びでも本歌からの特別な呼び方だから喜ぶ国広など、様々なパターンを考えて暫定的にここの結論を出した作品が多数あると思います。

しかし舞台と花丸、少なくとも二つの公式作品による解答が

・長義はそもそも国広を「なんと呼べばいいか」をちゃんと聞く
・国広は長義に「どう呼んでほしいか」を何故か答えない

という、一番不自然なものでした。

単に長義が国広に敵意を持っているとか嫌な奴であるとかいうのなら、そもそもなんと呼ばれたいかなど尋ねずに国広が嫌がる名前で一方的にずっと呼び続けるでしょう。

単に国広が偽物と言う呼称を心の底から嫌がっているなら、自分の名はこうだこう呼べと、そもそも問われなくとも主張するでしょうし、問われたなら尚更そこではっきりと答えるでしょう。

しかし実際の答はどちらとも違う。

そう考えると、我々プレイヤー側の推測と違って、実際のとうらぶのシナリオにおいてこの呼称問題という現象はずっと複雑な性質を持っていることがはっきりしてきました。

そしてどうやらこの構造を解くカギは、山姥切の二振りだけでなく、同じように呼称問題をはらむ他の刀たちの在り方にどうやらヒントがあったようです。

・源氏兄弟
・虎徹と清磨

髭切、膝丸に関しては言われてみれば原作から髭切が膝丸の名前を忘れているのでそうですが、虎徹兄弟に関しては花丸のおかげで浮き彫りになったと思います。

長曽祢さんと清麿の会話はネタとしては原作ゲームでも回想其の75『名を分かつ』として存在しますが、あれが長曽祢さん側がそもそも清麿の前で自分の名を名乗れないというものであることを説明してくれているのが花丸です。

(原作回想だと長曽祢さんは多少気まずげでもきちんと自分だけの力で名乗っている)

原作ゲームと花丸の差異が存在することにより、あの回想の意味がよりはっきりしてきたような気がします。

◇ 源氏兄弟、髭切と膝丸の関係性

・髭切は弟の名を呼べない(本丸でのボイスで名前をど忘れしたと言う)
・膝丸は自分の名は膝丸だとはっきり主張している

◇ 山姥切の本歌と写し、長義と国広の関係性

・長義は自分の写しである国広を「偽物くん」と呼ぶ
・国広は偽物の呼称は基本拒否するが、本歌である長義に何故か自分をこう呼んでほしいと主張しない

◇ 虎徹兄弟と源清麿の関係性

・長曽祢虎徹は源清麿に対し原作ゲームだと気まずげに自分は虎徹だと名乗る
(花丸では蜂須賀に発破をかけられる)

・源清麿は長曽祢虎徹が清麿ではなく虎徹を名乗ることに肯定的である
「そうすることで、君と僕は別の刀剣男士でいられるんだ」(回想其の75『名を分かつ』)

三陣営三様の呼称問題ですが、鬼斬り刀たちより最後の虎徹の贋作とその大元である清麿の話は若干性格が違います。ただそれも含めて考えたいと思います。

髭切は何故弟の名を忘れ、呼ぶことができないのか。
国広は何故、こう呼んでほしいと己の名を主張できないのか。

源氏兄弟と山姥切の本歌と写しがどうにも自身の力で解決できなさそうな謎の力の干渉を受けていそうなところと比較すると、長曽祢さんが贋作として別の名を名乗ることに、もとの刀工の刀である清麿の前だと負い目を感じることには普通に心情の問題だけとして説明がつきます。

一応国広も複雑な内面を想定すれば気分問題だけで説明をつけることも可能だと思いますが、髭切が弟の名前だけ度忘れするという現象はどう考えても不自然ですので、いろいろとグレーな国広の内面を無理やり現実的な尺度に落とし込むよりは、むしろ長曽祢さんまで含む「真偽問題と呼称問題」としてくくってしまった方がいいかなと思います。

本物と偽物。

この「偽物」発現に関する問題はおもに山姥切国広を中心に本歌である山姥切長義が登場する前も登場してからも、あらゆる観点から色々な人が考えていると思います。

中には虎徹の贋作問題とその拒絶の例として、長曽根さんと蜂須賀の関係と比較して考えられる場合もあります。

話の観点が多すぎてややこしいことになっていますが、一応刀剣の大前提から行くとそもそも写しと贋作はまったく別物ですので、これを両者一緒くたには語りません。

概念が違うことと写しとして打たれたものを贋作として悪用する犯罪者は現に存在するという話題を含むとややこしいんですが、普通は両者は別々の話題です。

ただし、とうらぶにおいて「偽物(にせもの)」と「贋作」が区別されているかという問題に関しては、更に複雑でややこしいです。

単純に公式が両者の概念をどう扱っているかという問題で、まず二つの区別はもともとしっかりつけています。それは作品から見れば明らかです。

では、その公式が「偽物」と「贋作」を同列に語っているかという問題に関しては、メタファーにおいてこの両者の性質を一緒くたに語っている感はあります。

我々プレイヤー側、特に刀剣の知識をしっかりつけなければと考えて調べる審神者からすれば「写し」と「贋作」はまったく別物であり、「贋作」は「偽物(ぎぶつ)」とも呼ばれるややこしさはありますがこれらはしっかり区別すべき、という結論に落ち着くのが当然なのですが、

物語を読解するために要素を整理していった際に山姥切の号と逸話の真偽問題と虎徹の真贋問題は同列に扱われているかと問われれば、これは同列に扱っているように見えます。

つまり、知識として考えると本歌と写しの号と逸話の「偽物」問題と虎徹の真作と贋作問題は区別すべきなのですが、物語解釈としては一緒に考えなければなりません。

そして何故そうなるのか、に一つの解を与えるのが今回の映画版花丸、おもに「月の巻」でお出しされた源氏兄弟の名前の問題と、虎徹と清麿の名前問題の相関性だと思われます。

むしろこの源氏と贋作虎徹という一見違った二つの話題を結びつけるものこそが、両者の中間にあたる「鬼女斬りの号と逸話の真偽問題」を持つ山姥切の本歌と写しだと考えられます。

一番重要なのは、おそらく「髭切が膝丸の名を呼べないこと」ではないでしょうか。
他のものはまだ無理矢理納得できても、ここだけどんな視点から見ても現実的にはありえない不自然な現象ですから。
他のもの覚えてるのに弟の名前だけピンポイントで忘れるなんてありえないだろう。

後で詳しくやりますが、山姥切の二振りはそもそも他者・第三者が外から見て二振りの関係を冷静に定義しようという視点での情報がまず存在しないという問題があります。

一方、髭切・膝丸に関しては髭切が弟の名前を忘れていること、膝丸がその件で絶望するけどすぐに立ち直ることが二振りのボイスや刀帳説明や公式Twitterの紹介時点から明らかなので、これまでこの関係についてさほど問題視する意識自体が我々プレイヤー側になかったと思います。

山姥切に関しては二振りが不幸だと思うからある意味関心が集まっているわけで、その不幸の原因を名前に見るのか、それとも個々の本丸での扱いに見るのか、あるいはプレイヤー個人の所業などに見るのかで分かれますが、どちらにせよ「偽物」にまつわるあれこれが不幸なやりとりだと思っている人が多いからこそ、そこが特に問題視されます。

源氏兄弟に関してはその部分がコミカルな描かれ方で悲惨には見えないため、この問題について論文を書きましたとかTwitterで毎日考えてますとか考察10万字ほど書きましたとかそういう記事は見かけませんが……

……もしかして、この問題物凄く重要だったのでは?

