彼の唯一にして最大の欠点
これまでの全ての考察のある意味結集的結論。
以前の考察読んでないとたびたびわからない話題が出てきます。
むしろ今回は読んでてもここからここに話とんだな!? になる話運びだと思われます。
個人的にはなるほど、そういうことか、と納得がいきましたが。
山姥切長義の唯一にして最大の欠点、全ての根幹にして物語の終着、それは、
愛していることを、「認められない」ことではないか?
――国広をちゃんと「写し」として「愛している」ことを、自分自身が「認めない」ことではないのか?
テーマ的にはいわゆる自利と利他の話っていうよくあるお題の一つだけれど、普通の作品と着目点を逆にしたのがとうらぶだと思います。
1.メタファーの話
花丸考察の方からひょっとして
「俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?」
(回想56、57)
これも離れ灯篭の歌詞と同じくメタファーの連続で生成されている表現じゃないのか?
という結論に至りました。
ここまでの考察で「刀剣乱舞」の根本的な構造の理解として、おそらくメタファーの連続という論理構造にそれぞれのテーマ(煩悩)の皮を被せて作り上げている仏教的真理を主軸とした作品だろうという感じなんですが。
特に花丸がその性質が顕著で、表象のストーリーにほぼ意味があるとは思えない描き方をしているのが最大の特徴。
花丸の物語は、描き方から言って、あれもこれも意味がない。
じゃあ大事なのは……と整理していくとむしろメタファーしか残らない。だから神髄はむしろそちらである。
しかし花丸がメタファーの連続でできていると言うことは、花丸単独のコンセプトであると考えるよりは、おそらく原作ゲームからその構造であると考えたほうが自然である。
そうなってくるとむしろ原作ゲームのメタファーを徹底的に洗い出さねばならないなというのが前回の結論で、そこから特に長義くん関連に踏み込んでいくのが今回の話です。
もともと派生作品同士、花丸と舞台はメタファーが共通していた。
そしてそのメタファーが原作ゲームから重要であることもほぼ疑いはない。
ならばここで視点を一度逆転させるべきだろう。
全てがメタファーでできている。とうらぶの原作ゲームから派生までみんなそう。
だとしたら我々がすでになんとなく理解したと思っている情報も、一度徹底的に情報を洗い出すところから始めねばならない。
と、いうわけで何度目だ回想56、57考察。
大前提のひっくり返し、長義くんの言い分、「俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?」というセリフの意味を再度考えることにします。
2.そもそも「顔」と「名」はセットである
まず日本語の表現の問題として、普通は「顔を売る」か「名を売る」のどちらかである。
そもそもの話として「他者の名で顔を売る」という状況は普通成立しない。
普通の人間が「顔(名)」を売る理由は自分のことを相手に覚えてもらうのが目的なのだから、「顔」と「名」がずれていては意味がない。
メタファーとしての「顔」や「名」について考える時はこれまで派生などの数々で描かれてきた場面がいろいろと連想されるが、今はいったんメタファーの意味を厳密に突き止める作業は置いておき、それによって成立している文章の表面上の読解に注力する。
長義くんの言い分が成立するのは刀剣男士特有の概念が先行するからであり、「俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っている」とは、国広が「山姥切」として認識されることで、長義の存在を消して国広が「山姥切」に成り代わるつもりかという意味だと考えられる。
ただし、回想の全文からするとこの言い分はどうやらそれほど切羽詰まった話でもなさそうである。
上の構文はわりと遠回しな嫌味の表現であり、逆説的に言えば所詮はその程度で済ませられる事態でしかない。
二次創作などでは国広のせいで長義が消えそうとかそういう話を好む人もいるようだが、原作ゲームにしてもどの派生作品にしても、そもそもそんな切羽詰まった事態は発生していないし、そんな切羽詰まった自体で遠回しな嫌味なんて悠長なことをやっている暇はない。事態の解決を迫るならもっと直接的な言葉選びになるだろう。
長義くんの台詞は所詮はただの嫌味である。国広に対する挑発である。
逆に言えばその程度で済ませられる事態である。
しかし、それでも嫌味を一言言っておかねばならない心理があり、そういった形で国広に働きかけなければならない必要性自体はあるのだと考えられる。
山姥切国広自身は当然長義の立ち位置を乗っ取ろうだとか成り代わろうだとかは考えていないが、とうらぶの別の場面ではそういう現象の発生が示唆されている。
特命調査・慶応甲府の敵の属性である「なりかわり」「まがいもの」などがそれである。
対大侵寇の敵・「混」などの存在から考えても、とうらぶでは人間も刀も状況次第で容易に「混在」「混淆」してしまう。
これらは原作ゲームから派生作品まであちこちで描写されている。
複数の「七星剣」をつないだと見られる原作ゲーム対大侵寇防人作戦の敵・「混」。
舞台で「鵺みたい」と評された「放棄された世界」の住人たち。
実際にこうして個々の肉体という絶対的な境界を無視して存在が混ざり合う現象が起きてしまう以上、その発生阻止に努めたいのは当然の心理であり、その点から長義くんの言い分は極当然のものだと考えられる。
3.「混」の拒絶
存在が混ざり合わないように境界を保つ。
その境界とは何か。それこそが「体」であり、それこそが「名」ではないか。
長曽祢虎徹と源清麿の回想其の75『名を分かつ』などを見ても、刀剣男士は名前が別だからこそ別々の存在として顕現できるという性質がある。
源清麿「そうすることで、君と僕は別の刀剣男士でいられるんだ」
(回想其の75『名を分かつ』)
ここから考えて、「名」こそが個を分かつ最大の境界だと言える。
名前の問題を曖昧にするということは、個々の存在の境界を曖昧にするということになる。
本来別々の存在であるものが統合されてしまう。
長義側がそれを拒否したいという感性と姿勢はいたって普通のものだと考えられる。
