特命調査考――鬼と狐編――

特命調査考――鬼と狐編――

この考察もようやくリアルタイム考察になります

2024年8月に「対百鬼夜行迎撃作戦」なる新イベントが行われたわけですが、その前哨戦として追加された回想が現在「回顧」→「場面」→「百鬼夜行」から見られる「異去 百鬼夜行」の「クダの知らせ」シリーズです。

というか、「対大規模戦強化プログラム」「対百鬼夜行迎撃作戦」の開始によって2024年1月に異去が実装されたときのキャプション「戦うモノよ お前たちに名を与えよう~~」という戦鬼にまつわる回想やこんちゃん関連の台詞(今年はとある時代の都にて、鬼に扮した時間遡行軍の目撃情報は出ませんでした~~)が収録され、???表記だった回想名もイベントが本格的に開始してから明かされています。

リアルタイムでやってないと本当にややこしいなこのゲーム!!

2021年に開始したプレイヤーである私の考察がようやくリアルタイムに追いついてきたと感じるのがこのイベントからですのでいっぱしの審神者になるにはどうやら人によっては3年程度かかるようです。

そうですね、レベル的にも2年前の「対大侵寇防人作戦」の時には最前線で極短刀を育成するのがやっとだった私が最近ようやく極太刀の育成が進んで中傷必殺とかよく先輩審神者のとっている戦術の話がわかるようになってきましたので、確かに色んな意味でようやくいっぱしの審神者の端っこくらいにはなってきた感じがしますね……。

レベル的にも考察的にも人並の能力を揃えるのに3年かかるゲームとか本当とんでもねえなオイ……。

それはともかく気を取り直して、3年かかってようやくのリアルタイム考察に入りたいと思います。

原作ゲームから派生である舞台・ミュージカルなど含めた総合的考察

これまでの考察を読んでないと頭パーンになりそうな理屈です。下準備を終えてかなり話が複雑になってきた。

というかもう最近は原作ゲームと派生であるメディアミックスの相関性を肯定するか否定するかというレベルではなく、「直接的な答ではないが構造が共通であり、メタファーの意味は同じなので『刀剣乱舞』の考察をする上では全部見たほうが早い」というのがファイナルアンサーでいいと思われます。

私も実はまだ舞台一作(単独行)見ていないし映画や歌舞伎など手を付けられていない派生作品がありますが、原作ゲームの直接的な答ではなくともこれらのメディアミックスを見たほうが話自体は遥かに早いなと思います。

ただ、私個人の趣味としては、原作ゲームの考察だけで原作ゲームの解答に辿り着けるならその方がいいと思いますし、とうらぶの造り自体はそれが可能になっていると思います。

舞台やミュージカルで得た知識を原作ゲームの考察に転用しているのは単純に私の考察者としての実力不足から楽な方向に流れているだけで、真に智慧ある人なら多分原作ゲーム(原案)だけでいけるんじゃないでしょうかね?

舞台やミュージカルなどの派生を見て得られるものに関しては、数学でいえば図形の面積を求める公式のようなものに近いです。図形の面積という答ではなく、その答を導くための理屈の方です。

原作ゲームのみで考察しようとしていた時は派生履修勢が特に前置きもなくいきなりメタファーの解釈をしだす、しかも同じ作品を見ているはずの人同士でも答ばらばらという現象に「なんだこりゃ?」以外の感想はなかったです。

実際に自分の目で見て確認したところ、要は得ているものが「答(図形の面積)」ではなく「理屈(図形の面積を導く公式)」なので、それ自体の理解度が個々人の能力にその時点で反映されているという現象だと結論しました。

数学では面積を導くための公式を覚えても、全員がちゃんと計算問題をクリアして正しい数字を出せるわけではないように、必要な公式を間違って覚えているだとか計算問題間違えてるだとかでめちゃくちゃな答を出している人も当然存在することを視野に入れないと、派生履修勢の意見は参考になりません。

そして、原作ゲームと派生作品を相互補完する考察を重ねて「とうらぶは原作から派生まで全部構造が同じ」という結論を出した身としては、どんな公式にも最初にそれを発見して提言した知者がいるように、やはり本当に正しい知者ならば、原作ゲームからの情報のみで、派生作品を見た人と最終的には同じ解答ができるものだと思います。

今回の「対百鬼夜行迎撃作戦」では特に舞台で強調される「朧」、ミュージカルでたびたび登場する「友」のメタファーが重要な役割を果たしていました。

こうして原作ゲームに舞台やミュージカルの要素がわかりやすく登場すると、舞台やミュージカルを見たほうがいいのではないか? と思われるかもしれませんが、論理的には逆だと思います。

舞台やミュージカルの構造が原作と同じであればあるほど、大元の原作ゲームだけ見れば十分です。

いや、むしろ原作ゲームであろうとメディアミックスであろうと、その作品を理解するにはその作品に対してだけ全力で向き合えばそれで十分、あとは読み取る自分次第、という当たり前の結論に還ると思います。

とはいえ、舞台やミュージカル、あるいは花丸や無双などの派生作品もそれぞれの作者・関係者が真摯に作り上げている素晴らしい作品揃いなので、絶対に見れない事情でもない限り自分の目で実際に見たほうがいいと思います。

派生からの情報を中心に考察している勢というのも、別に派生を全ての基準にしているわけでもなく、メタファーの羅列からなるとうらぶの作風を言語化できずとも感覚的に理解して、派生が一つのメタファーをどのように扱っているかという前提から、では原作ゲームは同じメタファーをどのように扱っているかと真剣に考えています。一見舞台やミュージカルの内容しか重視していないように見える勢も、実際はかなり真摯に原作ゲームの考察をしていると言えます。

自分で実際に派生を見たほうが、その辺も含めてわかりやすくなると思います。

だからまだ派生を見ずに「見たほうがいいのか、でもなんか原作ゲーム勢からは派生の印象悪いんだよな……」と迷っているくらいの人なら単に見たほうが早いということは繰り返しておきます。

絶対にメディアミックス見ずに原作ゲームの考察を完成させてみるぞ! と意気込む人に関しては、正直私はむしろそういう結論を凄く見たいと思うので応援しております。

で、肝心のこの考察に関しては、真の知者とは程遠い馬鹿者代表の私が書いておりますので、自分が摂取した派生作品は舞台、ミュージカル、花丸、無双、キャラソンと、ガンガン遠慮なく突っ込んだ話をします。

骨格が同じならすべては所詮意味のないガワかもしれない。
でもそのガワこそがその物語なら、それはそれで知りたいじゃないか。味わいたいじゃないか。

と、いうわけでようやくリアルタイムに追いつき、次の動きまで話が進みそうにない一大ポイントとなる考察を始めます。

この考察以前に第一節の基本的な結論となる考察と、第二節は大体どんな話が進行しているかという考察もすでに出しているので、この考察辺りでここまでの私の考えはほぼ出し切る形になるかな、と。

1.「鬼」と「狐」のうりうり(瓜二つ、瓜売)考、「名」と「糸」と「猫」を分かつ

2024年の夏に関しては7月の時点で審神者証実装と同時に管狐のこんのすけが何かに呼ばれて行方不明になりそうになるというプチ回想(現在の「異去 百鬼夜行 其の3『クダの知らせ 二』」が入り、その後8月の予定表が発表された時点で新イベント(レイド戦)と新刀剣男士の予告があった上にそのイベント特効男士が「鬼丸国綱」「髭切」「小烏丸」の三振りでした。

この時点で今回は「鬼退治系のイベント、かつ狐に関係がある」という予想が立てられていました。

「鬼」と「狐」両方の関係として報酬は童子切ではないか? という声もありましたが私個人は新イベント開始とはいえゲームの節目とかそういうものが関係ないこの時期に運営が天下五剣をくれる訳ないやろというメタな理由で否定派でした。

とりあえず、2024年7月の時点で「鬼」と「狐」のメタファーに関して考察する必要性が出てきましたということを記録しておきます。

この時点では「鬼と狐」という一つながりの要素なのか(報酬は童子切系の推測)、「鬼」と「狐」で重要なのは「狐」(報酬はこのイベントで名前開陳があったクダ屋こと狐ヶ崎系の推測)、「鬼」と「狐」に関わるが主眼を置くのは「鬼」(報酬は九鬼正宗等、別の鬼関係の刀系の推測)なのか不明でした。

結果的には最後の報酬は「九鬼正宗」(「鬼」に主眼を置いたイベント、実際のイベント内容も完全に「鬼」退治)という方向性でした。

が、それはそれとして何故メタファー「鬼」とメタファー「狐」が関連するかの考察をそもそも入れないといけないな、と。

というわけで、イベント予告からその開始前だったかな? でTwitterに書いた「鬼」と「狐」に関する考察からまずいきたいと思います。

いきなりクライマックスなので以前の考察読んでない方には多分意味わかんないだろうという内容になっております。

以前の考察通り、原作ゲームは対大侵寇の一つ前のシナリオイベントが「特命調査 慶応甲府」で、このイベントで「まがいもの」に言及することから「紛い物(糸を分かつ物)」の話と考えていいと思われる。

一方、舞台はどうやら順番(公演順)最後の特命調査が士伝と予告されている「天保江戸」になりそう、かつ長曽祢さんが部隊に入っていることが明言されているので、おそらく回想75「名を分かつ」をやると思われる。

原作ゲームと舞台が「糸を分かつ」「名を分かつ」重なりそうなので「名」=「糸」になるけど、

原作ゲームだとこのタイミングでもう一つ真っ二つになったものがある。

メタファー「猫」。対大侵寇防人作戦の前に極が実装された南泉の修行手紙。

オレが切れ味鋭い刀じゃなかったら、
猫の野郎は真っ二つにはならなかったんじゃないかって。
オレが在ったから、真っ二つの猫が生まれたんじゃないかって。
オレが在ったから、呪いが生まれたのか?
こうなると、オレの中の猫は呪いなんかじゃなく、オレの一部だと思うしかないのかね。

つまり「糸」「名」「猫」――全部同じかつ「呪」。

長義と国広の対立構造は何故引き起こされるか。

それは山姥切という「名」の問題である。

ということは、二振りが南泉と呪いの話をしているのも含めて、「糸」「名」「猫」「呪」全部イコールで結ぶべきだろう。

山姥切を呪うのは山姥ではなく「名」。

だから国広は修行で「名(猫)を切る(否定する)」んだろう

ここまでが「猫」=「名」を軸として見た第一節の内容に関する推測。で。

「名」が「猫」なら「糸」は何か?

この答こそ「狐」なのではないか?

「糸」が示すものは縁。

国広は何故長義の写しと言われるか? 一番大きな理由は似ているからだ。
似ているから関係を示唆される。そして二つのものが「似ている」ことをこうも言う。

「瓜二つ」

ミュージカルの「花影ゆれる砥水」でも出てきましたが、よく似ていて見分けのつかない二つのものを「瓜二つ」と言います。

そして、この「瓜」という字が、「狐」という字の中に在る……。

(漢字の成り立ちを調べた感じ、音をあてただけで意味として瓜が重要なわけではないようですが)

「猫」は「獣」に「苗」。
「狐」は「獣」に「瓜」。

真っ二つの猫が名という呪いであるならば、瓜二つの狐が糸(縁)という呪いなのではないか?
これはどちらも同じものを示す。全部同じもの、全部呪いであり愛。

豆まきはちょっと置いといて、多分シナリオ付き鬼退治イベの話なら最初の聚楽第がまさにそうだったんだろう。

最初の鬼斬り(鬼女斬り)イベの裏側にあるものが「猫(名)の呪い」。
これはその前に極めた国広の結論と関連する。

名を切って得る縁。聚楽第を超えると長義が顕現する。
山姥切国広と号(名)を同じくする縁者としての山姥切長義が……。

で、次の鬼退治は糸(縁)を切って名を得る狐の話ではないか?

今回単独か特命調査の復刻終了までのロングスパンで見るべきかはまだちょっとわかんないけど。

ここ最近の考察の山場はやっぱり長義くん極に焦点を合わせるべきだと思う。
それが糸(縁)を切って名を得る結論で一致すると思う。

糸に関してはもう一つ、いつもありそうでなかなか明言されない範囲の「紅葉」。

これも意味として大きいのは「糸」を「工(作る)」「葉」だからでは?

紅葉狩を連想させる要素のピックアップが行き着くところは「縁(狐)斬り」という意味だと思われる。

鬼斬りの裏の「猫(名)」、鬼斬りの裏の「狐(縁)」。

葉の種類というかその言葉の修飾要素に意味があるならば、舞台の慈伝の日日の葉ってそのまんま「明日葉」なのでは?

