一文字則宗

いちもんじのりむね

概要

備前福岡一文字派の祖・刀工則宗

「一文字」とは古備前鍛冶に続いて現れた古い流派。
後鳥羽上皇の御番鍛冶であった刀工・則宗を祖とし、その多くは茎の中央部近くに「一」と切ることから「一文字」と呼ばれている。

この「一」の字はそもそも刀工・則宗が後鳥羽上皇から賜ったもので、一文字一派はその名誉を讃えるとともに伝統と意気を示して個人銘の代わりに「一」と切ったという。

『日本刀の歴史 古刀編』では現代風に言うと一種の商標、トレードマークだと説明している。

鎌倉初期から中期を少し過ぎるころまでの期間に、長船の南隣の福岡の地で鍛刀したグループを「福岡一文字」。
鎌倉中期頃から赤磐郡吉岡庄に住して繁昌したグループを「吉岡一文字」。
鎌倉末期から南北朝末期に和気郡岩戸庄に住した一派を「正中一文字(岩戸一文字)」。
更に福岡一派から分かれて備前片山、備中国片山に移った一派を「片山一文字」という。

この四つの系統を総称して「一文字」と呼び、いずれも則宗を祖とした流派である。

『日本刀の歴史 古刀編』(紙本)
著者:常石英明 発行年:2016年(平成28) 出版者:金園社
目次:備前国(岡山県) 一文字系統 福岡一文字一派
ページ数:303~310

生没年等

刀工・則宗の大体の生没年

『日本刀大百科事典』によると、

・天治2年(1125)生、建久8年(1197)没、73歳または74歳とする説

『長谷川忠右衛門刀工系図』『日本国鍛冶惣約』『古刀目利要録』

・仁平2年(1152)生、建保2年(1214)没、63歳とする説

『本朝鍛冶考』

刀工・則宗の生没年に関しては、上記古剣書出典の2説がある。
しかし『日本刀大百科事典』では、ともに信じがたいとしている。

刀に年紀銘を刻まない古い時代の刀工の生没年はこのように古剣書の記述が頼りで、しかし信憑性は薄い。
それでも大体の活動年代はこうした記述から算出される。

古剣書の多くは国立国会図書館デジタルコレクションでも読むことができない。

『古刀銘尽大全 巻之1-3』(データ送信)
著者:菅原弘邦 著, 富田正二 編 発行年:1944年(昭和19) 出版者:立命館出版部
目次:同福岡一文字系図
コマ数:66

『古刀銘尽大全 上 増訂 (日本故有美術鑑定便覧 ; 第4集) 』
著者:大館海城 編 発行年:1901(明治34) 出版者:赤志忠雅堂
目次:全福岡一文字系図
ページ数:107 コマ数:59

則宗 備前太夫ト云刑ア丞後鳥羽院カヂ、正月番カヂ菊ヲ拝領シ一文字ヲ打ツ天治ニ生建久八死七十八戈

『本朝鍛冶考 18巻 [2]』
著者:鎌田魚妙 撰 発行年:1851(嘉永4) 出版者:近江屋平助、河内屋徳兵衛
目次:巻之五 山陽道 福岡一文字系図
ページ数:七表 コマ数:46

則宗 近衛御宇仁平二年生ル順徳帝建保二年死六十三歳定則子備前太夫ト号

備前小瀬住定則の子、備前太夫と称し、刑部允に任じられた

『日本刀大百科事典』によると、出典は下記の古剣書類。

・備前小瀬住定則の子

『古今銘盡大全』『如手引抄(十一冊本)』『校正古刀銘鑑』 『古刀銘盡大全』『長谷川忠右衛門刀工系図』『長享銘盡』『新刊秘伝抄』『日本国鍛冶惣約』『本朝鍛冶考』『掌中古刀銘鑑』

・備前太夫と称した

『古今鍛冶備考』『如手引抄(十一冊本)』『古刀銘盡大全』『長享銘盡』『文明十六年銘盡』『本朝鍛冶考』『日本国中鍛冶銘文集』『永徳銘盡』『鍛冶銘字考』『古刀目利要録』