そして重要なのは、その「混」の拒絶により個の境界である「名」の問題をはっきりさせたいという姿勢は、国広のためであることにも通じるところだと思われる。
舞台に関しては、わりとはっきりと長義はむしろ国広を認めたいからこそ、国広自身の手で己の実力を証明しろと働きかけているシナリオである。
慈伝の表現は要するに原作ゲームの
特命調査 聚楽第 其の17『監査官と写し 聚楽第内部』
監査官「……実力を示せ」
国広「……なに?」
監査官「がっかりさせるな」
これと性質的にほぼ同じやりとりだと考えられる。
原作ゲームのこれは期待しているからこそがっかりさせるなというセリフが出てくる。
ただし、無条件に認めてくれるわけではなく、あくまでも国広自身が己で己を証明する力を見せなければいけない。そういうやりとりである。
花丸はどうかというと、正直映画本編だけだと長義の内面が描かれていないのでかなり判断が難しい。
せいぜい実力を認めていることがわかるくらいか。
ただし「妬ましい」「羨ましい」のやりとりは明らかに原作ゲームに存在しない、類似要素すらないと判断してもいいくらいの相違なので、その部分は花丸考察の別の部分に委ねる。
花丸に関しては長義の内面が補完されているコミカライズの方を読むと大体意味が通ると言うか、結局長義は国広が自分自身を誇らないこと、己を卑下して俯いていることが気に入らないという描写が入る。今回はこちらをおもに参照したい。
舞台と花丸コミカライズの描写を端的にまとめると要はどちらも国広に対し、国広自身を誇れ、というようなことが言いたいようである。
そしてこの解釈は、長義の意図が最初から「混」を拒絶し、お互いの「個」を確立させ境界を保つことにあるならば何も不思議ではない。
己の存在を確立することと国広の存在を確立することは同義。
呼称の問題で国広に喧嘩を吹っ掛ける(己の存在を確立するため)。
国広に自分自身の実力を示させ、自信をもたせる(国広の存在を確立するため)。
両者が自然に並立するので、長義の意図としてはまず「混」の拒絶が主眼となって、「名」は目的そのものではなくそのための手段、だからこそ何より名が大事だと考えたほうが自然な解釈になると考えられる。
長義の行動は表面的には国広に喧嘩を売っているもの、しかし行動の結果から判断すれば原作ゲームの回想57の国広はまた話をしようと積極的に誘い掛けるほどその状況に肯定的であり、慈伝でも長義が国広に手合せを持ちかけて刃をぶつけあったことが切っ掛けで、悲伝から停滞を続けていた国広が修行に行く決意が固まるなど、常に良い影響を及ぼしているように見える。
花丸はちょっと保留したいが、少なくとも国広の行動は全体的に長義を受け入れ庇っていく方向であることは重視する。
そこに矛盾があり、その矛盾がある故に我々は彼らを真の意味では理解できず、だからこそ、そこが理解できれば「刀剣乱舞」がそもそも何を描こうとしているのかの核心に通じると思われる。
と、いうわけでこの長義の言動、言葉と行動の一見乖離した矛盾について考えたい。
4.矛盾の存在と解消への筋道の試行錯誤
長義の台詞には原作ゲームの監査官としてのものから派生の数々まで、むしろ国広に国広自身の実力を証明させたいとみられるものがいくつもあって、行動の解釈としてはどうみても国広の実力を認め、大切に思っているとしか考えられない。
ここまでは割と多くの人の共通見解だと思うが、それ故にそこからが我々の頭を悩ませ続けた問題ではないだろうか。
言動ははっきりいって敵対的である。挑発している。嫌味である。
しかしその行動の意図を辿っていけば確実に国広を大切に思っている。
つまり、矛盾している。
言葉を信じれば行動が、行動を信じれば言葉が成り立たない。
我々がとうらぶという作品、その中の山姥切長義というキャラクターを解釈する際の壁の一つであり、まずはこの問題を処理しなければならない。
方法はいくつか考えられる。
1.言葉を重視した解釈(敵対的言動を取るのだから国広を憎んでいる)
2.行動を重視した解釈(国広の状況がよくなるよう働きかけるのだから国広を愛している)
3.矛盾が生じているのは暫定的な事態であり、いずれ破綻によって悲劇的に解消されると見る
4.矛盾を理解しつつその矛盾を成立させる
1と2はおもに二次創作などで様々な人々が試みた解釈ではないだろうか。3はどちらかというと予想的な意味で立てる人が多い。
二次創作はある意味では一つの思考実験である。その実験結果は大勢の作者によりすでに無数に積み重なっている。
言葉を重視して国広を憎んだり恨んだりしている長義を描く。行動の結果は思考に含まない。
(長義の行動が国広に益をもたらしている部分は無視される)
行動を重視して両者を仲良くさせる。その一方でどちらかの名の問題を裏切る。
(国広に偽物を呼びを受け入れさせたり、長義の偽物呼びをただの悪口だから改めたことにさせたり)
国広が自分が山姥を斬った逸話を知らず、後で意見を変えたことを絶対の真理と見て、長義が極修行に出れば長義はその事実を受け入れられないと悲観的な予想をする。
(国広は正しく心も強く、長義は間違っていて心も弱いという見解。正直この予想見てるとキレそう)
他にも細かいパターンは色々あるだろうが大体こんなところではないだろうか。
そして原作ゲームだけだとこれらのうちどれとも判別が難しいことは確かだが、派生作品まで含めると1と2は明確にハズレ、3もおそらく違い、結局のところ最初から描かれている矛盾を矛盾としてそれはそれで存在していると受け入れる4の解釈しか存在しないようである。
派生作品における上記解釈1~3の否定は、最初の問題提起である呼称に関して長義と国広がどちらも登場し、邂逅する派生のうち二作品、舞台と花丸が両者ともこの問題に共通する描写をしたことから証明される。
「じゃあなんと呼べばいい?」
(花丸「雪の巻」)
原作だけだと長義は一方的に「偽物くん」呼びをしているように見えるが、派生ではそれに対して嫌なら自分の希望を述べろと言う促しが入る。
花丸は直接的に台詞で確認しているが、舞台では間接的に同田貫に確認し、のちにそのためにわざわざ一試合設けてまで呼称の問題を描いている。
そしてその結果、舞台と花丸、どちらの作品でも国広が「答えない」ところに特徴がある。
なんと呼べばいいか聞かれているのだから、国広は普通に己の希望を口にすればいいだけではないか?
