とうらぶ考察の現時点での最終総括
ここ最近の考察の締めです。以前の考察を読んでいないとわからない不親切仕様です。
下記の内容がある程度関係あります。
光と影の情動
山姥切長義の欠点
物(鬼)について
「偽物」考――言葉遊び編――
「花影ゆれる砥水」感想
考察って言ってるくせに一つ感想混ざってるやないかい。
「花影」最高だよね……。
1.長義くんは心配性(回想141「無頼の桜梅」)
回想其の141 『無頼の桜梅』
長義「備前の刀が来たと思えば、なるほど、兼光の刀か」
兼光「キミは……、長義(ながよし)の。さすが、華やかで……うん、強き良き刀だ」
長義「長船の主流派であるあなたに、そのように面と向かって言われてしまうとね」
兼光「急にごめんね。備前長船の中で同じく相州伝の流行りを取り込んだ刀に声を掛けられたから、ついはしゃいでしまった。おつうにも、一言多いってよく言われるけど」
長義「いや、こちらの言い方も悪かったね」
兼光「そんなことないよ。兼光が相伝備前の始まりのように扱われることも、刀工の系譜も、それに正宗十哲の括りだって、後世の人による憶測や分類の結果でしかない、とも言える」
兼光「ただ、ボクが今感じたことは、それそのまま本当だなって」
長義「刀工として後に出てきた長義(ながよし)も、相州伝に美を見出した先達にそのように言われたら喜ぶだろう」
兼光「よかった。ボクは後家兼光。どうぞよろしく」
長義「山姥切長義だ。そうか、上杉……いや、直江兼続の刀か。それはまた難儀だな」
兼光「……え?」
長義「すまない。俺も一言多かったようだ」
この回想で思ったんですけどね、長義くんって割と心配性だよねって。
以前これの解釈をすでに出しましたが、ようは長義くんの懸念していることっておそらく一つ前の回想140で姫鶴がすでに指摘したこと(刀身御供)と同じだと考えられます。
長義も姫鶴もどちらも後家兼光が「直江兼続の刀」であることに着目した意見なので。
しかし姫鶴とはつーかーの仲のごっちんも、長義くんの真意は測りかねて「え?」になってしまっている。
長義くんも「一言多かった」と謝っているので、多分本来ならば言わなくてもいいような部分なんでしょう。
ごっちんが一言多かったと謝った部分は、刀工・長義の刀への誉め言葉。
一方で、長義くんが謝った部分は、直江兼続の刀が持つ性質への懸念。
ごっちんの本丸ボイスに「祝いか、呪いか、一言多いか」というものがある。
つまり、ごっちんと長義くんがそれぞれ口にした「一言多い」は「祝い」なのか、「呪い」なのか。
「祝い」も「呪い」も心の動き、働き、沸き起こる感情がもたらすもの、という描写に見えます。
ただし二振りの態度から考えると、ごっちんのが誉め言葉だからと言って、長義くんは別にあんまり喜んでいる様子はない。
誉め言葉だからと言って、それが「祝い」だとは限らない。
長義くんの「難儀」は一見ネガティブな一言で、ごっちんもぽかんとしている。
ただ別に嫌がっているというほどの反応でもないので、それが「呪い」だとは限らない。
「一言多い」それは、「祝い」か? それとも「呪い」か?
あるいは根底にどんな性質があっても、「祝い」にも「呪い」にもならない無意味な言葉で終わるのか。
そもそも長義くんが「難儀」と評したのは何か。
一応以前の考察で「愛」ではないかと結論したので引き続きそれでいきます。
ごっちんは自ら(と直江夫妻)を「愛の戦士」と呼ぶほどに「愛」を強調する刀です。
また長義くんはそれまでの言動を整理した限り「愛」というものに否定的に見えます。
長義くんが愛に否定的なんだろうという結論を出したのは回想138の方の考察だったかな。御前との対比で。
だからこそ「愛」を強調し、元主に倣うことによって刀身御供に近づきやすい後家兼光への評価が「難儀」なのだろうと。
ここのやりとり……正直、長義くんは心配性過ぎないかなーと思います。
そこで思い当たったんですが、心配性の度が過ぎて相手が「え?」ってなるのは舞台の「慈伝」の長義くんも同じだったなと。
すったもんだの末に「ここは可哀想な本丸だったんだな!」とか自信満々に言い出したけど三日月絡みのあれこれがあったとはいえ別に自分たちを可哀想とは思ってなかった舞台本丸の次郎ちゃんたちが「可哀想?」ってぽかんとしてたやつ。
……ということはさ、「慈伝」で末満氏が提示した山姥切長義像は、この回想141の先出だったんじゃないか?
とうらぶは実装されてなくても回想自体はどの刀にも山ほど作っているんでしょう。
たまに古参審神者が最終的に回想数はどの刀も同じくらいになるという制作側のコメントを見ただかなんだかみたいな話を聞きますね。
正確なソースはわからんけど、私はとうらぶに関しては話の作り方から言ってむしろそういうものだと思います、と前から言っています。
最初から徹底的に情報を調べ上げて精密な構造図を書いて、情報の出し方で話の進捗をコントロールする作品ですね、と。たぶんゲーム開始前から百振り以上の根幹設定はしていたと思いますし、長義くんなんかは刀の情報を調べるとしたら国広と同時にやっているはずなので構想の最初期から存在するキャラだと思います。
おそらく各派生の脚本家陣には原作側からもともとこの男士はこういう設定でと伝えているはずでしょうから、舞台やミュージカルはまだ我々が見ていない情報も持っているはずです。これ自体は普通のことです。
そして「慈伝」で末満氏が強調的に描きたかったのは長義くんの回想141みたいな面だったのではないかと思います。
相手のことを心配するあまりに、悪いことや不安要素ばかり目に付いて、先走って心配してしまう。
以前「山姥切長義の欠点」で出した長義くんの性格のスタンダート解釈から言ってそんな感じでしょう。
私の言葉で言えばこれは随分とまた心配性だなって感じです。
正直、情が深すぎて相手のために尽くしすぎてしまうことを「難儀」と呼ぶならごっちんよりむしろ素直じゃない分長義くんの方がよほど「難儀」だろって思うんですが。
この心配性の類義であり、とうらぶ内で使うべきより正確な表現はどうやらもう出ているようです。
ここの解釈の材料として、最近ミュージカルを「花影ゆれる砥水」まで一気に摂取したのでそちらの情報を含めて考えたいと思います。
小竜「難儀だなあ」
長義「貴方こそお節介が過ぎると言われたことは?」(「花影ゆれる砥水」)
小竜と手合わせした際に長義くん自身が「難儀」と言われ、小竜に「お節介」と返しています。
なるほど、とうらぶにおける「難儀」の対義語は「お節介」か。
自分のことだけでも成立する心配性というよりは、対象となる相手の世話をつい焼きすぎてしまう性質なので確かに「お節介」が適切な言葉選びのような気がしますね。
ごっちん実装からしばらく、回想141のその後が気になりすぎて「難儀」という表現を使うのってどういうシーンかなって延々考え続けていたんですが、やっぱり私の感覚でも「難儀だね」って言ってしまうのは自分から苦労を背負いこむタイプの人を前にしたときだと思います。
だからやっぱりごっちんより長義くんの方がよっぽど「難儀」なんだよな。
誰にも本心を明かさないまま国広にしろごっちんにしろ心配しすぎて空回りしまくってるんだから(言い方)。
花影の小竜とのやりとりが一番両者の距離からして適切なやりとりな気がしますね。
長義と国広とのあれこれを知っている小竜からすれば山姥切長義は「難儀」。
色々知られているとはいえ、あなたが口出すことじゃないよと言いたい長義からすれば、小竜景光は「お節介」。
このくらいが後家・姫鶴ほどとは言わないけど親しい仲で割と遠慮なくお互いへの印象を口に出せる仲からすれば適切かなと。
逆に言えば、回想141と「慈伝」の長義くんはそうした内面が伝わらない状態で口にしちゃってるから「一言多い」し、南泉から「後からどうしてこんなこと言っちゃったんだってなるから!」と忠告されているわけですね。
……やっぱり、舞台の末満氏のとうらぶ原作ゲームを完全に理解しながら自分が手掛けた舞台本丸の物語のために再構成する解釈と作劇術めっちゃすごいんだよな。
一見原作ゲームの描写からずれたように見えても、あの本丸はああいう条件で、と考えればやっぱり長義くんはああなるんだよ、という理屈を見事に捉えていると思います。
そして、ミュージカルの方は「花影ゆれる砥水」で初登場しましたが、こちらの山姥切長義像も素晴らしい。
「花影」の長義くんはとにかくスタンダードな山姥切長義像だと思います。
私は「山姥切長義の欠点」で大体原作ゲームを中心にそれぞれの派生作品の描写を分析して得られる山姥切長義像はこんなものだろうという解釈を出しましたが、「花影」の山姥切長義像はそれに見事当てはまるものをお出しされてここ数日「花影」に狂っておりました。
というか単純に「花影」が面白すぎて、あまりにも原作ゲーム準拠の派生が見たい考察勢として理想の作品をお出しされて「花影」そのものにしばらく狂っておりました(今も)。
私からすると末満健一氏が描く舞台の山姥切長義像(慈伝、綺伝、夢語)と、浅井さやか氏が描くミュージカルの山姥切長義像(花影)は、完全に一致したと思います。
そもそもとうらぶ原作ゲームが描く「山姥切長義」とはどういった刀剣男士か、という理屈の部分をこの二種類の派生作品は完全に見せてくれたなと思います。
自分が以前出した考察「山姥切長義の欠点」も大筋では長義くんの性格を捉えたと思っているので、今までまったく長義くんの考えていることがわからないよと言っていましたが、最近は1%くらいわかるようになったよ! と自信を深めていきたいと思います。
と、いうわけで原作ゲームは早く残りの99%の情報下さい(オイ)。
2.山姥切長義は「美しいが、高慢」
「祝い」か「呪い」か、「一言多い」か。
回想141の後家兼光と山姥切長義の会話に関してはまだニュートラル、
どちらの言葉も「一言多い」けど、「祝い」にも「呪い」にも転んでいないと思う。
原作ゲームはずっとこういう印象ですね。
常に中立で、それ故に己の心が歪んでいなければそこに妬みも憎しみも描くことはない。
しかしそこにあえて何かを描いて物語を進めるのが他の派生作品です。
長義くんは「花影」の表現を借りればおそらく「お節介」。
「難儀」の対極にあり、けれどよく似た性分。
相手に対して善意からなんとかしてやろうと世話を焼きすぎてしまう。
しかし世話を焼かれる側がそれを歓迎している様子がないのでこうとも言える。
余計なお世話。
……回想141のごっちんとの会話は、心配性すぎると思う。
しかし、回想140ですでに姫鶴が指摘を入れている以上、おそらく着眼点自体は間違っていない。
そこが難しいところですね。
舞台本丸に関しても、本丸全体に対して「可哀想な本丸」と言ってしまうのは上から目線で押し付けがましすぎる。
ただし、実際に舞台国広は長義が来るまで修行に行けないほど三日月喪失のダメージから立ち直れていなかったことを考えると、長義がそれだけ国広を心配していたのは決して的外れではないと思うんですよね。
そこが問題だ。
私は「慈伝」の最初の考察の時点でもこういう印象を書いていたと思います。
いくら三日月を喪ったからといって、あの本丸は決して「可哀想な本丸」と言われるほど憐れな存在なんかではない。
「そうか! ここは『可哀想な本丸』だったんだな!」
「『偽物』が近侍となり、『偽物』に率いられてきた!」
「どうしてそんなことになった! それは、誰も『本物』を知らないからだ!」
「どうして俺がこの本丸に配属されたのか、その理由がよーくわかった!」
「『偽物』しか知らない君たちに、『本物』を教えるために俺は遣わされたんだ!」
この辺の発言は単に、長義くんがあの本丸を可哀想と思っているだけだろう。
あの本丸に同情している、だからあの本丸に対して自分ができることを考えてしまう、それだけだ。
でも台詞だけ見たら完全に煽り! どう見ても喧嘩売ってます!
……つまりさ、
「高慢」というのは、相手を愛し心配し、なんとか救いたいと思ってしまう「慈悲」の裏返しにある感情なのではないか。
心配が行き過ぎて、結果的に相手を見下してしまっている。
上から目線で偉そう過ぎる上、一周回って相手の方もぽかんとするくらいには発言の的を外している。
南泉にもお前それあとで黒歴史になるぞみたいな扱いをされている。
でも多分、事前にあの本丸の情報を知っていたと繰り返すあの子は、舞台の長義くんはたぶん、本当に心からあの本丸に同情しているんだろう。
その発言が「高慢」でも、どう考えても相手を見下しているようにしか聞こえなくても。
心配していた、可哀想だと思っていた。あの本丸の刀たちを。
あの本丸の国広を。
だからあの話は、まさしく「慈伝」、限りない「慈しみ」の話なんだろうと。
3.山姥の呪いとは何か
舞台の長義くんの「高慢」についてもう少し考えようと思う。
その前に、まず「呪い」についてちょっと整理したほうがいいかなと。
……長義・国広は本刃たちは呪われていないっていうけど、やっぱり呪われてるんじゃないか?
