ここまでうだうだ言ってきたまとめ
派生を一通り見たことによって、ある程度現時点でやれそうな考察は前回まででやりきった感じです。
これ以上調べるならかなり踏み込んだ行動(演劇系の台詞を全作品書き起こした上での比較とか)をしないと新たな情報も視点も掴めそうにないので、とりあえず自分的にはやり切った感があるということで。
しかしそうやって考えとしての情報を出し切って見ると、その分析した物語を見た上での私個人の感想が生まれてくることもあるわけで。
どういう情報をどのように整理している段階で自分がその物語に対しどんな感情を抱いているか、も一応メモ程度に残しておきたいかなと。
自分の目を逸らしてつかめるものもないし、と。
1.原作ゲーム、円環の踏襲予想のための整理
Twitterの方では考えを整理するために何度か繰り返し書いている原作ゲームの刀剣男士実装順の踏襲に関する話です。
静形薙刀→南泉一文字→千代金丸→山姥切長義
後家兼光→火車切→富田江→大慶直胤
ここまではそれぞれのボイスや回想を見比べた感じ、しっかり踏襲していると感じます。
また、これらの内容は舞台やミュージカルの構造とも大体一致する流れだと思われます。
問題は残り二つの特命調査に対応する刀の話。
復刻特命調査は2か月あけて来てて、それとほぼ同時に新キャラも来てる流れなので、残り二つは7月と10月になると思われる。
ただし、文久土佐前に異去で実装された火車切はむっちゃんたち文久土佐組と直接的には関係ないので、二つのうちどちらかはまた一見無関係な刀が別イベで来る可能性が高いと思われる。
残る二つは豊前江と祢々切丸の要素を踏襲する刀が来ると思われるが……誰が来るかはさっぱりわからんぽん。
気になるのは名前だけだとメタファーがさっぱりわからない豊前がミュージカルだと「化け物」担当っぽいとこと。
「郷とお化けは見たことがない」
逆に言えば「江がいるなら化け物もいる」と。
そんでもって更にそのお化け・化け物は名もなき草と同列扱いなんだよなミュージカル……。
豊前のメタファーが「化け物」なら、「化け物斬り」である長義くんの直後に実装されているのはやはり計算された構図であるわけで。
祢々切丸にいたっては山関係はもちろんこっちも妖怪だの怪獣だの言われる「祢々」(酔剣先生の説によれば日光の方言で言う河童)を斬った化け物斬りの刀だし。
今年はすでに3振り来てるから残り3振りの新キャラの内訳は、残る二つの復刻特命調査合わせ+冬の連隊戦が一番濃厚かなと。
豊前江、祢々切丸、白山吉光に対応する刀が誰なのか?
7月に実装可能性が高いなら、笹貫がフラグ立てた「凝り固まったの」は来るのか?
まあ色々と楽しみだねと。
原作ゲームの踏襲構造を真剣に考察するなら、今年の新刀剣男士の情報が全て出そろったところがチャンスかなと思います。
白山くんの次はもう南海先生、つまり文久土佐の範囲に話が入るので、この辺りにまた一つ区切りがあるかもしれないなと思います。
ついでにこっちの本格的な調査は後とか言いつつ、自分の記憶を掘り返して見ると2021年の南泉極のタイミングが姫鶴実装から福島実装の間でしたね。
つまりこういう対応か?
静形薙刀→南泉一文字→千代金丸→山姥切長義
姫鶴一文字→(南泉極)→福島光忠→七星剣・(三日月極)→稲葉江
後家兼光→火車切→富田江→(大典太極)→大慶直胤
一行目の極の順序がまだ私の中で整理されていないので飛ばしますが、南泉の実装と極がそれぞれ福島・火車切実装と対応していることがわかりやすい気がします。
刀剣男士の実装順と極の実装順はやはり対応している、と。
ただ極自体がその頃から結構間を空けて実装されているものになっているので、南泉から対大侵寇後の三日月までの半年は極休みますの告知あったような気がするんですが、その次の大包平までは告知なしで半年空いたようなんですよね……。
そして七星剣登場と同時の三日月極から大包平極の間までに稲葉と笹貫、抜丸の三振りが実装されている、と。
これを考えると長義くんの極がどっちのパターンかわからないんだよなぁ。
七星剣と同時の三日月タイプか、三振り実装されてからの大包平タイプか(この場合長義くん極は10月? 下手すると特命調査の復刻ラストの可能性があって聚楽第で全部10月か?)
大慶がちょうど綺麗に長義くんの裏側のような気がするけど、次の刀剣男士も大慶とセットで長義のメタファーと対になっている可能性がゼロじゃないし、なんならそれが聚楽第復刻と同時実装の可能性すらまだ残っていると。
大包平が「大」のメタファーとして大慶と同じように山姥切の裏側だとすると南泉極→福島実装→七星剣実装&三日月極→稲葉笹貫抜丸実装→大包平極の流れがそのまま南泉実装→千代金丸実装→長義実装の流れと対応しているとみられうううんもう頭ちんぷんかんぷん。
もう考えるだけ無駄な気がするんであと半年くらい普通に待てばいい気がします。
(次の新刀剣男士が来る前、来月とかに極来たら狂喜乱舞します)
2.長義極の予想
長義くんの極予想でこれまでにも書いたことありますが、
極修行で自分の逸話が事実誤認であることを知った後の反応の予想として、私は「喜ぶ」を一年ぐらい前から予想として立てています。
逸話の事実誤認が発覚したら長義は落ち込むだろうという予想の方が大勢に見えますが、その予想は国広の感情を基準としたものです。
国広があからさまに悲しんだのは、国広は自分のことより長義のことを考えて、長義の逸話を失わせたくないと考えたからでしょう。
しかし、国広に山姥切の逸話がある、偽物ではない、ということは国広自身のためには良いことなので、長義が国広のことを想うなら、逸話の事実誤認の発覚はむしろ「喜び」であり、私は長義くんの極修行はこちらの線で予想しています。
つまりおそらくもう今年中には来ると思われる……というか来い、の山姥切長義の極修行で描かれるメタファーは「喜び」=「慶び」ではないかと。
そうなると、名前に「慶び」の字が入っている大慶と同じメタファー、つまり長義と大慶の関係がここでもきちんと表裏になるよう最初から設定されていた要素だろうと思います。
っていうことをここ最近ずっと言ってます。
最近の極修行手紙だと小烏丸が「鬼と蛇」の話題を出していたり、大典太さんが「鳥」「蔵」「光」の話を出していたりします。
新刀剣男士絡みだと富田江が「光と闇のさきへと」のテーマを持っていて、大慶と地の蔵……地蔵くんが「鬼と蛇」の時代の刀がどうのという話をしています。
この辺りは舞台などの派生作品でもとうらぶという物語のギミックとして強調されているようです。
やはり山姥切国広がそもそも極修行手紙で「本科の存在感を食ってしまった」と申告しているところからそもそも「刀剣乱舞」という物語そのもののギミック「斬る=食らう=統合」を明かしているものだったと。
同じように長義くんの極でも何かギミック方面の開示があるはずで、これは正直今の段階でも予想はちょっと難しいですね。
長義と国広が完全に正反対の一対であることを考えると、やはり長義くんの開示する情報は統合の反対側である「分離」で、長義くんの結論もそっちじゃないかなとは思いますが。
もともと国広の極修行手紙の構図をひっくり返すだけでも長義くんは「山姥切」としての名を選ぶことでむしろ国広との関係性を絶つ方向だろうなとは予想していたのですが、ギミック方面から考えてもやはり現時点の予想だとこうなる感じです。
3.慶びの物語へ
長義くんの極予想と大慶の名前が持つメタファー「慶び」が一致するかもしれないということで考えたんですが。
最近実装されてるキャラは割ともともと「慶び」に近い態度の刀ではないでしょうかね。
孫六兼元がだんだらを着ないのは、愛がないのではなくむしろ新選組と赤穂浪士、どちらも愛しくて選べないからだと。
後家兼光は元主の直江兼続とその妻・お船さまが好きすぎて、自分たちは「愛の戦士かも」と自称する。
富田江は回想147で「応えることは、嫌いじゃないんだ」とも発言していますね。
これまでも自分の歴史を誇らしげに語る男士はそれなりにいたと思いますが、最近の男士の方が割とこの傾向が顕著かもしれない、と思います。
一方で、気になるのは後家兼光に対して姫鶴一文字も山姥切長義も「直江兼続の刀」という表向きの態度に否定的なこと。
逆に、大慶直胤はこれまで水心子正秀が理想として来た新々刀の祖である「水心子としての私」という仮面に否定的なこと。
それぞれの男士によって肯定される価値観と、否定される価値観がまた一回転した感じがします。
