メタファー「強」の考察2、あるいは天国までのシミュレート2

今進行している話(第二節)はどういうものか?

……って観点でまとめたかったけどその間に新情報が来て後半が大変なことになっている考察。

1.知ることは与えること? メタファー「強」の考察再

何度目だ回想138考察&回想141考察。

長義・兼元のスタンスにおいて「持つ」が共通している以上、「知る」ことがイコールで「与える」だとすると、舞台でも花丸でも長義くんいっつも国広を探しに行くよねって部分の意味が更に重くなる。

……「知る」ことが、逆に「与えたい」という意味なら。

「知る」は「聞く」の同列かと思ったけど、この図なら対極になるのか?

この「知る」=「与える」の図式について「持つ」と合わせてちょっと考えてみたんですが、

(知ることで、己の持っているものを知る=持てる者こそ与えなくては)
≒枝葉への慮り

御前は並列させたけど、もしかしたら「知ることで、己の持っているものを知る」と「持てる者こそ与えなくては」は完全に同一の意味というより、順番が逆、あるいは両者で一つの円環を成す理屈なのでは? と思ったのが心伝。

んー、「心伝」の孫六兼元は斎藤一から「何のために 何のためにだ 答えろ 俺の刀よ」とかなんとか聞かれたときに、自分の物語を答えているんですよね。そして最後に「だから時間遡行軍にいいようにされるな! あんたは俺の元主 斎藤一だ」と斎藤一を説得しようとしている。

ここの行動で思うのは、斎藤一を説得するために兼元が答えるのが自分の物語ということは、それが要するに「物語の譲渡」「自分の物語を分け与える(食わせる)」なのでは? と。

人間の感覚からすると相手を救うなら相手の物語に対する想いを語らなければならないと思うんですが、兼元は自分の物語を語る。そして結果として斎藤一からは「迷いが見えるぞ孫六兼元よ」という形で否定? される。

兼元が語る自分の物語で斎藤一を説得しようとして、説得しきれない。

……孫六兼元が斎藤一の刀だというのはまあ創作だろうし、孫六兼元の集合体であろう刀剣男士としての兼元の中では、新選組の斎藤一の物語は好んではいても、主軸ではなさそうである。

逆に言えば、創作が主軸タイプの刀剣男士だったら、兼元は斎藤一を完全に説得できたのではないか? という疑問がここに生まれる。

……これが我々が刀剣男士を強くする意味で、刀剣男士が強くなろうとする意味で、朧を代表としてあらゆる派生作品で物語を食らいながら強くなろうとする存在がちょこちょこ描かれる原理ではないだろうか。

刀剣男士が創作の物語まで取り込んで強くなる。
――それが、彼らの元主を救う手段。

と、現時点では刀剣男士側はそのように自分たちの原理を理解しているのではないか?

ただ刀剣男士の自己認識とあの世界の原理が合っているかどうかは微妙に謎が残る。

リアルの研究史の認識の話として言うなら、やはり研究史を量調べるのはそのまま知識が説得力という力に繋がるので確かに数を調べる(多くの物語を食らう)べきだとは思いますね。

もっとも実際に刀剣の研究史を調査して思ったのは、ただ知るだけでもダメで、やはり調べ調べ調べる作業の行き着いた先で発想の転換が必要だとは思いますが。
その土台としてまずはできるだけ多くの研究史を集める必要はあると思います。知識がなければ何もできない。

ここを考えると、何故兼元のように、もっと確かな歴史があるのにあえて曖昧な創作を主軸とする刀剣男士が結構な数いるのかわかってきたような。

曖昧だからこそ、その曖昧なものが自分を肯定できるように救いたいからこそ、やはりそこを主軸としているのではないか?

そしてこのスタンスがかなり明確なのが御前の指摘した通りの長義・兼元という二振りなのではないか。

「知ることで、己の持っているものを知る」
「持てる者こそ与えなくては」

それはどちらも「枝葉への慮り」

そして「知る」=「与える」ならば、兼元と長義の行動は、円環の中で結果は同一だけれど、順番が逆。

つまり、

孫六兼元は、知ったからこそ、救おうとする。(「心伝」の斎藤一相手のように)
山姥切長義は、救いたいからこそ――知らねばならない。

「知る」ことが「与える」ことならば、「知った」ならば、「与えられる」。
「知る」ことが「与える」ことならば、「与える」ためには「知らねばならない」。

兼元はまさに「心伝」の斎藤一との対峙の時のような場面を想定して、いつでも与えられるように普段から知ろうとしているんでしょう。でも謙遜して自分の為だというのがあの台詞、「知ることで己の持っているものを知る」に繋がる。

一方、長義くんは性格上「与えたい」が先に来ている。
そして、与えるための努力を普段から怠らない、つまり「知る」努力をいつもしている。

長義くんに関しては派生でかなり頭脳キャラ・知識キャラとして描かれているなと思ったんですけどこの部分関係かなと。
頭が良いと言っても機転が利くとか地頭がよくてすぐに発想が出るとかそういう頭の良さじゃなくて、色々なことをよく勉強している秀才タイプ。つまり、知識を詰め込むタイプ。

御前が最終的に両者を等号で繋いだ通り、兼元と長義のスタンスは一周すれば同じことです。よく似ています。

ただ、長義はその一番与えたい対象である、国広のことをほとんど知らない。

本丸で過ごした時間はもちろん、言動から察するに国広の歴史(研究史)の実情、国広に逸話がもともとあることも知らないと思いますね。

それでも、長義くんがそういう国広を救いたいなら、国広のことをとにかくまず知らねばならない。

そう――「慈伝」でそうしたように。

近侍としての国広に会いに行こうとして、手合せで実力を知ろうとして、鶯丸から自分がここに来る前の話を聞いて、相手を知り、そして受け入れる。――与えるために。

そして同時に、兼元と斎藤一の関係性からすると、刀剣男士が相手に本当の意味で与えたいなら、まず自分自身が本当の自分を知らねばならない。刀剣男士が自分を誇らねば、その元主も自分の歴史を誇れない。

この辺を考えるとミュージカルの「花影ゆれる砥水」で秀吉が一期に「笑ってくれ」と言っていたのが響いてくるんですよ……。

「笑う」=「(物語が)咲く」だから、歴史上の人物と縁深い刀剣男士自身が笑えれば、物語を咲かせることができるなら、その時ようやく元主は救われる……多分ね。

そしてここからが今回の本題、回想141にまつわる「強」メタファー考察再。

「知る」ことで、「持っている」ものを知る。「持っている」ことで、与えられる。

「知る」=「与える」。

となるとやはり回想141で長義くんからごっちんこと後家兼光に話しかけたということは、「与える」に相当する行為なんでしょう。

その後のごっちんの反応が重要。

「華やかで強き良き刀」として長義を褒めた後で、憶測を肯定する。

うーむ。

回想138の理屈とつなげて考えるなら、やはり兼元が憶測と創作からなる小説を、自分が持っているものを知るために読んでいるのと同じ行為じゃないでしょうかこれ。

「知る」=「与える」=「語る」

これ全部等号で繋がってないか……?

