たいけいなおたね
- 概要
- 水心子正秀の高弟で江戸三作の一人、大慶直胤
- 1778~1779年(安永7、8)頃、山形市鍛冶町の鎌鍛冶の家に出生
- 江戸へ出て水心子正秀に師事、1801年(寛政13)、23歳頃の作品あり
- 初め日本橋の堀江在住
- その後、神田に移るが1806年(文化3)、28歳頃、類焼に遭い、和泉橋へ移る
- 東叡山の麓にもいたが、後年は下谷の御徒町に定住
- 1812年(文化9)、34歳頃に山形藩主・秋元家に召し抱えられる
- 1821~1822年(文政4、5)、44歳頃に筑前大掾を受領
- 1848年(嘉永1)、70歳の時に美濃介に転じる
- 日本各地で鍛刀する
- 1857年(安政4)没、享年79歳
- 作風
- 彫物は門人・本荘義胤の手によるものが多い
- 水心子正秀と大慶直胤
- 水心子正秀の親友・柘植平助や豆州韮山の代官・江川太郎左衛門との交友関係
- 大慶直胤の養子の門人にはあの「鍛冶平」がいる
- 調査所感
- 参考文献
概要
水心子正秀の高弟で江戸三作の一人、大慶直胤
江戸時代の新々刀の名工。
新々刀の祖と言われる水心子正秀の高弟で、師匠である水心子より上手とも言われる。
銘は「庄司直胤」「大慶直胤」「大慶荘司直胤」、
受領後は「荘司筑前大掾大慶直胤」「荘司美濃介直胤」「荘司美濃介藤原直胤」等があるという。
1778~1779年(安永7、8)頃、山形市鍛冶町の鎌鍛冶の家に出生。
江戸へ出て水心子正秀に師事、1801年(寛政13)、23歳頃の作品あり。
初め日本橋の堀江町住といい、これは妻が日本橋茅場町の炭問屋の娘だったことと関係あると言われる。
その後、神田に移るが1806年(文化3)、28歳頃、類焼に遭い、和泉橋へ移る。
東叡山の麓にもいたが、後年は下谷の御徒町に定住。
1812年(文化9)、34歳頃に山形藩主・秋元家に召し抱えられる。
1821~1822年(文政4、5)、44歳頃に筑前大掾を受領。
1848年(嘉永1)、70歳頃に美濃介に転じる。
この間に日本各地で鍛刀をしたことが刀の茎に「刻印」として遺されている。
1857年(安政4)没、享年79歳。
大慶直胤は長命であったため、五十余年間師の片腕となって、その業を授け、自らも鍛刀して地鉄の研鑽を積み、我が子や水心子の孫を始めとする多くの弟子・門人を育て上げたという。
1778~1779年(安永7、8)頃、山形市鍛冶町の鎌鍛冶の家に出生
『日本刀大百科事典』によると、
現在の山形市鍛冶町居住の鎌鍛冶の家に、安永7、8年(1778~1779)に出生。
『水心子正秀とその一門 復刻版』によると、
山形鍛冶町の浄光寺過去帳により、直胤の生家は代々茂兵衛と称し、同町庄司弥兵エの分家で鎌鍛冶であることを、武田喜八郎氏が報告しているという。
『水心子正秀とその一門 復刻版』(紙本)
著者:黒江二郎 発行年:2021年(令和3) 出版者:雄山閣
目次:正秀の門人 荘司直胤
ページ数:56~65
姓名
姓は荘司、通称は箕兵衛、号は大慶・格物道人。
大慶という号への推測
『日本刀大百科事典』では大慶直胤の出生を7月15日だと推測している。
号の大慶は、7月15日を大慶の月というのに、基づくと思われるからである、という。
江戸へ出て水心子正秀に師事、1801年(寛政13)、23歳頃の作品あり
『日本刀大百科事典』によると、
江戸へ出て水心子正秀に師事。
寛政13年(1801)、二十三歳で早くも独立の作品を出す。
『水心子正秀とその一門 復刻版』によると、
最も若年打ちと思われる作は、『江戸三作の研究』に、「庄司直胤造 寛政十三年正月日」の報告あり、23歳の作であるという。
初め日本橋の堀江在住
『日本刀大百科事典』によると、
初め日本橋の堀江町住という。