・刑部允に任じられた

『古今銘盡大全』『古今鍛冶備考』『如手引抄(十一冊本)』『古刀銘盡大全』『竹屋直正伝書』『古今鍛冶銘』『天文目利書』『三好下野入道口伝』『宇都宮銘盡』

後鳥羽上皇の御番鍛冶

刀工・則宗は後鳥羽上皇の御番鍛冶で正月番を勤めたという

『日本刀大百科事典』によると出典は下記の古剣書類。

『古今銘盡大全』『古今鍛冶備考』『長享目利書』『古刀銘盡大全』『竹屋直正伝書』『古今鍛冶銘』『天文目利書』『宇都宮銘盡』『古刀目利要録』

『日本刀の歴史 古刀編』だと承元二年二月(1208)、後鳥羽上皇に召されて番鍛冶の筆頭に挙げられ、備前太夫刑部允に任ぜられたとしている。

その功により、菊紋や一文字を中心に切ることを許されたという

『日本刀大百科事典』によると出典は下記の古剣書類。

『古今銘盡大全』『古今鍛冶備考』『如手引抄(十一冊本)』『古刀銘盡大全』『竹屋直正伝書』『新刊秘伝抄』『徳刀流目利書』『本朝鍛冶考』『永徳銘盡』『天文目利書』『上古秘談抄』『宇都宮銘盡』『長谷川忠右衛門目利書』

二十四人番鍛冶で十一月番を勤めたという説もある

『日本刀大百科事典』によると出典は下記の古剣書類。

『古刀銘盡大全』『長谷川忠右衛門刀工系図』『日本国鍛冶惣約』『本朝鍛冶考』

一文字則宗と菊御作の違い

『日本刀大百科事典』によると、菊紋のある作は後鳥羽上皇の作とするのが今日の通説だという。

現在の通説に関して

「菊一文字」と「菊御作」の区別に関しては下記の本の説明がわかりやすい。

『東京帝室博物館講演集 第12冊』
発行年:1936年(昭和11) 出版者:帝室博物館
目次:菊御作と御番鍛冶に就いて・三矢宮松 第四 菊御作と菊一文字と混すべからざる事
ページ数:66~69 コマ数:49、50

菊一文字といふのは一文字風の刀に、菊御紋があるものの意味ではあるが実際は菊御作になつた一文字更に具体的に言へば、則宗、助宗の作った刀に後鳥羽天皇が焼刃をなされて菊御作になる。即ち則宗、助宗の作刀が直ぐ菊御作になるのである。イヤ菊御作は則宗、助宗が作るのであると斯様に思ひ斯様に伝へた為に則宗、助宗の刀が即菊御作だとなり、菊御作即菊一文字となったのである。

刀工・則宗はそもそも菊紋を切っていないという話

そもそも刀工・則宗は現在の定義で「菊一文字(菊紋と一を切った刀)」を作っていないという。

『日本刀大百科事典』によると、

・一文字に関しては則宗は切らず、子の助宗に譲ったとされているが、則宗は磨り付け一文字という鑢の角で「一」の字を切ったという異説がある。(『如手引抄(十一冊本)』)
・則宗のことを「菊一文字」と書いた古剣書がある。(『徳刀流目利書』『建部流秘伝書』)
・則宗のことを「大一文字」と書いた古剣書がある。(『天文目利書』)

とのことである。。

一を切った刀に関しては摩り付け一文字という刀があるようだが、菊紋の方は切っておらず、どちらにしろきょうび菊一文字と呼べる特徴のある刀を則宗自身は作っていないことになる。

「菊一文字則宗」という概念と菊御作との混同問題

「菊一文字」と呼ばれる刀の範囲はかなり広い。
広義では「菊一文字(菊紋と一を切った刀)」というだけの特徴を持つ刀をこう呼び、比較的狭義にしても「福岡一文字派の刀工が菊紋と一を切った刀」に適用される。

ただし、肝心の福岡一文字派の祖である刀工・則宗は「菊一文字」と呼べる特徴のある刀を作っていない。

そして、それにも関わらず、古剣書類などで昔から刀工・則宗やその刀を指して「菊一文字」と呼んでいることがある。

なぜ刀工・則宗の刀、あるいは則宗本人を指して「菊一文字」と呼ばれていたか。

江戸時代まで様々な古剣書で則宗が作った「菊一文字」だと思われていた刀は、実際には後鳥羽上皇の作品として数えられる「菊御作」と呼ぶべき刀である。

「菊御作」は作品の分類としては後鳥羽上皇の作品にカウントされるが、刀の特徴で言えば刀工・則宗が刀本体の大部分を作り上げたものに、最後に後鳥羽上皇が焼刃という刃文をつける作業などをして完成させたものである。

