パライソのその後を考える思考実験
山姥切長義・山姥切国広の研究史の根本原理はミュージカル「静かの海のパライソ」の理屈で通じるんじゃないか? という試み。
前提が前提なので大分ミュージカル寄りの内容です。
1.二人の天草四郎
とうらぶを読解するにあたって、刀剣の研究史を調べた。
しかし、それをどういう観点で物語に落とし込んでいるかわからない……!!
という我々のそもそも根本的な疑問に対し、派生作品の一つであるミュージカル「静かの海のパライソ」の理屈が一番基本的でわかりやすいのではないかなと思います。
山姥切長義・山姥切国広の本歌・写し関係とそれぞれの研究史の理解に関しては徳美こと徳川美術館の論文がすでに概要をまとめてくださっています。
長義推しは大体これを読んでいて研究史の概要自体は頭に入っている人が(とくにこういう考察系を好んで読む層には)多いと思いますが、しかし、研究史だけを読んでもストレートに原作ゲーム及び派生各作品の長義・国広それぞれの台詞にはならないのでは……? と思わせるのも「刀剣乱舞」。
特に謎が多いのは、山姥切国広の修行手紙。
そして、実装から5年過ぎてもまだ来ない長義・極。
これまでも原作ゲーム・派生作品をある程度考察してきた感じ、修行手紙で国広があの結論に至った繊細な心情を理解するには、ある程度「刀剣乱舞と言う物語そのもののギミック」を理解しないと厳しいものがあると思います。
一応私個人は原作ゲームを徹底的に考察してから派生を見始めた感じ、本当に頭の良い人なら原作ゲームだけでもとうらぶの各事象の解釈はできるのではないかと結論しましたが、とりあえず頭の良くない私には不可能なので無理せず派生の情報を摂取して原作ゲーム解釈にフィードバックしていくぜ! 方式でやっております(オイ)。
とうらぶのギミックで一番大きなものは、舞台がこれをメインに描いている「刀剣男士の分裂」ですね。
「悲伝」で三日月宗近が足利義輝を救いたいあまりに「鵺(時鳥)」に分かれています。
「維伝」からしばらく山姥切国広の姿をした敵が現れ、これは「山姥切国広の影」「朧なる山姥切国広」と呼ばれている上に、その目的は三日月宗近を救うことのようです。
(この考察書いてる時点で舞台では「禺伝」と「単独行」まだ見ていないんですが、PVの存在もあるし「朧」が国広の本心である「三日月を救いたい」という心から生まれていることはまず確定だろうということでそのまま行きます)
刀剣男士は刀の付喪神ではあるものの、物語に寄せた想いから生まれるという認識の産物である以上、研究史を調べて内容に矛盾や誤説があるものはその数だけ分裂するのではないか? という仮説自体は原作ゲームの考察だけでも立てられるものです。
これを確定に持っていくのが舞台側の「鵺」「朧」の存在で、そうした認識の分裂を基準に各事象の認識上の構造をかなり詳細に整理したものが「刀剣乱舞」という物語だと思われます。
舞台は舞台で分裂の理屈をこれからじっくりとやると思われますが、今回新たにミュージカルをまとめて見た感じ、「静かの海のパライソ」の理屈は「山姥切」の研究史の根幹をかなりわかりやすく説明しているのではないかと思いました。
――本来「天草四郎」として世に出るはずだった少年が殺された。
――その代わりとして、刀剣男士たちが歴史上の彼の欠落を補った結果、名もなき少年の死体が物語の最後に「天草四郎」とされる。
――名もなき少年は、弟を持つ兄。戦いの中で弟を守りぬいて死んだ結果、彼が「天草四郎」になった。
一言で言い表すなら「死後の為り変り」。
入れ替わりというか「為り変り(なりかわり)」が起こったのはどちらの少年も死んだあとの話であり、それぞれの幸福にはまったく寄与していない。
しかし、その行動により、表面上の歴史は正しく紡がれている。
状況を作り上げたのはあくまでも刀剣男士である鶴丸たちや周囲の人物たちである。
どちらの「天草四郎」の意志も介在していない。
その結果、
本物の「天草四郎」はその名、その物語を奪われ、
名もなき物語の一つであったはずの少年は、望んでもいなかった「天草四郎」の名を得た。
で、その「後」、この話はどうなるか?
歴史は繰り返す。物語は円環する。
ループの理屈はまったく説明されていませんし、舞台以外はループしているという言及もありませんが、まぁ派生作品を全般的に見た感じ普通に輪廻でいいんじゃねーかぐらいの雑さで仮置きしても問題ないかなと。まぁたぶんとりあえずなんか繰り返すんだろ(本当に雑)。
刀剣男士は同じ世界に何度も出陣する。そのたびに同じ歴史が展開されているわけですが……
真の「天草四郎」がその名を失って死に、
名もなき兄が「天草四郎」となった世界の次の巡り。
それは、どんな光景が展開されているか。
その「静かの海のパライソ」の「次」の予想が、要するにとうらぶで描かれている山姥切長義・山姥切国広の心情と同じ理屈になると思われます。
さて、一つ思考実験をしてみましょう。パライソまでのシミュレートを。
2.祀り上げられる名もなき兄
本物の「天草四郎」はその名を自ら世に出すことなく死んだ。
そして本来「名もなき物語」として扱われるはずだった兄弟の兄が、弟を守り抜いて死んだ結果、死後に「天草四郎」の名を得る。
その世界の次の巡りは、当然こうなるだろう。
もしも、またあの世界に刀剣男士たちが出陣した時、見るものは
もともと「名もなき物語」の兄であった少年が「天草四郎」を名乗り、
本来「天草四郎」であった少年が、兄弟の兄として、「名もなき物語」として生きている光景。
パライソの最後の扱いに従って、二人の「天草四郎」の役割が入れ替わる。
「名もなき兄」が「天草四郎」になった場合、本来「天草四郎」と呼ばれるはずだった少年はその穴を埋める形でそのまま「名もなき兄」の位置にそっくりそのまま入ると思います。
これが、そもそも現実に「山姥切国広」とその本歌である「本作長義以下58字略(山姥切長義)」が辿ってきた歴史ですね。
山姥切国広が関東大震災で焼失だと思われた結果、「山姥切」という号の由来もまたわからなくなったとされる。
その中で誰かが憶測する。
「一説に山姥切の号は、元来この長義の刀に付けられた号で、信州戸隠山中で山姥なる化物を退治たためという。」
本来国広の号であったものを本歌である長義に与え、そして
「その写しであるから山姥切国広と呼びならしたという。」
誰かを「山姥切」に仕立てたら、もとの「山姥切」は入れ替わりで名もなき物語、自分では山姥を切った逸話がない、号を写しただけの存在にされる。
思考の過程でどうしてもこういう現象が起きる。
どちらかが真とされたら、どちらかは真でないとされる。
けれど、じゃあその世界で前世は「天草四郎」であった少年と、前世は「名もなき兄」であった少年はそのまま今の己の違和感を抱かずに生き続けるかというと。
……ここがポイントではないだろうか。
もしも前世で兄弟の「名もなき兄」であった「天草四郎」が、再び「名もなき弟」に今生で出会うことがあったなら。
例え記憶はなく、理由はわからずとも、その魂をかつて愛していたという懐かしさや愛おしさを抱いてしまうのでは?