髭切膝丸のファン界隈だけじゃなく、とうらぶ全体の鬼斬り(妖物斬り)関係の逸話を持つ刀にめちゃくちゃ関係ある話だったのでは?

むしろ、「名前」という問題において実はすべての刀に関係ある話だったのでは?

と、いう視点を与えてくれるのが花丸「月の巻」です。

「月の巻」……というか、「雪の巻」冒頭の豆まきのシーンからすでに髭切膝丸二振りのやりとりめちゃくちゃ意味深すぎるぅ――。

「鬼」「鬼斬り」がメタファーとして重要なことは、すでに色々な作品で強調されていますね。

私がこれまで見た派生の中だと舞台はめちゃくちゃこの「鬼」を強調し、さらにその「鬼」とは「花」を守ろうとするものであること、最終的にその「花」を守れないという悲劇性までセットの存在です。

しかも最近原作ゲームでも異去の敵に「戦鬼」という仮名が与えられるという展開があり、更に「鬼」というメタファーの存在の重要性が増しました。

ミュージカルはまだほとんど見ていないのでこれから見てチェックしますが、次回作が鬼退治伝説と縁深い坂上田村麻呂の話ということで、やはり「鬼」要素は含まれると思われます。

舞台の方は国広がほぼ主人公なので広義の鬼斬り刀が主役であり、しかもその国広は「朧」という分身を生み出したことにより鬼斬り刀が長義も合わせて維伝の時点ですでに三振り存在します。
しかも長義と国広が邂逅した慈伝からほぼ毎回「名前」にまつわる問題を「鬼」と「花」に絡めています。

これまで「何故そう呼ぶのか、本当にそう呼びたいのか」「本当はどう名乗り、なんと呼ばれたいのか」という疑問点は山姥切の本歌と写しだけで考えていましたが、花丸「月の巻」で源氏兄弟、さらに虎徹と清麿の関係に言及が入ったので、むしろこの三陣営を比較したほうがいいと思われます。

◇ 源氏兄弟、髭切と膝丸の関係性

・髭切は弟の名を呼べない
・膝丸は自分の名は膝丸だとはっきり主張している

◇ 山姥切の本歌と写し、長義と国広の関係性

・長義は自分の写しである国広を「偽物くん」と呼ぶ、同時に国広にどう呼ばれたいかを尋ねる
・国広は本歌である長義に何故か自分をこう呼んでほしいと主張できない

◇ 虎徹兄弟と源清麿の関係性

・長曽祢虎徹は源清麿に対し、花丸ではなかなか自分の名を名乗れない
・蜂須賀虎徹は長曽祢虎徹に対し、俺は認めていないが浦島はお前を認めているのだから堂々と虎徹を名乗れと発破をかける
・源清麿は長曽祢虎徹が清麿ではなく虎徹を名乗ることに肯定的である

これだけ見ると髭切が弟の名を呼べないのは髭切の方の問題で、国広が自分がどう呼ばれたいか主張できないのは国広の問題と見えるようなんですが、ここで刀剣そのものの研究史という、最も重要な話を踏まえながらチェックしていくとまた意味合いが関わります。

「雪の巻」冒頭の台詞で膝丸が「鬼を倒すべきは兄者なのに」と言っていますが、研究史的な問題から言うとこれは変です。

一般的に膝丸と同一視される薄緑、というか源義経の刀には「鬼斬り(姫斬り)」の逸話が存在するからです。

「膝丸」という名前のベースは『剣巻』だと考えられますが、『曽我物語』の義経の刀は宇治の橋姫(嫉妬のあまり生きながら鬼となった女性)を斬ったことにより「姫斬り」と呼ばれています。

というかまぁざっくり言うと、この『曽我物語』の存在により髭切と膝丸は一部逸話が混在してめちゃくちゃややこしいことになっています。膝丸はどちらかというとその名前じゃなく、源氏の重宝のうち義経の手に渡った刀として判断されていることが多いので。

これに関してはもう各自髭切・膝丸の研究史を見てご確認ください。

そういうわけで、このように「鬼」、とくに「鬼女」を斬った逸話が混在して兄と弟の両方にあると考えると、山の鬼女とも言われる「山姥切」の逸話と号が両方にある長義・国広の問題とかなり要素が似通ってきます。

そうなると、髭切が膝丸の名を呼べないと言う状況は、本当に髭切だけがおかしいのか? という疑問が生まれる。

鬼斬りの逸話が兄だけにあると思っている膝丸にも、本当は膝丸自身も知らない要素が何かあるのではないか?

どちらにしろ、いくら名前などどうでもいいと言いつつ、髭切は何故膝丸の名を呼べないのか。
本当にどうでもよかったなら、むしろなんとでも言えるのではないか?

改めて考えると源氏兄弟の名前をめぐる在り方はそもそもかなり不自然であり、この点を浮き彫りにしたのが今回の花丸映画です。

「月の巻」を考えると、この関係にはさらに、もう一振りの鬼斬り刀である鬼丸国綱が絡むことによってますます意味深な様相を呈してきます。

髭切は『太平記』では「鬼切と鬼丸」として、どちらかというと鬼丸さんとセットの存在です。

舞台と比較すると鬼斬り刀がもともとセット的存在で名前をめぐって合流したり統合したり分離したりという関係性があるようです。

とりあえずここでは「源氏(鬼斬り)」「山姥切(鬼女斬り)」「虎徹」の名称問題の方を考えたいと思います。

源氏兄弟の鬼斬り刀としての逸話の否定や肯定、名前の忘却や主張、鬼丸というもう一振りの鬼斬り刀との対関係などが山姥切の本歌と写しの問題に酷似していることはこうやって確認できました。

では、虎徹問題の方はどうでしょうか。

虎徹は私の知る限りでは鬼斬りとはまったく関係のない刀だと思います。
一応まだ実装されていない刀の中に風雷神の彫物があったり間接的に関係があるかもしれない、いやないことがなくもなくもないかもしれない、ぐらいの刀はあるかもしれませんが、ダイレクトに鬼斬りと関係のある刀はたぶんない? と思います。

虎徹に関しては最近原作ゲームで「虎」のメタファーの意味がどうやら「あこがれ」だと開示されたのが関係あるのではないかと思います。

「虎」という「あこがれ」を肯定した結果、本当の名前を失った。

それが「長曽祢虎徹(源清麿)」ではないか。

けれどそれが自分の物語なら堂々と名乗れと。

近藤勇の虎徹の研究史は正直めっちゃめんどくさいんですが、とうらぶの長曽祢さんに関しては元がややこしい分、ベースは源清麿の刀に偽銘を切られて長曽祢虎徹になった話からあんまり動かない気がするのでそれを基準と考えたいと思います。

贋作として一つの物語が完成している。そこから結論が動かない。
だからこそ、彼が名乗る名は「虎徹」か「清麿」のどちらかでしかなく、そして彼は「虎徹」を選ぶ。

「虎(憧れ)」に「徹」す。

そして源清麿はその選択を肯定し、分離を受容する。

「そうすることで、君と僕は別の刀剣男士でいられるんだ」

(回想其の75『名を分かつ』)

発端は源氏の鬼斬りの逸話の混在、中間は山姥切の号の真偽選択、そして「にせもの」の物語の完成は「虎に徹す」。

刀本来の名前ではなく、上に被さる史実に即さない物語の名としての完成。

花丸の描写だと三陣営にこうした連続性があるように感じられます。

原作ゲームでは一緒くたにお出しされているので別々の問題として相関性が無視されてきただけで、これらの刀の物語はそれぞれ段階の違う一つのテーマとして連続性でとらえ、円環構造の相関を理解すべきものなのかもしれない。

6.山姥切国広とフラワーロック

映画版じゃなくて花丸本編の方ですが、買い物回で国広がフラワーロック買ってるのを見てこいつまた「花」に執着してるな……と思いました。

舞台では信繁と秀頼やら忠興ガラシャ夫妻やらのメタファーを通して国広が「花」に執着していること、その「花」が指すのはおそらく長義だろうということまで描かれていると思うんですが、

厳密に考えると国広の執着対象は何か?