「慈伝」の長義くんの台詞は回想141や「花影」に比べると、原理は同じでもやっぱりちょっと行き過ぎててもう完全に喧嘩を売っているようにしか聞こえない。
やってることはせいぜい「外伝」の長谷部と同じだし、「花影」では今度は長義が「外伝」の長谷部みたいなやり方でミュージカルの長谷部を奮起させるという(ややこしい)ことをしているので、やっぱり普通に考えると長義くんの性格は「花影」がスタンダードでそのぐらいだと解釈難易度は結構下がるはずなんだよ。
「慈伝」の「行動」の原理だけ見ていると、「花影」と完全に一致すると思う。
ただ、いくら「行動」原理を理解したからと言って、「台詞」を完全に無視するわけにはいかない。
長義くんの性格を掴んできて、原理を整理できたからじゃあ最初に戻って確認しようと回想56、57だけ見たところでこの性格を読み取れるかという確認作業に戻ったのですが。
(そうじゃないと原作ゲームの考察として完成したとは言えないから。
派生作品の解釈しか出せないならそれは原作ゲームではなく派生の考察をしただけになる)
回想其の57 『ふたつの山姥切』
長義「やあ、偽物くん」
国広「……写しは、偽物とは違う」
長義「俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?」
国広「……名は、俺たちの物語のひとつでしかない」
長義「……なに?」
国広「俺たちが何によって形作られたのか。それを知ることで強くもなれる。けれど、もっと大切なことがあるのだと思う……」
長義「……なにを偉そうに語ってるんだよ」
国広「お前とこうして向き合うことで、またひとつわかった気がしたんだ……」
長義「俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺だ! お前が御託を並べようと、それは変わらない」
国広「そうかもしれない。……すまんな、俺もまだ考えている。……こうして戦いながら」
国広「……また話をしよう」
長義「…………」
長義「……くそっ……くそっくそっくそっ! なんなんだよ!」
いや、やっぱ回想56、57だけで他の派生まで含めた解釈に到達するのは難しいな??
回想141を踏まえると「慈伝」と山姥切長義像の行動面がほぼ一致するからまず、「原作ゲーム」と「慈伝」つまり舞台の山姥切長義像は理屈の上では同じにならなければならない。
鍵は舞台の「慈伝」。
その「慈伝」と「回想56」、そして「回想57」という国広絡みの回想両方とも原理が一致しなきゃならないはず。
というか、「回想141」と「慈伝」が一致する以上、ここは「全部一致する」というのが論理的に一番自然な結論になるはず。
何かまだ見落としている要素があるな。
「慈伝」の長義くんの行動は確かに「花影」と一致する。
ただ、真意を示す「行動」と表面上の「台詞」の乖離が、「慈伝」はかなり大きくないだろうか。
相手が国広であるかどうかというのは確かに大きいだろう。
しかしそれにしても、多分それだけじゃない。
「花影」の長谷部相手へも素直じゃないのは一緒だけど、「花影」は台詞と行動の間にそれほど違和感がない。
「慈伝」も見ていると行動原理は完全に同じだと感じるのに、台詞だけ印象がやたらと大きくずれ込む。その理由は何か。
「慈伝」の長義くんの国広への台詞と、「花影」の長谷部への台詞の違いを生むものは何か。
相手が違うという要素は当然重要。ただしそれだけじゃなく、「慈伝」は国広というか長谷部の行動で長義くんが国広に拒絶されていると思ってどんどんキレていくっていうのも重要な要素なんよな。
そして、それだけど巴戦の二振りの会話を聞けば、長義くんはやっぱり国広を認めてあげたいとはずっと思っているんだよね。
なのになんで表面は全力で喧嘩を売ってしまうのか。
いくら愛を認められない、認めたくない素直じゃない性格と言えど……
……素直じゃない?
……長義くんの台詞の違和感を、言葉にしてみよう。
回想56、57でも、「慈伝」でも。
国広に対する発言が特に、「本心と真逆」に感じる。
真逆……逆? 完全に……
……なるほど! わかった! そういうことか!!
これが「山姥の呪い」だ!
「山姥」、すなわち「天邪鬼」!
瓜子姫の話題を出すときにたまにやった……いややったかな省略しちゃったっけ?(オイ)
やったかもしれないしやらなかったかもしれないけどそれはともかくこういう話がある。
「山姥」は地方によっては「天邪鬼」と同一とされる妖怪である。
「天邪鬼」に関しては多分説明不要だろうけど、本心と逆の言葉を口にする妖怪ですね。
ついでにその「天邪鬼」、記紀神話の「天探女」と呼ばれる人の心を探る女神とも同一視されますが、これはちょっと置いといて。
「山姥」と「天邪鬼」が同一視されることは「山姥」を調べてる審神者は結構知ってる人が多いと思うんですが、具体的に検証してる人は多分まぁいないよね……。
私もずっと知ってたのにスルーだったわけですし。
ただ、派生作品それぞれの長義像がずれ込む理由を原作から還元するならやはりそこしかないかと。
長義は行動だけ見るとおそらく、最初からずっと国広のことを想っている。
一見喧嘩を売っているような行動も、本心はずっと国広の為に行っている。
けれど言説がその行動と一致することがあまりにも少ない。他の相手ならば多少は一致するのに。
その「程度」は素直じゃないで済ませられるレベルを超えて、これはむしろ本当は心から想っている相手との摩擦を生じるのではないだろうか? というほどに。
いくら冷静じゃなくても、普通だったら言いたいこととやってることがそこまでずれ込む人ってそんなにいないと思うんですよね。
ただの素直じゃない人と、刀剣男士・山姥切長義はどこがどう違うのか?
猫を斬った南泉は、何を以て己を猫に呪われていると判断したか。
ふかふかの土に誘われたりする習性もだろうけど、一番はやはり語尾。
言語面に表出する猫の鳴き声。
「猫斬り」は、「猫」を切ったから言動が呪われて「猫」になる。
ならば「山姥切」は、「山姥」を切ったから言動が呪われて「山姥(天邪鬼)」になる。
突き詰めてしまえば、単にそれだけの話じゃないか?
回想其の54 『呪い仲間』
南泉「おーおー、ホントに顔隠してんだなぁ」
国広「……何だ。文句でもあるのか」
南泉「オレと同じ、呪い仲間さんかと思ってさぁ」
国広「……呪い? じろじろと顔を見たがるやつが多いからだ……」
南泉「んぁ? なんだか呪いよりも厄介な気がするなぁ……。オレはこの呪いさえ解けりゃ、自由の身だけどよぉ……お前はどうするんだ?」
国広「……知るか」回想其の55 『猫斬りと山姥切』
長義「おや、猫殺しくん」
南泉「……うるせぇ。見知った顔でも、お前には会いたくなかったよ」
長義「へぇ、それはやっぱり斬ったものの格の差かな? わかるよ、猫と山姥ではね」
南泉「そういう性格だからだ……にゃ! ……あぁ、そうか。お前も呪いを受けてたんだにゃ?」
長義「呪い? 悪いがそういうのとは無縁かな。なにせ、化け物も斬る刀だからね」
南泉「猫斬ったオレがこうなったみたいに、化け物斬ったお前は心が化け物になったってこと……にゃ!」
長義「語尾が猫になったまま凄まれても……可愛いだけだよ」
ごっちんと長義くんの回想141の答は、ごっちんと姫鶴の回想140がそれそのものだと思われる。
後に来る回想はその前の回想の内容を受けている。
ということはここも同じで、回想56、57の回答はふたつの山姥切がそれぞれ南泉一文字と「呪い」に関する話をした回想54、55にあるのではないか。
回想54で、山姥切国広と南泉一文字は「呪い」と「顔」の話をしている。
回想55で、山姥切長義と南泉一文字は「呪い」と「心」の話をしている。
そして「山姥」に呪われた「山姥切」同士が話している回想56、57で二振りがしているのは「顔」と「心」の話なのではないか?
……自分たちが呪われていることにも気づかないまま……。
南泉が自分は呪われていると考え、長義と国広が自分は呪われていないと考えるのはそれぞれの状況の違いではないだろうか。
南泉の苦しみ、不都合の根源は猫の呪いによる語尾を始めとした振る舞いへの影響そのものだが、長義・国広は言動に山姥(天邪鬼)の影響があったとしても、それをもはや完全に自分の一部、自分の性格と捉えていて、それ自体は苦しみの根源にはならない。
だからふたつの山姥切はそれを「呪い」とは捉えない。
しかし、「慈伝」にしろ花丸にしろ長義の登場で南泉や五虎退が登場して憧れと現実、そして呪いと眷属の要素を強調していることを考えると、長義・国広の物語は「呪い」のメタファーを前提に考えるべきだと思われる。
派生作品を見るとやはりとうらぶは「全部がメタファー」の世界のようだから、原作ゲームの回想ですでに出てきたワードも言葉遊び的に分解してメタファーに直すべきだと考えられる。
そして回想56、57で重要なのは両方に共通しているこの部分。
長義「俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?」
ここではないだろうか?
「名で顔を売る」とは何か?
この文句の不自然さは以前にも考察した気がする。
普通は「名を売る」か「顔を売る」のどちらかだろう?
いったい何故「名で顔を売る」という表現が成立し、どこに何がかかっているのか。
おそらく「売る」も一つのメタファーだとは思うが、花だの鬼だのに比べると意味がはっきりしないのでここはずっと保留していた。
ただ、「顔」と「心」のメタファーに関しては最近ちょっと考えたことがある。
「顔」は「面」とも書くからその読みから「表」に通じる。
そして「心」は「うら」とも読むので、「裏」を表すのではないか。
「顔」と「心」は、「表」と「裏」の関係になっている。
特にミュージカルの方ではよく「表と裏」の話をしている。
「花影」でも本阿弥光徳が「表も裏も 運命は裏腹や」のようなことを言っていたし、それ以前から「表と裏」の話題はよく出ていた。
そして舞台の新作でまだ公演はされていないがタイトルだけ発表されている慶応甲府は「心伝 つけたり奇譚の走馬灯」。
「心」はすでに「悲」や「慈」の一部ではなく、この一文字単独で成立するメタファーと捉えるべきだと考えられる。
回想54からすれば、山姥を切って山姥に呪われている山姥切国広は、そのせいで顔を隠している。
回想55からすれば、山姥を切って山姥に呪われている山姥切長義は、そのせいで心が化け物になった。
……しかも、山姥切国広は極修行で己が山姥を切ったという説を新たに知識として獲得しながら、自分でそれを否定するかのような結論を出し、それまで顔を隠していた布を外して帰ってくる。
その極国広と長義の回想57で、国広は「……名は、俺たちの物語のひとつでしかない」とかつてのこだわりを捨てたかのような発言をする。
このように見ていくと、確かに国広は「顔で名を売る」ことをやめたのではないだろうか。
呪いによって隠していた顔を晒すようになったことが、山姥切の名で顔を売る事の否定であり、同時に自身の山姥切の名の否定にも繋がっているのではないだろうか。
極めた国広は呪いを否定する。呪いを捨て去ってしまった。
しかし「祝い」か「呪い」か「一言多い」かわからないが、その「呪い」こそが己が「山姥切」であることの証明だとしたら……。
……派生の長義くんは、いつも国広に、国広自身の名に自信を持ってほしいからこそ色々なやり方で働きかけているようである。
一番顕著なのが実は花丸のコミカライズ版なので微妙なところだが、「慈伝」の言動の端々などからしてもやはりこの解釈で間違っていないような気がする。
極国広は山姥切の名と共に山姥(天邪鬼)の呪いをも捨て去ったことで、ようやく長義と向き合える、長義に対して本音を話せるようになったといえばなったのかもしれない。
だから「……また話をしよう」と言える。
一方で自身の状況に変化のない長義はどちらの回想でもその言動はまだ山姥(天邪鬼)に呪われたまま。
……回想57の後半に関しては、やはり長義くんの極が来てからもうちょっと考えたいところですね。
長義・国広に関しては長義の意識も極で変わりそうだからこの回想の続きが来るのではないかと考えられる。
解釈はそこからが本番かと。
ただ今回は、そこまで行かずに回想56、57で共通する部分だけ考えたい。
4.心を茲(ここ)に、原作と「慈伝」の山姥切長義像
回想其の56 『ふたつの山姥切』
長義「やあ、偽物くん」
国広「……写しは、偽物とは違う」
長義「俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?」
国広「……そんなことは」
長義「でもそれは、仕方がないか。だって、ここには俺が居なかったんだから」
国広「……それは」
長義「俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺だ。そのことを教えてあげようと思っただけだよ」
原作では国広が極めた後まで話が進んでいるが、舞台の「慈伝」を考慮に入れるなら一度この回想56を基軸において「慈伝」と原作ゲームの両方で長義が何を考えていたか、回想141を参考に探りたいと思う。
回想57との違い、回想57になると聞けなくなる部分は
「でもそれは、仕方がないか。だって、ここには俺が居なかったんだから」
「俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺だ。そのことを教えてあげようと思っただけだよ」
この部分。
原作ゲームでも、「慈伝」でも、長義はここで何を国広に伝えたかったのか。
このやりとりの一番重要な部分は何か。
回想141を参考に考えよう。
「難儀」、そしてその対極の「お節介」。私の言葉で言えば心配性。
これまでの考察で掴んだ山姥切長義という男士の基本的な性格。
それならばここの意味は。
「持てる者こそ与えなくては」を「枝葉への慮り」と超訳する御前流に解釈するならば……
「今までお前ひとりで大変だったね。
これからは俺が一緒にいてあげるからね☆」
ぐらいじゃないの?(言い方)
「山姥切」という名の認識についてまるで国広が最初から持っている名であったように周知されることを長義くんは不満に思っているらしい(まるでも何も研究史的にそちらが正しいが)。
ただし、だからと言ってその状況をものすごく恨みにおもっての発言ではないと思われる。
長義と国広の回想に関してはとかく当時の事件を受けて冷静に見られない人が多いのと、回想56、57を分けて考えるかごっちゃにするかで長義の態度がかなり変わるので話の整理がつけづらいところがある。
しかしあくまで回想56だけ見るなら終始長義の方が余裕があって、国広は長義に対し反論もできなければ、不満も言わないで話が終わっている。
そして長義の方も別に国広を完全にやりこめようとかそういう意図で言っているわけはないように見える。
長義の発言の要点をざっくりまとめると、
1.名の認識の混乱への軽い不満
2.ここに自分がいなかったという事実確認とその許容
3.これからは自分がいるので山姥切の名に関する認識が変化するだろうという話
……いやマジで、上の解釈でいいんじゃねえのこれ。
この内容でしかも性格が「天邪鬼」なら、一番伝えたかったのは
「これからは一緒にいる」
ここじゃないか……?
