ひざまる
概要1 源氏の重宝・膝丸の物語と資料
源氏の重宝と呼ばれた太刀の膝丸
「膝丸」は源氏の重宝だった太刀の異名。
『剣巻』によると、罪人を試し斬りした時に膝まで切り落としたので「膝丸」と名付けられたというのが号の由来だが、『剣巻』自体が小説であって信憑性は低い。
『剣巻』によればその後も所有者が代わるごとに「蜘蛛切り」「吠丸(吼丸)」「薄緑」と改名し、源義経の手で箱根権現に寄進されたとなっている。
しかし、『曽我物語』になると同様に義経の太刀とされるものが別の名で伝わっている。
源氏の重宝「膝丸」の源頼朝以後の伝来に関しても、『西藩野史』には島津家の初祖に膝丸が「小十文字の太刀」として伝わったという話があり、大覚寺には「膝丸」の別名の一つとされる「薄緑」が現在も所蔵されているという。
伝承の中にその足跡を多数遺すものの、史実における「膝丸」を考えるのは非常に難しいので、今はただその名を記された資料を確認するに留める。
『剣巻』による号の由来
多田満仲が筑前国三笠郡土山に来ていた異国の刀工に、「髭切」と同時に作らせたもので、罪人を試し斬りしたところ、膝まで切り落としたので、膝丸と名付けた。
それを譲り受けた満仲の嫡子・源頼光が虐病(わらわやみ)、つまり今日のマラリア病にかかった時のこと、大入道が現れて、頼光に縄をかけようとしたので、「膝丸」を抜いて斬りつけた。
大入道が血をたらしながら、逃げて行った跡をたどって行くと、北野の後ろにある大きな塚の中に消えていた。
塚を崩してみると、四尺(約121.2センチ)ほどもある山蜘蛛が死んでいたので、それから「膝丸」を、「蜘蛛切り」と呼んだ。
頼光はこの刀を三男の頼基に譲っていたが、頼光の甥にあたる源頼義が、奥州の安部氏討伐に赴く時、朝廷では鬼丸と共に召し上げ、頼義に賜わった。
頼義より義家――為義と伝わった膝丸は、夜になると蛇の泣くような声を出すので、「吼丸」と改名した。
それを、為義は娘婿になった熊野の別当・教真に、婿引き出として与えた。
教真はそれを熊野権現へ寄進した。
教真の子・湛増は、源義経が平家追討へ西上して来ると、「吼丸」を申しくだして、義経へ贈った。
義経はそれを、「薄緑」と改名した。
平家滅亡後、兄頼朝と不仲になった義経は、釈明のため鎌倉に下ったが、追い返された。
帰途、箱根権現に「薄緑」を寄進した。
建久4年(1193)、曽我兄弟が仇討ちに赴く際、箱根の別当・行実は、これを弟の五郎時致に贈った。
『剣巻』によると、仇討ちがすんだあと、頼朝に召し上げられた。
ただし『曽我物語』では、時致に贈られたのは友切り、つまり原名・髭切ということになっている。
しかし、『剣巻』『曽我物語』ともに小説であって、真実とは受け取りがたい。
『平家物語 (有朋堂文庫)』
著者:永井一孝 [校] 発行年:1927年(昭和2) 出版者:有朋堂書店
目次:劔卷
ページ数:1~32 コマ数:9~25
『義経記・曽我物語』
著者:武笠三 校, 塚本哲三 編 発行年:1922年(大正11) 出版者:有朋堂書店
目次:曽我物語 巻第九 十三 十番斬の事
ページ数:702 コマ数:361
人を選ぶべきに非ず。時致が伎倆の程を見よ」とて、紅に染りたる友切眞額に差し挿し、電の如くに飛んで懸る。
島津家の初祖・忠久の「小十文字の太刀」こと「膝丸」
源頼朝以後の消息は明らかでないが、島津家に伝わったという話がある。
『西藩野史』によれば、島津家の初祖・忠久が文治2年(1186)、薩・隈・日の地頭職に輔せられ、薩摩へ下るとき、源頼朝より与えられた「小十文字の太刀」が「膝丸」であって、以後、島津家に伝来した。
南北朝期になって、膝丸を継承していた六代目・師久の世子・伊久は、長子の守久が凶暴で、島津家を継ぐ器でないことを見抜き、従兄弟にあたる元久に膝丸を譲った。
『西藩野史』『島津国史』によると以後、島津本家の重宝とされたという。
『西藩野史』
発行年:1896年(明治29) 出版者:鹿児島私立教育会
目次:元祖 忠久公 ページ数:19、20 コマ数:42、43