慈伝含む「猫(名)の呪い」の話は「明日葉」でありそれは獣の苗。
紅葉狩の話は獣の瓜こと狐が二匹で似ているという「縁(狐)」。

だからその縁も切る。切って名を手に入れる。

つまり第二節の結論(狐関係)は、第一節(猫の呪い)と逆の結論になる。

「名」と「糸」は同じもの、「猫」と「狐」も同じもの。
でも違うように見えるのは、見る側の立場の違い。

国広を主人公として見ればその鬼斬り(明日葉)は猫(名)の呪い、長義を主人公として見ればその鬼斬り(紅葉狩)は狐(糸)が作るもの。だから切る。それをぐるりと繰り返す。

今回鬼斬りの裏の狐、鬼斬りを経て得る鬼の話だから、だんだんメタファーの要素と法則性が整理されてきた気はする。

2.猫は「げんじつ(幻日)」、幻の太陽

上で「猫」が「名」であり「糸」であり「呪」でもあると繋ぎましたが、もう一つ「猫」について考えたいことがあります。

回想142、後家兼光と五虎退の会話。

ここからすると「虎」は「あこがれ」で「猫」は「げんじつ」。

普通に考えれば「憧れと現実」で回想をストレートに読んだ場合はその一義だろうけれど、回想のタイトルがあくまでも「あこがれとげんじつ」と平仮名表記であることに注目。

猫は「げんじつ」。

この音で調べたら「現実」の他にもう一つ候補がある。

それが「幻日」――幻の太陽。

……舞台でほぼ主人公格の描写をされている山姥切国広が三日月から「煤けた太陽」と呼ばれていること、その国広が現在「朧なる山姥切国広」という分身を生み出した形となり、状況的に二つに分かれたと言っていいことを考えると、これが舞台における「猫」=「幻日」、「真っ二つの猫」なんじゃないでしょうかね……。

真っ二つの「猫」は「幻日」、幻の太陽、太陽が二つに分かれる。

更に虎の方は「あこがれ」ですが、これは「憧れる」という言葉が「あくがれる」とも読むことを視野に入れていきたいと思います。

「物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る」という和泉式部の和歌などに見られるように、昔の人は割と普通に自分の魂が体から抜け出ちゃうものだと考えていたらしく、それを「あくがれ」と言いました。

調べたところ、やっぱりこの「あくがれ」と「憧れ」がイコールのようなので、回想142において「虎」が「憧れ」ならそれは魂が体から抜け出てしまうことも暗喩していると思われます。
「あくがれる」って結構いろいろな意味がある(1.いるところを離れてふらふらする 2.物事に心を奪われる、うわのそら 3.胸を焦がす、思い焦がれる 4.気持ちが離れる、疎遠になる)言葉のようです。

南泉と五虎退の組み合わせは舞台の慈伝でも、花丸の雪の巻でもセットで登場していて、どういうタイミングかと言えば、「特命調査 聚楽第」及び「山姥切長義」の登場と関連した状況です。

この辺の要素がやはり連動しているということのようですね。

猫を斬った刀と、虎を退けた刀。

「猫」が「名」であり「呪」であり、それを斬るということ。
「虎」が「あこがれ(あくがれ)」という「体から魂が抜け出た状態」なら、それを退けるということ。

この辺まで含めたようやく慈伝冒頭のこの組み合わせの意味がわかってきたかなーと。

3.「猫」も「狐」も「狸」も「ねこ」

「猫」も「狐」も獣偏の漢字シリーズということで、原作ゲームではあまり目立ちませんが派生で登場したメタファー「狸」について調べていたんですが、意外な結果に。

「狸」という漢字の意味は

1.動物のタヌキ
2.ずるがしこい人のたとえ
3.ねこ。のねこ。「狸奴」。

……は?

「狸」って「ねこ」なの!?(仰天)

ってことは「猫」=「狸」、じゃあ「狐」は

……いや、待てよ。たしかつい最近Twitterの方でこんなネタが流れて来たな。
8月8日の世界猫の日に眠っている「狐」の画像をあげて

「寝狐(ねこ)」

だと……。

もしかして獣偏のアニマルシリーズは全部「ねこ」?

狐に関して調べると「来つ寝」で遊女を示すとかもあるからまだまだネタがありそう。

また、「ねこ」の語源自体を「寝子」だとする説も本当かどうかはともかくたまに聞く話です。

とりあえず、上の作品構造として配置から推測するメタファーの同一性「猫」=「名」=「糸」=「狐」=「呪」の図式に関し、そもそも「猫」=「狐(寝狐)」は割とストレートな言葉遊びから成立することが判明しました。

ところでそもそもなんで私が「狸」を調べていたのかとそもそも「狸」はどこで強調されていたっけの話ですが、まず「狸」が強調されているのは花丸の一期です。明石登場回。

「猫」や「狐」という動物が強調されてるなら花丸で唐突に出てきた「狸」にも意味はあるんだろうなと。

花丸は一見はちゃめちゃなギャグテイストに見えますが、南泉と五虎退の組み合わせから長義くん登場になる構成が舞台の慈伝と同じであるように、実はメタファーの構成が原作ゲームやその他派生と同じでかなり気を張り巡らせている作品だと考えられます。まぁそのせいで刀剣男士の性格描写は破綻しているように見えますが……。

「狸」が重要なのは、その獣偏の右側が「里」だから。

秘宝の里に団子の里。原作ゲームだと「狸」よりむしろ「里」単体の使われ方が気になります。

この二つのイベント内容も以前の考察通り第二節を考える上で重要だと考えられますし(宝物が重要な異去中心の第二節に対し宝の字が入る秘宝の里とか)。

ついでに、「里」が名前に入る刀剣男士って誰が思いつきます?
……私は「里」が名前に入る刀なら真っ先に「童子切」を思い浮かべます。「童」という字は「立」に「里」と書く……。

どうあってもそろそろ童子切。もしも10周年のタイミングで実装されるなら実装順の踏襲的にも南海先生と重なりそうでそうなると南泉と同じく「南」と「ねこ」が被るから気になるところ。

まあ童子切関連はまだ実装されていないので予想全部外れるかもしれんし不確定要素が大きいので置いといて。

「猫」「狐」「狸」辺りのこれまで登場した動物シリーズが全部「ねこ」で繋がるかもしれない、そうなると上で出した「名」やら「糸」やらとも繋がるという結論は重要かなと。

南泉がしょっちゅう寝ているのは猫の語源そのものの「寝子」か山姥切の物語にも関連するだろう狐要素の「寝狐」あたりの意味を視野に入れたほうがいいか。

「狸」に関しては、原作ゲームで確実に「狸」が出てくるものというと、ソハヤノツルキの極修行手紙ですかね。
……その前提で見るとソハヤの極修行手紙が一気に重要になってきた。

そろそろ第二節に入ってからのイベントと極順の整理もしなきゃですね。

というわけで、「狸」の重要性を確認したところで次に行きます。

4.対百鬼夜行迎撃作戦の振り返り~今世紀最大の「お前かよ!!」~

今まで舞台でさんざん「朧なる山姥切国広」の考察をしていたというのに、今度は原作ゲームで「朧月(三日月宗近)」登場。

この「朧(三日月)」イベント予告の時点ではシルエットでの登場だったからどんな新刀剣男士が来るのかとめちゃくちゃワクワクして待っていたのに実は三日月だったということでイベント当日に「お前かよ!!」の叫びが審神者の間に溢れたことと思われます。私も叫びましたよ、ええ。

Twitter見るとイベント前からこれ三日月じゃないか? とちゃんと当てている審神者もいて凄いなとは思いましたが。

そうかまたお前か……テンションがダウンしてクールになったところでじゃあ迎撃作戦の考察に行きましょうか……。

三日月は三日月で別にいいけど隠すな、シルエットにするんじゃねえ、最初から三日月の姿してたら余計な期待をしなくてすんだんだぞこっちも……。
(ある意味今回のイベントは全身紹介あったクダ屋がしかし実装はされないとか、新刀剣男士かと思わせぶりに予告されたシルエットが既存キャラの三日月だったとか原作ゲームの情報の扱い方を一考する要素はあった)

イベント報酬刀剣は最初は「???」で隠されていたのですが、8月13日の時点、というかその数日前に出された予告動画の時点で「九鬼正宗」ということがほぼ判明していました。

つまり第一に押さえておかなければならない要素として、この鬼退治イベントの報酬は「鬼」です。九鬼正宗という九つの「鬼」。

鬼を斬って、鬼を得る。

これまでも特命調査や対大侵寇防人作戦のシナリオに関してそもそも敵として斬るべき相手と得た報酬の刀剣男士が同一物か、別物か、という考察は度々していましたが、今回かなりはっきりと両方のメタファーが一致したことである程度結論が得られました。

シナリオイベントで斬るべき敵と報酬で得る刀剣男士の「メタファーは同一」。

ここまではほぼ確定でいいと思います。

この後に特命調査を振り返りますが、「メタファーは同一か?」「存在は同一か?」という二つの疑問があって、例えば「天保江戸」などはもともと最終ボスの老中が「水野忠邦」で報酬男士が「水心子正秀」「源清麿」ですから「メタファー」は同一(水)の可能性が高かったです。

ただ特命調査は始まりの五振りの物語なのに斬るべき敵が報酬男士そのものと「同一」かと言われると否定要素も多く、単純になんで蜂須賀の特命調査で水野忠邦を斬ることが水心子たちを得ることにつながるのか意味がわからんぞ……となっていた。

じゃあ始まりの五振りの物語的には無関係なのかと言われると、初っ端が本歌と写しで逸話と存在が混淆している「山姥切」の聚楽第で、これを無関係方面に割り切るのもちょっと無理が……。

対大侵寇なんかも「混」のビジュアルというか持っていた刀が七星剣で報酬が七星剣だったので「星」メタファーは同一だと思われましたが、今回は「鬼」と戦って九鬼正宗という「鬼」メタファーを得たので、同一性はあくまでもメタファーレベルの話であって、存在に関してはまた別の考え方をする必要があるとわかりました。

いやこれ判明するのに何年かかってんだよ。

そして「メタファー」と「存在」そのものはまた別ですが、ここに関連があるだろういう話は後でやります。

・「鬼」を斬って、「鬼」を得る話

まずこれを前提としたところで、イベント開始です。

その前の予告の時点で、異去の張番、特にイベントに出てくる個体は本丸の火車切というより「最果ての張番」と呼ばれる現在も政府に所属している個体のように思われる「火車切」が「俺も、九鬼を……。友だちを助けたいんだ」と言う台詞が判明していました。

実際にイベントを開始して判明したことには、異去の奥から呼ばれた気がして黒い河を覗いてしまった火車切が渦に飲み込まれそうになったところを、九鬼正宗が突き飛ばして助けてくれたが、代わりに飲み込まれてしまった、その件で火車切は九鬼を友だちと呼び、助けようとしている、という話でした(異去 百鬼夜行 其の8『朧月』)。

この話をしている相手が朧月こと三日月。

この「朧(三日月)」は「俺は、本丸の刀剣男士ではない」そうです。

というか、そもそもこの三日月は最初から自己紹介していたわけではなく、どうも火車切が「目」を見て三日月だと判断し、そう名を呼んだことから己を三日月とようやく思い出したかのような謎の描写が入る存在です。

まぁ、最初シルエットにした意味があったのかどうか、演出の順番としてシルエットで現れる、姿を現わして火車切と会話する、火車切から「三日月宗近」と呼ばれる、自分は本丸の刀剣男士ではない「朧月」と説明する、の順番なので、

一応何者でもない化け物が火車切の名付行為によって全定義された存在と見るよりは、もともと三日月宗近の一部ではあったがそれを忘れかけた不安定な存在だったものが、火車切に名を呼ばれて自分を思い出したことを契機に「朧」という自己を定めた感はあります。

表記上は一応「三日月宗近 朧」となります。

で、この回想から他に要素を拾っていくと

・三日月は友に呼ばれた
・九鬼は火車切の目を見ることに躊躇がない、九鬼の目は綺麗、正宗はみんなそう
・火車切は九鬼に助けられたので九鬼を友だちとして助けたい

火車切は「朧」の「目」を見て「三日月宗近」だと判断したように、どうも今回の重要メタファーの一つは「目」のようです。

で、ここから「対百鬼夜行迎撃作戦」が始まるわけで、8月13日に開始したイベントの3日後の16日に追加演出が来て決着しました。

俺が仕事中に……(盆休み? そんなものうちにはないよ)。

この辺はリアルタイムでは戦えずに回想収録部分だけが頼りですが、まあなんか巨大な目から鬼が出てきたというか目が鬼だったからさんざんどついた上に最後に火車切が決めて九鬼を取り返して百鬼夜行を追い払ったよやったね☆ という(雑)

まあほらここの考察は原作ゲームプレイヤー向けですから詳しいことは当然基本的には自分のイベントデータを見返してもらうとして。

5.私を見る月

16日の帰宅後(鬼は守護リラにぶん殴られて帰った後でしたが)にとりあえずTwitterにまとめた感想。今回の投稿用に大分加筆しましたが。

しかし、異去突入時の「戦鬼」がまさかこんなはっきり姿と台詞を持って出てくるとはね。

何も変わらない云々はミュージカル「花影ゆれる砥水」のカゲこと一期の影打の台詞と共通するし、生まれて来なければ云々は花丸の長義くん回で敵の目的が田沼意次を「生まれる前に」亡き者にするってなってたのを思わせる……。

「目」に関しては今年頭から火車切がずっとフラグ立ててたなあと。

目を覗き込む、目が綺麗が一つの鍵なんだろうけどよくわからん。
ただ舞台の方で「朧(国広)」登場回の維伝で無数の目が強調されてるから、やっぱ「目」はもともと「朧」関連要素なんでしょう。

そして火車切と朧周りの要素の整理~京極くんを添えて~。

回想143「竜の弟子」で火車切が大倶利伽羅の腕の竜触っていい? って話をしたときに「自力でこいつを引き出して見ろ」と言われている。

これに近い要素持ってるの京極くんじゃないかな。

回想135「正宗の兄弟」で石田くんが「私たちは、お前を引きずり出してしまった」と言っている。

京極正宗の最大の特徴は「在銘」。無銘ばかりの正宗の中で貴重な在銘の正宗。
つまり重要なのは名前という意味での銘。

今回のイベントでようやく1月の異去実装時のキャプションが収録されましたが、これのタイトルが「銘の衡」です。

異去 百鬼夜行 其の1 『銘の衡(くびき)』

ちなみに「くびき」って普通は「頸木」とか「軛」って書く方が多いと思うので「衡」の字はあまり見かけない気がします。日常生活でこの字をよく見るのは私は寡聞にして平衡の衡ぐらいしか知りません。

で、今回「朧(三日月)」と話してた火車切だけど、朧という字は「月」に「龍」で……竜を引き出したいという火車切が、目を見て三日月だと気づいたからこそ「朧月」の名乗りが返ったと。

まだなんかうまく整理できないけどそれぞれ何らかの相関はあるよなと思います。

無銘が基本の正宗の在り方が、在銘の正宗を引きずり出す。
目を見て名を呼び「朧(月の龍)」を引き出す。

キーワードの一つは「京」?