しかしそうはせず、最終的に「好きに呼べ」と言ってしまう。そこは明らかに不自然である。
実際それぞれの作者の思考実験の産物とも言える二次創作などではその呼称について簡単に決着させている話も多い。
問題の根幹が本当に「偽物」という呼称の方にあるのなら、それを訂正する機会は最大限に活かすべきだろう。
それを、当事者である国広自身がやらない。
しかも一つの派生だけではなく、二つともなればこれはもはや適当でも偶然でもないだろう。
それが公式回答ということになる。
矛盾の原因を呼称の方に求めてしまうと、派生作品という公式の存在により否定される。
問題の根幹が「偽物」くんの呼称にあると言うのなら、舞台でも花丸でもその解消に積極的なのはむしろ長義の方であり、国広の方が否定的である。
そのことによって明らかになるのは、本当の問題は「偽物くん」という呼び方にあるわけではない、ということだろう。
それが問題ならそれを解決すればいいのである。
その解決をどの派生でも描かなかった時点で、本当の意味で重要なのはそれではないと言える。
矛盾の原因は、「偽物くん」の呼称ではない。
ところで長義の「長義」呼び、国広の「山姥切」呼びはどうかという話だが、派生の描写からするとこれも違う気がする。
舞台の方が多分わかりやすいが、長義が国広の「山姥切」呼びにキレているシーンはむしろ国広が情けない姿を晒している(落ち込んでいたり自暴自棄になっている)場面であり、国広が「山姥切」と呼ばれるのを長義がなんでもかんでも否定するような描写はない。
原作だけだと確かにわかりにくい部分ではあるが、原作ゲームでの長義実装から比較的早い段階で公開された慈伝の舞台の最後で長義は国広を「山姥切国広」と呼んでいるシーンがあるので、国広を絶対に「偽物くん」としか呼ばないわけでもないようである。
花丸辺りなども判別は確かにかなり難しいが、どうも総合的には長義が国広の「山姥切」呼びに対して怒りを見せる場面は、おもに国広が情けない姿を晒しているのにその国広が「山姥切」と呼ばれることによって、名の問題が曖昧になっていく場面……つまり、「混」の問題の延長線上の描写だと考えられる。
そもそも、まず根本的な問題として、本当に「名」そのものが大事なら手合せや実力自体を論じることも無意味ではないか?
「名」とは別に力で得るような概念ではない。
力を示すことで得られると言うのなら、それはどちらかというなら「○○チャンピオン」的な「称号」の概念に近い。
「名」の問題に関して「力」の必要性を自ら持ち込んでいる時点で、長義自身がまず「名」をそういう性質のものとして扱っていると言える。生得的な要素ではなくあくまで後天的に獲得した称号である。
「称号」は負けて奪われれば当然悔しいが、それが己の実力なら当然受け入れるべき結果という以外にはない。
大事なのはどちらかというと、「名」が「称号」として機能する背景の方だと考えられる。
この辺りで一度まとめると、要は山姥切問題をそれぞれの「呼称」の問題に持っていくことは色々な点から見て無理な解釈だろうという話である。
長義から国広への「偽物くん」呼びに関して派生がその解消の機会を明確に描いたにも関わらず国広自身がそれを無視したこと。
そもそも派生の一つである舞台で普通に長義自身も国広を「山姥切国広」と呼んでいること。
名の問題が二振りの関係に密接に絡んでいることは事実だが、話の核心は名そのものではないと考えられる。
5.刀剣研究の観点から号について考えると
いつか書こうと思っていたんですが……。
ぶっちゃけ刀剣研究的には、そもそも号の話そんな重要じゃないと思われる。
根本をぶち壊しているようにも見えるが真面目な話。
これまでざっくり調べている間にも号、逸話の問題は結構曖昧だなと思いながら調べていましたが、無事に110振り全員調べ終えて確信できました。
長義・国広の号の問題レベルに話細かくすると、どの刀の話も消え去る焼け野原だわ。
大侵寇よりよっぽど本丸壊滅するわこれ。
このサイトの研究史調査のページを造りながら話の出典を追っていくと、結局わりといろんな刀がこの部分の史料はないだとか出典は不明だとか研究者の先生が何を根拠に言ってるのかわからないとかそういう否定的な文言が並びまくることになりました。
ありゃ……? これは資料がないこれは史実ではないこれは創作と考えられるこれはこれは……ってやってるうちになんかいつの間にか全部の物語を否定する焼け野原になってる……?