後鳥羽上皇の作品としてカウントするべきなのだが、基礎の部分を刀工・則宗が作っているので、「則宗が作って菊紋を切った刀(則宗の菊一文字)」と考えるべきか、「則宗が手伝って後鳥羽上皇が完成させた刀(後鳥羽上皇の菊御作)」かの区別が難しい、という問題がある。

現代では刀工・則宗作とみられる刀に菊紋を切ったものがないこともあり、菊紋の入った則宗作っぽい造りの刀は全て後鳥羽上皇の作である「菊御作」だと考えられている。

また、「菊御作」に関しては一文字風の作品の他に、粟田口風や京風の作品もあるという。

御番鍛冶には一文字の刀工が多いが、他の派の刀工もおり、彼らが基礎の刀を鍛え後鳥羽上皇が焼き入れを行った刀も当然「菊御作」と呼ばれる。

則宗や粟田口派の刀工がある程度のところまで刀を作ったとはいえ、刀剣の鑑定家・研究者の目から見ると後鳥羽上皇の作品は明確に則宗自身や他の刀工の作品と区別するだけの特徴、つまり後鳥羽上皇の作品らしさが存在しているので、やはりこれは「菊御作(後鳥羽上皇の作品)」として認識するべきで、「菊一文字(則宗の作品)」と呼んではいけないだろうと考えられる。

「菊一文字」と「菊御作」の混同問題の中にはこの点を無視して「菊御作」はすべて「菊一文字」としてしまっているものが古剣書の中にもかなりあるらしい。

まとめると、

・菊一文字則宗(厳密には実在しない)
一文字則宗と呼ばれる刀工は菊紋の入った刀を作っていない

・菊御作(後鳥羽上皇の作)
一文字風の作品に菊紋を切ってあるが、粟田口風など別刀派の作品も存在する

・他の菊一文字
「菊紋」と「一」を切った刀

「菊一文字」という言葉が指し示す範囲が上の三つにまたがって混同されているために、話の主体である刀がどういうものであるかが確定しないとかなりの混乱を生み出すことになるということらしい。

作風

品位のある太刀姿で、切先はつまり、刃肉がつく。
地鉄は軟らかく大肌まじり、映りが現れる。
刃文は小乱れ小丁子乱れがまじり、末古備前風の地味なもの。

銘は「則宗」と二字銘。
ただし『享保名物帳』所載の「二ッ銘則宗」は、「備前国則宗」と五字銘。

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:のりむね【則宗】
ページ数:4巻P169、170

一文字則宗の著名作

刀工・則宗は二字銘が多い

『日本刀大百科事典』によると、銘は「則宗」と二字銘。ただし『享保名物帳』所載の「二ッ銘則宗」は、「備前国則宗」と五字銘、と説明している。

『日本刀の歴史 古刀編』も「一」の字だけを切った作品はないとするが、佐野美術館に表に「則宗」裏に「一」の字を切ったものが一本あるとしている。

享保名物「二ッ銘則宗」(「革包太刀(笹丸) 則宗ノ銘アリ」)

足利尊氏の佩刀。
足利義輝へ伝わり鬼丸国綱、大典太光世と共に豊臣秀吉へ贈られ、愛宕神社へ奉納された。

1950年(昭和25)8月29日、重要文化財指定。

現在の所有者は「愛宕神社」
保管施設は「京都国立博物館」

『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:光忠、長光、包平、光包、兼光の部 二ッ銘則宗
ページ数;160 コマ数:95

愛宕山
二ッ銘則宗 長弐尺六寸八分 不知代

京都将軍家御重代尊氏公より十三代義輝公へ傳り鬼丸、大傳多同時に義輝公より秀吉公へ進せらる早速愛宕山へ御納候。

日枝神社の国宝の則宗(「太刀 銘則宗」)