長義くんは「与える」ためにまず「知ろうとする」が先に来て、ごっちんはそれを受けて「与えたい」が憶測の肯定という形で表れてそこから改めて名を名乗りお互いを知ろうとするであって……。

えーと、これどちらかというと兼元とごっちんの方がスタンス近い気がするな。長義くんはその二振りと逆。

三者とも相手に与えたいという結論は同じだけれど、そのために孫六兼元と後家兼光は「憶測・創作の肯定」を優先する。
一方、同じように、あるいはこの両者より強く「与えたい」キャラである長義はそれ故に憶測を否定し史実・現実を知ることこそが先行する……。

図式的には

「肯定」=「否定」

もっと言うなら、長義くんはごっちんが直江の刀であることを否定しているから「史実の否定」という可能性もある。
そうなると逆にこっちは「憶測の肯定」=「史実の否定」で図式は整理しやすくなるけれど、長義くんの基本スタンスが徹底的な史実重視であることと矛盾する……さて、ここからどう考えたものか。

もういっそその「矛盾」こそを是とするべきな気がしてきた。

与えたいから、与えられたい。
与えられたいから、与えたい。

回想141において前回の「強」メタファーの考察(コクゾウムシ云々)からするとごっちんのスタンスは食われたい側ではないかと思うんだけど、一方であの会話、憶測の肯定という形で与えていないか?

つまり食われたいは与えたいで、与えられたいは食うことになる。

「食われたい」が「与えたい」だとすると、それこそ心伝の沖田くんのスタンスでは。
「つけたり」でせっせと強化した物語を完成させるのは刀剣男士との戦いで、しかも舞台だと沖田くんは加州・安定が相手だからこそ菊一文字を持ち出す流れなので……。

もうちょい考えよう。

与えたいが与えられたいなら、こうも言える。食われたいこそが食いたい。

……回想141で比較的明確なのはごっちんによる憶測の肯定だろう。ここは動かない。
では憶測の肯定とは何か。

……憶測を肯定したら、食われるものこそ史実なのでは?

となるとやはり「憶測の肯定」=「史実の否定」。

長義くんの発言が「史実の否定」に寄ったのは、それを導き出したごっちんの発言「憶測の肯定」によるものでは。

……長義くんの姿勢、やっぱり発言とスタンスが矛盾するよね。
国広に対しても一度考え直して見ると、長義くんの主義はどうあれ国広の名を否定することは憶測の肯定であり史実を食うことに繋がるから。

あー……つまり、この考察の結論、謎の中核は刀剣男士のスタンスと言動の「矛盾」の方か?

ごっちんは大切なものを守りたい派で上杉大好きだけど、その一方で長義くんに会って憶測を肯定すると自分の大切な物語であり史実である直江の刀である部分が否定される。このまんまのストーリーか。

この長義くんとごっちんのお互いの物語の食い合いこそがとうらぶの中核なんだろうねえと。
一見穏やかに話し合っているように見えて、お互いの物語の食い合いが発生している。

スタンスと認識が一致せずに逆転していると、与えたいのに与えられている(奪っている)、食われたい(与えたい)のに食っている(与えられている)という一見矛盾が成立するようになっているのではないか?

「憶測の肯定」と「史実の肯定」は表裏一体。
そしてどちらを選んでも、相手に与えるようでいて、相手を食らっている。

今回は回想138を通じて一歩踏みこんで考えてみましたけど、メタファー「強(米を食う虫、コクゾウムシ)」に関してはもうちょい考察素材が欲しい感じもしました。とりあえず今はこの辺で。

2.怒りと豊穣の剣

回想157的に丙子椒林剣はやっぱり「八つ当たり」の台詞から「怒り」のメタファーでいいんじゃないかと。

んでもって大慶との会話で清麿のメタファーが「嫉妬」、となると花丸もだけど舞台もある程度この構図をそのまんまひっくり返した感じかと。

花丸の長義・国広の関係は「嫉妬」が中核。

舞台にはおそらく「怒り」の要素があるけど、原作ゲームの方には現状で「ない」と言える。
そして花丸は特に長義像が綺麗に原作ゲームと正反対になることから、立ち位置が原作ゲームの逆だと考えられる。

派生作品のうち花丸だけがまったく逆と考えるよりは、派生は多分全部同じ作り方をしていると見たほうがしっくり来るので、舞台も花丸とは別の意味で大体逆なんだろう。

それが七星剣との立場の逆転かと。

……舞台の「山姥切」は本来原作ゲームだと七星剣の位置なんだろう。

つまり舞台の国広が「混」。

……舞台の敵、朧にしろ鵺にしろなんで「物語をおくれ」なのかの理由を見せてくれるんだと思う。

敵側が「混」をどうやって作り上げたかの理由を舞台は国広でやるんだと思われる。

つまり一振りの刀を強くするために、「同じ名前の別の刀」を食わせてるって話なんだろうこれ。

3.月と星の分離と統合

対大侵寇で月たる三日月が一度本丸を離れて、初期刀がそれを連れ戻しに行ってと分離・統合している。

そしてよく考えると星である七星剣側も分離と統合……いや順番自体は逆で、統合と分離をしている。

これまで敵と味方は果たして同じ行動を取っているのか、それとも別の行動を取っているのか? あるいはその行動も何かの図を描いているのか? 例えば時間差で同じことをしているのか? とぐるぐる考えてきましたが、原作ゲームの対大侵寇からすると敵と味方は綺麗に「逆」の行動をとっているような気がします。

本丸側

・三日月の離脱(月の分離)
・三日月を初期刀が連れ戻す(月の統合)

敵側

・混(七星剣)を作る(星の統合)
・混を本丸が撃破すると、本丸に「七星剣」が配属される(星の分離)

このように考えると本丸側「分離→統合」、敵側は「統合→分離」という逆の順番で同じことをやっているのではないだろうか。

初期刀が三日月を振るうシーンは本丸側の物語の統合ではないかと思われる。
一方、我々が「混」を撃破した結果、星こと「七星剣」を得ることができる。

本丸にやってくる七星剣は聖徳太子の佩剣の逸話を中核として成り立っていて、それ以外の他の「七星剣」のエピソードが強調されているわけではないことを考えると……これこそ「分離」なのでは?

同じ名を持つ別の刀の物語を食うことで肥大化した存在を、斬る事で分離させる。

名前が同じ存在ならば食えるから統合。
食えない存在は徒花として散らすだけなので分離。

ここ最近の考察が進んだおかげでようやく見えてきたような気がしますね。

一方で三日月と初期刀は確実に別の存在のはずですが、こっちはこっちできちんと「統合」を果たしたからこそ「混」を撃破できたっていう演出だと思われます。

うーむ。この辺見てるとやっぱり「統合」と「分離」は斬れば果たされる機械的・原理的な要素と、二者が意志を合わせることによって物語として一段上を目指す理想形がある気がしますね。

とうらぶの最終目標ってのは敵をただ食らうだけの状況から、この理想形、完全な意味での統合や分離を目指す話の気がしますね。

と、いうことで。

4.天国までのシミュレート2

以前の考察(「天国までのシミュレート」)でミュージカルの「静かの海のパライソ」を例にとり逸話のずれ込み要素について触れました。

パライソの世界は、物語のループ的に繰り返す状況を推測すると、次はもともと「名無しの兄」であった少年が「天草四郎」となり、本物の「天草四郎」はその欠落を埋めるために「名無しの兄」になると考えられる。

そしてこの状況は、ある意味「山姥切国広」と「山姥切長義」の研究史の理解そのものだとも言える。

本来山姥を切った逸話を持つ「山姥切国広」が関東大震災周辺事情から一時期焼失扱いとなった。
そのせいで「山姥切」の物語を埋めるために、本歌である長義に「山姥切」の物語が付け加えられた。

逸話のずれ込みは何故起きるのか、その理由の一つとして「静かの海のパライソ」の状況は理解しやすい。

ついでにミュージカル「花影ゆれる砥水」で長義くんが口にしていた統合の原則からすると、刀剣男士としての国広も長義も実装時点ですでに逸話がずれこんだ状態から始まっていると考えられる。