火車切に関しては「魔除け」という表現、「異去の張番」、その後の2月にちよこ大作戦で桃の景趣の時に「桃のお守り」などなどなかなか気になる要素が重なって一言では言えない。
そもそも復刻慶応甲府から復刻文久土佐までと考えるとこの期間、後家兼光も文久土佐よりで見ておくべきかもしれなくてあわあわ。
文久土佐の龍馬が「偽物」と呼ばれていることは、山姥切の本歌と写しの使う「偽物」と同じ意味で重要ではないかという話はしばらく前からやっていますが、他の回想でも気になる「偽物」の使い方があるなと最近回想を暇を見つけては見返しながら探しまして。
回想其の10 『藤四郎だらけなのは』
五虎退「兄さん、なんで僕たち兄弟が多いんですか」
厚藤四郎「決まってるだろ。家康公が使ってたからだ。縁起がいいってな。どこの大名も持ちたがった」
五虎退「幸運のお守りですね!」
厚藤四郎「おかげで偽物もいっーぱいだ」
五虎退「え、えと」
厚藤四郎「泣きそうな顔すんなよ。お前はそう、決まったわけじゃないから」
五虎退「う、うえぇぇん」
「幸運のお守り」と「偽物」は表裏一体。
そしてだからこそ、「兄弟が多い」。そして「縁起」。
……普通にゲームプレイしてる時は気づかなかったけど派生巡って戻ってくるとめっちゃ重要なメタファーだらけやないかい!
やはりメタファーの組み合わせは常に同じで一定周期で繰り返す構造が原作ゲームから派生作品まで全て同じと考えられます。
火車切はキャラクター紹介が「魔物除け」だったり、近い時期に「桃のお守り」が来ているのは文久土佐が龍馬の「偽物」であることを考えるとかなり気になるなと。
そして、前回「天国までのシミュレート」と題した考察で触れたんですけど、山姥切伝承の理解に関して「静かの海のパライソ」の「死後為り変り」の理屈で考えるとわかりやすいよと提唱する身としては、死体の扱いが輪廻の世界において重要な意味を持つと考えられますので、火車切の名は更に重要に思われます。
「火車ってのは、死体を奪う地獄行きの車だったり、妖怪だったり。」
火車切自身の刀帳説明でも火車に関してこの「死体を奪う」要素が説明として特に重要視されているように見えます。
仏教的には「罪人の死体を運ぶ、炎が燃え盛る車」みたいな説明もできるので「罪人」「死体を運ぶ」「燃え盛る車」「猫の妖怪」「罪人の死体を奪う猫の妖怪」辺りの表現から選択して「死体を奪う」の説明を頭に持ってきているのは注目どころかなと。
火車切の登場によって、「死体」の扱いが重要になってきた予感がします。
もともと火車切は「異去」の「張番」。
そして我々は異去から「宝物の断片」を持ち帰るわけですが、その断片は演出的には「戦鬼」の乾いて剥がれ落ちた肌だと思われるという考察もしています。
……つまり戦鬼こそ「死体」なのでは。
実は正史ではなかったと後から判明したことにより、歴史という大河の流れから切り離され乾いていく物語。
その死体の肌が宝物の断片となり、我々はその断片を組み合わせて新たにその刀の物語として名前をつける作業をしているということでは?
それこそ、ここで何度も山姥切伝承の事実誤認に関して確認しながら、でもこの本ではこう言われています、この研究者はこういう内容を信じています、この時期には確実にこの名で呼ばれていました、だからこの刀をこの名で呼んでもいいし、別の呼び方をしてもどちらもその刀の物語だから構わないんです、と物語の断片をせっせと集めては長義の物語、国広の物語として組み立てなおしているように。
厚藤四郎と五虎退の回想では、「幸運のお守り」と呼んでいる。
「幸運」は物吉貞宗のメタファーの一つで、物吉くんはやはり以前から「宝」という要素にも関連が強いことも以前からやっています。
この辺考えるとやっぱり似たような時期に実装される刀・極修行が来る刀同士には一定の傾向があって、その傾向はすでに開示されている円環の構造の一部を踏襲していると考えられます。
この件に関してはやはり今年、残り3振りだろうと思われる新刀剣男士の実装と、長義くんや豊前の極が来たらもうちょい細かく分析したいところです。
4.回転する物語
話の性質傾向の回転もしくは回天。
去年、慈伝見てとりあえず言葉遊びでざーっと舞台の傾向を予想して大外ししたんですが(いつもの)。
一番予想とずれたけど話の性質を掴むうえでの収穫として大きかったのは、5つの特命調査を並べた流れは話の「進捗」であるとわかったところですね。
5つの特命調査で起きている出来事は全て同じか、それとも変化しているのか。
正解は後者。
特命調査を重ねるごとに、状況が変化している。
何があれっていうと、舞台のタイトル予想で慶応甲府はまた「糸」がつくんじゃないかって予想していたんですが、実際に発表されたタイトルは「心伝」でした。
「悲伝」は「心に非ず」。
「慈伝」は「心茲に在り」。
……だったのに今度は「心」だけ単独行動してる――!!(ガビーン)
いやー大笑……もとい、驚きましたねこれ。
でもそういえば内容の方の予想では単独行超えてこの回で国広の分身、分離した本心がそろそろ「朧」な影ではなく明確に実体を持ってくるんじゃないの? って考えてたよな。
それをタイトルに反映すると「心」の一字になると。
またこっちはミュージカルの方で表裏が強調されていたので言葉遊び的に整理した結論ですが、「表=面=顔」、「心=うら(心には「うら」という読みがある)=裏」だと考えられます。
つまり原作ゲームのシナリオでも、長義くんが登場した「聚楽第」と、話が進んだ最後の「慶応甲府」まで行くと大分状況が違うということになりますねこれ。
始まりの五振りのシナリオは条件が一定ではなく、変化する物語の進捗。
第一段階を山姥切国広、第二段階を陸奥守吉行、第三段階を蜂須賀虎徹、第四段階を歌仙兼定、第五段階を加州清光が担当する作りだったと。
結論としてそうなりますね。
始まりの五振りはとくにスペックの差とか扱いの差はないし、研究史はそれぞれ違うから国広だけ極の回想があったり先行調査員や監査官の獲得条件が違うのは刀の研究史に合わせて実質の扱いは同じか、否かが疑問だったわけですが、回答としては明確に「違う」と。
物語は進行している。
それも、最初とは逆の方向に向かって。
「慈伝」では茲に在ったはずの「心」はすでに国広から離れてしまった。
別物への「成り代わり」を果たす、「糸」から「分」かたれし「紛い物」よ。
さらに、ミュージカル側で舞台の慶応甲府にあたると目される物語の重要人物は坂上田村麻呂です。
鬼退治伝説で知られる英雄、しかしその実態が、戦いを終わらせるためにむしろ「血も涙もない鬼よ!」と叫ばれる側になる。
――「鬼斬り」は、やがて「鬼」へ。
しかしその願いは、以前と変わらずに争いを終わらせること。
話が進んだ結果、結論が一周して逆になるという円環構造ですね。
派生作品が舞台もミュージカルも花丸もざっくり見た感じ大体そういう構造だなって感じですし、そこからメタファーというヒントを吸い上げて原作ゲームの考察に還元した感じ、まず原作ゲームがそういう構造で、派生作品も全て同じ構造をしていると考えられます。
重要なのは「言葉遊び」という要素。
敵として北条氏政が存在したらしいのに、逃げてしまって出会えない「聚楽第」。
敵は「偽物」、すなわち誰かのために行動した「人」の「為」の「物」である坂本龍馬の「文久土佐」。
敵は窪田清音、鳥居耀蔵などの「影」であり、歴史を守ることは自分たちが誰かを守るためであることを意識しなおした「天保江戸」。
敵である細川ガラシャを地蔵行平が時の政府を裏切ってでも助けたいと願ってしまう「慶長熊本」。
敵が「なりかわり」と「まがいもの」の新選組、けれど作り話の大切さや刀剣男士にとって愛が重要であることを考える「慶応甲府」。
こうして整理するとやっぱり特に舞台、ミュージカルとの比較が重要になってきますね。
花丸は内容的には舞台の「綺伝」、ミュージカルの「江水散花雪」までではないかと思います。
舞台は「綺伝」で長義が「朧」こと国広の影を撃破、ミュージカルでは南泉が敵である井伊直弼を救おうとして救えなくて苦しみ、放棄された世界ができあがるのを見届ける「江水散花雪」辺り。
舞台とミュージカルの話数計算どうしよ……と思ったんですが、今の章の前半がプロローグである慈伝を抜かして「維伝」「天伝」「无伝」「綺伝」の4作。
後半が「禺伝「夢語」「単独行」「心伝」の4作でその次からもう対大侵寇相当の話で今の章を締めるんじゃないでしょうかね?