うちは名刀の幻想ぶっ壊し辞典だったのか……? って感じになってる。
マジで。いや本当マジで。
名刀と呼ばれるもののうち昔(数百年前)からその号がついていてずっとそれで呼ばれていてさらに現存までしている刀となると全体の中ではごく少数でしょうね。
『享保名物帳』が1700年当時から価値と号の両方がはっきりしていた刀で、続いて御家名物系。
昔から号がついていてそう呼ばれていたことが確実な刀として仮に『享保名物帳』に記載がある享保名物を中心に考えるとこれが270振りくらいで、現在存在する日本刀は250万くらいらしいから。
単純計算で大体1万分の1、つまり0.0001%しか存在しませんよ、昔から特定の号で呼ばれている刀って。
そもそも焼失名物もあるわけですから名刀として価値が確立していても残っているとは限らない。
そして享保名物の価値は認められていますが、じゃあ『享保名物帳』が全ての基準かというと、そういうわけでもなくて。
『享保名物帳』というのは本阿弥家が見たことのある刀の情報しかないので、ここにもれている名刀は山ほどある、というのが業界の認識だそうです。これは刀剣一般の概説書で名物帳の項目がある本ではよく書かれていますね。
実際、国宝や重要文化財のうち、号のない刀はたくさんあります。
刀剣男士にしても号のように呼ばれている刀の資料を見ていくとその呼び方をされるようになったの昭和だよね? という刀がいくつもあるので、「昭和の研究者がそう言っている」はむしろ刀剣の物語に関してはメインぐらいというか。
徳美論文は論文としてはもちろん素晴らしいものです。
ただあのレベルの研究を「刀剣乱舞」の世界に持ち込むと、本丸壊滅(確定)します。
刀の号と逸話の話はどれも曖昧です。国広が極修行で言っていたことは別に間違っていません。
研究者の証言でもきちんと資料を示していないなら却下、というレベルに合わせると、今実装されている男士の大半の物語が間違いだらけです。
刀の物語はむしろ大半が幻想でできているな、という印象です。
ここまでくると一周回って、もう幻想でいいじゃん、が結論になります。
史実とは考えられない伝説を、だから無価値ですと全否定して回るより、むしろ刀の物語はこんなに輝かしい「幻想」でできてますよ、と「幻想」であることを知った上で愛すればいいんじゃないかなと。
伝説と史実がごっちゃになっていてそこを全然気にしないというのはまた問題かもしれませんが、刀剣の来歴、号、逸話という物語が何もかも曖昧なのを理解した上で、そこにその物語が在ったことを愛するのは別に構わないと思うんですよね。
と、いうことで、刀剣研究の鑑定から言うと、逆に長義・国広の物語が「号」という名の問題であるという前提はむしろ「否定」されると思います。
号や逸話来歴その他が曖昧なのはこの二振りだけではないので、長義と国広の問題の根幹が本当に名の問題であるなら、むしろ本丸の大半の刀剣男士が他人事ではなくむしろ我が事として名に対する見解を表明して議論しないのは不自然になります。
そして名の認識が根拠と共に明確でないと刀剣男士にはなれないと言うなら、そもそも新選組の刀とか坂本龍馬の刀とか号のない刀が最初から顕現していることに対してもっと突っ込むべきでしょ、と。
こうした知識面から考えると、山姥切の本歌と写しの問題が号に関するものだという見解はほぼ捨てていいと思います。
長義・国広に関しては確かに山姥切の号の混乱が特徴的ですが、やはり他の刀も本歌・写しの問題でこそないもののこの刀の号とされているものは本来他の刀のもので……みたいな話はたまにありますから。
刀剣関係を調べて知識が増えれば増えるほど、長義と国広の関係の根幹を号の問題を主軸として考えるのは無理があると思うようになりました。
名前を廻る要件はどちらかというととうらぶのメタファーの連続構造の方が担うテーマであって、今、「山姥切長義」と呼ばれることもある本作長義以下58字略と山姥切国広の、刀剣そのものの歴史に他の刀と比べて何か見劣りがする点があるとか、この二振りを不幸と見なす出来事があるとか、そういうわけではありません。
物語がどこを重視して構成されているかを考えるには、やはり背景となる歴史を知った上で、それを物語と正確に比較することが重要だと思われます。
6.山姥切国広の側から考える
長義くんのキャラ造形は国広と対になっている、国広と対照的であることが強調されていますので、これまでも国広側の分析からその対極として長義くんの側の情報を読み取ろうとしてきましたが、その総括を試みます。
今までいろんな考察で死ぬほどやってきたけど、基本的に行動を見るかぎり国広は最初から、自分の全てをかけて長義を庇っているように見える。
・原作ゲームの極修行
山姥切の号は本当は自分が山姥を斬ったことで本歌に山姥切の号がついたという話を聞いて動揺。
しかし長義の逸話を否定するでもなく、自分が本物だと主張するでもなく、最終的には両方に逸話があるという結論を主への手紙に書き綴る。
・舞台
「だがあいつは俺を偽物と呼んだ」と、偽物呼びに対しショックを受けた様子を見せるものの、いざ一対一になった際には「俺なんかが相手で悪かったな」と自分の方を卑下してしまう。
呼称の件に関しては手合せで勝ったあと、最終的に「だから。俺のことは好きに呼べばいい。例え偽物と呼ばれようと、俺は俺だ」と、長義に譲歩する形になる。
・花丸
時系列的には江戸への出陣場面が先。自分の指示を聞かない長義に独断専行で好き勝手されるが、その後、新手の登場で長義に危機が迫った際には真っ先に飛び出す。
冒頭の畑当番の描写は時系列的には後。畑当番をサボる長義を迎えに来る。「人の身に慣れていなくて苦手なのはわかるが~~」と自分なりに長義の様子にも一応寄り添おうとしている。
……原作から派生まで、このようにある程度方向性が共通するならその骨子が中核でいいんじゃないだろうか。
つまり国広は基本長義には無自覚ながら好意的。
偽物呼びに動揺はするが、だからと言って怒りのままにその言動に反発して罵るようなことはないし、自分から長義を傷つけようとする行動は絶対にとらない。
むしろ、極修行で事実誤認が発覚した長義側の逸話を否定せずその保持を望んだり、呼称問題で最終的に「好きに呼べ」と言ってしまうあたり、長義の在り方を積極的に守っているとすら見える。
一方で、花丸辺りでは正面切って「(偽物呼びが嫌なら)じゃあなんと呼べばいい?」と長義に聞かれても自分の希望を答えないという、不自然な行動も挟まれる。
その件に関しては他の記事でさんざん突っ込んだので今回は割愛するとして。