さらに、この状態に近いものを人によってはもう一例知っていると思うんですよね。

ソハヤノツルキの本歌が「坂上宝剣」であるという説(誤説)。

ソハヤの本歌は坂上田村麻呂佩刀のうち、「そはやのつるぎ」の名で呼ばれる刀のまあどれかだと言われています(この辺くそややこしい)。

ソハヤが写しだと言われる理由は国広とは全く違い、「ソハヤノツルキウツスナリ」の銘文から多分写しものなんじゃないか? と考えられているくらいです。

そしてその「そはやのつるき」という言葉から考えられるものが坂上田村麻呂の「そはやのつるぎ」なので、関係があるんじゃないか? 程度の言われ方です。

ただしそもそもこの「そはやのつるぎ」という言葉に関しては坂上田村麻呂の物語に付随する剣の名くらいの扱いで、しっかり現物が残っているわけでもなければ、その詳細も不明です。言ってしまえばどんなものだかわからない。

一方、じゃあ「坂上宝剣」は何かというと、これは坂上田村麻呂の所持した剣の一つです。
銘文の記録などが残っていることから、現存こそしないものの実在は確定です。

普通この「坂上宝剣」をソハヤの本歌とは言わないんですが、平成になってから生まれた誤説で坂上田村麻呂の剣を全部同一視する説が生まれたために、とうらぶにおいてはソハヤの本歌は坂上宝剣という形になっています。

しかし、この説をとうらぶの擬人化要素として成立させるためには、こういう捉え方になると思います。

「坂上宝剣」は、本物の「ソハヤの本歌」を食い殺した(統合)存在。

まあ認識上の設定なんで長義国広の問題と同じく本当にむしゃむしゃ食っているわけでもないんですが、国広の修行手紙における長義との号を巡る問題の感じ方すれば存在感的には食ってしまったという扱いなんでしょうね。

どちらかというと長義くん側の事情に近い気がするんで長義くん極でこの状態を言い表すワードが何か持ち込まれる可能性はあるんですが。

長義くんの事情に寄せて考えるなら、むしろ「山姥を切った国広」が焼失扱いになったことで「山姥切長義」が生まれたように、創作にも謡われる「そはやのつるぎ」の詳細がわからないからこそ、その分の物語まで背負わされた存在が「坂上宝剣」なのかもしれません。

……となると、「坂上宝剣」の事情は舞台の「鵺」こと三日月の存在に近いとも言えます。

今までも色々な角度から第二節のボスは坂上宝剣じゃないかなー? とか言ってましたが最近ますますそんな気がしてきました。

第一節の「混」である「七星剣」は「同じ名前」の刀を繋いだ(統合)存在として現れた。

だとしたら物語の在り方を現時点で一番不自然な形で提示されている存在が次のボスかなと。

とうらぶにおける「ソハヤの本歌」として提示されている存在は「坂上宝剣」なので、上の項でやった月と星の分離と統合の構造が第二節は第一節の逆になると考えると、むしろ第二節は本丸側が「統合→分離」の順番、敵側が「分離→統合」の順番になるような気がします。

分離してしまっている存在を統合する作業をやった結果、「坂上宝剣」が「ソハヤの本歌」という本来史実ではない、かの刀の物語ではない属性を背負って本丸に顕現できるようになるのではないかと。

そんでもってこの順番、長義くんの極予想の結論とも一致するのではないかと思います。

私の長義くん極予想がまるっと外れたらお笑いでここも破綻しますが、どうも最近は物語側の構造もこの「分離」と「統合」にひたすら収束していっている感じがするので、まあなんというか早く回答が欲しいです。

5.刀剣乱舞「第二節」の物語に関する推測

とうらぶ第一節の物語は極修行の結果にまつわる、というのがここまでの考察で、特に派生作品である舞台とミュージカルはこれまでの話からその傾向が導き出される。

以前もまとめた通り構造的に舞台はおそらく国広の極修行結果を以って第一節の結論となる筋立てだし、ミュージカル側が同じく一期の極修行の理屈でできている花影を結論とする推測に違和感もない。

というか極修行の結果をそのまま第一節の答とする予想が一番しっくりくるのはどちらかというとミュージカルで、舞台側の結論はまだ読み切れてなかったのでそこの検討を進めようかと。

結論から言って、舞台の結論となるあの本丸の国広の答もミュージカル本丸と同一だと思う。

つまり、喪失を受け入れること。

喪ったものは取り戻せない。
それが第一節の結論だと思う。

で、じゃあ、その続きの第二節はどうなるか?

今まさに原作ゲームが進めている話の先を含めて予想するというか、むしろそっちの結論から今回は舞台の構成を予想したんですが。

第二節の結論は、喪失を受け入れた上で先に進むこと、喪ったものを別の形で取り戻そうとすることだと考えられる。

原作ゲームの第二節を考える上で、まず実装トップバッターの稲葉江を見てみよう。

稲葉に関しては実装時に追加された回想があまりにも少なくほとんど何もわからなかったところが、最近富田が追加されたことで江の回想が一気に増えた。

そこで、一度は篭手切の誘いに応じなかった稲葉がついに自分も歌い踊ることを了承する。

回想其の145 『すていじ あくと6』

稲葉江「かつての主は、美しい踊りを目にし……己の秋を知ったのだ」
富田江「そうなんだね。でも、お前はここに居て、今まさに天にその手を伸ばさんとしている」
稲葉江「歌って踊る……」
富田江「おや、心が動く音がする」
篭手切江「はい。心が動き、心を動かす。歌い踊ることはこの瞬間が、ここにあることを示す。今を照らす、その一瞬」
富田江「眩しいね……」
稲葉江「我が踊るのも宿命か」
稲葉江「……では、我もやろう」

第一節が喪失の物語であり、その次に顕現する刀が「天下は夢か」と諦めととれる台詞を口にする稲葉であることにやはり意味があって、その稲葉が富田の顕現を機に、これまでとは別の形で一度諦めた「天に手を伸ばす」。

そして一度諦めた天下にもう一度手を伸ばす稲葉の次に実装された刀、笹貫に関してはよく考えたら捨てても戻ってくるやつぅ――!

オレは笹貫。へぇ、これなら竹藪や海に投げ捨てられても自分で戻って来れちゃうなぁ。
これは失敗したって放り出したくなったとし・て・も、だ。……はは、なんてジョーダン

まあとりあえずこの辺から考えると、喪失の物語である第一節に対して、第二節は喪ったものに別の形で手を伸ばす、一度捨てられたものがまた戻ってくる、この辺りがテーマだと思われる。

私はとうらぶに関して原作ゲームも派生作品も根幹の論理は同じと考察していますので、そこから舞台も原作と同じ構造だと考えます。

つまり第一節は喪失を受け入れる話、第二節は喪ったものを取り戻す決意を固める話。

舞台の結論は単独行が重要と言いつつ実はまだ私自身が単独行見てないんですが(オイ)、まあ国広の性格的にPV通り朧ちゃんにそそのかされたところでよーし三日月を取り戻すために歴史改変しちゃうぞ、とは結論してないでしょうから、無難に歴史改変は拒否してるでしょう。

もともと舞台国広は天伝で「たとえ失っても悲しみの中で立ち上がり前を向いて歩いていく」と宣言しているので、その通りになるかと。

喪ったものは取り戻せない。それがおそらく第一節の結論。
けれど、それだけの覚悟で決めたことを覆すならそこにもまた切っ掛けとなる理由や決意が必要。

第一節は何かを喪失し、それを受け入れるまでの話。
第二節は喪ったものを取り戻したいという希求と、いや取り戻すんだと決意する話。

原作ゲーム、舞台やミュージカルを中心とした派生ともども全部この構成で行くんじゃないかと思います。

原作ゲームからすると我々は第二節になって、自分が一度手放したものを再び拾い集めていく話っぽいなと。
だからこそ異去から宝物の断片を拾い集めるし、城にしろ宝物にしろ第二節は何らかの形で名付けるという要素が強い。

