花丸のダークサイドを読む
舞台の考察の方で舞台は「怒りと憎しみ」の物語だという結論が出て、花丸は「妬み」の物語だという結論になったのでそこから考察開始。
以前の舞台考察から引き続いていますのでこれ単体では読めない記事です。
斬ると食うと、呪いの話(付舞台考)
斬ると食うと、呪いの話(付舞台考)2
斬って食って呪ったのでもう常に舞台の最悪を想定をしていく(蛇足)
慈伝再考、あるいは派生作品から見る山姥切の三毒
1.大前提の再確認 花丸の主人公は清光と安定である
山姥切国広の「瞋(怒り・憎しみ)」の物語である舞台の考察が一段落して、その過程で花丸の長義・国広も「癡(真理に明るくない愚かさ・妬み)」であるという結論が得られました。
ただし物語は、やはり何かのついでではなくその物語自体のテーマをきちんと出してからでないと比べられないと思います。
と、いうわけで次は花丸の考察をちょっとずつ始めたいと思いますが、一気にやるのは量的に大変なのでまずは長義登場回である雪の巻から行きたいと思います。
長義推しにとってはやはりそこが一番わかりやすいので。
そして、ジャンププラスのコミカライズで11月から月の巻に入ったことで、雪の巻と言われる物語がどういう構成かも大体わかったと思います。
そんなわけで、舞台の考察から花丸の考察に移るためにまず真っ先にやらねばならない作業があります。
舞台はほぼ山姥切国広を主人公に展開する物語です。
もう一振り主人公を選べと言われたら三日月宗近になるでしょうが、あの話に関しては三日月の序盤離脱という展開の都合上、ほぼ国広単独主人公と見ても差し支えはないだろうくらい国広主人公です。
だから国広にとって最も重要な相手である本歌の長義の重要性も必然的に高く、長義登場の慈伝以降、敵味方問わず登場人物たちの言動の多くは国広と長義の関係、国広の内面のメタファー(比喩)として扱われます。
しかし、花丸は舞台と違って、国広が主人公ではありません。
花丸の国広はただの脇役。必然的に長義もただの脇役で、彼らは今度は主人公を表現するためのメタファー役に回ります。
描かれているものはその物語としては嘘ではないが、それを即真実・パブリックイメージとして理解することは大いに問題があります。
舞台の忠興・ガラシャの愛憎は物語としては美しくても、それを細川夫妻の真実として捉えるのはちょっと問題があるように。
イメージをきっちり整理して花丸を考察するためには、まず花丸の主人公をはっきりさせておく必要があります。
花丸の主人公は、安定と清光です。
舞台と構成が違うので片方が離脱しない関係上どちらの方が重要と考えると難しいですが、舞台の構成と比較すれば三日月の位置が安定、国広の位置が清光だと考えられます。
舞台と比較すれば清光の方が重要だと思われますが、舞台は今がちょうど山姥切国広にとって最も重要な長義との関係話をやっているタイミングです。
全体から見れば三日月・国広で重要度も等量の話になる可能性の方が高い気もしますし、一応安定・清光のW主人公でやや清光重視で行きたいと思います。
これまでは花丸の方の考察でもあくまで長義・国広の関係を中心に見てきました。
安定・清光を中心として花丸そのものの考察に切り替えると、思考の大転換を図ることになります。
花丸長義・国広の「羨望と妬み」の物語はすなわち、花丸の主人公である「大和守安定」の内面のメタファー。
舞台が国広から長義への「怒りと憎しみ」の物語ならば。
花丸は安定から清光への「嫉妬と羨望」の物語です。
2.安定の嫉妬と羨望の物語
花丸の国広と長義はそれぞれ
国広「俺は……本科であるお前が羨ましい」
長義「俺はお前が妬ましい」
ということを言います。
花丸の二振りは三毒の「癡」。
愚痴、無明と呼ばれる真理に明るくない愚かさ、そこからくる妬みの関係性と考えられます。
そしてここの話は構成上、清光というより安定の物語のメタファーと考えていいと思います。
花丸は全体的にきっちり二部構成になっていると考えられます。