京極の京、平安京の京。

そして今回の「対百鬼夜行迎撃作戦」イベントの〆、2年前の「対大侵寇防人作戦」のプロローグと対となって一番謎を残す部分。

……最後の「朧(三日月)」は誰に話しかけてんだこれ?

異去 百鬼夜行 其の14『月よ』

三日月宗近 朧「さて、月よ。参ろうか」
三日月宗近 朧「……何をみて何を思う?」

対大侵寇の本丸三日月と比べると、本丸三日月は「我々が」月を見て何を思うかを問うているけれど、朧三日月の視点だとこれ……話しかけている相手こそが「月」と受け取れる。

じゃあ今回朧が話しかける月が見ているものは……我々?

「さて、月よ、参ろうか」
「……何をみて何を思う?」

……見られてるの俺かー!? 俺たちだこれ――!?(ガビーン)

大侵寇其の1『月、問う』

三日月宗近「主、月をみて何を思う」

対大侵寇では三日月に問われ、我々が「月」を見ていた、今度は三日月に問われた「月」が我々を見ている?

……これも火車切の台詞周りか。覗き込むと相手もこっちを見ている。
我々は深淵を覗いちゃったのか。唐突なニーチェやめろ。

異なり去った世界の奥から「鬼」が「狐(猫)」を呼ぶ。
九鬼は火車切を助けて、それを火車切は友と呼ぶ。鬼に呼ばれ、友を助ける。

一方朧月も友に呼ばれたといい、「月」を伴って消える。

……火車切と朧月が同じだと判定しているのは実は火車切の主観だけだよね、回想見る限り。

「朧(三日月)」の真の目的は?

火車切周りの整理が「鬼」に呼ばれ「友(九鬼)」を助けるだから、自分を呼んでいるものと助けたい友のメタファーは=で結んでいいと思う。

「朧(三日月)」側で話整理すると、こっちも構図同じでは。

火車切が百鬼夜行の鬼の中から九鬼を取り出したように、最後の「月」は「月」の中から取り出したものでは。

「しかし、此度の目的は果たせたようだな。よきかな、よきかな」の台詞が誰にかかっているかだよな。
火車切くん良かったね☆ ぐらいの意味ならいいんだけど朧月側の事情だとすると最後に「月」と合流していることを指す気がする。

そうすると火車切と「朧(三日月)」は確かにお互い同じ事情でしかも目的は達成。

鬼の中から引き出す鬼、月の中から引き出す月。

やっていることが同じなら、もはや両者のメタファーもつなげていいのではないか?

つまり「月」=「鬼」。

多分これが舞台の主人公が三日月と広義の鬼女斬にあたる国広のコンビである理由だと思う……月と鬼(鬼斬)は表裏の同一メタファーなんだろう。

これが「般若(智慧)」ではないかというのは以前やったので置いておいて、どうにも原作ゲームの構造的にも今回のイベントでここ、「鬼斬り」と「月」が同一という構造が表明されたと思われます。

6.鬼の中の鬼、月の中の月、第二節の物語

というわけで火車切・九鬼サイドと「朧(三日月)」と最後の誰かのやり取りを整理すると今回のイベントは「鬼の中の鬼、月の中の月」の話だったのではないかと思われます。

そして「鬼」と「月」のメタファーは結局のところ、同一のものなのではないか。

とうらぶは割と順不同的概念でできているので性質が真逆のものを同一のものとしてカウントしています。

「猫」と「猫斬り」の関係で何度か説明していると思いますが、「猫」を斬ったからこそ統合して同一ってあれですね。民俗学的には登場人物AがBを殺すタイプの話もBがAを殺すタイプの話も両方とも登場人物がAとBである話としてくくられるように。

だから上では「鬼斬り」と「月」が同一と話しましたが、それは結局「鬼」そのものが「月」と同一とも言えると考えられます。

この順不同の概念が入ることによってABとBAを同一と感じる人と別物と感じる人で意見が異なるというのもとうらぶの印象が一定しない理由の一つだと考えますがそれは置いといて。

とりあえず今回は「鬼(鬼斬り)」話であり、同時に「月(朧月)」の話であり両者をつなぐのは「友」というメタファーであったと。

今回のイベントでは火車切は友である鬼こと九鬼を助け、一方で朧(三日月)も目的自体は遂げたらしい。

異去の奥から呼ばれたと言うのなら、三日月の「友」もまた「鬼」ではないか? と考えられるのでこの部分めっちゃ今後に引き続いています。

今回はこの辺も含めてやはり「メタファーは同一、存在は別」の関係性が目立つなと思います。

今回でイベントが終わらなかったことを考えるなら、もう三日月の「友」枠としてそれこそ「鬼」のメタファーとして「童子切」が実装されるとしか思えないぜー。

対大侵寇では「月(三日月)」が我々「審神者」に「月」を見て何を思う? と問うた。
対百回夜行では「月(朧)が「月」に「何」を見て何を思う? と問うている。

だからこの「月」が見ているものこそ我々「審神者」ではないかと思われるわけですが……。

原作ゲームで我々プレイヤー以外で「審神者」が登場する部分が多分現時点だと一つだけあります。

8-3 検非違使登場時のキャプション

検非違使は時間遡行軍とこちらの違いも分からぬようで、同じ戦術でただ力押しで押し寄せてくる。
強いは強いがどうにも知性を感じられない。
あるいは検非違使を派遣している審神者は検非違使から知性を奪っているのか。

我々プレイヤー以外で存在する「審神者」。それは検非違使を使役するもの。

今回の敵である「鬼」のシステム、聞くところによると検非違使戦と同じらしいですね。

以前からの考察なんですけど、第一節の敵はおもに時間遡行軍でしたが、第二節は8面のこのキャプションや異去の性質などから考えて、敵としての検非違使なのではないかと思われます。

そう考えると「朧(三日月)」が最後に対大侵寇の我々と三日月と同じようなやりとりをしているのとも繋がるかなと。「月」は向こうの審神者なのかもしれない。まあ逆に異去の鬼こそ審神者で月はやっぱり「友」かもしれんが。

そして向こうから見れば、向こうで「月」と呼ばれているものからすれば、「何」と表された我々自身がもしかしたら「朧なる」ものなのかもしれない。

7.友を助けたい猫斬り

「朧」は主に舞台の「朧なる山姥切国広」がメタファーの代表的なところですが、「友」はミュージカルの三日月宗近が「機能」と呼ばれ正史で死する人々を救っている時に名乗る立場なので、これも重要要素です。

また、「友」に関してはミュージカルを思い浮かべる人が多いとは思いますが、舞台もちょこちょこ「友」が重要な場面があります。維伝の坂本龍馬と岡田以蔵・武市半平太の関係や綺伝の細川忠興と高山右近の関係です。

原作ゲームだと言わずもがな、水心子正秀と源清麿の関係で最近も大慶直胤実装で話題になりました。

……と、言うか、特命調査の復刻が開始してその次に「文久土佐」のタイミングで異去が実装、今回は「天保江戸」が復刻した次のシナリオイベントとしてこの「対百鬼夜行迎撃作戦」が開始されたという流れがそのまま重要なのだと考えられる。

「天保江戸」も水心子が「友」である清麿のために頑張る話で、本来この話の主役である始まりの五振り側の蜂須賀は二振りを見守る立場だった。

……うううん、後の特命調査考の項目で詳しくやりたいのですが、特命調査の最初の解釈を出そうと考察してる時もこれだったよね。どっかでこんなこと書いた記憶があるぞ。

最初のシナリオイベントである「聚楽第」では、監査官である長義くんがその名と顔を明かさないまま、始まりの五振りである本丸の国広側を見ていた。

「天保江戸」ではそれが逆になる。

主体的に行動するのは政府刀である先行調査員の水心子側で、蜂須賀がそれを見ている。

この辺り、当時特命調査をリアルタイムでやっていない私はWikiとかの文面からずっと考察をしていてなかなかイベントの主題にピンと来なかったんですが、復刻でイベントをきちんとプレイして見て初めてわかったというか。

ああ、そうか、この時は蜂須賀は水心子と清麿の二振りを「見て」いるんだな、と。見守っている。
そして水心子が自分の正しさに迷い始めた辺りで手を差し伸べる。

本丸側と政府刀側の立場の逆転だな、と。

今回も「天保江戸」で水心子と清麿の話をやり、更にそこに清麿とは別の側面から「正秀の友」を宣言する大慶直胤の実装を超えて連隊戦で丙子椒林剣を実装してからこのイベントで、政府の「最果ての張番」こと火車切が友である九鬼正宗を助けたいという話をやっている。

「天保江戸」と今回の「対百鬼夜行迎撃作戦」で一対のエピソードなのだと考えられます。

メタファーの同一性。存在の方は別。そして友を助けたいというテーマの一致。

「天保江戸」からすぐにこのイベント実装で九鬼正宗を実装したわけではなく間に夏の連隊戦で丙子椒林剣を挟んでいますが、この意味も刀剣男士の実装がテーマ的には二振りで一対だからではないかと考えます。

実装順の整理に関してはもっと本格的かつ丁寧にやらなければわからないと思うんですが、その刀剣の代表的な属性が前後で対になっている組み合わせがちょこちょこあるので多分二振りで一対。来歴に関しては完全に関係なく言葉遊び的にとうらぶの方で付与した性質でくくっていると思われます。

そんな感じで「天保江戸」の裏がこの「対百鬼夜行迎撃作戦」だと考えると、そもそもこの話が異去実装時から展開されていることも合わせて、第二節の主要キャラの一振りはとりあえず火車切になりますね。

ここの考察では第一節最大の転機は特命調査開始の「聚楽第」と見て山姥切長義・山姥切国広を中心に考えてきましたが、第二節の考察に入るなら最も重要な男士の一振りは火車切のようです。

「対百鬼夜行迎撃作戦」に焦点を合わせるならそれこそ「朧(三日月)」の存在も考えねばならないので、重要男士としてもう一振り「朧(三日月)」側の「友」を考慮する必要もあるかもしれない。その辺は今後に期待。

とりあえずここまでで重要そうなところをピックアップするとやはり火車切。

・新たな世界「異去」の「張番」という立場
・更に対百鬼夜行関連の回想で「最果ての張番」として「政府のクダ屋」こと狐ヶ崎と会話
・「目」や「地獄」と言った舞台などで登場した重要メタファー関連の発言
・回想143「竜の弟子」によると、大倶利伽羅の竜を引き出したい
・九鬼に「助けられたから」友だちになった
・「朧(三日月)」と対話
・「対百鬼夜行迎撃作戦」にて目一つの鬼(?)に攻撃を加えて無事に九鬼を助け出す
・号の「火車」は罪人の死体を運ぶ車や死体を盗む猫の妖怪などを示すと言われる

この辺りの要素ですかね。

どの要素を主軸で考えるかによって若干印象が変わりますが、「火車」が猫の化け物であるとよく言われますので広義の「猫斬り」に分類して、実装順が第一節の南泉を踏襲している立場なのではないかと思います。

そうなると今回は友を助けたい猫斬りの話であり、その行動の本質は兄に諭された「竜を引き出す」話でもあったのかなと。

狐は瓜二つのねこ(寝狐)、朧は月の龍。

第二節はこの火車切周りを中心にメタファーの近接要素を整理しつつ、2024年1月の異去実装から8月の対百鬼夜行迎撃作戦までスパンがちょっと空いたのと「朧(三日月)」関連の話がまだまだ続くよ☆ 感を丸出しにして終わったのでまだイベントの流れは終わっていないと見ながら考えたいと思います。

話が動くとしたら1月(10周年)とか2月(本来の鬼退治の季節)だろうから早く来てくれ。

8.鬼切は友切、その写しは小烏

派生などを見ると特に顕著ですが、舞台やミュージカル、花丸の物語は二話で一対の表裏を繋げた基本6章構成な気がします。

舞台とミュージカルは最初の方がそのようには見えませんが、花丸や無双なんかは割と明らかに6章構成が1スパンで、かつ花丸はそれを2回やってから特命調査突入です。

この前後一対の組み合わせはテーマ的に表裏の性質になっていて、特命調査の順番もこれで大体捉えるのだと思います。

上で「天保江戸」と「対百鬼夜行迎撃作戦」は「友を助ける」がテーマの話と整理しましたが、そうなると次はその反対のテーマがメインに据えられた話が来ると考えられます。

つまり「友を斬る」。

特命調査の復刻は残るところ二つ。「聚楽第」と「慶長熊本」。

「聚楽第」は最終ボスが「ゾーリンゲン友邦団」。
「慶長熊本」は最終ボスの細川ガラシャを守護しているものがキリシタン大名の高山右近で、細川忠興の友人。

どちらにも「友」要素、その「友」を斬って進む要素があります。

というか特命調査はその時々の状況でどの要素を強調するかコントロールしているだけで全ての話に同一メタファーを詰め込んだ構成ではないかと考えられます。

細川忠興と高山右近に関する「友」のメタファーの扱いに関してはそれこそ舞台の綺伝を見るのが一番早いと思います。

綺伝において高山右近は細川夫妻の幸せを願い、本能寺の変が二人を引き裂いたと歴史を嘆く存在であり、細川忠興が妻であるガラシャを殺そうとした際にガラシャを守るために自分にとっての友である細川忠興を殺してしまうという存在です。

高山右近一人でかなり複雑な属性を背負っているのでこれはやっぱ綺伝見るのが一番早いかと。

ただ、「友を斬る」ということが話の主軸だとすると次の復刻は名前に「友」が入っている「ゾーリンゲン友邦団」が最終ボスである「聚楽第」の方が可能性が高いかもしれない。

「慶長熊本」も地蔵くんがガラシャ様を助けようとする話なので誰かを助けたいという意図は強いですが、今回はやはりその誰かが「友」であることが重要かなと。

次が「聚楽第」だとしたらやはり名前要素が優先されていると見られますが、次が「慶長熊本」だとしたら何が優先されたのか確認する必要がありますね。

そんな「友を斬る」話ですが、これ「友切」だよな、と考えたところであれ? と。

「友切」、それはある刀の別名。

「鬼切安綱」と同一とも考えられている源氏の重宝、「髭切」の逸話と別名の一つ。

『剣巻』によると、対の存在である膝丸が源為義の婿になった熊野の別当・教真に贈られたので、その代わりに打たれた刀を切ったから「友切」と改名された。

……膝丸の代わりに打たれた刀こそ、髭切自身の「写し」である「小烏」。

おっとぉ?

