本気だけどある意味てきとー
カップリング名がついているのでいつもの感じを知らん人にはゆるふわ萌えトークかなと思われそうですが、ノリは大体いつも通りです。
これまでの各種考察を踏まえて刀の研究史やらとうらぶのギミックの基本的な部分に関する考察を読んでいないとまったくわからない話です。
一方で、じゃあノリはともかく内容としてはリビドーを交えずにストイックに考察しているかというとそうでもない感じで。
真面目な考察だけを求めている人はここでおさらばだ。俺の考察に真面目さを求める人もそうはいないと思うが。
発端としてはそのまんま、ごけちょぎ小説書くための思考の整理をしてたらあれ? ってなったので。
ごっちんの内面、回想141で長義くんに興味を持った理由の根源を突き詰めていくと……と、いうところから始まったのでどうしてもごけちょぎ要素の入った考察になります。
私としてはごけちょぎでそのまま理解したほうが満足が行きますが、ロジック自体は作品そのものの基本原理に組み込まれているような気がするので、どうせこれを読まなくても本筋の考察でその要素が明確になったときに客観的に説明できるそちらの要素で言及することになるような気はします。
また、もともとの考察として南泉と火車切が「猫」関連のメタファーで共通性があることから、刀剣男士の実装順はこれ自体が同じ円環を繰り返す一つの物語ではないかというメタファーの踏襲構造を見る考察の観点によって、静形薙刀(後家兼光)→南泉一文字(火車切)→千代金丸(富田江)→山姥切長義(大慶直胤)で対応していると考えています。
そんなわけで比較分析のために、実装されたばかりの大慶直胤の情報をガンガンにネタバレしていきます。さすがに実装一週間も経っていない刀のネタバレはまだ見たくないという方はお気を付けください。
ついでに原作ゲームの考察ですが、舞台やミュージカル、花丸などの派生作品のシナリオにもガンガン触れていきます。
1.長船の名をもたぬ長船
ごけちょぎ小説を書きながらごっちんの内面を整理していたんですが、解釈自体は最初の回想141「無頼の桜梅」の考察と同じになりましたが、そこから先がまた考察が進みまして。
うーん。話をわかりやすくするためにはある意味極論を多用したほうがわかりやすいように、愛情に絡む内面を整理するにはいったんリビドーをぶちこんで腐らせるまで行った方がわかりやすいんでしょうかねぇ。
というわけで、ごけちょぎ小説書きながら思った話。
後家兼光は長船が放任主義だから上杉寄りになる、と自ら宣言しているキャラ。
これは逆に考えれば、長船派が自分の刀派を一番大事にするタイプだったら、ごっちんも上杉寄りにならないという宣言ともとれる。
その後家兼光がわざわざ回想一つ使ってまで明確に反応したのが実際の刀の分類では明確に長船物に属するが、刀剣乱舞においては何故か長船派ではない(刀派表記がない)という扱いの山姥切長義。
しかし、じゃあ長義はとうらぶにおいて完全に長船派ではない扱いなのかというと、それも少し違うと思われる。
原作ゲームから明らかな戦装束や内番着のデザインはもちろん、派生作品になると「慈伝 日日の葉よ散るらむ」の大般若や「花影ゆれる砥水」の小竜が明らかに身内として扱っていて、むしろ原作ゲームで刀派長船でないと言われるのが不思議なほど普通に長船派の刀として描かれている。
回想141の内容も相伝備前にまつわる話で、やはりごっちんが長義くんを気に入った理由も「長船だから」が大きいと思われる。
ということは、山姥切長義の刀派の扱いに厳密な定義を求めると
「長船と呼ばれぬ長船」
あるいは「長船の名をもたぬ長船」
と、呼ぶべきなのではないかと。
はい、これまでの考察をある程度お読みになってくださっている方はそろそろ嫌な予感がしてきたと思います。
とうらぶの扱いでは「名前のあるものが歴史」「名前のないものが創作」というかのような分類を表向きはしている。
しかし話の本質はそうではなく、一見「名もなき」と呼ばれるものにもしっかりと歴史があり、物語があることを描いてもいる。
他の派生でもある程度そういう描写はありますが、特にミュージカルのシナリオはこの設定について明示的です。
本当は名前のある草が名もなき草と呼ばれているだとか、名もなき花詠み人知らずの歌について歌うだとか。
そして「結びの響き、始まりの音」では時間遡行軍である名もなき刀たちが土方歳三と共に死にたかったこと、それを受けて巴形薙刀が「良かったな…物語に出会えて」と言うところまで描いている。
物語を得るために、土方歳三という名のある物語と共に生き、共に死にたかった。
またその「出会い」は、命を懸けるほどの価値があったという描き方です。
ところがどっこい、ではそんな「出会い」はいつも素晴らしいのかと言うと、そういう話でもない。
ミュージカルの「江水散花雪」では、歴史改変を防ぎきれず、放棄された世界になってしまった理由を「出会い」だとしています。
正史で直接は出会っていないはずの井伊直弼と吉田松陰。
その二人が出会ってしまったために、井伊直弼は吉田松陰を処刑するはずであった安政の大獄を起こさず、むしろ二人が協力して進んだ未来は正史とはまったく異なる流れになってしまった。
だから時の政府は、その世界を放棄したのだと。
この井伊直弼と吉田松陰の出会いに関して、「敵の会心の一手」と山姥切国広が評しているのが「江水散花雪」の核心の一つです。
「土方歳三」という名の物語に出会うことを、名もなき時間遡行軍が命をかけてまで望んだ一方、「井伊直弼」「吉田松陰」という名のある物語たちが出会ったことで一つの世界が放棄される。
「名」というものを通じて「出会い」の表裏一体の面に言及したのがミュージカルのシナリオです。
また、ミュージカルと舞台のシナリオは本筋の話数の対応的にかなりきっちり対応していると見え、特に「慈伝」と「結びの響き、始まりの音」の対応はかなり重要だと思われます。
「慈伝」の結論とは何なのか。
「だから。俺のことは好きに呼べばいい。例え偽物と呼ばれようと、俺は俺だ」
これは山姥切国広が、ある意味で「名を捨てる」話でしょう。
偽物と呼ばれることを受け入れてしまったのだから。
話としては長義とのやり取りの中で間違いなく成長していると言えるのに、己の名、己の物語に関しては国広ははっきりと否定の方向に走っています。
名を得るために命を捨てるほどの出会いを望んだもの。
名のあるもの同士が出会ってしまったことが破滅に繋がるもの。
国広は原作ゲームはまだしも、舞台と花丸では長義と出会ったことによって偽物を呼びを受け入れるという形で明確に自分の歴史を否定する方向に走り出すので、この二つの派生に関してはミュージカルの「江水散花雪」の状況に限りなく近いとも言えます。
そしてこれらの「名」と「出会い」を巡る関係について考えると、後家兼光が「長船の名をもたぬ長船」こと山姥切長義に惹かれる意味も重要だと思われます。