原作ゲームの構造と舞台やミュージカル等派生の構造、掛け合わせながら考察することでようやくとうらぶ全体がどういう話なのかが見えてきたような気がします。まぁこの推測方向で合っているかは肝心のその辺(対大侵寇)の回答が来てからまた検討が必要ですが。

6.第一節と第二節の考察から、全体の構造と流れをさらに推測

第一節は喪失を受け入れる物語。
第二節は喪失を取り戻す物語。

この「取り戻す」は対象を直接的に回収するわけではなく、稲葉が天下に手を伸ばすために歌い踊ることを決めたような何らかの代替行為のような気はしますが、それでも一歩一歩前に進んでいるとは思われます。

その一方で、原作ゲームの第一節が「月と星の分離と統合」であることも視野に入れたいと思います。

上の坂上宝剣周りの整理からすると、第二節はおそらく第一節の逆転構造。

第一節は本丸側は月の「分離→統合」、敵側は星の「統合→分離」。
第二節は本丸側は「統合→分離」、敵側は「分離→統合」になると考えられる。

敵と言っても結局はどうしようもなく我々と同じ存在なんですよね。
特に舞台の「鵺」辺りで考えるとわかりやすい。あれは結局本丸の刀剣男士と同じ物。

そしてさらに、「第一節は月との分離→統合」と整理した場合、舞台のメタファーキャラ配置に意味が出てくると思います。

月の竜と書いて「朧」。「朧なる山姥切国広」。

第一節の本丸側の物語は、「月」との「分離」と「統合」。

……「綺伝」で長義くんが「朧」を斬ってすでに「統合」されてるとみられる以上、国広がその長義くんを斬れば一周して国広が自分の半身たる「月」を取り戻すことになると思うんだよねー(白目)。

一方「星」は「統合」からの「分離」。

……これ、メタファー「星」にあたるのが長義くんと三日月なのでは?

原作ゲームの第一節の締めは「混」を斬って「七星剣」入手で両者はあくまでも同じ存在だと思われる。でも表記上はまるで別々の存在というところがポイントなのではないかと。

「月」を取り戻す。一度は本丸を離れた「月」を。

「星」を斬り、「星」を手に入れる。名前も存在も違うように見える、でも本当は同じものを。

いつもながらめっちゃ不穏な感じに。

でもようやくなんで舞台がああいう配置にしたのかと考えた時に納得のいく理屈になってきた気がします。

どの刀剣男士も基本的に存在の設定を四分割(四階層)ぐらいは決めていて、同じ階層同士は等号で結べるんでしょうね。だから舞台では国広と三日月の入れ替わりが示唆される。

ついでに第二節が一度喪ったもの、分離したものを取り戻そうとする話なら、舞台の第二節が三日月(鵺)が鵺(三日月)を取り戻そうとする話だろうという前の予想とも一致しますね。

んー、対大侵寇ってそもそも我々本丸側にとっては自分の存在を襲撃で喪わないための戦いでもあるんだよな。
存在を喪失しないための戦い、でもその反面、何かの喪失を受け入れている。だから第一節の極修行はああなる。

一方長義くんの極予想から考えると、第二節は失ったことを受け入れたところから始まり、その代わりを得るために戦うことになる。そしてこの構造は稲葉の物語とも言える。

天下を捨てるところから始まる稲葉江、捨てても戻ってくる笹貫。

キャラ的に、刀の来歴等は関係ありませんが、メタファーとしてこの二つの物語が対になっているように見えます。

7.喪失と拾得は繰り返される

捨てても戻ってくるもののメタファーは逸話がまんまそれな笹貫だと思うんですが、とうらぶの物語として一番最初にわかりやすくその話を持ってきたものこそ長義くんだったのではないかなと思います。

国広が極修行で捨ててきた「名」への執着。

それを取り戻せと叫ぶ存在、捨てても戻ってくる物語。

とうらぶの物語は、「捨てること」と「拾うこと」の繰り返しなのではないか。

というか、やっぱ刀剣男士の実装順と極順とイベント順が複雑に絡み合っている構成でかつその実装順が逆転しながら円環を繰り返している構造から考えると、捨てると拾うもセットで円環構造の一部として存在するものを、何度か繰り返すのだと考えられます。

しかもこの円環構造に関しては複数の円環が綺麗にぴったり重なり合う……ことはなく、常に部分的にずれていく円環だと思われます。

ここ最近の実装順に関して、「猫」にまつわる要素が特徴的な南泉と火車切を起点として考えていましたが、それで考えると逆に物語のターニングポイントはどうもずれていくな、と。

むしろここは意図的なずらしで、いつも同じ位置にぴったり戻る円環ではなく、時計の針を次の要素まで進めることによって次の章へ移り変わる物語構造だと思われます。

自分で言っててわけわかんねーですが誰か俺の頭の中を……いやむしろとうらぶの描いている構造をきっちり図示してくれねーだろうか。
イメージ的には普通に時計の円盤をぐるぐる回していく感じですが、一区切りの長さが12ではなく13以上だと次の始まりは2時からになる感じ? メタファーの円より一節の長さを長くすればどんどん始まりがずれていってそういう構造になりますね。

ついでに今書きながら気づいたんですが、「拾う」という字は「手」に「合わせる」……「手合せ」ですねこれ。

8.極修行と刀の願い

派生も見ながら考察し続けたおかげである程度極修行の構造に関して理解が深まった気がするんですが。

結局のところ、極修行はその刀の望みと反対の現実に向き合うものだと思われます。
見てきた歴史自体は悪いものではない、けれど、その歴史は、修行に出た時の刀剣男士自身の動機や希望とは逆の結果が返ってくる。

ちょっと長谷部くんの例で考えてみましょう。

長谷部の修行手紙がわからない云々言われていたのは結構前のような気がするのでもしかしたらそっちのファンの間ではもう解釈できているのかもしれませんが、一応まったく長谷部興味ない勢でも考察のためには一から考えてみる必要があるかと。

とはいえ、結論として基本的には山姥切国広の修行の構造と同じだと思います。

長谷部が極修行に出て信長との過去を清算し、今後は今の主である審神者のために尽くすスタンスを強めてくるのは、逆説的に長谷部にとって信長こそが最も執着の対象であったことを示すと考えられます。

構造の逆転が一番わかりやすいのは山姥切国広の極修行の内容、事実誤認の発覚による本歌の長義との立場の逆転ですが、全体的に考察を進めた感じ、最も重要なのはその研究史・史実への理解や認識そのものよりも、それによって己の執着を手放すことによって、結果的に意見が逆転しているように見える部分だと思われます。

執着を手放し、空洞を認めるという点では一期一振の極修行の理屈を描いているミュージカルの「花影ゆれる砥水」がわかりやすいです。

埋めがたい空白を埋めるために修行に出て、それが埋められないことを自覚した時、無理矢理それを埋めようとするのではなく、その空白を埋めたいという気持ち自体を手放してくる。

(……もうみんな「花影ゆれる砥水」見れば良くね?)