つまり「友切」の物語とは、実質「写し斬り」の物語であり、その「写し」の名前が「小烏」なんだよなと。

今回の特効キャラに史実の範囲で語られる来歴には鬼に関する逸話がない小烏丸が含まれていたのってもしかしてそういう……(てっきり創作『紅葉狩』の方かと)。

この後触れますが、とうらぶにおける「写し」に関しては国広が言う「偽物」の台詞を通じてそのセリフが登場する「文久土佐」と婉曲に関わりがあって、その「文久土佐」の復刻頃に異去と火車切が実装されているので要素めっちゃ繋がっているんですよね。

そして刀剣男士がテーマ的に二振りで一対の実装順になっているとすると、火車切の前が後家兼光で回想140にて人に倣い人を習う、つまり模倣関連の話をしているのも見逃せない。

友を助けたいという話である「天保江戸」、「対百鬼夜行迎撃作戦」、その裏側に来る話が「友切」というテーマであるとしたら、自然と髭切の逸話から「写し斬り」要素が導き出される。それは同時に「小烏斬り」でもあるのだと。

次に復刻される特命調査が「聚楽第」と「慶長熊本」のどちらかでこの重みが変わる?

いや、どちらにしろ髭切の逸話はとうらぶを考える上では当然知っているべきレベルの話になるので、すでに付会範囲として当然組み込まれているのではないだろうか。

「目」に「朧」、「偽物」に「写し」という要素が近接するように、「友切」は「写し(小烏)斬り」として近接要素を主眼とするべきではないだろうか。

特命調査の考察をする上で、どっちにしろこの図式は覚えておいた方がいいかなと。

9.特命調査考―鬼と狐編―

「対百鬼夜行迎撃作戦」から得られた結論をもとにして、特命調査から改めて整理しなおします。

これまで特命調査5つと対大侵寇だけで考えていた敵の性質や報酬刀剣との相関性に今回の対百鬼夜行と異去関連の話を加えることである程度話のポイントと方向性が整理されてくるかと。

敵の正体に関して考える

特命調査というか普段からとうらぶ内の敵は刀剣男士と同じく刀なので、まず発生する疑問として敵と味方は同じものか? というものがあります。

刀剣の研究史から言うと確実に矛盾する話を同一刀剣が抱えている例があるので、刀剣男士の存在の根幹が刀剣そのものより「物語」に主眼が置かれていると考えた場合、本丸の刀剣男士と同じ刀の付喪神・刀剣男士でありながら最終的な定義が異なる存在扱いになる……というのがややこしいポイントです。

そういうややこしい諸々を含めてあらゆる観点から敵と味方は同じものか、という問いに一定の解を与えてくれるのが今回の「対百鬼夜行迎撃作戦」ではないかと。

「対百鬼夜行迎撃作戦」においては敵(鬼)と味方(報酬の九鬼正宗)は「鬼」というメタファーが同じ。

ただ対大侵寇の時の七星剣の時と違って、今回の鬼が即九鬼というわけではないようだな、と。

メタファーの共通性が物語的統合を果たせる関係だとしても、その時点で別存在として確立される。

ただし、物語的統合を果たせる以上、本質的には相手と自分は同じもの、そういう関係に見えます。

大筋はこれまでの特命調査考からの仮定と同じと思われます。

とりあえず一番の重要ポイントは、敵(討伐対象)と味方(報酬刀剣)の「メタファー(比喩)」は完全に同じだろうと言えるところだと思います。

メタファーは同じ、存在に関してはいくつか細かくパターンを分けられる可能性がある。
存在の性質を掴むためにもメタファーの共通性に着目すべき、という結論を得られたのが最大の収穫かなと。

敵の性質に関して考える

原作ゲームの考察に関しては原作ゲームの情報を一番上位に置きたいところですが、「対百鬼夜行迎撃作戦」に関しては舞台を見ているかどうかで圧倒的に考察が捗る重要情報に差がつくと思います。

綺伝の黒田孝高の台詞にあった、「朧なる山姥切国広」「山姥切国広の影」という言葉。

つまり「朧」=「影」

「影」と呼ばれるものに関しては原作ゲームでは天保江戸の敵と、兄の影を自称する治金丸、という二つが特に重要で、今年は富田江が実装されて江関連の回想で更に光と影の話題が強調されたことから、「影」という存在の性質に関する考察を進めてきました。

舞台からの情報によれば「朧」と「影」は同質なので、「朧」の考察にこれまでの「影」の考察に使っていた内容がまるまる転用できます。やったぜ☆

また、「対百鬼夜行迎撃作戦」において「朧(三日月)」の台詞により、「友」の概念を敵側にも本格的に転用して考える必要性が出てきました。

「友」というメタファーに関しては原作ゲームでは江戸三作あたりがぱっと思い浮かび、今回また火車切と九鬼正宗の友情が加わったところですが、一方で原作ゲームの特命調査「聚楽第」の最終ボスが「ゾーリンゲン友邦団」であることから、敵にも「友」のメタファーがあると言えます。

今回の「朧(三日月)」の立ち回り、「友」に呼ばれたという主旨の発言から考えると、敵側の「友」メタファーの動きが重要で、かつその性質はこれまでの治金丸の「影」関連と同じく、江戸三作や火車切・九鬼などの味方側の刀剣男士の性質と同じと考えて差し支えないと思います。

「友」の性質については

・江戸三作

源清麿は「水心子の友」
大慶直胤は「正秀の友」

二振りとも水心子正秀という刀剣男士の「友」を自認し、水心子側からも「友」として扱われているが、清麿と大慶自体のスタンスは「水心子としての理想」を支えるか、「素の正秀」の方を重要視するかで若干割れている。

・火車切と九鬼

最果ての張番の「……助けてもらっただけで友だちとか、変かもしれないけど」(異去 百鬼夜行 其の8『朧月』)の台詞からすると、もともと交友関係があった存在をそう呼ぶのではなく、「助けた」という行動の結果から相手を「友だち」として定義している。

これに加えて、ミュージカルの方では「友」のメタファーがかなりの重要ポイントとなっております。

・ミュージカル

本丸の三日月宗近が正史で死すべき人々を表向き死んだことにして生かす(≒諸説に逃がす)ような行動を取る時に「友」と自称している。

ちなみに「友」という漢字そのものが持つ性質に関しては、なりたちが重要だと思われます。

「友」 又二つから成り、手の下に別の手をそえて、助ける。

思いがけず「又」=「手」っぽい結論。

敵の性質をメタファーの観点から考える際、これまでは確定情報がほぼ「影」頼りで推測が大部分を占めていましたが、今回から「友」のメタファーの重要性が加わることになりました。

「影」と「友」、特命調査のメタファー配置について考える

特命調査で「影」と呼ばれる敵が出てくるのは「天保江戸」なので、初手のヒントはまず真ん中です。

一方、敵の名前が「友」である「ゾーリンゲン友邦団」が登場する「聚楽第」は一番最初。

この二つの間に「文久土佐」があり、舞台の方では坂本龍馬が岡田以蔵と武市半平太を助けたかったことが強調されています。坂本龍馬と岡田以蔵たちとの友人関係に関してはそもそも史実通り。

そして以前の特命調査考で特命調査のイベント名自体も言葉遊びの要領で分解したときの調査結果ですが、文久土佐の「佐」は「助ける」という意味を持ちます。

さらに特に山姥切問題の焦点である「偽物」という言葉ですが、この言葉は「文久土佐」でも使われていて、あの世界の坂本龍馬は「偽物」だと南海先生が言い切っています。

「偽物」という言葉は、言葉遊び的に部首分解すれば「人」の「為」の「物」である。

特命調査最初の順番からそれぞれの性質を「友」と「影」に着目して整理すると

1.聚楽第 敵は「ゾーリンゲン友邦団」、北条氏政を逃がしたと思われる
2.文久土佐 敵は坂本龍馬(銃所持から正体は陸奥守吉行と思われる)、岡田以蔵たちの友人
3.天保江戸 敵は水野忠邦だが、途中窪田清音たちの「影」と戦う 水心子は友の清麿を助けたい
4.慶長熊本 敵は細川ガラシャ、彼女を守る高山右近は細川忠興の友人
5.慶応甲府 ……「友」要素あったっけ?

慶応甲府は中心人物が沖田くんと近藤さんなのでこの二人の関係だと先生と弟子か兄と弟みたいなものなのでちょっと友のメタファーがどこにあるのかわからない。あるいは「友」から一番遠い特命調査かもしれない。もしかしたら何かの派生で友要素が示されるかもしれない。
聚楽第のゾーリンゲンが外国、「外」のメタファーだとすると反対側の慶応甲府はほぼ物語の外に近しい位置に「友」メタファーがあっておかしくないんだよな……。

一方、文久土佐と慶長熊本に関しては舞台の維伝と綺伝が「友」の位置をはっきり教えてくれるので、原作ゲームの「聚楽第」の「友」と「天保江戸」の「影」と合わせると程よく構造が埋まってきた気がしますね。

話が進むにつれて、「友」の立ち位置が変化している。

つまり、物語自体が回転している。……円環なのでは? これ。

物語進行について考える

一番最初のシナリオイベントである「聚楽第」は、敵の名からメタファーを整理すると「友」を斬る話と言える。

逆にあのイベントでついに出会えなかった「北条氏政」は何か? という問題に関しては、これまで整理した「友」メタファーの性質からするとまず「友に助けられたもの」と言える。

さてここからが今回のクライマックス。

友に助けられたものとは何か。

それは天保江戸における「源清麿」であり、「対百鬼夜行迎撃作戦」の火車切である。

清麿の特徴として、近藤勇の「長曽祢虎徹」と本来は同一の存在だという要素がある。
刀剣男士の同一、別物の判断はかなり微妙な問題になるが、「源清麿」と「長曽祢虎徹」に関しては回想75「名を分かつ」においてはっきりと、名前が別であるからこそ自分たちがここに揃っていられる主旨を話している。

そして清麿は最近大慶直胤の実装と同時に追加された回想155「江戸紫花合 朝顔」で、大慶への「嫉妬」を口にする男士であることが判明した。

火車切は「火車」という猫の妖怪を切るという名前からメタファー的には「猫(猫斬り)」で考えていいと思われる。
(今回実装された九鬼正宗との回想161「友だち、あらためて」においても九鬼が火車切を「やっぱり猫ちゃんじゃー」と評しているようなので、火車切のメタファーはまず「猫」でいいかと)

また、大倶利伽羅との回想143「竜の弟子」からすると、竜を引き出したいものでもある……。

「朧」の字は「月」に「龍(竜)」と書くのでこれは「竜」や「蛇」のメタファーと同一であると考えられる。

この考察の最初の方で整理した通り、「猫」はそのまま「名」であると考えられる。

それを考えると「名を分かつ」(分かたれた側)清麿と、猫(名)を斬る(分かつ側)火車切はほぼ同一の表裏のメタファーではないか。

また、異去の鬼が最初に呼んでいたのは他でもない「火車切」であり、「九鬼」が呑みこまれたのは火車切を助けようとしたからという事情がある。

「火車切」=「猫」=「名」で、一応「鬼」とも同一ではないか。
あるいは逆のものが段階を踏むと同一になる対の形式。

「友に助けられたもの」である火車切は今回のイベントにおいては主人公のような立ち位置とも見え、助けられた存在であると同時に「友を助けたい」存在であり、今回のイベントに限って言うならそれは成功したとも言える。

メタファー「鬼」に関しては、原作ゲームでも舞台でもミュージカルでも大体セットで出てくる言葉があって、それは「蛇」である。

「鬼と蛇」

原作ゲームだと小烏丸の修行手紙、大慶と地蔵の回想150「洞に地蔵」などの中で使われている。
舞台だと印象的なものは綺伝の細川夫妻。

細川夫妻の間で「鬼の妻には蛇のような女がお似合い」という会話があったのは史実らしいが、綺伝は特にそれを重視した演出となっている。

またミュージカルでも「花影ゆれる砥水」の劇中歌に使われているフレーズ、已己巳己の中に「巳(蛇)」があり、醜い心が「鬼」を生むなどの描写がある。

この辺の散らばったメタファーをある程度整理するとこうではないか?

「猫斬り(鬼・名斬り)」の「友」は「鬼(竜・蛇)」

猫斬りと鬼斬りが同一で、鬼とも同一になるのは一回転して立場が逆転してからではないか。

「聚楽第」では「友」と戦って北条氏政には逃げられ、
「文久土佐」では「偽物(人の為の物・鬼)」≒「影(朧)」である坂本龍馬と戦い、
「天保江戸」では「影(朧=月の竜)」と戦って同メタファーの「水」を切って「友」を救う
「慶長熊本」は「蛇(竜)」たるガラシャを救おうとする地蔵と夫・忠興という「鬼」の刀同士相対し、
「慶応甲府」では……正直よくわからないがまあとりあえず「なりかわり」と「まがいもの」を否定

それぞれのメタファーに相関性があり特命調査同士連動するものの、根幹は同一であるメタファー同士が別の属性に転じてまた衝突するという回転構造の話に見える。

物語進行について考える―敵視点―

全体的な話の進捗として、「聚楽第」を敵側から見ると「友」を助けるために「友」である自分は死ぬ話と言える。

「ゾーリンゲン友邦団」は、北条氏政を逃がすために、我々時の政府の戦力に殺される。

つまり「聚楽第」という話の本質は「友を救うため身代わりとなって死ぬ話」なのではないか。

そして「文久土佐」は「偽物(人の為の鬼)」である坂本龍馬の目的が、舞台の維伝のように岡田以蔵と武市半平太という「友」を救うことだと言うのなら、その目的は達成しきれていない。

「文久土佐」では、我々は幻影の土佐勤皇党を皆殺しにしてしまうからだ。

突き詰めれば「文久土佐」は「友を救おうとして救いきれず一緒に死んでしまう話」ではないか。

さらに文久土佐の敵は「幻影」、幻の「影」であることにも着目したい。
「朧」の話はやはり「文久土佐」なのだろう。

一方「天保江戸」になると雲行きが変わる。

「天保江戸」の敵は「友」というより「影」であり、むしろ「友」を救いたいのはこちら側である。

「天保江戸」に関しては全体的に自分と対極のものとの対峙というより、自分自身との対峙であり対極のものはむしろ救いたい対象なのではないか?

