メタファー「愛」の考察
大慶と笹貫の回想について考えていたら何故か回想55と回想141の考察が大分捗りました。
過去の呟きも収録していますが、前回の道誉叔父周りの考察の続きが前提です。
1.第二節の爆発
これまでの考察の結論前提で特命調査と各節の内容を考察しますが、
とうらぶ各節はそれぞれ特命調査をなぞってると思わしき構成なのと、我々は聚楽第で北条氏政に逃げられて、文久土佐藩の中ボス・吉田東洋戦で逃げる東洋を撃破したので、結論を言うと第二節ラストに我々は爆発します。
……?????
俺は一体何を言っているんだ(真顔)。
いやでもあれでしょ、
聚楽第のボス戦はゾーリンゲン友邦団、北条氏政を逃がした「友」。
この「友」の意味が対百鬼夜行の火車切の台詞でようやく判明。
「助けてもらっただけで友だち」異去 百鬼夜行 其の8 『朧月(おぼろづき)』
友だちだから助けたのではなく、助けたから友だと。そしてミュージカルの情報も含めて考えると、「友」は相手を逃がすものなんだよね。
最初の特命調査・聚楽第の解釈はこれだと思う。ゾーリンゲンは氏政様を逃がしたから友なんでしょう。
我々はそういう「友」を斬るのが最初の物語。
じゃあ逃げた相手の方はどうする? ってところで思い出される次の特命調査、文久土佐の吉田東洋戦は逃げる東洋を罠で追い詰め撃破する。
つまり、逃げる相手を捕らえると言う意味で聚楽第のリベンジ戦になっていると思う。
今度は逃がさない、前の結果を超える構成。
と、いうことは。
特命調査(各節)の構造は全て、次の話でその前の課題を乗り越える形になっているのではないか。
聚楽第の「友」の意味が対百鬼夜行(推定第二節中盤)で明かされたように、そのボス戦の意味は次の特命調査の中ボス戦で前の課題を乗り越えた形式で明かされるのではないか?
天保江戸の中ボス戦はマインスイーパで炮烙箱の爆発を阻止したという成果だから……つまり、実は我々は文久土佐藩のボス戦の時点で爆発していました?????
えーとつまり、坂本龍馬の「偽物」の意味は「炮烙箱」の爆発なのでは?
は?????(考察出した本人が不思議そうにするな)
まだちょっと発想段階なので構造を綺麗に整理できていませんが、「友」(ゾーリンゲン)と「逃がす」(氏政)ものの関係性が強調された以上、ぶんとさの東洋戦の逃げるものを捕らえる要素も無視できないなと。
そして東洋戦に「罠」が重要なことを考えると二節の鍵が火車切であることも納得が行く。
ぶんとさで南海先生が作った罠の素材は敵の「死体」。
だから火車――罪人の死体を盗む猫の妖怪を切る刀が鍵なんだろう。
火車切がいなければ、死体から作る「罠」を用意することはできない。
構図についてはもうちょい細かく整理していく必要性はあるだろうけど、メタファーの重要性は一致すると思う。
「偽物」の意味は主に山姥切界隈で延々議論されていますが、公式解答来るとしたら次の第三節の半ばか(何年後だよ)。
慶長熊本の闇り通路からすると天保江戸のラストは真っ暗で?
慶応甲府の陣取り合戦からすると慶長熊本で我々は陣地を取られてんの?
あと大侵寇の中ボス戦ってどれだっけ?
基本構成は円環構造だということを考えると、大侵寇から聚楽第に繋がって一周すると思うんですが。えーと……どこがどうなるんだこれ? 聚楽第が敵を斬るだけなのは、あれがそもそも大侵寇の名残だから……?
もしかしてあれか? 三日月を迎えにいったところ? あれが慶応甲府のラストと対応してるんだろうか。
2.特命調査シナリオのポイント整理
特命調査のポイントを一度並べてみましょうか。
1.聚楽第
・洛外、洛中、聚楽第内部で敵をひたすら斬る(評定優まで300体)
・聚楽第内部のボス戦はゾーリンゲン友邦団
(監査官が存在を確認したはずの北条氏政が、ゾーリンゲン友邦団に逃がされたものと考えられる)、
2.文久土佐藩
・播磨屋橋で肥前忠広と合流、播磨屋橋ボスは幻影人斬り隊
・高知城下町で南海太郎朝尊と合流、逃げる吉田東洋を南海太郎朝尊の罠で追い詰める
・高知城天守で坂本龍馬の「偽物」と戦う
(南海は合流時に特別に顕現演出が入る、人と刀の延長戦の話、歴史を守る本能、壊れた銃の話など重要そうな話題が多い)
3.天保江戸
・両国で水心子正秀、源清麿と合流。どちらか選んで部隊に入れる、両国ボスに窪田清音の影
・江戸市中で炮烙箱探し、江戸市中ボスは首謀者の有力候補、鳥居耀蔵
・江戸藩邸上屋敷で老中(水野忠邦)を撃破
(最終ボス戦の直前に清麿を救いたい水心子と助言する蜂須賀の回想が入る)
4.慶長熊本
・熊本城下で古今伝授の太刀と合流、昔馴染みと歌、放棄された世界に花は咲かない、ボスマスで細川家の花の話
・熊本城で鍵集め、ボスは小西行長、ガラシャが中核と言う話と、地蔵を救いたいという話、間違った歴史
・闇り通路、提灯を持って闇の中を進む、中ボスは有馬晴信、ボスは大村純忠、庭で迷いし歌仙兼定、ガラシャ・地蔵と顔を合わせる
・熊本城本丸御殿、高山右近を超えて最終ボス細川ガラシャ、歌と優しさの話
5.慶応甲府
・躑躅ヶ崎で監査官と合流、ボスは藤堂平助、生身の人間が刀剣男士に対抗できるわけがないと言う話
・古府中で四斤山砲と戦う、ボスは松原忠司、井上源三郎、なりかわりとまがいものの話
・甲府城を突破、見つかってはいけない敵は斎藤一、永倉新八、土方歳三(生存組)、愛こそ力
・甲府城本丸、原田左之助、谷三十郎を越えてボスは近藤勇と沖田総司、作り話の話
(新選組隊士は肩書だけで原作ゲーム本編では名を隠されている)
特命調査は一度シナリオを見ると復刻では序盤をとばして途中からのプレイになるので若干どこがどこだかうろ覚えなんですが、Wikiのマップ情報と回想内容を照らし合わせた感じこんな内容だったような気がします。
マップ名とか敵の性質とか意味ありげでも全部書くと見づらくなるので略した部分がまだまだありますが。
そんでもって対大侵寇はどうしましょうかね……。
6.対大侵寇防人作戦
・三日月から月を見て何を思うと問われる、三日月と初期刀の会話
・入電後、三日月と初期刀の会話、白き月を待て
・本丸襲撃、三日月離脱
・白月からの対大侵寇防人作戦、敵は全部斬る
・始まりの出陣、初期刀が椿寺で三日月を回収
・門前に混登場、骨董、巨体、破壊、初期刀と三日月の協力で撃破
・勝利後、三日月と初期刀で変わることの話
・月、新た。審神者と三日月。未来へ進めずにいたのは自分だったと三日月が言う
う~~~ん、対大侵寇防人作戦は特命調査の先にある物語だけど、こうして並べた感じ毛色が結構違うので一度これを抜いて5つの特命調査のみで円環関係を考えた方がいいような気がしてきた。
慶応甲府がなりかわりとまがいものと作り話の愛の話で、対大侵寇が愛とかそういう言葉を一切出さずとも本丸を救いたい三日月の話であることが明白であることを考えると、性質的には対大侵寇=聚楽第の図式ではないかと思う。
とりあえず特命調査のみで考えると。
1.聚楽第で北条氏政に逃げられる
1´.文久土佐藩で逃げる吉田東洋を追う(前の特命の課題を達成する構成と推測される)
キーアイテム.敵の死体で作った罠
2.文久土佐藩で龍馬の「偽物」を倒す、壊れた銃
2´.天保江戸で炮烙箱探し(つまり「偽物」との邂逅は炮烙箱の爆発を意味する?)
キーアイテム.敵の落とす鑑札
3.天保江戸で水野忠邦を倒し、清麿を救う目標を達成
3´.慶長熊本で闇り通路を提灯で進む(天保江戸の結末は闇の中を灯りなしに進むようなもの?)
キーアイテム.敵の落とす油で灯す提灯
4.慶長熊本で細川ガラシャを倒して解放するが、一度裏切った地蔵行平は複雑な心情
4´.慶応甲府の陣取り合戦、大砲を躱しながら進む(ガラシャ戦は陣取り合戦の負け、現地民と手を組めなかった?)
キーアイテム.旗、そして陣地という発想からおそらく現地の住民と手を組んでいる
5.慶応甲府のボス戦、近藤勇と沖田総司、両方を倒して優を獲得
5´.聚楽第(対大侵寇)、大量の敵と戦う(慶応甲府でボス両方を倒したのに、取りこぼした大量の敵がいたことになる?)