対象が「長義」であって、その長義が桜花を中心とした花に例えられるから重要なのか?
対象は「花」であって、舞台ではそこに本歌の長義との関係にまつわる事柄を被せて中心的に描いているのか?

花丸のフラワーロックの件を合わせて考えると、後者でほぼ確定ですね。

そもそも国広が「花」に執着しているというメタファーが作品の根底にあって、それに被さる要素が本歌の長義って感じかなと。

フラワーロック。歌う花。つまり本歌。

(ついでにフラワーロックそのものを検索してその歴史を色々調べると興味深い。タカラトミー製で元ネタあり……)

ただし何度も言いますが、刀剣本体は長義の写しが国広ですが、「山姥切の号と逸話」に関しては国広の逸話が伝聞変容した挙句の事実誤認で長義の逸話が誕生した形ですので、逸話だけなら国広が本歌、長義が写し。

だから国広が本歌に執着しているという文脈だけ存在する場合、その本歌が長義の存在そのものか、国広自身の忘れられた逸話の方かはわからない。

ただ舞台の綺伝で「花」であるガラシャ様が自分を守ろうとする地蔵くんに「あなたが囚われているのは自分自身の物語」というようなことを言っていたことから考えると、そもそもその二つは分かちがたいものだと考えられます。

国広は基本的に長義の存在に何らかの執着を見せますが、長義を通して本当に望んでいるのは自分自身の物語、という構造になっていると思います。

これに関して花丸のフラワーロック購入回から考えると、フラワーロックを手に取る前に漫画版だと三種類の布をまとうコマが挟まれています。

花(百合)柄の布。
動物(ヒョウ)柄の布。
果物(バナナ)柄の布。

それらの布から普段のボロ布にもどってやはりこれがお似合いだと言っているところに一緒に来たむっちゃんに写真を撮られ、帰る間際にフラワーロックと目が合って(?)「買ってほしいと言っているのか……!?」とフラワーロック購入。

そしてそのフラワーロックを本丸で見せている場面に移りますが、そこで何故かフラワーロックに自分と同じように布をまとわせています。

花、それも歌う花を求めておきながら、それにもやっぱり布を被せる……国広、お前……業が深い……!!
(考察を始めてから死ぬほど入れたツッコミ)

山姥切国広の「花」への執着が意味するものは何か。
「花」とはそもそも「物語」ではないのか。

「物語」、それも今のところ、憶測とか創作とか本丸での思い出とかそういう厳密にいうと史実以外の物語要素が強いと思われます。

舞台の方に関して言えば、だからこそそこに余計に長義の存在が強く結びついているとも言えます。

「山姥切長義」の名というのは、裏を返せば「写しだから号も本歌を写して山姥切国広」という国広自身の逸話のことを指しています。
だからこそ、その憶測から成長していく物語は「本丸の物語」と同質の「史実・正史以外に価値を持つ物語」として並ぶのだと思われます。

とはいえ物凄く根本的な話をすると、現在正史として扱われている物語自体もそんなに確定した揺るぎないものではなく、残っている確度の高い断片的な史料を憶測で繋ぎ合わせている面は否めず、正史と「されている」物語と、創作と「されている」物語にどこまで大きな違いがあるかは、話者や場面の想定によってわりと変化する時があります。

最終的には「史実とされている物語」と「創作とされている物語」は共に重要で、それらが統合・混在しこれからも変容と発展を続けるものこそが本当の「歴史」という現実的な結論になりそうなんですが、その結論に至るまでは「史実とされている物語」と「創作とされている物語」は分けられると考えられます。

フラワーロックと山姥切国広の組み合わせで言うなら、そもそもの根源的な物語が「花」ことフラワーロックであり、それに「創作・憶測」という「布」をまとわせた姿こそ国広が認識している自分自身のような気もします。

これに関してはそもそも花丸国広と原作ゲームや舞台の国広の差異にどこまで言及していくかという細かい話になりますので、とりあえず今は雑に「国広と花(フラワーロック)」という話題だけ覚えておきたいと思います。

また、国広と花の組み合わせ以外に花丸で改めて気になったものなんですが、映画版で大般若さんの美術品好きに花丸はかなり言及しています。

「美」と「般若」という組み合わせ。

そのうち、「美」は確実に長義くんと縁深いメタファーです。

思うんですが、国広が「花」に執着するように、国広と対になっている長義くんもまた別のものに執着しているんじゃないでしょうか。

というか、そのメタファーの一つこそ「名」だという考察には異論はないと思われます。

山姥切長義が己の名に執着しているのは誰が見ても明らかです。

しかし、そもそも「山姥切長義」という名が「何」なのかというとそこが難しいというのもこれまでの議論の結果じゃないでしょうか。

徳美の論文をはじめとして、二振りの研究史からすれば長義にそもそも「山姥切」の号はない。

ここからストレートに考えると長義は正史ではなく創作に執着しているということになるのですが、しかしそれにしては監査官として元主の北条氏政でさえ正史でなければ些末なことと言い切る姿勢など、むしろ正史を守る意志が誰よりも強い刀剣男士としての姿を矛盾を引き起こします。

研究史の理解としては「山姥切長義」という名はどう考えても真実ではない。
しかし、「山姥切長義」が守るものは「己の山姥切の名」と「正史」である。

二次創作なんかだとこれを力技で解決するために最初の設定として提示された長義が山姥を斬った山姥切で国広はあくまでその写しであり山姥は斬っていないことを疑似的に正史扱い固定しようとしたり、あるいは「山姥切」の名は正史ではない、だから長義は不幸だいずれ極修行でそれを知って嘆くことになる、というような推測や試行錯誤が重ねられてきました。

が、派生作品の長義と国広の在り方、そもそもとうらぶという作品の設定と世界観からすると、そもそもこれ山姥切の研究史だけ理解すれば納得できる範囲で納まる話じゃねえな? というのがどうやら回答のようです。

長義と国広の「名」を巡る問題というのは、刀剣乱舞の主題の一つとして世界観に密接に絡んでいるギミックであるようです。

以前の考察、とくに今月の「異去」実装関連で触れたと思うんですが、

名前があるものは「史実」
名前のないものは「創作」

というのが、どうやらとうらぶの現状の扱いでかつ今後変動が予測される根幹設定だと思います。

そしてこれが現実の歴史の理解とはかけ離れていることも合わせて書いたと思います。

刀剣の価値も物語も号が全てなんてことは決してないです。

史実に確かに存在するけれど名前や号が判明していないものなど山ほどあります。

だから尚更、メタファーを紐解いて出てきた上の図式、とうらぶ的ルールを更に細かく読み取る必要があります。

国広が「花」に執着しているのは複数の派生の性質から明確であり、その「花」の意味は大まかに「物語」だと考えられる。

長義が「名」に執着しているのは原作ゲームでも派生作品でも明確であり、国広と対になっているキャラ造形からするとその「名」というメタファーにも別の意味が重なると考えられる。

ここまでくると、「名」は「史実」という図式ではないか?