目次:七代 元久公 ページ数:68 コマ数:67
小千文字ノ太刀(傳云源家世々傳ル處ノ膝丸ナリ忠久公ノ傳ニ詳ナリ伊久忠久公ノ大宗家タルヲ以テコレヲ傳フ今ニ至テ相傳フテ家珍トス)
『新薩藩叢書 第2巻』(データ送信)
発行年:1971年(昭和46) 出版者:歴史図書社
目次:西藩野史 元祖 忠久公 ページ数:65、66 コマ数:46、47
目次:西藩野史 七代 元久公 ページ数:113 コマ数:70
『島津国史 3』(データ送信)
著者:山本正誼 発行年:1905年(明治38) 出版者:島津家編集所
目次:巻之十一 節山公
コマ数:57
『島津国史 9』(データ送信)
著者:山本正誼 発行年:1905年(明治38) 出版者:島津家編集所
目次:巻之二十八 大玄公
コマ数:3
江戸城の紅葉山宝蔵に膝丸・髭切・友切丸・薄緑があったという話
『江戸拾葉』によると、
江戸城の紅葉山宝蔵にも、膝丸・髭切・友切丸・薄緑などという、源氏ゆかりの太刀があった。
しかし、薄緑以外は、来膝丸・来髭切・来友切丸などと、「来」の字を冠している。
黄金造りの太刀というが、源氏の嫡流を吹聴するための、拵え物のようである。
『未刊随筆百種 第2』(データ送信)
著者:三田村鳶魚 校訂, 随筆同好会 編 発行年:1927年(昭和2) 出版者:米山堂
目次:江戶拾葉
ページ数:101 コマ数:55
作者についての諸説
『日本刀大百科事典』によると、膝丸の作者については異説が多い。
・筑前土山の異国鍛冶(『平家物語』)
・筑前土山の正応(『筑前国続風土記』)
・筑後の光世(『西藩野史』)
・奥州の文寿(『能阿弥本』『本阿弥光和伝書』)
・奥州の宝寿(『長享目利書』)
『益軒全集 巻4』(データ送信)
著者:貝原益軒 著, 益軒会 編 発行年:1910年(明治43) 出版者:益軒全集刊行部 (隆文館内)
目次:筑前国続風土記 巻之二十九 土産考(上)
ページ数:662 コマ数:336
概要2 膝丸の別名の一つ、「薄緑」の太刀について
「薄緑」と呼ばれる太刀
源義経や曽我五郎が佩いた、という太刀。「薄翠」とも書く。
「薄緑」は『剣巻』によれば源氏の重宝「膝丸」が後に改名された名の一つだが、『曽我物語』と『剣巻』では義経の刀の来歴が大きく異なっているため、『剣巻』だけを信用してただちに「膝丸」と「薄緑」を同一の物とは断定できない。
そして何より「薄緑」と称する太刀は現在、箱根神社や大覚寺など複数伝来している。
それらすべての詳細な来歴を知ることは難しい。
作者は古剣書において「長円」とされることが多いがやはり諸説あり、現在大覚寺が「薄緑」として所蔵する刀の刀工も別である。
『曽我物語』の義経の太刀
『曽我物語』によれば、義経が入手し箱根権現に寄進した刀は「膝丸」でも「薄緑」でもない。
源頼光が唐の国から武悪大夫という刀工をよんで作らせたもので、「朝霞(てうか)」と名付けた。
その弟、頼信は「虫喰み」、
頼信の嫡子・頼義は「毒蛇」、
八幡太郎義家は「姫斬り」、
源為義は「友斬り」
と呼んでいたものを、源義朝は鞍馬の毘沙門天に奉納した。
それを源義経が盗み出し、隠しておいた。
『長享目利書』では隠しておいたのは備前友成という異説もある。
義経はそれを平家討伐に西下するとき、箱根権現に寄進した。
それを曽我兄弟が仇討ちに出かけるとき、別当行実が弟の五郎に与えた。
五郎はそれをもって、めでたく親の敵を討った。
しかし、『長享目利書』『長享銘盡』『上古秘談抄』などの古剣書によると、それは備前助平の作という異説もある。
源頼朝は五郎から取り上げて、再び箱根権現に奉納した、という。
『曽我物語』で義経が箱根権現に寄進した刀は「宇治の橋姫」を切った逸話(「姫斬り」)を持ち、「友斬り」とも呼ばれていることから、『剣巻』の「髭切」と同一にも考えられる。
しかし、『曽我物語』には五郎が「友斬り」を与えられる一方、源頼朝が「髭切」を抜いて出ようとする場面があるので、「髭切」と「友斬り」が別の刀として扱われている。