今私が把握しているのがこの「雪の巻」とコミックスを1巻だけ買ったので最初の方だけ確認しましたが、多分二部構成です。
(全部買え? お金に余裕があったらね! 我貧乏審神者)
「雪の巻」は山姥切長義登場・国広と揉めて色々なことをやらかす前半と、
特命調査・文久土佐開始、静形の失敗と小夜へ謝らなくてはの気持ちと陸奥守吉行が放棄された世界で旧知の肥前・南海と再会し龍馬の姿をした敵と遭遇する後半という構成です。
長義・国広の話は安定のメタファー。
静形と文久土佐は清光のメタファー。
で、きっちり綺麗に分けて考えられると思います。
長義の言うことを全く聞かず、最初にいたと言うだけで国広を贔屓し、話を悪化させて、最後にはそういう自分の態度は良くなかったかも……と反省している安定こそが、あの話の本当の主題、あの話で一番重要な主人公です。
花丸の長義の暴走はどちらかというと、初対面で相手を悪だと決めつけてその話を聞こうともしなかった安定自身の行動を反映しています。
一方で国広は安定にとっての清光でもあり、同時に国広自身も安定の中のもう一人の自分のメタファーだと考えられます。
舞台考察で言うならちょうど忠興とガラシャの関係性が近いと思われます。
一見愛憎の対象で強く執着する煩悩の対象でありながら、実際には自分自身の心の半身である。
つまり、花丸安定の物語というのは、相棒である加州清光への「妬み」の物語。
思い返せば花丸の安定はもともと、池田屋で清光ではなく自分が沖田総司に振るわれる夢を見ていました。
あれも結局は、清光への嫉妬、その物語への羨望や妬みだったのでしょうね。
清光の立場に成り代わることを夢見ている。文字通り。
「大和守安定は加州清光に嫉妬して成り代わろうとしている」
そしてこの結論自体は、おそらく原作ゲームから根幹にある設定だと思います。
3.大和守安定の願い
花丸安定は原作ゲームの安定と根幹を共にしている。
花丸安定と原作安定は一見まるっきり性格が違うように見えて、実はその性格の軸は同じ。
それがこの修行手紙の内容だと思います。
沖田くんが倒れた。僕の知っているように。
そして彼は、この後戦場に出ることなく死ぬ。僕を置いて。
思えば僕は、沖田くんと一緒に歴史の闇に消えるか、
彼より先に折れてしまいたかったのかもしれない。(大和守安定 修行手紙2通目)
沖田くんと一緒に歴史の闇に消える――沖田くんと死にたかった。
彼より先に折れてしまいたかった。彼を守って。
だから――だから清光が羨ましい……!
他のどんな名刀よりも、僕の欲しい物語を持っているお前こそが、誰よりも妬ましい……!!
安定の清光への「妬みの物語」というのは、清光への憎しみが主体にあるわけではなく、あくまでも「元主沖田くんへの愛情」から生じるものなのでしょう。
「癡」という「妬み」の物語だからといって、これを清光への憎しみだと捉えてしまうと解釈が狂ってしまうと思います。
何故相手が羨ましいのか妬ましいのか、それを解明せずにただ妬みの対象を憎むってのはそれこそ「癡」、真理の見えない完全な愚か者のすることです。
花丸「雪の巻」は長義・国広のやりとりを通して安定がその暗い道に足を踏み入れかけたのを、長義側にきちんと言葉によって働きかける清光の姿を通して引き戻す物語だと考えられます。
(山姥切の二振りは原作ゲームからするとどちらかというと言葉で働きかけず行動で実力を見せることを強調しているのであの部分は長義・国広の物語としては違和感がありますが、清光の物語の一部としてみれば納得が行きます)
そして最後には安定は相手の言葉をまるで聞こうとしなかった自分の姿勢を反省し、自分の考えと反するものを受け入れる決意をします。
その心情が「雪の巻」のまとめ、「新刀剣男士のお世話係」として、修行に出る清光の仕事を引き受けるやりとりにつながっていきます。
安定・清光の関係はやはり間に元主である沖田総司への感情を挟んでこそ理解されるもののようです。
同様に、そもそもこの部分のメタファーである花丸の長義と国広もそうです。