花丸は現時点だと舞台やミュージカルより話数が足りなくてそこまで話が進んでいないんですが、1期と2期がそれぞれ円環構造だなと感じます。
特に1期は安定の見る池田屋の夢に始まり再び池田屋出陣で終わるのでここはわかりやすく一つの円環構造です。
それを2期でもう一度繰り返してから、映画版の「雪の巻」で聚楽第・長義登場という転機が訪れます。
整理すると、原作ゲームの第一節は4章構成だと考えられます。
1.第一節 前半1
舞台は「虚伝」「義伝」
ミュージカルは「阿津賀志山異聞」「幕末天狼傳」
花丸は1期
2.第一節 前半2
舞台は「ジョ伝」「悲伝」
ミュージカルは「三百年の子守唄」「つはものどもがゆめのあと」
花丸は2期
3.第一節 後半1 ここから原作ゲームでは特命調査開始、「聚楽第」「文久土佐」「天保江戸」
舞台は「慈伝」「維伝」「天伝」「无伝」「綺伝」
ミュージカルは「結びの響き、始まりの音」「葵咲本紀」「静かの海のパライソ」「東京心覚」「江水散花雪」
花丸は映画「雪の巻」「月の巻」「華の巻」
4.第一節 後半2 「慶長熊本」「慶応甲府」そして「対大侵寇防人作戦」終了で「第一節 朔」のテロップ
舞台は「禺伝」「夢語」「単独行」「心伝」、その次の回まで
ミュージカルは「江おんすいていじ」「すえひろがり」「花影ゆれる砥水」「陸奥一蓮」、次回作まで
……ではないかと思います。
舞台の「夢語」はこれ明らかに本編だろ……という感じなんですが、ミュージカルの方がちょっとまだ見ていないっていうかミュージカルは本編以外に単騎だのなんだのあってわかりづれえー!!(なんで公式サイトにまとめてないんだろ)なのでその辺は不明瞭です。
ただ、「陸奥一蓮」の終わり方がそのまま国広が加州たちにミュージカル本丸の初期刀が折れた話を聞かせる……という感じだったのでミュージカルは次回が対大侵寇防人作戦相当の重要エピソードなのはまず確実です。
これで過去回想に1ミリも入らず他の話ってのはないと思います。
構成的に過去回想+現在時間軸とかはありえますが。
舞台も特命調査を天保江戸をとばしたこと以外はほぼ順番通りに出しているので、普通に考えれば慶応甲府の次が対大侵寇防人作戦相当です。
原作ゲームの第一節後半を更に2つに分けた時の区切りはこの分だと「天保江戸」までかなと。
「対大侵寇防人作戦」合わせてシナリオイベント6つですし。
原作では本来「天保江戸」の要素の一つとして重要な「影」に関しては、舞台ではその分「綺伝」にずれこんでいます。国広の影を長義が斬るのは明らかに重要イベントの一つです。
ミュージカルでは、「江水散花雪」で放棄された世界が作られるところを本丸の男士たちがその目で見ると言う意味で、こちらも重要な転機となっています。
原作ゲームの第一節に関しては派生も合わせて考えると大体この辺りまでははっきりしてきました。
ただ、第一節後半はまだ特命調査の内容で区切りやすいんですが、前半がさっぱりです。
また、現在進行中の原作ゲームの第二節も、大型アップデートや特命調査復刻、異去実装で転機が来たところまではなんとなく感じているものの、具体的にどの辺りで区切るべきかは今のところまだ結構曖昧です。
現在原作ゲームは第二節のどこかを整理したいところですが、それには今年中の動き(特命調査絡みの新刀剣男士実装、長義や豊前の極開始)が重要かなと。
とりあえず原作ゲームのメタファーと派生作品のシナリオの内容を照らし合わせると、あちこちで話の性質が逆転するポイントが存在しその進捗が一致しているところまではなんとなくつかめてくると思います。
5.舞台の構造
以前から舞台の方の予想で、
・長義はおそらく舞台の対大侵寇相当の話で死亡(国広に斬られて統合=原作通りの国広の極修行完了)
・舞台は定期的に過去編を繰り返すので、「天保江戸」はおそらく今の章が終わってから次の章で過去編としてやるのではないか
・「无伝」で三日月の内面が明かされていた通り、長義の内面は、その過去編の「天保江戸」で開陳されると考えられる
・次の章の過去編は本丸視点で天保江戸と、国広視点の極修行の続きの二部構成ではないか
という感じの予想を立ててました。
これ、今ちょっと修正すると、国広の極修行の続きと推測した部分は過去編というより「異去編」になりそうだなと思います。この予想立てた頃は「異去」とか知らんかったからね。まだ出てない。
修行先でこれは自分の知る歴史ではないと動揺する国広の内面に相当する話をやるのではないかと思います。
舞台の長義くん遠からず死ぬんでは? っていう話は慈伝見た時点で予想したんですが、その後「天伝」の弥助や真田信繁の自害っぷりなどを見るといやこれやっぱ国広が斬るんでは??? は??? となっていきました(白目)。
そしてこの予想、原作ゲームの円環構造の踏襲先として、長義くんの裏側が「天保江戸」と同時に鍛刀で来た大慶直胤だと考えるときちんと計算された構図なんですよね。
私が「綺伝」あたりまで見た時点で予想したのは単純に、
舞台は次の章で前の章の過去偏やるからとばされた「天保江戸」は次の章でやるやろ。
天伝・无伝が国広・三日月の内面に関わる重要な話だったから長義くんの内面もそこで開陳やろ。
くらいの気持ちだったんですが。
そもそも、何故「天保江戸」をとばしたか。
「天伝」の国広、「无伝」の三日月のように、そこで山姥切長義の内面を開示する方向性で構成したか。
これの答がそもそも長義くんの裏側が「天保江戸」そのものだったからという理由がピースとしてカッチリはまったような気がします。
まぁ、現時点ではただの予想なんで、私の盛大な幻覚の可能性は十分あるんですが。