『義経記・曽我物語』
著者:武笠三 校, 塚本哲三 編 発行年:1922年(大正11) 出版者:有朋堂書店
目次:曽我物語 巻第八 三 太刀刀の由来の事
ページ数:640~644 コマ数:330~332
『剣巻』の義経の太刀、「薄緑」
『剣巻』によれば、
多田満仲は当時、筑前に来ていた異国の鍛冶に、二振りの太刀を鍛えさせた。
一振りは試し斬りしたところ、首を斬った勢い余って、膝まで断ち切ったので、膝丸と命名した。
それを譲り受けて、
源頼光は「蜘蛛切り」、
源頼義は「吠丸」
と呼んでいた。
頼義はその刀を女婿の熊野別当・教真に与えた。
源義経が平家を追って西下するとき、教真の長男・湛増がそれを義経に贈った。
義経は、時は春二月、緑もまだ薄い熊野の山から出てきた、というので「薄緑」と改名した。
義経は兄・頼朝の不興をこうむり、鎌倉の腰越から追い返されたとき、箱根権現に立ち寄り、薄緑を寄進したという。
『曽我兄弟太刀由来記』も同様の記述になっている。
しかし『筥根山縁起』によると、義経が寄進したのは、西征の時だった、とする異説がある。
また、『吾妻鏡』によると、文治元年(1185)10月、法皇の御剣が紛失したので、源頼朝は「吠丸」と鳩丸の二剣を献上した、という記録がある。
さらに『平治物語』には義経の兄・源朝長のとき、すでに「薄緑」と改名されていた、という説がある。
『源平盛衰記』には畠山重忠が17歳の時、小坪の合戦で「薄緑」を履いていたという説もある。
これらの異説のこともあり、『剣巻』の記事はそのまま鵜呑みにできないことになる。
『平家物語 (有朋堂文庫)』
著者:永井一孝 [校] 発行年:1927年(昭和2) 出版者:有朋堂書店
目次:劔卷
ページ数:1~32 コマ数:9~25
『吾妻鏡 第1』
著者:正宗敦夫 編 発行年:1930年(昭和5) 出版者:日本古典全集刊行会
目次:五卷 (文治元年九月―十二月)
ページ数:211 コマ数:119
『源平盛衰記 下 (友朋堂文庫) 』
著者:石川核 校 発行年:1911-1912年(明治44-45) 出版者:有朋堂
目次:第二十一巻 小坪合戦事
ページ数:715 コマ数:365
『保元物語平治物語 (新訳国文叢書 ; 第2編) 』
著者:須田正雄 編 発行年:1914年(大正3) 出版者:文洋社書店
目次:巻一 一四 源氏勢揃へ
ページ数:82、83 コマ数:50
(下記の本には『曾我兄弟太刀由來記』が引用されている)
『新編相模風土記 巻1至38』
著者:相武史料刊行会 編 発行年:1929年(昭和4) 出版者:相武史料刊行会
目次:卷二十八 足柄下郡七 元箱根上
ページ数:735、736 コマ数:400、401
(下記の本には『筥根山縁起』が引用されている)
『箱根神社大系 下巻』
著者:箱根神社社務所 編 発行年:1935年(昭和10) 出版者:箱根神社社務所
目次:寳物編 6 武器・武具
ページ数:110 コマ数:118
作者は古剣書の多くで豊前の長円とされている
『日本刀大百科事典』によると、「薄緑」の作者は古剣書の多くで豊前の「長円」とされているらしい。
他にはこのような説がある。
・定円説(『鍛冶銘集』)
・実次説(『日本国中鍛冶銘文集』)
・国宗説(『正和銘鑑(観智院本)』)
方々に伝来した「薄緑」
「薄緑」と称する太刀は現在、箱根神社や大覚寺など、方々にある。
箱根神社所蔵の薄緑
前期の来歴からみると最も信をおけるようであるが、『日本刀大百科事典』ではこれを最も信をおけないようであるとしている。
延享3年(1746)刊の『本朝俗諺志』によれば、当時、曽我五郎が工藤祐経を斬ったのは、「清府の太刀」と箱根権現では呼んでいた、というから「薄緑」という名称はその後つけたことになる。
天明3年(1783)、榊原香山が行ったときは、すでに「薄緑」ができていた。
刃長二尺七寸(約81.8センチ)。
無銘の太刀で、拵は兵庫鎖の形式ではあるが、祭礼のときの貸し太刀のたぐいだった、という。
