ごけちょぎ考察――水の中の日日編――

ごけちょぎ考察―水の中の日日編―

腐って……るかも?

一応考察自体は真面目にやっているつもりなんですが根が腐女子だとこれは大丈夫か? 自分が腐っているだけではないか? と自分で自分を疑いたくなる見解もそこそこ。

特に男女の愛情を想起させる関係への考察は慎重になりたい所存。

親子愛とか仲間愛とか主従関係はあまり迷わず「愛ですね、愛」と言っちゃうんですが、男女愛はな。

しかし困ったことに舞台の細川夫妻や源氏物語など、とうらぶのメタファーに男女関係ががっつり含まれていることまでは確定なんだよね……。

陰陽五行が根底にあるなら女要素というのは要するに「陰」要素ってだけで、別に根幹的には色っぽい話でもなんでもない。

しかしそれを擬人化で現わしたらどうしてもこっちが男でこっちが女でって怪しい文章になってまうやん。

とはいえ日本の文化に関しては対のものをもともと男女や夫婦に例えているのは割とあることなんですよね……。

それにいちいち反応する腐ってる私が悪いだけで……(悟り切った目)。

そんなわけで一応いつも通りの考察のつもりでも、いやこれは腐ってるかもしれないと疑わしいものにもCP名を題しておきます。

ごけちょぎがガチで読みたい人よりはそういう腐ってる話題は避けたい人向けの題付けですいません。

考え自体はごっちん登場から持っていたものですが、考察としてはここ最近の「対百鬼夜行迎撃作戦」関連の情報整理、長義くん極予想辺りで形になってきたものです。

1.「影」は「光」のため

慈伝以降、綺伝で朧が長義くんに斬られてからの考察で、その分、また国広の分身的存在が増えるんじゃないか? という路線で考察していたんですが……。

心伝でも存在を主張してきた辺り、朧はもしかしたら序盤の黒甲冑みたいな感じで復活枠なのでは? って気がしてきました。お互い時間を移動できる限りそもそもお互いにとっての今がいつなのか正直よくわかんないですしね。

そういう舞台関連の予想関係の話。

……ごっちん登場の時点で ん? と思ったんですが、ごっちん、回想141の長義くん絡みで国広の反対要素と長義くんの反対要素をそれぞれ持っているような……。

長義くんは「山姥切」の号にこだわる。だから本丸での本歌と写しの初対面を描いた派生作品はそこに着目したものが多くなる。とはいっても私が知ってるのは舞台と花丸だけで無双とミュージカルについては初対面の様子不明ですが。

しかしとりあえず舞台と花丸に関しては、号の話、そしてお互いの呼び方について国広側が「好きに呼べ」と精神的に譲る形で決着をつく。

ただし長義が本当に欲しがっている答はそういうものでもないらしい……そこは今はちょっと置いといて。

離れ灯篭の歌詞からすると、国広は長義が本丸に来たからこそ、わざわざ「影」を選ぼうとする動きがある。

治金丸絡みの回想からすると、「影」はあくまでも本体を優先し、しかも自ら望んでその生き方を背負っているようだ。

そもそも何故わざわざ「影」になろうとするのか、両方「光」じゃダメなの? という問いの答こそが綺伝で出てきた「陰陽」の考えに基づくものだと思われる。

陰陽五行説においては「陰」と「陽」はバランスを保たねばならない。

「光」にあたる「陽」が多ければいいというわけではなく、「陽」だろうが「陰」だろうが多すぎたり少なすぎたりでバランスを崩すと色々ダメになるという考え方である。

特命調査の回想、顔を仮面で隠した監査官相手ならば「がっかりさせるな」と挑発されて「……言われなくとも」と即呼応できるはずの山姥切国広、特に極める前の国広は、本丸にて造作(顔)を見せた山姥切長義相手に関しては、途端に弱くなってしまう。

刀剣男士としての実力・戦力的には先に顕現されている分遥かに勝っていたとしても、本歌である長義の意向を優先しようとして名前の問題を譲ってしまう。

これらの動きは陰陽の問題で、国広自身は無意識でも「山姥切」の本歌と写しが基本的に対の関係になっている以上、長義が「陽」である「光」なら国広は長義との対関係を完成させるために「陰」である「影」へ動いてしまうのではないか?

慈伝は「日日の葉よ散るらむ」、二つ繰り返す「日」の字はどちらも「陽」であることを示し、その関係が「陽陽」であることを示すのではないか?