山姥切の本歌と写しは、お互いに人間を通して自分にはない相手の物語を見ている。人間から与えられる、人間の評価に付随したお前の物語が妬ましい。
それが花丸の長義と国広で、これに関しては人間との関係よりもお互いを愛しながら憎んでいることが主題である舞台の長義・国広と演出の主眼が違うのは注意したいところです。
派生作品の考察はやはりその派生それぞれの意味を一度出してから総合的に掛け合わせる段階的な作業が必要ですね。
舞台・花丸それぞれの方向性がわかればそれを前提に派生の掛け合わせ考察で話が理解しやすくなります。
花丸安定のこの池田屋の清光に成り代わる夢の描写の意味、原作と花丸だけで考えると難しいですけど舞台の「朧なる山姥切国広」「山姥切国広の影」の発生事情から考えるとすっと行くんですよね。
影の発生原理は『伊勢物語』芥川の鬼の原理と同じもの。
本当の願いを押し込めようとすればするほど、その心は己の影として独り歩きしてしまう。
花丸は舞台のように己の心の半身が独り歩きしている描写はありませんが、むしろ花丸本丸自体が時間遡行軍みたいなものなので影を作り出す必要がないだけで、原理は舞台の「影」発生と同じと考えていいと思います。
今回花丸コミックス1巻見たら安定が思いっきり沖田総司を守って歴史を変えようとしてるじゃねーか! 完全に時間遡行軍の行動じゃん! ってなりました。
沖田くんと一緒に死にたかった。
彼より先に折れたかった。
その物語を持っているのは清光。だから清光が羨ましい。妬ましい。
それが花丸の安定の物語。
そして原作ゲームの大和守安定が口にせずとも、その心の奥底に抱えている根幹的な願いそのものだと考えられます。
4.花丸の二部構成
「雪の巻」がどこからどこまでかわかったことと、コミックスをとりあえず1巻読んだことで花丸は大体ストレートな二部構成だなという結論になりました。
なお厳密には二部構成の中にさらに大体二部構成を持ち込んでくる「入れ子式二部構成」です。あれ? 割と凝った構成だよねこれ? ストレートとは?
それでもたぶん舞台よりはわかりやすいと思うんですが……。
特に今回コミックス1巻で確認した「睦月」「如月」の話と、「雪の巻」の構成が似ていますのでこの比較だけでも大分話がわかりやすくなると思います。
「睦月」は安定が顕現して、清光たちと池田屋に出陣する話。
「如月」は鶴丸と同田貫が顕現し、主に織田組が本能寺に出陣する話。
「雪の巻」も
前半は長義の顕現と国広との確執、江戸に出陣して国広と一段落。
後半は静形の失敗と小夜との関係、文久土佐攻略。
二部構成の中の二部構成で、前半の出来事の解決が後半に絡んできます。
ただこの部分、何故長義たちの出陣先が江戸なのかとかそういう細かいことまでは考えが追い付かないんですよね。
江戸の字で考えれば水の扉。
あるいは仏教的に「えど」という音は「穢土」、浄土に対する穢れの多い土地とかに通ずるのかなと思いますがこの辺はちょっと重要なところなのでまだ保留にしておきます。
コミックス版なのでアニメ映画本編とはちょっと構成が変わる可能性はありますが、根本的に二部構成in二部構成というのは変わらないと思うのでこのままいきます。
コミックス1巻冒頭の二部構成をさらに見ると。
「睦月」の安定の顕現と池田屋出陣は当然安定の物語ですが、そうなると「如月」は清光の物語となります。
「如月」前半は「鶴丸」と「同田貫」の顕現、後半は織田組と一緒に本能寺へ出陣する話です。
……鶴丸と同田貫の組み合わせってさー、舞台の慈伝でもそれぞれ三日月と国広の内面を代弁する強烈なメタファーだったよね……。
舞台と花丸はやはりメタファーの配置がかなり近いと思います。
後半は織田組と本能寺へ出陣します。
長谷部や宗三は池田屋の時の安定と違い、織田信長の死である本能寺の変の歴史を守らねばならないと淡々と口にして、「え!? 死んだほうがいいっていうの?」と安定を驚かせます。