ああ、そうだ。もしかして。もしかして。
原作ゲームだけだとこれだけではピンと来ないかもしれない。
我々の特に何も起こっていない、というか対大侵寇まで本当に何も起こらなすぎる「うちの本丸」では特に切迫した理由や必要性を感じないから。
けれど、舞台の本丸は違う。
「慈伝」であの子がずっとこの本丸の近侍に挨拶をせねばと言っていた意味は。
ずっとずっと、何度色々な形で邪魔されても、国広に会いに行こうとしていた意味は。
「悲伝」で大変な経験を、辛い思いをした国広の、
ただ、傍にいてやりたかったから……?
派生作品の山姥切長義はほぼすべての作品で、自分のことを心配する場面はあまりなく他者の心配ばかりしている存在だと思われる。まだ全部は観ていないけれど、私がチェックした範囲ではほとんど国広の心配ばかりしている。
(無双とか自分も長尾顕長の刀なのに完全スルーで国広の心配しかしてなかったからね)
「慈伝」の長義の行動、ずっと不思議だったんだ。
国広に会いに行って何を言うつもりだったのか、他の刀たちに邪魔されなければ何をしたかったのかを。
いや、特に何かをするとかはあんまり考えてなかったのではないか。
ただ……ただ傍にいてあげたかっただけでは? 本歌として。だって彼は。
――写しが大変な思いをしている時に、傍にいてあげられなかった。
「慈伝」の長義は繰り返す。あの本丸の事情は最初から知っていたと。
そして深く同情している。同情しすぎて一周回って上から目線の高慢な発言になるほどに。
他者のことばかり考える性格、初対面の後家兼光でさえ心配しすぎて「難儀」とか言ってしまう性格。
けれどあまりストレートな優しさは見せず、いつも自分のためだと嘯きながら悩み惑う他者の背中を押す。
「花影」で長谷部相手にそうしたように。
自利に見せかけた利他の刀。
そういう長義が、自分がまだいない本丸で、周りにたくさんの仲間がいるとはいえ、国広が「悲伝」のようにどうにもならない大変な思いをしたと知ったなら。
傍に、いてあげたかったと、思うのではないか。
「悲伝」の時点で国広がこんな状況なのにまだ来ないのかよ本歌は……っていう趣はたぶんあったと思うんですよね。
それさ……一番強く思うのこそ、長義くん本刃なんじゃないの?
自分にとって大切な存在が辛い思いをしたのに、自分はその時そこにいなかったから何もできなかったなんて。
それを後から知ってしまったらあの子はどう行動する?
ただ、傍にいてあげたいと。これまでのことはどうにもできないとしても。
せめてこれからは傍に。お前の力に。
だからずっと国広に会いに行こうとしていて、手合せで国広を奮起させようと焚きつけて(この行動自体は色々な場面で色々な刀が使う手法)、そして。
――お前がどう言おうと、あの勝負は俺の負けだ!
――だが俺は強くなる。「この本丸」で俺は強くなるんだ!
ここに、この本丸にいることを選んだ。鶯丸からもう誰も喪いたくないという国広の想いを聞いた後で。
……ミュージカルの方はまだ保留なんですが、少なくとも舞台と花丸に関しては国広側の長義に対する願いは一つだと思うんですよね。
ここにいて。……この本丸に。
そのためなら例え、国広自身が「名前など好きに呼べ」と、己の名を否定しても。
これに応える長義くんの答も、最初から一つだったのかもしれない。
ここにいるよ。
ここに、この本丸に、これからはずっと一緒だと。
本歌と写し、二振りの「山姥切」の物語は、本当はただ最初から――それだけだったのかもしれない。
彼らが斬った「山姥(天邪鬼)」、彼ら自身の一部が自分の本当の願いすら邪魔をして、伝えたい言葉が上手く出なくても。
本当に大事なものはただ、それだけだったのかもしれない。
5.花影の統合、一期一振の極修行
「花影」感想で言及したんですが、あれは一期一振の極修行だよなぁと。
すでにそういう感想はいっぱいあるようですが。
「花影」の素晴らしさは直接ミュージカルを見てもらった方がいいとして、ここで考えたいのは一期一振と山姥切国広の極修行間の思考の推移と結論に関してです。
「花影」の中では、おもに小竜と大般若が一期一振に「自分自身」をもたせようとして何かにつけて刺激します。
瓜畑遊びの時に、つまらなそうだよ、と話しかける小竜が一期から引き出そうとしたのは一期自身の感情、一期自身の想い。
けれど一期はどうしても、弟の存在を介さない答を見つけられないようだった。
兄であることが全て。
兄ではない一期一振とは何者なのか?
これに関してはすでに舞台の「天伝」でもさんざん問われていますね。
秀頼のその問いに、一期は答えられなかった。
「天伝」ではそこに太閤左文字が「秀吉も秀頼も一期一振も、みんな蒼空」という答を持ってくる話でした。
「花影」は、一期が己の空白を自覚し、受け入れ、己自身でそれを乗り越えてくる話となっているように思います。
「きっと何をしても埋まることはない」
それが一期一振が「花影」で自分自身で見つけてきた答でした。
小竜や大般若は、一期一振にも言葉にできないだけで、兄である以外の自分があるはずだと考えたから一期自身の本音を引き出そうとしていた。
けれど、そんなものはない。
兄である以外の自分は、豊臣家の一期一振はあの日大阪城と共に焼け落ちてしまった。
これが厳密な答でしょう。
そんなことないよね? 一期一振にはちゃんと優しい中身があるでしょ?
それは私たちが、そう思いたいためのエゴに偏った見方なのだろう……。
記憶がないからこそ、中身がないからこそ、元主の赤子を可愛らしいと思うことなく殺せる。
その絶望は、可愛らしい赤子を泣きながら殺すのと同じくらい大きな絶望。
そういうものだったと、気づけなかった私自身のエゴ。
ところで理屈の抽出の方に戻ると、一期一振の極修行をなぞる「花影」のこの構成からすれば、極修行は外野が見ているその刀の像と実際にその刀の選んでくる答が逆です。
これ……山姥切国広の極修行の時の感想とも同じでは?
写しとしての自分を見てきて、写しであることを受け止めて、その上で自分に自信を持ってきてほしかったんだよこっちは。
一通目の手紙からすると、国広自身も多分そのつもりだったろう。
最初に提示された物語、「霊剣山姥切の写し」という情報を基準に考えれば普通に致る想いはやはりその辺でしょう。
けれど、実際に国広が己の過去で見たものは、求めている答ではなかった。
山姥を切ったのは自分。
そしてそのせいで、本歌である長義を自分自身の手で殺している。
その事実を受け止めなくてはいけなくて、受け止めた時、得た答は求めていた答と逆転した。
「花影」の一期一振と同じように。
写しであることを受け止めて自分の存在に自信を持つのではなく、山姥を切ったことを知りながら、そんな自分を否定する。
己自身で山姥(天邪鬼)の呪いを捨て去ったものの、写しであることそのものも否定してしまう。
物語を否定している。
己の物語が、長義を、本歌を殺すものだと知って、逆にこれまでの願いである見つけ出したかった自分の中身、自分の願いの方を、「偽物ではない山姥切国広」を殺すことにした。
一期がひとときの夢を見たという、影打こと「カゲ」を切らざるを得なかったように。
“長義「だが 強い物語を得られず後の世にそのあとを残さない影ならば」
長義「いずれ一期一振という物語に統合される」(「花影ゆれる砥水」)
小竜「どっちでもいいんだよ 君が秘匿すれば歴史には残らない」
小竜「歴史に残るものは誰かに認められ世に出たものだけだ」
小竜「誰かの個人的な小さな綻びは統合され 消されていく」(「花影ゆれる砥水」)
「花影」はこの辺の今まで不明だった「統合」のルールを結構明かしてくれましたね。
カゲは一期一振に、つまり存在感の強い方に統合、という長義くんが口にしたルールの方は現実でも認識というのはそういうものなのだと納得できる範囲です。
ただ、小竜くんが言外に本阿弥光徳を責めるかのような桜と雨の場面の台詞からすると、その現象は消される側、綻びとして統合される側からすれば、我々が想定していたより遥かに悲痛な叫びのようです。
私がここの考察でこれまで「統合」を「両者保持」の意味合いで使っちゃったのでちょっとややこしいんですが、とうらぶの中での「統合」はまさしく「食い殺す」、相手の存在を己に完全に「吸収・合体」する意味のようです。
影打はたとえその名を得られなくても一振りの名刀です。その刀工が打った真作には間違いありませんから。
けれどそれほどの名刀であっても、一期一振より先に本物と鑑定されてその立場を奪いかけたほどの影打であっても、個としての存在を示す名を得られなければ、「一期一振」の物語の一部として「統合」されてしまう。
ここのルールがかなり厳密であることが、刀剣男士の在り方にも密接に関係しているようですね。
舞台とミュージカル、両方で実質「極修行」にまつわる話をやってあれがどういうものか大体明かされたのは原作ゲーム考察勢的には大きいです。
と言いつつ俺まだ国広の単独行見てねぇ――!