しかし「陽陽」で両方「陽」になってしまうと「陽」の気が強すぎてバランスを崩す。

そのために「猫斬り」に関する考察の結論、「猫」=「幻日」を真っ二つにする必要があるのではないか?

太陽は二つ並んではならない。
陰陽の関係を保たなくてはならない陰陽五行において、陽の気が多すぎる世界はバランスを崩している。

また、この逆である「陰」の気が強すぎる「月月」も、同様に否定されるものと考えられる。

2.「混」は「水の中の日日」、「友」は「朋」、二つの「月」

前回の長義くん極予想関連にまとめましたが、「混」の字はさんずいに「昆」で、その「昆」の字が「比べる」と書いて「ならぶ」の意味を持っている。

ならば、「対大侵寇防人作戦」の敵である「混」は、「水の中の日日」であると言える。

水の中、水に映るものは本物の太陽ではなく、これがとうらぶ的な「幻日」なのかもしれない。

そして「日日」、同じ感じで同じ属性が並ぶで考えていましたが、

「友」は「朋」か! ――二つ並んだ月!

「陽陽」である「日日」の真逆で、「陰陰」の「月月」!

舞台は慈伝のタイトルにより長義・国広の「山姥切」、鬼女斬りで広義の鬼斬りがどうやら「日日」のようである。

これはおそらく南泉の猫斬り要素と繋がって真っ二つにされるものと考えられる。

そして、原作ゲームの「聚楽第」に最終ボスの「ゾーリンゲン友邦団」という「友斬り」要素がある以上、「朋」である「月月」も斬られると考えられる。

ここ最近の考察的に、私は原作ゲームの第二節はこの「友斬り」は最終的に「竜(蛇)斬り」に進化するのではないかと結論を出しているので、「友」=「朋」=「竜(をしめす何か)」で考えたい。

「混」は水の中の「日日」、そして「混」を斬ったことで入手できた「星」こと「七星剣」。

「星」は「日が生まれる」と書き、漢字の「七」には斬る、切断するの意味がある(「切」の原字)。

水の中の「日日」を斬ったことで新たな「日」が「生まれる」、という意味が七星剣の名前だけで説明できる。

くっ……残る「剣」の一字がまだピンと来ない……! 調べてもそのまま剣って感じ。
強いて言えば「剣」と「刀」の違いは両刃か片刃かだと思いますがそこは置いといて。

「日日」(鬼)も「月月」(友)も斬らねばならない。
そうでないと、「陰陽」というバランスが崩れてしまうから。

とうらぶ世界の存在の原理は基本これなのではないかなと思います

3.「星」の鬼、いつかの半身

水の中の「日日」こと「混」を斬って新たに「日」が「生まれる」、それが「星」。

そして二つ並んだ月である「朋」=「友」も我々は斬る。
その「友」の属性が、相手を助けたくて身代わりになる「ゾーリンゲン友邦団」のような存在であったとしても……。

つまりあの世界の存在はみなこの「陰陽」の概念に基づいて、時に「日日」がくっついてバランスを崩したことで斬られて「日」に生まれ変わり、時に「月月」がくっついてバランスを崩しては斬られ「月」に生まれ変わる。

そういう原理の世界なのではないか?

斬られずに安定したいなら最初から「陰陽」揃った存在でいなければならない。

けれど、いつも「陰陽」でいられるとは限らない。

それが長義の登場に合わせて国広が「影」になるのを選ぶような動きなのではないか?

刀剣男士が極修行で己の半身を捨てるかのような選択もまた、これに関わってくるのではないか?

好きな相手、同派でも同じ所蔵元の相手でも本歌と写し関係でもなんでも、己の繋がりたい相手との関係を重視するからこそ途中で属性の転換が入る。

その時、捨てられた片方は独立して「朧」や「鵺」のような存在となって動き出す。

斬られた「日日」の半分は「星」……新たな「日」として「生まれる」。

しかしもう半分はどこへ行った? というのが問題。

つまり斬られた敵、折れた刀、刀解された刀などの半分の要素はまた何かに転生し、その新たなせいで「陰陽」が成立したり成立しなかったりする関係を築き、その結果また斬ったり斬られたりが発生して世界は陰陽で循環している。