妻が日本橋茅場町の炭問屋の娘だったから、それは真実であろう、という。
大慶直胤の結婚は文化初年(1804)、師匠である水心子正秀の口利きだと言われる。
『水心子正秀とその一門 復刻版』によると、
妻である日本橋茅場町の炭問屋の娘の名は「やへ」といい、水心子正秀の書簡に「おやへさま」「お屋へ様」と見えているという。
その後、神田に移るが1806年(文化3)、28歳頃、類焼に遭い、和泉橋へ移る
『日本刀大百科事典』によると、
その後、神田に移ったが、ここで類焼に遭い、和泉橋つまり現在の台東区和泉橋に移ったようである。
『水心子正秀とその一門 復刻版』によると、
水心子正秀の書簡(文化3年3月29日)に、「荘司箕兵衛の類焼にて当時私所に参居」とある。
さらに「文化八年十二月十四日於東都和泉橋為伊賀氏作之」という銘文の刀があるという。
『新々刀大鑑』に寛政(1789~1801)末期より享和(1801~1804)年間に至る最初期銘(神田打ち)の押形が載っている。
『新々刀大鑑』(データ送信)
著者:飯村嘉章 発行年:1966年(昭和41) 出版者:刀剣美術工芸社
目次:新々刀大鑑研究図譜(附・五十音索引) 「東海道―武蔵」 大慶直胤(寛政―安政)
ページ数:317 コマ数:335
『水心子正秀全集 (刀剣叢書 ; 第1編) 』
著者:川口陟 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:南人社
目次:正秀書簡集
ページ数:327 コマ数:172
整理すると、刀の銘文から享和(1801~1804)頃まで神田に住んでいたことが判明しているが、書簡から文化3年(1806)に近隣の火事で家が焼けたために一時的に師匠の水心子の家に世話になったことが伝えられ、その後刀の銘文から和泉橋に移ったことが判明しているという。
東叡山の麓にもいたが、後年は下谷の御徒町に定住
『日本刀大百科事典』によると、
それから東叡山の麓にもいたが、後年は下谷の御徒町、つまり現在の台東区上野五丁目(仲御徒町一丁目十一番地)に定住した。
『水心子正秀とその一門 復刻版』によると、
「大慶直胤花押 文化九年仲秋 於東府東叡山麓作之」の銘を切った作があるという。
そして、ここに程近い下谷御徒町に移って、没年まで定住する。
1812年(文化9)、34歳頃に山形藩主・秋元家に召し抱えられる
『日本刀大百科事典』によると、
文化9年(1812)頃、郷里山形藩主・秋元家に召し抱えられた。
『水心子正秀とその一門 復刻版』によると、
師同様秋元候に仕えて、抱え工となったのは師の推輓によるもので、同年作に「秋元藩大慶直胤」と切ってあるという。
1821~1822年(文政4、5)、44歳頃に筑前大掾を受領
『日本刀大百科事典』によると、
文政4、5年(1821~1822)に筑前大掾を受領する。
『図鑑江戸三作之研究 : 正秀・直胤・清麿』などに
「荘司筑前大掾大慶藤直胤(花押) 文政五年仲春」銘の押形が載っている。
『図鑑江戸三作之研究 : 正秀・直胤・清麿』(データ送信)
著者:藤代義雄 発行年:1936年(昭和11) 出版者:藤代商店
目次:大慶直胤
ページ:26 コマ数:20
1848年(嘉永1)、70歳の時に美濃介に転じる
『日本刀大百科事典』によると、
嘉永元年(1848)、美濃介に転じた。
『図鑑江戸三作之研究 : 正秀・直胤・清麿』などに
「嘉永元年冬至月 荘司美濃介藤直胤(花押)(都の刻印)」銘の押形が載っている。
『水心子正秀とその一門』に
「荘司美濃介藤原直胤(花押) 嘉永二年二月吉日(宮の刻印)」銘の押形が載っている。
日本各地で鍛刀する
『日本刀大百科事典』によると、
名声が上がるに従い、各地からの招きもあり、各地に駐槌した。
その地名を刻印で遺している。