6・1.対大侵寇のテーマと聚楽第が一致する可能性
「友」ことゾーリンゲン友邦団によって北条氏政が逃がされることと、混(七星剣)の撃破が同一であると推測される。
こんな感じかね。
特命調査の流れをとうらぶのシナリオ全体がなぞっている、第一節は聚楽第、第二節は文久土佐藩だと考えると、「対百鬼夜行迎撃作戦」の火車切の重要性に着目される。
火車切は「火車」と呼ばれる「死体を盗む猫の妖怪」を斬るという名前の刀。
文久土佐藩で南海太郎朝尊が放棄された世界に残る「敵の死体」から「罠」を作っていることを考えると、対百鬼夜行迎撃作戦はそのまま文久土佐藩の中ボス戦、吉田東洋戦だと考えられる。
文久土佐藩の「偽物」と炮烙箱の爆発がどう繋がるのかはよくわからないが、天保江戸では水心子が最終ボス手前で敵の影(名前は明かされていないがおそらく男谷信友だと思われる人物)の忠誠心を見て取り悩んでいるところへ、蜂須賀がそれでも進むべきだと助言する。
これは3´、慶長熊本の闇り通路を灯りもなしに進むのと同じ心境だと考えられる。
また4.慶長熊本で地蔵・ガラシャは一度は手を取り合いながらも最後にはガラシャの方から決別を選んだことを考えると、4´慶応甲府の陣取り戦の鍵は、舞台の心伝でそうであったように現地民である新政府軍との協力があってこそ乗り越えられたものと考えていいと思われる。
このように特命調査は前の話のラスボス戦の課題を次の話の中ボス戦で乗り越えた構造と考えられる。
そうなると慶応甲府のラスボス戦の課題は、聚楽第か、あるいは対大侵寇の中ボス戦の内容だと考えられる。
聚楽第も対大侵寇も中ボス戦、シナリオの中間地点は大量の敵と戦うことが共通しているので、この二つはやはり一致していると思われる。
とうらぶは最初は全ての要素を見せず、徐々に内容が明かされていく構成となっている。
聚楽第では監査官である山姥切長義は顔を隠した謎の人物姿で登場し、国広と長義のやりとりは他の特命調査の関連刀たちに比べると圧倒的に少ない。
その理由はおそらくこの構造によるものではないか。
また、舞台の構成が山姥切国広の修行、その帰還に焦点を当てているということは、舞台は「山姥切」と「七星剣」のポジションを互換すると推測される。
もともと第一節の真ん中、特命調査のスタートを告げる聚楽第を中心としたふたつの「山姥切」の物語と、第一節の〆を担当する対大侵寇、「三日月」と「七星剣」の物語が互換関係であると見られる。
節ごとに特命調査の内容が踏襲している、という推測はそろそろ固定でいいと思われる。
一方で、時間遡行軍、検非違使、時の政府の刀、そして我々本丸の刀などの陣営は一致しているのか? という疑問が浮かび上がる。
3.廻りながら廻る
火車切は「死体を盗む猫の妖怪を斬る」という名前の刀である。
しかし、文久土佐藩で死体を使っているのはむしろ我々側である。
また、対百鬼夜行の火車切は九鬼を、天保江戸の水心子は清麿を助けることを願っているが、むしろ我々本丸側は聚楽第で北条氏政を逃がした「友」ことゾーリンゲン友邦団を斬る側である。
と、言うことは、敵・味方それぞれの陣営の動き方も整理してどのように動いているのか確認しなければならない。
1.聚楽第
敵1:北条氏政→逃げる
敵2:ゾーリンゲン友邦団(友)→北条氏政を逃がす
本丸:大量の敵を倒す、ゾーリンゲン友邦団(友)を斬る
政府:監査官が本丸を監査、見守る
特命調査中ではなく、その後監査官である長義が本丸配属となってから本歌と写しの間に名を巡る真偽争いの回想56、57が入る。
2.文久土佐藩
敵1:吉田東洋→逃げる
敵2:坂本龍馬→偽物
本丸:逃げる敵(吉田東洋)を追う、偽物(龍馬)を倒す
政府1:南海太郎朝尊が死体で罠を作る
政府2:人斬りの刀・肥前が敵を追い求める素振りを見せる
3.天保江戸
敵1:窪田清音らの影
敵2:水野忠邦→天保の改革絡みだろうがほとんど事情不明
本丸:先行調査員の行動を見守る、進んだ先でだけ出会える答もあると助言
政府1:水心子は江戸の町を戻したい(清麿を助けたい)と願う
政府2:清麿は己の役割を果たす方向
4.慶長熊本
敵1:細川ガラシャ→解放されたいと願い地蔵についていく
敵2:キリシタン大名→ガラシャを守り取り返そうとする
本丸:ガラシャを倒す、古今に協力して地蔵を取り戻す
政府1:古今伝授の太刀→花ことガラシャを倒し、地蔵を救いたい
政府2:地蔵行平→花であるガラシャを守るために、時の政府を裏切る
5.慶応甲府
敵1:藤堂平助らなりかわり、まがいもの
敵2:土方歳三ら、甲府城を見張る
敵3:近藤勇と沖田総司→甲州勝沼の戦いの歴史を変えて生き延びる、生き延びさせる
本丸:現地民と組んで陣取り合戦を制し、甲府城で出会わないようにし、近藤・沖田両名を撃破
監査官:本丸を監査、強さの理由を教える
……こんなところ、か。
一度まとめて後で違和感あった部分を修正してを繰り返しているのでもう私の頭もごちゃごちゃです。
ここにさらに対大侵寇と対百鬼夜行もつけたすべきか。
6.対大侵寇
敵1:大量の敵→本丸を襲撃
敵2:混(七星剣)→本丸を襲撃
本丸1:審神者とほぼすべての刀→本丸を守る
本丸2:三日月宗近→本丸を離脱して敵を引き付ける
政府:跳躍経路へ浸食あり、緊急防衛態勢に入る、クダ屋こと狐ヶ崎により自立プログラムで本丸支援
7.対百鬼夜行
敵1:大量の敵→平安京疑似フィールドに襲撃
敵2:鬼→平安京疑似フィールドに開いた穴から登場、九鬼を取り込んでいる
本丸:平安京疑似フィールドで敵を迎撃
政府1:火車切→友だちの九鬼を助けたい
政府2:九鬼→火車切を助けて鬼に取り込まれた
??:朧三日月→結局この時何してたんだっけ? あいつ
よく考えたら対百鬼夜行の朧三日月は何を考えてんだかもまずそうだけどそもそも何をやったかよくわからんよね。火車切と話してただけじゃね? あいつ。
その「火車切と話してた」ことを重要視するなら、火車切が「罠」こと「死体」のメタファーに関する存在であることを考えたい。
……文久土佐藩で南海先生だけシナリオの途中でわざわざ顕現演出が入る。
これ、シナリオの「途中で発生」する「朧」の類似演出ではないか? と思います。
肥前君が漢字の意味、言葉遊び的に「朧切」ではないかという話は前にしたと思います。
「肥」(「月に巴」=蛇なので、ほぼ「月に龍」の朧と同義)
「前」(刀で斬る)
だとしたら、二振りセットの相手である南海先生は「朧」の意味を持つのでは?
名前的には「南」は楽器を意味したりして、直接「朧」に結びつくかと言うと難しい話ですが、対の相手にそういう意味がないと否定方向に考えるのも変な話かなと。
相方が朧切なら南海先生もその関係、朧切もしくは「朧」要素ではないかと思います。それが文久土佐藩途中の顕現シーンの意味かと。
朧である南海先生が「罠」=「敵の死体」を使って、「吉田東洋」を追い詰める。これが文久土佐藩だとしたら、対百鬼夜行で火車切と会話した三日月の存在も同じ意味を持つのではないか。
「朧」と「死体(罠)」。そして「逃げる敵を追う」。
さらに「発生」という現象に注目するなら、対百鬼夜行の次の実装刀剣が「生」の字を持つ「雲生」であることにも注目したいと思います。
「朧」の存在は「雲」の発「生」。こう考えられます。
……対百鬼夜行の目一つの鬼の恨み言が「刀剣男士など生まれて来なければ」であり、その次に実装されたのが雲の発生を意味する「雲生」。これが「朧」と同義である、つまり文久土佐藩の南海先生周りの要素と結びつけて考えられるということは。
吉田東洋は、武市半平太とその刀である南海太郎朝尊にこそ殺される。
目一つの鬼の「刀剣男士など生まれなければ」の先はそのせいで自分が死んだ、死ななくてはならなかったという非難のような気がしますね……。
お前たちさえいなければ生き延びられたのに。そういう非難。
「朧切」の相方が「朧」だと考えられるなら、やはり「鬼」の相方も「鬼斬り」ではないか。対象とそれを斬るもので対関係を構築しているのではないか。
朧である三日月の相方はやはり「朧切」=「鬼斬り」だと思われます。
現時点で対百鬼夜行からの流れで朧三日月の相方は鬼斬りである童子切と目されていますが……。
それぞれの陣営の立ち位置の話に戻ると、聚楽第と天保江戸で本丸の刀と政府刀の立場が逆転しているような気がします。
今までもそう考察してきたんですが、ただこれ厳密に言うと逆転じゃなくてそれぞれが角度的にちょっとずつ動いたって感じですよね。
この角度的なものを整理しようと思ったんですが……どうもうまくいかない。
本丸、遡行軍、政府刀。
あるいは本丸、遡行軍、検非違使。
この3陣営で話の整理を考えてみようかと思ったんですが、んー、頭の中で考えるだけでなく紙に図を描いて整理してみようかなーと思っても正直上手くいきませんでした!