それまでの言動と極修行手紙の内容からすると、長谷部の基本的な考えは「大事なものは傍に置いて手放さないはずだ」、言い換えれば「手放したということはあの男にとって俺は大切なものではなかった」みたいなものだったんでしょう。

しかし、実際に見てきて知った信長の想いというのは、黒田如水の才覚を警戒して機嫌を取るために、「大事なものでも手放す」という選択だった。

大切にされていたという事実、けれどそれ自体が、大切なものなら手放さないでほしいという、長谷部自身の最初の願いに反する。

自分の願いと相手の願いが衝突した結果、長谷部は信長の選択を受け入れることにしたんでしょう。

大切なものでも手放すことはある。信長の選択を受け入れるために、長谷部自身が自分の願い、大切ならば捨てないでほしい、ずっと信長の傍にいたかったという、その願いを、執着を捨てなければならない。

長谷部は極修行で信長への感情を捨てて更に主主言うようになった、もう信長はどうでもいいのか、という意見を見るような気がするのですが、実際には逆で、信長がどうでもよくなったのではなく、むしろ信長の選択を最大限尊重するために、信長の選択とぶつかる自分自身の執着の方を捨てて来たと考えられます。

こうまとめてみると、結局これ山姥切国広の極修行と構造まったく一緒だなと。

国広の手紙は事実誤認の自覚と対処に当たる二通目三通目に注目しがちなんですが、一通目の国広の本心が結構大事だと思うんですよね。
自分自身の評価で独り立ちしたかったという。

それは要するに、本歌とか写しとか本物とか偽物とか関係なく「自分自身を見てほしい」という願いでしょう。

本物にならなくても、本物とか偽物とか関係なく、ただ誰かに「お前自身が大切だよ」と言ってもらいたい。

けれど実際に見てきた歴史が語るものは逆、「お前は大切だよ――だってお前は『本物』なのだから!」という話だった。

これは多分、国広が心から欲していた答ではないでしょうね。
自分が本物だから名が大切だと言うのなら、逆に言えばやはり本物でなければ大切にはされないのだ。
自分と長義の立場を入れ替えただけで、本当の願いは叶わないし、本当の意味で問題は何も解決していない。

けれど歴史の語る真実は受け入れねばならない。
そのために、己の願いを一度捨てる。

国広の極修行も長谷部の極修行も構造的に整理した結論は一緒だと考えられます。

見てきた歴史を、事実誤認を認めなければならない。
自分の願いと相反する、信長の考えを受け入れねばならない。

だからその対象に執着する心を手放す。

けれどもともとの願いそのものをそう簡単に本気で捨てられるはずがないから、どこかで縋るものを欲している。

主にだけは、自分の刀で国広の傑作としての己を評価してほしい。
主にだけは、いつも傍に置いて大切にしてほしい。

変えられない過去を変えない代わりに、今の主に執着の対象となることを要求する。
この作業も結局は元主の物語との分離であり、現主審神者との統合の一種なんでしょうかねえ……?

どちらにせよ、話の理屈は大体つかめてきたと思います。

長義・国広中心に見ていくとどうしても研究史の扱いが気になってきますが、研究史理解の逆転はあの二振りぐらいのレアケースで、他の刀剣男士の修行手紙含めて考えるなら感情の動きが共通することの方に着目したいと思います。

国広、長谷部、「花影ゆれる砥水」を参考にした一期なども皆、結局極修行で行った作業は「過去の主への執着を手放す」ということ。

前にちょろっとやりましたが、「主」自体もそういうメタファーでしょうから、全員の執着が厳密に元主とのやりとりになっているとは限りません。

むしろ元主のことにあまり触れず、一見大きな変化が起きていないように見える男士の修行手紙を分析する方が大事かなと。

で、この極修行周りで気に掛けておきたいことがあと2点ほどあるんですが。

まず一つは、長義くんの極がこのまま行くと原作ゲーム10周年前後のタイミングになりそうなこと(10周年前あと半年きってるのでもう範囲内でいいと思う)、その時期は第二節のちょうど半分にあたるのではないかと考えられること。

長義の性格は国広の真逆だと考えられるので、シンプルに国広の修行手紙を逆転させた予想を出したのですが、恐ろしいことに今のところその予測で他の考察部分と割と噛み合ってます。

長義・国広に関しては研究史の観点から言えば両方一緒にキャラを作るのが簡単、というか普通にそうやってキャラを作っていると思います。むしろここは製作時期をずらす意味がない。

しかし、写しに対して本歌の実装時期はずらした。それに何の意味があるのかというのは私の考察最初期からの疑問点の一つでしたが。

最近の派生を含む構造論的考察の結果からすると、とうらぶ原作ゲームは刀剣男士の実装順にも極順にも意味があって刀剣男士の言動そのものが一つのストーリーを織りなす仕組みになっていると言えます。

山姥切国広と山姥切長義の造形は、そもそもこの二振りの共通する号である山姥切の名に基づくメタファーと抱える物語である歴史(研究史)との兼ね合いから、その節の比較的大きなターニングポイントにあたる時期に物語が進むよう配置されているものと考えられます。

第一節の前半最後の極が国広、そして第一節後半開始最初の実装が長義と言える順番であり、第二節もおそらく前半と後半の区切りに近い位置に長義の極が来ると予測されます。

今後一年以内ぐらいに長義の極が来れば、それはおそらく第二節の前半と後半の間と言える時期であり、第一節のその時期に極が来た国広と本当に対極の位置に存在するのが長義の物語と考えられます。

だから、長義極の内容は国広極の真逆になる。

まあ予想なんで外れたら元も子もないんですが、今のところ原作ゲームの実装順と極順が思ったより厳密なストーリー展開になっているように見えるので、基本はこの考えで行きたいと思います。

今は予想という形なのでそんな必死こいて予想することに何の意味があんの? 状態ですが本来の物語側の意図としては、むしろ長義の極が来て国広の極内容と逆になっている事実を見てからプレイヤーである我々にもしかしてあれ今私たち最初の立ち位置と逆になってる? と物語構造に気づかせるための配置だと思います。

そして、極修行周りで気に掛けたいこともう一つ。舞台の話。

極修行は見てきた歴史が別に普通でも美しいものでも、その男士自身の願いとは逆の辛い結果になる……。

これを舞台の話に当てはめると、最初に慈伝見た時にざっくり予想した結果にむしろ近づきます……。

慈伝の時点で、鶯丸曰く国広は「もう仲間を喪わないため」に強くなることを願っている話が出てきたので。
じゃあその願いとは逆に極修行の結果、本丸の仲間をまた喪うんでしょうね。長義くんを。

ここまでは慈伝の考察時点で突っ込んだ気がしますが、今回の考察からもう一つ。

第一節の結論はミュージカルも舞台も、というより原作ゲームから基本的に極修行の結論と同じものだと考えられる。

だからミュージカルは「花影ゆれる砥水」がおそらく重要で、舞台はそのまんま山姥切国広の極修行である「単独行」が重要。

(※これ書いてる時点でまだ単独行見てません)

国広の性格的に歴史を変えてでも三日月を取り戻す! とはならないでしょうから単独行でむしろ国広はPV部分で見られる朧の誘いを蹴って、歴史を変えてでも三日月を取り戻したいという執着こそを断ってくると思うんですよね。

じゃあ結果も逆になるんだろう。
第一節終了時に原作ゲームの七星剣ポジで三日月合流だな! ただし! 二振り目です!

そうじゃ……ねえだろ……!! みたいな結果になると思います。

慈伝の内容がああである以上、舞台の長義くんは国広に統合で死ぬと思います。
国広は仲間を喪わないために強くなりにいって、結局また本丸の仲間としての本歌を喪うと思います。
どう足掻いても絶望的に報われない。

一方、三日月宗近は多分そのタイミングで本丸に戻ると思います。
三日月への執着を断った結果、三日月が戻ってくる。
ただしそれも国広が心から求めている一振り目ではなく、おそらく二振り目ではないかと。

極修行の結果は、刀剣男士の願いを叶えない。想定や願望と逆の結末を返す。

それを乗り越えるには、喪失を受け入れ、むしろ己自身の我欲や執着、煩悩の方を絶つしかない。

……これが今のところ舞台の各キャラ配置に見られる意図かなあと。

9.来年以降の舞台について

2024年7月21日続報

これの記事を一部書いてる途中で舞台の追加情報が来たよ!

とりあえずリアルタイムでわかった重要情報のメモ。

舞台は心伝の千秋楽で来年25年度に公演する2作品の情報が一挙に来たぜ!