「聚楽第」と「天保江戸」は様々な要素的にちょうど立場が逆転しているように見えるので、むしろ「聚楽第」時点での我々の立場が「天保江戸」の敵の立場ではないかと考える。

となると、

「友を助けようとしたものに討たれる話」で、
「己の影(光・本体)に負ける・朧と立場が逆転する話」……なのでは?

「慶長熊本」は助けたい対象が「友」というか「蛇」。そしてガラシャ様の性質から行くと「蛇」は「花」が転じたものでもある。

そしてそのために何が起こるのかというと、同じ細川忠興の刀同士でありながら、ガラシャ様を斬る歌仙とガラシャ様を生かしたい地蔵くんが意見対立。

「慶長熊本」に関しては敵ではなく我々時の政府側が二分してしまっている。

となるとこれは敵視点からすると、

「二つに分かれた相手(細川忠興刀)のうち鬼(歌仙)が敵に回り地蔵は味方になる話」

……か? 地蔵くんがそのまま地蔵菩薩・神仏のメタファーの気がしないでもない。
そしてそもそもこの二振りはもともと細川忠興の刀なので、歌仙と地蔵の行動は忠興の二面性をそのまま反映している。

一人の人間の中の鬼と神。全てのものに二つの顔があり、時に敵となったり味方となったりする。

この段になると敵側も「友(高山右近)」が、本来は対である鬼(忠興・歌仙)と蛇(ガラシャ)の殺し合いを防ぐことができないという性質があるかもしれないことを考慮する。

ただし原作ゲームだとイベント開始時にすでに忠興は死んでいる形で綺伝は作中で忠興を右近が殺すのでおそらく状況が違う。

原作ゲーム寄りに考えると、「慶長熊本」は

「「鬼」は消え、「蛇(影・朧)」と「友」は、その代役の「鬼」に殺される話」

……か?

今の時点で開陳されているメタファーからだと「天保江戸」まではある程度形が見えて来たのに残り二つが不透明な辺り、一見ばらんばらんに情報出しているように見えて割と順番に開示する構成っぽいなと。

「慶応甲府」は「友」関連は正直謎ですが、「なりかわり」と「まがいもの」を否定するという性質から、相手がどれだけ分裂していようといまいと最終的に全部消すわ、という考えではないだろうか。

「慶応甲府」は「紛い物」、「糸」という「名」を分かった存在の集合体で、それが我々本丸側に全滅させられる、と。

「慶応甲府」がこうして分離体の集合的な捉え方だとすると、その次の対大侵寇が「混」という同一名の集合体そのものであるのも、敵の性質がぐるぐる回転・逆転していることを考えさせます。

報酬刀剣との関係について考える

イベント報酬、あるいは戦場ドロップのような特定の敵と戦って得られる刀剣男士。

シナリオイベントの敵と報酬がメタファー上同一であるということは、その存在は同一であるかどうか。

つまりは敵と報酬男士は同じかって話ですが、これに関してはゾーリンゲン友邦団=山姥切長義になる図式とは??? という感じで割と早い段階で否定されます。なんで氏政様どころかゾーリンゲンが長義くん持ってるねん、と。

ただ水心子と水野忠邦に「水」の字が共通するように、おそらく「メタファー」は共通だろうと。
このメタファーの共通は今回の「鬼」と「九鬼」の件でようやく確定まで持っていけそうかなと。

つまり……ゾーリンゲンは長義くんではないけれど、ゾーリンゲンも長義くんも「友」の可能性があるか?

これは今のところ完全に否定はできない。ただ全部の事例に当てはまるかと言われると不明部分があって断定はできない。

初期刀との関係について考える

特命調査の報酬刀剣・政府刀について考える場合は、そもそも特命調査の主役である始まりの五振り、初期刀5との関係から考えた方がいいのではないだろうか。

長義・国広が研究史上混在している関係で分析が難しいので、その次の文久土佐組から見たい。

陸奥守吉行という刀工の刀は、土佐ではこの刀を持つと人が斬りたくなると言われている(陸奥守吉行の研究史参照)。

ただ刀剣男士としてのむっちゃんはその面にほぼ触れず、極修行手紙の内容などからもただ龍馬のことだけを想っているように見える。

その代わり、特命調査で顕現する南海太郎朝尊と肥前忠広の二振りは他の要素より「人斬りの刀」という側面を強く押し出している。

これと長義・国広に関しても極国広が気にしなくなったという「名」の問題を長義が強く訴えている関係性を並べると、政府刀はおそらく始まりの五振り側が捨てた要素を引き継いでいるという相関性があるのではないか。

これまでの考察では、極修行の結果と特命調査に厳密な連続性、極修行があったから即放棄された世界ができたのか? という観点で思考していたが、どうやらメタファーの共通という相関性はあっても、事象同士が厳密に連動しているわけではないようなので、とりあえず「結果として」政府刀側は始まりの五振り側が捨てた要素を強調することに着目したほうがいいのではないか。

これまで刀同士の間にはっきりとした関係性を見出すのが難しく悩ましかったのは天保江戸。

蜂須賀と水心子・清麿の間に直接的な関係は何もない。

清麿は長曽祢さんとの間には直接的な関係があるが、蜂須賀との間にはない。そして水心子にいたってはどちらとも関係なければ水野忠邦ともない。なんだこれ状態。

今回、他の四振りと同じように政府刀側が持っているのは始まりの五振り側が修行で手放してきた要素であることを重視すると

1.聚楽第 名への拘り
2.文久土佐 人斬り刀
3.天保江戸 理想追及
4.慶長熊本 細川忠興の二面性
5.慶応甲府 作り話

話の方向性はある程度定まってきたのではないだろうか。

国広とむっちゃんは比較的わかりやすく、歌仙と加州もそれぞれの極修行手紙と刀の研究史を比べると修行でやってきたことが比較的はっきりとする。
歌仙は修行で忠興の風流人としての側面を重視してある意味ガラシャ様への狂愛に示されるような面を否定しているし、加州はとうらぶでは菊一文字に比べれば史実としての面を強調しているように見えるが、実際には加州清光が沖田総司佩刀というのも研究ミスの作り話だ。

蜂須賀は極修行でようやく角が取れたとか当たりがやわらかくなったとか言われるタイプだが、それもこの辺が理由ではないだろうか。

理想を追求する高い志、その裏側の嫉妬。
それらを捨てて自然体で自分の信じる道を進むという決意をした。

蜂須賀の極修行は相変わらずどこで何をやってきたかはわからないが、結果の方を水心子と清麿の属性から分析するとそういうことだったんだなとなる。水心子くんは望んで理想のために自分を作り上げる派で、それに合わせる清麿も多少その無理に目を瞑っている感じがある。
大慶が追加されて「水心子」ではなく「正秀」の側面を強調したことでそこが明らかになった。

と、言う訳で。

やはり特命調査は始まりの五振りの極修行と相関性がある、どこかで連動する要素ではないだろうか。

2018年は4月から始まりの5振りの極が順番に実装され、8月に山姥切国広の極が実装され、次の極が来る前に10月に特命調査が始まる。

この間の刀剣男士の実装順としては4月に南泉一文字実装、6月に千代金丸実装、10月に山姥切長義実装だという。

備考として、先輩審神者の証言と当時の予定表などからすると本来は「聚楽第」の開始は8月で、その次に秘宝の里で新刀剣男士が追加、その後に極となっている。

当時の開発状況で色々変更があったようで、本来予定していた2018年8月の出来事の順番は

特命調査開始(「聚楽第」で山姥切長義実装)→秘宝の里(豊前江実装)→山姥切国広極

のようだ。

私自身が2021年開始の後発プレイヤーなので自分がプレイする前のことも含めてとうらぶ原作ゲームの流れを調べてみたが、特命調査より前は先輩審神者の証言通りかなり混沌としている。
予定が実現しなくて本当に予定は未定状態だったり、先行実装というものがあったので幾振りかの実装時期を整理するのが難しかったり。

特命調査の開始以前も近接要素はあったようだが、今のように綺麗にこれの次はあれ、のような順番には作っていなかったようだ。

とはいえ現在は少なくとも我々に見える範囲では実装順・極順・イベント順ごとの流れが整理されているように思える。

本来の予定だと国広が極める前に長義とその次という順番から言って豊前が来る予定だったと。

豊前は原作ゲームだと富田江との回想148「光と闇のさきへと」によって「おばけ」のメタファーであることが判明したが、この辺の話はミュージカルで婉曲に先出しされている。

(「東京心覚」で「名もなき草」の話題をしている時に豊前が「おーい呼んだか」と反応したりする。ミュージカルではまず敵側を「名前のない刀」としているので婉曲に豊前が敵、化け物のメタファーであることを示す)

山姥切長義は言うまでもなく「化け物斬り」のメタファーでもあるので、豊前江が「化け物」のメタファーであるということは、この二振りが来歴に一切関わりのない状態で表裏のメタファーになっていることを示す。

そしてそこに近い出来事が山姥切国広の極であり、長義と国広は南泉との回想関連で「名(猫=呪い)」の問題を抱える。

原作ゲームにしても派生にしても、極が放棄された世界を作ったと言い切れるほど発生事情に関しては厳密に連動していないようだが、逆にそうではないにも関わらず相関性があることを示されている。

舞台だと維伝で吉田東洋が陸奥守吉行を折ったと言っているが、その話を聞かされているのも舞台の本丸の陸奥守吉行である。当然両者は同じ個体ではないが、陸奥守吉行同士の何らかの関係はあると暗に示されていると言っていい。

実装順に関しては混沌状態の時と整理された後でちょっと印象が変わるが、基本的にとうらぶの出来事に関してはこれまでの考察からすると「2つで1つ」の対になっている構造であり、その二つの物事は「表裏」の関係だと捉えていいように思われる。

国広極から他の極を挟まず次に起きた出来事が「聚楽第」開始・山姥切長義実装だということは、まさに両者の内容が対になっている、相関がある、ということだろうと考えられる。

特命調査の分離と統合

「対百鬼夜行迎撃作戦」においては、火車切は百鬼夜行の「中」から九鬼正宗を取り出した。

ここからすると、敵に一度取り込まれた要素を、敵を斬る事で取り戻すという行為が大事なのではないだろうか。

特命調査の相関は毎度の考察で何かあるあると言うてもいや具体的に何があるんだよ!? 状態だったのだが、その中身がこれなんじゃないか?

始まりの五振り側が手放していると思われる要素で、政府刀側が持っている要素がある。

しかし政府刀と始まりの五振り側の関係は長義のように国広と関係性がめちゃくちゃ強いものから、江戸三作のように蜂須賀とはただの他刃ですよね? レベルまで様々。

全ての特命調査が初期刀側の行動で政府刀が発生する内容だとはとても考えられない。

その間を埋める理屈が、全ての条件に優先されるのが「メタファーの共通性(名前)」であり、敵を斬って中にいる同メタファーを入手するという今回の「対百鬼夜行迎撃作戦」の構造ではないか。

「鬼」が最初に呼んでいたのは「狐(こんのすけ、管狐)」であり、「火車切(猫)」。
しかし実際に取り込んだのは同メタファーの「九鬼正宗(鬼)」。
そして「火車切(猫)」は目一つの「鬼」を斬って、「友」である「九鬼正宗(鬼)」を助け出す。

その裏側で「朧(影)」である三日月がやはり「友(鬼)」に呼ばれている。
ついでにラストの「異去 百鬼夜行 其の14『月よ』」の内容からすると「朧(三日月)」自身も「月」に関して何かやっている疑惑があるがこの詳細はわからない。

比較的わかりやすい火車切周辺だけ見ると、今回と対になっているだろう「対大侵寇防人作戦」の「混(七星剣)」がまさにこの状況ではないかと思われる。

「混(七星剣)」はその外見通り、「七星剣」という名を持つ複数の刀を繋いだ存在と考えられる。

一方で本丸に来た刀剣男士の七星剣は基本的に「聖徳太子佩剣の七星剣(四天王寺の七星剣)」、国宝にも指定されている特定の一振りだと考えていいだろう。最近丙子椒林剣が本丸に来たことでその辺りはほぼ確定だと考えられる。

我々が防人作戦で行ったことと、今回の火車切がやったのと近い状況ではないだろうかと考えられる。

一振りの「七星剣」を取り出すために、「混(七星剣)」という集合体を斬る。

ただ、防人作戦と迎撃作戦で最も大きく異なる点がある。

我々は報酬男士の入手という意味では確かに防人作戦で「七星剣」を取り出した。
しかしあの時の状況では、今回の最果ての張番の火車切のように中の一振りを救ったようには見えない。

我々はむしろ切り離せない「混」ごと殺して要素を散らし、新たに聖徳太子佩剣としての一振りの「七星剣」を再構成したように思える。

前回と今回の違いはここではないか。

防人作戦では、「敵(星)」を殺し切って、中の「星」を得ている。
迎撃作戦では、「敵(鬼)」の中から、「友(鬼)」を取り出している。

特命調査、そして「対大侵寇防人作戦」や「対百鬼夜行迎撃作戦」のような作戦系イベントの構造は、名前というメタファーを中核とした要素の敵側とこちら側の移動、物語が自陣営と敵陣営を行き来する中での分離と統合の繰り返しになっていると考えられる。