……大まかにはこんなところじゃないかな? と思います。

肝心の対象が本当に陽なのか陰なのかの分析はかなり怪しいんですが。

「混」や「友(朋)」はともかく他はよくわからん。

ただ何故我々が敵との対話をまったくせずにただ相手を斬って斬って斬りまくるだけの戦いをしているかという答はこれなんじゃないかなと思います。

「日日」や「月月」は世界のバランスを崩しちゃうからそれでアウトなんでしょう。斬る以外の道がない。

問題は、そこで斬られた半分がどうなるかってことで。

……その半分が、あらゆる陣営で入れ代わり立ち代わり生まれ変わりを繰り広げているってことなのではないかな? と思います。

だから刀剣男士は即で敵そのものではないけれど、敵の動きと刀剣男士の存在は連動している。

本丸にいる刀剣男士はかつてどこかで我々が倒した敵の生まれ変わりかもしれない。
あるいは我々の本丸で折れた刀は今度は我々の敵陣営に生まれるのかもしれない。

我々自身も、常日頃から知識を蓄え認識が変化する過程で、知らず知らず生まれ変わっているんだろう。だからイベントごとに我々自身の立場も移動していたりする。

原作ゲームや派生の情報を合わせてこれまで考察してきた感じ、まあこれが一番落ち着く結論かなと。

悲伝で三日月自身がめちゃくちゃ歴史を変えようとしていたわけでもないのに三日月の存在が世界に影響を及ぼすから刀解せざるを得なくなった根源はこれかと。

ただそこにいるだけであっても、「陰陽」のバランスを崩しちゃうんでしょう。

ただ心一つだけで。

そういう世界なんじゃないかと思います。

4.「男女」と「嫉妬」のメタファー

ここ最近、「対百鬼夜行迎撃作戦」の分析を兼ねながらの展開予想で、とうらぶのシナリオは全体的に最初の特命調査の流れが各節で入れ子式にそれぞれのテーマを持って展開されるのではないかという結論に落ち着いたわけですが。

そこで気になってくるのが、ごっちんたちこの第二節の実装キャラの極が始まるだろう、第三節のシナリオです。

第一節は「聚楽第」
第二節は「文久土佐」
第三節は「天保江戸」

……と、このまま最初の特命調査の構造を踏襲して展開されると思います。

そして「聚楽第」の最終ボスが北条氏政の逃亡であり、「文久土佐」の中ボス戦が逃げる吉田東洋を罠で捕まえて撃破することであるように、次の節で前の節の結論を否定して乗り越える形になる。

その前の節の結論とは、その節で極める刀剣男士が最初に抱いていた感情そのものであり、つまり自分で自分を否定していく流れなのではないかと。

ここまで整理した段階で気になったのが、第三節にあたるだろう「天保江戸」とごっちんこと後家兼光の来歴から推測される極修行の要素に男女関係のメタファーがあること。

もともと後家兼光というくらいですから「後家」であるお船さまの存在あってこそのごっちんなのですが、その周辺を考えるとやはり女性のメタファーの存在感が重要。

女性要素自体は綺伝や禺伝など舞台がかなりの存在感で入れていますので、あるのは確定。

……というか、私が最初に慈伝を見た時の考察で気にしてたのそもそもここの部分ですよね。

慈伝は長義・国広という本歌・写しの関係を描きながら何故か男女、恋人や夫婦のような構造があるよねって。

本歌と写しの関係性から想起するならどちらかと言わずとも「親子」の方が近いだろうし、舞台の状況が三日月が刀解されたばかりで特殊であるからと言って、山姥切の本歌と写しの関係性を夫婦っぽく描く必要性はない。

むしろ夫婦で描いちゃっても問題なさそうなのはもともと他人である三日月・国広の方ですが、どちらかというとこっちの描き方こそ親子だな? と構造を分析しながら我ながらかなり首を捻っていました。

今回「対百鬼夜行迎撃作戦」で見えてきた原作ゲームの構造がこの、慈伝を見た時に舞台はこういう話だなと考察した時の構造とどうやらまるっと同じようなんで、もうとうらぶの原作から派生まで完全に全部同じ構造じゃないかなと思います。

舞台の慈伝までの話だけでさすがに全部予想するのは難しいですが、今だとそれに加えてミュージカルも同じ構造で動いていることがわかりましたので、舞台とミュージカルの両方を詳細に分析して合わせたものが原作ゲームの構造になるかなと。他の派生の分析も加えられればより良い。