『水心子正秀とその一門 復刻版』によると、
生活の安定した53歳の天保2年(1831)以降、各地に赴いて鍛刀していることが、茎の刻印によって判る。
という。
コロモ(三河国挙母) 文政2年(1819)
サカミ(相模) 天保2年(1831)
イツ(伊豆) 天保2年(1831)
エンシウ(遠州) 天保3年(1832)
イセ(伊勢) 天保3年(1832)
シナノ(信濃) 天保7年(1836)
ナニハ(浪華) 天保8年(1837)
ヒッチュ(備中) 天保9年(1838)
助川(常陸国) 天保11年(1840)、嘉永4年(1851)
ヲシテル(大阪) 弘化3~4年(1846~1847)
ヅシウ(豆州) 弘化4年(1847)
都(京都) 嘉永元~2年(1848~1849)
チヤ(備中国千屋) 嘉永元年(1848)
宮(丹後国宮津) 嘉永2年(1849)
桜花の中に総の字(下総国佐倉) 嘉永6年(1853)
チバ(千葉)
二荒(日光)
などがある。
(大体『水心子正秀とその一門 復刻版』で足りたが「ヅシウ(豆州)」の時期は『新刀古刀大鑑 下巻』を参考した。「チバ(千葉)」と「二荒(日光)」に関しては調べきれなかった)
1857年(安政4)没、享年79歳
『日本刀大百科事典』『水心子正秀とその一門』『刀剣雑話(室津鯨太郎)』などによると、
安政4年(1857)5月27日没、79歳。
浅草の本然寺に葬られた。法号は「竜泉院鉄心直胤居士」。
『水心子正秀とその一門 復刻版』(紙本)
著者:黒江二郎 発行年:2021年(令和3) 出版者:雄山閣
目次:正秀の門人 荘司直胤
ページ数:64
『刀剣雑話』
著者:室津鯨太郎(川口陟) 発行年:1925年(大正14) 出版者:南人社
目次:十一 直胤の墓を訪ねて ページ数:272~277 コマ数:160~162
目次:十二 直胤の子孫 ページ数:278~289 コマ数:163~168
出典のうち、「刀剣と歴史」の昔の巻号はない。
文政13年の『刀剣雑話(細谷通寛)』も国立国会図書館デジタルコレクションにもないようである。
内容の一部を研究者が雑誌に抜粋して論じている記事はある。
作風
各伝を巧みにこなした。
備前伝は小丁子乱れに逆がかったものが多いが、明らかな逆丁子乱れもある。
相州伝は大互の目乱れに、沸え豊かにつき、砂流しかかる。以上の二伝をもっとも得意とするが、沸え匂いに力がなく、乱れの頭の締まるのが、古刀に及ばない点である。
山城伝は直刃で締まり、働きに乏しい。
大和伝では直刃が肌にからみ、縞をなしたものがある。
地鉄は以上の各伝に相応して、小板目肌に映り入り、大板目肌・小杢目肌・柾目肌に地沸えつきとなる。
しかし、地鉄に弱さを感じるのは、新々刀として止むを得ない。
『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5) 出版者:雄山閣
目次:なおたね【直胤】
ページ数:4巻P52、53
彫物は門人・本荘義胤の手によるものが多い
『水心子正秀とその一門』によると、
享和年間(1801~1803)に自身彫りがあるというが、未詳であり、殆ど門人・本荘義胤の手に成るものが多いという。
(銘文に刻まれている)
水心子正秀と大慶直胤
『水心子正秀とその一門』によると、
直胤は師に対して律儀であり、経済的にも支援を惜しまなかったばかりでなく、鍛刀上の相談相手として、最も信頼厚い門弟であった、という。
また、正秀とその息子の貞秀が立て続けに亡くなった後は、北司正次(貞秀の息子、つまり正秀の孫)を指導して奔走しているという。
師の墓碑建立にも、正次とともに「魁首」として奔走しているという。
『水心子正秀とその一門 復刻版』(紙本)
著者:黒江二郎 発行年:2021年(令和3) 出版者:雄山閣