我々は敵を斬る事で何かの要素を得ていて、それが始まりの五振りというらしい初期刀5と政府刀との相関を生んでいるが、敵と味方が同じ時系列で直接的につながっているわけではなく、一度「斬る(殺す)」というプロセスを踏んでからの移動であるという前提がかなり重要になってくる。

第一節と第二節の物語の大筋との関連性

少し前に「対大侵寇防人作戦」で終わる第一節の物語のテーマと、そこから始まる今現在の第二節に関する物語のテーマを探るために話を整理した考察を出しました。

結論から端的に言うと、

第一節は「喪失」の物語。
第二節はその喪失を「取り戻す」ことを願い始める物語。

ぐらいの内容になった。

原作ゲームのみならず舞台やミュージカルの大筋の予測からしても、第一節の範囲では何かを取り戻せるわけではなくむしろ喪ったものは還らないことを受け止める話になるのではないだろうか。
その一方で、対大侵寇で三日月の分離を引き留め、報酬として七星剣を得たように、得るものは一応ある。

今回の考察の方向性に関してもこれまでの第一節の物語に関する考察を踏まえると一つの流れ、それも同じ構造が入れ子式になっていて繰り返す流れを踏襲していると考えられる。

今回の迎撃作戦における火車切の行動はわかりやすく、「友だちを助けたい」(友を取り戻したい)というものだった。

つまり第二節の物語は「取り戻したい」という方向性だという考察は割と当たっているような気がする。

そしてその上で先程の「防人作戦で我々は混(七星剣)を殺し切っているのではないか」という今回の推測を合わせると。

第一節はやはり、「喪失」の物語。敵を完全に殺し切っている。
第二節は、「友」を「取り戻したい(助けたい)」物語。

……ただし、今回の火車切は九鬼を助けることができたが、第二節の物語はまだ終わっていないので、第二節の「取り戻したい(助けたい)」が、本当に最後まで報われるかはまだ不明である。

「友」に呼ばれた「朧(三日月)」は「月」と共に行ってしまった。物語はまだ続いている。

特命調査の物語とは

迎撃作戦の火車切が持つ、「取り戻したい(助けたい)」要素にもっと注目しよう。

上で少しやったが、「助ける」という要素は「文久土佐」の「佐」の字にその要素がある。
補佐のような言葉が示す通り、「佐」は「助ける」という意味がある。

第二節は「友を助けたい」物語、
特命調査の二番目「文久土佐」の中に助けるという意味がある、
史実から坂本龍馬と岡田以蔵たちは友人関係であり、舞台の維伝だと龍馬は以蔵たちを助けようとしている

そして第一節は喪失の物語ではあるが、この性質もまた特命調査の一番目、「聚楽第」の性質と通じてはいないか。

「聚楽第」は北条氏政を逃がして我々に殺される「ゾーリンゲン友邦団」の物語。

主役は「友」というメタファーの方、北条氏政は逃げてしまう。
そして結局逃げたところでそれは生き延びたと言っていいのだろうか。諸説に逃げたところで、正史の敗者という事実は変わらない。

時の政府の尖兵として我々が乗り込んだ時点で、あの世界は終わり。物語としてはほぼ喪われる。それが喪失ではないか。
そして、それでも「友」は誰かを「生かしたい」、だから「身代わり」になるという物語ではないか。

……多分我々は、この物語を、ずっと前から知っている。

主へ

前の手紙のあと、長い年月、多くの人々の話を聞いて、わかったことがある。
俺が山姥を斬ったという伝説、本科が山姥を斬ったという伝説、
そのどちらも存在しているんだ。

極修行で国広は自身の逸話にまつわる真偽を知ったのに、自分が本物になり事実誤認を斬るという選択をしなかった。
ある意味では、真実から逃げ出して自分と本歌である長義の両方の逸話を存在させることを選んだ。
しかしその代わりに死んでしまったものがあるとも言える。
山姥切国広が「山姥を切った長義の写し」という物語を選ぶなら、「山姥を切った山姥切国広」の物語はどこへ行くのか。

自分にとって選びたい両方を存在させるために、ある意味では自分の半身を身代わりとして殺してしまう。

「聚楽第」のシナリオは、やはり山姥切国広の極修行という物語の裏側だと考える。

極国広の逸話に対する選択は「聚楽第」の物語そのものであり、ある意味「対大侵寇防人作戦」の本質でもあると考えられる。

我々は防人作戦で一度本丸から分離した三日月を取り戻せたと思っているが、「混」を完全に殺し切っているようにやはり回収しきれていない要素があるのではないか。

その内実が明らかになったのが、前回のイベントの裏側に当たる今回の迎撃作戦で登場した「朧(三日月)」の存在ではないだろうか。

第一節は「対大侵寇防人作戦」のEDによりその区切りを示された。

その直後のイベントとは他でもない「三日月宗近の極修行」である。

そして三日月の極修行から始まったと言える第二節のおそらく中盤展開に差し掛かってはいるだろう今回の迎撃作戦で、「朧(三日月)」が登場する。

三日月の極修行から始まった物語でその三日月の「朧」が生まれ、今後のシナリオイベントで何らかの形で再び相対すると考えられる。

……あれ? これ割と舞台の最近の国広の状況そのまんまだな。「朧」に関しては舞台は正直思った以上に原作の構造をそのまんま描いているようだ。

それはさておき、原作ゲームにおける特命調査の物語の話展開への考察に戻ろう。

第一節は「聚楽第」、敵としての「友」の存在を示し、最終的には喪失という結果を生む実をつけぬ徒花の物語。
第二節は「文久土佐」、第一節の裏側に当たり、味方としての「友」を助けたい「猫」であり「鬼」の物語。「人の為の鬼(偽物)」の物語。

私は舞台を見た時の初見感想、慈伝までの考察の時点でこの話は同じ流れが一つの物語の中にいくつも入って更にそれを九十九折(つづらおり)のように逆転しながら繰り返す入れ子式構造だなと感じたのですが、原作ゲームも完全に同じような気がしますね。

そしてその構造が展開する物語とは、第一節の根幹は「聚楽第」、第二節の根幹は「文久土佐」、第三節は……と続いていく、特命調査と極修行の連動と、それが各節のメインテーマであるという話ではないだろうか。

「聚楽第」の「友」は身代わりになって死に、「文久土佐」の「偽物」は自身もまた「友」と共に死ぬ。
「天保江戸」になると敵と味方の立場は逆転する。

特命調査の構造論

今回の迎撃作戦で得られた特命調査ととうらぶの大枠の物語そのものの構造に関する理解は大体今までの考察の基本ラインにも沿っていると思われます。

何度かこの考察に付き合ってくれている方はそろそろその話何度も聞いたなとお思いでしょう。

で、その基本ラインがそもそも何かっていうことを思い出すと、私の考察の場合は舞台なんですよ。

戯曲本で虚伝から悲伝まで読んで慈伝は戯曲本出てないから舞台の配信を直接見た時点で、この話こういう構造になっているな!? って考察を出したあの構造そのものだと思います。

あの時点で私が読み取れていない要素、言葉遊びを間違えている要素、無意識化の情報キャッチを上手く言語化できなかった失敗要素などに色々邪魔されて自分でもわかりにくい説明ばかりしているなと思いますが、

結論から言うと今回の迎撃作戦で見えてきたとうらぶ原作ゲーム全体の構造は、おそらく舞台の虚伝~慈伝までの時点の物語と同じ構造だと思います。

この思いますの部分を私自身が上手く言語化できないので今までもあーでこーでうーでぱーでしていましたが、端的にいうと私の目からはそこが同じに見えます。

入れ子式の踏襲構造かつ、それは対である同じものの逆転を繰り返していく螺旋構造。

ついでに真ん中を引っ張り出して端に置いて云々言っていた(ような気がする)のも今回防人作戦と対になる迎撃作戦が復刻特命の真ん中あたりに来ているのに対応する話です構図逆かもしれんが。

そしてこれに関しては舞台の末満氏はむしろかなり自覚的に描いているらしく、この構造に関して綺伝で敵である黒田孝高の台詞によってわかりやすく言語化されています。

「繰り返される円環 起点と終点を喪った時間軸のねじれは 表裏の判別を喪い螺旋となる やがて物語は歴史を侵食していくだろう 歴史は物語へ 物語は歴史へ
真(まこと)と偽りが 生と死が あらゆる陰陽を隔てる境界は消え去り 全ては反転する」
(綺伝)

俺の残念な説明とはわかりやすさも言葉選びの美しさも段違いの表現力!

だからおそらくとうらぶは遅くとも特命調査開始前の時点で全要素を出し切っている、その中に全て含まれているのではないかと思います。

ここが舞台を見ると圧倒的に考察が捗るが、おそらく本当の智者であれば舞台を見なくとも原作ゲームだけで全ての考察を完成できるはずという私の主張の一番の根拠です。

慈伝時点で私が言葉遊びだけで推測要素を一気に引いた雑な物語構造図面と原作ゲームで徐々に開陳されている要素がどんどん重なっている感じがするので、特命調査開始までの情報だけでおそらく最低限の考察が理論上完成できるはずです。

本当誰かもっと頭いい人この現象うまく説明してくれ……。

言語化のレベルはともかく私は私自身の中では読み取った情報は一致していると判断しています。
他者への説明はもっと頭いい人に任せよう。

逆に私自身が感じている読み取れなかった要素、刀剣男士の実装とか特命調査の復刻の順番とか予想を立てては毎度毎度赤っ恥レベルで外している主原因の方ですが、これは「物語の拡大」要素を読み切れていないことが主な理由だと思います。

とうらぶの繰り返し構造は一つのメタファーがもつ複数の要素を次のターンに別の面を展開する万華鏡みたいな構造の物語ですが、この万華鏡は回転する一つの筒の中にあると同時に次々に図面が拡大する性質も持っていて、物語は完全に同じ流れを踏襲するわけではなく、次の節では前の節で開示した要素が更に細分化という形で拡大されているようです。

やっとこの結論に辿り着いたぜ……。そこに辿り着くまでになんど予想を外したか。

もともと慈伝の時点で鶯丸が「どんどん大きくなる」とかなんとか言っていたし慈伝以前より以降の方が確実に長いので拡大傾向は予測の一つにはありましたが、本当に舞台含む派生と原作ゲームが完全に同じ構造だと自分が確信するのにはもうちょっと情報が必要で、他者に断定系で説明するには多分舞台とミュージカルが原作の「対大侵寇防人作戦」の部分まで進まないとダメですね。
派生含めた考察に決定的な一区切りがつくのは一番早くてもそこになりそうです。

今回「対百鬼夜行迎撃作戦」のおかげで少なくとも私個人の視点で、私が自分自身に説明する中ではそこまで一致すると断定できるようになりました。
単純に今まで「朧(影)」だけでメタファーの移動の軌跡を追っていたものが、その対極の「友」というメタファーが増えて二つになったことによります。

イメージ図としては……目に見えない気流を発生させる装置の上に風に運ばれる軽いピンポン玉を浮かべて気流の流れを可視化する装置とか実験って伝わります?

ピンポン玉の動きが一つだと何らかの軌跡を繰り返していることは読めても、その全体図はいまいちピンと来ない。しかし、そこに色違いのピンポン玉を加えて二つになると、一つのピンポン玉がある地点に在る時もう一つがその逆側に来ているという状況から不可視の気流の全体像が一気に掴みやすくなるという話です。

とうらぶの物語進行はメタファーというピンポン玉を増やすことで最終的にその移動・変化の軌跡がどういう図を描いているのかを見せる仕組みだと思います。

今後の構造・推測

拡大傾向について一応今の時点でも予想してみたい。考察の恥はかき捨て。

最初は拡大傾向を視野に入れずにストレートな前回の踏襲で考えていたので「半分」への認識がかなり曖昧でそろそろ半分では? そろそろ半分では? って毎回の考察で言っていましたが、今回火車切実装の異去の物語がここまでのスパンで提示されたこんのすけの鬼フラグのように一定の長さを持って展開されていることがわかったので、まずそこの認識を変えましょう。

第一節はおもに特命調査の開始を境に前半と後半に分かれますが、第二節はその真ん中もある程度の長さを持っている。

点から線になるというか、境目からそれ自体一つの物語になるというか。

イベントとしては今回が新イベント(強襲イベント)の「対百鬼夜行迎撃作戦」でしたが、「火車切」「狐」「鬼」「朧」の話に関しては異去実装から引き続いて展開していますので、この特命調査復刻の流れとそこに挟まる新展開全部をもって「真ん中」ではないかと思います。

推測の一つ目として、

特命調査が別順で復刻するまでの空白(本丸アップデートなどをやっていた時期)と、この特命調査別順復刻+異去の流れ、その流れ後の時期の三分割期間になるのが第二節、という予想。

推測二つ目として、

特命調査が別順復刻した後、また別の展開が始まるという予想。

今までは節の区切りを点で考えていたのでどちらかというと二つ目寄りの推測だったんですが、異去がはっきりと連続性のあるシナリオイベントで「朧(三日月)」の件が引き続いているので、復刻特命の間に異去の展開が挟まるこの流れ全体が一スパンなのでは? って気がしてきました。

二つ目の予想だと第二節の構造は

対大侵寇(一節ED&二節OP)、復刻特命5つ、新シナリオ、また特命調査絡み、第二節EDという第一節と同じくターニングポイントとなるシナリオを五つくらいに異去を加えて六つ、第一節後半の特命調査からの流れと同じく6章構成で考えていたんですが。

どうも規模が拡大するようなので特命調査の間に異去絡みが挟まることを前提の予想にした方がいいかも。

ついでに迎撃作戦によって異去の戦鬼がはっきりと次の敵ポジションで大暴れするだろうことも判明したので、第二節の〆はこのまま異去の戦鬼絡みで見ていいような気がします。特命調査2的な踏襲イベントは第三節待ちかも。

異去実装が特命調査の別順復刻の間に挟まっていることを考えて最近の展開を並べると

慶応甲府
異去実装・張番の火車切登場
文久土佐
天保江戸
対百鬼夜行迎撃作戦(対大侵寇防人作戦の対)・狐ヶ崎の名前開示・九鬼正宗実装

この後の予想が

復刻特命調査(聚楽第or慶長熊本)
復刻特命調査(聚楽第or慶長熊本)
新展開

ではなく、

復刻特命調査(聚楽第or慶長熊本)
異去関係
復刻特命調査(聚楽第or慶長熊本)
異去関係

などや

異去関係
復刻特命調査(聚楽第or慶長熊本)
復刻特命調査(聚楽第or慶長熊本)
異去関係

など、復刻特命調査の間に異去絡みの新展開が一つのシナリオカウントとして挟まる流れじゃないかと思われます。

シナリオイベントの流れとして、慶応甲府の前の対大侵寇防人作戦を入れてみると

対大侵寇防人作戦
慶応甲府

異去実装
文久土佐

天保江戸
対百鬼夜行迎撃作戦

ここまでで6章構成のようにも思えます。イベントの性質は表裏になっていて、次は対百鬼夜行迎撃作戦の裏側に当たる物語が来ると考えられます。

慶応甲府は第一節の時点で対大侵寇防人作戦の表裏。「まがいもの」から「糸を分かつ」分離の性質が強く、それは異なり去る「異去」の名にも通じる。
そして今回やったように火車切と「文久土佐」は「友を助ける」性質が共通し、それは天保江戸にももともと通じている。

さて次は、天保江戸と迎撃作戦の裏側は、どちらの特命調査か?