ミュージカル全体でも、舞台の方を見てもあちこちにばらまかれている布石の収束はここじゃないかと思います。
歴史から消されるって、どんな気分なんだ?
だったらお前が覚えていろ。俺もお前のことを覚えていてやる。
俺はあなたに愛されたことも覚えていない。
お前が忘れても、儂が覚えている。
良かったな。物語に出会えて。
――名もなき物語は、命をかけてでも、名のある物語に出会いたかった。
井伊直弼と吉田松陰を出会わせる敵の回心の一手だな。
――名のある物語同士が出会ってしまったから、どうすることもできず放棄された世界になる。
それでも。
それでも「物語」同士は、「出会う」ことを望んでしまうのではないだろうか……?
舞台で三日月宗近がなんか以前は足利義輝を守る刀をやってたっぽいことを言う理由がここだろうねと。
巡る輪廻の中で、人も刀剣男士も「名のある物語(歴史)」と「名もなき物語(歴史に残らなかったもの)」を行き来する。
だからかつて「鵺」のように足利義輝を守る刀だった魂が次は「三日月宗近」になるし、放棄された世界で斬られた「細川ガラシャ」が「歌仙兼定」になっている世界もあるんでしょう。
(これ書いてる時点ではまだ「禺伝」見てませんが役者さん的に以下略)
覚えていなくても、心に残ったものを抱えたまま。
だから、「名もなき兄」の来世は「天草四郎」。
けれどその「天草四郎」はきっと、今生では何の関係もないはずの「名もなき弟」に惹かれ、前世のように愛してしまう。
その傍らには、本来「天草四郎」と名乗るはずだった少年が、「名もなき兄」として傍にいるにも関わらず。
3.葬られし真の天草四郎
本来「天草四郎」として立つはずだった、けれどそうはなれなかった物語。
こちらの視点で上のシミュレートを見た時にどうなるか。
根本的には名を失くした物語としてやはり欠乏感があるのではないか。
自分には何かが足りない。欠けている。本来持っているべきはずのものを奪われた。
しかし、じゃあそれを取り返したいと奪ったものたちを憎み、名を取り戻すために戦うことを選ぶだろうか。
そうは思えない最大の理由こそが、「名もなき弟」。
もとは「天草四郎」となるはずだった魂は、「天草四郎」になれなかった。
けれどその名の代わりに得たものがある。それが弟。
自分が本来得るはずだった「名」、その「名」を失うことでしか得られなかった「弟」。
「天草四郎」でなかったからこそ得た「弟」を、再び「天草四郎」になるために捨てられるであろうか?
ミュージカルの作風からすると、できないと思う。
前世の「名もなき兄」はおそらく今生の「天草四郎」であるにも関わらず「名もなき弟」に惹かれてしまうだろう。
けれどその時、じゃあ今生の「名もなき兄」が「名もなき弟」を放り出して「天草四郎」に戻りたがるとは考えにくい。
むしろ兄として自分の弟は今生の「天草四郎」にわたさない、という心情になるのではないか。
えー、つまりこの心情が要するに極国広の内面ではないかと。
「結びの響き、始まりの音」にしろ「江水散花雪」にしろ、「出会い」の重要性を描いている。
前者は名もなき物語が命を懸けてまで得たいものとして、後者は、その出会い一つで全てを終わらせることすら決まってしまうほどのものとして。
また、舞台では「茲(ここ)」、「本丸にいること」、「本丸の物語」の重要性も度々描かれている。
本丸と言う場が重要であるということは、原作ゲームだと小豆と山鳥毛の回想79あたりで言及されています。
「……この巣は、想像していた以上に貴重な場なのかもしれないな」
「ここ(本丸)」だから、あなたと会えた。
「ここ(本丸)」でだけ、あなたといられる。
極国広の回想57で、自分の名の重要性を否定しながら、それでも「……また話をしよう」と長義との交流に積極的な理由はこれだろうと思います。
大前提として前回の「ごけちょぎ考察」を踏まえてもらった方がわかりやすくなると思いますが、一応あれを読まなくてもこれまでさんざん長義も国広も二分できるよねって話をしてきたのでそちらから行くと。
「花影ゆれる研水」で長義くんが
「だが 強い物語を得られず後の世にそのあとを残さない影ならば いずれ一期一振という物語に統合される」
と言っていた前提からすると、そもそも長義と国広はお互いの本当に望む相手には決して出会えないのが基本だろうと考えられます。
とうらぶの原理的な物語の強さ(名のあるものが歴史)基準で言うと
「山姥切国広」は「山姥を切った国広」を主軸に細かい枝葉を統合するので、「山姥切長義の写し」は最初から国広に統合されている状態。
「山姥切長義」はおそらく「山姥を切った長義」に統合なので、正しく山姥切国広の本歌である「本作長義以下58字略」も最初から長義に統合されている。
刀剣男士としての長義・国広に関してはお互いがお互いの最愛の相手を食い殺した仇でありながら、それでいて愛しい相手そのものともいうクソややこしい関係と言えます。
――世に出ることなく墓下に葬られた「山姥を切った国広」には、戻りたくない。
――ここでだけ、「本丸」というこの物語でだけ、「長義」としてのお前といられる。
――自分は山姥を切った刀ではないと名を否定して、名もなき「長義の写し」である間だけ。
「……名は、俺たちの物語のひとつでしかない」
「俺たちが何によって形作られたのか。それを知ることで強くもなれる。けれど、もっと大切なことがあるのだと思う……」
「名」がどうでもいいわけではない。
けれど、その「名」よりも大切な存在ができてしまった。
それに、自分が元の名を主張するということは、今度は必然的に相手からその名を奪うことになる。
一度「名」を失ったからこそ、相手にも同じ辛さを味合わせることはできない。
これが極国広の基本思考かつ、パライソのその後の二人の「天草四郎」の心情をシミュレートしたときの、もともと「天草四郎」だった側の心情だと思います。
「名もなき兄」が自ら望んだわけでも、鶴丸をはじめとするあの部隊がそれを意図したわけでもない。
けれど「為り変り」は成ってしまった。
そして一度「名」を奪われた本物は、相手からそれを取り戻したいとは望まないだろうと。
創作物の方向性としては別に名を奪われた側がガンガンにその状況を作った相手を憎んで名を取り戻す戦争を仕掛ける展開とかもまあ面白いとは思うんですが、ミュージカルの作風からすると違うな、と。
パライソの理屈はその辺のいくつかの選択肢の中の、最も優しいものを選ぶのではないか。
それこそ、ミュージカルの話はずっとそうでしょう。
長曽祢さんに近藤さんを斬らせたくないから蜂須賀が代役。
歴史から消されるのはどういう気分だと焼失した御手杵から尋ねられた永見貞愛は、俺が覚えててやると言う。
戦に負けたからと言ってわしがこの世にあったことまでなくなるわけではあるまいという平将門は、三日月を怒鳴りつけてやったとしながらも、負けた者にいれこみすぎるとそのうち負けた者に引きずられるぞと水心子に助言する。
一度は影打にその立場を奪われかけた一期一振は、けれど豊臣秀吉に磨上てでも佩刀としたいと言われたことが嬉しかったと伝える。
ミュージカルは基本的に己を想ってくれたものに同じく優しさを返す話になっているので、パライソの次の巡りも「名」という名誉を第一としてそれを奪い合うより、むしろ家族や仲間、救いたいものへの愛などを重視すると考えます。