舞台の女性要素はつまり、陰陽の「陰」要素、男性という「陽」属性の反対側の女。

その「女」要素が、舞台ではかなりの存在感を持っている。

これを原作ゲームで示しているのが刀剣男士の性質の反転する部分、陰陽なら明確に陰と言える部分だと思われます。

で。

どうやら後家兼光のようにもともと来歴や号に女性の存在感が大きい刀だけでなく、その辺の要素は一見まったくない「天保江戸」組、江戸三作も構造から考えると男女メタファーに関係があるらしい。

それこそが回想155で清麿が大慶に見せた「嫉妬」ではないかと思います。

刀工・大慶直胤は刀工・水心子正秀の弟子。もともと近しい存在。

それに対し、刀工・源清磨は刀工・水心子正秀とは関係ない。

だから江戸三作三振りのキャラクターを刀工の関係性からきっちり写し取るなら、本当は「水心子と大慶」がセットでないとおかしい。源清麿は刀工としては単に近い時代に活躍しただけのただの他人である。

しかしとうらぶでは水心子と清麿が「友」のセットとして登場し、大慶は後から合流する。

三振りの「友」関係は水心子を中心としたもので、清麿と大慶は水心子との接し方に主義の差があるものの、どちらも「水心子正秀という刀剣男士の友」であることには変わりない。

しかし。

それでも刀剣男士の源清麿は、大慶直胤に嫉妬する。

大慶は水心子に似ている。最初から彼と近い要素を持っているから。

「似ている」というのは本歌と写しや「偽物」関係のワードの近接要素で「文久土佐」の重要パーツだと思われますが、その要素が次の「天保江戸」になると裏返って「男女の情愛」に変わるようです。

ここ、「親子」から「夫婦」の転換が正直よくわからないんですけどね。

長義くん周りで「聚楽第」の「友」から文久土佐の「親子」に変わる流れ自体がかなりのメタファーを経由した複雑な考察から出した結論なので、こっちの結論も正直すぐに出るとは思ってないです。

ただ、私が慈伝見た時点で三日月と国広の関係が親子で、それが慈伝の長義くん登場を機に長義くんとの夫婦に移行して……とかなり混乱しながら整理していたこの構造が、原作ゲームとも同じだとわかったのは大きな収穫です。

原作ゲームと同じってことは結局、最終的にはメタファーの性質に還元できる情報だということですからね。

いつまでも男女とか夫婦とか、男士同士の関係に怪しい言葉使いたくないんですけどという潔癖勢はこの辺りの性質をぜひメタファーから整理して欲しい。なんで親子が夫婦に移行すんのこれ??? むしろ俺もここのところ知りたいんだけど。

5.「日」と「月」の三角関係

思い返せば刀剣男士の源清麿は、刀工・源清麿の刀としての属性をめったに出さない。

ひたすら「水心子の友」であろうとする姿は刀工・源清麿から考えるとおかしい。
単純に刀剣男士の源清麿が、刀剣男士の水心子正秀と一緒にいたいからそうしているとしか思えなかった。

そして、事実その通りなのだろうと感じさせるのが大慶との回想155の「嫉妬」発言になる。

そんでもって、そこから更に思い出されるのが冒頭で示した、国広は長義が登場すると「影」に徹する姿である。

「陰陽」として共に在ることを維持したいのであれば、片方が「陽」なら片方は「陰」にならねばならない。

とはいえ「影」は意味的には「光」なのでその行動が本当に「陰」を達成しているかはわからず、斬るべき敵もまた「混」こと「水の中の日日」である。

しかし実情はともかく、刀剣男士としての源清麿は水心子正秀の友であるため、
刀剣男士としての山姥切国広は山姥切長義の写しであるため、

自分本来の性質を隠して、影に徹しようとしているのではないか。

そしてそんな彼らの前に、同じ対象の自分が選んだのとは反対の属性こそを愛するものがついに現れる。

「水心子正秀」に対し、「正秀の友」でありたい大慶直胤。
「山姥切長義」に対し、「長義」であることを賛美する後家兼光。

原作ゲームの場合、少なくとも源清麿は大慶直胤にはっきりと嫉妬の存在を口にした。

一方、山姥切国広と後家兼光はそもそも回想自体がないのでこの二振りの直接的な関係は不明である。

ただ……。

舞台における「星の鬼」は、ごっちん……後家兼光ではないのか?