回想141で自ら「備前長船の中で同じく相州伝の流行りを取り込んだ刀に声を掛けられたから、ついはしゃいでしまった」と言うくらいですから、後家兼光的に少なくとも回想のこの段階では明確に長義に好意を持ったところまでは確定です。
問題はその後の「難儀」「俺も一言多かったようだ」をごっちんがどう処理するかなんですよねー。
ごけちょぎ派としてはそこが知りたくて知りたくて知りたくて血涙飲んでいるのがそもそもの考察の発端です。
原作ゲームと派生作品いくつかを考察した感じ、原作と派生のシナリオは一致するかに関しては、論理構造としてはイエス、表面上の物語としてはノーだと思う、というのが私の結論です。
とうらぶのシナリオはその作品内で使われる「比喩(メタファー)」がほぼ共通しますので、作品の根幹にある論理構造はある程度シナリオを分析した感じ、おそらく完全に一致すると思われます。
どこまで一致するかの細かい検証作業はこれからゆっくり行いますが、原作ゲームの男士の実装順や回想、舞台、ミュージカル、花丸などある程度量のあるシナリオを参照した感じこの辺まではもう確定してしまっていいかなと。
一方で、論理構造の一致は提示するメタファーさえ共通すればまったく別の物語を描いていると見せることも可能であり、それゆえに派生作品それぞれのシナリオは原作ゲームとはまた違ったストーリーになります。
特命調査などがとくに顕著で、聚楽第は一応こなしているものの詳細をとばされがちですし(この辺りはその本丸の山姥切長義像にダイレクトに影響する)、攻略までの過程も公開された文久土佐は舞台と花丸のストーリーが明確に異なり、原作とも違うと言っていいと思います。
それを考えれば、原作ゲームの回想の「続き」は本来「存在しない」と考えるのが正解なのでしょうね。
この回想の続きを見たいというのは我々の欲求、煩悩に属するものであって、原作が描いたストーリーではない。
この理屈に関しても、ミュージカルでは「江おんすていじ」の中の南総里見八犬伝で、触れられている。
呪いの種をもたぬものなどいない。
けれど、水をまかれても日に当てられても決して育たぬよう自らを律するしかない。
という主旨の話が展開されているので、やはりこの辺の原作ゲームを見ていれば論理的に導き出される結論は、もともと原作ゲームに存在する理屈と捉えて構わないと考えられます。
しかしまあ最初に言った通り、だからこそあえて呪い、煩悩を育てて描いた物語からこそ見えてくるものもある、と。
後家兼光が山姥切長義に惹かれる理由は「長船の名を持たぬ長船」だから。
そして、その感情を二次創作としてごっちんに追求させるというシミュレートを介すると、最終的に「長船」を否定する方向に行くんですよね。うーん。
ごっちんのキャラ像について描かれる可能性としては、
1.上杉寄りの言に沿って上杉刀と絡ませる
2.放任主義云々は本当は長船派に構われたいとみて長船派と絡ませる
3.回想141で反応していた長船だけど長船じゃない長義との絡みを追求する
とまぁ、いろいろありますが、1、2はともかく3を選ぶとそもそもごっちんにとっての長義くんは「何」であり、長義くん自身の自己認識は「何」であり、ごっちんの本当の欲しいものは「何」かという分析が講じて最終的に名前の話から始まって名前を否定する話でごけちょぎ小説が一本完成していました。
煩悩って怖いですね。
いや、だって、長義くんに話しかけられて「ついはしゃいじゃった」なんていうくらい喜んだやつ他にいる!? そりゃここ追求したくなるじゃん!(落ち着け)
……えー、なにはともあれ、ごっちんが長義くんに興味を持った点を追求していくと、最初は「長船」という属性の共通性に始まり、その問いをさらに掘り下げると、
では、山姥切長義以外の長義刀にも後家兼光は同じような反応をするのか?
という更なる疑問に突き当たるわけです。
2.キミの中のボク、ボクの中のキミ
後家兼光は、回想141で、山姥切長義が「相伝備前」であることに反応している。
後家兼光自身の評価は兼光って名のある名刀が多すぎるのと一代目と二代目の評価が混ざってるせいでちょっと難しいんですが、長義に関しては我らの山姥切長義こと本作長義以下58字略が六股長義と並ぶ傑作の一振りなので、ごっちん側が長義くんをべた褒めすること自体はそんな不自然でもないと思います。
また、「強き良き刀」という表現は今回実装された大慶が鋼の強い弱い、良き鋼などと言及していることからするとメタファーとしての役割も強いと思います。
ただ今回はそこはとりあえず置いといて。
ごっちんが回想141で長義くんを褒めたのは、相伝備前の長義の傑作という刀そのものの評価であることは確定です。
むしろ最後のやり取りから言って、あの回想での二振りは完全に初対面であり、お互いの名前も知らずにあの会話をしていたことが明確です。
後家兼光だと聞いてから長義くんが上杉いや直江の刀、と判断しているというのはそういうことであって、お互いの号や所有者に関して、最後の長義の「難儀」までは二振りともお互いのことを知らないまま、ただ刀本体の話をしていた。
その刀本体の話で兼光は長義に興味を持ち、惹かれた(はしゃいだ)。
では、その前提が状況を変えたら崩れるか、というのが考察で言えば思考実験、二次創作でいえば作品作りのポイントです。
現在は本丸で唯一の長義、唯一の兼光。
ではもしも先に本丸にそれぞれの兄弟刀が顕現していて、兼光や長義が何振りもいたら回想141のやりとりは成立しないのだろうか。
あるいはこの先に実装される長義刀全員に後家兼光は同じような反応をするのか。
あるいはこの先に実装される兼光刀全員に山姥切長義は同じような反応をするのか。
これについて、
1.そりゃそうでしょ、ごっちんは山姥切長義ではなく「長義の刀」に興味があるだけだよ
2.そんなことないでしょ、「後家兼光」と「山姥切長義」であることに意義があるんだ
二通りの考えがあると思いますが、私は言うまでもなくごけちょぎ的に2です。
その前提で小説を書いた結果思考がまとまって今回の考察なわけですが……。
ごっちんは回想141で相伝備前の長義に反応しているわけですが、そもそも何故そういう反応になったかというのがポイントで。
これはやはり、刀剣男士としての「後家兼光」が「長船派は放任主義だから上杉寄りになる(本当は長船にかまわれたい)」の延長線上にある思考だと思います。
本丸の長船派がそれぞれ兼光にどういう反応をしているのかはともかく、回想141からすれば長船の刀、それも自分と近い相伝備前の刀に向こうから話しかけられたことがごっちんの琴線に触れたことがわかります。
後家兼光としては、自分と同じような存在、もっと言えば自分と同じような考えを持つ相手を欲していたと考えられます。
だから自分が兼光の刀であることにおそらく真っ先に反応したと思われる長義の刀に興味を持ち、言葉を尽くして褒めたたえた。
――じゃあ、その「山姥切長義」は、本当に後家兼光の欲していた通りの存在なのか?