長義の裏側が大慶、長義に関する重要メタファーの一つが「慶び」だと考えられるからこそ、そのメタファーを持つ大慶直胤が実装される「天保江戸」が山姥切長義の物語を描く舞台になりえるのではないかと。
もともと天保江戸の主役である蜂須賀自身が「真作」と「贋作」すなわち広義の「本物」と「偽物」の話題に近いキャラですから。
繰り返しになりますが、「写し」と「贋作」は刀剣の定義としては厳密に分けたほうがもちろんよいです。
ただし、とうらぶは「言葉遊び」の原義の世界であるため、「偽物(似せ物・贋物)」を区別しないという視点で話を展開しています。
言葉遊びはともかく、現実の刀剣の写しと贋作の定義はまったく別物なのできちんと区別してください。
それはさておき、やはり蜂須賀自身の持っているテーマと長義のテーマ、そして大慶の存在はそれぞれ近接していると考えられます。
これは今後の舞台がどうなるかやっぱり気になるところですよね。
長義くんの裏側が天保江戸、さらに大慶であることは、本当に賢い人なら綺伝まで見た時点で予想できたのかもしれませんね……。
俺? その頃は長義くんの裏側は酒飲み鬼かつ子殺し要素から童子切じゃね? って言ってたよ。
富田江だった(お前の予想ダメじゃねーか)。
私の推測能力がいかに低いかという恥は積み重なっていきますが、同時にその辺りの近接の話題で確かに長義くんの内面開陳この作品構造的に「天保江戸」じゃね? ってところまでは導き出されていたので、今回原作ゲームの実装順踏襲が長義の裏の大慶まで来たことから、舞台の構造が最初からそれを見越して完全に精密な計算の上で作り上げられてるという可能性がかなり高まってきました。え、なんや末満氏まじ怖……。
長義くん死ぬかもって予想は長義推し的にはまったくもって嬉しくないんですが、ミュージカルの方でも対大侵寇相当のタイミングで多分初期刀の歌仙が折れた話やるでしょうし、演劇作品が両方で「歌(桜)」メタファーの排除の話をやる可能性が非常に高くなってまいりました。
まったくもって嬉しくないことこの上なしですが、派生の作品構造自体はどちらもマジで美しいんだよな……。しかもこっちの予想を超えて遥かに精緻かつ、もっと美しいことが想像されるんだよな……。
6.歌劇の「歌」メタファーと検非違使
ミュージカルは折れたらしい初期刀が誰なのかで大分解釈が変わるってことでしたが、「陸奥一蓮」でまず歌仙で確定したのでこれはもう……。
(この展開だと戯曲本の方は誤記だと思われる)
舞台で「本歌」である長義くんが死にそうなことといい、ミュージカルでは歌仙が折れてるだろうことといい、原作ゲームの対大侵寇の意味は「メタファー『歌』の排除」なんだろうなと。
ついでに「陸奥一蓮」の検非違使戦の演出からすると、ん? あれが歌仙では……? って感じ。最後のクソ強検非違使。
これは舞台の方だと「天伝」で弥助が審神者の腕を持ってたときと同じ感覚だなと。
舞台の構造から示唆されているものは、結局敵と自分たちは同じもの、という結論だと思うんですよね。
だから弥助が審神者の腕を持っているってことの意味を物語的に考えていくと弥助のポジションは審神者に近い。
一方でミュージカルでは検非違使戦で三日月が「見つからない探し物」に関する歌を歌っている。
この「探し物」って歌仙(というか折れた初期刀)のことでないか? とは以前からミュージカルを見ている人たちの感想でもすでに出ているようですが。
わざわざ検非違使戦でそれに関する歌を重ねるってのがね。
ついでに歌仙はメタファーの「歌」が古今はもちろん長義くんの「歌」とも同一なんじゃという話はここの考察で前々からしています。
歌仙の特命調査である「綺伝」の構造が一番舞台の長義・国広の物語の核心っぽいのと同じ理由ではないかと思われます。
メタファー「歌」、そしてガラシャ様のメタファーでもある「桜」の重要性。
長義くんはどっちもメイン要素ではないけど、「本歌」であり「無頼の桜梅」として原作から確実に持っている。
歌仙は名前がそのまま「歌」である。
ミュージカル本丸の初期刀は「陸奥一蓮」でそれを象徴する桜が「人見知り」扱い。
原作ゲームでも歌仙は人見知り扱いされていますし、ここで間接的に「桜」と歌仙が繋がっています。
ついでに多分、このポジション加州もある意味関係ありそうなんだよな。
「陸奥一蓮」で折れそうなピンチになるのが加州なのと、舞台はそれこそ慶応甲府なので加州の特命調査です。同じタイミングで同じように加州が重要な話をやっています。
そして加州と「折れる」でもう一つ。
原作ゲームの6面に当時の審神者をブチ切れさせたという「加州清光折大隊」がいますね。
ミュージカルの戯曲本は加州を初期刀って書いているのでこの位置を加州で考えるならというときに思い出したんですけど、6面のこの敵の存在も言われてみれば対大侵寇並に重要なんでは?
原作ゲームの構成的に考えるなら5面で一区切りで6面からまた円環構造なので、加州は実装順のあれみたいに踏襲的意味合いがあるように思います。
とうらぶのシナリオ構造は一つの話の裏面を次の話で書く、根本は二面の繰り返しからなる「ABBAAB BAABBA]みたいな構造ではないかと以前の考察でも出しましたので、「陸奥一蓮」と「心伝」のどちらも加州が重要になり、その裏側の対大侵寇相当では「歌(長義・歌仙)」が重要な話になると予想されます。
ついでに検非違使に関するもので言うと、ほとんど原作ゲームのみの情報で考察していたときに時間遡行軍と検非違使の姿勢について、国広は時間遡行軍っぽく、長義くんは検非違使っぽいのではないかという結論を出しました。
誰かを守るために、己の身を削って歴史さえ変えようとしてしまう存在が時間遡行軍らしいというのであれば。
誰かを守るために、己の身を削って歴史を守ろうとするものそこ検非違使なのではないか?