あの頃はまだ花丸とか禺伝とかミュージカルほぼ全部とか見てない話多すぎて(禺伝にいたっては今もまだ見れてない)順番考えたらとばすしかないかなーと思ったんですが、今思えば見とけば良かったくそがー(迂闊)。
最後にちょっと、「花影」と同じく一期一振を中心とした話である舞台の「天伝」から気になる要素をピックアップしておきましょう。
「天伝の太閤左文字」と「花影ゆれる砥水」を繋ぐ重要要素は物真似、すなわち「模倣」。
「やつし比べ」
「花影」の本編のあとの第2部のライブパート? その中のコントで千秋楽は長義くんが医者をやるってネタだったんですが、そこで「やつす」という言葉が使われていますね。
思えば太閤くん自体「名に恥じぬ働きを」の男士ですし、「やつす」は見すぼらしい姿になる、みたいな意味が中心でしょうが「やつし比べ」は物真似、つまり「模倣」と言えば「模倣」じゃないか。見落としてたわ……。
ついでに猿と鬼の関係で言うなら塞の神と呼ばれる猿田彦の話も、大猿が人を食ったという話もあり、猿と言う言葉は鬼の物語の中にも登場する要素である。
「やつし比べ」をし、「名に恥じぬ働き」を求める太閤左文字が天伝で名の問題を抱える写し・山姥切国広の鏡だったことはごく自然な配置だったようですね。うーむ。
そして一期を秀吉・秀頼親子と繋いだ上で「蒼空」と表現したのはその太閤左文字。
一方逆に一期一振を中心に置いた「花影」で一期を支える役目を審神者から任されたのは長谷部であり、長義はこの長谷部の方のフォローに回っている。
小竜や大般若が一期に自分自身を見つけ出させようと動いていたのに比べると、長義くんは長谷部の方の背を押す役割が大きかったと思われます。
へし切長谷部、あなたはそれでいいのか、と。
隊長である長谷部の方を刺激して、長谷部の中の一期を取り戻したい、自分にとっての一期一振は影打ではなく本丸の仲間である一期一振だという感情を刺激した。
やってることを考えると長義くんは本当に「慈伝」でも「花影」でも同じなんですよね。
「花影」では、一期を取り戻したいのに迷う長谷部の背を押すために色々と働きかけ、わざと手合せを申し込む。
「慈伝」では、三日月を取り戻したいのに動けない国広に自分自身を自覚させるために、完全に喧嘩を売る勢いで手合せを申し込む。
舞台とミュージカルで長義くんのやってることとその結果が完全に一致です。
ここまで一致するなら両者は完全に同一である、と見ていいと思います。
「花影」は本編でも第2部の医者に関するコントでも、長義と長谷部の性格の相似と反発が描かれています。
疲労を隠して仕事をし続ける性質は二振りも同じだと。
医者長義は患者のために、長谷部は仕事のために。
お互いにお互いを頑固、強情だと。
「疲労」は以前もやった通り、「影」の発生に関するメタファーですから第2部のコントは実はすごく重要なネタですね。他の日は何やってたんだろうこれ。
「主」こと観客の声援こそが疲労をとばす薬、って原作ゲームの第2節の大型アップデートから導入された「疲労散露」だこれ……。
そういうわけで、まだ細かいネタは詰め切れていませんが、メタファーの配置、存在とその役割が同テーマの話でかなり共通する、具体的に言えば一期一振と山姥切国広の極修行の構造が同じであることを、ここでしっかり意識の上に挙げておきましょう。
6.慈悲が生む鬼、慈悲が滅ぼす世界
ミュージカル見てようやくわかったことがあるんですが。
あれだね、原作ゲームのあちこちですでにあの世界、2205年の未来は世界が崩壊寸前になっているっぽいという世界観。
あれ、世界が滅びそうになっている原因も歴史改変の結果じゃん。
つまり、我々の行動の結果。
そうか、そういうことなんだな。
慈悲が鬼を生むなら、般若は世界を滅ぼしてしまう……いや、微妙に違うな。
どっちも慈悲なんだ、どっちも般若なんだ。舞台もミュージカルも。だから。
人を救いたいという「高慢(慈悲)」こそが、世界を滅ぼす。
ここ最近の考察で私が何度か言わせてもらったこの理屈だわあれ。
――刀剣の物語はどれもこれも幻想です。そしてそれでいいのです。
――もしも幻想を史実ではないからとすべて否定してしまえば、
――我々自身の本丸が、まず滅びてしまいます。
正史に拘り過ぎて、史実でないものに価値はないと、過去の通説、事実誤認や創作、誤伝を全て否定してしまえば。
刀剣一振りの物語などというものは、何も残らない。
号のない刀剣に価値がないわけじゃない。
創作の逸話だから無意味なわけじゃない。
誤伝を無価値と否定してしまうなら、どんな歴史も成り立たない。
あの世界が滅びているのは、ミュージカル本丸で三日月がやっている「機能」の結果だろう。
「つはものどもがゆめのあと」で、ミュージカル本丸の三日月は藤原泰衡をはじめとする歴史上の人物たちに積極的に関わって正史を守らせている。
それは正史こそが正しいのだからと、他の物語を斬り捨てる行為で、正しい物語以外はいらないと誤伝を物語からカットしてしまうような行為ですね。
そうすると途中の時代に何が在ったのか未来からその時代の資料を見た時の欠落が埋まらなくなって、余計に真実が不明になるという。
なんというか……ここの考察でもよく言っていたあの現象です。
認識に関するごく一般的な問題を物語に落とし込んだだけのものと言えばそうですね。
というかそういう感じでミュージカルのシナリオにはもうすでに認識上の問題ががっつりばらまかれてるんですよ。
私は浅井さやか氏の「花影ゆれる砥水」の脚本をとうらぶ派生としては至高のものだと思っていますが、このとうらぶ世界の原理については脚本交替する前から、御笠ノ忠次氏の脚本の時点ですでにあちこちでしっかり伏線、布石、前振りとして設置されています。当然、これまでの脚本も素晴らしいものです。
「花影」感想であの本丸の「高慢」を指摘した時の通り、「葵咲本紀」の永見貞愛や「東京心覚」の平将門が自分は不幸ではない、存在していることがなくなるわけではないと言った通り、彼らを憐れな存在として同情するのは、思い上がりの余計なお世話なのだと。
ただし「つはものどもがゆめのあと」で三日月が藤原泰衡に説明した感じからすると、三日月が「機能」として介入しないとその世界は血で血を洗う世界になってしまうと。ここもちょっと覚えておかないと。
なんにせよ結果的に言えば、三日月は人々に正史を守らせるようかなりがっつり歴史に介入した結果、むしろ義経を同情から生かしてしまうという完全な歴史改変を行っている。
また「葵咲本紀」でもどうやら石切丸が本来は「三百年の子守唄」で死んだはずだった信康をなんらかの形で救命してしまったらしく、むしろミュージカル本丸はがっつり歴史を改変している状態です。これはもう完全に時間遡行軍やないかい……。
「高慢」という名の「慈悲」は、廻り廻って歴史の異物を生み、世界を滅ぼす。
……で、そろそろ舞台の方の話に戻りたいのですが。
舞台の考察はこれまでずっとしていた通り、三日月や国広と言った本丸側の刀剣男士側が自分の心を分裂させて「鬼」、すなわちのちの敵となる時間遡行軍の源を生んでしまう話です。
と、いうか舞台でもミュージカルでもこれが要は「影」ですね。
ミュージカルの影打の人間体は役名で言えば「カゲ」さんなんですがカタカナ適用ルールが不明なのとどちらにしろ大枠では「影」枠のキャラなので「影の一期一振(最終的に一期に統合される存在)」と捉えたほうがいいでしょう。
「一期一振の影」と言ってしまうと舞台の「山姥切国広の影(=朧)」と同じ文法になってしまいますが、そこまで同一かはわからない。
というか本体が別だから多分別の存在で、どちらかというと影打は「鵺(名もなき足利義輝刀統合体、三日月の半身)」の方に近いと思われます。
舞台の刀剣男士が心を分裂させて「影(鬼)」を生んでしまう原理。
その根源は、シンプルに「愛するものを救いたい」という感情。
三日月の「鵺」を保留しても、国広の「朧(山姥切国広の影)」が三日月を取り戻すために時間遡行軍と協力していることは明白です。
「朧なる山姥切国広」はあくまでも「山姥切国広の影」と呼ばれる存在であって、山姥切国広本刃ではありません。
国広から分裂した存在。ただしそれ故に、その心は国広が普段表に出さない本心そのものである。
喪った三日月を取り戻したい。
その願い自体を、一体誰が責めることができよう。
しかしその手段が歴史の改変に至るなら、本丸の刀剣男士として当然その願いを看過することはできない。
国広は願いを、その心を押し殺すでしょう。
その半身が、何かの拍子に国広本体から離れて独立してしまった存在こそが影であり、その発展先である「鬼」だと考えられます。
愛するもの、別に歴史上の元主でも誰でも、大切な誰かを救いたいという感情、それを押し殺し自分の半身を突き放すことが廻り廻って自分たちの敵となる「鬼」――「時間遡行軍」を生む。
そして守るべき正史、人々に正史を守らせる行動は逆に死ぬべき人々を憐れと見下してしまい、死者を生き延びさせ、立場を入れ替え、廻り廻って世界の崩壊を加速させる。
「東京心覚」で水心子くんが見た荒廃した世界はこれでしょう。
「心」は「うら」と読み「裏」のメタファー。
さらに舞台の言葉遊びを考えれば「悲伝」「慈伝」そして「心伝」にも絡む「心=鬼」の図式を成立させるメタファーでもあります。
だからあの役はその名に「心」の一字を持つ「水心子正秀」なのでしょう。
人を救いたい。
人の歴史を守りたい。
そうした、刀剣男士の「慈悲」こそが「時間遡行軍」を生み出し、世界を荒廃させる。
「慈悲」が鬼を生み、「慈悲」が世界を滅ぼす。
いや、本来そのように身勝手な感情は「慈悲」とは呼ばない。
だから。
「愛」が鬼を生み、「愛」が世界を滅ぼす。
仏教でいえば「愛」は煩悩の一つであり、苦しみの根源。
まさにそのままの理屈でとうらぶの世界はできていると考えられます。
7.悲しき物語、名前を得たい物(鬼)たち
時間遡行軍に関してミュージカル側でもう少し情報が入ったのでこちらについても考えておきましょう。
とうらぶの敵は「名前のない刀」だとずっと言われていたらしく、そういう発言、書き込みはちょこちょこ見かけていました。
原作ゲーム考察勢としてはずっと違和感のある答でした。
んなことどこにも言われてなくない? むしろ国広が極修行の結果、長義くんの逸話を消さないために全力で自己否定、ダイナミック自殺行為をかましてくれるんだから敵である時間遡行軍は名のある刀から分離した感情の方だと思うけどな? と。
ようやくそう言われる理由がわかったというか、ミュージカルがそっちの理屈を開示している。
ミュージカル本丸がよく戦う敵はそのまんま「名もなき刀」です。
一番顕著なのが「結びの響き、始まりの音」です。
この話で出てくる敵の目的は、最後に彼らと交戦した巴形薙刀の分析により明かされます。
巴形はようやくわかったという、自分も物語なきものだからと。
彼らが土方さんを選んだのは、刀の時代の終わりを背負った彼と、共に生き、共に死にたかったから。
そして望み通り彼らは巴形と戦って死に、最後にこのような言葉を巴形から贈られながら、仲間に触れた状態で息絶える。
「…良かったな」
「…物語に出会えて」
――物語のある土方歳三。その土方歳三と共に生き、共に死ぬ。
その時、「名もなき物語」たちは、ようやく物語に「出会える」のだと。
本丸へ戻った巴形は審神者に今回の任務の感想として得た結論を告げる。
自分には物語が欠けているのだと思っていた、だが欠けているのは自分だけではない。
みんな何かが欠けている。
大切なのは欠けていることを受け入れながら、その先へ向かう一歩を踏み出すことなのだと。
とてもいいシナリオですね。やはり御笠ノ忠次氏の描く物語もとても美しいと思いますよ。
ではこれを踏まえて地獄へと突き進みましょうか!(オイ)
ミュージカル「結びの響き、始まりの音」は戯曲本としては5冊目、タイミング的には舞台でまだ戯曲本の出ていない「慈伝」に対応する物語です。
で、「慈伝」の山姥切国広の結論とは?
「だから。俺のことは好きに呼べばいい。例え偽物と呼ばれようと、俺は俺だ」
……自分が「偽物」と呼ばれることを受け入れてしまっている。
……自分の名を自分で否定してしまっている。
一見立派な結論ですが、確かに精神的には成長しているのですが……。
名前の存在一つで舞台の「鵺(時鳥)」やミュージカルの「カゲ(一期一振の影打)」が存在を確定させているという原則から考えると、これは刀剣男士自身による己の名、己の物語の否定ではないのか。
つまり舞台とミュージカルの対応関係をよく見て二つの物語は相互に情報を補完し合っている現象から、こういう結論が得られます。
ミュージカルは「名前を得たい刀」の物語。そして、
舞台は「名前を捨てたい刀」の物語です。
8.愛しき物語、名前を捨てたい物(鬼)たち
主へ
……強くなりたいと思った。
修行の理由なんてのはそれだけで十分だろう。
誰よりも強くなれば、俺は山姥切の写しとしての評価じゃなく、
俺としての評価で独り立ちできる。だというのに。
人々が話す内容が、俺の記憶と違うのは、どういうことだ?