正保三年に徳川徳松(後の五代将軍綱吉)が参詣の折寄進したという。

1910年(明治43)4月20日、旧国宝(現在の重要文化財)指定。
1951年(昭和26)6月9日、国宝(新国宝)指定。

『国宝刀剣図譜 古刀の部 備前1』(データ送信)
著者:本間順治 編 発行年:1938年(昭和13) 出版者:岩波書店
目次:〔古刀の部〕 備前
コマ数:63、64

「三井記念美術館」蔵の重要文化財の則宗(「太刀 銘則宗」)

1941年(昭和16)7月3日、旧国宝(現在の重要文化財)指定。
三井高公男爵名義。

「太刀 銘 則宗」

『官報 1941年07月03日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1941年(昭和16) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第七百二十二号 昭和十六年七月三日
ページ数:73 コマ数:4

忌宮神社の重要文化財の則宗(「刀 無銘伝則宗」)

元禄5年10月、本阿弥光常が五百貫の折紙をつけている。
寄進者は長府藩主毛利元敏。

1950年(昭和25)8月29日、重要文化財指定。

『山口県文化財概要 第1集』(データ送信)
発行年:1952年(昭和26) 出版者:山口県教育委員会
目次:工芸
ページ数:41 コマ数:35

「太刀 銘 則宗」

1935年時点で土屋正直子爵蔵。

『名刀図譜』(データ送信)
著者:本間順治 発行年:1935年(昭和10) 出版者:大塚巧芸社
目次:四八 太刀 銘 則宗 コマ数:62
目次:名刀図譜 解説 ページ数:13 コマ数:137

飛切丸

『日本刀大百科事典』によると、昔は「飛切丸」という名物もあったという。
出典は『正和銘鑑(観智院本)』。

『銘尽 : 観智院本 [2]』
発行年:昭和14(1939年) 出版者:帝国図書館
コマ数:45
(全号まとめから[2]に跳んで45コマ目)