ただ逆に言えばこの本物の「天草四郎」から「名もなき兄」へと入れ替わったものの視点は、相手側が「名もなき弟」を本気で奪いに来た場合は憎しみを爆発させる可能性もありますが。
案外、どちらも山姥を斬ったりなんかしていないのかもな。ははは。
人間の語る伝説というものは、そのくらい曖昧なものだ。
写しがどうの、山姥斬りの伝説がどうので悩んでいたのが、馬鹿馬鹿しくなった。
祝いか、呪いか、一言多いか。
どちらにも逸話があるとしながらも、国広は結局、自らの逸話に関する人の愛を信じてはいない。
世に出る前に墓下に葬られた存在としてはある意味当然の恨み言と言えば恨み言。
南泉をはじめとする「呪い」関係の話題は同時に一文字則宗の登場や南泉自身の極修行によって「愛」と同列のものとして語られている。
だからこそ、愛がなければ、「呪い」もないが、「祝い」もない。
己こそが真に山姥を切った刀だと言われても国広が喜べず、むしろ「山姥切長義」の立場が失われるのを悲しんだのはそういうことかなと。
4.天国までのシミュレート
長義くんの極予想も死後に為り変わった後の「名もなき兄」の立場でシミュレートすれば予想できるのではないかと。
と、いうか長義くんの極に関しては一度ほとんど原作ゲームの情報のみで(それ以外で含むとしたら離れ灯篭)組み立てたものがあるんですが、出しておいてなんだけどその心境に至る細部の情報が足りなかったものが、このシミュレートできっちり埋められた感じです。
もともと「天草四郎」だった少年は、「名もなき物語」となることでこそ愛しい「弟」と出会ってしまった。
きっと「名もなき兄」は「名もなき弟」を手放しはしないだろう、というのが国広側の理屈の推測。
では「名もなき物語」から「天草四郎」という名のある物語となった少年はどういう道を選ぶか。
もともと「名もなき兄」であった物語は、かつての己の半身であった「名もなき弟」を今の「名もなき兄」、かつて「天草四郎」と呼ばれるはずだったものが手放したくない、奪われたくないと抱きかかえているのを見て。
かつての「弟」の手を放し、己は「天草四郎」の役目を全うすることを選ぶのではないだろうか。
真の「天草四郎」は、きっと為り変り「天草四郎」の名を奪うことを望まない。
自分が感じた名を奪われる悲しみを、相手にも与えるようなことはきっと願わない。
その代わりに「名もなき兄」であることを望むだろう。「名もなき弟」と共に在るために。
そして為り変りの「天草四郎」は逆に、弟と引き離される悲しみを知っている。
だから、その寂しさを相手に与えることは選ばないだろう。
弟を手放して、一人になってでも、「天草四郎」で在ることをきっと願う。
何故なら、記憶になくても、かけられた言葉があるから。
日向「偉いね 最期まで弟を守ったんだ 偉いね」
日向が寿ぎ、浦島がその手を握り、鶴丸がその首にロザリオをかける。
その死体はのちに、「天草四郎」となった。
「名もなき物語」を「天草四郎」に仕立て上げてしまったのは彼ら刀剣男士たち。
彼ら自身が「天草四郎」の代役。
(かつて「山姥切国広」が焼失扱いになっていた際に、本歌の「長義」を「山姥切」に仕立てた人々のように)
では彼ら刀剣男士たちは、「名もなき兄」をどう思っていたのか?
長義くんの研究史を理解するときのポイントはここだと思うんですよね。
「名もなき物語」から「名のある物語」に仕立てられた少年。
その来世は、己のその扱いに不満を持つだろうか?
個人的には別にここで仕立て上げられた側が、お前たちの勝手にやったことだろう、俺に必要もしない名を与えて弟を奪いやがってこの傲慢野郎が! とキレる物語も描き方次第で味が出ると思うのですが、やはりミュージカルは違うでしょう。
ミュージカルの物語の多くでは、歴史のために奔走する刀剣男士に関わった人々は基本的にその優しさを返す形で行動している。
「名もなき兄」を「天草四郎」にしてしまった刀剣男士たちは、決して彼を、彼らを侮ったわけでも、雑に扱ったわけではない。
何も知らなかった浦島くんは、本気で彼らをパライソに連れていってあげたかった。幸せになってほしかった。
彼ら自身も殺された「天草四郎」の代役だった。
その真実の物語を知らなくても、彼らの知っている表向き正しい歴史を守るために必死だった。
(焼失したとされる「山姥切国広」の号の由来について憶測したかつての研究者たちも、そうであったように)
かつての生の時の記憶はなくても、その暖かさを知っているだろう。
ならば、偽りの「天草四郎」は、己の行動を持って本物の「天草四郎」となることを選ぶのではないか。
もう、この名をかつてその名を持っていたものに返すことはできない。することを選ばない。
その代わりに愛しい弟の手を放し、島原の乱を戦う。
己が守るべきもののために。与えられたこの「名」こそが誉だと。
祝いか、呪いか、一言多いか。
その一言はたとえ憶測であっても、そこに愛があるのであれば、「呪い」でさえ「祝い」となる。
だから、
私こそが「天草四郎」。
島原に集いし、3万7千人のキリシタンを導く光。
例えその物語の結末が、幕府方による凄惨な一揆勢皆殺しだとしても。
――それが、「名もなき物語」から「天草四郎」へ為り変ったものの結末ではないか?
5.地獄までのシミュレート
……と、言うのが「静かの海のパライソ」の状況を基にした長義・国広の心情の推測なわけですが。
大正時代に世に出るはずだった「山姥切国広」の逸話が一度失われた結果、のちに「山姥切長義」が生まれる。
本物の「山姥切」である「山姥切国広」は逸話のない「長義の号を写した刀」となり、ただの「長義」は「山姥切長義」となった。
名のある物語は「山姥切国広」と「山姥切長義」。
どちらも山姥を切ったからこの名だと説明される。
名もなき物語は「山姥を切っていない国広(長義の号を写した刀)」とただの「長義」。
自分自身は逸話を持たぬとされる。
皮肉というか不思議というか、山姥を切った国広は、山姥を切っていない国広である間だけ、己の本当の意味での本歌であるただの「長義」と一緒にいられる。
だから本当は「山姥を切った国広」は、「山姥を切っていない国広」という物語を手放せない。
一方で、その歴史を逆の立場から見ている「山姥切長義」はおそらく、自分自身の半身を手放し、与えられた名を背負っていくと考えられる。
……と、言うここまでが「天国までのシミュレート」なんですが、同じ構造でもう一つ別のシミュレート出していいですか?(なんやて??)
あくまでお互いがお互いの歴史に干渉しないように、これ以上相手から奪わないように動く、長義・国広にはそういう動きももちろんありますが。
ミュージカルの方の発想を基準にしたこっちとは違って、舞台はある意味お互いの物語をしっかり食らい合っていると言える。
そっちの原理も同じ要領で考えるとこうなる。地獄までのシミュレート。
「山姥切」が名を立てる前に失われて、その魂は来世、「名もなき物語」として転生。
一方、代役の「山姥切」は、「名もなき物語」であったが、己の半身と別れて「山姥切」の名を背負うことを選ぶ。
つまりシンプルに二つの物語が入れ替わったと仮定する。
ならば入れ替わった二つの存在は、結局時間軸の問題だけで本質的に同一物である。
んんん? つまり
この場合、「山姥切国広」はストレートに「山姥切長義」そのものである。
ということになる。
んんん?