聚楽第、文久土佐藩、天保江戸までならそれぞれぐるぐる移動ですむような気もしますが若干確信が持てない要素がありますし、慶長熊本以降は地蔵くんの裏切り要素をどう捉えるかで陣営数が動く気がします。
天保江戸までは一応3陣営、慶長熊本は4に増えないか?
あるいは敵であるガラシャ様と政府刀の地蔵くんが協力関係にあり、キリシタン大名たちは逆に奪われたガラシャ様を取り返そうと行動し、本丸側の歌仙と政府刀の古今が協力しているという関係から、ここで5陣営にしてそれまでの3陣営に見える構図を見直す。
3陣営だと思われていたものが5になるのは、途中で分離と統合が起きたから。
キリシタン陣営からガラシャ様が分離。
政府刀陣営から地蔵くんが分離。
その上でガラシャ・地蔵が統合、本丸(歌仙)と古今が統合。
上でまとめたものをもう一度見てみます。
敵1:細川ガラシャ→解放されたいと願い地蔵についていく
敵2:キリシタン大名→ガラシャを守り取り返そうとする
本丸:ガラシャを倒す、古今に協力して地蔵を取り戻す
政府1:古今伝授の太刀→花ことガラシャを倒し、地蔵を救いたい
政府2:地蔵行平→花であるガラシャを守るために、時の政府を裏切る
3陣営に見えていたものは、実はこれまでも5が正しかったと?
5で考え直すと聚楽第は逃がすもの、逃げるものという敵側の分離の他に、本丸側である国広と聚楽第の後にわざわざ国広に真偽問題をふっかけ名を取り戻す(?)宣言をする長義の存在を考える必要が出てくる。
国広と長義の統合・分離関係に関わりがあるのではないか。
あるいは敵の中の見えていなかった部分こそが「朧」なのか。
慶応甲府の場合は5陣営で考えるとむしろ上でまとめた通りになるのか。語句をちょっと変えてみましょう。
敵1:藤堂平助らなりかわり、まがいもの、すでに死んでいるはずの存在
敵2:土方歳三ら、この戦いの後も生き残る存在
敵3:近藤勇と沖田総司、死ぬはずだったのに生き延びたのでここで殺される存在
本丸:陣取り合戦を制し、生き残るものを避け、死ぬはずの存在を殺す
監査官:沖田総司の菊一文字の作り話の記憶だけ持つ一文字派の則宗という存在
……こうまとめると、生かすべきを生かして殺すべきを殺すという歴史を守るための作業を本丸側がきちんとこなしていることがわかると同時に、本人たちの想いは無視で死ぬべきだから殺されるものたちの虚しさ的なものがありますね……。
こうやってまとめると、御前が沖田君を作り話でしか知らないというのは、慶応甲府の性質上、生かすべきは生かし、殺すべきは殺す(紛い物の排除)という行動の成果的な方面で考えた方がいい気がしてきた。
そう考えるとこの裏側に来る始まりにして終わりの物語である聚楽第の長義くんはやっぱり回想57の国広の本心と合わせて国広のもう半分をすでに統合済みの状態と見たほうがいいか?
そして聚楽第と対大侵寇はやっぱり中盤まで大量の敵と戦うという性質状、骨格は同じイベントだと見ていい気がします。
本丸を救うために、本丸から離脱して犠牲になろうとする三日月(氏政・ゾーリンゲン友邦団の関係?)。
本丸を襲う混は、このイベントの終了をもって七星剣へと分離する(日日、友=朋)
時の政府側は今回本丸との接続を絶ち、管狐の自立システムに頼る(監査官視点?)
( )の中はちょっと当ててみましたけどなんか違和感があるのでまだ保留で。
とりあえず全体としての共通点は、どの特命調査でも当初の想定上に「友(相手を助ける)」要素が含まれているので、一見その要素がないように見える特命調査もそれを前提に置いた方がよさそうなところですか。
んー、となるとこの陣営移動に関しては全体の把握を一度諦め、対百鬼夜行で火車切と九鬼の「友」だち関係の行動が、聚楽第=対大侵寇の隠された友邦関係とどう対応しているかから見たほうがいいかも。
聚楽第では氏政様に逃げられる、文久土佐藩では吉田東洋を追い詰める
対大侵寇では混を倒す、対百鬼夜行では鬼を追い返して火車切が九鬼を取り戻す
( ,,`・ω・´)ンンン?
……特命調査のボス戦は、氏政様に逃げられたり龍馬が偽物だったり天保江戸がよくわからなかったり我々本丸側の詰めが甘いというか若干失敗している感じがあるのですが、対大侵寇や対百鬼夜行に関しては本丸側にしろ政府刀の火車切にしろ、むしろ最初の敵の位置に移動したにも関わらず、敵と違って目的をきちんと遂げている感があります。
もしかして:我々も失敗しているが、敵も失敗している?
お互いに目的に成功したり失敗したりしているんかこの戦……。
文久土佐藩、逃げる吉田東洋は南海先生(=朧?)に罠を使われて逃げきれなかった(死亡)。
対百鬼夜行、死体を盗む猫を斬る名を持つ火車切は、一度取り込まれた九鬼を無事に取り戻した(逃げ切った)。
ちょこちょこ出てくるメタファー「鬼」は、対百鬼夜行からすると「朧」とはまた別物っぽく、むしろ「朧」は生き延びようとする「鬼」を討つのに関わる存在っぽいよねと。
目一つの鬼は鬼、その鬼に取り込まれた九鬼自身もメタファー「鬼」。
同一であるからこその統合、そして分離。
そして鬼の相方は鬼斬りにして、朧斬りでもある。朧斬りたる肥前の対・南海も、火車切と会話した三日月も朧。
前回(聚楽第・対大侵寇)では観察者の立場であった政府刀が友を助けたい敵の立場に来ている。
友を逃がそうとした九鬼がゾーリンゲン友邦団だと言うならば、鬼斬り位置の火車切が氏政様ポジションなのか。
一度逃げた・逃がされたものは再び戻ってきて、今度こそ鬼斬りの役目を果たす。
目一つの鬼は友を追うという意味では友斬り。本丸側の物語に位置が動いている。
一方、狐ヶ崎は本丸の三日月を気にしている。
……対百鬼夜行の本丸側は正直傍観者ポジの気もしたが、朧月が本丸の三日月から分離したものだと考えられるなら、監査官・観察者ポジは朧という形で分離している。
火車切の物語を、「死体を罠に使われる」という意味で文久土佐の吉田東洋で考えるべきか。
「朧と共に敵を追い詰めた」と言う意味で本丸側で考えるべきか。
あるいはその両方とか?
各特命調査のポイントを整理していたときに思ったけれど、文久土佐では肥前君が敵を求め、南海先生に宥められる場面がある。
人斬りである朧斬り(鬼斬り)は斬るものを求め、朧はそれを宥める存在とも考えられる。
ここがどう関係してくるか。
そこからまた角度を変えて話を動かすと、天保江戸では政府刀の水心子が最初から友である清麿を助けたいと願っている。
ただし水心子ははっきりと清麿を助けたいと口には出さず、江戸の街を元に戻すという発言から蜂須賀側がその心理を読み取っている形になる。
天保江戸の蜂須賀はほとんど観察者と言った体で、一見政府刀と立ち位置が逆転したように見える。
ただし清麿の歴史は長曽祢さんにも関わるもので、実は蜂須賀自身も救いたいものがいる当事者とも言える。
敵である水野忠邦や窪田清音は影であり、また「水」や「清」のメタファーから水心子や清麿自身と同質のものとも考えられる。
となると聚楽第から天保江戸まではやはり
友(遡行軍・ゾーリンゲン・氏政)→友斬り(本丸・山姥切国広)→観察者(政府刀・山姥切長義)
友(政府刀、肥前・南海)→友斬り(遡行軍・偽物の龍馬)→観察者(本丸・陸奥守)
友(本丸・蜂須賀)→友斬り(政府刀、水心子・清麿)→観察者(遡行軍・影)
△状の三つ巴の円環関係になるこの推移か……?
ただこの図だと、なんか落ち着かない。
一つのポイントとして、相手を救いたい(友)と言う関係は言葉ではっきり口にするものと口にしないものがいることを考えた方がいいような気がする。
最初の特命調査、山姥切国広は特命調査だけ見ているとあの時点では別に何も考えずにただ指示に従って戦っているだけだが、極修行を考慮すると途端に長義という相手を救うために自分を犠牲にしてくる「友」の性質がある。
「友」であり、「友斬り」。
お互いに殺し合う二つの性質を同一の刀が抱え込む矛盾からできている。
まとめてもまとめても構図としてはっきり図示できるほどの整理はまだつきませんが、関連しそうな内容を見ていくとやはり特命調査間の前後の繋がりが感じられると共に、敵と本丸と政府刀が立ち位置を都度交換しながらぐるぐる回るように物語が進行している感があります。
慶長熊本からは地蔵くんの裏切りのように、各陣営内の分離と統合、そしてガラシャ様を地蔵くんが守ろうとしたように、陣営を超えて統合する関係が見られます。
今はこの辺までの整理が限界かなーという気がします。
対百鬼夜行で登場した三日月の朧の話が続いている以上、文久土佐藩踏襲だろう第二節の中ボス戦の物語はまだ終わっていない感じがありますので、そちらに進展があればこれらの構造整理も進むような予感があります。
第二節のラストは爆発するかもしれませんが。
4.本歌の名で顔を売る写し話
本歌の名で顔を売る写しに関して。
この話、もとは回想56、57の長義くんの台詞だけど長義・国広の「山姥切」の関係で捉えようとすると研究史の観点からはしっくりこなくて、どちらかというとソハヤとその本歌の話なんじゃないかと思った。
これが山姥切オンリーの話題と言う固定観念を崩し、発想を転換して本歌と写しの食い合いはなんにでも発生するという方向で考えてみよう。
とうらぶ的に写しが実際に本歌の名を食ってしまった例がソハヤの方で、その結果が坂上宝剣の写し説と言う方向にもっていきたいのではないかと。
「山姥切」に関しては本歌も写しも現存するから研究史の方は大分はっきりしている。
しかし、ソハヤとその本歌はどうであろうか?