という結論になります。

それともう一つ。

「花」と「名」を直接同じ土台に置くのはなんかズレている気もするので、この概念にもう一度挟まれているメタファーを洗い出したい。

国広が「花」を心から愛するなら、長義が愛するものは何?

……もしかして。

これもおもに舞台の方で、国広が「花」と同じくらい愛し執着しているのが明確なもう一つのメタファーじゃないか……? つまり。

「史実」のメタファーは、「月」。

舞台で国広が喪って国広が追いかける「月」、それが「三日月宗近」。

舞台は花丸とは別の構造というか、国広を中心視点として国広にとって重要な二振り、三日月と長義の重要性がべらぼうに高くそこにある意味わかりやすくメタファーを当てて説明している。

国広にとっての「月」は三日月で、国広にとっての「花」は長義。

ここまではまぁいいとして、問題はその「月」と「花」のポジションが「鬼」を挟んで入れ替わりになりそうな構造です。

「月」が消えて花が現れ、「花」が散ったらまた「月」が現れることが予想される。

これを「史実」と「創作」の間での揺れ動きだと考えると、原作ゲームの時点から刀剣男士の極修行が史実と創作の属性が入り混じることがそれこそ国広の修行手紙から確定しているので、なんとなく図式としては落ち着いてきた感じがあります。

確定にもっていくにはたぶん、国広の対となっている長義の極修行の結果が必要になります。

一方で長義が「月」を求める構図には、それこそ花丸のEDこと長義と国広のキャラソンの存在が結構大きいと思います。

月の雲隠れを長義が歌うということは、長義は「月」を求めていると言える。

離れ灯篭だと花は関係なくて秋の景色ですが、その秋自体も舞台では慈伝で強調されています。

あと今回見た花丸「華の巻」でも紅葉が出てくる場所があったと思う(うろ覚え)。

「花」は「物語(創作)」
「月」は「物語(史実)」

ついでにこの図式にもう一要素加えたいと思います。

大般若さんと美術品の組み合わせ、「般若」と「美」です。

これも以前からの考察で長義と国広の組み合わせは「知恵と慈悲」という仏教で重要な両側面の対比ではないかと言っておりました。

長義が「知恵」なら連動して「光」「太陽」「般若」なども同類項のメタファーです。
国広が「慈悲」なら連動して「影」「月」「優しさ」なども同類項のメタファーです。

「慈悲」と「影」の関係は治金丸関係の原作ゲーム回想から相手を守る行動の方を重視していたんですが、花丸見た感じだとこれの類似表現が「優しい」「優しさ」ではないかと思います。

つまり「優しいは強い」という花丸の独自テーマの一つです。

現実には優しくて弱い奴や強くて優しさのない奴はいっぱいいるので、この図式は完全に花丸もしくは原作ゲームからある「刀剣乱舞」独自要素であり、当然ながら一般常識とは考えられません。

だれだれは強くて優しいとかだれだれは優しいうえに強いとかそういう主体を伴った限定的な文章で納めず、形容詞二つのみで文節を形成するこのセリフ回し自体がとうらぶの独自要素そのものと言えます。

優しさに関する話題は原作ゲームだととっさに思いつくのは慶長熊本で歌仙が古今を優しいと評していたところですかね。

そこからメタファーとして「優しさ」というものが挙げられるならそれが強さに結びついているというのは、ここまでの考察だと舞台の国広が力、長義が頭脳担当という、本歌と写しの能力傾向が正反対なことも合わせて考えたいと思います。

戦力拡充計画と戦術強化訓練の組み合わせと言い、今回よくこの組み合わせの話になるな。

力と知恵。戦力と戦術。

そして力が慈悲、優しさと結びつくなら、対極の知恵や頭脳はどんな形容詞で言い表されるのか。

これが、大般若さんを通して「般若(仏教の智慧)」と結びつく「美」――「美しい」ではないだろうか。

舞台は国広を介して三日月と長義が同じラインに並ぶわけですが、原作ゲームの方だとそもそも三日月と国広にまったく関わりがない、本当に一つもないので、その構造は成立しません。

初期刀を山姥切国広にした人は対大侵寇まで行くと縁ができますが、その場合他の初期刀5も同様なのでやはり山姥切国広が特別に三日月と関わっている要素はありません。

では原作ゲームから三日月宗近と山姥切長義で何か関係があるかと考えると、一つだけあります。

キャラクター設定文の中に「美しさ」という言葉がある数振りのうちの一振り。

三日月と長義の共通点をあえて挙げるとこれですね。

どちらも「美しい」ことが非常に強調されています。

「美」というメタファー。

これが美術品を愛する大般若さんを介することで、陰陽の陽属性、つまり「智慧(知恵)」と結びついている可能性があります。

日本刀は美術品ですので刀剣男士はみんな割と美しいはずですが、その中でも特に「美しい」という要素を強調される子はこのメタファーが重要な可能性があります。

やたら長くなってきたのでそろそろこの項を終わりにしたいのですが、花丸を介したことによりこれまでメタファーの存在と共通性という骨格はわかっても肝心の意味、意図が不明だったメタファーのいくつかがかなりはっきりしてきたように思います。

しかしそれによって逆に、この概念を拾うならこれとこれも関係あるのでは? という疑問が次々生まれて終わりがなくなってきました。

「優しいは強い」が花丸独自ではなくとうらぶ的に共通図式だとすると、監査官の「優」評定はイコールで「強さ」と結びつくように思います。

こうなってくると今回の考察で「般若(知恵)」と結びついた「美」の概念周辺も気になるところです。

三日月や長義と同じ公式美形として亀甲くんの存在も考えなければいけませんし、あまり話題に挙がらないんですがとうらぶWikiでキャラクター設定文や公式Twitterの紹介を調べると蜂須賀も凛々しさと美しさを兼ね備えているとされるキャラです。

無作為に範囲を広げすぎると謎が深まるので今はこのぐらいにして、基本は長義・国広の山姥切の本歌と写しを中心に考えたいと思います。

7.花丸の山姥切の本歌と写しに関して再度考える、花丸派生の整理

その長義と国広に関して再度の考察。

私の花丸考察に関してはまずこの二振りの問題だけを考えて、そこから一度、花丸と言う作品単体の解釈を出すために花丸の主人公は清光と安定であると言う大前提に戻って一度山姥切の本歌と写しの解釈は所詮メタファーだという視点で整理しなおし、原作ゲームや舞台など他の作品との相関をチェックしていきました。

しかし今回、花丸の映画版を通して見て映画全体のテーマを分析して結論を出すためには、やはりこの話の冒頭にある長義と国広の関係をできる限り正確に読解する必要があります。

……ですが、この作業がかなり難航していまして。

花丸の長義・国広に関してはコミックスで結構大きな加筆が入ってることがわかったので、どの辺がスタンダードな描写なのか逆にわからなくなって混乱してきました。

コミカライズの加筆が素晴らしいだけに、逆にこれを削ってもOKした基準についてしっかり考えなければいけない、長義くんの内面を削る「メリット」があったはずですから。

この問題わりと複雑というか、映画に関してはコミカライズとノベライズ両方あってノベライズが花丸アニメ映画本編の脚本家の方が書いたものですから、そっちも比較が必要になってきた気がします。

この記事書いている時点ではまだ読めていません!