この態度の差は、原作ゲームでも普段から安定は沖田くん沖田くんと元主の話を口にしますが、清光は沖田くんを意識しつつもその名を口には出さない態度そのままだと考えていいと思います。
信長を救おうとは考えない織田組に対し安定は驚きますが、本能寺を見守る織田組の姿に彼らも何も思わないわけではないのだと知ることに繋がります。
というわけで、花丸本丸に新たに顕現した鶴丸や同田貫の行動、そして本能寺の変での織田組の行動が清光の内面のメタファーと考えられます。
5.清光の物語
花丸を見るに清光の物語はまだ結構隠されている部分が多いなと思います。
舞台との対比で配置的に考えると清光は国広、安定は三日月だと思いますが、演出的にはその逆になっていると思います。序盤で考えのほとんどを明かさない清光の方が舞台の三日月の印象に近い。
ただこれに関しては舞台と花丸が逆だと考えるよりは、むしろどちらも同じ論理構造を基軸に組んで、組んだ話の方向性によりそういう描写になると考えたほうがいいかなと思います。
どちらかというと三日月が早期退場して国広が残る舞台の印象が国広単独主人公っぽく偏りがちな演出なだけで、他の派生と合わせると刀剣男士の退場はなしでW主人公の描写は入れ子式二部構成の掛け合わせで等量に描く花丸の演出の方がスタンダードな作りに感じます。
舞台が本物の退場(死亡)を描いていく過激な展開なだけで、他の派生では離脱は極修行辺りがそこにあたるのでしょうね。
清光の演出がそうなる理由は原作ゲームの清光の修行を考えても納得がいくかなと思います。
それにしても、変な感覚だよね、自分のすぐ側に、昔の自分がいるってのはさ。
……この後、あいつ欠けちゃうんだよなって、自分のことなのに、他人事みたいでさ。(加州清光 修行手紙2通目)
舞台だと三日月も「鵺」を自分とは別物だと認識していましたが、それは清光のこれにあたるのではないかと思います。
自分の物語を、自分でもそうと思えないでいる。
俺とあれは違うものだ。物語の分離。
清光の内面のメタファーとしての「如月」を振り返っても、安定の時とは違い、「鶴丸」と「同田貫」が同時に顕現しているというポイントがあります。
鳥と集合体。舞台の三日月と「鵺」に限りなく近い構図だと考えられます。
そしてここで「雪の巻」の後半を振り返ると。
そもそも最初に「静形」が「小夜」とぶつかって「花瓶」、花を活ける物を割ってしまうという暗喩から超意味深です。
花は「物語」。
花瓶が割れるというのは、物語の破壊と否定を意味する。
沖田総司の刀が池田屋で折れたことは近藤勇の手紙により判明している史実。
けれどそれが「加州清光」であったということは創作――作り話だと、否定されている……。
足利義輝が永禄の変で使ったという話がいつからか持ち上がり否定されている三日月に近いとも思います。
静かな形、涅槃は破られ、半身である穏やかな無明、小さな夜とうまくやることができないのだという後悔と焦りを抱える。
そして始まる特命調査・文久土佐。
ここまでの舞台考察で人斬りは物語を食うこと、殺すことによる「統合」を意味すると考えられますから、その人斬り刀である肥前くんが悩む描写が入るということは「統合」への悩み、上でも挙げた「分離」が中核と見ていい気がします。
その傍ら、文久土佐本来の物語としては、陸奥守吉行が坂本龍馬と対峙する場面があります。
他の派生より軽く、この話原作と大きく違って「歴史を守るのは刀の本能」関係の台詞が抜けているのでオイやっぱお前ら時間遡行軍……と思いますがそれは要するに花丸の本筋ではないということで置いておいて。
花丸に関しては、放棄された世界で元主の姿をした敵と対峙してきたむっちゃんが、その心情を本丸で吐露するのが重要だと思われます。
壊れた銃を眺めながらまだ生きているはずだとむっちゃんが口にするシーン。
ほかの派生ならこれはせいぜい龍馬に関する考察の1ピースくらいだったと思います。
しかし、花丸で、清光の前でこの話をしているということはメタファーとして非常に大きいと思います。
壊れた銃に、元主への想いを馳せる陸奥守吉行。