家康のソハヤはより正確に言うと銘文の一部に「ソハヤノツルキ ウツスナリ」とある刀だが、その「そはやのつるぎ」って何さ?(不明)
ソハヤの銘文これ、詳細不明なんだよね。調べてないのではなく、そもそも「不明(現時点では誰も答を出せない)」が正確な解答。
銘文からすると「そはやのつるぎ」なるものを写したことははっきりしているが、その「そはやのつるぎ」が何かと、何をどう写したかは不明。ほぼ何もわかっていない。
ではその「不明」という正しい結論を人はどう受け止めるか、というところがとうらぶの主題である意味人間の認識に関する欲求の現実なのだろう。
人はこの「不明」点を「埋める」方向に思考する。それが詳細不明の「そはやのつるぎ」に近いものを、本歌と断定してしまう方向ですね。
「そはやのつるぎ」という言葉に一番近いものは坂上田村麻呂の剣の一つ。
だからこれに関連付けて考える人が多い。
しかし、じゃあ家康のソハヤはストレートにその写しと考えていいかと言われると、それらしきものはない。
この辺りで話が非常に複雑になる。慎重に留保する人と断定しちゃう人で話が割れるがそもそも実態がよくわからない。
坂上田村麻呂の剣と言われるものは一振りじゃなく、刀の知識ゼロの私が聞いたことのあるものだけでも創作を含めて七振り。ややこしいね!
その状態で家康のソハヤがそもそも坂上田村麻呂の剣の写しだという覚え方をしてしまうと、逆に坂上田村麻呂の剣がソハヤの本歌だという誤解が生じる。
坂上田村麻呂の剣の一つである坂上宝剣の写しが家康のソハヤだというのはそういう認識上の混線から生まれた誤伝(この形勢背景と考えられるものは結構面倒くさい話)であると考えられるけれど、これをとうらぶのメディアミックスの構造を踏まえながら考えると、
ソハヤ側が本歌の名を食ったことにより別の刀がその空白を埋めたという理解になるのではないか?
つまり、とうらぶがソハヤの本歌を坂上宝剣としている設定は、長義・国広の山姥切の関係で提示された写し側が本歌を食う構造の完成形なのでは?
その完成が意味するものは本歌の存在の消失ではなく、「別の刀」がその空白を埋める形となる。
「そはやのつるぎ」の名をソハヤが得ている。
だから男士としてこの刀が実装される可能性はない。代わりに本来そこにいるはずの刀の代わりに属性が近い坂上宝剣が来るのだろう。
それがとうらぶでソハヤを坂上宝剣の写しとしている理由ではないか。
歴史の改変がかなり進んだ状態での理解というか。
ソハヤに関するこの設定、これまで坂上宝剣側が本来のソハヤの本歌(?)たる「そはやのつるぎ」を食った方向で考えてたんだけど、むしろ山姥切の関係で、長義くんがまず国広に自分の名で顔を売る云々言いに行ったことを考えると、むしろ「そはやのつるぎ」を食ってしまったのはソハヤの方と考えるべきなのかもしれない。
名前の問題に関してはメディアミックスの方を見ると花丸の映画で
1.山姥切(どちらが本物かで争う)
2.源氏兄弟(兄弟仲は良いが兄は弟の名を呼ばない)
3.虎徹と清麿(虎徹の贋作は清麿に引け目を感じる)
3種類の認識が示された。
この3種類は、話の進捗による「3段階」と見なすべきではないか?
だとしたら「本歌と写し」も今はまだ「写し」側が二振りしかいないので話が見えてこないけれど、2種類の本歌・写し関係に見えるものは実は
1.山姥切(本歌と写しが拮抗?)
2.そはやのつるぎ(写し側が本歌を食った例?)
の2段階を示されている可能性がある。
ソハヤの坂上宝剣写し説は単純にそんな説は刀剣の研究書レベルには基本的にない。だから刀剣に詳しい審神者はソハヤの設定間違ってるんじゃないか? と指摘する。
ただとうらぶという作品そのものの構造、特にメディアミックスのシナリオを見ていくと不在要素の埋め合わせで役者の配置がずれていく物語なので、計算通りの設定だと思われる。
誰かが誰かの存在を食えば、その結果は消失じゃなく別の存在による穴埋めなんだろう。
だから大侵寇の三日月の敵に対する台詞も「お前たちに物語を与えてやろう」なのではないか。
誰かが死ねば(食われれば)、認識上の穴埋めという摂理が自動的に別の誰かにその物語を与えるから。
ソハヤ関係は誤伝の理解のハードルが高くしかもそれが物語にどう反映されているか、原作の思惑を読み解くのが現時点トップクラスに難しい問題だと思うんですが、基本に立ち返って最初の「本歌」である長義くんが「写し」である国広に対して突き付けた要素から考えると、写しは本歌の存在を食えるもの、食った先に何がどうなるか、という構図の想定が大事かもしれん。
そして二つの本歌・写し関係がこういうルールを前提にしていると考えると、山姥切国広の修行手紙の結論「逸話は二つある(本科を食うことの拒否)」の意味はますます重くなると考えられるし、すでに食われてる「そはやのつるぎ」に代わっていつか本丸に来るだろう坂上宝剣がどう出るのか非常に気になります。
5.回想151「鋼の先に」の考察
前回、道誉一文字のおかげで回想163~166が一つながりの物語であるという解釈の手ごたえが得られたことと、次のミュージカルに大慶と笹貫、さらにこちらも大慶と回想のある南海先生が登場するので、ここらでちょっと大慶実装時に追加された回想7つの関連性、この7つで描かれる物語に関してもちょっと考えたいと思います。
大慶の前の富田江は光と影関連で朧とその進化系の「お化け」の話としてある程度整理できていますし、後家兼光絡みの3つの回想もごっちんが模倣要素を押し出していることから、ある程度朧絡みの内容だと予想されます。
第二節で実装された男士の回想は、あとはどれも興味深くはあるけれど、実装時の追加は1,2個程度のキャラも多く、もう少し情報が欲しい男士が多いです(稲葉江や笹貫、七星剣は後から実装された男士と回想があるタイプなのでちょっと別にする)。
孫六兼元も実装時点で回想が4つと多めですが、まずは回想7つと一番情報量の多い大慶絡みから考察したいと思います。
とは言っても鳴狐との回想149は大分解釈が難しく、地蔵との回想150も水に同じと書いて「洞」にはまる、よく見ていたからこそ落ちる、という内容でわかるようなわからないような……。
鳴狐との回想を考察するには、「狐」に関する情報がもっと必要かなと。
鳴狐は小狐丸との回想でも難儀と言われているし、本刃よりどこから来たのかわからない狐が喋っているという風変わりなキャラです。
猫と虎のげんじつとあこがれのように狐が示すものの代表的な性質がわかれば……今は考えても正直さっぱりぽんです。
本刃より喋る、どこから来たのかわからない存在。
大きいけれど小さい狐である小狐丸には包括され、山絡みの名を持つ白山にはついているけど喋らない。
回想149では、鳴狐が「尾曳狐」に関する嘘を吐く。
尾曳狐と言っても伝説のどこをとるべきだろうかこれ。城の守護者?