『銘尽 : 観智院本』(データ送信)
発行年:1939年(昭和14) 出版者:帝国図書館
ページ数:82 コマ数:99

沖田総司佩刀・菊一文字説について

以上、刀工・一文字則宗の研究史を踏まえた上で、昭和の創作に端を発した沖田総司佩刀・菊一文字説についての研究史を見ていく。

小説『新選組血風録』収録の短編小説「菊一文字」初出

『新選組血風録』(紙本)
著者:司馬遼太郎、発行年:1964年(昭和39) 出版者:中央公論社
目次:菊一文字
ページ数:594、624

菊一文字説の出典は司馬遼太郎氏の「小説」、『新選組血風録』内の短編「菊一文字」である。
この小説の中に沖田総司が刀屋から「菊一文字則宗」を入手する場面がある。

さらに終盤で沖田総司の身内の子孫・沖田勝芳氏の名前が登場して「菊一文字則宗」を神社に収めたという話が出てくる。

沖田総司佩刀菊一文字説はこの小説が初出の創作、ではあるが、では何故この短編小説でそもそも沖田総司佩刀を「菊一文字則宗」という表現にしたのか。

この証言に関しての詳細、というか裏話が、後に森満喜子氏の『沖田総司おもかげ抄』によって語られることになる。

『定本 沖田総司おもかげ抄』で司馬遼太郎氏の小説の背景事情を説明

司馬遼太郎氏が短編小説内にて沖田総司佩刀を「菊一文字則宗」にしたことに関しては、沖田総司研究家の森満喜子氏との間にこのようなやりとりがあったかららしい。

『定本 沖田総司おもかげ抄』(紙本)
著者:森満喜子 発行年:1975年(昭和50) 出版者:新人物往来社
目次:沖田の佩刀 菊一文字説
ページ数:71~75

菊一文字説

昭和三十八年夏、立川の沖田家の当主勝芳氏におたずねしてみたところ、次のような返事を戴いた。
「菊一文字細身の作りであったと父(要)からきいています。その刀は総司の死後、どこかのお寺に奉納したということですが、そのお宮の名も場所も聞き洩らしましたので分かりません」
さらにその後、勝芳氏の次男武司氏に直接お会いした時、たずねてみたところ、
「何でも千葉の方のお宮らしいと父が言っていました。しかし、それを探し出しても長年放っておいた刀はもう鉄屑同然で、刀としての生命はすでに終わっているし、それに人を斬った刀は家に置いておくと祟りがあるともいわれているので、父は強いて探し出そうとはしないようです」
と言われた。
菊一文字という刀は福岡一文字派の刀工、則宗(鎌倉初期)が代表的なものといわれている。
「太刀姿は細身で腰反りが高く、小鋒のつまった優美な姿であり、鍜は板目肌でよく約んで地沸えがつき、乱映りが目立っている。刃文は直刃調の小乱に小丁子がまじり、古備前物に比しては特に丁子が目立つ。鋩子より直ぐに小丸尋常なものが多い。総じて古備前物に比して匂口がやや明かるい点が小差で、小沸がよくつき、足や葉がしきりに入る点は同様である。ちなみに菊一文字の称呼であるが、後鳥羽院は諸国から名工を集めて月番を定めて院中で刀剣を鍜道せしめられた。これがいわゆる御番鍜治である。則宗はこの御番鍜治であった」(佐藤貫一著『日本の刀剣』より)
菊一文字則宗は時価一億円とさえいわれている。『新選組覚え書』の「おもかげ抄」に沖田の佩刀は菊一文字、と書いたところ、刀剣に詳しい多数の方から、
「沖田程度の浪人がとても入手できる刀ではない。大名でさえ入手困難といわれ、まず城一つと交換されるほどの宝剣だ」
とう意見を戴いた。刀剣に少し詳しい人なら、それはほとんど常識であるらしい。新選組の金箱を全部はたいても、とうてい買うことは不可能である。
昭和三十八年に沖田勝芳氏から、菊一文字と教えていただいた時、私はその頃『新選組血風録』執筆中の司馬遼太郎氏にすぐこのニュースをお知らせし、せめて小説の上だけでも沖田の佩刀は、神韻渺々とした七百年昔の鎌倉時代の則宗在銘のものにしていただきたい。沖田ほどの剣士にはそれが最もふさわしいから、とお願いした。
それで同氏も、沖田が買うのではなく、刀屋の主人が沖田に無料で進呈したという形をとられたのであろう。
往々にして小説を即、史実、と思い込む人がいる。歴史小説は史実とフィクションを巧みに織り込んだ精巧な織物のようなもので、その区別はむずかしいが、フィクションはあくまでもフィクションである。

森満喜子氏は沖田総司の佩刀について、『新選組始末記』を書いた子母澤寛氏に尋ねて「不明」という答を得て、更に沖田総司の身内の子孫である沖田勝芳氏にも尋ねた。

その結果、沖田勝芳氏から“菊一文字細身の作り”と聞いたことを小説家の司馬遼太郎氏に伝え、小説上の沖田総司佩刀は「菊一文字(則宗)」にしてもらいたいと自身の希望を述べた。

これはあくまで森満喜子氏本人もフィクションとして楽しむべきものと認識しているものであって、研究書内における沖田総司佩刀に関する結論自体は「不明」としている。

しかし、司馬遼太郎氏の人気の影響か、その後、沖田総司佩刀が「菊一文字則宗」であるという情報は人口に膾炙し、新選組関連の研究書ではたびたび沖田総司佩刀菊一文字説に関してとりあげられる事態になっている。

他の研究者からの指摘

森満喜子氏が約10年がかり、数回にわけて沖田総司研究本である『沖田総司おもかげ抄』を書いている間に、谷春雄氏も『新選組隊士遺聞』の中で沖田総司佩刀の菊一文字説について触れている。

谷春雄氏は森満喜子氏や子母澤寛氏より刀剣についての知識があるので、沖田総司の菊一文字説に対して検討したうえで否定している。

『新選組隊士遺聞』(紙本)
著者:谷春雄/林栄太郎 発行年:1973年(昭和48) 出版者:新人物往来社
目次:四 沖田の佩刀
ページ数:37~39

 司馬遼太郎氏の『新選組血風録』および森満喜子氏の『おもかげ抄』では沖田総司の佩刀は「菊一文字」であると、菊一文字則宗説を強調されている。しかし刀について少しでも知識のある人ならば、これは主人公に名刀をもたせたがる例の小説的な傾向であることに気づくのではあるまいか。
菊一文字則宗といえば、日本全国に現存するものは、五振以上は数えられまい。筆者も刀剣が好きで、機会があればみるようつとめているが、昭和三十二、三年頃銀座三越で開催された「日枝山王展」のおり、東京日枝神社所蔵の国宝則宗を観覧し、その神秘的ともいえる体配や地鉄の美しさと、華やかな一文字丁子の刃文に心を打たれた。これが私の則宗にめぐりあったただ一度の経験である。
こころみに三鷹市竜源寺にある「金銀出入帳」の中に書いてある、新選組で購入した刀を拾ってみよう。