と、いう感じで。個人的には長義くんと歌仙、長義くんと検非違使というメタファーの組み合わせからなる考察を出した以上、「歌仙」と「検非違使」という組み合わせにも違和感はありません。
長義くんがどうの歌仙がどうのというよりは、「歌」というメタファーがこの辺の要素に繋がっていると考えるべきかなと思います。
とくにミュージカルでは「花影ゆれる砥水」で「名もなき花」と「詠み人知らずの歌」が同列に扱われていますので、「歌」と「花」はほぼ同じものをさすと考えられます。
7.無双の「歌」と「影」
「歌」メタファーが対大侵寇と繋がっていると考えたところでもう一つ重要になってくる派生作品は「刀剣乱舞無双」だと思われます。
話が終わってないしそれほど進んでないし何より一度クリアしたあと起動してないので放置していましたが、「歌」メタファーと対大侵寇つまり本丸襲撃の関連性を考えたら浮上してきました。
あれは珍しく長義と国広が揃っているところから話が始まりますが、初っ端から本丸がほぼ壊滅しております。
襲撃を受けて15振りしか残っていない漂流本丸。しかも審神者は襲撃の最中に姿を消してしまった。
この審神者が姿を消した理由は「歌」にあると言われていますが、それ以上の詳細は語られていません。
正直無双だけ見ても意味わかんなかったんですけどねこの話。
舞台の長義くんの扱い、ミュージカルの折れた初期刀がおそらく歌仙であると考えたらやっぱり「歌」メタファー排除こそ本丸襲撃なんだなと。
……正直どの本丸も国広がいるところに長義がやってきてひと悶着の構図なので、たまには両方同時に出すような話ないかなーと思ったんですが、すでにやってましたね。そして条件は本丸壊滅。うーん、この。
無双に関してはラスボスの名前も「面影」で、かつこの敵は最初は国広の姿を模倣して本丸側と小競り合いをしておきながら途中で本丸に合流する形となっております。
そして終盤で明かされる真実として、そもそも「面影」は集合体の一部が分離してしまった存在だと説明されます。
私の派生摂取の順番は比較的早いのがこの無双で、正直シナリオの意味がわからんというか話に決着もついてないし微妙だなと思ったんですが、他の派生を巡ってメタファーの構造図がある程度わかってから見ると基本的な構造はやはり踏襲していますよね……。
要するに「面影」は舞台の「鵺」と同じだと。
舞台は維伝から国広の「影」こと「朧」の話をしていて対大侵寇でもそれが重要になってくると考えられますし、ミュージカル側でもしきりに「影」の話をされますし、一期の極修行とも言われる「花影ゆれる砥水」の重要キャラが「カゲ(影打)」です。
ただ「維伝」以前でも「鵺」のように「影」要素はありますし、もうやはり最初から全部のメタファーを内包する円環構造なんでしょうね。
無双がわかりにくい理由はどちらかというと面影さんよりは、終盤で真田幸村があっちにもこっちにも分身している! つまりこの世界は夢! という論理展開の方だと思います。
あの……人間ってそんな簡単に分裂はしないですし……その世界が夢であると気づくまでにもうちょっとプレイヤーを納得させる前振りとか説明とかあるべきじゃないっすかね……。
って思ってました無双初見感想。
う~~~~ん。今から考えると話の基本構造は確かにいつものとうらぶで、例えば世界観に関わるギミックの説明が序盤はまったくないのは舞台やミュージカルも同じなんですけどね。
ただ、それにしても無双の設定は解説なしにこういう世界です、で通すにはちょっと難しいというかそれやっちゃうと意味不明にしかならんでしょ……なシナリオだなと思います。
舞台やミュージカルと違ってそう何作も出せないでしょうから、一作である程度綺麗にまとめ切ってほしかったというのが本音です。
長義・国広が揃った状態で始めてる本丸はここしかないとか、襲撃後の立ち直りから行くとかスタートの発想は割と面白いんですけど、他の派生作品みたいに一つの物語として成立させるほどうまく内容を落とし込めてはいない感じがします。説明なしでやるにはギミックが複雑すぎるような。
キャラ造形とかは基本的には悪くないとは思うんですけど、それでも中盤で日向くんが裏切るのはある程度前振りしてもプレイヤーを納得させるレベルには足りなかったと思います。
日向くんって原作ゲームでもミュージカルでもむしろ歴史をきっちり守る姿勢の方が強いので。
長義くんも悪くはないけど、あのポジション別に長義くんでなくてもいい話だな、という感想でした。
……原作ゲームと舞台が、特命調査開始というあのタイミングで長義くんが登場するからこそ長義くんが如何に重要であるかを意識させる構造になっていることを考えると、逆に序盤から長義くんが登場する話は他の派生の序盤のキャラと似たような感じになってしまうのかもしれない。
まぁ私の個人的な感想なんかどうでもよい。それより話のメタファーや構成だ。
・「歌」メタファーと本丸襲撃(大侵寇)の関連性
・自軍(面影)と敵(真田幸村)、両方の存在の分割要素
・刀剣男士が元主を想うあまりに裏切る
・敵と味方の統合要素
この辺について考えると、どちらかというと舞台やミュージカルの今の章に近い要素から始めてるんですよね無双。敵が「影」だったり「歌」と「主」と「大侵寇」が結びついていたり。
逆に2作目が出るなら舞台やミュージカルの序盤に近い構造になるのではないかと思いますが、出るのかねえ?
6章の円環一つで一区切りなのは、花丸だったら1期終了くらいの進捗ではないかと思います。
ミュージカルの歌仙の件で「歌」メタファーの重要度が上がった分、無双が初っ端から襲撃を受けているという件の重要性も上がりましたが、他のシナリオと対比しやすくなると正直シナリオ評価としては今一つというところに落ち着く気がします。
ただ無双の醍醐味に関しては、自分でキャラクターを操作することで歴史を守るために行動することの重みを感じられるという意見もあって、私もそちらに賛成です。ゲームとしては無双は余裕があったらやっておいた方がいいと思われます。
8.二分割と三位一体の話
無双の話でもちょろっと出ましたが、人間も分裂するんですよね。
認識上の問題としては要は仏教の「空(くう)の思想」をやりたいのではないかと思います。
一つのものが二つに分割されて統合する過程。仏教で悟りを開くための修行階梯。
つまりは認識という問題。
さらに、ミュージカルでは「静かの海のパライソ」で死んでしまった天草四郎の代役として鶴丸、日向、浦島の三振りが行動したことを考えると、三つで一つの「三位一体」の考え方も大事だろうなと思います。
ただ、これを物語に落とし込んだ時の説明として、御笠ノ忠次氏の「静かの海のパライソ」の「死後為り変り」はこの理屈を自然な形で綺麗に説明しきっていて本当にお見事としか言いようがないんですが、無双の幸村分身はいまいちです(きっぱり)。
いや真田幸村に分身させてもいいんだけどさぁ……もうちょっとそこの説明はとうらぶ初見の人でも納得できる形で頑張って欲しかったなーと。
舞台なんかも三日月が「鵺」と分離したことは、説明はしませんけど明らかに謎として引っ張りますよという形で、これの説明に今の国広中心の話まるまる全部使ってますからね。
舞台の末満氏は戯曲本の後書何かを読むと最初から難しい話を書いていることを隠していない、でも観客は考えてくれることを信じている、というスタンスなので、もともとのとうらぶという話が難しいのを重々承知で万人がそれを納得できる形になるよう物凄く綺麗にお題を再構成していると思います。神業です。
ミュージカルは御笠ノ忠次氏は人間の歴史、浅井さやか氏は刀剣の歴史からクリティカルな例を引っ張ってわかりやすくするのが天才的だと思います。
無双がどうとかいうより、この三者の脚本が良すぎただけかもしれん。
(そしてまずニトロのお題が難しすぎるとも言う)
人格、むしろ存在レベルの分割過程「本来一つであったものが二つになる」の理屈はやはりとうらぶのギミックの中核だと思われます。
