丙子椒林剣

へいししょうりんけん

概要

「丙子椒林劔(伝聖徳太子御劔)」

聖徳太子の剣と伝えられる上古(飛鳥時代)の剣、大阪の四天王寺伝来。

佩き裏の鎺(はばき)もと近くに、篆書で「丙子椒林」、と金象嵌が入っている。
この字は『江談抄』などによると古くは「丙毛槐林」と読んでいた。

「丙毛槐林」は蘇我馬子のこととされ、この剣で物部守屋の首を斬ったとされていたらしい。
また、『顕真得業口訣抄』によると、蘇我馬子の子・蘇我蝦夷の蔵刀だったのを、秦造川勝(秦河勝)に与え、物部守屋の首を斬った、などとされていた。

ただし、聖徳太子の命を受けた秦造川勝が、守屋の首を斬った時の刀が丙子椒林剣だったかは、確証がない。

金象嵌の字は正しくは「丙子椒林」と読むことを、江戸時代の新井白石が看破している。

新井白石はさらに、丙子は造刀の年、椒林は刀工の姓名、と解説している。
この説には確証はないが説得力があり、刀剣書でもよく紹介されている。

ただし『日本刀大百科事典』では「丙子」は年紀ではないかもしれないことや、「椒林」には子宝が多いのを祈る意味があることなどを検討している。

江戸時代には他に栗原信充の写生が『刀剣図考』に載っている。

さらにこの時錆身であったが、大田南畝の『一話一言』によると、四天王寺でも研磨の議が三回も起こったが、いずれもおみ籤を引くと、不可と出たのでそのままだったという。

1912年(大正1)9月3日、国宝(旧国宝)指定。

錆身であった丙子椒林剣は、終戦後にはじめて小野光敬氏の手で研磨された。

1952年(昭和27)3月29日、国宝(新国宝)指定。

現在も大阪府の四天王寺蔵。東京国立博物館寄託。

古くは「丙毛槐林」と読んでおり、物部守屋の首を斬った剣とされていた

『日本刀大百科事典』などによると、
古くは金象嵌を「丙毛槐林」と読み、丙午と熟するように、丙は午と一体のもので、午はウマとよみ、馬を意味するから、丙も馬に通じる。毛(け)はカ行で、コつまり子にも通じるから、丙毛は馬子の隠語であるといったらしい。

槐林は槐庭と同じで、大臣を意味するから、丙毛槐林は馬子大臣、つまり蘇我馬子のこととされていた。
さらに、『木屋系図』によると、この剣で物部守屋の首を斬ったとされているらしい。

『顕真得業口訣抄』によると、あるいは馬子の子・蝦夷の蔵刀だったのを、秦造川勝(秦河勝)に与え、これで守屋の首を斬った、などとされていた。

『聖徳太子伝暦』や『上宮聖徳太子伝補闕記』によると、聖徳太子の命を受けた秦造川勝が、守屋の首を斬ったことは事実のようであるが、その時の刀が丙子椒林剣だったかは確証がない。

『国史叢書 古事談 續古事談 江談抄 〔第11〕 古事談,続古事談,江談抄(藤原実兼)』
著者:国史研究会 編 発行年:1914年(大正3) 出版者:国史研究会
目次:江談抄第一 公事 佛神事
ページ数:323 コマ数:171

聖德太子御劒銘四字事。丙毛槐林。吉切槐林是切守屋大臣之頸也

『聖徳太子御伝叢書』
著者:高楠順次郎, 望月信亨 編 発行年:1942年(昭和17) 出版者:金尾文淵堂
目次:七、 顯眞得業口决抄 俊嚴編 一卷
ページ数:122、123 コマ数:78

蝦夷大臣太刀ヲハ賜川勝。卽切守屋頸。此太刀者。法隆寺迴廊未申埋之。或說入金堂鎭壇中。

(この『聖徳太子御伝叢書』に川勝が守屋の首を斬ったことを述べる『聖徳太子伝暦』や『上宮聖徳太子伝補闕記』も収録されている)