折れた刀に、沖田総司への想いを馳せたことによって生まれた加州清光の物語。
この対比を考えれば、花丸の清光の修行タイミングは確かに、ここでなければいけなかったんだと思えます。
舞台の国広の修行タイミングが、三日月のことで自分に自信を失っていた時にやってきた本歌の長義に背を押された、慈伝のあの時でなければならなかったように。
己の物語を己の物だと思えない、その物語は自分自身の誉れだと感じられない加州清光が、別れてしまった半身と統合するための第一歩。
これが花丸の加州清光の物語。
そしてその根幹もやはり、原作ゲームの清光から引き継いでいる要素だと思います。
6.集合体の定義の見直し
ここまで沖田総司佩刀の一振りと一振りの話をずっとしてきておいて何ですが、そこの部分も一度考え直した方がいいかなと。
刀の研究史の調査をしていたんですが、新選組刀に関しては孫六兼元の実装でちょっと定義への認識を揺るがされまして。
孫六兼元は斎藤一の刀としての記憶もあり、気に入ってはいるけどそれを選ばずにあくまで孫六兼元の集合体として存在している。
ん……? 兼元がそういうスタンスを自分でとっているということは、他の新選組刀も一緒じゃないの?
兼元が他の子と違うと考えるよりは、むしろ最初の自己紹介はあくまで男士自身の拘りが反映されているだけで、要素自体はどちらかというと名前が本質であるのではないか?
つまり、特定の号を持たずに刀工名を名乗る男士は全員本来は刀工作の集合体なんでは?
清光も安定も沖田総司佩刀の一振りとして考えるより、加州清光作の集合体で中核は沖田総司佩刀、大和守安定作の集合体で中核は沖田総司佩刀、そう考えるべきか?
これを研究史の調査として出すときにページ構成にかなり悩みまして。
刀工作の集合体なら刀工の記述を載せて代表作の一部として有名なものを付け加える方が自然で、最初から刀工要素を打ち出してきた南海先生や肥前くんはその形式で書いたんですが、新選組刀はそれでいいのか? と。
新選組の刀の物語はどれも曖昧。現存する兼さんだって近藤さんの手紙とは違う刀だと言われているし、会津兼定が和泉守を受領する前だからこれは之定のことだ! みたいな説があって話が面倒なことに。
新選組の刀を調べる場合は、まずその曖昧さをしっかり自覚して、それをわかった上でなおではどうしてこの刀工の刀だと言われているのかと刀工の調査の方に入るべきだと思う。
最初から刀工主体で書いちゃったら完全にその刀がその刀工のものだと考えていることにならないだろうか。
贋作だと言われている。贋作だと疑われている。
創作だと言われている。創作だと疑われている、そういう重大な要素を無視して。
というわけで、ページ構成に悩みつつ定義を見直す羽目になったので、ここでも一度、ここまでやっておいて何ですが、そもそも清光安定堀川和泉守辺りの号なし刀工名顕現は刀工作集合体で考えたほうがいいかなという問題提起をぶっこんでおきます。
(ただ長曽祢さんの場合は贋作の虎徹ってかなり限定的だからどうだろう……?)
清光の立場になりたがる安定。
己の物語を己自身だと思えない、統合できない清光。
この二振りの根底を考える時は刀工要素がどう発揮されてくるか、ちょっとこれ今後の課題として置いておきたいと思います。
7.きっとみんな同じ物
と、いうわけでこれで花丸の「雪の巻」というかなり限定的な話の考察をいったん終わります。
ただ、ここで安定の願いが花丸というか原作の方から
「沖田くんと一緒に死にたかった。沖田くんのために彼の死よりも先に折れたかった」
であることが判明したのが結構重要だと思うのです。
花丸では、長義と国広が安定のメタファー。
そして舞台では、安定が長義と国広の……主に安定の沖田くんへの愛情が国広の長義への感情のメタファーになると思われます。
花丸と舞台はメタファーの配置が似ている。
ということで、次は舞台を中心に今回の花丸の考察を交え、原作ゲームから何が一番重要なのかという総合的な考察に入ります。