そこからかよと言われそうですが、何気にこれ誰も説明なんぞしてくれないから大事な情報ですよ……つい最近舞台見始めたオイラは去年、すでに単独行の予告出てる状態で夢語が途中挿入されてる感じで混乱してましたからね……。

最近ミュージカル側の構造との比較を重ねて思いましたが、どちらかというと夢語の方を除いて舞台の構成を考えた方がいいんかなと。

そんなわけで来年は

十口伝 あまねく刻の遥かへ (2025年2~3月)
士伝 真贋見極める眼 (2025年7~8月)

の二作品がすでに(2024年7月21日に)発表されました。

オムニバス(短編連作集)という言葉について

全ての短編集、というか短編連作をオムニバスとは呼ばない気がするので次の舞台は特に「オムニバス」と呼ばれる形式の短編連作であることが重要なのではないだろうか。

「オムニバス」という言葉の意味はラテン語で「全ての物(人)のために」だとかで乗合馬車、バスの語源でもあるようだ?

オムニバスは複数の作者の独立した作品を集める形式からアンソロジーと同じ物扱いされることもあるけど、文学や芸術分野で特にオムニバスを謳うときはその短編の集まりが「一つの作品となっている」ことが重要な気がする。
同一テーマで複数作者を単に集めただけならアンソロジーっぽいニュアンス。

タイトルの言葉遊びと心伝で足りなかった部分

維伝と綺伝は糸偏が共通。
心伝と士伝は読み(しでん)が共通か。

士伝は長曽祢さんが部隊にいるってことはこの回想が回収されるじゃないですかやだー。
回想其の75 『名を分かつ』

(そういえば心伝の時点で天保江戸に長曽祢さんも出陣したって言ってたからありえたんだよなこれ)

もとは同じ一つの物の分離がそれぞれ別の名を得たことで完成している物語。

舞台の方で考えると文久土佐の龍馬も慶長熊本の地蔵くんも救いたい人がいてそのために行動している話だよな。

一方、原作慶応甲府はなりかわりやまがいものの話をしながら敵を見極めている話なので舞台の天保江戸はタイトルからそっち寄りの内容ではないかと思われる……。

正直言えば心伝はなんか物足りないというか、本来、原作ゲームの慶応甲府にあるはずの要素が抜かれていたのであれ? とは思いました。

それが加州が紛い物の新選組を見抜いていく要素。

慶応甲府 其の18 『古府中攻防戦 打破』

加州清光「なにを名乗ろうが、こっちにはばればれ。……ただ、腹は立つ」
監査官「なりかわりだろう。戦え、坊主」

慶応甲府 其の19 『古府中攻防戦 打破』

加州清光「いいや。まがいものをそのままにはできない。それだけ」
監査官「そうか。では戦え、坊主」

真贋の見極めは本来、この慶応甲府の話の本筋だったはず。

ただ舞台では天保江戸のタイトルが「真贋見極める眼」なのでこっちにかなり大部分の要素がスライドされてますね。
だから心伝は新選組の物語としては良くても、あの本丸の物語の流れとしては「糸」を「分」かつ「紛い物」要素の整理が足りんなと……。

やらずに大侵寇突入? と首を傾げてたらまさかの天保江戸でやります! とは。

回想75は長曽祢さんがあそこで初めて清麿と正面から顔を合わせた感があるので本丸配属後の回想っぽい感じがしますがすでに御前と兼元の回想138改変が心伝で披露されてますし、回想75も清麿と長曽祢さんの初顔合わせでやると思われます。

それと並行して天保江戸の本筋の誰かを想うなら自分の正しさを信じて進むべきという話もやる、と。

そして多分、公演順的にこの話、長義くん主人公のオムニバス十口伝とセットですよね……。

構造の考察(再)

よく考えたら舞台本丸は対大侵寇をまだ迎えてないんだけど、内容の消化的には慶応甲府の次(舞台はここが短編集)できっちり「七星剣」を登場させていると言う……。

とりあえず舞台だと原作ゲームでいうところの対大侵寇のボスが「混(七星剣)ではない」というのが地味に強化されていないだろうか。

七星剣の持つ「星」のメタファーの登場タイミングがやはり順番的には慶応甲府の次なのではないだろうか。
その一方で、舞台だとそこは山姥切長義主役の短編連作集である。

心伝こと慶応甲府の次だから対大侵寇か? それともここで何故か過去編の天保江戸をやるのか? の2択ぐらいで考えていたのにまさかのどちらでもないよ! 長義くん主役で1話やります! でぶったまげました。

長義くん主役だ――!!(狂喜乱舞)

こんなの予想できる奴いるかよぉ~~!?

そしてその後に何故か天保江戸。やっているなら普通の順番でやればいいのに何故か公演順で後回しにされる天保江戸。特命調査ひとつ飛ばした状態で対大侵寇やって後からやるのかと思ったら普通に対大侵寇前にやるのに何故か公演順だけ後回しだった天保江戸。

長義くん主役であらゆる意味でわー!! ってなってますがとりあえず落ち着け落ち着こう。

……ここで長義くん主役の話が一つ入るってことはまず、やはり長義くんはそれだけ重要だと確定していいと思うのです。

私個人としては「慈伝」の時から長義くんは最重要キャラの一振りとして描かれている。登場時点で三日月と同格、舞台の話があくまで国広中心だと考えれば下手するとそれ以上に。と、主張していましたが、少なくともこの扱いはやはりそのぐらいの重要度だと思います。

もともと国広中心に考える場合長義くんは隠れ重要キャラだという体で考察を進めていました。隠したまま対大侵寇まで行くのかと思ったけど、この分だとがっつりはっきりやる可能性ががが(動揺中)。

ところでここで舞台の公演順から判断する構造考察に触れたいのですが。

虚伝
義伝

ジョ伝
悲伝

慈伝
維伝

天伝
无伝

綺伝
禺伝

単独行
心伝

十口伝
士伝

ミュージカル側と対応を考えた場合、夢語はむしろ抜いた方がわかりやすいというか外伝みたいに前後とセットで考える可能性もありますし、一応抜いて考えた場合、上のように綺麗に2話ずつ内容が対応してると思います。科白劇も今は一応省きます。

実は前回の考察から今回までにようやく「禺伝」を見たのですが、一番の印象は「男女の愛憎が強調された話なので綺伝の対」というものでした。

で、今回発表された長義くん主役オムニバスと「天保江戸」はおそらく内容的にセット。

以前からの考察で長義くんの内面開陳は「天保江戸」と関連付けられるのではないか? と色々な角度から見てきました。
最近原作ゲームに大慶が実装されたことで、どうやら一番の理由は原作ゲームの実装順的にもともと長義くんの話の裏側は天保江戸(大慶)に繋がるらしい、という結論になりました。

だから私としては舞台は「天保江戸」に長義くんも出陣させてちょろっと内面を吐露させるぐらいの方向で予想していたんですが、実際のこの流れを見ると、長義くんは長義くん主役で一本話を造り、さらにそれと「天保江戸」を対応させて表裏を描くという構造だと思います。

お……俺は推しのくせに長義くんの価値を見誤っていた、だと……!?
おいらの予想より遥かに長義くんの扱われ方が重要キャラ……!!(五体投地)

「慈伝」から特命調査開始で次々回の「士伝」までと仮定すると10話。
2話で一つの構成だとすると、原作ゲームの特命調査と同じく5テーマじゃないだろうか。

しかも「士伝」に真贋見極めの要素が加わって原作ゲームの「慶応甲府」に近いスタイルになるだろうことが非常に気になる。

思い返せば「維伝」も龍馬が名無しの世を目指すから大分国広寄りの話として描かれているなと思ったけどあれもしかして舞台的には「聚楽第」の範囲なのか?