目次:正秀の墓について
ページ数:146~152
水心子正秀の親友・柘植平助や豆州韮山の代官・江川太郎左衛門との交友関係
『古今鍛冶備考』という刀剣書は試し斬りの山田浅右衛門の著書と言われているが、もう一人この本の著者として名が挙がるのが柘植平助である。
水心子正秀は柘植平助と交流があったことが書簡に残っており、大慶直胤が訪れた地の一つイセ(遠州浜松)はこの柘植平助が引っ越した地であるという。
また、大慶直胤は豆州韮山の代官・江川太郎左衛門との交流も書簡から判明している。
その他、『水心子正秀とその一門』によると信州松代藩家老矢沢監物、秋元藩家老矢貝清太夫高寛、中老岡谷繁寿等の名が挙がっている。
大慶直胤と交友があったと考えられるものはまだまだいて、その交際はかなり広かったと考えられる。
『水心子正秀とその一門 復刻版』(紙本)
著者:黒江二郎 発行年:2021年(令和3) 出版者:雄山閣
目次:正秀の門人 荘司直胤
ページ数:63
『刀剣雑話』
著者:室津鯨太郎(川口陟) 発行年:1925年(大正14) 出版者:南人社
目次:十二 直胤の子孫
ページ数:278~289 コマ数:163~168
大慶直胤の養子の門人にはあの「鍛冶平」がいる
大慶直胤の養子は、次郎太郎直勝という。
その次郎太郎直勝の門人に、細田直光こと「鍛冶平」という有名な偽銘切りがいる。
この人物は明治の廃刀令以後に虎徹の偽銘を切っていたことで有名であり、さらに同門である水心子一門の偽作は得意中の得意だったとも言われている。
『日本刀講座 第5巻 (新々刀鑑定編) 新版』(データ送信)
発行年:1967年(昭和42) 出版者:雄山閣出版
目次:偽銘の時期的分類
ページ数:385 コマ数:246
近藤勇の贋作の虎徹はこの細田直光(鍛冶平)が切ったという説が有名である。
しかし近藤勇の贋作の虎徹に関してはほとんど伝聞・伝説であり本当に鍛冶平が偽銘を切ったかどうかはわからない。
調査所感
・水心子正秀の高弟
水心子正秀と大慶直胤は仲の良い師弟であったと言われます。
水心子は自分の息子たちも可愛がっていましたが、刀工として実力的に信頼を寄せたのは大慶で、大慶の方も、水心子とその実子が立て続けに亡くなってしまった後は水心子の孫の面倒を見ています。
『水心子正秀とその一門 復刻版』(紙本)
著者:黒江二郎 発行年:2021年(令和3) 出版者:雄山閣
目次:正秀の門人 荘司直胤
ページ数:59
直胤は長命であったため、五十余年間、師の片腕となって、その業を授け、自らも鍛刀して地鉄の研鑽を積み、子の次郎太郎直勝や川部北司正次を指導し、重胤・胤長・正俊・英胤・直国・義胤等、数多くの門人を育成している。
・旅好きの刀工
大慶直胤はよくいろいろな場所で刀を作って、その地名を「刻印」という形で刀剣の茎に遺しているのが特徴です。
たまに旅好きの刀工だとは聞いていましたが今回調べたらマジであちこちに出掛けていて驚きますね。
・研究者の川口陟氏は大慶直胤の子孫に直接会いに行っている
大慶直胤や水心子の略伝が比較的明らかになっているのは、大慶直胤の子孫が書簡を保管していたことが大きいという。
川口陟氏たちは大正時代に大慶直胤の子孫に会いに行き、直接それらの史料を預かったという経緯が下記の本に書かれていて面白い。
『刀剣雑話』
著者:室津鯨太郎(川口陟) 発行年:1925年(大正14) 出版者:南人社
目次:十一 直胤の墓を訪ねて ページ数:272~277 コマ数:160~162
目次:十二 直胤の子孫 ページ数:278~289 コマ数:163~168
・荘司家の家紋は桔梗の花
上で紹介した『刀剣雑話』に載っていますが、特に家紋系のことはとうらぶに関係あるかなーと思って。
『刀剣雑話』