(山姥切国広 修行手紙一通目)
主へ
……すまんな。この間は動転して、要領を得ない手紙だった。
正直なところ、俺もまだ混乱しているんだ。俺は、山姥を斬った伝説を持つ刀、山姥切の写しであって、
山姥を斬ったのは俺じゃないと記憶している。
だが、俺が会った人々は、俺が山姥を斬ったから、
そのもとになった長義の刀が山姥切と呼ばれるようになったという。これでは、話が全く逆だ。
写しの俺が、本科の存在感を食ってしまったようなものだ。
どう、受け止めていいかわからない。
(山姥切国広 修行手紙二通目)
主へ
前の手紙のあと、長い年月、多くの人々の話を聞いて、わかったことがある。
俺が山姥を斬ったという伝説、本科が山姥を斬ったという伝説、
そのどちらも存在しているんだ。案外、どちらも山姥を斬ったりなんかしていないのかもな。ははは。
人間の語る伝説というものは、そのくらい曖昧なものだ。
写しがどうの、山姥斬りの伝説がどうので悩んでいたのが、馬鹿馬鹿しくなった。俺は堀川国広が打った傑作で、今はあんたに見出されてここにいる。
本当に大事なことなんて、それくらいなんだな。迷いは晴れた。俺は本丸に帰る。
(山姥切国広 修行手紙三通目)
国広は最初は確かに本歌から離れたかったのではないか。一通目の内容からすると。
自分が写しであることはどうせ変わらないのだから自分自身の評価で独り立ちしたかった。
けれど、想像していた旅路と、実際に出された答が違う。
記憶が埋まらないことをうすうす察していた一期とも違い、国広にとってその事実はまったく想定外の、己の認識から逆転したものだった。
写しとして自分はずっと本歌の影だと思っていたのに、実際には、本歌を殺す存在だったと。
舞台では敵を斬る事を物語を食うと表現している(天伝)。
「本科の存在感を食ってしまった」
だからこの表現は、ストレートに本歌を斬り殺したと同義と見たほうがいいだろう。
我々はやはり結局相手は所詮「物」だと侮って、その苦しみの本質を理解できていなかったのではないか……。
極修行で過去を見てくる。過去。
それはもはや確定してしまった事実。
殺してしまう、ではなく、「殺してしまった」という確定した事実。
山姥切国広は、どうあっても「本歌を殺す宿命」から逃れられない存在である。
それでも逃れたくて、逃れたくて、なんとか足掻いた結果が両方に逸話があると結論しながら、自分の写しという要素も、山姥を切った逸話もどちらも軽んじるような三通目の内容になるのではないか。
そしてこれの本意がもっとはっきりするものこそが舞台の「慈伝」と「花丸」という派生作品における国広の態度である。
「だから。俺のことは好きに呼べばいい。例え偽物と呼ばれようと、俺は俺だ」(慈伝)
「だから…はぁ もう好きに呼べ」(花丸 雪の巻)
原作ゲームでは決して口にしない「好きに呼べ」という言葉、「偽物」呼びを受け入れるのは、二つの物語で長義との潰しあいを避けるためだろう。
これがどうしようもないことを一番表しているのが、花丸のEDの一つで長義と国広のキャラソン「離れ灯篭、道すがら」の歌詞です。
長義が「光」を歌っている部分に対応する国広の言葉は「影」。
「花影」の「影打」は一期一振という物語の「影」にあたる存在ですが、長義と国広の場合も長義側が「光」で国広が「影」になるようです。
これに関しては今まで何度もやった通り、原作ゲームで治金丸が兄である千代金丸の「影」として積極的に動いていることを考えると、刀剣男士同士でも普通に成立する上に、「影」側はそれを望んで背負っているという事情が垣間見えます。
国広は長義との衝突を避け、長義を守るために自ら「影」として振る舞う。
しかし数々の派生で言う「影」は限りなく名前や物語が「ない」とされる存在で、
その動機を補完するのは国広というより、花丸で長義・国広というふたつの山姥切との相関が深いことを示した安定の内面と同じものと考えられます。
主へ
沖田くんが倒れた。僕の知っているように。
そして彼は、この後戦場に出ることなく死ぬ。僕を置いて。思えば僕は、沖田くんと一緒に歴史の闇に消えるか、
彼より先に折れてしまいたかったのかもしれない。このあと侍の世は終わり、
僕が刀としての本分を果たせる機会がなくなってしまうのだから。
未練だよね。でも、仕方ないじゃないか。
(大和守安定 修行手紙二通目)
あの人と共に、死にたかった。
安定の沖田くんへの感情、極修行で自分の逸話を主張せず否定して、むしろ長義の立場を守ってきた国広の行動、そして巴形が見抜いた「結びの響き、始まりの音」の名もなき物語である時間遡行軍の姿。
共通するのはすべて、名を持つ存在と、共に死にたかったという感情ではないのか。
ただし「結びの響き、始まりの音」の敵と安定・国広は違う。
名もなき刀である時間遡行軍は、物語を得たくて土方歳三と共に死にたかった。
「大和守安定」や「山姥切国広」の場合は、名を捨てて元主や本歌という大切な存在と共に死にたい。
だからとうらぶというのは、「名前を得たい刀」と「名前を捨てたい刀」の存在のせめぎ合いの物語であると言える。
だから名前を捨てたい――自分の中身が空洞であることに懐疑する一期一振は、秀吉のための名を切望する影打と入れ替わってしまった。
名前のあるもの側の、名を捨てたいという想い。
名前のないもの側の、名を得たいという想い。
ここが一致してしまうと、両者は驚くほど簡単に入れ替わってしまうようである。
そして舞台の「鵺」「朧」、そしてミュージカルの「一期一振」の行動を振り返ると、「影」側は本体にゆるやかに統合を迫るのが本能にも見える。
原作ゲーム・派生間の情報を整理すると、とうらぶはどうやら「名前のあるものを歴史」「名前のないものを創作」と呼んでいるようである。
しかしこれは現実の定義とはかなり違うと言える。
なのに何故そうなるのかというのがすでにやった「統合」のルールの方に関わる内容で、固有名詞レベルの特定の呼称を持たない存在はどうやら名前を持つ方に吸収すなわち「統合」されてしまうようである。
人間の認識の在り方を考えればまあ当然といえば当然の話である。
そして刀剣男士側の動きとしても、国広の極修行の結論のように、舞台や花丸での長義との邂逅後の結論のように、「名を捨てたい」としか呼べない行動がみられる場合がある。
つまり、「名もなき物語」の真の定義とは、歴史に名を残さなかった人や物ではなく。
「名を得なかった」「名を捨てたい」という両者を総合した名称である。
だから場合によっては、本丸の刀剣男士もすでに「名もなき物語」であり、巴形などはかなりそういう自分に最初から自覚的な存在と言える。
一方で、「名のある物語」とは何か。
これもすでに本丸に顕現した刀剣男士の逸話や来歴がわりと創作多めであることから、別に史実で名を残したなんていう厳密な定義ではないことが暗黙のうちに了解されている。
史実だろうが創作だろうが、なんらかの形で「名を得た」物語をとうらぶは歴史と呼んでいる。
これを考えるときに重要になるのはミュージカル「静かの海のパライソ」の結末だろう。
一言で言うと、パライソでは冒頭で島原の乱の主役とも言える「天草四郎」が死んでしまい、最終的にそれまでずっと名もなき人間で通してきた一人の少年が自分の弟を守って死んだとき、その死体を「天草四郎」とする話である。
名のある物語がそれを得られずに死んだ結果、名もなき物語が名を得た。
構図的にはそうなる。
しかしそれは天草四郎も少年もどちらも死んだあとのことで、この「名を得る」という行為はその作中で死んでしまったどちらの少年の人生の幸福にも何一つ寄与していない、ほぼ偶発的な結果である。
名を得るというのは、何なのだろう。本当にそんなことが大事なのか?
名があるから幸福なわけではない。
名がないから不幸なわけではない。
存在していたから名が残るわけではない。
名が残らなかったからといって、存在がなくなるわけではない。
ミュージカルはこうした原理をかなりわかりやすく提示してくれている脚本になっている。
原作と舞台だけ見てこの辺ずっとわからないんだよな~~って思っていたことの大半はもうミュージカルでがっつり明かされていると言っていい。
しかしそこでいざ舞台にもどればやはり「鵺」は「時鳥」の名により己の存在を安定させているし、ミュージカルも「花影」でついにそういう話をやっている。
本阿弥光徳と豊臣秀吉が「一期一振」と認めた刀が一期一振、正直それはどちらでも構わない。
負けたほうは勝った方に統合される宿命。
また、ミュージカルではこういう話もある。
「江水散花雪」では、本来正史で出会わない「吉田松陰」と「井伊直弼」が出会ってしまった。
正史では安政の大獄で吉田松陰を処刑するはずの井伊直弼だが、その世界では二人がたまたま出会って友情を築いてしまったことにより、安政の大獄が起きずむしろ維新派と佐幕派が何の問題もなくスムーズに公武合体政策を成功させてしまったために、あっさりと徳川慶喜が14代将軍に就任して正史よりずっと平和な日本が成立してしまうのである。
これをミュージカルの山姥切国広は「敵の会心の一手」と判断して、出陣して即、その世界の歴史をフォローすることを断念した。
「吉田松陰」と「井伊直弼」が出会ってしまった。
それだけでもはやその世界の歴史改変を防ぐことは「不可能」。
最終的にその世界は時の政府によって放棄され、出陣部隊は命がけの脱出をする羽目になる。
ここでもう一度「結びの響き、始まりの音」の巴ちゃんの台詞に戻ろう。
「…良かったな」
「…物語に出会えて」
「結びの響き、始まりの音」の名もなき刀たちは「土方歳三」という物語に出会えた。
その時ようやく、名もなき物語たち、彼らは彼らの物語を得ることができたのだろう。
土方歳三のために、巴形薙刀に斬り殺されることによって。
一方で、「江水散花雪」では、「吉田松陰」と「井伊直弼」が出会ってしまった。
正史で出会うはずのなかった名のある物語同士が出会ってしまった時。
すでにそこは手遅れ。
現状決して救うことのできない歴史として、「放棄された世界」になってしまう。
同時に出陣した中では肥前忠広は山姥切国広ほどあの世界を速断で見限れず、なんとか正史に戻そうと苦心していたため、最後に放棄された世界で正史に近い形で狂った岡田以蔵を見て、どちらが彼の幸せなのかわからなくなってしまった。
「出会い」はそれだけ重要なのだ。
しかしその「出会い」が決して幸せな結末になるとは限らない。
「江水散花雪」は初めはそれを理解できでいなかった南泉が、最後にはそれを理解して今度は正史通りに井伊直弼が殺害された世界でその亡骸に花を供えるという、これもものすごくいい話である。
ミュージカルは全体的に話が高度だなと思います。
名前のある物語と名前のない物語を巡るぎりぎりの攻防は舞台の方がわかりやすくて、ミュージカルだけ見てても頭が追い付かないと思う。
原作ゲームやりながら舞台を中心に見てこの辺の考察が済んでいるとあれもこれも答――!! ってなりますが。
刀剣男士と時間遡行軍の戦いは、「名前を得たい」ものと「名前を捨てたい」ものの攻防。
けれど名を得る、名を失うという行為は決して本人たちの意志や願いに関わらず成立してしまう場合があることを、「静かの海のパライソ」に登場した二人の少年の死後が教えてくれる。
愛は鬼を生む、この生み方にも生前と死後の二種類あるという話はすでにしました。
舞台の「外伝」では、生きている長尾顕長が能面にとり憑かれて山姥となり、国広が山姥を切ることで長尾顕長を救う話。
一方、活撃の足利義輝は、死後に能面に操られて鬼と化す。
それを止めるのが骨喰・三日月を含む部隊という話になっている。
名を巡るルールと感情。そことは関係ない、本質的な存在の在り方。
出会いの幸福、その裏側の出会いの悲劇。
出会えて良かったのか。
それとも、出会わない方が良かったのか。
名を得たいのか。
名を捨てたいのか。
共に生きたいのか。
共に死にたいのか。
自分とは……そもそも何なのか。
何が過去で今の自分がここにあって、何をすれば誰かと共に生きる未来が手に入るのか。
――歴史を守るとは、本当はどういうことなのか?