コミカライズの長義くん関連描写がノベライズにもあれば、脚本の猫田幸氏は最初から万全の仕事をしたと言っていいと思います。コミカライズはあくまでもそれを忠実に再現しただけだと。

一方、コミカライズの描写がノベライズになく、コミカライズ担当の橋野サル先生の解釈だったとしたら、橋野サル先生の仕事がめちゃくちゃ優れていることが判明する代わりにアニメそのものとちょっと切り分ける必要があるように思います。

そして後者なら結果をそのまま受け入れるだけですが、むしろ前者だとしたら脚本にもともと書かれていた部分をコンテで削ったということになるわけで、監督の判断が重要視され、そこにどんな意味があったのかを考える必要があります。

どのパターンなのかでどれを「花丸」の主軸として正確に認識するかに差が出る重要問題ですので、あえてコミカライズとノベライズの比較をまだ入れていないこの時点で一度考察を出します。

雪の巻の長義くんに関しては、映画とコミカライズで一番大きい違いは出陣でヘマした後の長義くんの内面描写、聚楽第に本丸の部隊が出陣し、そこに国広も入っていて、その頃から自分の写しは強いと知っていた、それなのに(周囲に認められているのに)、いつも俯いているのが気に入らない、というものでした。

映画本編、このシーンがまるまるありませんでした。

なんやて???

長義くんの内面なんだからきちんと入れろやという長義推し的な視点を差し引いても、映画の構成だとそもそも「聚楽第に出陣した部隊」をせっかくのアニメなのに絵で表現しないことになるのでかなり大きな問題です。

むしろこの要素削っていいのか!? と驚愕するほど大きな問題だと思われます。

一応聚楽第に出陣したこと、その部隊のメンツ(一期、厚、愛染、三日月、国広)、その時の状況(花丸の聚楽第は言い方的に北条と豊臣が和解している)などは台詞で言及されています。

これを考えるとむしろ聚楽第出陣の設定自体はしっかりされていると思うのですが、長義くんの内面は映画だと徹底的に隠されていますし、映画館で一度見ただけの人にこのセリフだけで漫画のように上記5振りが出陣している絵面を思い浮かべ整理しながら頭に入れろと言うのはきついと思います。

そのほかにも、「雪の巻」の長義くん関連でコミカライズにあって映画にないのは

・上記の長義くんの内面描写、本丸舞台の聚楽第出陣(背景は抜き)
・聚楽第出陣部隊のメンツである一期、厚、愛染が洗濯しながら長義と会話し、監査官であることを知って歓迎する様子
・長義くんが三日月に誘われて縁側でお茶を飲むところ
・現在時間軸に戻って長義と国広の手合せを目撃する安定
・清光と話す安定が「長義のこと何も知らないのについ熱くなっちゃって反省してる」というセリフ

かなりあります。いや本当そこ削っていいの? と思われる部分ばかりです。
長義くんの内面もですが、安定の反省の台詞もあるとないとでキャラクターの印象がかなり変わるので普通なら絶対に入れなければならないと判断する部分だと思います。

逆に映画にあってコミカライズにない部分は

・長義を説得する清光の台詞の前半、長義と清光のやりとり
・別項で触れた「菓子折り持って謝りに来た」辺りの会話

でしょうかね。

あくまで私が流し見しながら気づいたところだけなのでじっくり見たらもっとあると思いますが。

おもだったところ、長義や長義に関係する安定・清光の印象を大きく変える部分ばかりだと思います。

コミカライズはおもに加筆に関してめちゃくちゃ良い仕事をしていると思いますが、その橋野サル先生はむしろ、清光が長義を説得するシーンをかなりカットしてます。

これはこれで大胆なカットだと思います。

つまり橋野サル先生の判断を信じるならば、あの部分はカットしても問題ないほどに「重要ではない」。

花丸の主人公である清光が、一見問題児である長義を説得しているシーンは、一部とはいえカットしても問題ない程度には「重要ではない」。そして別のシーンを入れる選択をする。

この差異について考えると非常に難しいです花丸。

他の派生について考えるなら、そもそも「刀剣乱舞」は序盤の情報を意図的に隠すことをしていると思います。

特に話の序盤の要素ほど隠されています。
それを端的に説明するのが原作ゲームから聚楽第だけあの城にいたはずの北条氏政本人とプレイヤーが差し向けた刀剣男士たちが邂逅していないという事実だと思われます。

というわけで、花丸も、どの情報を出してどの情報を隠すか、という計算のもとでシナリオが構成されていると見たほうがいいと思います。

そしてこの時点でその情報を「隠す」選択ができるということは、その情報は「重要である」にも関わらず、このタイミングで明かさなくても問題ない程度には「重要ではない」と考えられます。

完全に矛盾していますが、それを一言で説明するのが「(比喩)メタファー」という仕組みだと考えられます。

メタファーはどこまで行っても皮であって、肉でも骨でも髄でもない。

本質ではないという意味で、カットしても伏せていても大きな差はないが、明かすタイミングを調整することでギミックとして読者・視聴者にあらゆる意味で効果的な演出ができます。

キャラクターの内面は普通の作品だったら最も重要な要素です。肉であり、骨であり、髄です。

しかしとうらぶでは違う、これがとうらぶ派生作品の印象が他の作品よりプレイヤーサイドの反応の別れ方が極端になる理由だと言っていいと思います。

情報の比重が普通の作品と違うので認識能力や情報収集、整理分析能力の差が他の作品以上に反映されます。

とうらぶの感想を言い合う場合は、まずすべての描写を明らかにしてその一つ一つをどう解釈したかという前提の確認に他の作品より膨大な量のすり合わせが必要になると思われます。

で、花丸はその大前提の確認が「映画本編」「脚本家によるノベライズ」「コミカライズ」で分かれたので作業量3倍。

……そろそろオイラ考察ぶん投げていい?(一度書いたら最後まで責任もて)

8.花丸の山姥切の本歌と写しに関して再度考える、描かれない客観について

えー、一応記事一つぐらいは最後までやれということでこの考察を進めますが、花丸の長義・国広に関しては以前の考察で「妬み(癡)」だと結論を出したので基本はこれでいきます。

その「妬み」という要素に、コミカライズの長義くんの内面を含めるなら山姥切の本歌と写しはやはり表面上どう言っていようが内心ではお互いを大切に思っていることを重視するのですが、ここが映画本編でカットされているので「妬み」の関係としか言いようがありません。

う~~~~ん。

コミカライズの内面描写がないと最大限に良い読解をしようとしてもどうしても「妬み」しかないんだよねってところが難しい。

長義くんに関して地味に映画とコミカライズの差で大きいのは、畑当番をサボる云々の話の時に映画本編はあんまり深刻な場面に見えないんですよ。

あの場面、声だけ聞いてると完全に長義くんが畑当番をなめてて嫌いな仕事サボったようにしか解釈できない。

これがコミカライズになると表情、背景色、吹き出しの配置あたりの絶妙な効果で「できないのではない ……やりたくないだけだ」になんか意味があるなって感じられますけど映画だけ見てたら無理だと思います。

正直長義くんの内面に関してはコミカライズの情報含めても話通じるかぎりぎりまで削られてるくらいなんで、それがない映画本編は正直解釈お手上げじゃない? レベルだと思います。
そりゃ公開初日にいろんな意味で長義推しから批判が押し寄せるわ、と。

ここまでの内容で更に長義くんの内面削る意味を考えなさいってすごく難しい。

長義くんの内面削るよりほかにもっと削れそうな場面色々ありますからね、放棄された世界への突入描写とか確かに興味深くはあるけど本当に必要なのか? と。キャラクターの内面よりも?