ここでそもそも山姥切長義とはどういう存在かという問いと、一番最初の「長船の名をもたぬ長船」の問題に戻ります。
後家兼光の本心があくまで「長船派」という名目にあるのなら、刀帳上は長船派として分類されない長義に反応すること自体がまずなかったのではないかと思います。
しかし実際には長義は刀派としてそう表記されなくても、派生などの扱いからすると、実質長船と考えていいと思います。
ここに着目すると、回想141の時点で後家兼光は相手の名前(刀派)が「長船派」であるかどうかよりも、その刀が長船であるかどうかという「名目より本質」という問題にすでに踏み込んでいると考えられます。
そこからさらに、考えを煮詰めていくと、ではその長船とは、「長義の刀」であれば誰でも良かったのか、「山姥切長義」だからこそ特別だったのか、という上記の2択が発生します。
……多分、両方に意味はあるだろうけど、一番大事なことはごっちん自身の本心ではないかなと。
つまり、後家兼光の「相伝備前」への執着って、本質的には「相伝備前の兼光」である自分自身への執着ではないかと考えます。
回想141の発端である「備前長船の中で同じく相州伝の流行りを取り込んだ刀に声を掛けられたから、ついはしゃいでしまった」の端的な理由がそれかと。
上記2択の答は1か、2か。
解答はおそらく2。
ただしその1と2は本質的につながっていてどちらも矛盾しない。
それこそが、後家兼光の山姥切長義への執着の本質は、「相伝備前の兼光」である自分自身への執着、という答。
相伝備前の刀に声を掛けられてはしゃぐほどに嬉しかったというのならば、後家兼光の心の奥底にある願いとは、「兼光である自分を見てほしい」というものだと思われます。
そして実際に自分を一番最初に見てくれた長船の刀は、本丸においては長船派とは呼ばれぬ、けれどまぎれもなく自分と同じ相伝備前の強き良き刀、山姥切長義。
と、いうわけで回想141でごっちんは長義くんに声かけられたくらいでなんであんなはしゃいでんの? の答を探すとこんな感じかなと。
どの長義の刀でも同じわけではなく、後家兼光にとって特別な相手は山姥切長義。
ただし。
だからと言って、長義くんがごっちんにとって完全に理想的な存在でもないという反面を示すのが「難儀」へと繋がる流れだと思われます。
3.難儀でお節介な否定者
後家兼光は表向き直江兼続の刀であることを強調して自らを「愛の戦士」と自称するほど愛を肯定する刀。
彼の心は一見は上杉家の方にあるように見える。
しかし「長船ってわりと放任主義だから、ボクも上杉の刀って意識がつい強くなっちゃってさ」の一文からすると、実際には長船が放任主義でなければ、長船派であることを重視したと考えられる。
そしてこの要素は普通に考えて、どちらも後家兼光として必要で重要なものでしょう。
上杉家に身を捧げた直江兼続の刀であること。
長船派の兼光、相伝備前の刀であること。
両方とも後家兼光の要素であり、片方を否定する意味などない。
ただしごっちん自身の意識は上杉寄りであり、兼光であることをあまり顧みられていないと考えている。
そこでおそらく唯一、「兼光」としての自分を見てくれた存在が回想141の山姥切長義。
しかし回想141は、最後にこう締めくくられる。
“後家兼光「よかった。ボクは後家兼光。どうぞよろしく」
山姥切長義「山姥切長義だ。そうか、上杉……いや、直江兼続の刀か。それはまた難儀だな」
後家兼光「……え?」
山姥切長義「すまない、俺も一言多かったようだ」
つまり、回想141の総論として、長義くんは後家兼光に対して「兼光」としての部分は見ているけれど、「直江兼続の刀」としての面には「難儀」と評して否定的なんですよね。
これは今までの考察でさんざんやりましたが、回想140で姫鶴もごっちんに直江を反面教師にしろと告げている通り、言い分としては別に間違っていないように思われます。
ただし、自らが直江兼続の刀であることを誇り、愛している後家兼光の視点からすれば、初対面の相手に自分の大事な元主との物語にネガティヴな評価をされることは普通に考えて心外だとは思います。
長義くん自身もそう考えるからこそ最後に謝っていますが、この部分こそ二振りの考えが実はまったくの正反対であることを物語るやりとりだと思います。
おそらく長義くんがごっちんの「兼光」としての部分に反応したのは、表の物語である「直江兼続の刀」であることには否定的だからこそでしょう。
視点が逆だからこそ、評価も普通と逆になるんだと考えられます。
「一言多い」の対象も、ごっちんと長義くんでは真逆です。
ある意味ではそのすれ違いをお互いがどう処理するかが物語の面白さですよね。
……で、とうらぶという原作ゲームはそれを決して原作ゲームの中で描いてはくれないわけですが(血涙)。
いつか派生にごっちんが登場したらどうなるんでしょうねこの部分。
それこそ上でいくつか出した選択肢のように、上杉家推しの部分だけ描くとか、あえてみっちゃんたち長船派とがっつり絡ませるとか色々ルート分かれそうなんですよねこれ……。そこで長義くんとのことまでやってくれるという期待は持たないようにします……。
後家兼光と山姥切長義は、似ているようでいて正反対。
それは長義くん側から見ても言えることだと思われます。
回想141ではごっちんが「長義の刀」としての部分を色々褒めてくれても、長義くんは特に心動かされた様子がなく、あくまでも刀工の話の一般論として受け取っているように思えます。
自分のその部分に自信や誇りがある子なら、自分を見てそう言われているんだから俺が凄いってことだな! ともっと照れそうなものですが、そういった様子はありません。
クールとか落ち着いているとか言えば聞こえは良いですが、回想141の長義くんは言ってしまえばごっちんから与えられる評価に無感動な印象を受けます。
これはそれまでの回想などで「山姥切長義」が自らの「名」にこそ拘っているのを考えれば、そこに関係ない長義の刀としての評価にあまり長義くん自身が価値を感じていないのだと思われます。
自分のその部分が世間一般的に優れているのは知っている。けれど、それだけだと。
後家兼光は山姥切長義を絶賛している。けれどそれは長義の求めるものではないから心は動かない。
山姥切長義は兼光としての後家兼光を見つけ出す。けれどそれは兼光が望んだように自分を理解し肯定していることとは少し違う。
原作ゲームの回想はここで終わっているので、話はそれまで。
けれど、ここに続きを描こうとするならば、長義くん側から動かすよりはごっちんに長義くんの本心を探らせる形になるかなと。
以前の考察でまとめましたけど、長義くんが一番ごっちんと逆なのって「愛を認めない」部分だと思うので、話を動かすならどうしても愛を肯定することに積極的な後家兼光側から山姥切長義側の意図を探らせる方面のが二次創作としては楽ですね。創作としてそんな毎度毎度楽なやり方に逃げていいかどうかはともかく。
というか、実際にその方向でやった結果、ごっちんの本心が整理されたのでここで考察として出しているわけですが。
後家兼光の望みは、直江兼続の刀を否定しないまま「兼光としての自分」を見てほしいということなんでしょうが、山姥切長義はむしろその否定があるからこそ兼光に気づいたと考えられる。
その否定、「難儀」の向こうに自分への愛や心配、気遣いといったものをごっちんが感じ取れるなら話は穏やかに進むし、ある意味ではごっちんが自分と正反対のものを受け入れるという成長物としての側面も描ける。
一方、長義くんに関してはやはり欲しているものは「名」であって、それ以外は興味が薄いからこそ公正でいられるが、他者のことに無関心というわけでもなく、むしろこの子は派生などから補足しても、心配性すぎるほどに根はお人好しである。
これも「山姥切長義の欠点」でまとめましたが、長義くん多分、口で言うほど自分に自信がないというか、客観的なデータとしての自分の価値は知っているけどその部分を自分自身で愛してないんでしょうね……。
だからごっちんの賞賛も素直に自分を褒めたたえるというより、刀工への賞賛として受け取っているので社交辞令としての礼は口にするけど、自分自身の心が動かされた様子はあまりないのではないか。