これだけ見ると字面に違和感があるので補足しましょうか。
「山姥切(国広)」の名が世に出なかったため、「山姥切(長義)」が立てられる。
名を失った山姥切国広は名のなきもの「長義」の立場になったが、そのおかげで「長義の写し(山姥を切っていない国広)」という存在を得た。
その「山姥を切っていない国広」は本歌となる「物語」の存在によって生まれたという意味では「山姥切長義」とも同一である。
また、「山姥切長義」とはそのまま失われるはずだった「山姥切」を復活させたという意味では即「山姥切国広」自身でもある。
書いてる私もものすごく混乱していますが、つまり長義と国広そのまま中身反対になるのでは? というだけの話で。
長義と国広だと我々の頭の中ですでに別個体として厳密に区別してしまっているのでわかりにくくなりますが、「天草四郎」の例えに戻りますと、この二人の少年は区別されるか? という話です。
見ている刀剣男士の側はあれは前世の天草四郎で今生の名もなき兄であれは前世の名もなき兄で今生は天草四郎で……と区別してしまうのでしょうが、おそらくあの世界で生きる人々は二人を区別「できない」のが普通だと思うんですよね。
前世の人間にとっては元の「天草四郎」が、今生の人間にとっては今生の「天草四郎」が、本物。
両者に違いはなく、区別もできない。だからどちらも別人でありながら、完全に同じ「天草四郎」である。
??????
数式のように整理すると字面のわけわからん感が酷いことになりますが、そういうことになります。
「山姥切」という言葉だけで、我々は長義と国広を区別できるのだろうか。
むしろあの二振りは本当に別物なのか?
単に「山姥切」と呼んだ場合は「両方とも対象」。そうではないか?
――二人の「天草四郎」を区別するにはその垣根たる「前世」「今生」「来世」という「時間的な区別」が必要になる。
言い換えればその時間的な区別ができることこそ、対象についての「歴史を知る」ことだと言える。
「歴史を守る」ためにまず必要な「歴史を知る」とはそういうことではないか?
一つの物も人も、生まれてから死ぬまでずっと同じ名で呼ばれているわけではない。
むしろ日本の歴史上の人物とかしょっちゅう同じ名前や役職を受け継いだり継がせたりしている。
ではその同じ名前で呼ばれている物・人を我々はどうやって見分けるのか。
その区別こそが「歴史」なのではないか。
いつの話だから、どこの話だから、何の話だから――同じ名前のものが二つあるけど、これはこっちです。
そう区別できることこそが「歴史を知る」ことだと。
逆に言えば名前なんかに拘る必要はない。我々が歴史を知っていればいいだけ。
名前に拘って片方を否定するのも、名前が同じだから完全に区別をつけないのも結局は同じく「歴史を知らない」ことになるのではないだろうか。
そして歴史を守るためにはそのような「歴史を知らない」行いは総て否定しなくてはならず、否定していった結果が舞台の世界でありミュージカルの世界、総てのとうらぶの世界なのでは?
地獄のシミュレートの話に戻ると、
結局自分を否定するものはもう一人の「自分」自身であり、それは対になる「相手」と同一であると言える。
さらに自分が失いたくないと抱え込んでいるのは「相手」であり、「自分」自身でもあるのではないか。
……この辺本当にくそややこしくて書いてる私も上手く言えないんですが(いつものことじゃん)。
国広の極修行手紙の読解が難しく、長義くんの動向が読めないのはこの「天国までのシミュレート」と「地獄までのシミュレート」が両方「重なっている状態」が原作ゲームの「デフォルト」だからではないかと考えます。
だから国広を追い詰めるのは国広自身であり、長義くんを追い詰めるのもまた長義くん自身というのが本質。
けれど、ストーリーをシナリオとしてお出しすると、それは表面的には国広と長義の争いに見える。名の食らい合いに見える。
と、いう構造ではないかと思います。
ミュージカルのパライソの理屈だけで構成されているならもっと国広の修行手紙の内容も、長義くんの態度も簡単なものになるのではないかと思います。
それがなかなか容易に考察の正解らしきものに辿り着けないのは、「転生ごとに立場が逆転するお互いの存在が重なり合っている状態での心情」を突き止めるのが容易ではないから、というのが理由ではないかと思います。
そして肝心のじゃあそんなクソややこしいものをどう理解するんだ? に対する回答が「段階ごとに分解したストーリーを見せる」というやり方だと考えます。
派生作品それぞれで刀剣男士のキャラが一致せずに異なるように見えるのは、根幹が同じで要素が共通していても時間軸的な区別による別物としての差異が発生しているからと考えられます。
同じ「天草四郎」の名を分かち合った存在だとしても、おそらく「天草四郎(元名もなき兄)」と「名もなき兄(元天草四郎)」は傍目からは違う性格の人物が同じ役割をこなしていると見えると思われます。
けれどその両者の内面はもちろんどちらかが嘘というわけではなく、「時間的な区別」が生じさせている差異であり、見ている我々が「時間的な区別(歴史)」を学べば解消されます。
これが基本的な「刀剣乱舞」の構造であり、ある意味「歴史認識」の真理そのものだと考えられます。
6.舞台とミュージカルの対応構造
ここで一度、舞台と歌劇の対応構造を見ておきたいと思います。
01.「虚伝 燃ゆる本能寺」⇔「阿津賀志山異聞」
02.「義伝 暁の独眼竜」⇔「幕末天狼傳」
03.「ジョ伝 三つら星刀語り」⇔「三百年の子守唄」
04.「悲伝 結の目の不如帰」⇔「つはものどもがゆめのあと」
05.「慈伝 日日の葉よ散るらむ」⇔「結びの響き、始まりの音」
06.「維伝 朧の志士たち」⇔「葵咲本紀」
07.「天伝 大阪冬の陣 蒼空の兵」⇔「静かの海のパライソ」
08.「无伝 大阪夏の陣 夕紅の士」⇔「東京心覚」
09.「綺伝 いくさ世の徒花」⇔「江水散花雪」
10.「禺伝 矛盾源氏物語」⇔「江おんすていじ~新編里見八犬伝~」
11.「山姥切国広単独行―日本刀史―」⇔「花影ゆれる砥水」
12.「心伝 つけたり奇譚の走馬灯」⇔「陸奥一蓮」
私はまだ舞台の「禺伝」と「単独行」見ていませんし、舞台に至ってはまだ「心伝」が公開されていないんですが、とりあえず舞台の「綺伝」までとミュージカルの「陸奥一蓮」見た感じはこれできっちり対応すると思われます。
舞台が過去作二部構成になっている「天伝」「无伝」に対応する話はどうなるか。一作か二作セットか? そもそも舞台の「外伝」は? とか他にも再演台詞劇単騎双騎その他細かい話を考えるとこれまでは色々悩まされましたが実際に見た感じだと
・ミュージカル側の「花影ゆれる砥水」は一期一振、舞台の「単独行」は山姥切国広の極修行