正しくは「丙子椒林」と読む

銘そのものは、『本朝軍器考』で新井白石が看破した通り、「丙子椒林」と読むのが正しい。

新井白石はさらに、丙子は造刀の年、椒林は刀工の姓名、と解説しているが、『日本刀大百科事典』では説得力があるとしている。『康煕字典』によると、中国には椒という村があって、それを姓にした家が、古くからあったからだという。

『故実叢書 本朝軍器考(新井君美)』
著者:今泉定介 編 発行年:1899~1906年(明治32~39) 出版者:吉川弘文館
目次:巻八
ページ数:78、79 コマ数:52

丙毛槐林ト云フ事ハ其ノ銘セシ字ニヨリテ此名アル也匡房卿ノ說ニハ守屋ノ大臣ノ頸ヲ斬ルノ義也ト見ユ又法隆寺藏太子傳ノ抄ニハ(聖譽抄ト云フ)丙毛槐林トハ馬子大臣ト云フ義也又ハ蝦夷大臣ト云フ義也トモ見エタリスベテ此等ノ說イカヾアルベキ我ガ見シ所ハ其ノ銘ハ漢篆ナド云フモノヽ體ニシテ正シク丙子椒林ノ四字也丙子トハ此ノ刀造レル年ヲ誌シ椒林ハ刀ヲ造レル工ノ姓名ナルモ知ルベカラズ椒姓ハ姓苑ニモ見エテ侍ルメリ

製作者について

聖徳太子が百済から刀工を呼んで造らせたという説

『顕真得業口訣抄』によると、この剣の製作については、聖徳太子が百済から刀工を呼んで造らせた、という説がある。

しかし『日本刀大百科事典』では
椒林の子孫が百済にきて、なお祖業を守っていたとすれば、ありえないことではないが、少し飛躍が過ぎるようである、とされている。

『聖徳太子御伝叢書』
著者:高楠順次郎, 望月信亨 編 発行年:1942年(昭和17) 出版者:金尾文淵堂
目次:七、 顯眞得業口决抄 俊嚴編 一卷
ページ数:122、123 コマ数:78

守屋之頸切料大刀二柄也。太子召(考召一作捐)百濟國鐵細工。(考工一作士)令作之給。賜二人大臣。一者有丙毛槐林之文也。賜蘇我馬子(考馬子一作大臣)宿禰。

蘇我馬子の父・稲目が大将軍・大伴狭手彦からもらったものかもしれないという説

『日本書紀』によると、蘇我馬子の父・稲目は、欽明天皇の二十三年(562)、百済から凱旋してきた大将軍・大伴狭手彦から、黄金造りの太刀二振りをもらっている。

『日本刀大百科事典』によると、それが、あるいは丙子椒林剣だった、という憶測もできないことではないとなっている。
この説の出典は「刀剣美術」の185号らしい。

法隆寺の金堂の鎮台中に入れられていた

『顕真得業口訣抄』では、法隆寺(607年)が創建されると、その回廊の西南に埋めたとも、金堂の鎮台中に入れたともいうらしい。

『日本刀大百科事典』では、埋めたら朽ち果てるから、鎮台中に入れた、というのが妥当である、としている。

『聖徳太子御伝叢書』
著者:高楠順次郎, 望月信亨 編 発行年:1942年(昭和17) 出版者:金尾文淵堂
目次:七、 顯眞得業口决抄 俊嚴編 一卷
ページ数:122、123 コマ数:78

室町期

『日本刀大百科事典』によると、
室町期の所見でも、柄や鞘はすでになく、刀身だけだった。

(この情報の出典は『太子伝玉林抄』とされ、国立国会図書館デジタルコレクションでも読めるが該当箇所を探し出せなかったのでこの点だけ置いておく。文章自体が全文検索を使えない筆文字をそのまま印刷した本だったので、全文読んで該当箇所を探し出す根気のある方にお任せします)

江戸期

江戸期になって、新井白石(1657~1725年)が拝見した(『本朝軍器考』)。
栗原信充(1794~1870年)は写生した(『刀剣図考』)。

当時も銹身のままだった。

大田南畝(1749~1823年)の『一話一言』によると、
四天王寺でも研磨の議が三回も起こったが、いずれもおみ籤を引くと、不可と出たのでそのままだった。

『故実叢書 本朝軍器考(新井君美)』
著者:今泉定介 編 発行年:1899~1906年(明治32~39) 出版者:吉川弘文館
目次:巻八
ページ数:78、79 コマ数:52