著者:室津鯨太郎(川口陟) 発行年:1925年(大正14) 出版者:南人社
目次:十二 直胤の子孫 ページ数:284 コマ数:166
此肖像直胤であるや否やは不明であるが、先づ丸に桔梗の紋が荘司家の定紋である事と、此肖像の様子では何うしても刀鍛冶の図と見えるから、直胤の父とも言へまい、之は直胤の肖像と断じて可いらしい、
・余談 清麿の弟子(栗原信秀)や窪田清音とも交流あり
上述の『刀剣雑話』で川口陟氏が大慶の子孫から預かってきた書簡のなかに栗原信秀かららしきものがあるそうです。
また、よく小豆長光の話として知られますが、窪田清音は刃に当だっただけで小豆が切れるだろうかと自分で試した人ですね。
その時に刃に当たっただけで小豆が切れると思うかどうか、意見を求められた刀工が大慶直胤だったと『名刀と名将』に載っています。
それは無理だと返したみたいなんですが(この話の原文が載っている本はその辺になくて読めない)
・鑑定の世界では銘の打ち方がまずい方が本物の直胤?
大慶直胤は長命だったため老年になっても刀を作っていたが、当然その頃は銘の切り方に力がなくなっていく。
晩年の年紀で銘が綺麗に切られたものは偽作の可能性が高い。
『日本刀の歴史 新刀編』(紙本)
著者:常石英明 発行年:2016年(平成28) 出版者:金園社
目次:第3部 新々刀鍛冶の部 江戸 一 水心子正秀一門 大慶直胤
ページ数:306
変な事ですが、先輩達のお説の通り、新々刀では、直胤に限り、銘の打ち方がまづく、途中で切れたり、字が傾いたり、彫り込みの浅いものに本物が多く、鍛冶平を始め、終戦後かなり多くなされた偽作銘の方が、かえって上手に切られています。
参考文献
『刀剣雑話』
著者:室津鯨太郎(川口陟) 発行年:1925年(大正14) 出版者:南人社
目次:十一 直胤の墓を訪ねて ページ数:272~277 コマ数:160~162
目次:十二 直胤の子孫 ページ数:278~289 コマ数:163~168
『水心子正秀全集 (刀剣叢書 ; 第1編) 』
著者:川口陟 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:南人社
目次:正秀書簡集
ページ数:327 コマ数:172
『新刀古刀大鑑 下巻』(データ送信)
著者:川口陟 発行年:1930年(昭和5) 出版者:日本刀剣学会
目次:第二編 東海道 第十章 武藏國 荘司直胤
ページ数:270 コマ数:612
『図鑑江戸三作之研究 : 正秀・直胤・清麿』(データ送信)
著者:藤代義雄 発行年:1936年(昭和11) 出版者:藤代商店
目次:大慶直胤
ページ:26 コマ数:20
『新々刀大鑑』(データ送信)
著者:飯村嘉章 発行年:1966年(昭和41) 出版者:刀剣美術工芸社
目次:新々刀大鑑研究図譜(附・五十音索引) 「東海道―武蔵」 大慶直胤(寛政―安政)
ページ数:317~346 コマ数:335~364
「刀剣と歴史 (480)」(雑誌・データ送信)
発行年:1974年7月(昭和49) 出版者:日本刀剣保存会
目次:好古庵刀話(二七) / 今野繁雄
ページ数:19、20 コマ数:14、15
『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5) 出版者:雄山閣
目次:なおたね【直胤】
ページ数:4巻P52、53
『日本刀の歴史 新刀編』(紙本)
著者:常石英明 発行年:2016年(平成28) 出版者:金園社
目次:第3部 新々刀鍛冶の部 江戸 一 水心子正秀一門 大慶直胤
ページ数:303~306
『水心子正秀とその一門 復刻版』(紙本)
著者:黒江二郎 発行年:2021年(令和3) 出版者:雄山閣
目次:正秀の門人 荘司直胤
ページ数:56~65