はっきりしているのは、国広側が自発的に長義を傷つけることはなく、偽物呼びを嫌がる割には名前の件に関して最終的に「好きに呼べ」と譲ってしまうことの方が多いという状況である。
後者の呼称問題に関しては原作ゲームでは描かれたことはないが、派生二作品、舞台と花丸では少なくとも一致している。
長義から国広への「偽物くん」呼びに関しては長義がその呼び方を貫くと言うよりも、国広が自分の希望を述べないまま譲ってしまうという状況が二作品で描かれている。
理由に関しては各作品ごとで多少異なるが、傾向は大体一致していて、原作極修行(回想57)も舞台もその論旨は「名前より大切なものがある」という主張に帰結する。
大まかな山姥切国広像はこんなところで、また、それぞれの言動や離れ灯篭の歌詞などからすると、長義と国広は明確に「対」を意識したキャラ造形になっている。
正反対の一対ということは、お互いの思考の不明点は、相手の言動の逆から考えればいいと言うことになる。
実装時期の関係から極修行の情報が含まれる国広の方が当然描写は多いが、主義主張をはっきり言語化する性格でもない国広の内面はよくよく考えるとそれほど明快に描写されている方ではないと思われる。
一方で、長義と国広に関しては長義実装時からゲーム内よりリアルの一部の悪質プレイヤーの行動に批判が高まったためか、そこばかりに注目されて実際の原作ゲームや派生作品の長義・国広の言動の解釈が蔑ろにされがちな面もある。
また、その問題は、例え偏見がなくともどちらに感情移入して解釈するかにもかなり左右される面がある。
長義の主張は基本的に明快だと思われている。
それはこれを大事にしろという対象が「名」という形あるものなので、聞いているこちらがどういう行動をとればいいかある程度はっきりしている、という情報自体の性質によるものではないだろうか。
逆に国広は何を大事にするかという対象に関してあまりはっきりしたことを言わない。
特に回想57では長義の主張する名の価値をいったん否定した上で、対象を明確にせずに「もっと大切なことがある」とだけ主張するので国広が何を重視しているのか非常にわかりにくい。
山姥切国広の思考に関しては極修行手紙や極刀帳説明などからすると大事なものは堀川国広第一の傑作であることと主の刀であることぐらいだと一度結論しているが、その時同時に「考えるのはもうやめた」と修行帰還台詞で宣言しているにも関わらず回想57の長義との会話では「まだ考えている」に変化している。
この変化からすると、修行手紙と回想57時の国広の思考に関しては、連続よりむしろ断続から転換が入っていると考えたほうがいいと思われる。
その変化の理由として考えられるのは
1.主相手の結論とはまた別に長義との関係に答を出さねばならない
2.長義との関係の方が重要度が高いため主相手への宣言はこの時点で撤回されている
のどちらかであり、どちらにしろ修行周りの「大事なこと」(主関係)と回想57の「(名より)もっと大切なこと」(長義関係)はいったん別のものだと判断したほうがよいと思われる。
少なくとも主の刀になったので本歌のこと、名のことは大切ではないという解釈にはならない。
どちらかと言えば、国広自身も名前をつけられない大切なものを探すと言う行動に関して、最初は主の存在を頼りにすればいいと思ったがそうではなかった、長義に会ってそれに気づいたのでまたそれについて考え始めた、という流れである。
長義と国広双方の言い分は、一見長義の方がはっきりと相手にどうしてほしいのか伝えていて話に筋が通っているように見える。おそらく理屈で考える人の方がそういう結論になりがちだろうと思われる。
しかし、完全に両者を平等に扱うのであれば、対象を明確にしない国広の言葉も、長義の言葉と同じだけ重視しなければならない。
派生の一つ、花丸では長義がはっきりと国広に「妬ましい」と告げる。
しかし一方で、国広もまた長義に「羨ましい」と告げる。
「妬み」と「羨望」は軽く調べた感じ、結局同種の煩悩であってそれほど違いはない。
そしてこの会話を重んじるならば、長義が国広に対してどのような評価をしていようと、結局国広はその状況に満足していない、救われていないということが本当の問題ではないだろうか。
長義より早く本丸にいて、長義より早くレベルを上げて、長義より早く本丸内での立場や物語を確立して。
――そこに価値があるのなら、何故、国広は「まだ」救われていないのか?
長義の言うとおりに「名」に価値があって、先に本丸に居たから国広の方が「山姥切」と認識されていることに価値があると言うのなら、その時点で国広はすでに救われていなければならないのだ。
本丸の物語に本当にそれだけの価値があると言うならば、国広は長義に何と呼ばれようと最初から動揺しない存在でなければおかしい。けれど結局舞台でも花丸でも、長義が来れば必ず国広は動揺するし影響される。
本丸の物語が、本当の意味で国広を支えることはない、と結論するのが妥当だと思われる。
本丸での立場というものは前に進む原動力の一端ではあるが、欲している答そのものにはなりえない、というのが重要だろう。
舞台にいたっては慈伝のシナリオから言って極修行という前へ進む原動力の最後の一押しすら担っているのが長義という構造である。
この国広と長義の思想の違いなのだが、それこそ最近「異去」の「名前のないモノ」たちが「戦鬼」の呼び名を与えられていたりと、「名前のない」存在がクローズアップされてきたことで明らかになった感がある。
原作だとこれまであまり強調されてこなかった「名前のない」側の要素だが、派生だと舞台で「鵺と呼ばれる」と便宜上表記されている集合体が、足利義輝から「時鳥」の名をもらった途端に成長するなど「名」の存在が明確な変化をもたらす例が散見される。
つまり長義と国広の主張の違いというのはそれぞれ「名前のあるもの」と「名前のないもの」の意見の衝突を描いていると考えられる。
「刀剣乱舞」の物語そのもののシナリオの中で、長義と国広自身も一つのテーマを示すメタファーという存在なのだろう。
派生をざっくり見渡した感じ、結局は本丸側の刀剣男士も敵の遡行軍や検非違使も、本質的に同じ行動をとっている姿を描いているようである。
歴史の改変は何故起きるのかの理由の開陳として、「名前のあるもの」と「名前のないもの」の衝突が挙げられる。
「名前のないもの」が何故「時間遡行軍」になるのかの根拠が、国広が極修行で長義の逸話の保持を選ぶことで、案外どちらも山姥を斬っていないのかもと、自分の逸話を半分否定してきたという行動なのではないか。