一、金拾六両二分 大和守刀三本(秀国)
一、金拾六両也 刀身二本 宗安
一、金拾両 岸嶋芳太郎脇差代
一、金八両 佐藤安次郎 刀代
一、金四十三両 中島渡 払 大小七本
一、金七十五両三分 刀 五本 脇差三本

以上が出入帳に記載されている刀、脇差代であるが、一振十両以上の刀は買っていない。
江戸時代に一流刀工の作った刀はその当時でも百石や二百石の武士には買うことができなかったと書いたものもある。
ところが、菊一文字則宗といえば現在では一億円以上もするといわれる刀である。武士とはいっても、足軽や御徒士の家にあるべき刀でないことはいうまでもない。
近藤勇が長曽祢虎徹、土方歳三が前述の和泉守兼定(十一代、慶応三年裏銘)である。
歳三が、佐藤俊宣に贈った刀が、三代目越前康継、近藤が池田屋事件のおり会津公から拝領した刀が三善長道であったことから考えても、あまりにも飛躍しすぎている。
また短刀説もあるが、則宗には短刀で現存するものは一振りもない。
江戸初期の名刀の価格としては、大般若長光の六百貫などがあり、名刀と名のつくものはほとんど大名家の所有であった。
子母沢寛氏が『新選組始末記』を書くために佐藤俊宣氏の談話を聞いたとき、同氏は土方歳三から贈られた越前康継の話をした。この康継は中心に徳川家から葵紋を切ることを許されていたので、俗称「葵康継」または「御紋康継」とよばれたが、子母沢氏はこの「葵康継」(江戸時代作)を「青江康次」(備中住、鎌倉初期作)と間違ってうけとり『始末記』には青江康次と記されている。
沖田の菊一文字も、菊紋と一の字を切った新刀の山城守国清か伊賀守金道あたりの刀のことが誤り伝えられて「菊一文字」となっているのではないだろうか。

谷春雄氏は刀剣方面の事情から菊一文字説を否定して、現実的に菊一文字と間違って伝えられそうな特徴を持つ刀の候補を挙げている。

沖田総司の姉の子孫である沖田勝芳氏の証言を否定せずに、菊一文字説が生まれた理由を現実的な範囲で納めるための推測である。

また、谷春雄氏はここで子母澤寛氏が刀剣に詳しくないことにも触れている。

つまり沖田総司佩刀・菊一文字説とは

以上、沖田総司佩刀菊一文字説に関する研究史を簡単にまとめると、初出が『新選組血風録』(短編「菊一文字」)という小説である以上、この部分は完全に創作である。

そもそも刀工・則宗作の刀(現在ではほとんど重要文化財・国宝クラス)を一介の刀屋が入手して新選組隊士に渡すという筋書きにはあまりにも無理があり、現実的に考えてありえない。

しかしその創作には下敷きにした情報が存在し、それは研究者の森満喜子が沖田総司の身内(姉)の子孫である当時の沖田家当主に取材して得たものであるため、まったくの無価値としてしまうわけにはいかない。

ここで問題になってくるのが、上で刀工・則宗の研究史をまとめた通り、一文字則宗の刀が「菊一文字」と言われている歴史自体が相当に様々な性質の話が絡まり合ってできたちょっと面倒な話だという前提である。

端的に言うと、「菊一文字」という言葉の指す範囲が広すぎるのである。

司馬遼太郎氏の創作が「菊一文字則宗」という厳密にいうと実在しない刀(刀工・則宗は菊紋を切った刀を作っていない)になっているのは、森満喜子氏が沖田総司に名刀を持たせたいとリクエストしたからであって、最初の情報は沖田勝芳氏の「菊一文字細身の作り」なので、この表現だけではそもそもどの菊一文字かわからない、というのが正直なところである。