一つのものが二分割される例はある程度増えてきましたが三位一体に関してはちらほらそれっぽいものがあるものの、まだその三者がどういう役割を果たしているかの理解は得られていない感じなので、ちょっとこの先も「影」や「鬼」を中心とした「二分割」と「三位一体」の話題には着目したいと思います。
9.新キャラと派生作品
原作ゲームで稲葉江が実装されたときにミュージカルからの逆輸入からじゃないかとちょっと話題になってましたが、派生作品ある程度見まわすとそれはないと言うか、やっぱり稲葉が単純に初期キャラなんでしょうね。
実際に「葵咲本紀」の戯曲本読んだ感じとしてはこれは姿は出てなくてもまあ稲葉だなとは思いますけど、ミュージカルから逆輸入したわけじゃなく稲葉のキャラがこの頃からできてたんでしょ、と考えるのが普通です。
順番的には普通に原作→派生の流れで、派生作品というか、舞台とミュージカルの脚本家陣がこの頃から稲葉の設定をもらっていると推測されます。
特にミュージカル側は江が多く登場していますので、稲葉も最初から合流される予定で、さらに言えば富田も普通に出るのではないかと思います。
円環構造の話をずっとしていますが、その特徴としてある程度最初から組んでいないとやれないという大前提があります。
最初から膨大な数のキャラを設定していなければ、この構造は組めません。
それに長義くん関連で何度も言っていますが、長義くんのキャラはまず確実に国広と同時に設定しています。
普通に考えて刀剣の研究史を調べるならこの二振りはセットで調べる以外ありえないからです。
これでセットで設定しないのはもう完全に最初からどちらか一振りしか実装しないと決まっている場合くらいでしょう。
むしろ国広が舞台の主人公をやってるぐらい全体的に重要度の高いキャラであることを考えると、長義くんの設定も最初から決まっていたと考えられます。
稲葉江も江の刀の代表格なので、江の中で真っ先にキャラが決まっていても不思議ではないです。
第一節終了直後、第二節の頭に登場する稲葉は第一節登場キャラと同時に作っていなければならないですし、「葵咲本紀」も「維伝」と同じく今の章の頭の方の話に位置します。
原作ゲームの実装順踏襲の計算と同じく、この頃すでに第一節終了直後の稲葉辺りまでは確実にキャラができていたんじゃないでしょうかね。
そして舞台の考察の方で長義くんの裏側が大慶であるからこそ、舞台長義くんの内面開示を「天保江戸」に合わせるのではないかと推測できるように、ミュージカルは江が話の重要ポジションを占めているからこそ、これと同じ理屈で最初から稲葉を配置していたのだと考えられます。
その後のキャラに関しても御前と孫六兼元、長義と後家兼光、江に合流の富田、江戸三作の大慶と多分外見や細かい性格はともかく、登場させること自体は確定していたとしか思えない面々だなぁと。
去年の10月に孫六兼元が実装されたときには、芝村氏が関鍛冶伝承館に行って取材したのは11年前とツイートしています。
と、いうことは孫六兼元を登場させるにあたって取材は11年前。原作ゲームが現在9年目なのでゲーム開始2年前にはこの辺りまでざっくりとしたプランがあったように思われます。
一次創作なんかしていると、キャラクターが出来上がるのをどの時点とするかは結構基準が曖昧だなと思うんですが、とうらぶに関しては「名前」が重要性を大きく占めることもあって、今の顔や性格ではなくても原型くらいはかなり早くから作り上げていると思われます。
ついでに情報がちょっと不確実なんですけど、石田正宗に関して制作陣が実装に5年くらいかかってる(2018年が第一稿)ってことを言ったとかなんとか。うん、ソースどこなのこれ。Twitterに流れてたんだけど。
2023年実装の兼元含む関鍛冶の取材が11年前、2023年実装の石田正宗は5年前にはある程度キャラとしても第一稿ができてた。
どちらにせよ、ソシャゲのキャラクターを作るにはかなりの時間がかかることがわかります。
しかも話の構造図はかなり前から組んでいるので、メタファーをきっちり合わせれば、最近実装された男士を派生に登場させても構わないわけです。
孫六兼元は実装早々に舞台出演が決まった(決まっていた)ことから言っても、舞台の末満氏は男士の実装よりかなり早くその情報をもらっていると考えられます。
(2023年10月実装の兼元を2024年2月に告知される舞台に登場させる脚本を書くのはおそらく事前に情報もらってないと無理だと思われる)
そんでもって兼元ついでにここ最近の新キャラの話をするなら、ごっちんも舞台出そうデスヨネ……(推しに関してお通夜みたいなトーンで予想を語るな)。
後家兼光、姫鶴一文字の回想140で「刀身御供」という重要な要素が出ていること、その回想で後家兼光は「人に倣い、習う」「模倣」要素を強調していること。
長義を巡るスタンスが基本的に国広と真逆であること。
舞台の長義は対大侵寇で退場ではないか? と予想するので、対大侵寇のタイミングでごっちん来るかもしれないんだよねー(遠い目)。そんでもって回想141を回収した状態で長義くん退場とか?
……名前から来るメタファーで言うと。
「後家」は未亡人だけではなく、
「対(つい)になる物や、合わせて一つの物の、片方だけが残っていること」
という意味もあります……。
舞台の対大侵寇はふたつの山姥切の片方が欠ける話だと考えるとメタファー「後家」としてごっちん出てくるんじゃないかな……。
自分で言っておいてどうなんだろうと思うんですけどね。
舞台の対大侵寇の敵、悲伝で言うところの「鵺」は国広自身の分身じゃないかと思うので。
立場被るから出ないのか。両方出すのか、それとも私の予想が見当違いで、「鵺」のポジションこそをごっちんが担当するのか?
……「慈伝」の時点で大般若さんが長義くんに対して「身内」としてどうこうのフラグを立てたと思うんですよね。
これを考えるなら対大侵寇相当話あたりで多分誰か長船の身内が来るんじゃないかと思ってましたが、ごっちん来たら一気に色々回収できるんだよなこれ。
「慈伝」見た時点では当然そんなこと予想できないのでどちらかというと国広の方と井伊家繋がりで小竜くんを想定していたんですが小竜くんどっちの山姥切ともすでに結構ミュージカルの方で絡んでいるという。
ついでに以前の考察で慶応甲府と「梅」のメタファーが云々という話をしていましたが、「梅」に関してもミュージカルの「陸奥一蓮」がきっちり回収していました。わーお。
長義の対としての立場、国広の写し要素と関連する模倣要素、長船という身内、「桜」に対する「梅」。
ううううん、今のところこれ以上適切なメタファー担当はいない気がする。
ついでにごっちん来たなら多分セットで姫鶴も来るだろうしね……。
というか男女反転エピソードの禺伝がある通り舞台は女性要素が重要だから、「姫」で「鳥(鶴)」のおつうはむしろごっちんがいなくても最重要メタファー担当でしょこれ。
「鶴」は一文字で二羽の鳥。双鶴。
それが反転する女性要素、「女」で主に対する「臣」である「姫」。
あとは、「慈伝」のナレーションが「前田」くんだったことを考えると「後家」ってそういう意味でもセットだよね……。
推しだから派生で活躍しているところが見たいのに、お前が来たらバッドエンド確定だぜ! みたいなメタファー担当で複雑な気持ちにさせてくれる、それがごっちん。
しかし舞台は特命調査の内容とか結構原作ゲーム準拠に近いストーリーかつ国広・三日月主人公の話であることを考えると、国広の本歌である長義に近づいた後家兼光という存在は無視できないよね……。
10.ふたつとない山姥切
「慈伝」を初めて見た際に、不思議な配置だなとは思ったんですよね。
国広を中心に舞台を見た場合、三日月はどちらかと言えば父親みたいなポジションで、長義くんが嫁(夫)のようだ。
しかも前者はともかく後者はあながち気のせいでもないらしく、ギャグシーンとはいえ「お見合い」要素が入っている。
だから「慈伝」はあの時点で、国広と長義を夫婦のように扱っている要素がある。
でも本来の刀剣の研究史から言えば普通は逆じゃない?
国広にとって本歌である長義が父のはずで、本丸で出会う何の縁もない他刃である三日月が嫁(夫)。
何故刀剣本来の物語から連想される自然な配置とは逆なのか?