狐に関しては一度保留で。
大慶の7つの回想の大まかな流れは、
本体の代わりによく喋る狐と伝説の話、
洞に落ちる大慶と地蔵の慈悲の話、
笹貫との鋼の機械化の話、
南海との鋼の質の話と、刀剣男士の大事なものと、刀工の性質の話、
水心子の理想を追う姿勢の話、
清麿と水心子正秀の友同士の意見の違いの話、
清麿から嫉妬されていることを告白され、最後には和解する話、
こんなところですかね。
今回は大慶と笹貫の回想151の主旨、「機械化」に着目したいと思います。
回想其の151 『鋼の先に』
大慶「おおー、甲鉄艦!」
笹貫「そんなにはしゃぐもんかな」
大慶「あれは叡智の塊ー! 蒸気船で、鉄甲板で、カノン砲まで付いてるんだから」
笹貫「あれの前では、人間も刀も一溜りもない」
大慶「んーと、薩摩の刀が言う?」
笹貫「はは、確かに」
笹貫「薩摩は九州の南端にあって幕府の目が届きにくいわ、密貿易で外国の技術を取り入れて倒幕の機会を伺っていたわで、あの力をいち早く引き込みはしたよ」
大慶「でもまー、幕府側が外国の技術を持ってなくて薩摩に遅れを取っていたわけでもないし、それぞれに戦う力があった。それで、この戦争は北の大地に至ってるから」
大慶「火砲を前にしても、薩摩の兵は勇ましく、鬼のような存在だったな」
笹貫「褒めてくれるねぇ」
笹貫「だけれど、いくら勇ましく鬼のような薩摩隼人であろうと火砲の前ではただの人間。その勇ましさを発揮することなく、機械的に排除されて死ぬ」
大慶「刀工大慶直胤は、反射炉に希望を掛けたんだよね。この研究が国の為になるって」
大慶「鋼は機械化の末にあんなにも強い武器になったんだ。大砲にも、軍艦にもなれた」
大慶「でも、どれだけ機械化されようと鋼の行きつく形として、刀だけは人の手からしか生み出せない。……そう、揺らぎが必要なんだ」
大慶「そして、俺たちは刀としてここに呼ばれた」
笹貫「機械化とは、往々にして人間性の排除を言う……」
笹貫「この時代があの鋼を選んだ。だが、その先の時代でこうしてまた刀という鋼が選ばれた」
大慶「え……、……ええっ!? なにそれ、讃美ー!」
大慶「じゃあさ、その違いをしっかりと目に焼き付けないと。ちょっと近くまで行ってくるー!」
笹貫「刀は武器として逆行し、人間性を受容するための鋼となる……」
えー、上の内容を細かく見ようとすると混乱するので、逆にここはIQを5ぐらいにして内容を超単純化してみたいと思います。
・鬼のような薩摩隼人も、火砲という「機械」の前では敵わないよ!
・反射炉とか「機械」化の末に鋼はめっちゃ強くなるよ!
・「機械」化は人間性の排除だよ!
・でも刀は人の手からしか生み出せないし、揺らぎが必要でだよ!
・刀は武器として逆行し、人間性を受容するよ!
このぐらいの理解で(小並感)。
話のポイントは「機械化」による強さと、その対極にある「刀」の存在だと思われます。
ここでいつも通り、「機械」化という現象に関して「言葉遊び」の観点から解釈を試みましょうか。
多分シンプルにこうじゃないかと。
機は「木」と「幾」、「械」は「木」と「戒」。
――「木々に対する幾つもの戒め」。
ちなみに機械の「機」についているとなんか意味がいっぱいありました。
1、はた。布を織るきかい
2、からくり。しかけ。細かいしくみ。
3、かなめ。だいじな部分。
4、きざし。きっかけ。はずみ。しおどき。
5、おり。わな。
6、心のはたらき。物事のはたらき。
7、「飛行機」の略。
なりたちは「石弓の石を発射する道具」。
……おっとぉ、3番まではいいとして「切っ掛け」、「罠」、「心の働き」、「飛行機」あたりが立て続くとなんとなく怪しいですね。
南海先生の罠、舞台やミュージカルなどメディアミックスで繰り返される心の問題、そして雲生さんが持ち込んだ飛行機要素。
機械の「械」の方は比べるとシンプルで、
1、しかけ。からくり。道具。
2、かせ。罪人の手足にはめて自由をうばう刑具。
なりたちも手かせ、足かせの意から転じて仕掛けになったそうです。
こっちは単に道具と枷の意味が強いということですね。
「機」が罠や心の働き、飛行機の意味を持ち、大慶だけでなくその前後の回想ともなんとなく関係ありそうな印象を押さえたところで、改めて「幾つもの戒め」について考えたいと思います。
6.呪いと機械化、人間性を失うということ
亀甲貞宗「ぼくは、ぼくが愛するものに縛られることで強くなる」(回想165「目に見えぬ束縛」)
道誉の叔父貴実装で、ついこの間、この問題について考えたばかりです。
愛は力、愛は鎖。慶応甲府で示されたように、刀剣男士は愛によって強くなる。
しかし同時に、刀剣男士は愛によって縛られる。
亀甲くんは自分自身が愛するものによって縛られることで強くなると積極的な姿勢を見せていますが、「束縛」「戒め」であることに変わりないと考えれば、この方針の果ては大慶・笹貫の言う「機械化(木々に対する幾つもの戒め)」として、「人間性の排除」に行き着く気がします。
……あれ? この流れ、なんとなく知ってるぞ……。
愛されることで強くなる。
けれど、愛されることで縛られる。
その縛られた先は、人間性の排除。
……人間性の排除とは、人間性を喪うということではないか、人間性を失うとは。
一般に、「人間性を失った」という字面からどんなものを思い浮かべる。それは、
――「心が化け物になる」ことを言うのではないか?
回想其の55 『猫斬りと山姥切』
長義「おや、猫殺しくん」
南泉「……うるせぇ。見知った顔でも、お前には会いたくなかったよ」
長義「へぇ、それはやっぱり斬ったものの格の差かな? わかるよ、猫と山姥ではね」
南泉「そういう性格だからだ……にゃ! ……あぁ、そうか。お前も呪いを受けてたんだにゃ?」
長義「呪い? 悪いがそういうのとは無縁かな。なにせ、化け物も斬る刀だからね」
南泉「猫斬ったオレがこうなったみたいに、化け物斬ったお前は心が化け物になったってこと……にゃ!」
長義「語尾が猫になったまま凄まれても……可愛いだけだよ」
――大慶と笹貫の回想151は、南泉と長義の回想55と実質同質、一つのテーマを別の語句で言い表した内容ではないか。
むしろ同じ物事の次の段階の話ではないか?
鬼のような薩摩隼人も機械の前では敵わない。
メタファー「鬼」はこれまでも刀剣男士そのものの比喩としてあらゆるところで使われていました。
一方で、対百鬼夜行迎撃作戦のように、敵も今度ははっきりと「鬼」の属性を持ってきた。
と、言う事は、第二節の敵である「鬼」を蹴散らすために、今度は我々は「機械」化しなければならない。
炮烙箱というか、我々自身が火砲になるのか。
……長義くんの極だろうな、契機は。問題はここに他のイベント、他の刀の実装が重なるか。
(2025年1月現時点で聚楽第の復刻が予想されているのでここに全部重なるかもうちょい先になるかどうか、あるいは2025年1月は10周年記念なので、このタイミングでそろそろフラグ立ちまくってる童子切が実装されるかどうか)
山姥切長義は、「山姥」を斬り、「山姥」に呪われて、「心が化け物」になる。
――「人間性」を喪う。
いや、多分……「山姥切」になることを自ら選んで、「人間性を排除」してくるんじゃないかと思います……。
それこそが鋼を、「鬼」をも蹴散らすほどに強くする「機械」化だと。
愛するものに縛られることで強くなるために、「幾つもの戒め」を受け入れてくる。
これまでの極予想とも一切矛盾しない、もともと長義くんの極予想はその方向しかない。
そうだね、うん……。国広の逆だろうからね……。
鬼(鬼女)斬りである国広は、斬ったものに呪われてそのものになる南泉タイプ、鬼(山姥)になるタイプの極で、これは舞台やミュージカル等メディアミックスの流れとも一致しているように思う。
猫を斬ったら呪われて猫になる。斬った対象そのものになる。
一方、山姥を斬ったら山姥になる。それは猫になるとある意味同義だが違う部分もある。
山姥になるとは、「心が化け物になる」、人間性の排除を言う。
南泉の「猫になる」は内面より外面(振る舞いや仕草)に出るタイプで、長義くんの「山姥になる」=「心を失う」は言動の冷たさに出る、と。
一周して回想55はその文面通りの解釈になりました。
そしてその文面の奥に大慶・笹貫の回想151の機械化というギミックが隠れていることもわかりましたね。
笹貫と大慶の回想に関する考察としては、
時代が機械化を選んだけれど刀だけは人の手でしか作ることができない、その先でまたこうして刀が選ばれた
この時点で状況が円環している、という解釈で〆たいと思います。
7.メタファー「愛」の考察
今回のメインテーマ。
結論から言うと、メタファー「愛」とメタファー「強」は表裏関係。
ああああああ、これまで出した考察と合流するやつぅううううう!!
ごけちょぎ派としてごっちん登場からこの流れがやたら気にかかるというか長義くん周りのメタファー「強」が何を意味するのか、冗談めかしてとはいえ、愛の戦士を自称するごっちんがなんで長義くんに興味を持ったのかの答がここや!!