個人的には上記で引用した『新選組隊士遺聞』の谷春雄氏が言うように

沖田の菊一文字も、菊紋と一の字を切った新刀の山城守国清か伊賀守金道あたりの刀のことが誤り伝えられて「菊一文字」となっているのではないだろうか。

あたりの結論を支持したい。
ちなみに堀川派の山城守国清は四代くらいいるので山城守国清とだけ書いても三人くらい候補がいる。
もっと条件を緩くして「菊紋」があったら菊一文字だと思われている、ぐらいの内容で想定すると伊賀守金道を含む三品派の多くの刀工が菊紋を切っているのでその時点で候補は数十名になると考えられる。

いろいろ総合すると、

沖田総司佩刀が「菊一文字則宗」は色々な意味でありえない。
沖田総司佩刀が「菊一文字」だけだと正直どの刀工が打った刀かさっぱりわからん。
でもまぁ新刀の菊一文字って言えそうな刀なら沖田総司が使っていてもおかしくないよね。

ぐらいの結論になると考えられる。

ただし、そもそもの出発点である沖田勝芳氏の話もあくまで証拠のない伝聞である以上、やはり史実の調査として何らかの結論を出せと言われれば、その答は「不明」の一言に尽きるだろう。

調査所感

・一文字派の祖

刀工・則宗当人が「福岡一文字派」に分類されるので「福岡一文字派の祖」と説明されることが多いけれど、むしろ福岡に限らずどの一文字派が来ても祖は則宗と考えていいようである。

つまり今後とうらぶにどの一文字が来ても祖は御前。

・この辺の話は特に難しい

そもそも一文字則宗が菊一文字を作っていない。でも一文字則宗自身が菊一文字って呼ばれてるんだ! の時点で話ややこしすぎて頭パンクしそうである。

・調べれば調べるほど沖田総司の菊一文字は「ない」

高額とかそういう話以前にまず菊紋の入った則宗の刀がない。
ということで沖田総司の刀に菊紋が入っていたらむしろそれは刀工・則宗の刀では「ありえない」。
逆に言えば本当に刀工・則宗の刀であったならば菊一文字じゃなくて福岡一文字派の則宗と呼ばれるだろう。
「菊一文字則宗」という表現自体がまず刀に詳しくない人の選ぶ言葉なんだ。

だからある程度刀剣の知識がある谷春雄氏は則宗作を否定した上でそれでも沖田家当主が「菊一文字」という言葉を持ち出した理由をさらっと推測してる。

私も谷春雄氏の意見に賛成(菊一文字と呼べそうな特徴で沖田総司でも入手できるクラスの刀のことを、刀剣界隈が伝統的に菊一文字と呼んできた刀工・則宗作と間違って受け取った)なんですが、それでもまだ注意しなくちゃいけないのは、そのクラスの刀工の刀いっぱいあるからな! ってことです。

新刀関連の研究書で三品派の刀の押形がずらっと載っている本とか読むとわかるんですが、新刀だと複数の刀工が2代目も3代目も4代目も5代目も6代目もみーんな菊紋を茎に切っています。

新刀も「菊一文字」って呼ぶの? って話でもな、堀川派の研究書で山城守国清の項目にさらっと「菊一文字」を作るって書いてあるからやっぱり福岡一文字派以外でも「菊」と「一」を切ってあればみんな「菊一文字」って呼ばれちゃうんよ。

この辺の知識があると、結論として沖田総司佩刀「菊一文字則宗」はありえないけど「菊一文字(新刀)」は十分ありえる、けど、ありえるだけで本当のところなんてまったくわからない、ということになります。

・刀工はみな伝説的な存在

鎌倉時代の刀工の話なんてほとんどよくわからない……というか、ぶっちゃけ刀工というのは半伝説的な存在であって最初から正しい情報なんて残っていない、と。

大名みたいに個人の歴史を記録される立場ではないが、アイドルのように物語の主役にもなりえる立場であって、わりとみんな伝説的です。時代が古ければ神格化、戦国時代は大名の評判に半ば付随した存在、新々刀辺りは割と現代のゴシップと同じような感じでまあ色々言われてるって感じでしょうかね。