そういうこれまでも原作ゲームや舞台の方で首をひねりながら考えていたテーマに関して、少なくとも世界のルール側から探れるヒントはミュージカルの方にたっぷり用意されていますね。
9.壊れた心、壊れた器
あの世界の地獄のようなルールは大体頭に入ったでしょうか。
ではもっと地獄みたいな話をしたいと思います(オイ)。
「強い物語を得られず後の世にそのあとを残さない影ならば いずれ一期一振という物語に統合される」
「歴史に残るものは誰かに認められ世に出たものだけだ 誰かの個人的な小さな綻びは統合され 消されていく」
「花影」で明かされた統合のルールからするとこういうことが言えます。
山姥を切った逸話を持つ刀、「山姥切国広」の本歌は「本作長義(以下、58字略)」(尾州の長義や北条家の長義とも呼ばれる)という号のない刀である。
号を持たない以上、この刀の物語は「山姥切長義」の名の方へ統合されている。
山姥を切った逸話を持つ刀、「山姥切長義」の写しは山姥を切った本歌の号を写したから「山姥切国広(霊剣山姥切の写し)」と呼ばれる物語。
しかしそれは事実誤認である以上、切った逸話を持つ刀である「山姥切国広」の方に統合されている。
つまり、「本丸にいる国広(山姥を切った刀)」の本歌である「本作長義(以下、58字略)」は本丸には顕現しない。
それはすでに「山姥切長義」に統合されているから。
「本丸にいる長義(山姥を切った物語)」の写しである「山姥切国広(霊剣山姥切の写し)」が顕現することはありえない。
それはすでに「山姥切国広」に統合されているから。
二振りは永遠に、己が本当に望む「本歌」「写し」に出会えない。
本丸に居る方、来た方は愛しいその相手を食い殺してそこに在る存在。
……あれだな、原作ゲーム開始初期にどこかで山姥切国広の本歌は来ないだのなんだの言われてたっていうのはこれの話だと思いますね。
「山姥切長義」に関してはむしろ最初期から登場は確実だったと思います。
このキャラを実装しないのは登場までに原作ゲームがサービス終了した場合だけ。
キャラ造形に関しては最初から用意していたと思います。
ただ、今本丸にいる長義くんが、今本丸にいる国広の「本歌」と本当に言えるのかは微妙という話はわりと何度か言っていたと思います。
ものすごい厳密な定義で物語ごとに分解するなら国広は山姥を切った逸話と切っていない逸話両方を持つ刀なので、同じ名前でも国広は二つに分裂する。
そして「山姥切長義」は本来号を持たない「本作長義(以下、58字略)」が正式なので、おそらくこの銘文そのものを呼称として本丸に来ることはそもそもない。
これら伝承を基準に別個に分離させて考える場合、本丸にいる国広と長義の関係はストレートな本歌・写し関係にはならない。
どちらかというと敵同士。
それこそミュージカルで各陣営がいつも己の愛するものにこそ名を与えよう、名を与えようとしているやり取りの中にいる関係同士が近いです。光徳にとっての一期。パライソの二人の天草四郎。
ただし、じゃあ実際に長義・国広が相手を己の愛しい半身の仇としているか? というとそうではない。
むしろ相手をそのまま自分の「本歌」「写し」だと考えている。
そしてそれもまた真実。
「花影」で長義・小竜が「統合」を大前提としていた通り、研究史は統合する方が結論としては正しいので、長義・国広にとって相手はそのまま自分の「写し」「本歌」である。
じゃあ平和な関係を築けるか、というとそうは問屋が卸さない。
名のあるものが歴史、名のないものは創作。
このルールにより、本丸内で長義と国広は必ず対立に近い関係になる。
しかも皮肉なことに、歴史を守る意識が強いものほどどちらかを本物にしようとして深刻な対立関係になる。
この二振りが対立しない世界は、「江水散花雪」のように融和を無批判に受け入れて放棄された世界になる場合だけ。
……そして、山姥切国広の極修行とは。
結局は「山姥切長義」を殺すための旅路だろう。
自分が「山姥切長義」という「本科」を食い殺した存在であることをまざまざと見せつけられる旅。
国広は言動からも統合のルールからも、山姥を切った小諸の逸話を持つ刀の伝承が本体だと考えられる。
この逸話は1975年に再発見されたことにより、それまでに事実誤認から成立した「山姥切長義」の方の伝承を消すことができる存在である。
本丸の国広の本歌は、決して本丸に存在しない「本作長義(以下、58字略)」。
ただし、本丸の国広が傍にいたいのは、当然ながら本丸で出会った「山姥切長義」。
この組み合わせだからこそ、国広が極修行で殺すのはまぎれもなく、「本丸の長義」なのだ。
認識を研究史の変遷に伴って細かく整理して反映するならそうなる。
しかし同時に、小諸で山姥を切った国広自身も、その後の関東大震災による焼失扱いが原因で「山姥切長義」に存在を消される物語そのものである。
「本丸の山姥切国広」と「本丸の山姥切長義」はお互いにお互いの一番大切な相手を奪う間柄であり、お互いにお互いを殺し合う存在であり、
そしてそういう関係でありながら、お互いがお互いの一番大切な存在「そのもの」でもある。
そういう関係。
……ようやく開示された統合の方のルールに則るとそうなりますね。
だから国広は、極修行で写しであることも逸話も捨てるような動きになるのではないか。
国広の中の「霊剣山姥切の写し」が「本歌」である「山姥切長義」を求めて名前を捨てたがっているのではないか。
山姥を切って、山姥に呪われた自分自身を……。
国広の極修行の特徴として、どうしても解けなかった謎の一つが「山姥を斬ったのは俺じゃないと記憶している」という、記憶の部分なんですが。
言動からすると本丸にいる国広はどう考えても「山姥を切った逸話を持つ方」だから。
これの答もミュージカルにあった。
一度言われてしまえばああこれ以上の答はないわ、と腑に落ちる。あまりにも普通過ぎる答でしたね。
「結びの響き、始まりの音」でむっちゃんを兼さんが「心がない」と評している。
それは陸奥守吉行がかつての主・坂本龍馬が目の前で殺されたにも関わらず何も感じていないみたいだということに関する感想。
陸奥守には心がない。自分にはそう見えたと。
この疑問は、さらに物語の後半にも追及されてますが、そこで陸奥守吉行はこう答える。
かつての主が死んだとき、どんな気持ちだった?
――忘れた。
尋ねる和泉守に、陸奥守吉行は笑顔で「忘れた」と答える。
それがミュージカルのストーリー。
それもこれ、さっきから話題に挙げている、「慈伝」相当の話である「結びの響き、始まりの音」なんだよね。
こんなの、もう一つしか回答ないじゃないか。
――心が、壊れたんだろう。
辛すぎるから、心が壊れたんだろう。
だから忘れた。記憶そのものを失った。
陸奥守吉行は、死にゆく主のその腕の中にいた刀だと。
主が殺された時、その手に握られていた彼をさぞや辛かっただろうと考える新選組の刀たちに対し、陸奥守吉行の返した言葉は笑顔で「忘れた」。
坂本龍馬佩刀・陸奥守吉行という物語はその主・坂本龍馬の死をもって咲く(笑う)、物語。
だけどそれは……あまりに辛すぎる。
だからむっちゃんは忘れた。
それを「心がない」と評するならば、その心はもう壊れてどこかに行ってしまったと考えるしかないな。
だからこれ、「慈伝」の裏側じゃないか。私は初めて「慈伝」を見た時、回答を自分で言ってたじゃないか。
いくら長義を守りたくても、国広が自分で自分の名を捨てた行動は長義が死ぬという結末に帰結するしかない。
だがそうなったら、国広は確実に発狂する。
長義を死なせて、国広が平気でいられるはずがない。
これがそのまま、山姥切国広が、山姥を切った記憶を持っていない理由だろう。
事実誤認の逸話、「山姥切長義」を殺すのは、「小諸で山姥を切った国広」なのだから。
そしてそれが、彼らの過去。回避できる未来ではなく、すでに通ってきた道のり。
総ての本丸の山姥切国広は、その過去に「山姥切長義」を殺して復活した存在。だから。
――国広も忘れたんだろう。
「本科」だと思っている「山姥切長義」を殺して咲く花である自分を。
だから布で顔を隠す、本当はそういう花として咲きたくなどなかったから……。
物語の「表(顔)」を見せることはせず、「裏(心)」だけを語っている。
本当は名前のない物語(霊剣山姥切写し、号も写しただけの国広)として、名前のある「山姥切長義」と共に、死にたい。死にたかった。
名前のないものは、「結びの響き、始まりの音」の遡行軍のように、「土方歳三」のような物語と出会って、死にたい。
「静かの海のパライソ」のように、本来名前を得るはずだった「天草四郎」が先に死んでしまうと、のちに弟を守って死んだ名もなき一人の少年が、代わりに死後「天草四郎」へと仕立てられる。
しかし「江水散花雪」のように、「吉田松陰」と「井伊直弼」のような名前のある者同士が予期せぬ出会いを経てしまうと、融和を望んでしまうと。
その世界は、間違った歴史として「放棄された世界」になる。すべてが滅んでしまう。
やがて立場は入れ替わる。
「花影」では人が刀を守ろうとする。これまで守られる「花」であった人が刀を守ろうとしたとき、名を得ている「一期一振」は名もなき影打にその存在を奪われそうになる。「花」の立場が逆転する。
抜け出す方法は、己が虚ろであることを受け入れること。
この欠落は決して埋まることはない。それが自分だと。
己にあるのは名だけ。
……これ、そのまんま「山姥切」の研究史に適用されるじゃないか。
本来「山姥切」の逸話と共に歴史に現れるはずだった「山姥切国広」が関東大震災の焼失騒ぎで表舞台から消えた結果、本歌である「本作長義(以下、58字略)」が「山姥切長義」となった。
けれど「山姥切国広」が再発見され、「山姥切長義」と並んで逸話の再検討をした結果、本来逸話を持っていたのは写しの国広だろうということになり、「山姥切長義」が消える日が来た。
それを嫌がる人間は山姥切は長義に決まっているだろうと、正しい検討をしてきた相手を不当に攻撃する。
一方、攻撃された側も黙っていない、こっちが正しい歴史だ! と間違った物語の強制削除に取り掛かる。
……うん! そのまんまだな。
まぁもともとこの考察ではそんなこと言ってましたけどね。
我々のこの動きまですべて含めて歴史の改変とは認識上の問題だと。
我々はやはり刀をものだと侮って、自分の身に本当に切迫した話として考えられないから、なかなか答に辿り着けなかったんでしょう。
どの刀も最初から我々に一番重要な本心を見せてくれていたのに。
山姥切国広の極修行というのは、我々人間の感覚で言えば、いつの間にかいなくなってしまった、ずっと会いたかった親を、自分が過去に殺してしまったと知ってしまったようなものでしょう。
催眠療法ででも潜った過去の中で、自分が血まみれの包丁を手にして、血の海の中に立っていて、足元に親の死体が転がっている。そんな状況なんだこれ。
回避できるはずもない過去。見つめるたびに心が壊れるほどの過去を何度も繰り返している。
そしてそれなのに、出会いを憎むことができない。
会いたかった、傍にいてと願わずにおれない。
そういう関係ではないのか。
名のある物語「歴史」と、名もなき物語「創作」の関係というものは。
……「花影」見て思ったんですけど、長義くんの極修行は多分一期に近いタイプになるんでしょうね。
「あるのは名だけ」
名を重視して、欠落を自覚して帰ってくる。
名が偽りと言う方向ではなく、名に相応しい中身など最初からなかった。そしてそれを埋めることは決してできない。
そういう方向だと思われます。
「花影」自体も長義くん周りの言動がなかなか不穏ですからね。
鬼丸さんと会話してた「化け物切りは強い刀の代名詞」。
これ多分長義くんの方も山姥斬った記憶なさそうだな?
そして多分、自分がそうだからみんなそういうものだと思ってるんじゃないかあの子。
記憶がなければ逸話が嘘、逸話がなければ名前が誤り、という考え自体をそもそも持っていないからああいう言動なんだと思われる。
「逸話の否定」という概念をそもそも持っていない。彼にとって、逸話はなくて当たり前だから。
必要なのはその名。
山姥切、化け物切りは強い刀の代名詞であって、その名で認識されていることのみが重要。
その自覚のために。
「山姥切長義」として「本作長義(以下、58字略)」を統合して帰ってくるんだろう。
同じ「刀」から生まれた兄弟たる物語。
本当はお前こそが「山姥切国広」の「本歌」だった。
自分の中の欠落を埋めてくれる存在。
だから、お前を統合して、この決して埋まることのない欠落を受け入れよう。
我が身は繕われた器。がらんどうの部屋だと認める。
今の主が呼んでくれるのはそんな自分だから。
ここにあるのはこの名だけ。
だから山姥切国広の本歌である「本作長義(以下、58字略)」ではなく、「霊剣山姥切」になって帰ってくる。
……こうなんじゃないかと思います。
ここまでで注目すべきは、記憶がない理由に関わる現象として
「心がない」
「繕われた器」
という二種類のものが例えとして使われていて、その内容が対になっていると思われることです。
要するに、刀剣男士の記憶がない理由には二つのパターンがあって。
「心が壊れる場合」
「器(肉体)が壊れる場合」
の二種類なのではないかと。
そして焼失刀でも記憶自体の欠落は起きていない男士が結構いることから、器の消失も記憶喪失の直接的な要因とは言い難いことです。
器の消失は多分こっちじゃないでしょうか。
慶長熊本のガラシャ様が、あの世界から解放されたかった。だから歌仙に斬られることを臨んだ。
己の望んだ、けれど本当の意味では望まない物語からの解放。
その条件の一つが肉体の破壊、折れることであり、「悲伝」のような刀解も含む現象全般だと考えられ、刀の再刃はここに近いのだと思われます。
国広を基準に考えると記憶の喪失はむしろ物語からの解放より、物語の中に留まるための安全機構に近い気がします。
心が壊れてしまうから記憶を失う。あるいは心が一度完全に壊れてしまったからこそ、物(鬼)ではなく刀剣男士になった。
……心そのものも器なのかも。
再刃は焼けた刀という一度失われかけた器を引きとどめるための処置で、その代償により記憶を失う。
だから一期一振は自らを「繕われた器」と評する。
「心」が壊れるか、「器(肉体)」が壊れるか。
どちらにしろ、完全に壊れ切ってしまったらそれが死、そこから転生でまた長い地獄たる輪廻の円環を繰り返す羽目になる。
「心」が壊れたら「器(肉体)」は空っぽになる。
「器(肉体)」が壊れたら、「心」はどこかへ飛んでいく。
一期は繕われた器のために欠落を受け入れる形でしたけど、舞台の国広は多分発狂を乗り越えてぎりぎり繋ぎとめた心で走り続ける方向になるんじゃないかな。
奪いあっているのか? 与えあっているのか?