そして「維伝」自体はほとんど原作とずれこんでいないように見せかけて、実際には「文久土佐」の本質は「天伝」・「无伝」の「史実(真田信繁)が死んだからこそ創作(真田十勇士)が活躍」に託されている。

……過去編のここが鍵に近いのは、やっぱり山姥切国広と「偽物」という言葉の近さ、「文久土佐」で「偽物」という言葉が使われていることと繋がっているのではないか。

「綺伝」「禺伝」は面白いセットだけど一言で「天保江戸」との相関性をまとめるのはちょっと難しい。
「綺伝」で長義が朧国広撃破という舞台側の重大要素を担っていることや、長義主役回と「天保江戸」がセットになっていることを考えるとむしろこの辺順番拘らずに一度近接要素を総ざらいしたほうがいい気がする。

真贋見極めはどちらかと言えば「慶応甲府」の要素だけど、では原作ゲームで見えている範囲の「天保江戸」の物語とは何か。

天保江戸 其の74 『一縷の』

蜂須賀虎徹「俺たちは刀剣男士として使命を果たす」
蜂須賀虎徹「どんな想いも、力にして」
水心子正秀「…………」
蜂須賀虎徹「それでも進んだ先でだけ、出会える答えもある」
蜂須賀虎徹「誰かを想うなら」
水心子正秀「……ああ。私は、進む」
源清麿「水心子……」

誰かのために、「影」と呼ばれる敵と戦い、歴史を守るために、前に進む。
進んだ先でだけ、出会える答もある。

……だから、「影」を撃破して進む長義くんを中心として見た場合、綺伝はまさしく「天保江戸」っぽくはあるんですよね。内容的には「慶長熊本」だけど。

心伝であまりピンと来なかったのは私が単独行見てないせいがありそうだなこれ。単独行と心伝セットで見たらもしかしてあーあーこういう話かぁあああってなるのかもしれない。あれタイミング的には「慶長熊本」だから……細川忠興の刀が時の政府と兄弟の古今を裏切る「地蔵行平」と使命をまっとうする「歌仙兼定」の二軸で描かれる物語であり、地蔵くんが守りたい相手であるガラシャ様はむしろ解放を願って斬られに行く話。ううううん。

まあ士伝の次が対大侵寇相当じゃなかったら話変わるんですが。

というか、話の規模が表裏で1セットの2話構造になっているみたいなんでそもそも1話で終わるのか? という疑問が。

話のスパンと規模は大体こっちの想定より長いし大きいということが最近確定しはじめたのでその辺ちょっと余裕を持って見たいような気がする。

「名」と「糸」

上でも書きましたけど、長曽祢さん入りの天保江戸なら清麿との回想75はやはりやると思われる。

回想其の75 『名を分かつ』

源清麿「大丈夫さ。君は虎徹を名乗っていい」
源清麿「そうすることで、君と僕は別の刀剣男士でいられるんだ」
長曽祢虎徹「……そうか」
源清麿「君と僕がこうやってここで話をしている。そういう現状のほうがきっと楽しいよね」

国広がどう思っているかは不明ですが、国広の極修行での行動の意味というのは結局この清麿の発言と同じことだよね、と。

名を分かつからこそ、別の存在でいられる。だからこそ話ができる。そのほうが楽しい。

ついでにこの回想75って追加経緯的に当然ながら清麿実装時、つまり「天保江戸」にやっぱり焦点があたる。

もっと言うと、花丸の時点で物議を醸しだした「嫉妬」のメタファー。
大慶実装により判明した、「嫉妬」の真の持ち主は清麿というのもかなり重要だと思う……。

舞台の特命調査は原作ゲームとはまた別の方向をたどり、国広が「名前などどうとでも呼べばいい」とする慈伝・坂本龍馬が「名無しの世」を望む維伝に始まり、源清麿と長曽祢虎徹が「名を分かつ」士伝で終わるのではないか。それから対大侵寇。

……十口伝は長義くんの方の本心だよな。「名を分かつ」に対応する長義くんの本心。

公演タイミングの件だけでそう予想している人もいるし、長義くんの極修行の内容含む可能性高いと思う。

国広はお互いに存在したいからこそ名前を捨てたい(名無しの世)。
でも多分、長義くんはお互いに存在したいからこそ名前に拘るだろうし(名を分かつ)。

考察上どうしても途中で長義くんと国広の主張が混ざるこのカオス。

そしてそろそろ、その「名」とはそもそも何なのかという疑問の核心に行きたいと思うんですが。

――「糸」。

舞台版の「天保江戸」のタイミングと話の内容は、おそらく原作ゲームの「慶応甲府」に相当する。

原作「慶応甲府」で重要な要素の一つに、極加州の口にした「まがいもの」の存在がある。
「紛い物」あるいは「擬い物」。

「糸」を「分」かつ――「まがいもの」。

そこに「名を分かつ」回想75が重なるのだから、両者はすなわち同じものだろう。

結いの目の「糸」とは、「名」である。

……個人的にはもうこれで結論でいっかなーって。

だからこそ、舞台の主人公は国広なんだろう。

本歌の長義との号の混乱要素によって、他の刀剣男士よりも明確に「名」というものに縛られ、その「名」からの解放を願い、けれど、だからと言って本歌を食いたいわけじゃない……! と最も強く願う国広こそ、誰よりも「結いの目」の問題の解決を願っている。

……長義くんは多分、「糸」そのものなのではないか。

国広の問題というのはそもそも本歌を食い殺すことに何の感情もなければそこで終わる話。
三日月の結いの目も同じことだと思う。

「糸」を斬って否定すればそれで終わる。……そうしたくないから抜け出せないんだろう。
「糸」に縛られることを自分自身で望んでしまっている。

その「糸」を、本当は誰より愛しているから。

「名」という「糸」を解くためには、逆にその結び目に向き合い続けるしかない。

メタファー「名」の本質の一つは「糸」。
すなわち「縁」。

メタファーによる構造整理の答の一つとしては大分すっきりしたかなと。

国広は「糸(名)」を捨て、「糸(名)」を分かつことを願っているんだろうけど、その果てにあるものは結局朧の目的と同じではないか。

物語の破壊。

それは糸を斬るタイプの解放で、しかしそれではダメだと気づくのがこの第一節の中核だと思われます。
結いの目とは……三日月を捕らえる「糸」はそもそも何なのか。
己と本歌を捕らえる「名」とは何なのか。

それそのものに向き合えよって話なんじゃないかねー。

10.雷と狐、審神者証実装及び2024年8月の予定表時点の記録

7月末になんかいっぱい来た

これの記事を一部書いてる途中で原作ゲームの追加情報が以下略ぅ!

ただでさえ舞台関連の情報整理から考察練り直ししてたのにもう脳みそが追い付かない。
しかしじゃあ8月来てからこの考察出すとなると一記事も長くなるし練り直しが多くなりすぎて大変な気がするので一度予定表見た時点で思ったことを正直に書いておくかと。

改めて振り返ると21日に舞台情報、23日に審神者証+こんちゃん、26日に予定表発表でめっちゃ忙しいな今週。

2024年7月23日、「審神者証」実装

この時、特殊な演出とこんのすけの台詞が入りました。

(雷の演出)
こんのすけ「……」
こんのすけ「……呼ばれています」
こんのすけ「参れ、参れと……」
こんのすけ「…………」
こんのすけ「……はっ!」
こんのすけ「わたしは今なにを??」
こんのすけ「……ああ、政府から定期連絡です」
こんのすけ「時間遡行軍は、相変わらずまんべんなく数で攻めるだけのよう」
こんのすけ「動きが単調でも緊張感を欠くことなく参りましょう」

2024年で張られた伏線、謎のフラグはこれまで2月の「今年は鬼が出なかった」という話だけだったのですが、ここで我々に審神者証が発行されたタイミングで「こんのすけ(狐)が何かに呼ばれる」という演出が入りました。

そして8月の予定へ。

8月の予定表、新レイドイベント他の発表

2024年8月の予定(2024年7月26日時点)

・錬結強化2倍(新)
・「準備」 鍛刀 鬼丸国綱(髭切、小烏丸の鍛刀確率上昇)
※新レイドイベントの一部戦闘にて特殊な効果あり
・対大規模戦強化プログラム
(真夏のログインプレゼント)
・「実践」 新レイドイベント(新刀剣男士)
・期間限定引換所(98振り)
・夜花奪還作戦
・軽装第二十八弾
・乱舞lv9解放
・内番+1確定

えーと、大体こんな感じ。内番+1とログプレに関しては昔の予定表に載っていなかったので省略してもいい情報かも。

とりあえず新イベント来た――!! レイドだ――!! 新刀剣男士だ――!!