・ミュージカル側の「静かの海のパライソ」「東京心覚」の連続性と舞台側の「天伝」「无伝」の二部構成は対応
・ミュージカル側は「葵咲本紀」と「陸奥一蓮」でテーマ的に逆転して閉じる円環を構築、舞台側も幕末の「維伝」と慶応甲府がテーマの「心伝」はまず間違いなく対応することから同じ構造
などから考えると、舞台とミュージカルはそっくりそのまま「同じ構造をしている」と結論していいと思います。
演劇二つに比べるとまだ検討が足りないので大分ざっくりした印象にはなりますが、おそらく花丸他の派生も全て同じ構造なのではないかなと思います。
そしてその構造とは、おそらく原作ゲームの「刀剣乱舞」の構造と同じだと考えられます。
この辺は前回の考察で大分やったので割愛しますが、メタファーの並びがみんな似ているので、基本の構造として原作ゲームの、シナリオとしては書かれないけどそこにきちんと存在する「物語」があって、舞台やミュージカルや花丸などの派生作品はその骨格にそれぞれの「本丸の物語」という皮を被せた構成だと思います。
さらにその構造は基本円環をなしていて、一振りの刀剣男士が複数のメタファーを担当しているため物語の進展に伴って開示する情報をずらすことで、メタファーが踏襲する同じ円環を描きながら違う物語に見せる、ということをおそらく大体の派生作品で共通して行っていると考えられます。
特に舞台とミュージカルは上の対応で話の進行が原作ゲームとほぼ同一だと考えていいと思います。
ミュージカル最新作の「陸奥一蓮」見たんですが、最後に国広が加州たちにミュージカル本丸の過去に起きたことを話す流れだったので、次回はどう考えてもこれの続きで過去が開示されます。
その過去とはおそらくミュージカル本丸の初期刀である歌仙兼定が折れたという話だと思われますので、あの本丸における対大侵寇相当の大きな話になると言えます。
舞台に関しては特命調査をほぼそのまま描いているので、慶応甲府の次はストレートに予想すれば対大侵寇相当の事件が来ると考えられます。
(舞台は定期的に過去編を入れるので途中とばされた天保江戸は次の章の過去編に回されたと考えると不自然ではない)
どちらも原作ゲームのイベントとは全く違いながらも、見た人にこれがこの本丸の対大侵寇防人作戦みたいな話だなと思わせる作りになるのではないでしょうか。
すでにミュージカルの「花影ゆれる砥水」が「一期一振の極修行」みたいな内容だと言われています。
私もそう思いましたけど、他の人の感想探したらやっぱりそういう意見はすでにあったようなので、これと同じタイミングで舞台が「山姥切国広単独行」という国広の極修行をそのまま(こちらはむしろ手紙通りの内容ではない)やっていることを考えるなら、きっちりテーマと構造を対応させてくると思います。
と、いうわけで舞台とミュージカルは構造という骨格は同じだと考えられますが、表面上の物語は「それぞれの本丸の物語」が形成されています。
そしてその「それぞれの本丸の物語」という違いを成立させるのは前提となる審神者の知識、認識に左右されるものではないかという仮説が立てられます。
舞台とミュージカルは同じ構造をしている。
では、両方の本丸の刀剣男士は皆同じものか? と聞かれたらほとんどの人は「違う」と答えると思います。
同じ刀剣男士であっても態度や言動に差が現れる。その差は何か。
……出発点となる情報差ではないか?
と、いう仮説が一番濃厚だと思われます。
知識、認識の情報差。それが生み出す想いの差。そのまま審神者のスペック差に置き換えてもいいかもしれない。
特に花丸が顕著で、あれがどういう本丸かという分析は過去の考察で幾度かやっていますが、単純に「監査官」という外の存在である長義くんの評価だけ見ても、舞台と花丸の本丸に差があります。
舞台では「大した本丸だ」、花丸では「観察中」。
この「大した」「観察中」自体もメタファーだとは思いますが、どちらにしろ本丸の能力に関する評価にはっきりした差があると言えます。
舞台は明らかに優秀で、花丸はそこまで評価が高くない。
そうなってくると気になるのが刀剣男士の歴史知識及び認識、自己への認識すなわち記憶の有無かと思います。
今後、原作ゲームと派生作品それぞれで刀剣男士の自己認識が明確に異なると断定できる情報が出たら、この部分の仮説を一気に断定に切り替えてそれぞれの本丸の考察を進めることができます。
(というか長義くんの自己認識とか修行手紙で明らかにならねーかな……)
7.跋扈する鬼、空洞の世界
舞台とミュージカルそれぞれで極修行を描いた「花影ゆれる砥水」辺りの対称も面白いですが、興味深いのは舞台の「天伝」「无伝」の二部構成と、ミュージカル側の「静かの海のパライソ」「東京心覚」の対構造です。
「无伝」と「東京心覚」はそれぞれあの世界の構造というか世界観をある程度明らかにした話で、その原因こそがその前の「天伝」と「静かの海のパライソ」での出来事にあると言えます。
舞台の「无伝」では三日月が元主の高台院を斬った後に、「天伝」で国広が弥助と対峙した時の台詞が重ねられる演出をされていて、結局「鬼(≒朧・鵺)」が生み出される原理が国広の語った内容そのものであることがわかります。
「俺たち刀剣男士は歴史を守る それがどんな歴史であってもだ
そこに生きる人々に定められた歴史を強いて来た 失うことも傷つくことも何もかもだ
歴史を生きる人々にそれを強いておいて 自分たちだけ何も失いたくないなど思ってはいない
失う覚悟はできている 主よりこの身を与えられた時からだ
たとえ失っても 悲しみの中で立ち上がり前を向いて歩いていく
俺だけではない あの本丸にいる皆がそうなんだ」
これが「无伝」の三日月の心情に通じた結果が「无伝」ラストの「鬼」の誕生(単に鬼のメタファーで終わるのか鬼丸さん自身に何かあるのかは不明)であるなら、つまり、刀剣男士たちは歴史を守るための行動の中で、結果的に自らの半身たる本心こと「鬼(≒朧・鵺)」を生み出してしまう、と。
一方、ミュージカル側は「静かの海のパライソ」からの「東京心覚」です。
「東京心覚」の水心子くんの言動からすると、どうやらあの世界は正史を守り続けた結果として荒廃し滅びかけているようですね。
世界の状況は明言されていないものの、この辺は「陸奥一蓮」でも多少言及しています。
その状況自体は原作ゲームのプレイヤーとしては別に不思議なことではなく、そもそも原作ゲームでは2205年の世界はなんか滅びかけっぽいので、むしろ原作通りと言えます。
もともと「戦力拡充計画」の説明文「訓練には人参がいると、発掘された古代の文献に従い~」などからあの世界すでに滅びる寸前なんじゃ? と言われていたところに、今年2月の「ちよこ大作戦」ではこんちゃんが「『ちよこ』とやらをより多く集めた者が強者……と文献にはあったとか」などと言い出す始末です。
もうダメだあの世界!