舞台の考察における修正部分なので書いておきたかったがあんまりはっきりそう書くのも憚られる微妙なこの感情。
くっ。しかし長義・国広の描写に舞台では「怒り」、花丸では「嫉妬」のメタファーがある以上、そこに近い存在はやはり考えておかないと。

これ、もともとは三日月の「鵺」みたいに国広側の分身が増える想定でいたんですが、原作ゲームで新刀剣男士としてごっちんが登場し、回想141で長義くんの「長義」の部分に好意を示した時点であれれ? と。

「山姥切長義」にとって「山姥切」の名はとても大事なものではあるけれど、刀の属性が当然その一語で終わるわけではない。

長義くんは「山姥切」であると同時に「長義」……刀工・長義の傑作の一振りである。

私がごけちょぎ推しなのはごっちんがまさにその部分に注目してくれたからですが……正直この要素、長義くんとは別の意味で国広と対になる関係の刀が持ってくると思ってたんですよね。布袋国広とか。

堀川派、特に山姥切国広以降に打たれた刀は全部長義の影響を受けている可能性がある以上、それが一番可能性が高いと思ったんですが、実際にその部分に注目したのは山姥切長義とも山姥切国広とも何も関係がない後家兼光。

長義の刀と兼光の刀は桜梅でいいんですが、「山姥切長義」「後家兼光」という一振りの刀同士で見るとここの関係性もまた遠い。

それでも山姥切長義・後家兼光の組み合わせに意味があることは、原作ゲームの数少ない回想の中にこの二振りの組み合わせがあることから非常に重要。

原作ゲームの国広の気持ちは正直わかりませんが、少なくとも原作ゲームの清麿は大慶に嫉妬している。

多分、刀工・源清麿の刀としての属性を全て隠して水心子の友に徹しなければ傍にいることができない自分と比べて、大慶直胤は元の刀工の属性からして「水心子の弟子」という絶対的なつながりがあるから。

弟子。「弟」に「子」。どちらも血縁としての強いつながりを示す。

「弟子」という言葉が回想タイトルで使われているのはそれこそここ最近何かとホットな火車切周りもそうです。回想143「竜の弟子」。

「日日」である「昆」に「あに」という意味があることも合わせて考えるとここは重要。

清麿と大慶の関係と似たような構造になる兼光の登場に対して、国広の方はどう思うのか。

原作ゲームだとかなり重要な話題だと思われる割に華麗にスルーされましたが、もしも今後舞台にごっちんが登場するなら触れられる可能性はあるかなと思います。

舞台に関しては慈伝がそうだったように、転機となる話にそれまでの要素を全部ぶっこんで来ると思うので、特にその中間ポイントである綺伝の細川夫妻の関係とその中で夫の忠興が妻に見惚れた庭師に見せた嫉妬、殺意も描くのではないか? と予想していました。

嫉妬が描かれることは大前提で、その対象を国広の分身として「朧」に対し仮称「星の鬼」として計算していたんですが……いやこれこのポジション、もしかしてごっちんなんじゃ? とここしばらく悶々としていました……。

そしてこのポジションが国広自身から分かれた分身的存在じゃなく、まったく関係のない存在である後家兼光かもしれないというのは別の意味でも重要。

舞台の話からだと悲伝で最も重要な存在、「鵺」は刀本体としては別物でも物語的には史実と創作の区分を超えれば足利義輝の刀同士という区分で、三日月宗近と同一の存在と言えた。

名前のない刀は名前のある刀に統合されてしまうから。

でも源清麿と大慶直胤は違うし、山姥切国広と後家兼光も違う。

物語的に統合の可能性がゼロだと断言できるほどに、あからさまに別存在なんですよね。

話のテーマが自分から分離した存在との戦いだけだったら自分に打ち勝つだけで済みますが(それも大変だが)、結局存在的には自分と別のものが自分の欲しいものを持っているという状況に対し「刀剣乱舞」という物語がどういう答を用意しているかは気になるところです。