次の話を知りたいけど丙子椒林剣ようやく調べ終わったばかりだよ最近忙しいなオイ!!

特命調査の復刻は半分(三つ)終えたところで新イベントか……。
このタイミングの兼合わせは後で色々な角度から眺めまわすとして。

新イベント追加で新男士追加も早かったっすね。鬼丸髭切に加え小烏丸までいるから紅葉狩でも来るのかと思ったけどクダ屋さんでは? という意見を見てあーってなった。

審神者証実装と同時にこんちゃんが何かに呼ばれたことで、「狐」フラグは確かに立っている。

今年の特殊な前振りは2月の鬼退治がなかったことと、審神者証実装と同時に雷が落ちて管狐が何かに呼ばれてた演出の2点。
鬼と狐なのはいいとして、問題は「鬼と狐」で一つなのか「鬼」と「狐」で個々の裏表なのか。

「鬼と狐」両方を満たすなら童子切フラグだけど7月にレア5の丙子椒林剣を配ったばかりで天下五剣くれるんかなあ? というメタな理由が……期待してもいいんですかダメですかそうですか。

鬼斬りの裏が狐だと狐男士が有力だけど鬼の裏が狐になる理由が以前から考えてるけどよくわからない。

レイド(強襲)イベント

レイドイベントの「レイド」の意味は「強襲」で、多数のプレイヤーが協力して強敵を倒すイベントのことを意味する。

イメージ的には対大侵寇防人作戦の再来っぽいけど現場が異去? 乗り込むのか、あっちから来るのか。
ついに我々は宝物の断片を拾うだけじゃ飽き足らず戦鬼の肌を引っぺがしに行くのか?

報酬が誰かはともかく、やっぱ一節の前半と後半の間になりそうなこのタイミングで鬼斬りの物語なんだよな……。

「鬼」と「蛇」と「狐」と新たな刀

小烏丸はそもそも修行手紙で「鬼と蛇」の話題を出してたよなって。
それと多分敵を指して「我ら」と「あれ」にどれだけの違いがという話をしている。

あちこちで出てくる「鬼」のメタファーにそろそろ斬り込むターンだろうか。
直近だと大慶も地蔵くんとの回想で「鬼と蛇の時代の刀」と口にしている。

実装順の円環的にはこの位置は祢々切丸、抜丸あたりが踏襲候補。

この二振りの名前でとりあえず考えると、祢々切丸の河童切に関してはちょっと安定しないので置いといて、「祢」の字が「父の御霊屋(おたまや・みたまや)」の意味で霊廟にまつった父を意味するとかいう謎の衝撃。

抜丸の「抜」は多分「手で引き出す」辺りのなりたちが重要ではないかと。

引き出す、引きずり出すの話もそろそろやろうかと思っていましたが、最近は京極くんと大倶利伽羅の竜あたりで引っ張り出す話をしていると思います。竜はまあ蛇みたいなもんと考えるとここもやはり「鬼と蛇」の意味で繋がっているのか。

そして祢々さんは父の霊廟か……。

これに対応する刀とかどう考えても面白いでしょ……やはり童子切なのか?

それともあくまで主眼は「鬼」と「狐」だからイベント的に連動しているだけで、どちらかの属性の刀だけ来るのか?

もうこれ実際に実装された刀見てから考えたいよね。

プレイヤーとしてはレイドイベ報酬なら確定だから童子切だとしたら天下五剣をただでもらえるぜ☆ になるけどそもそも最後の天下五剣をそんなほいほいただでくれるかなぁあああって。期待しすぎちゃ駄目だ(自己暗示中)。

舞台とミュージカルとの連動性で見ようと思ったのに次の公演まで間があるから今来ても10周年で来てもどちらでも意味は同じ気がする。

ただし、復刻特命調査がまだ3つしか開催されていない。

ここまで考察してきた感じ特命調査は3つで一区切り、残り半分は特命調査2つと対大侵寇もしくは対大侵寇相当イベの構成らしい。

ここで新レイドイベントを挟んでから今年中に残り2つの特命調査も消化してから10周年を迎えて次の展開が始まるのか、残り2つの特命調査そのものが来年に回されるかの違いは大きいのでそっちも知りたい。多分今年中に来るんじゃないかなーとは思っていますが。

今年中に来た場合、次は連隊戦まで新刀剣男士来ないとしたら国広・長義と歌仙・行平兄弟は多分縁刀が来ない。
まあむっちゃんが関係なかったんで今更ではあるんですが……。

「鬼」と「狐」の要素を満たすなら童子切、「鬼斬り」の裏側が「狐」という話なら狐関係(クダ屋さん?)

どちらにしろ「鬼」と「狐」のメタファー自体は単体で出さないと意味がとれないからこの作業は省略できない。
そして結局わからない。「狐」の意味がよくわかんない。

「鬼」に関してはこの字のなりたち自体が「顔に大きな面をつけた人」であり、派生作品でギミックとして複数使われている。

舞台(外伝)の長尾顕長にとりつく山姥の面。
活撃で足利義輝の死体にとり憑いた鬼(?)の面。

だから鬼斬りイベントはある意味では、「仮面を斬る・外させる」イベントなのではないか。

「外伝」の国広がやったように。それが要は「山姥切」の物語。
聚楽第で優をとれば、我々は仮面を外した監査官、山姥切長義を得られる……。

「天保江戸」の後に鬼丸・髭切が特効となるレイドイベント。
さらに小烏丸が特効になってるからそれって歌舞伎の方の「紅葉狩」なんでは……? って思う。

(「紅葉狩」という名の話は歌舞伎だと謡曲や能と違って鬼女・紅葉退治に使われる刀が「小烏丸」になっている)

ここでもまた「天保江戸」と「鬼斬り」刀の関連が描かれている。
そこに絡むかもしれない紅葉(だたこっちは今の時点だと確定ではない)。

今の時点で言えることは、これまでおもに長義と国広、山姥切という「鬼女斬り」を中心に考えてきたメタファーの要素が一気に近接して収束しているってことですね。

それ以上は逆にごちゃごちゃしてわかんなくなってきたぜ!

これまで言葉遊び的な面から出した予想の結果も前後がわからないままごちゃごちゃして自分でも整理できねー! ってなったのでイベントの内容確定してからまたごちゃごちゃ考えたいところです。

新レイドイベで実装されるのは果たして「鬼と狐」両方にまつわる「童子切安綱」か?
それとも「鬼」を斬るイベントが仮面を外すものであるなら、我々はクダ屋の仮面を外して推定「狐ヶ崎為次」を手に入れることになるのか?

それとも舞台の慶応甲府の次が長義くん主役オムニバス!? で驚かされたように誰も予想できない刀が来るのか?

今年は原作ゲームの展開が活発でなんか忙しくない!?