『故実叢書 第30 増訂』(データ送信)
発行年:1928~1931(昭和3~6) 出版者:吉川弘文館[ほか]
目次:刀劍圖考
ページ数:34 コマ数:24

『蜀山人全集 巻4 増訂一話一言48巻 』
著者:大田南畝 発行年:1908年(明治41) 出版者:吉川弘文館
目次:前篇 増訂一話一言
ページ数:334 コマ数:171

太刀アリ、今ハ殊ノ外サビテ鐵ニナリス、身ニ、丙毛槐林(白石先生ノ書ニ鍛工ノ名ナルベシ)ノ四字アリ、餘リサビタルニヨツテ研ベキヤトテ御鬮ナドアゲタルニ、三度マデ磨ベカラズト出シトナン。因ニ云、丙子魏林ト云フコトノヨシ。

1912年(大正1)9月3日、国宝(旧国宝)指定

大正元年(1912)9月3日、国宝(旧国宝)指定。
四天王寺名義。

「丙子椒林劔(傳聖徳太子御劔)」

『日本刀分類目録』(データ送信)
著者:郷六貞治 編 発行年:1944年(昭和19) 出版者:春陽堂
目次:目録
ページ数:133 コマ数:83

『官報 1912年09月03日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1912年(大正1) 出版者:日本マイクロ写真
目次:内務省告示第九号 大正元年九月三日
ページ数:26 コマ数:2

1952年(昭和27)3月29日、国宝(新国宝)指定

終戦後はじめて小野光敬氏の手で研磨された。

『刀剣と歴史 (417)』(雑誌・データ送信)
発行年:1964年(昭和39) 出版者:日本刀剣保存会
目次:名刀の砥当り / 小野光敬
ページ数:23、24 コマ数:14、15

昭和27年(1952)3月29日、国宝(新国宝)指定。
四天王寺名義。

『指定文化財総合目録 [昭和43年版] (美術工芸品篇)』(雑誌・データ送信)
発行年:1968年(昭和43) 出版者:文化財保護委員会
目次:大阪府
ページ数:662 コマ数:343

現在も四天王寺蔵、東京国立博物館に寄託

「国指定文化財等データベース」によると、現在も大阪府の四天王寺蔵。

東京国立博物館に寄託されているため、たまに東京国立博物館で展示される。

作風

刃長二尺一寸五分(約65.1センチ)。
わずかに内反り、切り刃造り、魳(かます)切先。
地鉄は流れ柾で、軟らかそうで青みを帯び極めて精美。
刃文は彎れ調の細直刃に、小乱れ小足まじる。鋩子は駆け出す。
佩き裏の鎺(はばき)もと近くに、篆書で「丙子椒林」、と金象嵌入る。

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5) 出版者:雄山閣
目次:へいししょうりんのけん【丙子椒林剣】
ページ数:4巻P320、321

備考

『日本刀大百科事典』では「丙子椒林」の解釈について検討している。

「丙子」は年紀ではないかもしれない

『日本刀大百科事典』によると、
なお、ここに一考すべきは、晋の虞喜の『志林』に「古人、刀ヲ鋳ルニ五月丙午(の日)ヲ以テス」、とあるとおり、聖徳太子より二百数十年前、虞喜の時すでに鋳刀と干支を関係づける風習は消えていたことになる。
また中国の古剣銘に干支を入れたものがない事実からも、丙子椒林剣の丙子を年紀とするには難点がある。

なお中国には、丙という姓がある。
漢の時代、魯の丙吉は政治家として著名、丙氏は製鉄業により、巨万の富を積んだという。

「椒林」には子宝の多いのを祈る意味がある

『日本刀大百科事典』によると、
椒林は子宝の多いのを祈る意味があり、丙子椒林とは丙吉のほかに丙氏、さらに転じて鉄工の子孫繁栄を願う意味にもなる。
また、百済の刀工に造らせたとすれば、朝鮮にも丙姓があるから、それの祈願という解釈もできる。