ただ、原作ゲームだけだと2205年が古代の文献をわざわざ「発掘」せねばならないほど実質的に荒廃と滅びる寸前状況にあることは判明していても、何故そうなっているのかという理由の方がわからなかったのですが……「静かの海のパライソ」からの「東京心覚」という構成はその辺を直感的に埋めてくれると思います。
「パライソ」ではもともと「天草四郎」として活動するはずだった少年が殺され、刀剣男士が代役をし、最後に「名もなき兄」が「天草四郎」に本人も知らぬまま成り代わる。
本来生きるべきだった人が死に、本人ではない人物がその人と認識され、実際の活動はまた別の代役。
表面をいくら整えても、歴史の内部がすっかすかですねこれ。
あの世界の歴史のどれもこれもがこんな状態なら、そこにその物語がその物語である必要性も必然性もまるでなく、全ての事象が中身空洞の虚ろになっていくことは火を見るより明らかです。
そんなすっかすかの歴史は、少しつついただけで崩れ去る。
もともとミュージカルは本来その人がすべき役目を別の人物が行う「なりかわり」系の話が多かったわけですが、その行末がこれだと考えられます。
表面を整えただけで中身が何もない、すっかすかの歴史。滅びる寸前まで荒廃した未来。
舞台本丸もミュージカル本丸も、刀剣男士たちは、歴史を守ろうとする意志を強く持って任務にあたっている。
しかしその結果、信長を蘇らせたい弥助の願いを打ち砕き、真田十勇士という創作の物語を殺す舞台本丸は自らが「鬼」を生み出す。
そして死後「為り変り」によって空洞の歴史を生み出し続けるミュージカル本丸は、未来世界を崩壊寸前まで追い込む。
こういう状況だと考えられます。
どちらの本丸も、歴史を守る意志が、歴史を滅ぼす一因になっているということでしょうね。
刀剣男士たちの心情を思うと残酷な話ですが、原理をしっかり考えていくと、あの世界観で起きている出来事がどんどん見えてくる形になっています。
8.月はもう咲かなくていい(陸奥一蓮感想)
「陸奥一蓮」は「心伝」見てから対比するのが良さそうなんですが、せっかくだから簡単にまとめておきましょうか。
上で整理した対応話数的に、「陸奥一蓮」は「葵咲本紀」と対応してこれまでの話を閉じる一つの円環となっているように見えます。
どちらかというと舞台の「維伝(文久土佐)」と「心伝(慶応甲府)」の方が配役の逆転(文久土佐は維新側の土佐勤皇党が敵、慶応甲府は維新側の立場で幕府側の新選組と戦う)から対応が明確ですが、ミュージカル側も話の中身まで見るときっちり対応していると思います。
「葵咲本紀」は、松平信康が「吾兵」という「名もなき物語」との入れ替わりによって生き延びていますが、「陸奥一蓮」の阿弖流為と母禮は三日月の手助けを拒んで、正史通り死ぬことを選びます。
「葵咲本紀」は歴史から消されることに悩む御手杵に永見貞愛が「俺もお前のことを覚えててやる」という旨を返す話ですが、「陸奥一蓮」にいたると大包平を始めとする刀剣男士側が坂上田村麻呂の苦悩も阿弖流為・母禮の死に様も覚えておく、という話になっていきます。
「葵咲本紀」で「咲」という字に「笑う」という意味があることが示唆されたので、とうらぶ作中の「笑い」「笑顔」は全部これで解釈できます。
前作の「花影ゆれる砥水」などでも一期一振の影打からなる「カゲ」は豊臣秀吉に求められても上手く笑うことができないという場面が入りましたが、今回「陸奥一蓮」は逆の演出が入ります。
冒頭の場面から最後まで、終始笑顔の三日月宗近。
阿弖流為「馬鹿野郎 んな顔してんじゃねーよ お前の命 お前のものだ」
笑えない「カゲ」が不憫ならば、三日月がずっと笑っていなければならないのも、同じように残酷なことなんでしょう。
笑いたくもないのに、笑わなければならない。どれほど辛くても、悲しくても。
今までの演出からすると刀剣男士たちの笑顔は彼らが「咲いた花(歴史)」の自覚として誰かのために浮かべていることが多いわけですが、阿弖流為はそれを否定するわけですね。
誰かのためになんて、笑わなくていい。
お前の命はお前のものだ、自分が納得できない歴史なんて、否定してしまえ、と。
実際、「陸奥一蓮」まで見ると三日月も鶴丸もメンタル大分ギリギリだなーと。
鶴丸に関しては次項でやりますが、三日月に関しては最後にひっそり消えかかっているくらいですし。
ミュージカルは初手の「阿津賀志山異聞」の時点でいまつるちゃんが夢を見ているというギミックが花丸の安定が池田屋の夢を見ている状況と似ていると思います。
「陸奥一蓮」も意味するところは花丸と同じじゃないでしょうかね。
花丸の一期ラストで歴史を変えかける行動をとった安定が写真から一時消えたように、三日月はこれまでの間接的な歴史改変の影響で自らを消しかけていると考えられます。
花丸とミュージカルの違いは、花丸の安定は沖田総司を生かしたいという願いから直接的に歴史を変えかけたことが理由であるのと違って、ミュージカルの三日月はこれまでの積み重ねによる、救いたいものを救えない空しさから婉曲的に自分自身を否定していることが理由だと思われることです。
以前の考察、「偽物考」的に言えばこれが「擬い物」、つまり「手」を「疑う」「物(鬼)」の方向性なんじゃないでしょうかね。
歴史を守っているはずの己自身を信じきれない。己が守る歴史を正しいものとして、頭ではわかっていても心が受け入れられないせいで、歴史を守る自分自身がすり切れていく。
さらにこの辺のギミックに関連するのが「検非違使」の存在で、ここも花丸と共通しています。
舞台とミュージカルの対応から言えば、「陸奥一蓮」は特命調査・慶応甲府と対応する構造の話だと考えられます。
なので正確な対比は「心伝」来てから考えたいのですが、今の時点でも原作ゲームの時点で「なりかわり」「まがいもの」などの関連は察せられます。
原作ゲームの慶応甲府は、加州たちが「まがいもの=なりかわり」を否定していく話。
「葵咲本紀」では信康が三日月による救いを受け入れ、「吾兵」に「なりかわる」ことを受け入れた。また、稲葉江と思われる刀に感応した結城秀康を永見貞愛やその信康が説得により引き留めた。
しかし、「陸奥一蓮」では、阿弖流為と母禮は仲間の蝦夷たちの行為も、三日月の手も拒む。
「なりかわり」を拒否して己を貫き通した。
一方、「葵咲本紀」の徳川家康も「陸奥一蓮」の坂上田村麻呂も、目的自体は「平和」を実現するためと同じですが、そのために家康は息子たちの扱いを分け、坂上田村麻呂は成り代わった蝦夷たちを息子ごと殺し、阿弖流為と母禮も処刑してこの戦いに終止符を打つ。
本来「鬼退治」伝説で知られるという坂上田村麻呂が、「陸奥一蓮」では「血も涙もない鬼め!」と言われる側になっています。
しかし、その決断の裏には様々な苦悩があることも語られ、刀剣男士たちは坂上田村麻呂の苦悩を受け入れ、その背を押します。
坂上田村麻呂が遡行軍と戦う刀剣男士たちを見て「まるでかつての蝦夷のようだ いや俺たちだ 戦うことに何の疑問も抱かなかった頃の俺たち」と言うところや、前回の「花影ゆれる砥水」では一期一振が生き延びてしまった鶴松を指していた「歴史の異物」という言葉を「陸奥一蓮」では山姥切国広が堂々と「俺たち刀剣男士は 歴史の異物だ!」と使っている構成の対比が美しいです。