一文字則宗と呼ばれる刀工も古剣書にいくつかの記述はあるものの、そういう意味で信憑性は微妙。
むしろ現在の通説が則宗は菊一文字を作っていない、これまでそう呼ばれてた刀は「菊御作」だ、というのも近代の研究者・鑑定家が実際に後鳥羽上皇の作品と則宗の作品にきちんと違いがあるという自分の目で見た鑑定結果を重視して、古剣書の内容を否定していると言えます。

ただしこの時代に至るまでに、一文字則宗を指して「菊一文字」と呼ばれていた歴史はあり、そうした歴史が、沖田総司にそういう伝説的名刀を持たせたいよねみたいな動機に繋がっているとも言えます。

御前の話は沖田総司が実際にどんな刀を持っていたかという史実の話というより、「一文字則宗(菊一文字)」はこれまでどのように語られてきたか? とそういう視点の歴史って感じですね。

参考文献

『本朝鍛冶考 18巻 [2]』
著者:鎌田魚妙 撰 発行年:1851(嘉永4) 出版者:近江屋平助、河内屋徳兵衛
目次:巻之五 山陽道 福岡一文字系図
ページ数:七表 コマ数:46

『古刀銘尽大全 上 増訂 (日本故有美術鑑定便覧 ; 第4集) 』
著者:大館海城 編 発行年:1901(明治34) 出版者:赤志忠雅堂
目次:全福岡一文字系図
ページ数:107 コマ数:59

『東京帝室博物館講演集 第12冊』
発行年:1936年(昭和11) 出版者:帝室博物館
目次:菊御作と御番鍛冶に就いて・三矢宮松 第四 菊御作と菊一文字と混すべからざる事
ページ数:66~69 コマ数:49、50

『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:光忠、長光、包平、光包、兼光の部 二ッ銘則宗
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『名刀図譜』(データ送信)
著者:本間順治 発行年:1935年(昭和10) 出版者:大塚巧芸社
目次:四八 太刀 銘 則宗 コマ数:62
目次:名刀図譜 解説 ページ数:13 コマ数:137

『国宝刀剣図譜 古刀の部 備前1』(データ送信)
著者:本間順治 編 発行年:1938年(昭和13) 出版者:岩波書店
目次:〔古刀の部〕 備前
コマ数:63、64

『銘尽 : 観智院本 [2]』
発行年:昭和14(1939年) 出版者:帝国図書館
コマ数:45
(全号まとめから[2]に跳んで45コマ目)

『銘尽 : 観智院本』(データ送信)
発行年:1939年(昭和14) 出版者:帝国図書館
ページ数:82 コマ数:99

『官報 1941年07月03日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1941年(昭和16) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第七百二十二号 昭和十六年七月三日
ページ数:73 コマ数:4

『古刀銘尽大全 巻之1-3』(データ送信)
著者:菅原弘邦 著, 富田正二 編 発行年:1944年(昭和19) 出版者:立命館出版部
目次:同福岡一文字系図
コマ数:66

『山口県文化財概要 第1集』(データ送信)
発行年:1952年(昭和26) 出版者:山口県教育委員会
目次:工芸
ページ数:41 コマ数:35

『新選組血風録』(紙本)
著者:司馬遼太郎、発行年:1964年(昭和39) 出版者:中央公論社
目次:菊一文字

『新選組隊士遺聞』(紙本)
著者:谷春雄/林栄太郎 発行年:1973年(昭和48) 出版者:新人物往来社
目次:四 沖田の佩刀
ページ数:37~39

『定本 沖田総司おもかげ抄』(紙本)
著者:森満喜子 発行年:1975年(昭和50) 出版者:新人物往来社
目次:沖田の佩刀
ページ数:71~75

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:のりむね【則宗】
ページ数:4巻P169、170

『日本刀の歴史 古刀編』(紙本)
著者:常石英明 発行年:2016年(平成28) 出版者:金園社
目次:備前国(岡山県) 一文字系統 福岡一文字一派
ページ数:303~310

概説書

『図解 武将・剣豪と日本刀 新装版』(紙本)
著者:日本武具研究界 発行年:2011年(平成23) 出版者:笠倉出版社
目次:第四章 名匠伝 後鳥羽院
ページ数:210~213

『物語で読む日本の刀剣150』(紙本)
著者:かゆみ歴史編集部(イースト新書) 発行年:2015年(平成27) 出版者:イースト・プレス
目次:第3章 太刀 菊一文字
ページ数:91