この構成で長義くんの内面描写を削る意味か……。一つはとうらぶ全体の当然意図的なマスキングだろうけど。

強いて言えば、国広側も内面描写されていないから、削った方が本歌と写しの内面描写の割合は平等になる気がします。

長義くんだけ内面描いて国広スルーしたらそれはそれでフェアじゃなくなる。

そしておそらく長義だけでなく、国広の内面も多分今の段階だと明かせない。

山姥切問題ではよく国広の方が長義より審神者と付き合いが長くて内面が理解されているからみたいな言い方をされるのを見ますが、実際には国広の内面を理解している審神者なんていないと思います。

単純にそれができるだけの情報がないからです。

比較的国広の出番が多い舞台でさえ、国広の本心はかなり隠されています。

その状態で見て国広を理解したと思っているのはその人の思い上がりでしょう。
そして結局はその思い上がりの究極的に最悪な結末が、長義くん実装から5年以上経った今でも我々を混乱させているリアルの方の山姥切問題ですよ。

ゲームや舞台、花丸といった派生作品の中の山姥切問題に関しては、単純に作品内でキャラクターの内面に関する情報の大部分が伏せられていて、各自で考察して方向性を仮置きすることぐらいはできるが、実際に作品解釈の共通認識となるような答は誰も出せない、が正直なところだと思います。

私は原作ゲームの極修行は国広の内面を判断するのではなく、長義の逸話を否定せずにどちらも語られているという結論を探してきたという国広の「行動」から逆算して内面を推察していますが、それだって実は違うかも。

私が思うように国広は長義を大切に思っているという結論ではなく、長義の逸話が崩れたら国広の逸話も影響を受けるからそれを避けたいただの自己保身野郎の可能性もまだあります。

今回の花丸に関しても、一応国広側は畑当番を嫌がる長義に「人の身に慣れていなくて苦手なのはわかるが」と心情を思いやったり、江戸への出陣時、再び遡行軍が現れた時に「下がれ! 長義!!」と真っ先に庇った行動の方から国広はやはり本歌を大切に思っていると結論したいところですが、単に立ち位置の関係で偶然かもしれない。国広は本当は長義のことなんてなんとも思ってないかもしれない。

他の派生も決してわかりやすいとは言えないですが、花丸は特にわかりにくいうえに、その中で一、二を争うくらいわかりにくいのが山姥切の本歌と写し。

そして映画版はこの二振りから始まり、対大侵寇相当の「犬神の呪い」で終わる「呪いの円環」という構造である以上、「花丸における山姥切の本歌と写し」という関係性の読解を進めなければ解釈できない……。

まあ何十年後かにこの映画の解釈が完成することを願って今は分析を推し進めますが、上でさんざん言っている通り、長義・国広は一見かなりの尺(雪の巻で約30分)をかけて出番があるように見えながら、その内面を推し量れて視聴者間で共通認識を得られるほどの情報は実は出ていない、というのはかなり大きな点だと思います。

この理由の一つに、山姥切の本歌と写しの関係性というのは、作中でそれ自体に解説が入れられていない、ということが大きいと思います。

上でやった虎徹と清麿の問題なんかだと、長曽祢さんが清麿に名乗れない理由は虎徹の贋作問題であるという事実の確認と、それに伴う長曽祢さんの心情の問題という両面を短いやりとりできっちり納めています。

それに比べると、そもそも「山姥切の本歌と写し」は「一般的」にどういう関係か?

この説明が、なんと花丸では一切入っていません。これははっきり言っておかしいです。

おかしいからこそ、花丸はそこを意図してそういう表現にしていると言えます。長義くんの内面を削ったのもそこを伏せる行為の延長と考えられます。

山姥切の本歌と写しはこれこれこういう関係である、という一言で済む解説を入れれば、視聴者の思考はそちらに誘導されます。

国広の羨望も、長義の嫉妬も「~~だから」「このようになる」と結びつけて考えられます。

しかし花丸はここの「~~だから」という理由を与えてはくれないのです。だから答が出ない。

唯一理由と考えられそうな長義くんの内面が描かれているのはコミカライズであって、アニメ映画本編ではカット。

そうなると行動から内面を類推するしかないわけですが、国広は上記のように一応長義を大切に思っているんじゃないか? と思えないこともなくもなくもないぐらいの微妙さで、長義側から国広への感情はほぼ不明です。

国広が長義になんと呼ばれたいのか問題と同じく、一番重要な情報は最初から我々には与えられていません。

本歌と写しの関係性に関しても、我々プレイヤー側は勝手に物語の外で努力して史実の方の認識を埋めることはできるのですが、厳密な回答は原作から派生までまだどこにもないと思われます。

そもそもこの関係性の回答、原作ゲームにもありませんからね。

同じ刀工からつくられた刀同士は兄弟と呼び合い非常に良好な関係を築いていることを明示されているのに、違う刀工に打たれたけど強い縁のある本歌と写しの関係性の答は不明。

これを定義づける情報自体が出されていない。

原作要素を判断する絶対的な基準となる表現がないからこそ、個々のプレイヤーの知識量という比較判定の難しい要素にものすごく左右されて、多種多様な山姥切国広像と、山姥切長義像を生み出している。

一応舞台の方だと長谷部以外の刀剣が最初の時点では長義をそのまま受け入れる様子、自身も写しとされるソハヤにいたってはむしろ積極的に会わせてやれという態度だったことから、本歌と写しの関係性は本来好ましいものであることが暗に示唆されています。

しかし一番はっきりしている慈伝でもそれくらいで、その土台の上に長義と国広が刃をぶつけあう戦いが存在するのも舞台のシナリオです。

「山姥切の本歌と写し」に関し、我々プレイヤー側は常に答を欲している。

だが、公式は原作ゲームから派生作品までその回答を完全に伏せている。

そろそろこの事実自体を念頭に置いた方がいいと思います。

原作ゲームだけをやっている時点ではあまり違和感なかったんですよ。どの刀剣男士も情報量そのぐらい少ないですから。

けれど派生で、花丸では映画のトップバッターとして30分の尺を使って、舞台ではそもそも国広主人公なんだからここまで公演されたほぼすべての物語を通じて。

「山姥切の本歌と写し」に対する「客観的な見解」を得られるはっきりした情報がどこにもない。言葉で定義をしていない。

我々が長義と国広の内面を追いがちなのはその方向性しか情報が出ていないという事実がまずあります。

「本歌と写し」が一般的に「こうであるべき」と外から判断できるだけの情報がありません。

そして少なくとも派生には、それを描けるだけの尺があるにも関わらず、舞台と花丸2作品がその部分に触れなかった。

舞台は台詞から内面を想像させ、一応方向性として一貫していることが確認できるくらいには情報を小出しにしているのですが、花丸の映画本編ではそれすらもカットした、ということが今わかっていることのすべてだと思います。