名前と顔。
心と器(肉体)。
名前のあるものもないものも、お互いにお互いのその要素を戦い合い、壊し合いながら前へ進んでいく。
欠落のあるものは欠落を自覚し、
中身が混沌としているものはむしろそれを分離させながら。
敵だけでなく、自分自身さえも何度も何度も壊しながら前に進んでいく。
10.そして美しき物語たちよ
国広側の不審は明らかに山姥を切った記憶がないことだろう、というわけでそこはミュージカル側の理屈が回答だと考えられます。
一方の、長義くん側の動きの不審。こっちは派生由来の方が大きい。
これも「花影」の光徳さんの行動と、舞台は「慈伝」の南泉の発言を考えればいいんじゃないかなあ。
「慈伝」の長義くんの発言がどんどん敵意を増したものになっていくのはまあ山姥(天邪鬼)の呪いってことでいいかなと思うんですが、それだけでは説明がつかないのが、最後の一対一でなかなか負けを認めなかったこと。
言動が山姥なだけですぐに国広を認める気があったなら、あれだけ粘らないと思うんですよね。
ボコボコにされても負けを認めなかったのは、また別の要因だろう。
そして南泉の台詞。
「猫殺し!」
「そうだ、俺は猫殺しだ。だから猫の呪いを受けた。でもその呪いに負けないように頑張ってんだ。お前は化物を殺したから化物の呪いを受けた。だけど! 心を化物にするんじゃねえ」
「どうする、山姥切長義」
「……くそっ……くそっくそっくそっ! 俺の負けだ!」
「心」が化物になるとはどういうことか。
「綺伝」で自らを「蛇」と称したガラシャ様は、何故忠興に、それが叶わなかった後は歌仙に斬られることを望んだか。
「悲伝」で三日月の半身と見られる「鵺」はどんな行動をとったか。
名もなき物語たちは「結びの響き、始まりの音」でどんな行動をとったか。
そして「花影ゆれる砥水」で秀吉を一度は鬼と見なしながら、自分も鬼かも知れないと言った刀狂い・本阿弥光徳は鬼斬り刀である鬼丸の刀身を見るためにどんな行動をとったか。
自ら死ぬために、斬られるために――相手の刃に身を晒したのではなかったのか。
その刃こそを「見る」ために。
刀は仏教的には「弥陀の利剣」、生死の絆を断つ智慧の剣とされる。
仏教経典にはよく利刀や利剣という言葉が出てくる。
これは「般若(智慧)」の象徴らしい。「太陽」や、「月」と同じく。
無明という煩悩、暗闇に例えられる三毒の一つを払う光、それが「刀」。
つまり、鬼になってしまったもの、完全な化け物になってしまったものにとっては、斬られることこそが救いなのではないか?
「山姥に呪われる」とは、「山姥切に斬られたい」と、同じ意味なのではないか?
斬る事は物語を食らうこと、食らい食らわれるから「統合」される。
「猫を斬った刀」の中に、「斬られた猫」が存在する。
そして完全に「猫」となってしまえば、今度は自分が「猫斬り」に斬られるのだろう。
因果応報。
けれど同時に、それは救いでもある。それこそが救いでもある。
刀という「般若(智慧)」が生死の絆を断つから。
(「生死の絆を断つ」という表現は一応ネットだけじゃなく『大智度論』の訳文にも出てきたから普通に経典で使われている正式な表現と見ていいようである)
「生死」は音が通ずる「正史」を意味するのではないか。
正しい歴史に拘って全てを否定する高慢、そこから解放されるためにこそ本当の「般若(智慧)」が必要。
……「花影」の光徳さんムーヴで大体説明できそうなんだよなこれ。
あの人は刀の一期が磨上られるのを可哀想がって、真実を捻じ曲げようとした。
けれど実際は秀吉は鬼でもなかったし、そのままでは一期一振は永久に歴史の影に葬り去られてしまう。
鬼丸の介入や本当にただ光徳の家で一期一振に呼び掛けるだけ呼び掛けて帰った長谷部なんかの行動もあったとはいえ、光徳は結果的に自分がやったことに自分で気づき、秀吉に本物の一期一振を改めて差し出した。
そしてその時に本当の意味で、自分の思い上がりに気づいた。
彼の憐れんだ一期一振は、磨上を嫌がってなどいなかった。
自分の見たい姿だけを相手に押し付けていた。
その心の闇を晴らしたものこそ、本物の一期一振の輝きであり、刀剣男士である一期一振の本音。
刀という光が心の闇を晴らす、相手を愛しすぎたせいで境界線を超えて鬼になりかけた心を救う。
だから。
「……実力を示せ」
「がっかりさせるな」
その力が、その刃が見たかったのではないか。例え死しても。
否、むしろ死すればようやく肉体という枷から解放されるから。
国広が国広自身を「山姥切」だと強く主張してくれれば、その刃が見られれば、ようやく「山姥切長義」の中の「山姥」も斬られる(救われる)。
だから「慈伝」の南泉から長義への呼びかけがこうなるんだろう。
「お前は化物を殺したから化物の呪いを受けた。だけど! 心を化物にするんじゃねえ」
お前は「山姥」じゃなくて、「山姥切」なんだろうと。
長義くんは心配性だ、そのお節介が行き過ぎて、結果的に「高慢」になっている。
だからこそ、国広が別に長義の助けなど必要ないくらい本当は強いこと、「写しである己は山姥切だ」と、自立した姿を見せてくれれば安心できるという発想はまあ、一理あると言えばある。
ただやはり、両方の山姥切に公平に行くならこういう指摘も必要だろう。
それは君自身が、子離れならぬ写し離れできていないだけではないのか。
国広に答を見せてもらおうと思うなよ。
君が一人で、自分でその不安を、愛しすぎて相手の手を離せない高慢という心の弱さを乗り越えろ。
……というか、実際乗り越えてくるのがまだ来ていない長義の極修行の内容だと思うのです…………。
山姥切国広はもう十分に自立している。一つの物語として立っていける。
国広には、本当は自分は必要ないって理解してくるのが……。
国広が自分の逸話を否定してくるのは長義くんの視点からすれば確かに一見弱さに見えるかもしれない。
だがあれはむしろ、自分が名を主張すれば長義を否定してしまうからという動きだ。
国広に国広自身の名を否定させているのが、長義自身の存在なんだ、と。
多分ここまで考察した感じの長義くんの性格からすれば、それを認めることの方が自分の逸話が存在しないことより辛いと思うのよね。
というか「花影」をそのまま参照していいなら長義くんそもそも号の由来に逸話が史実である必要性自体感じていないみたいだし。化け物切りの号は強い刀の代名詞! って理解だし。
国広が自分は本歌の存在感を食ってしまったと嘆いたように、長義くんが受け止めなければならない事実とは、自分の存在そのものが国広に国広自身の名を否定させるほどに追い詰めていたという事実ではないのか。
あの子は俺の写し、俺自身から生まれた存在。
そう考えていたから自分がその存在を保証しているつもりでいた。
でも、真実は逆だ。
「山姥切長義」の名は「山姥切国広」から生まれた。
本科を食い殺した山姥切国広と違って、山姥切長義自身は別に誰も殺していないのかもしれない。
号のある国広を殺して生まれたと見ることもできるけれど、今回ミュージカルの「静かの海のパライソ」理論を持ち込むのなら、山姥を切った国広が死んだのは関東大震災のせいであって、長義は後で「山姥切」として仕立てられた、ただの死体の方だと考えても良さそうである。
繕われた器。
名前なき刀、本歌として焼失扱い中も写しの存在をこの世に示し続けた「兄」としての「本作長義(以下、58字略)」が死んで「霊剣山姥切」が生まれる。
一期一振が自分の兄弟である「影打」をその手で斬らなければなかったように、「山姥切長義」も同じ一振りの刀が生んでくれた兄弟関係にある物語「本作長義(以下、58字略)」の死を見届けて統合してこなければならないのだろう。
名もなき兄弟の兄が弟を命がけで守り通し、その結果死して名を得る「天草四郎」が誕生したように。
「山姥切国広」を生かすために、その本当の「本歌」と呼ばれるべき物語「本作長義(以下、58字略)」の死を見届けて、死体のまま「山姥切長義」という名のある物語に成る。
「本歌」を否定して、「霊剣山姥切」と成る。
……ミュージカル側の情報を統合したら長義くんの極修行予想がこんな感じに……。
苦しめられている側だと思ったら苦しめる側だった、殺される側だと思ったら本当は殺す側だったというのが山姥切国広の物語で、
救っているつもりで苦しめていた、傍にいてあげたかったけれど、むしろ近くにいれば苦しめてしまう、だからこれ以上傷つけないためには離れなければいけないとするのが山姥切長義の物語、
だと、今の時点での原作と派生の情報を総合した感じだと考えられる。
長義くんが極めた後に二振りに回想があるならば、長義と対話を望んだ回想57の国広とは逆に、長義は国広を突き放す、離れようとする内容になると考えられる。国広大ショック。
私が今の時点で出せる「山姥切長義」という刀剣男士への考察は、こんなところになります。
世界観に関しても、まだまだ細かいギミックの理解は必要だろうけど一応名前を得る・捨てるに絡んで「鬼(時間遡行軍)」が生まれる理由と2205年の世界が荒廃している理由(高慢が正史を滅ぼす)ぐらいのゆるい理解で自分としては納得がいったから十分かなあと。
山姥を切った刀であるはずの国広にその逸話の記憶がない理由もミュージカルの回答が目から鱗だったというか。
辛すぎて忘れたんだね。そのままでは心が壊れてしまうから。
そうでなければ咲けない(笑えない)花だと。
世界観の大筋の理解は多分、この感じだと舞台とミュージカルの話を全部ガチで理解すれば「刀剣乱舞」全体の理解として50%くらいにはなるんじゃないでしょうかね?
残りの50%は? と言うとここ多分花丸と活撃メインじゃないかな……つまり活撃の話が進まない以上、現時点だと20%ぐらいはどうしても埋まらないことに。
とはいえ、花丸と活撃が舞台とミュージカルみたいに大きく中心として背負っているテーマ、それこそ「心」と「器」の話をメインに持ってきた構成じゃないかなとも思います。
舞台を見た後に花丸を見てあの本丸めちゃくちゃ自己否定しまくってない!? 何消えたいの!? って驚愕したのが初見感想なんですが、多分こういう初見感想が一番当たっているんじゃないかなあ?