これが「聚楽第」だとすると「友を助ける」物語の裏側がそのまま「友を斬る」物語として主目的の逆転が非常にわかりやすい気がしますし、最果ての張番・火車切と対となる三日月の「友」って異去の奥で鬼の性質と関わるなら童子切じゃないの? という感じで「山姥切(鬼女切り)」の裏側の「鬼斬り(子殺し)」って感じで大変性質がわかりやすくなると思います。

「慶長熊本」だと「鬼」はむしろ本丸側。細川忠興の刀である歌仙。そしてその半身としてもう一振りの細川忠興の刀である地蔵は敵であるガラシャ様を守ろうとする方である。

んー、そうか。メタファーの同一性という意味では、古今さんの説明とか見るととうらぶは行平刀の説明に「蛇」要素を加えているので、「慶長熊本」は鬼と蛇の夫婦の話のうち、「蛇(ガラシャ様)」を斬って「蛇(行平刀)」を手に入れてる話かな……。

「慶長熊本」が次だと今回は「鬼」である敵が分離と討たれる側だったものが、次は自分たちが「鬼」となり地蔵くんの裏切りという形で分離し、最終的に「蛇」を得る形になるな……。

どちらにせよ何かは逆転する。主目的か。それとも己の立場か。

今回のイベント前のフラグから童子切を連想した人が多いように、最近の展開の近接要素からすれば童子切はもうすぐ実装されてもおかしくないし、何ならもうすぐ10周年の節目なのでそこで鍛刀になりそうだよねというメタ予想が一番説得力ある気がします。
あるいは1月と2月くらいの時期なら1月から鬼退治イベント始まるぜ! の可能性もあるし。

今回名前と全身図紹介のあった狐ヶ崎なんかもそろそろ実装の可能性考えないといかんし。

ある程度予想しながら推測の外れた部分と実際の流れを照合し、情報が全部出揃ったら第一節の構造と詳細比較してそれぞれ分析したいと思います。

メタファーの同一と相関

古今と地蔵、行平刀が蛇だと言うことを思い出してしまったので最後にもう一度特命調査絡みのメタファーについて再検討。

「友」はシナリオの中の機能からして「逃がす」「助ける」の意味があるようですが、一方で以前考察したように、北条氏政の「北」の字には「逃げる」という意味があります(敗北の北の部分)。

そうすると「聚楽第」の敵の関係は「ゾーリンゲン友邦団(逃がす・助けるもの)」と「北条氏政(逃げるもの)」の関係になります。さて、「友」を斬る主役たる山姥切国広の立場はどちらか……。

極修行手紙から考えると国広は「逃がすもの」で「逃げるもの」に値するのが長義ではないか? という気もするんですが。

ここに更に舞台の方の情報を加えると、天伝で真田幸村が豊臣秀頼を逃がすという内容のわらべ唄になぞらえていたので、「花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田がつれて」を参考にするなら「逃げるもの」は「花」のメタファーと同一、逃がすものは「鬼」のメタファーと同一と考えられます。

……うーん、やっぱり逃げる側が長義くんの同一メタファーか? 逃げるものというか逃がされるものか。

「北」は逃げるのメタファーかもしれませんが、派生の「花」は結局秀頼にしろガラシャ様にしろ逃がされることを決して自ら望んではいないのが重要かも。「鬼」側である「友」がただ「花」であり「蛇」を逃がしたいと思っているだけ。

「聚楽第」は北条氏政を直接斬ってはいないけれど、多分あの状況に持ち込んだ時点で勝利で、その最大のポイントが「ゾーリンゲン友邦団」という「友」を切ったことっぽいしな……。

「友切」の逸話は、髭切の逸話になぞらえるなら実質「写し(小烏)斬り」である。

「ゾーリンゲン友邦団」という一見何も関係なさそうな存在こそが実は実質的に山姥切国広自身のメタファーだったと?

「文久土佐」に関しては刀の名前から行くのがちょっと難しいですが。
ここは単純にあの龍馬、あの時期に銃を持ってるならむっちゃんじゃね? ってことで割と早々にここは敵は自分自身なんだろうって感じで。

一番謎の天保江戸は、水野忠邦と水心子のメタファー「水」繋がりはわかりやすい。蜂須賀はなんだこれ……。主役が一番の謎。

そこは保留して上で出した行平刀の「蛇」と細川忠興刀の「鬼」の関係になる「慶長熊本」。
前提として「鬼」と「蛇」が対であり、「蛇」を斬って「蛇」を得ている。

自分自身というより対の相手を斬って相手を得ているような。

「慶応甲府」もメタファーの判断が難しい。
加州が「川の下の子、河原の子」の名乗りを持っているので沖田、「水の中の田」と同一と言われればそうかも。

報酬の一文字則宗に関しては創作の沖田総司佩刀という属性は加州と同じで……

さらに今回九鬼正宗が実装されたことで「一」のメタファーの解釈が九鬼と毛利の回想160「三本の矢の刀たち」に見られる「百万一心」の解釈と同じく、「一」は「同じ」という意味なのかもしれません。

慶応甲府の性質自体は分離の側面が強いような気がするけど、報酬刀剣の意味は合一や同一などに使われる一の字、すなわち「同じ」という意味を持つ一文字則宗……。

長義と国広は号が同じだし、ぶんとさ組は全員人斬りの刀、鬼と蛇も根幹は同一っぽいし、全体的にチェックした結果、やっぱり始まりの五振り側と報酬刀剣と敵で全員メタファーが本質的に同一か? 話展開として回転(逆転)が入る場合はある。

となると蜂須賀で重要なのは「蜂」でも「虎徹」でもなく「須賀」かいっ。

須賀……川水・海水などによって生じた砂地。

あるいは鹿島町の地名関係の記事で前塚・芝原・水神の3つの字で「州浜」を構成し、この読みが転じて「須賀」になったと説明しているところもあるんですが。
……やっべあらためて「須賀」について調べたら意味・語源多すぎて逆にわかんなくなってきた。

とりあえず水絡みでとっとく?

気になるメタファーの世界

「ゾーリンゲン友邦団」とか本当何の関係が……と思っていたらメタファー「友」に着目するとこれがなんと「写し斬り」という国広自身の自分殺しの物語になってしまう。言葉遊びの恐ろしさよ……。

答に辿り着くのに随分かかりましたが、解釈としては何のことはない、むしろ斬った敵、斬るべき敵が自分自身であることが最初からそのままストレートに画面に表示されていたということになり、構造的にはむしろシンプルになりました。

「聚楽第」攻略の鍵は「北条氏政」ではなく、我々が倒した「ゾーリンゲン友邦団」。
優獲得の条件的にも、最初からそうだった。

この内容はおそらく、山姥切国広の極修行の内容そのもの……。

ついでにメタファーに関するところで今メモっておきたいものをあと何個か。

国広を通じて「聚楽第」、「文久土佐」の両方に存在する「偽物」のメタファー。

これは言葉遊び的には「人の為の物(鬼)」ではないかと慈伝見た辺りから言っていますが、今回九鬼正宗実装で回想158「正宗の役目」で石田くんが「人の為」という言葉を使っています。

回想其の158『正宗の役目』

石田「石田正宗 正宗は、人の為に……」

つまり「正宗」というメタファーもまた、「人の為のもの」。

更に以前どこでやったか忘れましたが大分昔の回想10にも「偽物」という言葉が使われていることをチェックしました。

其の10『藤四郎だらけなのは』

五虎退「幸運のお守りですね!」
厚藤四郎「おかげで偽物もいっーぱいだ」

「偽物(人の為のもの)」は「幸運のお守り」。

今年に関して言えば1月に異去が実装されたあと、3月に「桃のお守り」が景趣と共に実装されているので「山姥切国広(写し)」「文久土佐」「火車切」「正宗(九鬼正宗)」などなどこの辺の近接要素に「偽物」という「人の為」の「お守り」要素が並んでいると言えます。

「人の為」を口にした石田君は当然「石」のメタファーでしょうが、今回の考察の序盤でやった、花丸の明石回が狸(ねこ)の話なので、今回強化プログラムの報酬であった石田くんもこの辺の主要なメタファーの一つとしてもともと関わっていると思います。

最後に「対百鬼夜行迎撃作戦」絡みで一つ。

イベント終了と共に「根兵糖・紅葉」が配布されました。

今までさんざん存在を匂わせるかのような要素がありながら結局は登場しなかった紅葉要素……ここで!? ってずっこけました。

今まで原作ゲームにあると言っていいかどうか微妙だったけど、やっぱあるんじゃん紅葉要素――!!

10.もしも生まれて来なければ

今回のイベントは最果ての張番こと火車切くんがお友達の九鬼くんを助けたい、そして無事に助けられたということで大変心温まるイベントでしたね☆

ということでじゃあそんな心温まるイベントから得られた他の派生の地獄の予想の話するか!(どうして)

まず舞台。

これまでの予想で出した通り、研究史の正しさ的には慈伝の時点で舞台の長義くんってあれ死亡位置じゃないのか……? と思っているんですが、今回の迎撃作戦でその理由というかそこに至るまでの経緯がある程度形になってきたというか。

同一メタファーの統合は一度敵を介してその中に取り込まれるという形で行き来し、回収には相手を斬ることが必要。

迎撃作戦の構造になぞらえてわかりやすくするなら、火車切の立ち位置は国広で、「友」の九鬼正宗は「朧(国広)」で、長義くんが「百鬼夜行」ではないのか。

第一節の物語は敵「混」となった物語を完全撃破して散らした上で七星剣という「星」をゲットする。

第一節のメタファーを整理した結果、「月」と「星」の分離と統合の話ってのが前回の考察の結果なので、「月」にあたる「朧」は無事回収(国広に統合)なんでしょう、でもその結果って長義くんを斬らないと得られませんよね……?

国広の分身でいかにもいろいろ動いていそうな「朧(国広)」が公演順だと綺伝で早々に長義に撃破されて統合されているはずって理由がこれでは。

物語的なポイントは名を巡る長義と国広間の対決構造だけれど、その本質は国広側の物語の統合では。

我々が普段意識しないだけで、舞台本丸の三日月のように原作ゲームでも喪われている物語があるのでは? と考えていましたが、やはり原作ゲームの物語はそう(見えないだけで我々も喪っている要素がある)で、舞台は逆にこの喪われている要素を可視化する、つまり我々と立ち位置的に正反対の本丸なのでは?

歴史を守るために否定しなければならない創作。それが舞台の三日月や長義の立場。

特に長義くんに関しては徳美論文の一つも読めばわかりますが、その号と逸話は事実誤認なので、確かな内容の伝達に主眼を置くならば本来は否定し、消さなければならない。

でもそれができなかったのがそもそもの原作ゲームの国広で、同じようにできないだろうけれど強制的にその状況に持っていかれるのが舞台の国広では。

何故なら山姥切の号と逸話の関係というのは……本来その号の持ち主である国広の逸話を否定して長義こそが山姥切だと主張する人が増えれば増える程、事実誤認の拡大を防ぐために否定・訂正しなければならないものだから。

山姥切の研究史の理解というのはまぁ深く調べたほうがいいには決まっているんですが、一番重要なことは徳美論文が全て説明していると思います。誤解が広まってしまうから訂正する。それが全て。そこに何の残酷さもない。ただ認識にまつわる原理だけがある。

舞台の国広は原作と違って「偽物」と呼ばれることを許してしまっている。そこまで事実誤認が浸透してしまうなら、誤解の拡大を防ぐためにその逸話は……山姥切長義は消さねばならない。

……だと思うんですよね。

綺伝の長義VS「朧(国広)」で「朧(国広)」の退場思った以上に早くない? と思ったんですが、迎撃作戦見る限り、だからこそ、なのか。相手に取り込まれるからこそ斬られる必要性が出てくる。

立ち位置逆なら結果もなんとか逆になりませんかねえ、と思うんだけど話の進め方とかミュージカル側との足並みの揃え方とか諸々を加味するとやっぱ最初から無理じゃねーか? としか。

原作ゲームと派生で同じ構造として足並みを揃えていて、第一節は本質的に「聚楽第」の物語、「山姥切国広」の物語であり、助けたい相手を庇って死ぬ「友」の物語であり、例え北条氏政が逃げても物語自体は崩壊という結末に終わる物語。「星」である「混」を完全に殺して新たな「星」を手に入れる物語であるとして……。

逆に舞台で長義くんが生き残ったらオイラ手のひら返してスタオベするね……。むしろそっちを希望しているんだが。

舞台の本丸が原作と立ち位置が逆なのは、山姥切国広と七星剣の立場チェンジではないかと思う。
ここが逆になるから「対大侵寇防人作戦」と「聚楽第」が逆になるし、もともと物語の始まりと終わりは同一要素の話であって最初から互換可能なのではないか?