戦いを終わらせることを願う後の英雄は、時には父にすがる幼子をも手に掛ける「鬼」にならなくてはならない。
そして三日月は、同じように戦いを終わらせることを願いながらもすでに「つはものどもがゆめのあと」時点で藤原泰衡を説得して義経との戦いを引き起こす一方、今回などは阿弖流為と母禮を救おうとしたり、この「鬼斬りの英雄」と明確に相対する立ち位置のものであることがわかります。
月、機能、呪い、願いなどのキーワードと関連する三日月が「鬼」になる「鬼斬り」と対立する立場であることは舞台側を考察する時にかなり重要になりますが、ミュージカル側では水心子との関連も重要だと思われます。
歴史は大河の流れのようなもの、すなわち「水」。
その「水」をそのまま名にもつ水心子が「東京心覚」「陸奥一蓮」でたびたび自分を見失いかけている。
この作用も三日月側の動きと対応しているんでしょうね、と。
「静かの海のパライソ」の死後「為り変り」がすっかすかの歴史を作るのと同様、三日月の行動は個という境界線を危うくします。
歴史の中の個の境界線の問題も、舞台でも取り上げられていますが、ミュージカルの方が強調具合がわかりやすいと思います。
「なりかわり」が多用された歴史は個の境界線、すなわち「名前」の認識が危うくなり、それぞれの物語は区別を失っていく。統合されてしまう。
だいたいこんなところですかね。
あとは、戦の理由は食べるものがないという問題だということもこれまでさんざんやって、「陸奥一蓮」でも触れられています。
これも花丸で言うなら「犬神の呪い」と関連するギミックだと思われますが、これに関しては舞台が明確に物語を「食う」=「斬る」と繋いでいる以上かなり複雑な問題になりますので、考察を始めるならやっぱり舞台側の結論が出てきてからにしたい。
9.鶴丸と右衛門作
「静かの海のパライソ」を考える時に気になるのが、キリシタンたちによる一揆の首謀者の一人である山田右衛門作に対する、鶴丸の異様な厳しさかなーと。
これも「陸奥一蓮」まで見るとようやくわかってきたというか、鶴さんの右衛門作への厳しさも、「自分自身への厳しさ」と捉えるとわかりやすいと思います。
「花影ゆれる砥水」で小竜くんが光徳さんにちょっと意味深な態度をとっていたのも同じものだろうなと。
山田右衛門作は確かに一揆の首謀者の一人でかつ幕府側との内通者でもありますし、パライソでは偽天草四郎を豊臣秀頼の落胤に仕立て上げたりもしていますが、だからといってパライソの鶴丸の態度は厳しすぎるな、と。
妻子を人質に取られて一揆に参加した男にそれほど厳しくするなら、自分から戦を仕掛ける戦国大名共はゴミ以下のものを見る目で見なきゃ駄目だろう。
しかしそういうわけではない、という矛盾。
結局刀剣男士の人間への態度は、彼ら自身への態度の裏返しなんでしょう。
厳しい目を向けるものも。
優しい目を向けるものも。
鶴丸が右衛門作に対して妙に厳しいのも、小竜くんが本阿弥光徳に色々と言いたげなのも。
戦いの原因、間違いの理由がその辺りにあると彼らは考えている。
しかし、実際の歴史から言えばそうではない。
山田右衛門作は妻子を一揆勢に人質に取られて戦いに加わり、結局その妻子を殺されて、島原の乱で他の一揆勢が死んだ中、ただ一人生き残ってしまった。
本阿弥光徳は確かに刀剣の鑑定に絶大な影響力を持っている。
しかし、所詮将軍や天下人からの雇われ人であり、態度を間違えれば殺される程度の立場でしかない。
(実際、「花影ゆれる砥水」の光徳も一期の磨上の件で秀吉から打たれ脅されている)
史実から言えば、彼らは決して力ある存在や、物事の原因とは言い切れない。
そう考えるのは、刀剣男士たち自身がむしろ己をそのように考えているからではないだろうか。
小竜くんの力ある者への不満は、「江水散花雪」で時の政府が一つの世界をあっさり放棄したことの影響が大きいと思われますが、鶴丸はもっと複雑で、しかも「陸奥一蓮」時点で三日月と同様に結構限界が近いように見えます。
舞台の方でもそうですが、鶴丸は三日月の裏側として対比される立場ですね。
二振りの内面は一見正反対に見えてかなりリンクしている。
人を救っているようで、自分を否定している三日月。
偽悪的な振る舞いで人を殺す憎まれ役を演じながら、実際は誰よりも3万7千人を救えなかったことを嘆いている鶴丸。
対極に見えて、実際には同じ側面を示すようです。
ここまでのシミュレートで「静かの海のパライソ」の理屈から「山姥切の研究史」の捉え方を見てきましたが、どちらにしろ重要なのは、
派生作品で刀剣男士たちがやっていることは、刀剣の歴史に関して人間がやっていることと同じである。
と、いうことではないでしょうか。
だから山姥切伝承の検討に関しては、「静かの海のパライソ」で死後「為り変り」を成立させてしまった刀剣男士の心情を追うのが一番わかりやすい。
何故「為り変り」は成立するのか。
その「為り変り」は、次の歴史としてどのような影響を及ぼすのか。
しかし結局のところ、人間と刀剣男士の立場にさほど変わりはない。
三日月と鶴丸が歴史を守るためという理由である意味自分自身を否定していく理由に関しては、次の話でようやく開示でしょう。
そしてそれは、おそらくあの本丸の始まりの歴史、折れてしまった初期刀に関係すると考えられる。
(ちなみにミュージカル本丸の初期刀は「陸奥一蓮」見ると歌仙兼定しかありえないというところまで情報が整理されます。
ただ、困ったことに戯曲本の一冊目で初期刀(たぶん「始まりの五振り」の意図で使っている)が加州だと書かれているので誤記だと思われます。
結構大きい情報だと思うので公式ちょっと戯曲本の重版やアップデートで直してくれねーかなここ……)
舞台の方でもこの章の締めは山姥切国広の帰還、刀剣の物語の根源である極修行の完遂だと考えられるので、どちらの演劇作品も今の章の締めは自分たちの歴史の始まりに立ち返る話かつ、原作ゲームで言えば対大侵寇に相当する話とそのエピローグになると考えられます。
というか、原作ゲームだけだとそこまで構成が見えづらかっただけで、おそらく原作ゲームの「対大侵寇防人作戦」がそもそもそういう話なのだと思われます。
ところで、山田右衛門作の話に戻ると、右衛門作の妻子は幕府側との内通の矢文がバレたときに天草四郎に見せしめに殺された、という話もあるんですよね。
パライソでは本物の天草四郎は何もできずに死んだからこそそういう部分が描かれませんでしたが、もしもう一度あの歴史に出陣するとなったら、今度はそういうことが起こり得る可能性もある。
まあ今回はちょうどよかったので思考実験に使っただけでミュージカルが本当にあの世界の続きを描くかどうかはわからないんですけど。
戦いは誰が始め、誰が終わらせるのか。
世界を誰が滅ぼし、誰が救うのか。
ミュージカルは一見普通に過去にとんで歴史を守っているだけに見えて、実はこの辺の問題に結構踏み込んで少しずつ言及している構造だと考えます。
10.弟
かつて「名もなき兄」であり、のちに「天草四郎」となった物語。
かつて「天草四郎」であり、のちに「名もなき兄」となった物語。
つまり、「名もなき弟」側からすると「本物の兄」と「偽物の兄」ができてしまったわけですね。
うーん、でも、もともとのお兄ちゃんは一人だよね。
おーい浦島くん、
あの子に「本物」と「偽物」どっちの兄ちゃんがほしいか聞いて来てくれる?
鬼か!