私は国広の極修行手紙に関しても最初は「自分の名を否定して本歌と心中でもする気かこいつ」って思いましたし。
本当にそういう話だった。マジか。
花丸は本来物語と言う「花」を守りたいのに殺さなくてはならないことで「鬼」となる本丸。
活撃は花丸の対極で、歴史という「水」のために己を空洞にする本丸。
そのどちらも時間遡行軍の姿であり、検非違使の姿でもある。
二つはきっと同じ存在なのだろう。
どちらも我々の敵――そして、我々自身。
活撃の足利義輝が死後に能面によって鬼になったというギミックが、死後に名を得るパライソ理論と生きたまま能面によって山姥になる舞台の「外伝」のちょうど中間あたりにきているように思います。
花丸長義くんとか「江水」南泉とか活撃の薬研とかちょこちょこなんか原作ゲームのキャラとの乖離が激しすぎてさすがにおかしくないか? ってなるキャラは元々の立ち位置と遠い設定の本丸に顕現したことでそうなるのだと思います。
心が壊れて記憶がとんだり空洞になったりするのを回避できなかったパターンの造形ではないか。
花丸で畑当番をやりたくない、自分が食べる作物と言う物語を育てたくない長義くん、ミュージカルで井伊直弼と吉田松陰の出会いを喜び、元主・尾張徳川家の敵となる井伊直弼を救おうとしてしまう南泉はそういうことだと思われる。
この辺りは活撃がなくても順調に進行している他の派生作品のメタファーを厳密に読み取り続ければそこそこ埋まる可能性はある。
ただそのメタファー読み取りはかなり難しいことが最近予想をしては外すを繰り返した私としてはげんなりしますね。
……舞台の方で長義・国広の殺し合いが重要になるな、つまり重要メタファーの一つに「子」が出てくるからその転機と重なる今の原作ゲームの流れでそろそろ「子ども」という意味の語句が名前に含まれる「童子切安綱」が実装されるのではないか? ってしばらく前から予想していたんですけどね。
はい、回答。
「富田江」に「王子様」要素を付けます。
ずべしゃ!(椅子から転げ落ちる音)
いやこれは予想できんて。
「梅」の刀を予想すべきタイミングで「兼光」の存在を忘れてて「布袋国広」しか考えてなかったのは我ながら間抜けながら、「模倣・学習」と「梅」は読み取ったからまあいいかと思うんですが、「子」のメタファーのこの扱いは読めん。
確かに舞台でも魔王とか「王」の要素はちょこちょこ出てるけどさ……。
これがそもそも「富田江」という字面から「王子」を導き出せるのか、導き出せないから外付けしたのかも正直よくわからない。
ただ、富田江は順番的に「千代金丸」「七星剣」と同じターンの刀であるという予想通り、ボイスや回想で「星」要素だったり「光と闇」(千代金丸と治金丸の影話題に通ずるテーマ)をやっぱり背負ってきているので、今実装されている刀たちは一番わかりやすい南泉・火車切の「猫斬り」要素を基準にその前後で実装された刀の物語の裏側的踏襲という方向性でいいと思います。
ごっちんが「大切なものを守りたい」で富田江が「応えたい」という話題を出している辺りも、「花影」の「カゲ」こと影打の物語を考えると見落としてはならぬ要素だと思われます。
メタファーの完全な読み取りから予想するのはかなり難易度高いですね。
長義くんの裏側はそういうわけで童子切ではなく、今月天保江戸と同時に来るだろう鍛刀で「大慶直胤」が実装される可能性が一番濃厚です。
これ、今月は江戸城、富田江、異去の江戸追加、そして天保江戸で「江」のメタファーが立て続いたことと一緒に考えなきゃいけない気がする。
「花」が物語なら、「水」はおそらく正史。歴史という大河の流れ。
そして「山姥切長義」の物語の裏側が「大慶直胤」だというなら、これは花丸で長義くん登場時に初対面で依怙贔屓による全否定くれやがった相手が「大和守安定」だということを考慮に入れておくべきだったかと。
「大」のメタファーとか意味広すぎてまったくわからないのですが、何か「山姥切」と「大」の間に関係があるように思われます。
だた「大」のメタファーは本当に多すぎてまったく意味がわからない。絞れない。
花丸「雪の巻」でそれこそ静ちゃんと小夜ちゃんが「大」と「小」の意味らしき話をしていますが、それでも無理。
大包平、大倶利伽羅、大典太光世、大慶直胤、大般若長光、大和守安定。
大阪城、大坂の陣。
キリシタン大名。
大砲。
大太刀。
多い多い。「大」のメタファーが死ぬほど多い。
江の刀の存在で「江」が多いとかそういうレベルじゃなく死ぬほど多い。多分探せばまだもっとある。
ミュージカルだと新選組がむっちゃんを「大きい」って話もしてますし。
荘司直胤という刀工が「大慶」という号を名乗っていることに関して『日本刀大百科事典』で酔剣先生が推測しているんですが、7月15日の月が「大慶の月」だからそうです。
おっとぉ?
舞台で国広を介して表裏の関係にある「三日月宗近」と「山姥切長義」。
その「山姥切長義」の更に裏側として来ると思われる大慶は「月の名前」。
大方の予想通り大慶が次に来るなら、千代金丸―七星剣―富田江に続いて三日月―山姥切長義―大慶直胤でがっつりラインが繋がるかもしれない。間に稲葉が入るなこれ。
南泉・火車切の間にも福島が入るし、そうなると静―姫鶴―後家でやっぱり女性に関わるラインがあるよね。
何故だ(理由不明)。
理由はわからないが構図はがしがし完成していくんだよなぁ……。
ただ今月まさかの一か月に新刀剣男士二振り追加というこれも予想できないスケジュールだったということを考えると、もう特命調査復刻順対応の予想は捨てていいかなと。そんなん読めねえって。
今年一年ぐらいに実装される男士たちがちょうど第一節の転機である特命調査周辺で実装された刀におそらくしっかり対応しているだろうとわかったことが一番の収穫ですね。
本格的にメタファーを探るならせめて国広・歌仙の特命調査が復刻して誰が来るのか、その間にまた別の誰かが入るようなことがあるのか全部結果出てからやり始めたほうがいい気がする。
メタファーの組み合わせの重要性というと、そもそも舞台の主人公がなんで三日月宗近・山姥切国広の二振りなのかという理由をずっと考えていたのですが。
山姥は鬼女、鬼女を「般若」とも言うからではないか?
物(鬼)について調査結果をまとめた時に、能面の鬼女を「般若面」というのはやはり仏教の「般若(智慧)」に関係しているのではないかと『鬼の研究』の著者が推測していたんですよね。
能面の「生成」と「真蛇」の関係性との考察の中でそういう話がありました。
仏教で生死の絆を断つ仏の智慧を指す言葉は「般若」。
しかしこれは芸能の世界では「鬼女」を指す。
だから山の鬼女と謡曲・曲舞に謡われる「山姥」を切った刀とは。
「般若(智慧・鬼女)斬り」と考えられるのではないか?
ミュージカルは「つはものどもがゆめのあと」で三日月と鬼斬り刀である髭切・膝丸の絡みが大きな意味を持っていますし、花丸が雪の巻などで三日月と国広を組み合わせてたのも広義の「月」と「鬼斬り」の組み合わせかなと。
そしてできれば髭切たちより山姥切の二振りの方がメタファーとして月との関連性において重要度が高いというのならそれは名前そのものが「山姥」「切」という「鬼女斬り」であることが重要。
だから、「山姥切」はおそらく「般若(智慧・鬼女)斬り」が中核のメタファーだという話だと思います。
それを何故「月」を強調する三日月宗近と組み合わせるのかという根拠がおそらく舞台で出てきた陰陽の考えではないかと。
「月」は仏教では「太陽」と同様に「般若(智慧)」によく例えられますが、一方で陰陽説を持ち込むと、「太陽」が陽(光)属性になるのに対し、「月」は陰(影・闇)属性になるので、どちらの意味でも絶対的な光・般若(智慧)である「太陽」と違って、陽にも陰にもなりうる存在です。
ということで「般若(智慧・鬼女)」を切って「般若(智慧・鬼女)」に呪われながらもそのもの自身であるという「山姥切」の二振りと、
「月」という「般若(智慧)」の象徴でありながら話題によっては「陰」という「影」「女性」属性になる「三日月」、
両者は同一、同質のメタファーと考えていいと思います。
それだと大般若さんもこの流れにかなり関係してきそうですし、酒を「般若湯」という呼び方があります。
大般若さんのボイスで「飲めば知恵湧き出る」と「般若湯」絡みっぽい台詞があること、全体的に「銀髪」や「美」など比較的長義くんとメタファーが近いことを考えても関係がありそうですよね。
(もともと同じ長船の刀工仲間ではあるが、では他の長船派は何故違うのかという話になるのでやはり長義くんと大般若さんが特にメタファーが近いのだと考えられます)
ただ困ったことに、私は2021年からの後発プレイヤーなので大般若さんがどういうタイミングで追加されたかわからない(死んだ目)。
ただの実装時期だけじゃなくその前後に誰がいるのかとか新イベントや新合戦場追加などの転機があったかと合わせて考えなきゃいけないのですが、そういうことを一瞬で調べられる一覧が、とうらぶにはありません!
普通だったらそういうものは公式サイトの更新履歴を見ればわかるのですが、このゲーム……何故か、9周年まで公式サイトが……なかったから……(頭を抱える)。
メタファーが実装順にめちゃくちゃ関係していることを考えるとその辺を一から全部調べなおしてわかりやすいように並べた一覧表の製作から始める必要があります。
誰かやってくれないかなぁ(他力本願)。
……まぁ、これをやるのはそのうちでいいよね、と。少なくとも今年は残り二つの特命調査で誰が来るのかまで知りたい。
今出せる考察はこのくらいですかねえ。
あとは「鶴」って字は右も左も鳥だから一文字で鳥が二羽だなとか蜂須賀の来歴に飾るは関係ないけど蜂須賀の名前の漢字である「須」の左側が「かざり」だから「幕末天狼傳」で「飾る」が強調されていたのはこっちだろうとか、漢字メタファーの読解にまつわる細かいネタぐらい。
あとこれか。
「花影」で長義くんが槌音のトンカンから始まる歌で自分の銘のことを歌っていたのでもしかして? って思ったやつ。
もしかして文久土佐の「土」は「槌」?
「土」はつち、「つち」は刀を生み出す――「槌」の音?
ということはやっぱり舞台の聚楽第で槌音がしなかったのはそれ自体が物語が生み出されないということであばば。
ついでに音による言葉遊びなら刀剣の「銘(めい)」はそのまま「名」であり「命」でもあり、
刀剣のナカゴと呼ばれる「銘」を刻む部分は「茎」だけでなく「中心」や「忠」と書くことも結構あるのでこれが重要な気がします。
植物の「茎」も「中」の「心」もどっちもメタファーとして重要すぎる。
みっちゃんとか「光」の「中」の「心」とか圧倒的「般若(智慧)」属性じゃん……。
長船派は元々全員般若の船だろうけどさ……。
このぐらいかな。あとは今のところジャンプしても何も出ないよ。
もともと回想141と「慈伝」の長義くんの態度のすり合わせ考察はやる予定でしたが、ミュージカル全般と「花影ゆれる砥水」のおかげで思った以上の収穫を得られました。
ある程度これまで考えていたことに保証がついたものもありますが、まったく予想外のところから来た部分もあって面白い。
舞台とミュージカルもそろそろ特命調査のターンが終わって、対大侵寇防人作戦相当(ゲームのイベントそのままではない、あくまで相当)の話という大きなターニングポイントを迎えると考えられます。
そこでやはりこれまでの情報が一気に整理できるタイミングが来るかと。
早くて一年後くらいだろうか。
「悲伝」は「慈伝」とセットで見なきゃいけない内容なので、どんなに早くても「心伝」のあと2回は必要になることを考えると一年はまだかかりそう。
ミュージカルの方は……あの本丸の初期刀に関して戯曲本では「加州清光」って言ってるけどこれ本当か?? まだミュージカル本丸で見かけたことない「歌仙兼定」じゃないの?? っていうちょっと大きな謎が……。
加州は加州で原作ゲームだと対大侵寇に匹敵する重要イベント、6面の「加州清光折大隊」とかいうとんでもないフラグがあるので加州だったらそこを回収する形になるなと思うんですが。
いやこれ初期刀加州って本当か? 最新作の「陸奥一蓮」の時系列いつ? これが普通に通常時間軸なら加州、国広、蜂須賀まではぴんしゃんしてない??
えー、もしミュージカル本丸の歌仙が折れてたら下手すると一年後くらいには国広が舞台でもミュージカルでも「歌」折ってんなこいつ……となる可能性があるので重要ですね。ちょっとこれ結果待ちしたい。
般若(智慧)が刀で斬る事でメタファーとしては太陽・月で舞台本丸は「月」である三日月が刀解。
だとしたら歌劇のミュージカルだと慈悲のメタファーらしき「歌」を持つ歌仙が折れてるって考えた方が自然なんだけどねえ。そもそも誰も死んでない平和な本丸はどこだよ花丸だけ??
何はともあれ長義くん関連で今私が出せそうな考察に関しては出し切ったと思います。
長義くんの極修行と舞台の展開の予想についてはもう結果待ちの姿勢でいいかなと。
極修行に関してはともかく、舞台の予想については外した方がスタオベできます。
一つだけ確信をもって言えるのは、どんな物語も、きっと私たちが自分の視野の狭さで勝手に狭めているよりも、本当はもっと面白いんだろうってことですかね。
名前があろうとなかろうと、その内側にどんな想いを抱いていようと、
物語はいつも、愛(かな)しく、愛(いと)しく、愛(うつく)しい。
そういうものだと思います。
ここまでお読みいただきありがとうございました。