歴史の改変は、名を捨て、逸話を捨てる行為の延長戦にあることが示唆されていると考えられる。
名前がないから歴史を改変するのではなく、歴史の改変願望を抱いたときに刀は己の名を捨てることになる。
ただこの構図も特に派生作品の一つ、舞台の方を見ると、刀剣男士自身が直接歴史の改変に動こうとするよりも、三日月の「鵺」や国広の「朧」のように、己の感情が分離して独り歩きの末に敵対、という側面が強いように思われる。
7.自利と利他
以前の考察で「影」という言葉が使われている場面からこのメタファーの要素を整理したが、刀剣男士側としては「影」は本体の「疲労」に関連して登場し、望んで本体の負担を背負っては本体を守るためにその敵に牙を剥くような性質であることがわかった。
その性質から、「影」の存在は「慈悲」に結びつき、行動としては相手を守り、守りきれなければ一緒に死にたいと考えているという結論が導き出された。
ここから延々国広の性質を分析していた過去の考察の結果から、とりあえず離れ灯篭の歌詞的に長義に対して「影」として動く国広の行動は明確に長義を守る方向で働くという結論になった。
国広側の考察に関しては、このように行動からの分析とメタファーからの分析はとりあえず一致した。
そして、国広が長義を守る方向で行動するのと同様に、長義の方も基本は国広の益となる行動を取っていると考えられる。
花丸映画本編で心情の描写がカットされたように長義の行動の意味はなかなか掴みがたいが、メタファーの「光」の方で捉えるならばそれはやはり国広の物語を照らし、浮かび上がらせる、はっきりさせるという結果に通じ、「混」を拒絶し「個」を確立することが主眼だという今回の分析に一致すると考えられる。
しかしその、国広側である「影」の本体に対する想いに一石を投じているのが派生の一つ、舞台のシナリオである。
綺伝で地蔵行平は細川ガラシャを守ろうとし、それが叶わなかった際に自分のことも斬れと歌仙に言った。
歌仙はその頼みを受け入れなかったが、この時にガラシャ様が地蔵くんを突き放した理由が重要ではないか。
「あなたが囚われているのは私ではなく 己自身の物語なのです」
地蔵くんはガラシャ様を守っているように見えて、結局は自分の物語に囚われているだけだと。
この内容は原作ゲームの極修行の時点で、長義の逸話を否定せず、けれど同時に自分が山姥を斬った逸話を受け入れなかった国広にも通じる指摘ではないだろうか。
相手を守ると言う行動は一見利他に見えるが、本当にそうなのだろうか。
利他と見えるものも本当は自利……自分のための行動なのではないか。
これに関しては正直よくあるテーマというか同じニトロだとまどまぎの京子とさやかじゃね? とか言ってしまうが、まあ正直よくあるテーマです。うん。
誰かのために誰かのためにと、身を削って必死に行動している。
けれどそれは自分の本当の望みから目を逸らしているだけで、誰かのためだと言ってもそれは結局自分のためだったということを思い知らされる。
「利他」ではなく、「自利」であったのだと。
国広が原作ゲームの極修行から長義の逸話を否定できずに自分の逸話をある意味否定してしまったのは、結局は国広自身に自信がないからと言えるのではないか。
そして同時に、長義の名が否定されるなら共に否定される、「山姥切長義の写しだから山姥切国広」という、自分自身の物語への未練、言い換えれば愛情があるからではないのか。
この結論はそもそもゲーム開始早々に山姥切国広のキャラクター設定として出された説明に帰ってくる。
山姥切国広は、自分自身がオリジナルではないことにコンプレックスを抱いている。
コンプレックスのあるキャラとして設定されたキャラの成長ラインは、普通に考えればそのコンプレックスの克服だろう。
つまりコンプレックスから目を逸らさずに乗り越える。山姥切国広に関して言えば自分が写しであることに自信を持つことではないのか。
山姥切国広の「自利」とは決して悪いことではなく、「写し」であるということ、それゆえに作られた事実誤認の逸話、そういった自分自身を、自分で愛してもいいと気づくことではないだろうか。
しかしそれに気づく切っ掛けとして想定されるものは結局「利他の否定」であるので、国広は長義との関係でそれを自覚することになると考えられる。
8.彼は「愛」を認めない
国広の物語が自分自身の「利他」は「自利」であることに気づくことだと言うのはこれまでも何度か表現を変えてこういうキャラだよねという考察を結論として出してきたのでそれはいい。
問題は、長義はその「逆」という対の性質ではないだろうか。
つまり「利他」を否定されて「自利」を自覚する国広の逆。
「自利」を否定されて「利他」を認めることが必要なわけですね。
……うん?
いやちょっと待って。
そもそも「自利」を否定されて「利他」を認めるって……どういう状況だ???
国広の方の課題はわかりやすいんだよ。
他人のためだと思ってやっていたことが実は自分のためだったと気づく。
人間は結局自分がかわいいと言うよくある話で(この場合刀剣男士だけど)、他人のために良いことをしていると思ったけど本当は自分のためだったと。
気付いて己の煩悩を理解した瞬間に乗り越えられる例もあるけれど、国広見てると理解からそれを認めるまでにもうワンステップあるような気がする。
以前、仏教系の考察でキサーゴータミーの説話を紹介しながら説明したやつです。
死んだわが子を生き返らせるために死者を出したことのない家から芥子の実をもらうために探し歩く。
遺体を抱えながら来る日も来る日も家々を尋ねまわった結果、ある日気づく。
家族が死んで悲しいのは自分だけじゃない。みんな同じなんだ。
私が自分を不幸だと思っているのは、私自身の煩悩だ。
しかしそれに気づけたのは、キサーゴータミーが本気で我が子を生き返らせるために芥子の実を探す努力と愛があったからではないかと。
「利他」と思っていたものが「自利」だと気づくには、その「利他」を突き詰めなければならない。
本当にそのために努力したものでなければ、「利他」は「自利」だと、その「愛」が「苦」だと気づくこともできないと……。
国広の物語は多分そういうものだろう、最初に利他だと思っていたもの、本歌である長義への想いや献身が、長義を守ろうとする行動を限界まで貫いてかつそれが報われずに破綻したその時に、ようやく自分は長義のためではなく自分自身のためにそれを行っていたのだと気づく。
こっちはシチュエーションとしてよくあるけどその逆……?