でも多分、長義くんがそういうタイプだからこそ長義くんの隣に本当にいてほしいのってごっちんみたいなタイプなんだよな。
長義くん自身が自分で価値を置いていない部分を、それは素晴らしいものだよと素直に伝えてくれるタイプ。
直江兼続の刀に対する「難儀」で正反対であることが発覚する二振り。
そこでどうするかがやはりこの二振りの関係の最大の焦点であり、一番見たい部分ですが、原作ゲームが今後ここを発展させてくれるかまったくもって不明、むしろ今の時点であんまり望み薄な部分です。
4.水心子正秀の「友」たち
とうらぶ第一節は特命調査開始を仮に半分とするなら、現在は特命調査の順序変更復刻と異去実装というターニングポイントっぽいイベントを考えると、第二節後半に入ったのではないかと考えられる。
するとそのタイミングで火車切という猫の妖怪(火車)が名に付く刀が来たということは、特命調査実装の少し前に猫斬りの南泉が実装されていることを考えると、メタファーを踏襲している関係だと思われる。
と、いうことを大前提に
静形薙刀→南泉一文字→千代金丸→山姥切長義
後家兼光→火車切→富田江→大慶直胤
という実装順で対応しているのではないか? と今のところ見ている。
「静」も「後家」も女性由来の名称であることと、派生作品の「山姥切」は「大」というメタファーと組まされてることがなんか多くないか? ということを考えると長義くんの裏側(便宜上こういう言い方になるが別にどちらが上とか下とかいう話ではない)が大慶直胤で普通に納得していいのではないかと。
ところでそんな大慶のキャラについて。
「新々刀である前に、正秀の友でありたいと思っている。」
公式Twitterでこの一文が紹介された時には「清麿は水心子の親友なのに大慶は友ではなく友でありたいという願望系……?」という感じにも読めたのだが。
実際に大慶登場で実装された回想を見てみると、これは大慶がどうの清麿がどうのという話より先に、根本は水心子正秀の仮面の話として捉えるべきだろうと思われる。
刀剣男士・水心子正秀は「新々刀の祖」として常に誇り高くあろうとしている。
一方で、その水心子くんの素の性格はまず一人称から違うもっと子供っぽい感じであり、親友として気を許した清麿の前でだけ素の自分を見せているというキャラであった。
今回大慶のことも「直胤」と親しげに呼び、そうした素の自分を知られているということが判明したが、それによって、水心子がこうして自ら課した二面性に対する反応が清麿と大慶で異なることも明らかになった。
刀剣男士の水心子正秀は、そもそも「水心子(新々刀の祖)としての私」「正秀としての僕」を使い分けている。
それに対し、
源清麿は「親友である水心子を応援している。」
大慶直胤「新々刀である前に、正秀の友でありたいと思っている。」
清麿は水心子が望んで被る「水心子としての私」を親友として応援する存在であり、
大慶は素である「正秀としての僕」の友であろうとしている、そのためなら場合によっては自らが新々刀であることさえも投げ捨てる。
そういう両者のスタンスの違いが説明文に現れているのであって、水心子自体はどちらとも仲良く、どちらにも気を許しているように見える。
また、回想155によると、清磨は大慶に嫉妬しているらしい。
もともと刀剣男士の存在は、研究史を基準とした観点からすると全振り根本的には「集合体」であるだろうと言えるくらい、いくつもの物語が詰め込まれた存在であるという前提がある。
更に、特定の男士、というか具体的に言えば山姥切国広などは「山姥を切った逸話」「山姥を切っていない逸話」という完全に矛盾した逸話を両方持つ存在でもある。
その場合、どちらの物語を重視するか、主軸とするか、あるいは捨てさるということがあるのか、という疑問や問題が発生する。
今回の大慶直胤の実装は、そうした状況のうち、刀剣男士の水心子正秀が自ら新々刀の祖らしく、自らの理想のために作っている姿である「水心子としての私」と「正秀としての僕」という素の顔の二面性を明確にした上で、清麿とは逆の側を重要視している男士の登場という意味を持っている。
5.嫉妬する男士たち
二面性の存在と、既存の男士のスタンスとは逆の面の支持。
これは結局、後家兼光・山姥切長義の関係と似たような問題と言える。
これまでおもに「山姥切の号」によって語られていた長義の、「刀工長義の傑作」としての側面を重視したのが後家兼光。
そしてこれまでもさんざん……本っ当にさんざん考察でやってきたが、写しの山姥切国広は、長義の「山姥切の号」の部分をかなり重視している存在である。
国広は極修行で本当は自分に逸話があったことを知った。
それなら、自分こそが本物の山姥切で本歌の号は事実誤認という認識にアップデートしても良かったはずである。
しかし実際の国広は、手紙の二通目で決着がついていたはずの逸話の問題を、わざわざ両方に逸話があるという結果をもぎ取ってくる三通目まで修行から帰ってこなかった。
つまり、国広は長義にこそ「山姥切」でいてもらいたかったと言える。
そういう言い方をすれば美しいが、逆の捉え方もできる。
長義は「山姥切」だから意味がある。号のない長義を認められない。
この部分にはそもそも「名」が刀剣男士の存在の主軸であって、名もなき存在になることはほぼ死と同義、逸話の事実誤認を明確化することは国広の言葉で「本科の存在感を食ってしまったようなもの」という大前提があるので一概にいい悪いという判定をするのが難しいが、各派生の状況を見た感じ、やろうと思えばできるのではないか? とも思われる。
(「花影ゆれる砥水」を見た感じ、事実誤認の逸話を否定した場合長義くんが極前一期一振のような感じで自分にあるのは名だけで虚ろだと感じるくらいではないかと推測される)
長義に「山姥切」でいてほしいというのは、むしろ国広側の願いなのではないか。
一方、後家兼光に関しては「長義の傑作」であることを重視して、そちらに反応して好感を抱いている。
そもそも一振りの男士が二つ以上の要素(二面性)を持ち、そのどちらを支持するか意見が分かれるという状況は、決して珍しいものでもこの辺りのメンツ独自の関係性というわけでもなく、おそらく刀剣男士全員に設定されていると考えられる。
ただそれを問題として顕在化したのが江戸三作であり、新々刀の祖・水心子を基準とした源清麿と大慶直胤のスタンスの違いに現れている。
そして結局そうしたスタンスの違いは、相手に好感を抱く男士自身の自己認識と相手への感情、その心の奥底の願いと関係していると考えられる。
後家兼光は自分を上杉寄りと定義する。
ただ、彼は長義との回想141から考えるに、おそらく本音では兼光としての自分を見つけてもらいたいと考えているのではないか。
山姥切長義は自分を山姥切の名で定義する。
ただし同じく回想141や派生もろもろなどから考察すると、おそらく山姥切の号に関しては「強い刀の代名詞」、自分への賞賛の一つ程度に考えていて、長義自身は「長義の刀」としての意識が強いが、自分で自分のその部分を認めていないようにも見える。
源清麿は、自分を「水心子を応援する親友」と定義する。
しかしこれに関し、反対の面を支持する大慶直胤と意見が割れている。
また、回想155の清麿の口からは「嫉妬」という言葉が飛び出す。
大慶直胤は、自分を「新々刀である前に正秀の友でありたい」と定義する。
水心子に関し、清麿とは逆の面の支持を表明。
水心子を案じてはいるが、それと同時にいざ正秀が自らの理想で潰れかねない時には、自分も正秀につきあって「新々刀であること」を投げ捨てるという宣言にも聞こえる。
関係性にまつわる問題の中で注目すべきは源清麿が大慶直胤に「嫉妬」を口にした部分ではないだろうか。
「嫉妬(羨望・妬み)」に関する話題に関しては、原作ゲームではなく派生作品でなら登場している。
原作ゲームに関してはここが初めてだと思われる。
と、いう訳でとりあえず叫びたい。
ほ――ら――やっっっぱり「嫉妬」のメタファー長義・国広じゃないじゃん!!
原作ゲームにおける「嫉妬」のメタファーは清麿じゃん!!!