国広側が長義にどう呼ばれたいかを答えないという問題もあり、その描き方こそが最重要要素の一つだと思われます。

答えがまだ描かれていない。まだ出さない。

このキャラはこう考えているよ、という答を導き出すのが主目的の考察サイドからすると納得しかねる結論ではありますが、我々プレイヤーにとってはこれが答えだと思います。

花丸は長義くんが実際どういうキャラなのかという答はまったく与えてくれませんが、答だせないよねという描写はきっちりしてきたとも言える。なんだこの派生作品。

その上で考察を推し進めるなら、長義の内面を削ってもヨシッ! した判断もまさに国広が長義にどう呼ばれたいかを答えられないことと同じ問題だからではないかと思います。

まだ伏せる。まだカードの面は見せない。山姥切の呼称問題の中核はまだ隠す。

結局これなんですよね。だからどれだけ派生を見たところで、我々の山姥切問題は解決しない。

9.花丸の山姥切の本歌と写しに関して再度考える、愛は呪う妬みの物語

花丸の本歌と写しの描かれ方は、話の配置的に第一節後半から対大侵寇までのテーマを担っていると考えられる。

長義と国広がそれぞれお互いを羨み妬んでいることからして、まず考えられるテーマの一つは「妬み」。

仏教で言うところの三毒の煩悩の一つ、「癡」の物語。

それと、舞台の方の構造と比較すると「雪の巻」長義登場場面でも、「月の巻」冒頭でも登場した南泉の存在からこの要素が引き出されると思います。

「呪い」

長義・国広に関しては原作ゲームでも「呪い」の存在を否定していますが、南泉は二振りを呪われていると判定しています。

南泉がどこまで本気かはともかく、メタ的なシナリオの読み方すると、そういう描写が入っている時点ですでに山姥切の本歌と写しのテーマは大なり小なり呪いに関係するということになります。

舞台の南泉が象徴するテーマは「早く呪いをとかねーと」というものでした。

しかし花丸では

「ぜ~~んぶ猫の呪い……にゃっ」

と、いう感じで南泉はなんでもかんでも猫の呪いのせいにするようなキャラになっています。

とはいえメタファー重視の読み方からすると、このセリフはまさにこの通りの意味なのでは?

全部「猫(現実)」の「呪い」

花丸の第一節後半は「呪い」が主軸の、呪いの円環の物語だと考えられます。

猫の呪いを強調する南泉の存在を示し、その直後に呪い仲間・国広の本歌である長義が登場し、「月の巻」冒頭では南泉が「主が猫になった」という勘違いをするところから始まり、「華の巻」では審神者が「犬神の呪い」により悪夢を見ることになる。

原作ゲームではつい最近回想142により「猫」のメタファーの意味はどうやら「現実」であることが明かされました。

とはいえ関連してすぐに火車切(猫の妖怪斬り)という名を持った刀が実装されたので猫が猫そのものか火車のように猫の妖怪を含む概念なのかはちょっと判別しがたくなってきたところがありますが。

ひとまず「猫=現実」で想定したいと思います。

これももとの回想タイトルがひらがなで『あこがれとげんじつ』であることを重く見れば別の字を当てる可能性が出てきてしまうのですが(幻日とか)、回想内容は現実の日本にいた猫の話をしていましたので、暫定的に「猫=現実」の解釈を使います。

猫が現実を意味するものならば、その呪いとは、創作を否定する史実側の圧力ではないかなと思います。

それにかかっている。それに呪われている。

主が猫になるというのは、主が現実になるという意味ではないか。

そう考えると主のスタンスが元々創作方向になるな???

これを分析するにはまずあの本丸の審神者がどういう存在かというところから考えねばならないと思います。

大分前に花丸の考察でやったと思いますたが、花丸の審神者は自己否定が強い存在に思われます。

そしてその象徴こそ畑当番をサボる山姥切長義(己の物語を育てたくない)であり、花瓶を割ってしまった静形薙刀(己の物語の器を壊す)なのだと思います。

現実の呪い。

創作を、己の物語を、「うちの本丸」の物語を壊す方向性の力。

創作の否定。「花」の破壊。

「呪い」の意味に関しては、原作ゲームの南泉が極修行でそれも人の愛として捉えてきたところを見ると、ストレートに「愛」でいいような気がします。

「愛」が「呪い」。
だからこそ原作ゲームで御前こと一文字則宗はそれを「鎖」と称したと考えられます。

そしてここまでいったら「猫(現実)」の「呪い(愛)」と直結できそうですね。

現実の愛……って、要するに史実を大切に思う気持ちか?

我々は誰しも物語(史実)を大切にしようとすればするほど、物語(創作)を壊(否定)してしまう。

創作という己の物語を育てたい気持ちと、史実のためにそれを否定したい気持ちの両方を持っている。

ここで重要になってくるのが長義の出陣シーンにおける、時間遡行軍側の目的です。

田沼意次を、「生まれる前に殺す」。

この分析をしているのが長義くんなんですが……そのシーンなんとなく既視感が。
具体的に言うと舞台の綺伝。

在原業平の歌に触れる長義くん。キリシタン大名たちより先にガラシャ様を見つけて殺すと宣言する長義くん。
綺伝はガラシャ様の慈悲から始まったとされる物語。その慈悲の花を殺す物語。

派生作品が描いているものって、結局は敵である遡行軍側の動きではないだろうか。
そしてその遡行軍の動きは、結局我々自身の行動と同じという構図ではないだろうか。

物語にとって「生まれる前に殺す」ってのはどういう状況かと言えば、まさに長義くんの本丸顕現当初にお前の言うこと認めない! ってやった安定の行動だよね、と。

そしてだからこそ、ここの出陣での長義くんの無謀な行動ってのは、「生まれる前に殺す」された物語のあがきそのものでは?

相手の話をよく聞いて解決するという手段を最初から放棄されているんだから、力押しでいくしかないよね、と。

ここの江戸出陣でわざわざ無用組……御手杵と同田貫による回想其の4『無用の長物』を挟んだのも、その二振りはどちらも長義くんを責めずにフォローの言葉をかけているのも同じだと思われます。

ここ考えると慈伝で長義くんと表向き真っ向対立してた相手が同田貫だっていうのまた別の意味から重要になってくるな。
無用組か……。
慈伝では同田貫と対立、花丸ではむしろ協力。

無用だとされたからこそ、生まれる前に殺すとされたからこそ、ここで大暴れしてやるのだと。
平和だった平和だったと言いながら。だからこそ評価が低い。出番がない。その刀がここで役目を得るのは皮肉だと。

あああああメタファーの配置を丁寧に見ていけば見ていくほど頭が痛くなるなこれ。
原作通りの回想を適当にぶっこんでるように見えて丁寧に意味を辿ると天伝の真田信繁自殺並みにえぐい話してるじゃねーかこれ。

花丸の「雪の巻」は物語を生まれる前に殺す物語。

呪いの円環を描いてる花丸の構造からすると、それこそが呪いなのでは。

物語を認めない、受け入れられない、見ようともしない。
それは結局、歴史を守っているようでいて否定しているよね、と。

愛は呪い。自分の物語を愛するために相手を否定する! という行動の結果が相手側からのカウンターだろう。
これが呪い。だから長義くんは畑当番をサボる(本丸の物語を育てない)し、江戸出陣で暴走するし、舞台長義くんと違って、あの本丸をよい本丸とは認めない。

でもそれもぜ~んぶ、猫(現実)の呪いだそうで。

その呪いの結果が長義・国広による妬みあいという構造であり、最後の犬神の呪いという危機に繋がっていくのでは?