つまり長義くんの課題、長義くんの欠点、長義くんが乗り越えなければいけない自分の物語とは、自分のためだと思ってやってることが実は他者のためだったということに気づくこと、認めること。
長義くんが逸話の混在を防ぐために、自分の名前だけでなく国広の名前も確立させようとしている、お前はもっと自分に誇りを持てと思ってるのはそうだろうから、確かに長義くんの自利(自分のため)は利他(国広のため)なんだけど、それを「認める」とは……?
これを成立させるには……そもそも長義くんは自分の行動が「国広のため」であることを「認めない」ということになるから……。
あ。
もしかして。
もしかして長義くんの欠点、国広が自分の逸話を認められないように、長義くんが認められない自分の要素とは。
「愛している」ことを、「認められない」ことではないか?
――国広をちゃんと「写し」として「愛している」ことを、自分自身が「認めない」ことではないのか?
……そういうことかよ!! ああああああ~~(床ゴロゴロ)
国広が自分の事実誤認の逸話を認められないのと同じくらい認められないもの、長義くんにとって、それは写しである国広の存在そのもの、認めるも実力を示せも名前の問題も何も、そんなもの関係なく、本当は
最初から愛している。
だけど、それを認められない。――認めたくない。
己の心に嘘をつく。
ちょっとこれ理由の方がよくわかんなくていったん保留にするけど態度の解釈として一貫性があって一番しっくりくる結論だと思う。
長義くんに関しては原作ゲームへの実装が2018年で2024年2月現在の今日までまだ極が来てないから情報としては少ない方。
ただし2023年にいくつか動きがあって、10月の孫六兼元実装時に孫六兼元と一文字則宗の回想138で「持てる者こそ与えなくては」の意味に言及され、12月には後家兼光と山姥切長義の回想141が実装された。
この回想138と回想141から得られる情報が結構大きい。
長義くんは多分、「愛を否定」する。
この場合の「否定」とは、愛がないのではなく、自分に愛があることを「認めない」という方向なんだろう。
だからこそ回想138で御前が「枝葉への慮り」と評したものを否定する兼元と方向性が近い。
兼元の場合はそれでも謙遜の意味合いが強くて「慮り」という美しい表現を避けた感じだけど、長義くんはむしろこれ、「愛」に対して否定的なのではないかと考えさせるのが後家兼光との回想141。
「そうか、上杉……いや、直江兼続の刀か。それはまた難儀だな」
(回想其の141『無頼の桜梅』)
回想141の解釈は以前出しましたけど、名刀の持ち主なんてエキセントリックパレード状態の戦国武将揃いの中で特に直江兼続だけが否定される謂れはそもそもないだろうから、これはどちらかというと直江からごっちんが諸に影響を受けている性質の何かを指していると考えられる。
その何かは、おそらく「愛」。
刀帳説明で「愛」を強調する後家兼光は、元主を肯定する要素が強すぎる。
姫鶴にも刀身御供という概念について忠告をうけているくらいだから、実際直江の刀には何か難儀な面があるのだろう。
愛を強調し、自分より上杉の刀にいっぱい食べさせてね! という後家兼光の態度は確かに愛するもののためにあっさりと自分を投げ出してしまいそうな危うさがある。
そこに「難儀」という言葉を思わず使ってしまった長義くんは、むしろ「愛」に対してかなり否定的な見解の持ち主だと考えられる……。
山姥切長義は行動だけ見ればむしろ他者に与え、尽くし、良い方向に導いてあげるのが好きな性格と言える。
だから見ている側としては長義くんは愛と言うものに肯定的なのだと思っていた。
行動に愛がある時点で愛は彼の本質であり、彼自身もそこに自覚があって能動的なのだろうと。
私個人の偏った見解というわけでもなさそうなことに、二次創作とかだとわりと愛と言うものに肯定的な山姥切長義像はよく見かけると思う。
しかし、実際に原作ゲームから派生作品まで長義くんの言動を探した時、愛について肯定的な言動をしている場面は多分、一切ないと思われる(ミュージカルと実写映画まだ見てないけど)。
長義くんが誰かに親切にするときに使うフレーズこそまさに「持てる者こそ与えなくては」。
御前はこれを「枝葉への慮り」と翻訳したけれど、長義くんはそういう愛とか慮りとか、御前の使うような対象への直接的な好意や愛情を示す表現を使いたくないからこその「持てる者こそ」という言い分なのでは?
相手を愛しているから与えるのではない。持っているから与えてやるんだと。
上から目線の「高慢」。その真意は、「自分の愛を認めない」という方向性だったのでは?
他者に親切にするという行為にもいくつかの方向性がある。
好意から親切にする。
下心から親切にする。
義務感から親切にする。
同じ親切でも動機が違う。そして行動の動機は本人の言動から判定される。
その時、本当は好意からの親切であっても、義務感だよと包み隠してしまう態度こそが山姥切長義の「高慢」という性質なのではないか?
そしてこの態度が最も発揮される相手こそ……彼自身の写しである山姥切国広なのではないか?
実力を示せという言い分は期待があるから、写しの実力を認めているから。
けれど逆に考えれば、実力を示せなければ彼は国広を愛さないのだろうか?
初期刀として本丸を支えていなければ、近侍として努力していなければ、堀川国広の最高傑作でなければ、名前の問題が解決しなければ、長義くんは国広を愛することはない?
逆……なんじゃないか?
多分本当は長義くんは最初から、国広がどんな刀でも、初期刀として活躍していなくても、舞台のように近侍として努力していなくても、刀工の最高傑作でなくても、名前の問題に本歌である自分をまきこんでいても、いっそなまくらだったとしても。
最初から……本当は最初からそんなこと関係なく、自分の写しだと言うだけで愛している。
でも――それを決して認めない。自分自身で愛を否定する。
そういう刀剣男士だったのでは?