この構図の意味がある程度判明するのが「綺伝」の黒田官兵衛の話で、どうやら鍵は陰陽要素らしい。
女性はつまり「陰」であり、簡単に言うと「男の反対側」を示すのでしょう。
さらにミュージカルあたりで開示された情報を合わせると、「花影ゆれる砥水」で長義くん自身が口にした統合の基準が重要。
強い物語を得られなければ統合ということは、つまり。
本丸にいる国広の本歌は、おそらく本丸に来る長義ではない。
本丸に顕現する刀剣男士としての国広、長義はどちらも山姥を切った刀。
ただしそうなると、本来の正しい本歌・写しの組み合わせからはズレている。
山姥を切った国広の本歌は号をもたない本作長義(以下、58字略)であり、すでに「山姥切長義」に統合されている。
山姥を切った長義の写しは自分では号を持たず本歌の号を写しただけの国広で、すでに「山姥切国広」に統合されている。
……これを考えるなら、舞台の構図の方が自然だ。
離れ灯篭の歌詞にもあるように、長義は「光」を目指し、国広は長義が来ると「影」になろうとするけれど、その根幹はやはり「月」の雲隠れ。
この「月」は、研究史的には国広自身であると考えるのが自然。
般若(智慧)たる「月」というメタファーが重要で、それは国広自身。
そして「夢語」などの中で、国広と三日月の入れ替わり、この二振りの互換性が示唆されている。
「月」と「山姥切」は互換する。あるいは両者は本質的に同一物であると言える。
国広にとって全ての物語を生み出した「父」なる「月」は本歌としての名前のない「本作長義(以下、58字略)」でもあり、舞台本丸に関しては「三日月宗近」であり、そして最初に本歌と写しの物語に山姥切の逸話を持ち込んだ「山姥切国広」……自分自身。
そして、本丸に来る「山姥切長義」の最初の状態は微妙にその存在からズレている。
女性要素は要するに「自分の中の、普段意識している顔とは反対側」を示す。
だから写しである自分を意識する国広は長義の「山姥切」の逸話こそを維持しようとするし、長船派は放任主義だと離れようとしながらも後家兼光は長船の名を持たぬ長船である長義の中に、長船としての自分自身を見る。
そしてその自分の中の反対側の面を持つ相手というものは、どうやら一度出会ってしまえばそのために世界を放棄して全てを擲ってでもいいと思わせる程に愛おしいらしいことを示すのがミュージカルのあれこれ。
「結びの響き、始まりの音」では名もなき刀である時間遡行軍たちは、「土方歳三」という名のある物語に出会うためだけに死んだ。
「江水散花雪」では、「吉田松陰」と「井伊直弼」が出会ってしまっただけで全て手遅れであり、その世界は放棄せざるを得なかった。
必ずしも男女恋愛としては描かれない。ただ陰陽的な要素としては男性性である「陽」と女性性である「陰」の結合が世界を放棄させるほどの力を持つ。
……長義と国広の関係というのは、基本的に本来その名から想起される本来の対、もともと愛している相手とは出会えない敵(かたき)同士の関係性。
だけどその敵(かたき)は同時に、一度出会ってしまえば全てを捨ててでも傍にいたいくらい愛しい伴侶の要素を持っている。
舞台の構造を中心に見ているのでどうしてもこういう表現(「綺伝」の細川夫妻)になりますが、基本的に刀剣男士同士の関係性は全部これだと思います。
要は女性要素は自分の持つ反対側の面というだけです。
自分の表向きの要素とは敵対するはずの相手が憎い、自分の裏側の要素と同じ物語を持つ相手が愛しい。
しかもここからが「静かの海のパライソ」シミュレートの真骨頂。
一度墓下に葬り去られ、名を奪われた「天草四郎」はだからこそ来世で愛する名もなき弟を手放せず、「名もなき兄」として生きることを選択する。
名もなき弟と引き離された「名もなき兄」は、愛する弟を手放してでも他者から望まれた通りに「天草四郎」の名を自ら背負う。
ミュージカルの方の考察としては別に二人の天草四郎は刀剣男士によって死後為り変りが成立したあとの己の運命を拒まないと思われる。
しかし全ての役者が同じ答えを出すとは限らない。
……舞台について改めて考えたんですけど、舞台は「憎しみ」の要素を強調するので、やはり憎しみの物語を中心として描くんじゃないでしょうかね。
ミュージカルは代役を許容するので、「天草四郎」の名を奪われた物語から「名もなき弟」を取り上げないと思われる。でも、舞台はどうかな?
諸説への逃亡を許容しなかった舞台本丸のスタンスとしては、例えば天草四郎の入れ替わりのようなことが判明したら元の位置につかせるんじゃないか?
「天草四郎」だったものは弟と引き離されて無理矢理本来の役割に戻される。
「名もなき兄」だったものは一度得た名前を奪われてもう一度名もなき物語に叩き落とされる。
そしてそれを双方が許すかと言えば……多分、許さない。
これは「江おんすていじ」で開示された理屈が関わってきますね。
一度赦したものを翻しまた奪うことにより、憎しみの種が撒かれる。
「天草四郎」からその名を捨てる代わりに手に入れた「愛するもの」を奪うこと。
「名もなき兄」から愛しい弟を手放してでも手に入れた「名前」を奪うこと。
これは双方を一気に狂わせる引き金なんでしょうね。
……この理屈、多分言語化を試みる人があんまりいないだけで多分みんな無意識に理解してるんじゃないかな。
長義・国広の山姥切問題に関して国広に毅然と己の名前を主張させる二次創作ってほぼなくて、大体みんな長義を「山姥切」として立てて、国広はその写しで落ち着きますよね。
最初に紹介された話の方向性がそっちだからというのもあるでしょうが、多分みんな国広の修行手紙を読んで無意識のうちに判断しているんだと思います。
長義から名を奪うのは名が存在を規定しているとうらぶ世界のルール的にアウト、そして国広から長義の存在を取り上げるのは単に当たり前のようにヤバイのだと。
国広がそもそも本当に長義を嫌っていたら、修行手紙で本科の存在感を食ってしまったと動揺なんかしないと。ここで名を懸けて戦うことを選ばなかった時点で、国広は己の名よりも長義の存在を大事にするだろうと、我々は多分最初からなんとなく察している。
そして国広がそういうやつだからこそ、その国広から長義を取り上げることは長義から名を取り上げるのと同じくらい危険だとも言語化できないレベルの無意識化で気づいている。
だから二次創作はそもそも二振りに名をかけて戦わせない。
ましてや長義を自分からこてんぱんに負かせて喜んで山姥切を名乗る国広は、まず国広好きは描かないと思われる。誰が見ても完全にキャラ崩壊だから。
一方で、公式である派生作品はどうか。
こちらも実力差的に長義に勝てる国広は描くが、それを喜ぶようなキャラクター造形にはしない。
むしろ国広はいつもそうして長義と戦うこと自体を嫌がっている。勝って喜ぶことはありえない。
けれど完全に争いを避けることはできず、むしろ争った結果を見せてくるのが公式だろう。それが物語の核心だから。
「刀剣乱舞」の本質の一つである、物語の食らい合い。それを描くために。
そこで重要になってくるのが舞台の「影」としての国広の動きで、これはミュージカルの「陸奥一蓮」の坂上田村麻呂のように、鬼斬りが鬼になる方向性だと考えられる。
舞台の国広がどういう選択をするのかが、ある意味山姥切国広の極修行の全て。
そういえば刀剣男士の分裂に関しても、原作ゲームのみの考察で考えていた原理とはかなり違っていたという言及をいつも忘れていました。
原作ゲームと研究史のみの考察だと、国広みたいに逸話が完全に矛盾しているタイプの刀はシンプルにその片方が敵になるぐらいに考えていたんですが、実際に舞台やミュージカルを見た結果から判断するともっと複雑だわこれ。
だからパライソの理屈が重要になるわけで……。
国広は「天草四郎」から「名もなき兄」になったタイプ。
「名もなき弟」を手放したくないために、自分から名を捨ててまで「名もなき兄」の立場を選ぶ。
でもこれ自体も名がある方とない方と印象が逆なだけで、「成り代わり」という立場乗っ取りには変わりないんだよね。
この時に、対抗馬である元「名もなき兄」が「天草四郎」を演じることに同意してくれればいいんだけど、常にそうなるとは限らないんだよな。
同じ「名もなき弟」を巡って争う可能性がある。それこそが「影」であり、いずれ「鬼」へ変わる存在。
そして「綺伝」からみるように、本来は「鬼」こそが「蛇」の本当の伴侶。
極修行手紙からすると、山姥を切った国広は名もなき物語である号のない長義を求めて、自らを山姥を切っていない刀だとする。逆に言えば山姥を切っていない刀の立場を乗っ取ってしまう。
その時自分自身から分離した感情は逆の道を選ぶ。
本来国広に統合されているはずの、山姥を切っていない、本歌の号を写しただけの存在。
その影は、それ故に自分こそが「山姥切」だと名乗るのではないか?