……いや、でもこういう理由でしょ。あの部隊に浦島くんが入ってるの。
彼ら刀剣男士こそがその歴史を作り上げた。
「天草四郎」を「本物」と「偽物」に分け、「名もなき兄」を「本物」と「偽物」に分けてしまった。
けれど、何が「本物」で何が「偽物」なのか。
「名もなき弟」を最も近くで見守った浦島くんこそが、その問いの答を出さなければならないのではないか。
「真作」の兄と「贋作」の兄を持つ浦島虎徹だからこそ。
「名もなき弟」の物語、それは他人事ではない。紛れもなく、浦島虎徹自身の物語。
そして、本物か、偽物か、という問いは結局、浦島くん自身に還る問いでもある。
彫物が「浦島太郎」だから「浦島虎徹」と呼ばれた。
けれど後の研究者は言う。
この彫物は「浦島太郎」ではなく、中国の親孝行の逸話で知られる「孟宗」だろうと。
ならば「浦島虎徹」は本当にその名でいいのか。
自分にとって何が「本物」で何が「偽物」なのか。
二つ以上ある己の物語。その全てを、自分自身の歴史だと認められるか。
「名もなき弟」を見守る浦島虎徹の物語というのは、浦島くん自身の歴史そのものでもある。
そして結局、ミュージカルの本筋こそこれではないかと思う。
「静かの海のパライソ」で天草四郎の代役を演じ、表面しかないすっかすかの歴史を成立させたことで世界を滅ぼしかけているミュージカル本丸は、どこへたどり着けばいいのか。
次の「天草四郎」はもと「名もなき兄」、彼らは刀剣男士たちに掛けられた言葉を魂の奥底に、見事に3万7千人を導く光となるかもしれない。
けれどその結果、真の歴史とずれた物語が再び描かれるし、さらに天草四郎が役割を果たした結果、山田右衛門作の妻子がそちらの世界線では殺されてしまうかもしれない。
そうした歴史のどこからどこまでを認めるのか、あるいは認めないのか。
そういう戦いを何度も繰り返しながら、結局歴史という物語に、本物も偽物もない、と自分を肯定していくのがミュージカル本丸の物語ではないだろうか。
次の巡りでは「天草四郎」は別人がその役割を演じることになる。
山田右衛門作だって、心のどこかに前の巡りで鶴丸にかけられた言葉が残っていて、まったく違う行動をとるかもしれない。
その時あの本丸の刀剣男士たちは、自分たちのこれまでの行いの意味を、本当の意味で突き付けられるのかもしれない。
けれどそれでも、自分の行いを、自分自身で否定したくなる時が来たとしても。
その時、かつての自分が、その時はその時で必死だったことを、決して忘れてはならない、と。
歴史は絶対に史実通りでなければならないと、自分で自分に厳しくするあまりにこれまで殺してきてしまった無数の名もなき「花」と詠み人知らずの「歌」たち。
それらは本当は自分自身にとって大切なもので、誰かから間違った歴史だと言われたところで、自分がそれを愛するなら決して捨てなくてもいいんだということに気づき、荒廃した世界を新たに花で満たし、歴史を取り戻していくことこそがミュージカル本丸の物語ではないだろうか。
三日月が自分を消しかけているのは、死者となる敗者を救えない悲しみから。
鶴丸が山田右衛門作にぶつける怒りは、鶴丸自身が自分を3万7千人を殺す地獄の使者だと考えているから。
けれど正直、そもそも歴史に関してそんなに自分に厳しくする必要はないのではないだろうか。
愛したいものは愛したい、愛せないものは愛せない、でもいいんじゃないだろうか。
「すまんな俺は聞く事しかできない だが聞く事はできる さあ俺になんでも話してみるがよい」
「やっぱりいい たくさんたくさん聞いてきたんでしょ」
「馬鹿野郎 んな顔してんじゃねーよ お前の命 お前のものだ」
目を逸らさず、耳を塞がずに全てを受け止めることは立派だ。
でもそんな立派なやつになんて、なってやる必要ないんじゃないか?
いつもいつも誰かのためにと自分を削らなくていい。
自分をそうして削り続けてしまえば、自分で自分本来の優しさを見失ってしまうから。
(山田右衛門作に対して厳しく、三日月を呼び出すために水心子くんに斬りかかる鶴丸は相当限界に来ていると思われる)
それでも全てを愛せないことが辛いというなら、そういう時こそ辛い歌ではなく、自分が愛せないその物語を愛する別の誰かが歌ってくれる美しい歌にこそ耳を傾ければいい。
「まったくこの本丸の古参の方々は何もかもひとりで抱え込もうとする傾向がある 不愉快だ」
「ああ そうだな」
「幕末天狼傳」で長曽祢さんぶん殴って気絶させて近藤さんを斬る役割を強制的に代役した蜂須賀の「不愉快だ」にごく自然に同意する水心子くんは、「陸奥一蓮」でボコボコにされた分も、そのうち自分で鶴丸ぶん殴って何もかもひとりで抱え込むなってお説教しながら取り戻す気がする……。
――偉いね 最期まで弟を守ったんだ 偉いね。
廻り廻る輪廻の世界の中で、いつかの誰かの言の葉が、次の生に、その人の、刀の血肉になっていく。
その中であるいは地獄を突き進まなければいけないこともあるのかもしれないけれど。
それでもどんな物語にもきっと、本物だとか偽物だとか関係なく、ただその物語だからという理由で愛するひとはいるのだろう。
とうらぶは一見歴史を守る、正史を守るとしながらも派生作品見ると必ずしも正史のみを正解とはしていない……というかむしろ創作だの諸説だの全面的にフリーダムなんで、史実の存在は重要だけど史実じゃなきゃいけないとかいう先入観は正直ぶん投げていいと思うんですよね。
史実と創作の見分けだけつけば、後はどっちをなんで重視してどうなったかっていう話の方が全てというか。
刀の研究史を調べて確かに役立ってはいるんだが、役立てる方向性が……なんか最初に想定した方向とは違うな??? って思いながら派生作品含めた考察をする今日この頃。
とりあえず「山姥切伝承」に関してはシチュエーション的に「静かの海のパライソ」の二人の「天草四郎」で考えるのがわかりやすいと思います、本当に。
他の話だとどうしても一見難しい研究書とかをわざわざ読んで当時の研究者の視点になって考えて……ってしなきゃいけないけど、ミュージカルを見ている人だったら、あの時名もなき少年を意図せず天草四郎にしてしまった代役三振りがどんな気持ちだったかを考えれば、おのずと答は見つかると思うんですよ。
逆にどうしても長義に「山姥切」でいてもらいたい国広の願いとか、そうやって諸説に逃げちゃダメだという決意とかの熱い感情の話は舞台でやってくれるでしょうしね。
派生作品として演劇両方の転機が近づいているので、原作ゲーム考察と合わせてこの一年くらいがまじで勝負。
とりあえずは私は先月やっとミュージカルをまとめて見て、これでおもだった派生作品にやっと一通り目を通したかなーぐらいです。
もっとしっかり細部まで考察するにはこれまでの作品をちゃんと全体の流れや細部の台詞を含めた話運びがきちんと頭に入るまで繰り返し頭に叩き込まなきゃダメなターンに来ていますね。ぐえー。
原作ゲームの回想情報や実装順にしろ舞台・ミュージカル・花丸にしろ量が多くて頭に入れるの大変だわこりゃ。
というわけで、今回はこの辺で失礼します。
お読みいただきありがとうございました。