もう一つ鬱い話。花丸の話。

今回迎撃作戦で出てきた鬼、戦鬼が「刀剣男士など生まれなければ」と恨み言を発している。

これに近い発言は花丸の映画「雪の巻」、つまり長義くん登場回ではないかと思う。

「雪の巻」の出陣で戦う敵の目的が「田沼意次を生まれる前に殺すこと」。

生まれなければ。
生まれる前に殺す。

花丸は表層の物語に囚われずメタファーだけをがっつり見ていると、とんでもない自己全否定自殺志願本丸に見えるんだが、それがここにかかっているんではなかろうか。

舞台とは別の意味で花丸は原作ゲームと逆位置の本丸。というかもう派生みんなそうじゃないのか。何らかの観点から構造的に逆と言える配置でシナリオを構成しているのではないか。

舞台の山姥切には「怒り」の要素が、花丸の山姥切には「嫉妬」の要素があるが、これは原作ゲームだとつい最近はっきりと開示されたメタファーで、第二節の最近の流れは節の中盤の話で、更に第一節の中盤と要素が逆になっていると思われる。

更に長義くん関連の予測として、実装順の兼ね合いやキャラ造形が国広と対になっているという関係性から、長義くんの極もそろそろだと思われる。

舞台と花丸の内容は、ある意味では山姥切長義・極の内容に通じるものがあるのではないか? という推測。
そしてその肝は。

そもそも山姥切国広・極の内容が「聚楽第」の物語や実装順、極順、回想順、イベント順の中で連動したギミックの開示を伴っていて、その中核はおそらく「写しの俺が、本科の存在感を食ってしまったようなものだ。」という物語の食い合いという、とうらぶのストーリーの核心。

自分の名と逸話を否定する極国広の結論を考えると、本歌の物語を食ってしまったという事実に関して、修行先で国広が「自分さえ存在しなければ」と相当悩んだだろうことは想像に難くない。

極修行はもともとそういう自己否定の性質を持ち、それを刀剣男士が乗り越えてくる話ではないのか。

だから私は長義くんの極修行も国広との関係性においてなんらかの自己否定が入ると考えた。

それも国広が山姥切長義の逸話を消してしまうことがけっして国広自身のせいではないように、長義くんもおそらく別に自分のせいでもなんでもないようなことで自分を責めるだろうと。

研究史の整理からすると長義くんの結論は自分が国広の名を奪ってしまったようなものだというあたりかなと考えていましたが、そこを訂正するか、もしくは結果はそうだけれどそれを受け止めるまでの過程としてこれを想定する必要が出てきた。

自分は、生まれてこない方が良かったのではないか?

関東大震災にまつわる焼失の誤解によって、「山姥切国広が山姥を切った」逸話は喪われた。

ただし喪われた理由は本当に震災のせいだけだろうか。

刀剣本体が喪われたとしても、その逸話は探せるはずではないか。現に我々は薬研や実休のような焼失刀の逸話をいくつも知っているのに。

何故焼失の誤解があったとはいえ、山姥切国広の逸話はそうあっさりと喪われてしまったのか?

――「山姥切長義」が生まれたからではないか?

号の由来が不明な理由を本歌の本作長義以下58字略の方に求めて「山姥切長義」を生み出し、それで満足してしまって、「山姥切国広」固有の逸話が存在するかどうかの捜索をしなかった。

国広が写しではなく、号の由来を本歌と結びつけることがなければ、もう少しぐらいは『新刀名作集』あたりを読み返して「山姥切国広」そのものの逸話を探せたのではないか?

それは要するに「山姥切長義が生まれなければ」という仮定に繋がらないか。

……長義くんの極修行の中核はこれじゃないか。
本当は自分が生まれない方が、国広の逸話は喪われなかったのかもしれない。

でもその仮定は他でもない己自身の歴史を否定することだ。
だからこそ「山姥切長義」である己を肯定し、国広の逸話を奪ったことを肯定し、その代償として、名前を持たなかった「本作長義……」の方を殺してくる。

「山姥切長義」である本歌を維持しようとする山姥切国広の結論が、山姥を切った自分自身を葬りさることであるように。

三日月の極修行から始まる第二節。

異去の戦鬼の叫びは、名前を持たぬものとして葬り去られた自分自身の片割れの叫びではないか?
だから「鬼」は火車切を呼ぶ、「猫(名)」を求め、「友(鬼)」が身代わりになる。

「鬼」は、お前たちと自分たちは何も変わらないのにと恨み言を訴える。

あれですね、戦鬼の叫びが第一節内の話だとしたら「生まれなければ」の恨み言は長義・国広間のように自分ではない対象の話かとも思うんですけど、迎撃作戦の内容を整理した今回、その整理材料は石田や京極などの正宗、実休の道草など第二節になってから実装された刀剣男士の属性と連動しているので、第二節内の話は第一節と連動していることは前提としつつも、基本的に直近のメタファーから整理すべきかと。

「戦鬼」の叫びは、第二節のスパンで極めた・これから極める刀剣の内面ではないのか。

第二節最大の敵は「生まれて来なければ」「生まれる前に殺す」というタイプの自己否定ではないか。

断定ができるようになるには長義くんの極修行を待つ必要がありますが、そこで重要になってくるのが花丸で。

花丸の「山姥切長義」像は見事に原作ゲームと逆の描かれ方をしている。

そしておそらく最近原作ゲームで明らかになった要素からすると、実際に花丸のメタファーは原作ゲームで山姥切長義登場時と真逆の位置に存在するメタファーではないか?

その行き着くところとして、山姥切長義登場回で判明した敵の目的「生まれる前に殺す」は最重要なのではないか。

「生まれて来なければ」「生まれる前に殺す」

これこそ、原作ゲームの登場時点と逆位置に来るだろう山姥切長義・極の内容なのではないか?

花丸は一見めちゃくちゃなストーリーを描いているように見えて、実はメタファーの扱いは恐ろしいほどに他の派生、特に舞台と一致している。

花丸長義くんの行動こそ、今回の「戦鬼」の行動、その本質なのでは?

今回のイベントを終えて、そう思った次第であります……。

とうらぶくんの話のきつさは毎回こっちの予想など生ぬるいわと遥かに超えていくよね……。

11.今回のまとめ

第二節は「対大侵寇防人作戦」を終えて、三日月宗近の極修行から始まる。

ならば「朧(三日月)」を生み出した行動とはこれではないのか?

大侵寇其の124『月、新た』

三日月宗近「あの時、確かに折れてもよいと……そう思ったのだ。思ってしまったのだ」
三日月宗近「……いや、そう思わせてくれたのだな。などと言ったら、また怒らせてしまうか」

今回の迎撃作戦見る感じ、「朧(影)」のメタファー解釈に関しては舞台は思った以上にストレートに描かれているのではないかという気がしてきました。

えー、私は舞台の「単独行」まだ見ていないんですが、PVで修行中の国広と「朧(国広)」が顔を合わせていた関係とその様子から、別に国広は本丸を裏切っていないという前提で話を進めます。

「朧(国広)」はあくまで本体から抜け出した「三日月を取り戻したい」という願いの欠片で、それが生まれるのはむしろその願いに反する道を自分で選んでしまったからだろう、と。

だとしたら「朧(三日月)」の発生理由も似たようなもので、「対大侵寇防人作戦」の中の上の三日月の心情のせいではないかと。

あの時の三日月は確かに敵に向けて「名を与えよう」とは言っていたけれど、別にいちいち名をつけてはいないと思うんですよね。

防人作戦の解釈的には自分が死ぬことが相手に名を与えることと同義だと思われます。

誰かが名を持たぬものに意図的に命名した例というのは、それこそ舞台で足利義輝と「鵺(時鳥)」の例があります。

舞台の「鵺(時鳥)」に関しては足利義輝に意図を持って名付けられた瞬間明確にしゃっきりしているので、名付けの到達地点はそこではないかな、と。

「朧」は本体から要素を引き継いでいるものの、はっきりした命名はされていない欠片、だから安定しないのだと思われる。

一方で原作ゲームの「戦鬼」は明らかに仮名、舞台の「時鳥」は命名の違いが気になります。

そして第二節には、異去の「宝物」から自分たちの本丸の「城」まで、我々審神者が命名権を持っている要素があります。

名前を付けるのは、おそらく刀剣男士ではなく人、我々審神者。

……この図式からすると、「戦鬼」に名をつけるものこそ命名権の曖昧な「朧なる審神者」だろうか。

刀剣男士も本人の自覚ないところでいつの間にか分離するんだから、我々審神者もいつの間にか分離してもおかしくないよね……。

自分が切り捨てた自分の半身が恨み言を放ちながら、同じように切り捨てられた刀たちに「鬼」という名前をつけて回っている……?

なんかこう、三日月が本丸の三日月と「朧(三日月)」に分かれている上に「朧(三日月)」が「月」と一緒にいるのは明らかですが、それ以上に「鬼(友)」とその仮主というか「戦鬼」と名づけた審神者という存在の三陣営に分かれたような気がします。

舞台の方も多分、三日月の分身は「鵺」の他に无伝の「鬼」がいますから実質的に同じ存在が三体以上になることまでは確定でしょうしね。

第二節は傾向的に8面ポエムで検非違使側にも審神者がいることが示されたのと、異去の鬼も検非違使システムだったそうなので三陣営目こそ検非違使って感じがします。

気にかかるのは「戦鬼」側の審神者が「朧(審神者)」だと仮定すると、「朧(三日月)」と一緒にいる「月」はむしろ割としっかりした存在ではないかということ。

じゃあ刀剣男士側でしっかりと「月」のメタファーやっているはずの「三日月」と一緒にいる我々は一体何者……? なんで我々今頃になってようやく審神者証で存在を保証されているんです?

(※後の振り返りのために残しておきますが、この年、8月の軽装発表後の23日に「審神者の日」を作りましたよの報告がありました。何作ってんだ運営)

特命調査の考察で二つの対極属性のメタファーが螺旋状にぐるぐる円環している構造が見えることについて触れましたが、もしかして我々審神者と刀剣男士の組み合わせもそれぞれ性質が違うものの組み合わせで絶妙に噛み合わない対極属性の三以上の陣営がぐるぐる回転している構造なのでは……?

もしかして「月」に見られている今の我々はそもそも「朧」ですらない何者かなのか……?

審神者である我々と刀剣男士側で考えが一致している組み合わせだと思ってたけど、あれ? これ多分違う?

その辺の開示は第二節の今後のシナリオ、「朧(三日月)」の今後の物語に期待しましょうか。

今回の考察をやっていて思いましたが、やはり最優先要素は「メタファー」なんだなと。

とうらぶの物語は来歴を含む刀の研究史やその所有者の物語、伝統芸能など明らかに日本を意識させる要素で形作られているように一見思える。

しかし、おそらくその視点で考察を進めても決定的な解答は出ない。

一見重大そうな歴史的要素はどちらかというと名前を中心に引いてきた付会で、本質はむしろ名前である「メタファー(比喩)」そのものだと言うのが私の結論です。

知識があれば何も知らないよりは解釈が早く進むと思われる。

けれど本質が「名前」そのものである以上、メタファーの役割は本来『漢字源』の一冊でも手元に置いて、原作ゲーム中で刀剣男士たちがどんな会話をしているかから同じ役割を持つメタファーを整理・分析する方が確実だと考えられます。

このことは言語化するのはなかなか難しいですが、多分派生作品を見ると直感的に理解している人が多いと思うんですよね。
派生からある程度その辺を読み取っている人が多いからこそみんな言葉遊びというメタファーの解読にこそ本気になる。
歴史そのものが話の核心ならもっと歴史を真面目に調べようよ! 調べればわかる! の主張が通るはず。だがそんなことはない。うまく言語化できなくとも、おそらくそこは直感的に理解している人が多いと思われる。

とうらぶの骨格となる構造にもととなる伝承や伝説そのもの、あるいは作者の思想らしきものがあれば、どの派生作品ももっと明確にその痕跡があると思います。

しかしとうらぶにはそれがない。ただ原理だけがあり、それはメタファーの羅列から出来上がっている。

この作品は、「メタファー(比喩)」こそが本質。

付会される知識は興味深いものが多いですが、それに惑わされると本質を見失うでしょうね。

迎撃作戦は「鬼」に関する話だったのでリアルタイムでちょこちょこっと情報を集めていたところ、やはり私のように「鬼」に関して調べた人は「目一つの鬼」を見て『出雲国風土記』に出てくる「阿用郷の鬼」や鍛冶の神「天津麻羅」と同じ神であるとされる「天目一箇神」を思い浮かべたようです。

やはり根底に同じ知識があると同じものが連想されるというのをある意味リアルタイムで確認しました。

ただやはり、ここで阿用郷の鬼などを調べても迎撃作戦の本質の考察は進まないと思います。

それぐらいなら、火車切や九鬼の台詞、狐ヶ崎や三日月の台詞と関連しそうなゲーム内の情報自体をもっと読み返すべきかなって。

知識を調べてわかるのが、この知識多分この解釈に必要ねーな! になるのがとうらぶくんの腹の立つところです(笑)。

それでは、今回の考察はこの辺りにしておきます。お読みいただきありがとうございました。

並行して別の考察していたらそっちも進んだ上に合流しちゃったので今度はそっちの記事を書こうと思うので……。