メタファー「強」は、メタファー「愛」と必ずセット。
だから監査官は、「弱い刀には修行が必要」の台詞通り、己の「強さ」を誇示する山姥切長義と、「愛こそ力だ」の一文字則宗の二振りなんだろう。
このメタファーの相関関係は長義くんと御前というより、もともと国広と加州の時点から対になっていたと思います。
国広の極修行手紙は「……強くなりたいと思った」からまず始まりますし、舞台を見てもミュージカルを見ても、思い返せば大体国広は「強さ」の話題とセットの存在です。
更にそこに本歌である長義が登場すると表面上言葉にはされないまでも必ず「愛」の存在が関わってきていましたが……
なんのことはない、単純に原作からメタファー「強」とメタファー「愛」が表裏の関係だったということでしょう。
加州がもともと「愛」の話題を担当しているのは言うに及ばず、長義くんと御前が持っていた「強」と「愛」のメタファーはもともと国広と加州のメタファーでもあった。
と、いうよりも、
「山姥切」が「強」のメタファー、
「沖田総司の刀」が「愛」のメタファー、
こういう構図でしょうね。
そして別に原作ゲームからメディアミックスまでここがわかりやすいというだけで、もちろん他の男士にもこの構図は当てはまるんでしょう。それは置いといて。
回想141でごっちんが長義くんに興味を持った理由も、その会話の終わり方があれであった理由も薄っすら察せてきました……。
回想其の141 『無頼の桜梅』
長義「備前の刀が来たと思えば、なるほど、兼光の刀か」
兼光「キミは……、長義(ながよし)の。さすが、華やかで……うん、強き良き刀だ」
長義「長船の主流派であるあなたに、そのように面と向かって言われてしまうとね」
兼光「急にごめんね。備前長船の中で同じく相州伝の流行りを取り込んだ刀に声を掛けられたから、ついはしゃいでしまった。おつうにも、一言多いってよく言われるけど」
長義「いや、こちらの言い方も悪かったね」
兼光「そんなことないよ。兼光が相伝備前の始まりのように扱われることも、刀工の系譜も、それに正宗十哲の括りだって、後世の人による憶測や分類の結果でしかない、とも言える」
兼光「ただ、ボクが今感じたことは、それそのまま本当だなって」
長義「刀工として後に出てきた長義(ながよし)も、相州伝に美を見出した先達にそのように言われたら喜ぶだろう」
兼光「よかった。ボクは後家兼光。どうぞよろしく」
長義「山姥切長義だ。そうか、上杉……いや、直江兼続の刀か。それはまた難儀だな」
兼光「……え?」
長義「すまない。俺も一言多かったようだ」
化け物を斬って心が化け物になる、人間性を排除する、「機械」化に足を踏み入れている山姥切長義は、上杉推しの愛の戦士で、むしろ自分より上杉の刀に食べさせてというくらい上杉の刀たちを「愛で縛りたい」、ごっちんにとってはある意味理想形なんでしょう。
愛で縛られて強くなった刀、憶測も創作も己の力としてきた刀。
自分の求める愛の到達系に近いものだから、ごっちんにとって長義くんはある意味魅力的である。それがそのまま「強き良き刀」という評価に繋がる。
その一方で、山姥切長義自身は後家兼光のスタンスとは決定的に相反する存在でもある。
それが最後の「難儀」の部分。
後家兼光が後家兼光である根幹、「直江兼続の刀」という部分を、山姥切長義は好意的に見ない。その部分に「難儀」さを感じている。
それは自身が直江兼続の刀であることを何より愛している、後家兼光自身のスタンスとは根本的に異なる。
つまり自分が求めた愛の到達系は、自分にとって最大の否定者となる。
しかもその関係図、ごっちんの理想は自分がなりたい理想ではなく、あくまで上杉の刀たちをこうしたい(食べさせたい)という意味での理想というのがポイント。
ごっちんが上杉刀たちにせっせとご飯(物語)を食べさせれば食べさせるほど、やがて上杉刀たちも長義くんのようにごっちんのスタンスを否定し始めるだろう、という未来を予感させる。
まあごっちんと上杉刀に関してはあくまでそういうスタンスってだけで実際に食い合うかどうかはその状況が用意されないと成立しない面もあるので一度保留しましょう。
問題はその「食い合っている」状況が回避不可能状態、デフォルトでご用意されている山姥切の本歌と写し関係です。
……国広と長義のスタンスが正反対であることによる確執の原理が要するにこれではないか。
山姥切国広は極修行で、自分に山姥を斬った逸話があることを知りながらそれを掲げてはこなかった。山姥を斬ったという自分の逸話をある意味自分で否定している。
その代わりに事実誤認とされる長義の逸話をあえて残してきた。
幾つもの戒め。
その一つである、長義を縛る憶測の逸話を国広は斬らず(食わず)に、長義に捧げている。ある意味、自分が山姥を斬らない「偽物」になってまで。
けれどそうやって相手に物語を与えるほど、食わせるほど、その戒めを幾つも重ねる程。
機械化によって、人間性は、心は……喪われていく。
私は長義くんの極予想で、極が来たら今度は長義くん側が国広の思想をはっきり否定する回想が追加されそうだなとずっと思っていました。
長義・国広のキャラクター造形が対になっている以上、長義くんの極予想は単純に国広の理屈をそのままひっくり返せば出る、という仮説から予想と考察をしています。
で、そうすると、回想57で極国広が長義の言い分をはっきり否定した部分はどう逆転させるかも考えた方がいいかなと。
聚楽第は他の特命調査と比べて二振りの会話が圧倒的に少ないですが、イベント外の回想にある意味この二振りの本質が詰まっていると思います。それが回想56、57「ふたつの山姥切」。
けれど山姥切国広に関しては、極める前と後で態度が大きく異なる。そのスタンスの違いを極めることではっきり言語化できるようになってきたと言うのなら、長義くんも似たようなことになると思います。
となれば、今度は長義が国広のスタンスをはっきり否定する形になるのではないか?
単純に考えれば、国広は名の重要性を否定し、長義は名の重要性を肯定する。
己の逸話を肯定されて、故に己の逸話を否定して帰ってくるのが国広。
逆に考えるとおそらく長義は、己の名を否定されて、故に己の名を肯定して帰ってくる。
とうらぶのシナリオはそういう構造になっていると推察されます。
8.惹かれ合う敵、憎み合う味方
愛されれば愛されるほど、猫斬りは猫に、鬼女斬りは鬼女になっていく。
愛すれば愛するほど、人を模倣しすぎて刀身御供となってしまう。
愛されれば愛されるほど、幾つもの戒めが人間性を排除する、心を喪っていく。
だから愛すれば愛するほど、心を喪った愛するものからの愛は、得られはしない……。
回想141のごっちんと長義くんのちょっと座りの悪い話の終わり方のように、誰かに対する自分の理想の到達点は、むしろ自分の否定を示唆している。
しかし、一見対立構造に見える長義・国広などはメタファー「強」とメタファー「愛」の相関からするとやはり、根底に愛がある関係を基本の解釈とすべきだと思われます。
刀剣男士自身のスタンスや成長の方向が、呪いからの機械化という段階を踏んだ進展であることを考えると、本丸の刀剣男士やメディアミックス内の人間含むキャラクター同士の関係性なども表裏のある二種類を基本にいくつかのパターンがあると思います。
ひとつは、これまでさんざん「嫉妬」「怒り」のメタファーとして見てきた大慶・清麿の関係や七星剣・丙子椒林剣の関係性。
大慶実装時に追加された回想7つのうち、実に3つが江戸三作関連で、清麿だけで2つ使っています。
水心子に対するスタンスが清麿と大慶は真逆であることを示したのが回想153で、回想154、155ではそんな二人が意見対立を見せたあと和解します。
清麿は大慶に「嫉妬している」ことを伝えながらも、最終的には「嘘。嘘だよ」と和解方向に行きます。
ところで、江戸三作との回想の前に、大慶は南海太郎朝尊とも回想があります。
回想其の152 『新々刀の秘め事』
大慶直胤「……なら、細かいことはいいや。同じ師を仰ぐ友伴、仲良くやってこー!」
南海太郎朝尊「実際に弟子だった刀工、大慶直胤の血が騒がないかい?」
大慶直胤「騒がしたほうがいいなら騒がすけど。いつかの誰かが吹かした業は、既に俺たちの血肉になっている。ここにある石と、同じこーと?」
回想同士に相関性があること、その流れがストーリーそのものであることを考えると、ここで言う「実際に弟子だった刀工、大慶直胤の血」が示す言葉の意味は
「水心子正秀の弟子と言えば大慶直胤、その関係性を無視して南海太郎朝尊と同列程度の扱いに甘んじるのに嫉妬しないのか?」
と、解釈していいと思います。