妬みに関しては三毒の「癡」ということは以前からやっているんですが、その「癡」はそもそも無明、真理を得られない暗さなのだと。

「妬み」はやはり「妬み」そのものより「癡」の方が概念としてはわかりやすい気がする。

ただ「妬む」の字が「女」に「石」。
「羨む」の字が「羊」「水」「欠」の組み合わせだってことは注目したい。

「羨」の下のさんずいに欠の字は厳密には御馳走に「よだれを流す」という意味で転じてうらやむだそうです。
更に気になるのがこの「羨」の字、「はかみち」「墓所への道」とかいう謎の意味がある……。なんでだこれ。
「羨」は墓への道なのか……。

いや怖いなこれ。
「妬ましい」と口にした長義くんは舞台のガラシャ様と連動しているように、どうあっても女性要素と関連してくる。
「羨ましい」と口にした国広は羊の御馳走によだれを流す、食らう要素を持ちながら同時に自分も墓への道を突っ走る。

マジか……。本当は怖い漢字メタファーの世界……。

「愛」と「呪い」が連動する概念であることは原作ゲームからおもに南泉と御前関連の回想により確定していますが、そこに「妬み」と「羨望」つまり「癡」が絡むことも花丸では示唆している。

う~~~ん、南泉と御前の回想其の105『猫と隠居と歪と』を今読むと割と引っかかるな。

歪こそ人の意志が介在している
美とはなにか、愛とはなにか

他にも長義・国広関係の考察で割と引っかかったメタファーのオンパレードじゃないか回想105。

コミカライズで明かされた長義くんの内面、あれがあるとむしろそういう理由だったんだってあっさり納得しちゃいそうなことを考えるとむしろこっちの要素、メタファーをきっちり読みとる、調べる、考えることを重視するならやはりない方が正解なんだろうか……? 難しいね。

内面から無理矢理整合性をつけようとするよりも、メタファーとして「愛」と「呪い」は関係し、そこには「癡」と「歪(人の意志)」や「猫(現実)」が存在し、長義と国広はやはり直接的に呪われているとは言わないかもしれないが、何らかの形で呪いに関係あるキャラと見たほうがいい。

その辺りが花丸の二振りの解釈かなぁと。

10.全てがメタファーでできている

花丸の考察をしていて思ったんですが、花丸はすべてメタファーでできていると思います。

というかその構造、結局はとうらぶ原作ゲームそのものと同じなのではないか?

もともとはこの花丸のEDであるという「離れ灯篭、道すがら」のMVが発表されたとき(その後、歌詞全文が発表されたときも)メタファーの連続でできているという話題にちょっとなった気がするんですが。

メタファーの連続だからこそ歌詞を解読するぞ! とはりきった勢とメタファーの連続だから意味わかんない! と投げた勢に分かれると思うんですが、今だと個人的な考察としては原作も派生作品もすべてメタファーでできている、だからキャラソンの歌詞も全てメタファーで成立しているのは原作からの作風の一貫性である、で結論したいと思います。

リアルタイムで離れ灯篭の歌詞が発表されたときの審神者の反応としては、あくまで私の記憶ですが、

「花丸そのものは山姥切長義像が原作ゲームとかけ離れているのに、そのEDである離れ灯篭の歌詞は原作のイメージそのもの」

という評価が大勢を占めていたと思います。

山姥切伝承に関する論文(徳美の原先生の論文)まで読んで書かれている気がする……って意見もありました。

なおその頃の私はまだ花丸どころか舞台も見ていなかったから完全に原作ゲームの情報オンリー解釈勢。

原作ゲームと研究史の相関性から解釈したものは過去記事を読んでいただくとして、しかしその後舞台を見たらこれ派生も多分構造共通だろうなぁという意見に変わっていったので本当は再度解釈出し直したほうがいいんですよね。

しかし全体的な考察が進んだ代わりに一つ一つのメタファーをもっとじっくり見なきゃいけなくて終わりが見えない状態なのでその作業はとばします。
前回ぼやいたようにメタファー重視の派生考察に切り替えたらそもそも離れ灯篭の歌詞解釈が1、2行目から進まねえ!! ってなった。

全てがメタファーでできている。原作ゲームから派生作品まで、とうらぶの全てが。

……ん? ということはこれももしかしてメタファーの連続により成立している台詞なのでは?

「俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?」

(回想56、57)

派生の全てが、むしろその大元となる原作から、メタファーの連続でできていると言うのなら、まずここから一度考え直すべきでは。

「名」「顔」「売る」等のメタファーの意味を考えなくてはならないのでは……?

言われてみるととうらぶって、日本語がおかしいわけではないのに、なんか会話や表現としては不自然、みたいな描写が多いような。

全部メタファーの連続で表現しているからでは……?

一見原作ゲームからかけ離れすぎているように見える花丸は、実は刀剣男士が全員何かのメタファーでそれを繋ぎ合わせるとシナリオの意味が見えてくると言う構造が原作ゲームに一番近いかもしれない。

長義くんの台詞は見慣れすぎてもはや違和感覚えないレベルなんだけどまだ考察が浅かったか……。

「顔」は離れ灯篭の歌詞的には「面」に変換されるから仮面・能面がいくつもの派生で出てくる上に舞台の長尾顕長と山姥とか活撃の足利義輝とかめちゃくちゃ重要なギミック絡みじゃねこれ……?

「名」は「物語」と対になる概念で史実方面の歴史っぽいけどここは確実に重要だろうからちょっと保留したい。

「売る」は今のところ派生なんかでたまに「買う」話が出るから対義語の「売る」もあると見るけど今のところまったく不明。

そもそもの話として人間だと「他者の名で顔を売る」というシチュエーションがまずありえんのよな。

「顔」と「名」はセットで、「顔を売る」「名を売る」のどちらかなんだけど、刀剣男士はここが存在的に混在するのが問題なんだと思う。

ごっちんとの回想141的に長義くんは憶測絶許派っぽいし、国広への態度を総合的に考えるとあのセリフは結局何に対する嫌味かというと、「混在への文句」っぽいなと。

そしてそうなると回想56の国広は混在を否定してるのに、回想57の国広がそこを否定しないことの意味変わってこねーかこれ。
混在を許容……

うむむむむ。

花丸は本当絵面とか物語としては見たいもの見せてくれないのに考察的にはめちゃくちゃ重要なこと言ってるな……。

原作回想がまず離れ灯篭の歌詞のようなメタファーの連続構造だというのは貴重な発見なんですが、その解釈をきちんと出すには原作の回想全部チェックしてメタファーとなる単語を抽出して、さらに花丸で「雪の巻」の静形が「大きく力のあるものは~」と「大」のメタファーの解説をしていたような部分を全部照合していくという、考えただけで気の遠くなるような作業が必要になりますねこれ。

やった方が考察ははかどるんだろうけど無限に時間が必要になるだろうからちょっと簡単にやるぜ! とは言えないわこれ。
まだ研究史の修正作業も残ってるってのにぃ――!!

ついでにここで混在への文句についてあれこれ思考をとばしたことから長義くんの欠点というか、乗り越えるべき課題というか、解決しなきゃいけない問題ってもしかしてこれか……? というのに思い当たったので次はそっちに話移ります。

花丸の考察に関しては「月の巻」の髭切周辺から鬼斬り刀の動きをピックアップして舞台と比較するとか「華の巻」の「犬神の呪い」が意味することを犬神の性質から具体的に考えるとかもうちょっと考えなきゃいけないことがあるような気がしますが、長義くんの内面の追求の方が大事なのでちょっとその問題は放置します。

とりあえず次の長義くんの内面の話を考えるのにここまでの話の整理(おもに呼称問題)が必要になったので今回はここでいったん終わりにします。