原作ゲームだと清麿の大慶への嫉妬や丙子椒林剣の七星剣への八つ当たりはほんの軽いもので済んだ。

でも舞台の国広はどうなんだ? と。

舞台も本筋だけだと国広がそんなにキレやすいとも思わないのですが、夢語刀宴会で割と唐突に長義くんにキレてたのは八つ当たりだよな、と。

……あの夢語のシーン、長義くんの前にまず小烏丸が発言してて長義くんはそれを受けての発言なんだよね。

と、いうことは長義くんの意味としては単にパパ上こと小烏丸と一緒に「親子」のメタファーを果たそうとしただけなんじゃ? と思います。

しかしそこに文句をつけたのが国広。しかも小烏丸と長義の両方ではなく、「山姥切長義! 他人事だと思って勝手なことを言うな!」と明らかに長義くんだけを名指し。

長義くん普通に「夢くじを引き続ければ何か解決の糸口がつかめるかもしれんというわけか」って解決法探しを真面目にしてるように見えたんですけどね。

長義くんが第二節のテーマだろう「親子」のメタファーを果たそうとしただけで、それを国広が否定するとしたらそれは段階的には第三節のテーマだろう、友の裏側の「夫婦」のメタファー、嫉妬を伴う男女の情愛の一歩手前になるのでは。

綺伝の忠興の嫉妬フラグが今後の物語でどう回収されるのか? 舞台にごっちんはじめここ最近実装された男士の出番はあるのか?

色々と気になるところです。

ごっちんが回想141であからさまに「長義」に反応したのはなー。
これが号のことで国広と揉めてる長義くん以外の刀だったら普通に褒めただけに思えるけど、長義くんの長義部分ってのはね。

やはり考察としては無意味には思えないんだよ。第一節から引き続く名前に絡むギミックの核心的要素のはず。

ただごけちょぎ派の私が言うと本当に大丈夫か? 妄想と考察の区別ついてる? って話になるので、えーと、最終的な判断はちょっとこう物事をフラットに眺められる方にお任せします。

6.「月(陰)」を欲する

舞台の「朧(国広)」をはじめ国広側の分身だけだったら山姥切伝承の考察だけで行けますが、全然別存在が絡んでくる可能性が出てきたのでこの辺をもっと細かく見る必要性が出てきました。

そういう意味でもごっちんが鍵だなと。

後家兼光は長船派が放任主義だからと上杉寄りになる男士。

おつうこと姫鶴とは気の置けない関係ということで、一見対等に見える。刀剣男士同士としては対等なんだろう。

しかしここで思い出される大慶相手の清麿の言動と、離れ灯籠から見る「影」たる国広の行動。

相手の理想を守ることが「友」の条件だと考える清麿、相手の素顔や自然体を優先する大慶。

清麿は刀工・源清麿としての属性を出さず、山姥切国広は原作ではまだしも派生だと偽物呼びを許す程全力で「山姥切」の名を長義のために捨てている。

この傾向から考えて、ごっちんも「上杉」と「長船派」であることを両立できないからこそあの態度だと思われるわけですよ。

姫鶴一文字と後家兼光の組み合わせだと、姫鶴が「陽」でごっちんが「陰」だと思われます。

どうも燭台そのものである「主」のメタファーは「光」と同義っぽいんで、上杉と直江の主従関係的に姫鶴を始めとした上杉の刀はごっちんに対しては「陽」に働くのではないか。

そして、長船派は名前に全員「光」がつくことから、基本的に「陽」属性だと思われる。

「日日」で揃うと「陽」が過剰で真っ二つにされてしまうので、安定を求めるなら「陰陽」、「光」に対しての「影」になるしかない。

けれど、長船派としては完全に長船から離れるのも寂しいんでしょうね。

この陰陽関係、どうも「日」と「日」で単独の「陽」属性同士だとそもそも相手とセットじゃなく単純に自立感があるんですが。

長船派同士で例外的に回想があるのって小豆・謙信組の他は燭台切と福島兄弟。小豆さんと謙信くんはともかく光忠兄弟は兄と弟というこちらもおそらく主従というか上下のある関係を求める回想だよね……。

陰陽五行の正確な区分とか知らないので、実際にそれで正しいのかわかりませんがとうらぶの中だけで見ているとそういう対属性は陰陽対極なんじゃないか? と思います。

水心子と清麿のように、長義と国広のように、一見対等に見える関係が実は対等ではない。
「友」は敵側の動きからすれば、相手のために死ぬ存在。「ゾーリンゲン友邦団」のように。

ごっちんは自分じゃなく上杉の子たちに食べさせてね! という性格なので相手に与えたい性質は強く、上杉に対しては表面上の態度は普通でも行動としては「影」なんじゃないでしょうかね。

だから自分の中の「陽」、「光」のメタファーを拒む。

しかし、長船と離れること自体は寂しい。だから求めるのは「陰」属性の長船。

これが名前に「光」のつかない長義くんなのでは? と思います。

それだと長義刀全員当てはまっちゃうのでキャラクター同士のドラマとしては特に山姥切長義が特別というあれこれを普通の物語ならやってもらいたいところですが、そもそもとうらぶはこの二振りに回想141以上の発展があるかもわからねーぜ!