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5) 出版者:雄山閣
目次:へいししょうりんのけん【丙子椒林剣】
ページ数:4巻P320、321

調査所感

・物部守屋の首を斬った剣と伝えられていたが、金象嵌を「丙毛槐林」と誤読したことから生まれた説

『江談抄』(1104-1108年)というのは平安時代の説話集で、大江匡房の談話を、藤原実兼が筆記したものだそうで。

かなり古くから「物部守屋の首を斬った剣」と伝えられていたようですが、そもそもその根拠となる「丙毛槐林」がまず「丙子椒林」の誤字なので、どうやらこれはただの憶測のようです。

刀の銘文が間違っていることは割とありますし、そもそも『江談抄』自体が伝聞・聞き書きの本であり時代も時代ですからここはやはりはっきりしたことはわからないようですね。

・正しくは「丙子椒林」と読むことに気づいたのは新井白石

「丙毛槐林」じゃなくて「丙子椒林」じゃん! ということにいち早く気づき広めたのは江戸時代の新井白石のようです。
『本朝軍器考』に関しては他の刀の話題でも何度か名前のあがった本ですが、これに「丙子」は年紀で「椒林」は作者名では? という推測を載せ、その説が今でも一番有名なようです。

・ただし「丙子椒林」の意味は今でも推測しかできない

新井白石の説は今でもそれなりの説得力を持って紹介されていますが、結局のところ証拠になりそうなものもなく、「丙子椒林」の意味は謎のままと言えます。

「椒林」が豊穣と繁栄の意味を持つというとうらぶの説明は『日本刀大百科事典』の「子宝の多いのを祈る意味」あたりから引っ張ってきてるような気がしますが、どうでしょうかね。

・何百年も錆びたままだったが錆びを落としたら凄く綺麗だったという話

戦後に小野光敬氏が錆びを落とした話も有名。

『趣味の日本刀』(データ送信)
著者:大河内常平, 柴田光男 共著 発行年:1963年(昭和38) 出版者:雄山閣出版
目次:八、 現代の刀剣界
ページ数:196 コマ数:103

参考サイト

「国指定文化財等データベース」
「東京国立博物館」

参考文献

『故実叢書 本朝軍器考(新井君美)』
著者:今泉定介 編 発行年:1899~1906年(明治32~39) 出版者:吉川弘文館
目次:巻八
ページ数:78、79 コマ数:52

『新井白石全集 第六 (国書刊行会刊行書) 』(データ送信)
発行年:1907年(明治40) 出版者:国書刊行会
目次:巻八剣刀類
ページ数:348 コマ数:187

『蜀山人全集 巻4 増訂一話一言48巻』
著者:大田南畝 発行年:1908年(明治41) 出版者:吉川弘文館
目次:前篇 増訂一話一言
ページ数:334 コマ数:171

『百家叢説 : 珍書文庫 第2編』(データ送信)
著者:田辺勝哉 編, 井上頼圀 校 発行年:1911~1912年(明治44~45) 出版者:国書出版協会
目次:刀剣略説(一巻) 大塚嘉樹
ページ数:135 コマ数:74

『官報 1912年09月03日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1912年(大正1) 出版者:日本マイクロ写真
目次:内務省告示第九号 大正元年九月三日
ページ数:26 コマ数:2

『国史叢書 古事談 續古事談 江談抄 〔第11〕 古事談,続古事談,江談抄(藤原実兼)』
著者:国史研究会 編 発行年:1914年(大正3) 出版者:国史研究会
目次:江談抄第一 公事 佛神事
ページ数:323 コマ数:171

『故実叢書 第30 増訂』(データ送信)
発行年:1928~1931(昭和3~6) 出版者:吉川弘文館[ほか]
目次:刀劍圖考
ページ数:34 コマ数:24

『聖徳太子御伝叢書』
著者:高楠順次郎, 望月信亨 編 発行年:1942年(昭和17) 出版者:金尾文淵堂
目次:七、 顯眞得業口决抄 俊嚴編 一卷
ページ数:122、123 コマ数:78