ぜえはあ。
「嫉妬」のメタファーをストーリーに持ちこんでいる派生作品の一つは花丸の映画版「雪の巻」の長義・国広。
しかし花丸の長義に関しては初日に映画を観に行った熱心な長義推しの審神者があんなの長義くんじゃないと大批判をしたキャラクター造形となっている。
私もリアルタイムは先人の感想を参考にし……要はあまりにも評判が悪かったのでビビってせっかくのアニメ映画なのにスルーして最近ようやく見たが、主観で花丸の長義くんの印象を一言で言うなら「逆」というものだった。
花丸長義は、原作ゲームの山姥切長義の「逆」。
描かれている面の全てが原作ゲームの山姥切長義の「逆」である。
というかそもそも、花丸本丸自体が我々の本丸とは「逆」だと感じた。
今回、原作ゲームで大慶直胤が実装されて、源清麿が回想で「僕は君に嫉妬している」と口にしたことで、あれはどちらかというと長義と国広ではなく、その「裏側」(便宜上こう呼ぶ)にある大慶と清麿の物語であることがはっきりした。
上で確認したように
静形薙刀→南泉一文字→千代金丸→山姥切長義
後家兼光→火車切→富田江→大慶直胤
この実装順のメタファーの関係から、山姥切長義と大慶直胤がほぼ表裏の関係として対応すると考えられる。
そうすると、花丸を見た審神者があんなの全然長義くんじゃない! と反発した理由もはっきりしたと言える。
仮に長義を表とするなら大慶の物語はその裏側に当たるので、それを描いた花丸長義は原作ゲームの長義と本当にきれいに真逆の関係になっている。
原作ゲームの山姥切長義をしっかり読み取ろうと調べた人であればあるほど、花丸長義は全然違う! となるキャラ造形となっている。
実際、映画初日に花丸長義像への違和感をTwitterなどで呟いていた層は結構某所に作品を投下しているような創作者が多く、違和感を自分の言葉できちんと根拠を添えて表明するという言語化・表現力が優れたタイプが多かったように個人的には思う。
原作の構造と花丸の構造の対応関係から見ると、それら初日に観た審神者の花丸長義像への批判は完全に正しかったと言えるのではないか。
まさに原作ゲームで真逆の立ち位置に来る相手、それも長義に対応する大慶ではなく、その相手の清麿が口にする構成なのだからあれはおかしいと感じて当然である。
花丸はやはり作品コンセプトからして「原作ゲームと逆位置」の物語で個人的には解釈を確定したい。
そして、花丸は「嫉妬」のメタファーを長義、というか国広も含めて山姥切のキャラクター造形を原作ゲームと逆転させているので違和感があって当たり前だが、原作ゲームではこれは清麿の担当メタファーということを踏まえ直したい。
長義ではなく、大慶と清麿、とくに清麿を中心として原作ゲームという正位置における「嫉妬」のメタファーを考えたい。
6.清麿の本音について考える
長義・国広に配置したらおかしい「嫉妬」のメタファーも、それが大慶・清麿間における清麿の台詞と聞けばまったく違和感がない。
ようやくとうらぶにおける「嫉妬」とは何かの意味がわかった。
回想其の155 『江戸紫花合 朝顔』
大慶直胤「大慶直胤も水心子正秀も随分貧乏をして刀工になったし、源清麿のように若くして注目もされなかったしねー」
源清麿「よほど君の方が知っているね」
大慶直胤「それって、刀工のこと? 刀のこと? それとも……」
源清麿「僕は君に嫉妬している」
源清麿「……君たちはとてもよく似ているよ」
大慶直胤「そっか。……うん、この間はごめんね」
源清麿「……え?」
大慶直胤「所詮、与えられたものかもしれないけど、俺たちの行動次第で少しは融通が利くみたい……だよね?」
大慶直胤「集めて、丹念に織り込めば、強くて斬れる鋼になる」
大慶直胤「そうでしょ、清麿」
源清麿「……」
源清麿「だから、君が来るのが嫌だったんだけど」
大慶直胤「むぎゅぎゅぎゅー」
源清麿「ははっ、嘘。嘘だよ、大慶」
回想155の後半で、清磨は水心子によく似ている大慶に対して「嫉妬している」ことを口にする。
一方大慶もその一つ前の回想154で清麿を批判(むぎゅー! 清麿くんわからんちんだー!)したことを謝っている。
清麿の嫉妬の理由が、水心子と大慶の相似にあるというなら研究史的にはこの状況の理由は一つしかないだろう。
刀工・大慶直胤は、刀工・水心子正秀の一番弟子、お互いの人生を支え合った最も深い関係の師弟。
しかし刀工・源清麿は、刀工・水心子正秀とは何も関係がない。
清麿と水心子は、刀剣男士としての姿であるこの一瞬だけ「友」でいられる、本来正反対かつすれ違いの関係。
刀剣男士にならずとも、永遠に水心子正秀と共に語られるであろう大慶直胤とは、あまりにも水心子との縁の深さが違いすぎる。
私は今回、史実の刀工・水心子正秀と刀工・大慶直胤の関係からまぁ刀剣男士としての大慶直胤は10000%お師匠様の水心子くん大好きキャラだよな……と思ったし実際に新々刀である前に正秀の友でありたいという大慶の水心子愛は相当なものである。
ただ、これが逆の立場で源清麿が実装されるときに水心子との関係を当てなさいと言われたら確実に無理。
刀工本人たちはおそらく会っていないだろうし(清麿の兄が水心子の弟子と言われることもあるので絶対ないとまでは言えないが)、山浦環がまだ少年の頃に没した水心子正秀と縁があると考えるのは難しい。
どちらかというと活動期間が被っていて面識がある可能性が高いのは大慶と清麿の方である。
(清麿の剣術の師匠・窪田清音の疑問、小豆長光のように刃に当たっただけで小豆が斬れる可能性はあるかという問いに対し、刀工としての見地から不可能だと答えたのが大慶直胤らしい。
また、大慶直胤は栗原信秀という清麿の弟子との書簡も残っているらしい。
ただ、源清麿と大慶直胤が直接面識を持っていたする史料自体は聞いたことがない)
特命調査であたかもそれが自然な関係かのように実装された二振りだが、大元の刀工同士は無関係の他人なので水心子正秀と源清麿が親友という関係ははっきり言っておかしい。
水心子正秀と源清麿が親友だというのは、刀剣男士として、政府刀として、この姿を得た間だけ見ることのできる夢だろう。
そういう背景があるからこそ、刀剣男士としての清麿は、刀剣男士としての大慶に嫉妬している。
清麿はおそらく……本当は、大慶が友でありたいと誓っているのと同じ、刀剣男士・水心子正秀の「正秀としての僕」という素の顔を愛しているのだと思う。
表向きは「新々刀の祖・水心子としての私」と振る舞う水心子を応援している。
けれどその理想を応援するのは、そうではない素顔を知って、その意志さえ含めて愛しているからではないか。
そしてその一方で、史実における縁の浅さから、その理想を否定できないという側面もあると考えられる。
大慶は水心子の素顔を愛して新々刀の祖としての仮面を、物語を否定してしまっても残る関係がある。こちらは揺るがず覆らない。
けれど、刀剣男士として顕現している間だけ水心子の親友でいられる清麿は、その物語を否定してしまえばおそらく何も残らないと考えているのではないか。
水心子と大慶は似たような存在でいられる近さがある。けれど、清磨は彼らとはおそらく正反対。
……この関係、何に似てるかって言うとさ、
長義と国広の関係に似てるのよ。
あいつらも多分「本丸が存在する間だけ本歌・写しでいられる」関係だから。
前回の考察で整理した通り、「花影ゆれる砥水」で長義くんが口にした統合の原理からすると、おそらく本丸にいる国広は「山姥を切った国広」であり、その正しい本歌は「本作長義以下58字略」であり、号を持たないことから、この物語は顕現しない(本丸の長義に統合されている)。
そして本丸にいる長義は「山姥を切った長義」であり、その写しは「本歌の号を写した国広」であり、その存在も顕現しない(本丸の国広に統合されている)。
本丸にいる国広と本丸にいる長義はお互いを自分の本歌・写しだと考えているように見えるけれど、実際は違うのではないか。