我々のなんであの二振りお互いに愛情はあるのにうまく行かないんだろうと言う疑問も、派生の描写のあちこちの何か意図のある伏せ札も、相対する国広の結論がどこか不自然に感じられるのも、根本原因はこれではないだろうか。
長義自身に自分のもつ国広への愛情を認める気がない。だとしたら相対する国広が自分はちゃんと本歌に愛されているという自信を持てるはずなんてない。
派生の描写は離れ灯篭の歌詞から割と疑問には思っていたんですけどね。
離れ灯篭の歌詞とか、長義くん側に一切間違いがなさそうな描写だったから。疑いなんて斬り伏せてただ進めと。
国広の方には迷いがあるのに。
舞台にしても花丸にしても、当然思惑の違いで多少の衝突は描かれていても正直あのくらいのやりとりだとほぼ問題なんて描かれてないに等しいと思う。
作中で存在を批判される描写というのは何が何故許されないのか、それがどう悪い影響を与えたか、誰がそれに被害を受け、誰がそれをフォローするのかという具体的な内容がもっと強調されてそれを起こした相手を責めるものだろう。
しかし長義くんが明らかに独断専行している花丸でさえ、一緒に出陣した同田貫や御手杵を始めほぼみんな長義くんのフォローを別に特別苦労をさせられたという様子もなくこなしている。問題として特別大きくもないという描写に見える。
山姥切長義の欠点。それはただ一つ。
愛を、認められないこと。特に写しの国広への愛を。
そして国広のコンプレックスの例で考えるなら……長義くんって、口で言うほど自分のために行動しているわけじゃないということになるな。
自分のためだよ、俺が素晴らしいからだよ、と高慢なセリフで包み隠している奥底にあるものは実は純粋に相手への愛情で、むしろそれを自分でも認めたくないからこそ「名」の問題を持ち出すのではないか。
我々は長義と国広は「名」の問題があるから和睦できないのだと捉えがちだ。
しかし、理屈の上ではむしろ、長義くん側が自分の中の国広への愛情を認めたくないからこそ「名」の問題が持ち出されているのかもしれない。
逆か。ここでもまた逆なのか!?
実際、国広側からすると名を捨てるのは、長義と仲良くしたいからとしかいいようがないんだよね。
長義が名に拘っているように見えるからこそ国広は自分の名を捨てる。呼称について妥協する。
ただ、この「名」に関する概念、花丸を見るともうちょい何か世界観と密接に関連したギミックがある気がする。
弟を普通に可愛がっている髭切が、なのにその弟の名前を呼べない理由と相関があるんじゃないか。
鬼を斬った逸話はあるけど鬼に呪われているわけでもないらしい髭切は、逸話が混在する弟への愛情を肯定し、弟の名前を呼べない状態を享受している。
――愛情を認めることで相手の名を呼べなくなるぐらいなら、山姥切長義は例え呪われてでも、写しの名を呼ぶことを選ぶ。
長義くんと髭切の違いはそこなのかもしれない。名前がいくつもあることがむしろ当たり前の源氏の兄と、たった一つの名前を忘れられた歴史を持つ写しを持つ本歌として、それぞれのスタンスはそういう意味で最初から正しいのかもしれない。
……理屈の上から考えると、長義くんは自分の実力に自信はあるんだろうけど、根本的な問題としてあまり自分自身を愛していないのではないか?
キサーゴータミーの逆。
我が子を生き返らせるための努力をし続けた人物がやがてそれは我が子のためじゃなく自分自身のためだったと気づくと言うなら。
自分のための努力というものを続けて初めて、自分ではなく本当は他者を愛していたと気づく。
という構造になるのではないだろうか。だから最初の時点では山姥切長義は意外と自分を愛していないという理屈になる。
……そもそも最初からゲームにいた山姥切国広自身が、そういう性格だよな。
自分は堀川国広の最高傑作であると言いながら、何故か自分にコンプレックスを抱いている。
長義くんは一見国広と真逆に見えて、やはり本質はよく似ているということではないだろうか。
自分に自信があるように見えるけど、そんな自分をどうしても、本当の意味では愛せない。
ふたつの山姥切は同じ葉の裏表にすぎず、きっと少し歯車が違えば、もともとどちらがどちらの立場でもおかしくはなかった。
長義くんの態度に関してはこれで一貫性の核心が得られた気がします。
ここ最近追加された回想の解釈で、意外と愛に否定的な性格なんだろうなとは思っていましたが、これ多分そもそも愛を「認められない」とかそういうレベルじゃねーかと。
たぶん本歌と写しの関係にハラハラしてる人も国広も、長義くんが国広を愛しているというたった一言の保証さえあれば正直もう名前の問題はおいおいでいいよね! と全部の憂いを投げ出せる気がするんだけど。
むしろ物語的には、ある意味で全てを解決するその魔法の言葉こそが最後にして最大の呪い、最難関にして最強の敵なのではないかと。
彼の認められない「愛」こそが……。
国広への態度と、国広側の態度と、派生作品での長義くんの描写周りの色々不審な点と、物語がどこを目指すかと、そういう諸々の疑問はやはりこれで一気に埋まる。
長義くん側の理由はよくわからないけど、構造自体は舞台の悲伝の三日月と足利義輝の関係を比較するとそれこそわかりやすいかもしれない。
三日月は義輝様を愛していると認めたら、三日月の名を捨てて義輝様の不如帰になってあげたくなっちゃう。「不如帰(時鳥)」は歴史を変える時間遡行軍、本丸の敵だ。
それができないからこそ義輝様の手を拒むんだろう。それだからこそ、何度も何度も同じ円環を廻ることになるんだろうっていうのが……。
愛していると認めることは自分の名前を捨てること。
だからできない。名前は大事だからと言い張って愛を否定する。
――でも、本当は愛している。
名前が大事だから愛を否定するのではなく、愛を認められない事情が先に立ち、その結果こそが名を肯定し名に執着するという現象なのではないか。
最初から自分の中の愛を認めることができたら何も問題はなかったのかもしれないけれど、山姥切の問題はどうも舞台でも花丸でも「呪い」と関連付けられている上に、鬼斬りの逸話を持つ刀たちの名前に関するすったもんだを見てるとまだ何か隠された原理が存在しそうだよね、と。
とりあえず長義くんの欠点に関しては、「愛を認められない」ということだと思います、というところでこの考察を終わります。