次と次が清麿の大慶への嫉妬の話であることを考えると、やはりここですでに大慶は南海先生から「水心子正秀にとって最も特別な存在」になりたくはないのか? と問われていると見ていいと思います。
そしてこれに関する大慶の答が
大慶直胤「騒がしたほうがいいなら騒がすけど。いつかの誰かが吹かした業は、既に俺たちの血肉になっている。ここにある石と、同じこーと?」
であることを考えると、大慶はその件に関して「嫉妬しない」が答えなんでしょう。
刀剣男士・大慶直胤は嫉妬しない。刀剣男士・南海太郎朝尊にも、刀剣男士・源清麿にも。
彼らの由来となった刀工、その関係性から考えれば間違いなく水心子正秀と最も特別で重要な間柄の存在であるにも関わらず。
南海太郎朝尊は水心子の弟子、というか弟子とまあ言えなくもないぐらいの間柄ですからね。
(水心子正秀の弟子多すぎ問題)
水心子正秀という刀工の同郷の弟子で家族レベルの付き合いで関係が深かった大慶直胤と比べるのはちょっと無理があるんですよね。
ましてや源清麿に関しては、刀工自体は、水心子正秀という刀工とは何も関係がない。
それなのに、本来水心子と何の関係もない清麿が水心子の友として傍にいて、大慶と意見を対立させる。
けれど大慶自身はそういう清麿に嫉妬するでも怒るでもなく、暗に協力を求める。
対立の中の協力関係、関係性の種類としてこれが一つ。最終的に友情や愛情のある関係に落ち着くけれど、心には嫉妬を抱き八つ当たりをする。
清麿の大慶への嫉妬、丙子椒林剣から七星剣への八つ当たり。
そしてもう一つこそが、長義と国広の一見対立しているように見えて根底には愛がある関係で、今この話をするなら類例が道誉と小竜の回想164になると思います。
小竜くんは昔の話はしたくないと言いながら、本当は待っている。自分にとって特別な元主・楠木正成の話ができる相手、好敵手を。
一見いがみ合うように見える関係は、本当はお互いの存在を求めあっている。
9.狐の正体
メタファー「狐」がどういう意味を持つのかは「あこがれとげんじつ」みたいな種明かしがないときついなーと思うのですが、全体の論理構造の中でこのメタファーがどういうムーヴで何のメタファーと一致しているかである程度判断しようかと。
大慶直胤の7つの回想は、最初が鳴狐との尾曳狐の会話に始まり、地蔵と洞の話、笹貫と機械化の話をし、南海太郎朝尊におそらく嫉妬話の前振りをされ、水心子に対するスタンスが清麿と違うことを提示した上で、清麿と意見が対立し、その心情「僕は君に嫉妬している」を明かされ、それでも和解する。
この一連の流れを改めて振り返って思うのは、大慶はこれまでの刀剣男士と反対側に近いんじゃないかって感じですね。
清麿と意見が真っ向対立するのは見ての通り、そして逆に似たような立場のはずの南海先生とは衝突せず、何かを通じ合った様子を見せる。
大慶と南海先生が衝突しなかったのは、大慶が刀工・大慶直胤の血を騒がせないことを選んだから。
清麿相手だと清麿の方が大慶に嫉妬していることが明かされたけれど、結局は清麿側も和睦を選ぶ。
水心子を巡る対立関係において、清麿と大慶は基本的に逆のスタンス。
今は水心子に何事もないからこそ平穏無事にいられるけれど、大慶のスタンスは「新々刀」であることよりも、「正秀の友」であることを選ぶというもの。
回想153からすると水心子の新々刀の祖としての振る舞いは若干無理をして演じているもので、その負担が増大して素の「正秀」自身が潰れることを大慶は危惧している。
そしてそれ故に、水心子自身の理想を追う理性を「友」として応援する清麿と根幹的に対立する。
水心子という一振りの男士の二面性、そして「新々刀の祖としての水心子」「正秀」それぞれを応援する二振りの男士が存在してこれを江戸三作としてカテゴライズする。
大慶は刀工・大慶の血を騒がせないことを選んだ。
けれど逆側の意見を持つ清麿も、スタンスの上では同じではないか。
刀工・源清麿にとっての刀工・水心子正秀は大先輩かつ新々刀の中での立ち位置としてのライバルというのが妥当なところではないだろうか。新々刀最高の刀工の地位を巡ってその評価上で争う。
しかし刀剣男士としての源清麿は、そうした刀工の血をあえて騒がせずにいるようだ。その代わりに水心子の友であることを選ぶ。
大慶が南海先生との間で会話をしたとき刀工の血が騒ぐ話をしながら、同時に鋼や石の話をし、「やっぱり、朝尊はわかってるんだ。俺たちにとって大切なもの」と結ぶ。
今までの流れからすると、合戦場に転がる鋼は刀の前世であり屍と同然。
そして石はミュージカルの歌の歌詞からすると「石」=「意志」の言葉遊び。つまりは誰かが捨てた「意志」。
けれど大慶曰く、
大慶直胤「いつかの誰かが吹かした業は、既に俺たちの血肉になっている。ここにある石と、同じこーと?」
刀剣男士の血肉は、合戦場の石(意志)や鋼と同じものなのだと推察される。
どういうことかと言われれば、それがやはり舞台の「鵺」という概念を通じて察せられる分離と統合の概念ではないか。
刀剣男士の言動を来歴と細かく比べれば比べる程明らかになる差異は、それでも彼ら自身の意思(石)からできている。
二面性の逆の面を選択したということは、その逆の面はある意味では捨てられている。
合戦場に転がる鋼と石が歴史上朽ちて忘れ去られた物の成れの果てなのだとしたら、刀剣男士も同じこと。
玉鋼から生まれ、その血肉にはいつかの誰かが吹かした業が宿っている。
敵の死骸(物語)を良き鋼と拾い上げたくなる。
けれどそれは放棄された世界では南海太郎朝尊が作り上げる罠(爆弾)にもなりうる。
ここで狐の話に戻ると、じゃあその「狐」は分離した物そのものだろう、という考えになります。
本体より喋る、いつの間にかどこかからやってきた狐。
城を護る尾曳狐。
刀剣男士の物語は時に、男士自身にも知らないことがあったり、男士側が曖昧な逸話に関する本心を隠していたりする。
鳴狐の「お供」はそのギミックの一つ、分離側のメタファーだと考えられる。
……これ多分、鳴狐自身より大慶とお供が同属性、大慶が「尾曳狐」(城の守護)ってことじゃないかなぁ……。鳴狐自身はむしろ大慶とは逆。対属性。
他の狐系男士は本刃が狐である小狐丸、鳴狐とは逆に喋らない狐をつれ、その狐を通信機と呼ぶ白山。そして政府のクダ屋こと狐ヶ崎と、彼らは彼らで全員狐との付き合い方が異なる。
鳴狐と大慶に回想があるのは、この二振りが秋元家関係という来歴上の付会は当然重要だろうけれど、むしろメタファー的に鳴狐と大慶直胤の刀剣男士としての在り方の方に相関があるからだろうと考えられる。
つまり、
鳴狐
地蔵行平
笹貫
南海太郎朝尊
水心子正秀
源清麿
この7回想6振りは、それぞれ大慶がどういう存在かと関係があると考えられる。
刀剣男士は大体2種類に分類できるんじゃないかというこれまでの考察としては、「慈悲」か「智慧」か。
地蔵くんははっきり慈悲側なので、大慶は知恵(智慧)。
しかし大慶の属性である「科学」が示すのは機械化への道。
鬼のような薩摩隼人を蹴散らす火砲にも基本的には賛美の精神、科学の発展を礼賛する知恵は、機械化(幾つもの戒め)に邁進する。
その結果、周囲をよく見ようとしても自分自身の足元を見ていなくて穴(洞)に落ちるというのが、知恵側男士の欠点と。
これは回想140で慈悲に繋がる愛を強調するごっちんが姫鶴に「刀身御供」だから模倣をやめろと忠告されたのと対になる理屈ではないかと思います。
慈悲側の男士の危険性は刀身御供、知恵側の男士の危険性は機械化(洞に落ちる)。
笹貫は大慶との回想がようやく2つ目ですが、1つ目の回想は考察でも散々取り上げたアレです。
回想118、「風浪」。
治金丸に背後を取られて脅迫されているというあれ。
自らのことを「影」だという治金丸と、その治金丸を気に掛ける笹貫の回想。
書いてるこっちもすでに記憶が朧げなんですが、ここの考察、治金丸の方が「影(朧)」である以上、月の龍の対で笹貫は「鬼」の方のメタファーって結論したような気がします。
そして今回も、笹貫はそのまま「鬼のような薩摩隼人」の立場で、大慶がそれを蹴散らす火砲、機械の立場です。
刀剣男士としての大慶直胤の物語は、城を護る狐であり、洞に落ちて地蔵の慈悲に鬼と蛇の刀を見つめるものであり、鋼の先に鬼を蹴散らす機械化を求めるものであり、刀工大慶直胤の血を騒がせないことを選んだものであり、それ故に水心子の理想という表の顔よりも素の正秀を愛し、清麿と意見対立するも、和解する。
……なんとなーく、「朧」の足取りっぽいような気もするんですよね、これも。
というか模倣要素のごっちんといい、光と影の江といい、ここ最近の刀が語る物語の主軸はやはり朧の性質、本体から離れて独立行動をとるものの視点っぽさがあります。
もしかして全部そうなのではないか?