『刀剣談』
著者:高瀬真卿(高瀬羽皐、羽皐隠史) 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第一門 刀剣の変遷 丙毛槐林剣、七星剣
ページ数:3、4 コマ数:26、27

『刀剣談 再版』(データ送信)
著者:羽皐隠史 著[他] 発行年:1927年(昭和2) 出版者:嵩山房
目次:第一 刀劍の變遷 丙毛槐林剣、七星剣
ページ数:3、4 コマ数:13、14

『法隆寺研究 金堂篇 第1』(データ送信)
著者:内藤藤一郎 発行年:1934年(昭和9) 出版者:政経書院
目次:第二章 金堂四天王像に就て
ページ数:136~144 コマ数:102~106

『大阪郷土史叢書 第1』(データ送信)
発行年:1935年(昭和10) 出版者:湯川弘文社
目次:第四節 金堂四天王像に就て(附國寶七星劍と丙子椒林劍に就て)
ページ数:46~64 コマ数:36~45

『飛鳥文化展覧会目録と年譜』
著者:朝日新聞社 編 発行年:1936年(昭和11) 出版者:朝日新聞社
ページ数:13、14 コマ数:9、10

『聖徳太子伝古今目録抄 〔本編〕』(データ送信)
著者:荻野三七彦 編 発行年:1937年(昭和12) 出版者:法隆寺
目次:太子四天王寺建立
ページ数:88 コマ数:110

『大日本刀剣史 上巻』(データ送信)
著者:原田道寛 発行年:1938年(昭和13) 出版者:春秋社
目次:聖德太子の七星劍と丙子椒林劍
ページ数:291~299 コマ数:157~161
(『大日本刀剣史』はデジコレに2冊あるのでご注意)

『日本上代の武器』(データ送信)
著者:末永雅雄 発行年:1941年(昭和16) 出版者:弘文堂
目次:第一章 主要武器(一) 第一節 刀劍
ページ数:125、126 コマ数:93、94

『趣味の日本刀』(データ送信)
著者:大河内常平, 柴田光男 共著 発行年:1963年(昭和38) 出版者:雄山閣出版
目次:八、 現代の刀剣界
ページ数:196 コマ数:103

『刀剣と歴史 (417)』(雑誌・データ送信)
発行年:1964年(昭和39) 出版者:日本刀剣保存会
目次:名刀の砥当り / 小野光敬
ページ数:23、24 コマ数:14、15

『指定文化財総合目録 [昭和43年版] (美術工芸品篇)』(雑誌・データ送信)
発行年:1968年(昭和43) 出版者:文化財保護委員会
目次:大阪府
ページ数:662 コマ数:343

『寒山刀剣教室 基礎篇』(データ送信)
著者:佐藤寒山 発行年:1968年(昭和43) 出版者:徳間書店
目次:上古刀から日本刀へ
ページ数:17、18 コマ数:12、13

『日本刀講座 第10巻 新版』(データ送信)
発行年:1970年(昭和45) 出版者:雄山閣出版
目次:日本刀の始原と鍛法に関する諸問題 第97問
ページ数:227 コマ数:235

『原色日本の美術 21』(データ送信)
著者:尾崎元春、佐藤寒山 発行年:1970年(昭和45) 出版者:小学館
目次:一、日本刀概説
ページ数:218~221 コマ数:224~227

『日本刀講座 第1巻 新版』(データ送信)
著者:監修 本間薫山、佐藤寒山 発行年:1966年(昭和41) 出版者:雄山閣
目次:大刀類
ページ数:45 コマ数:98

『遺跡・遺物と古代史学』(データ送信)
著者:岸俊男 発行年:1980年(昭和55) 出版者:吉川弘文館
目次:六 聖徳太子と古代刀剣 2「丙子椒林剣」の問題点
ページ数:45~49 コマ数:28~30

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5) 出版者:雄山閣
目次:へいししょうりんのけん【丙子椒林剣】
ページ数:4巻P320、321

概説書

『名刀 その由来と伝説』(紙本)
著者:牧秀彦 発行年:2005年(平成17) 出版者:光文社
目次:神話・天皇家の名刀 七星剣と丙子椒林剣
ページ数:29~34