(しかし「山姥切」の場合は対象となる刀剣自体は常に同一であるため、その違う相手が対象そのものというややこしい関係でもある)
だからこそ尚更本丸で共に過ごせる時間があまりにもかけがえないのないものであり、それを得るために特に舞台・花丸の国広が長義に「好きに呼べ(偽物でも構わない)」として、原作ゲームとは比べ物にならないほど積極的に「名」を捨てようとしている。
派生の国広の思考のベクトルは、おそらく今回原作ゲームの回想155で判明した清麿の内面と近いと考えられる。
舞台はまた少し趣が違うが、花丸はとくに大きな出来事もなかった(一度の出陣関連だけ)のに名の問題を投げうっている国広の姿勢は今回の清麿に近い。
清麿が刀工・源清麿のことをあまり語らないのは、その史実に沿うと刀剣男士としての自分が欲しいものを得られなくなるのを自覚しているからなのだろう。
一方で、表面上の行動はその本心と逆になるのが構図として難しいところである。
清麿は刀剣男士としての本音から、刀剣男士としての素顔である水心子の「正秀」としての部分を愛しているが、それを失わないためには親友として「水心子」の新々刀の祖という側面を応援するしかない。
そういう縛りのある存在だからこそ、そうした縛りの存在しない、どんな形でも水心子と繋がっていられる大慶が――妬ましい。羨ましくて小憎らしい。
けれどそうした嫉妬をぶつけられた大慶の方はと言えば、その説明で清麿側の事情をある程度把握して、自分たちは確かに物語を選べないけど、ある程度行動次第で融通は効くよね、と努力と融和を促して二振りの回想は和解に終わる。
正反対の相手は、自分よりも本来ずっと、自分の愛しい相手に近い。
だから妬む。反発する。お前が存在するのは不都合だと、一見嫌っているかのように見える。
けれど、スタンスが逆に見えても、結局想いは一緒という意味でこの二振りも対なのだろう。
「水心子としての私」を応援しようが「正秀としての僕」の友でありたいと願おうが、
結局どちらも、刀剣男士・水心子正秀を愛している。同じ想いを抱いている。
だからすべきことは反発や殺し合いではなく、むしろ回想155のような話し合いによる融和なのだろう。
同じように山姥切国広も、山姥切長義の中の「本作長義以下58字略(自分の本当の本歌)」を愛している。
けれど、その本歌と並んでいられる本丸という物語を維持するためには、国広の立場では表向き長義の山姥切の号を肯定し、自分は偽物に徹しなければならない。
自分の物語を殺さねばならない。
構図として原作ゲームの清麿の状況と派生で特に自分の名を否定しがちな舞台・花丸の国広の状況が大体一致していると見ていいと思われる。
ただまぁ、原作ゲームの清麿と大慶は平和な和解に終わったものの、本来同じように言葉で一応和解した花丸の物語とは「逆」こそが主題である原作ゲームの山姥切の物語は、お互いがお互いの最愛を食い殺した関係同士が、更に相手を食うか食わないかの選択を迫られる無限の殺し合いなわけだが。
7.「友」のメタファー
さて、各男士の内面と言うデリケートな問題はそれぞれの本丸でそれぞれの主に考えてもらうこととして、ここでは表面上の行動というストーリーを形成しているメタファーの重要性に戻る。
具体的に言うと、メタファー「友」の重要性についてちょっと整理する。
とりあえず漢字の「友」について調べると、
「又」二つからなり、手の下に別の手をそえて、助ける、したしむ、ひいて「とも」の意を表す。
「又」についても調べると、
右手をのばして物を取ろうとしている形にかたどり、もつ、すすめる、みぎなどの意を表す。
「有(イウ)・右(イウ)」の原字。
うっわ。結構重要だなこれ。
「友」自体に助けるという意味がある、それも手の下に別の手をそえて助ける。
成り立ち自体が「又」二つからなり、その「又」自体が右手を伸ばして「物」を取ろうとしている形だと。
「物」は「鬼」。
更に舞台の「天伝」で「手はものを作る」という説明があったことから、手が生み出すものこそ鬼だと考えると。
(あ、ちなみに最近捗々しい成果がないのでとくにまとめていませんが、仏教の知識の範囲で「手が物を作る・工作する」系の意味があることは密教関係の経典に出てました)
漢字の「友」という一字は、これ自体がまさに水心子・清麿・大慶という江戸三作の三振りの関係性そのものに見える……。
「有」つまり存在の根源は手を伸ばして物を取ろうとしている状態であり、それが二つ集まると助けるの意味をもつ「友」になると。
とうらぶにおける「友」のメタファーは原作ゲームだとこの水心子を巡る江戸三作の関係ぐらいしか出ていないような気がするが、ミュージカルの方で超重要事項と結びついているメタファーの一つである。
ミュージカルにおいて人々を救うために歴史改竄を行っている三日月が、その行動で働きかけた人々に対して「友」と呼び掛けていることが藤原泰衡、平将門などの台詞からわかる。
さらにミュージカルの三日月は「機能」とも呼ばれていて、その三日月を同時に大典太さんが「呪い」と称している。
つまりミュージカルに関しては「機能」「呪い」「友」などのメタファーが密接に繋がっていることがわかる。
「友」は「呪い」を解き明かす鍵となる概念と言える。
実際、山姥切長義の実装時は「猫の呪い」を持つ南泉一文字と回想し、舞台の「慈伝」と花丸の「雪の巻」はほぼ同様に呪いのメタファーとして南泉が強調されている箇所がある。
そして山姥切長義と表裏の関係である大慶直胤が実装された今回、こうして「友」にまつわる話を源清麿と繰り広げている。
さらに、舞台でも重要な「友」のメタファーがいくつか存在する。
「維伝」で龍馬が武市半平太と岡田以蔵を助けたかったのは、彼らが友人であったから。
文久土佐の龍馬は南海先生に「偽物」と断言される存在である。
その「偽物」のメタファーはやはり「友」と深く関係している。
そして「綺伝」。
舞台の考察でなんどか取り上げているが、やはり重要なのは細川忠興の友人・高山右近の存在。
私はあの二人が大好きだった。
だから二人の幸せな姿を見ていたかったんだ。
本能寺の変さえなければ二人は幸せなままでいられた。
歴史がそれを引き裂いた。
歴史とはえらく無粋なものです。
それに綺伝ではキリシタン大名の一人、大友宗麟の名に「友」がついている。
憎むことは簡単。愛することは難しい。
だがその困難に立ち向かわねば生きることなどむなしいだけ。
戦の世は多くの血と、それと同じだけの憎しみを生んだ。
だからわしは誰もがこの時代に生まれてよかったと、そう思えるようにしたかった。
お前たちの本能とやらは、その願いすらも斬る。
こうして振り返るとどっちもかなり重要なことを言っている。
右近は細川夫妻という二人の幸せを願い、それを引き裂く歴史を責める。
宗麟は憎しみを否定し、誰もがこの時代に生まれて良かったとそう思えるようにしたいという願いを抱きながらも、歴史を守るという刀剣男士の本能がそれを否定したと責める。
これはミュージカル側の理屈と対比させると綺麗に一致していますね。
歴史は幸福な夫婦という一対を引き裂き、歴史を守るという本能は、人々がこの時代に生まれて良かったと思えないように絶望させる。
実際、舞台の男士たちは自分たちもその残酷さに耐えきれないから「鵺」「朧」のような分身を生み出している構造であることを考えると両方の演劇作品の原理は完全に一致と見ていいと思います。
ミュージカルの刀剣男士のやっていることはどちらかというと舞台のキリシタン大名側に近いんだよね。だから割と失敗して放棄された近いを作っちゃっう。
舞台は放棄された世界は作らない。ただ歴史をきっちり律儀に守りすぎてすり切れた自分の心が鬼である分身をあちこち量産してしまうと言う……。
歴史を守ると、歴史を守れない!(バァアアアアアアン)