とりあえずその後の「後家兼光」と「山姥切長義」がどうなるのかはともかく、最初にごっちんが「長義」の刀に反応したのはこうした陰陽のバランスの問題ではないかなと思います。

陰陽に関しては詳しく調べようとすると現代ではなんとも怪しげな頁しか出てこないので書いといて何ですが話半分に考えといていいと思います。

私が陰と陽で判断しているものも男が陽とか女が陰とかそういうあまりにも有名なもの以外の判断は全て怪しいです。

そもそも一人の人間の中でも陰と陽がぐるぐる強くなったり弱くなったりしているものらしいので。

あるいはそもそもの考え方が逆で、「陰」と「陽」の性質があるというより、物事の変化・回転のその動きを生むものこそが陰と陽の性質であり、一つの事象の動きの結果からその性質を二つに分けた時の名前が「陰陽」ってだけかもしれません。

結局清麿然り国広然り刀剣男士が自分で「影」になろうとかそういう行動をしていることから言っても、与えられた性質が絶対というのとはまた別の問題であって、結果に与えられたメタファーの分類を二つに大別しているだけもしれん。

どちらにせよ上杉、主に姫鶴のとの間に在るごっちんの陰属性疑惑は山姥切の本歌と写しとはまったく関係ないところから発生しているというのがポイントかと。

そこではまったく関係はないが、長船としての「光(陽)」をごっちんが拒絶した時に名前に「光」のつかない長義くんに興味・引力を感じる。

こうなってくると「日日」や「月月」という陰陽セットが何により発生し変動するかはもう一振りの刀の胸の裡だけで納まる問題ではないな、という感じです

話のスケールに対する認識をこの点でもちょっと大きめに拡大しといたほうがいいようですね。

7.ゴールテープのすれちがい

友を否定し、親子を否定し、夫婦を否定し、出会いを否定し、そして。

最後に否定し、そして肯定されるものこそ「死」ではないのか。

山姥切国広の例で考えると。

事実誤認などない完璧な研究史を求めるなら、我々は『堀川国広とその弟子』の発刊される1962年以前の寒山先生のところに、『新刀名作集』の山姥切国広の押形のページをこれみよがしに開いて置いておけばいい。

でも。

でも多分、我々が寒山先生の前でその本を何度開こうと、その本を閉じる手があるんだろう。

それは他でもない、全てを知った山姥切国広自身ではないのか。

私は研究史を調べたから思うが、寒山先生ははっきりと『新刀名作集』の国広の逸話を見落としているが、じゃあこの物語に出会いたかったかどうかと言われれば、そりゃ出会いたかっただろうと思う。

あやふやな伝聞より正しい逸話を知れるなら研究者の視点からはその方が良いだろう。

――けれど、寒山先生が『新刀名作集』の山姥切国広の逸話に出会えなかったからこそ、私たちの知る「山姥切長義」がいる。

我々はもしも歴史を変える術を持っていたとしても、結局最後は我々自身のために、それを捨て去るのではないか。

山姥切国広は、何度その瞬間に訪れても、結局は『新刀名作集』を閉じるのではないか。
そこで本物の「山姥切国広」が死ぬからこそ、いつか「偽物くん」が「山姥切長義」に、本丸で出会うと知ってしまったのだから。

――「出会い」を否定し、おのれの「死」を肯定せよ。

――その先にまた別の自分が、大切な存在に「出会う」ために。

一方の「山姥切長義」はどうだろうか。

もしも長義くんが、自分の逸話が否定されて国広の正しい逸話が見つけられる結果を知ったら。

長義くんの性格からすると両方逸話があるというどっちつかずの結果を望まない気がするんですよね。
そこでやはりきっちり自分を殺してくる。「山姥切長義」を否定する。

それでようやく物語は一周、自分を「偽物」と呼ばれることに苦しみながらものちに逸話を見つけ出される、我々が最初の意味で知った「山姥切国広」が生まれてくる。

これは「死」ではない、むしろ「再誕」。

そしてその時、ようやく「山姥切長義」も「北条家の長義」、「本作長義(以下58字略)」という号のない刀に戻って、やはり歴史の中で一度忘れ去られた「山姥を斬った国広」に会えるのではないか。