それぞれ段階は違うような気がしますが……。
回想151では「北の大地」と言う言葉が使われている。
「北」は以前やった通り、「逃げる」という意味を持つ漢字です。
聚楽第・文久土佐両方の鍵となる「逃げる」と言う行動。
尾曳狐は館林城を守っているとのことですが、「城」の字は「土」に「成る」ですね。
第二節の構造的根幹と目される文久土佐は「土」を「助ける」。
「石」は「意思」としてだんだん明らかになってきましたが、「土」の意味がまだわからない。
言葉遊びで音の方から考えていいなら「土」は「槌」、「木」を「追う」、鋼を刀として生み出すものと考えてもいいような気もします。
狐は「槌」に成るもの、刀を生み出すものを守る存在。
文久土佐とは、刀を生み出すものを助ける物語(刀の本能)。
……うん、やっぱりだんだん話が繋がってくる気がしますね。
メタファー的に「刀」の対義語が「人」で、刀身御供は人を模倣して偽物(人の為の物)になる方向でしょうが、「狐」は刀を生み出すものを守る……刀を生み出すために人を守る感じっぽいですね。
道誉のバランサーほどすぱっと一言で大慶を表す言葉は見つかりませんが、その性質とスタンス、何故そうなるのかといういくつかの疑問が埋まり、その方向性もきちんと一貫性を持つものであることが判明してきました。
10.鋼の行末
七星剣は「星」のメタファーであることばっかり注目してきましたが、「七」って「刀で斬る」の意味を持つ字ですよね。
舞台の考察をした際に、舞台の主人公である国広の位置は
・七星剣と逆
・人と逆
という両方の結論を出した気がします。
結論を2つも3つも気軽にほいほい出すなと言われそうですが、ようやくここも統合できそうです。
対大侵寇防人作戦の報酬が七星剣。
対百鬼夜行迎撃作戦の報酬が九鬼正宗であることを考えても、撃退したものと報酬は同じ、作戦名と報酬は同じ。
「人」と「七星剣」のメタファーが表裏だ。
だから舞台の国広・長義の物語がこの両方と互換するという印象を受ける。
舞台の「山姥切」の物語は対大侵寇防人作戦であり、混討伐であり、七星剣入手という一連の流れ「そのもの」になるだろう。
あの二振りの結末を通して、我々も多分自分の本丸で何(混)を斬って殺し、何(七星剣)を得たかを知ることになる。
大侵寇と防人、攻め入ることと人。
刀で斬ることと、人を防ることは同じ。
「防人」がもとは九州地方の防備であったことを考えると、九鬼正宗の「九」というメタファーの表裏でもあると考えられる。
そしてメタファー同士の綿密な流れが見えてきたところで、その表層である付会、「刀剣」に関わる物語の全ても考える。
道誉がハバキ下の一の文字、すなわち一文字派の銘の切り方に言及した時点で、刀剣男士の物語の付会先は、元の「刀剣」という物質の全ての要素に関わってくるのではないか? と思われた。
そこで、えー、書いた私もどの回の考察だったか忘れる程昔なんですが、国広の写しやむっちゃんの人斬りなど、始まりの五振りの中核要素はそれぞれ時代によって主格が逆転するので、その逆転構造を繰り返す円環がとうらぶのシナリオの中核五本柱なのではないか? みたいなことを言ったような気がしないでもないです(厳密にどんな説明したか忘れた)。
刀剣の価値は時代ごとに変化し、刀剣と持ち主の関係も時代ごとに受け止められ方が変わる。
その変化する評価の中の一つ、模作・模倣である「写し」。
『剣話録』の別役成義氏の説明や、『大日本刀剣史』の原田道寛氏の説明を引きながら写しの物語について考察した時があったかと思いますが、それによるとざっくりこんな流れですね。
模倣・模作はもともとオリジナルとの間に差があるものではなかった。
神剣・霊剣の模作はそのまま本歌の神聖を模して備えたものとなる。
しかしその模作としての刀剣の価値は、模作が悪用されることによって変わっていく。
模作を悪用した贋作がはびこる時代には、当然写しも即贋作のように目されることとなる。
それでも、現代では再び模作の芸術的価値や有用性について見直している。
……この流れでめちゃくちゃ重要なことがあるんですが。
写しはもともと本歌の間に差があるようなものではなかった。
例えば草薙の剣が壇ノ浦に沈んだら、代わりの剣が用意される。その剣の価値は、元の剣の価値と基本的には同じもの。
では何故、模作ではなく贋作と貶められる写しが誕生するのか。
――模作は、「模作自体の名ではなく本歌の名でよばれるもの」となった時、「偽物(ぎぶつ)」すなわち「贋作」となる。
写しの研究史自体は別に最初から価値が低かったわけでも常に贋作と結びついているわけでもない。
ただし、ある一点の条件を満たすと写しがそのまま贋作になりうる。
それが「本歌の名で呼ばれる」こと。
……回想にしろ修行手紙にしろ、長義・国広の認識と話はこの部分を中心にしていて、さらにこの状況に前後があることを踏まえるのが大事ってことですかね。
とうらぶの回想の一つ一つはある瞬間、一点の抜き出しであって、その前後とつなげて見ないと、本当の歴史(物語)の意味はわからない。
我々の視点からすると「現状」がその会話の内容かなと思ってしまいますが、前後の歴史を意識するとむしろ、長義も国広も「模作が本歌の名で呼ばれたら贋作」という一手先の盤面を見ている。
それを避けたいから国広はむしろ自分の逸話否定気味になり、長義はむしろそうならないよう最初から釘を刺しに行く。
刀工・堀川国広が正宗を模して正宗写しを作った。
その刀は普通は作者である国広の名で呼ばれる。
しかしその国広が「正宗」と呼ばれてしまった時、それは「正宗の贋作」でしかない。
鑑定者が鑑定を間違えたならただの誤解かもしれないが、もしも刀屋が「国広」と知っていて「正宗」ですと売ったのなら完全に犯罪だ。
贋作とは、そういうものなのだ。
写しを「写し」と紹介して売ればただの「模作」。
写しに、「模作元(本歌)」の名を冠して売ればそれは「贋作」。
これを刀そのものの視点で考え直せば、例えば山姥切国広にとって本歌の名で呼ばれることは自分が贋作にされる危険性そのもの。
相手、それも自分にとって父親も同然の相手を追い落とし、自分が自分でないものにされる恐怖そのものなのだから、修行手紙の困惑の理由の一端が見えてくる。
一方で、刀が「本歌の名で呼ばれる」という結果が生まれるまでの過程で見落としてはいけない事情がもう一点ある。
刀がその刀の作者である刀工ではなく別の刀工の名で呼ばれた時、その状況を生み出すのは刀の作者とはまったく関係のない第三者だという場合がある。
近藤勇の虎徹を贋作にしたのは作者である源清麿ではなく、偽名切師の「鍛冶平」だという話がある。
第三者の手によって贋作になる。例え贋作としての運命自体は受け入れたとしても。
作者を――「生みの親の名」を、偽っている。
これが贋作の想いで、そう考えると花丸の長曽祢さんが清麿に対してかなり後ろめたそうにしていた理由も察せられる。
親の名を偽ってしまった。それは刀自らが望んだことではないけれど、自分自身は偽られた名を受け入れることに納得してしまっている。
そりゃ後ろめたくもなるわ、ですし、その長曽祢さんに回想75の清麿がわざわざ「君は虎徹を名乗っていい」と、言葉でわざわざ肯定してあげた想いも薄々理解できてきますね。
近藤勇の虎徹の贋作に関しては特に虎徹写しだったという話は聞かないので、長曽祢さんは写し関係とは無縁ですが、贋作である以上「親の名を偽る」後ろめたさが常に付きまとう。
「偽物」にまつわる写しと贋作のシナリオ付会上の区別はこんなところだと思います。
刀そのものの定義に即応しない単語の意味を知るために刀そのものの物語から一度離れてとうらぶが付会する言葉遊びの真理を追ったところ、改めて刀剣の「模作」と「贋作」の違いと、この両者が最も近接するところに戻ってきた感じです。
とうらぶのメインシナリオは「刀剣の物語」であり、それを語る時「人の歴史」に付会するという形をとっている。
付会である以上、一見全部が重要でないようにも、言葉が表層上のものでしかないようにも、見えることがあります。
けれど結論としてはやはり、だからこそ、「全てが重要」というところに戻ってまいりました。
ここ数回の考察でどうやらはっきりしてきたらしき結論と言えば、
・メタファー「強」とメタファー「愛」の表裏関係
・回想の連続性、一度に実装される回想は全て合わせて一連の物語である
・刀剣の性質の全てがメタファーとして機能する、シナリオの全体的付会構造
辺りですね。
何故来歴に関係の深い間柄でも回想のない男士同士がいるのか、何故全くの無関係なのに回想のある間柄があるのか。
それは全て付会だからで、けれどその付会を成立させるために、刀剣に関わる物語の全てを注ぎ込む。
一見マニアックでソシャゲをやるのにそんな知識いらなくね? レベルの内容も知っておくに越したことはないと(無茶言うな、キレそう)。
後者二つは今後の考察のために重要ですが、一番の収穫は「強」と「愛」の表裏関係ですかね。通りで天伝といい陸奥一蓮といい国広と加州が揃うとその本丸の話の核心に近づくわけだ。
「強」と「愛」はどちらもとうらぶ自体の中核なんでしょうね。
愛によって縛られる、その戒め(束縛)こそが強くする。
けれどそうやって縛られれば縛られるほど心を喪う。結果的に愛を否定する。
ところで最後に割といつもの仏教ネタで〆ますが、仏教を念頭に置いて「人間性の排除」「心を失う」という言葉を考えた時、これは別に悪い意味ではないんですよね。
仏陀は仏陀であって人間とは一線を画した存在ですから、むしろ仏教徒ならば人であることを捨てるための涅槃を目指さねばならない。
ただしニルヴァーナは死と同義でもある。
愛と言う名の煩悩を消して悟りの道へ、愛と言う名の苦から離れて安らぎの涅槃へ。
そのためには、心を捨てる……心によって、心を超えていかなければならないと。
愛で相手を縛りたいと思うものも、愛に縛られて人間性を排除するものも、結局はこれ。
心で心を超えていかねばならない。
今までの考察と別に矛盾しない結論なので驚きはしませんが、とうらぶ、特に長義・国広周りの関係性はなかなか切なく苦しい物語だなと思います。
だからこそ、超えたいと願うことにも意味が生まれるんでしょうが。
こんなところで、メタファー「愛」の考察を終わります。