長義を写したからこそ号も写しただけの名もなき物語、それゆえに堂々と自分は「山姥切」だと名乗る存在。
……これ要するに、長義くんが最初から求めている存在では?
長義くんがわざわざ派生作品の数々で喧嘩を売ってまで国広に自分が写しであるからこそ山姥切だという自覚を持たせようとしているのはこれが理由だよね。
「山姥切長義」の認識からすると自分の写しはそういう存在だ。
でもその子は本来、最初から国広に統合されていて存在しない。
それが、極修行という認識の変化を切っ掛けに、「朧」のように国広から分離してしまったら。
……というのが、舞台側のシナリオではないだろうか。
もともと出会いたかった存在を前にしたら長義自身も動揺するだろうし、それ以上に国広が狂うと思われる。
自分の名を否定してまでも守りたかった相手が、結局自分を見てくれないのだから。
望まれているのは自分の反対側、自分の一部だけど決して自分自身ではない存在。
綺伝の忠興だこれ。
こういう理屈であの物語は成立するんだなと……。
舞台に関してはミュージカル側の理屈を取り込んだら大体整理できたかなと。
おかげでなんで無双を除く本丸の物語はいつも国広と長義の登場に時間差をつけるのかという疑問の答にも納得がいってしまったし。
考察出してる時は考えるのに必死なんですが、一度結論を出したことによって思考が落ち着くと今度はその事実をどう受け止めるか感情の方がじわじわと……。
あとは実際どうなるのか結果待ちでいいかなぁと。
考察しながら思ったのは、いつもこっちの予想より更に構図が複雑で思考が追い付かないよーいってことですね。
解読すべき図面がどんどん拡大していってもう本当に思考がおっつかない。予想の前に誰か俺にそもそもとうらぶの現状教えてくれよ。
今の時点ではこんなところですかね。
11.EX 心伝のあらすじを読んだので
上の文章を書いた直後に心伝のあらすじが数日前に来ていることに遅ればせながら気づくトラップ。
あらすじから今の時点で考えられることもちょちょっと整理しておきたい。
これ、生き残った御陵衛士って多分、「加納鷲雄」だよね。
本来は流山で大久保大和として投降した近藤さんの正体を見破って処刑に持ち込んだ人物。
正史通り死ななかった近藤勇を正史に則って殺すために、正しくそのための人物が本来の総督に代わって引っ張り出されてきたと。
御陵衛士の「生き残り」だから油小路事件自体はやはり起こっていて、伊東甲子太郎辺りは多分死んでいると思われる。藤堂平助が放棄された世界で何故か生きているのは原作ゲーム通りだけど。
迅衝隊VS新選組であるはずの戦いは御陵衛士VS新選組になるのか。
どちらにせよ本丸の部隊が味方するのは維伝と逆に迅衝隊(土佐勤皇党)みたいだけど。
それと御陵衛士による新選組への復讐って史実では成功しなかったという沖田総司襲撃未遂事件もあって……。
もともと近藤さんが伏見で御陵衛士に肩を撃たれた事件って、本当の狙いは沖田総司で、その襲撃に失敗したけど偶然近藤さんを発見したから撃ったという話で……。
つまり、御陵衛士が沖田くんを殺し損ねたことが、近藤さんの負傷の遠因。
そしてそのせいで、近藤さんは新選組局長でありながら「鳥羽・伏見の戦い」に参加できなかった。
この「鳥羽・伏見の戦い」での敗退から「甲州勝沼の戦い」に流れ込むわけで……。
問題:慶応甲府の沖田くんの気持ちを考えよ
――自分があの時殺されていれば、近藤さんは死ななかったかもしれない。
けれど時を巻き戻すことはできない。
すでに甲州勝沼の戦いまで話が進んでしまった世界。
それでも、時間遡行軍という勢力のおかげで、病に弱った体を元に戻すことができるというのなら。
――今度こそ、己の手で、兄とも慕った近藤さんを守る。
そして加納鷲雄を始めとする、御陵衛士への憎しみ。
もとは新選組という同じ組織の一員だったはずなのに、袂を分かった元は同じ組織の一員こそが、近藤さんを死に追いやった。ただの維新志士が相手の時より憎いと思うんですよねこれ。
迅衝隊の総督に御陵衛士の生き残りを据えることで、慶応甲府の世界が実質的にその戦い以前の因縁、「新選組」が「御陵衛士」を分離した頃まで問題が遡ることになります。
そしてそれによって、この話、ますます山姥切国広の物語の造形に近づいて行ったなと……。
分離した半身の裏切りによる、大切な存在の死。
それを避けるために、いくらだって命をかける。
で、そういう沖田くんの必死な姿を見る傍ら、御前と加州が話をしているだけですよね。
作り話を、付け加えたかったものがいた、と。
これ、原作ゲーム考察の時点では研究史からひたすら判断してましたけど、ここ最近派生というか特にミュージカルを摂取したらまた印象が変わりますね。
多分、放棄された世界そのものが「作り話」みたいなものなのだろう。
「江水散花雪」の吉田松陰と井伊直弼の出会いなんかもろにそれっぽい。
正史で出会わなかったこの二人が出会ったらどうなるのだろう、その夢想の行く末が放棄された世界。
舞台は放棄された世界そのものへの言及ってあまりないような気がするんですが、ミュージカルは放棄された世界はそもそもどういうものなのかを刀剣男士たちがしきりに気にしています。その上での「江水散花雪」ですから。
さらに舞台の慶応甲府もやっぱり以前の考察で出したこれ重要だと思うんですよ。
あの世界の沖田くんは、近藤さんとともに死ねる。
それはもしかしたら、正史で近藤さんの死を知らないまま布団の上でただ病死したのとは違って、一つの救いなのかもしれない。
剣士は戦うものであり、大切な存在がいるのならやはり自分の手で相手を守るために戦いたかったであろう。
舞台は「无伝」で三日月がわざわざ高台院に真田十勇士を戦わせてやってくれと許可を求めるくらい、この心情を強調している。
大切な人を守りたい。
それができないなら、せめて、戦って共に死にたい。
その願いを、沖田総司の願いを、放棄された世界の慶応甲府だけが叶えてくれる。
あの時、自分が死んでいればもしかしたら話は早かったかもしれない。大切な人を傷つけずに済んだかもしれない。
けれどその後悔以上に、もとは同じ自分自身だったのに自分を裏切り袂を分かった半身が憎い。
だからこそ戦う。例え勝てなくてもせめて、今度こそ大切な人と共に逝けるのであればそれは、正史とは違う一つの救いの姿だと……。
あらすじだけですでにクソ面白そうじゃねーか心伝……。
実際のところどうなるかはまぁやはり見てみないとわからないんですが、面白さはすでにあらすじの時点で保証されている気がする。
「加納鷲雄」か。加州のメタファー「加」がこんなとこに。
しかも「鷲」なのでやはり鳥。通称の「道之助」も重要だと思います。
この名前から来るメタファーや、やはり正史における近藤さんを斬首という結末に導いた人物であることを考えると他の候補は考えにくいのではないかと。
舞台はどうあっても、その人に正史での正しい役割を果たさせるんですよね。
だから近藤さんを死へ導くのは、正史と同じ人物でなければならない。状況は多少変わっても、その人がその人であることが一番重要。
……ただ、その立場がその次の話の国広のポジションそのものだよねとも考えられるわけで。
どうあってもその人を殺す立場に立たねばならない。
分離した己の半身の嘆きを叩き折って前に進む。
本当どういう風に描かれるんでしょうね……。
「心伝」の情報整理についてはこんなところで。
あとは公演を楽しみにしておけばいいでしょう。
それでは、次に話が進んだ時まで一休みと行きます。