名前の否定は死という終わりではなく、そここそが本当の始まりではないのか。

上の例だと国広側も長義側もこの辺りの段階でちょうど最初と立場が逆転して最初に否定したものを受け入れる結論になるかなと。研究史ベースで考えるとそこが一番美しいゴールだよね。前回予想した例だとやはりちょうど6節構成では。

物語が否定されることに耐えられない誰か、昔の私たち自身にとってその地点は発狂もので、それから文字通り死に物狂いで真実の物語を探す旅を始めなければならないかもしれないが、結局その旅の先に我々もその物語の全ての段階を追って、いずれ本当の姿に出会う。

誰かにとっての終わりが誰かにとっての始まり。
誰かにとってのゴールは誰かにとってのスタート。

……最初はとうらぶの結末は一応全統合方面で考えていたのですが、陰陽五行の陰陽の組み合わせの入れ替えを無限に続ける方式だとその日って来るのかなあと懐疑的になってきました。

誰かと誰かのピースは噛み合ったように見えても他の部分でずれるでしょこれ。
極のペースが上がらないことや、かといって新しく実装される刀剣男士のスペックが上がるわけでもないことから考えると、シナリオはもちろん進むけどもうこのまんまこのペースでぐるぐる円環を続けるのでは?

審神者側の認識と刀剣男士の認識がまず一致しておらず、組み合わせがずれてる疑惑が出てきましたからね。

審神者のゴールも刀剣男士のゴールではなく、審神者のスタートも実は刀剣男士の物語的には終盤とかで全員がゴールを迎えるタイミングは本気で永遠に来ないのかも。

上の例通り、例えば極修行2があったとして、国広と長義くんが同時に修行に出るイメージないよね。必ずタイミングはずれ、タイミングがずれるなら第一節と第二節みたいに中身が違う。

ゴールを迎えるタイミングすらも、我々はみんな最初から別なのかもしれない。

ただぐるぐると円環を巡るだけ。刀剣男士と審神者ですら足並みの揃わない、ただ自分だけのゴールを求めて。

永遠に廻り続ける物語なのかもしれない。

……正直そういうタイプの物語好きじゃないほうなので自分で考察しておきながら微妙だなとか思ってしまったんですが(オイ)、これだと本当に一応理屈的には「最初から全部大事な物語」というある意味美しい結論になります。

山姥切国広が卑屈な性格で本丸に顕現して「偽物」がどうのとうじうじしているのも、山姥切長義が最初には本丸にいなくて、途中から合流になるのも本刃たちが選んだ結果ということになるので、

本歌と写しの一言で済むはずの長義と国広が、山姥を斬った逸話の持ち主同士という本来とは違う組み合わせのペアで一見噛み合わないようなやりとりを繰り広げていても、それは歴史のどこかで前世の自分が選んだ結果。

すれ違う物語同士であっても、出会いたいから、傍にいたいからこそ、自分でその答を、最初から「正史」を選んでいた。

だからどこかの本丸で繰り広げられる、もしかしたら何かがずれているかもしれない物語も、当事者たちはお互いに知らぬまま、それでも輪廻のどこかでそういうことがあってもかまわないと選んだ答だと。

うーん。理屈だけなら綺麗に決まってるんだよこれ。単に私がこういうタイプの話好きじゃないってだけで。いやマジで。

あくまで長義・国広を中心に見た場合なのでまだまだ謎な点はいっぱいありますが、第六節辺りまでの中核テーマに大体見当がついたということで、「刀剣乱舞」がどういう構造で、どこを目指して、どういう読後感を目指そうとしている話なのかはある程度考察できたと思います。

まあこの時点ではまだ長義くんの極が出ていないのでそれが大きく予想とズレこんでいたら意味ないんですけど。

個人的には「対百鬼夜行迎撃作戦」のおかげでようやく方向性が見えてきて一段落感があります。

やはり戦っている敵がどういう思想を持っているかがわからないと方向性が定まらず落ち着かないので、戦鬼くんの言葉で「刀剣男士など生まれなければ」が聞けて良かった良かった。

あとはもう本当に、長義くんの極がどうなるかだけですね。