この原理に関係するのが「友」のメタファーだと。
大友宗麟に関してはちょっと置いておくにしても、高山右近の重要性は「綺伝」の話でさんざんやってきた通りです。
舞台はターニングポイントでそれまでの物語を踏襲昇華する構造なので、忠興・ガラシャの関係は今の章の主人公である国広と、その対である長義の関係に跳ね返る。
そして忠興を殺したのは、その「友」である右近なのだと。
原作ゲームでは「友」である二振り、清麿と大慶は相手への嫉妬や批判を含みながらも融和の道を成立させましたが、他の派生作品ではそう綺麗にはいかないぞ、と。
「桜」の花を守るために、高い「山」はその本来の対である、「与える」ものを殺す。
けれど最後は「歌」の名を持つ「鬼」が、「山」も「桜」も斬ってしまう。
まさか水心子くんたちを巡る「友」のメタファーがこんなに重要だとはねぇ。
ただ、舞台の方から考えると長義くんの裏が大慶である意味はかなり重いことは察せられる。
8.天保江戸と山姥切長義
以前に舞台の方の予想で、
・長義はおそらく舞台の対大侵寇相当の話で死亡(国広に斬られて統合)
・舞台は定期的に過去偏を繰り返すので、天保江戸はおそらく今の章が終わってから次の章で過去偏としてやるのではないか
・長義の内面は、その過去偏の天保江戸で開陳されると考えられる
・次の章の過去偏は本丸視点で天保江戸と、国広視点の極修行の続きの二部構成ではないか
という感じの予想を立てました。
これ、今ちょっと修正すると、国広の極修行の続きと推測した部分は過去偏というより「異去編」になりそうだなと思います。この予想立てた頃は異去とか知らんかったからね。まだ出てない。
修行先でこれは自分の知る歴史ではないと動揺する国広の内面に相当する話をやるのではないかと思います。
……この予想さ、原作ゲームの円環構造の踏襲先として、長義くんの裏側が大慶って知ると、うわああ計算されつくしてるぅ――! ってなるやん。
私が予想したのは単純に、
舞台は次の章で前の章の過去偏やるからとばされた天保江戸は次の章でやるやろ。
天伝・无伝が国広・三日月の内面に関わる重要な話だったから長義くんの内面もそこで開陳やろ。
くらいの気持ちだったんですが。
そもそも、何故天保江戸をとばしたか。
天伝の国広のように、そこで山姥切長義の内面を開示する方向性で構成したか。
これの答がそもそも長義くんの裏側が天保江戸の復刻と共に実装される大慶だったからという理由がピースとしてカッチリはまったような気がします。
まぁ、現時点ではただの予想なんで、私の盛大な幻覚の可能性は十分あるどころかむしろ予想外し常連赤っ恥メーカーだけどさ。
長義の裏側が大慶、長義に関する重要メタファーの一つが「慶び」であるからこそ、そのメタファーを持つ大慶直胤が実装される天保江戸が山姥切長義の物語を描く舞台になりえるのではないかと。
もともと天保江戸の主役である蜂須賀自身が「真作」と「贋作」すなわち広義の「本物」と「偽物」の話題に近いキャラですから。
繰り返しになりますが、「写し」と「贋作」は刀剣の定義としては厳密に分けたほうがもちろんよい。
ただし、とうらぶは「言葉遊び」の原義の世界であるため、「偽物(似せ物・贋物)」を区別しないという視点で話を展開しています。
言葉遊びはともかく、現実の刀剣の写しと贋作の定義はまったく別物なのできちんと区別してください。
それはさておき、やはり蜂須賀自身の持っているテーマと長義のテーマ、そして大慶の存在はそれぞれ近接していると考えられます。
水心子に対しては清麿・大慶の二振りが「友」という字の相手を支える「又」の立場ですが、これは最初の天保江戸のシナリオで、蜂須賀視点にすると水心子と清麿も「又」だったのではないかと思います。
そこで蜂須賀が示した答、「俺たちは刀剣男士として使命を果たす。どんな想いも、力にして」が真理だったのではないかと。
天保江戸のシナリオを理解するには、あの時の水心子と清麿の関係に関する理解が必要だったように。
清麿と大慶の関係を理解するには、そもそもの水心子正秀という刀剣男士の理解が必要。
そうした関連性や連続性があると言えます。
更に長義・蜂須賀のメタファーの相関から見る考察的視点はもう一つあって。
花丸の考察で挙げた、長義・国広、髭切・膝丸、長曽祢・清麿の呼称問題があります。
「山姥切」の名を巡り戦い続ける本歌と写しの問題、
兄弟仲は良いのに兄は何故か弟の希望に添えず弟の名を呼べない源氏兄弟の問題、
そして贋作として完全に別物となってしまったから元の刀工・清麿の刀に名乗れない長曽祢虎徹の問題、
この三つは呼称を巡る段階の相関があると思われます。
そして長曽祢・清麿の問題に絡むのが、俺はお前を認めてないが可愛い浦島がお前を認めているんだから堂々と名乗れ! と長曽祢さんに発破をかける蜂須賀の存在です。
原作ゲームの考察を主軸に舞台、花丸、ミュージカルと派生を一通り廻った感じ、やはり蜂須賀と長義、大慶を含む天保江戸組はメタファーやその機能に関する関係性が深い刀剣男士の組み合わせと言えます。
それにミュージカル側だと水心子くんが江の演劇に混ざっていますが、「江」はその字の通り「川」なので「江戸」と同じく「水」関連のメタファーでひとまとまりです。
大慶直胤が実装された2024年4月は同時に富田江や異去の2面・江戸も実装されています。
この辺りのメタファーはもう全部近接している、でいいと思われます。
9.「慶び」のメタファーはあるか
長義くんの極予想でこれまでにも書いたことありますが、
極修行で自分の逸話が事実誤認であることを知った後の反応の予想として、私は「喜ぶ」を一年ぐらい前から予想として立てています。
逸話の事実誤認が発覚したら長義は落ち込むだろうという予想の方が大勢に見えますが、その予想は国広の感情を基準としたものです。
国広があからさまに悲しんだのは、国広は自分のことより長義のことを考えて、長義の逸話を失わせたくないと考えたからでしょう。
しかし、国広に山姥切の逸話がある、偽物ではない、ということは国広自身のためには良いことなので、長義が国広のことを想うなら、逸話の事実誤認の発覚はむしろ「喜び」であり、私は長義くんの極修行はこちらの線で予想しています。
つまりおそらくもう今年中には来ると思われる……というか来い、の山姥切長義の極修行で描かれるメタファーは「喜び」=「慶び」ではないかと。
そうなると、名前に「慶び」の字が入っている大慶と同じメタファー、つまり長義と大慶の関係がここでもきちんと表裏になるよう最初から設定されていた要素だろうと思います。
これもまあ長義の極が来てみないとわからなことではあるんですが、舞台の天保江戸と長義の内面開示がぶつかるだろうタイミングといい、刀剣男士の主張が逆転することが多いと言われる極修行の予想で出てくる答が実装順の対応的に表裏の関係にある大慶と同一のメタファーだと考えられることといい、長義関連の予想のことごとくがこの辺りの要素にがっつり収束している気がします。
実際に結果が出たらまた考える必要はありそうですが、とりあえずいつの時点でどんな視点でどういう答が導き出せるかの記録としてこの辺も書いておきます。
この予想があってたら、やはりとうらぶは緻密な構造図を読み解ければ先の展開予想が可能なほどに計算して作られていることが証明できますから。
天保江戸に絡む蜂須賀虎徹と水心子正秀、源清麿、そして山姥切長義。
この辺りの男士たちはみな、原作ゲームでも特に「歴史を守る」という意志が強く、そのためにまっすぐ突き進んでいく性格の男士が多めに見えます。
(他の子も大体は当然真面目に歴史を守っていると思いますが、慶長熊本の地蔵くんのように慈悲によって明確に陣営を裏切る例もありますし、何より原作ゲーム中心だと他の子は回想が少なくて判断できない例が多いので割愛。どの子も早く回想増やしてほしいね!)
その中で大慶がちょっと異色に見えるのは、歴史を当然愛しつつも、「鋼」と「石」への関心が深いところかなあと。
実装されたばかりとはいえ、登場時点で回想7つ、しかもかなりの文章量があるキャラなのでその辺ちょっとしばらく真剣に考察していかなきゃいけないですね。
ただの追加キャラならともかく、構造的に長義くんと表裏の関係だとすると、大慶を分析出来れば長義くんの解像度が上がる可能性があるってことで。手を抜けないキャラがなんか増えた……。
10.彼らは刀から離れ
回想其の152 『新々刀の秘め事』
大慶「やっぱり、朝尊はわかってるんだ。俺たちにとって大切なもの」
南海「刀剣男士は刀剣そのものから離れることでしか、強くなれないのかもしれない。と答えておこうか」
刀剣男士が「刀剣そのものから離れる」ことに南海先生が言及していますね。そして大慶もそれを承知していると。
この辺りが今回の「ごけちょぎ」関係の考察、あらゆる派生で描かれる長義・国広の関係性の謎、江戸三作の嫉妬周りの理解に関する総論になるわけですが。
刀剣男士は、刀の物語から形作られる。
けれどそういう存在だからと言って、全部刀の物語をベースに考えていては思考の発展がない、と。
もちろん大元となる刀剣の知識が多いに越したことはないし、正確ならそれ以上に良いことはない。
ただし、正確な刀剣の知識があればそれだけで絶対正しい答が出せるわけじゃないんですよね。とうらぶという物語は。
今回の清麿の内面の話のように、刀工・源清麿に関して考えたらそもそも彼は刀工・水心子正秀とはほとんど関係ない存在として扱うしかない。
そうして知識によって前提を否定した際に残る、刀剣男士・源清麿としての感情。
ここにそれぞれの審神者が何を描くかが、それぞれの本丸の物語そのものと言える。
私は考察からは極力煩悩を排除して、正確なデータを叩き出したいタイプですが、感情的なものとしてはやはり煩悩を置いて育てる思考実験が必要ですね。
原作ゲームは回想の続きを書かない。
だから長義・国広が回想56・57の後で何をしているか(舞台見たいに手合せしているか、花丸見たいに長義くんが出陣で独断専行しているか)という問いに関しては、総ての煩悩を滅したら、何もしていないが正答なのではないかと。
舞台みたいな手合せなんてしていない。
花丸みたいな一緒に出陣もしていない。
しかし何もないというのは、あの二振りが本丸でどんな関係を築き上げるかを想像・創造する愛もないということで、どんな物語も生まれない。
前提となる要素に命を吹き込むにはやはり多少の煩悩は必要。そして描いた姿は我々それぞれにとっては正しい刀剣男士像であり、正しい本丸の物語。
とはいえ、じゃあ我々にとって正しいものが絶対に正しいとは限らない。
特に、
知識として正確でないものは当然、誤謬に対し他者から訂正を求められる。
感情としてあまりに社会的常識から外れたものは当然、他者から批判を受ける。
史実の知識が足りない歴史小説書いたら当然ツッコミを食らいますし、ストーカーを正義としたらお前の常識はおかしいと猛烈に批判されます。
間違ったことを正しいとしたらそりゃ間違ってると言われる。まぁ当たり前のことですね。
そういったおかしさに対して他者から入る指摘や反発を受け入れ、時に衝突しつつ、己にとっての正解を探り続ける修行の旅路。
それを実行し続ければ、刀剣の認識に関しても、刀剣男士の認識に関しても一度大前提を崩し、疑う必要があると。
「刀剣男士は刀剣そのものから離れることでしか、強くなれないのかもしれない」
南海先生のこの言い分は大慶の言う「俺たちにとって大切なもの」と同義。
さらに、刀剣男士が強くなることに関して言及した一文字則宗の理屈にも通じます。
作り話でも付け加えたかったものがいる、それを愛として受け止める一文字則宗の主張に沿えば、結局いくらかは史実や刀剣の実態そのものからは離れる必要があります。
しかし、間違った史実、作り話という愛を、それでも自分の物語として愛せるなら強くなれると。
理屈を整理すれば大体こんなところというか、私の説明能力が別に高いわけでもないので表現がアレなだけで、自分で重要ポイントを抜き出して整理すればとうらぶは毎度毎度しっかりと一貫した理屈を通した物語造りをしていることは明快だと思います。
後家兼光と山姥切長義の回想141はあれで終わり。
その先にどんな物語があるかはわからない。
ただ、私がごけちょぎ派として続きを考えたらやっぱり大前提をひっくり返すことになるなと。
ごっちんは長義くんが自分と同じ相伝備前の刀だからこそ興味を持ったし、褒めたたえるし、話しかけられてはしゃいだと言う。
でもその感情を突き詰めて、じゃあ長義の刀だったら誰でも良かったのかなと言えばそれは違うのではないかと。
長義の刀なら誰でもいいわけではなく、あの時、あの場面で、後家兼光を知らずとも「兼光の刀」としてただ声をかけてきてくれた「山姥切長義」であることこそが重要なのではないかと。
あの場面でそういう行動をしたこと自体が、他の長義の刀ではなく「山姥切長義」として存在する男士の歴史そのものだから。
最初はカテゴライズされた「兼光」「長義」から始まった物語の枠組みを、いずれ自分で否定していく話になるな、と。
そして今回はカップリングの話としてこれを書いていますが、結局カプに限らずとうらぶの根源これじゃないかなと。
刀剣にしろ史実にしろ、最初のカテゴライズへの認識を自分で壊し、話の本質を探って円環を辿る物語。
そして途中で一度否定したものは結局、最後にそこに還る話ではないかと。
「兼光」「長義」の話からはじまり、どの「兼光」「長義」でも同じだったのかという問いを否定し、けれどそれを理解したのも自分たちが「兼光」であり、「長義」であったからこそだと、物語の始まりを愛し全て肯定していく物語。
……そんな感じのごけちょぎ小説を書きたい!(勝手にやれ)
むしろ那由他ほどに見たいからみんな書かない? ごけちょぎ(ねだるな)
と、いうわけで今回は異色のカップリング考察編でした。
需要があるかどうかはともかく吐き出せて満足したのでここで失礼します。
お読みいただきましてありがとうございました。