それから14年後の寛政7年(1795)、捧檍丸が行って写してきた図をみると、まったく別物である。
榊原香山によると、職人任せにして作らせた偽物という。
出典は『古剣図式』となっているが国立国会図書館デジタルコレクションにはない。
酔剣先生の別の著書でもう少し詳しい話が読める。
『名刀と名将(名将シリーズ)』(データ送信)
著者:福永酔剣 発行年:1966年(昭和41) 出版者:雄山閣
目次:曽我兄弟の佩刀
ページ数:38~57 コマ数:26~35
『本朝俗諺志』も読めないが、「清府の太刀」で検索するといくつか記事が引っかかるので史料自体はあるようである。
『神奈川県郷土資料集成 第7輯 (紀行篇 続)』(データ送信)
著者:神奈川県図書館協会郷土資料編集委員会 編 発行年:1972年(昭和47) 出版者:神奈川県図書館協会
目次:二 山東遊覧志 安永八 葛郛
ページ数:22 コマ数:18
清府の太刀 是にて時宗、介経を討と云。
『箱根神社大系 上巻』
著者:箱根神社社務所 編 発行年:1930年(昭和5) 出版者:箱根神社社務所
目次:二 記録
ページ数:439、440 コマ数:244、245
江戸城の紅葉山御宝蔵の薄緑
『江戸拾葉』によると、
徳川将軍家にも、刃長二尺七寸(約81.8センチ)、金拵え付きで、薄緑と称する太刀があった。
ただし、これは源三位頼政の太刀とされていた。
『未刊随筆百種 第2』(データ送信)
著者:三田村鳶魚 校訂, 随筆同好会 編 発行年:1927年(昭和2) 出版者:米山堂
目次:江戶拾葉
ページ数:101 コマ数:55
剣八幡宮所蔵の薄緑
三河国西城の吉良家伝来のもの。
吉良家は八万太郎義家の系統で350年も続いた名家であるが、館に置くのは恐れ多い、というので、剣八幡宮を建て、安置してあった。
明治9年まではあったが、その後は行方不明である。
『名刀と名将(名将シリーズ)』(データ送信)
著者:福永酔剣 発行年:1966年(昭和41) 出版者:雄山閣
目次:曽我兄弟の佩刀
ページ数:38~57 コマ数:26~35
京都東山安井にあった安井門跡、蓮華光寺の「薄緑」
『兎園小説』によると、蓮華光寺に文政8年(1825)頃、「薄緑」という太刀のあった記録がある。
(『兎園小説』はこのタイトルで著者も滝沢馬琴だがジャンルとしては小説ではなく随筆にあたる)
『百家説林 正編下巻』(データ送信)
著者:吉川弘文館 編 発行年:1905~1908年(明治38~41) 出版者:吉川弘文館
目次:兎園小説
ページ数:573 コマ数:290
大覚寺伝来の「薄緑」
元禄13年(1700)、清水寺延命院の実円律師が書いた伝来記がある。
それによれば、曽我五郎までは『剣巻』と同じであるが、その後が違う。
五郎から召し上げたものを、頼朝は大友能直に与えた。
能直の12男・泰広は田原姓を名乗るが、それから十数代の孫・田原親貫は天正(1573)頃の人である。
親貫の嫡子・親武は「薄緑」を譲り受けたが、その娘・経子が内大臣・西園寺公益に嫁いだ関係で、「薄緑」は西園寺家に入った。
経子の生んだ大僧正性演が安井門跡になったので、そこの什物になった。
貞享元年(1684)、その後任になった道恕大僧正がその後、大覚寺に転じた際持って行ったので、以後は大覚寺の宝物になっているという。
刃長二尺八寸九分二厘(約87.6センチ)の大刀で、銘は「□忠」とあって、一字は判読不能である。
古備前物と見える出来で、大正12年、国宝に指定された。
「薄緑伝来記(薄緑太刀伝来記)」は下記の本に引用されている。
『刀剣刀装鑑定辞典』(データ送信)
著者:清水孝教 発行年:1936年(昭和11) 出版者:太陽堂
目次:ウスミドリ【薄緑】
ページ数:36、37 コマ数:29
丹後宮津城主・本庄家伝来の「薄緑」
本庄安芸守資俊が元禄15年(1702)9月12日、将軍・綱吉より拝領したもので、元禄10年(1697)百枚の折紙がついていた。
本庄家ではさらに享保7年(1722)、三千貫の折紙をつけている。
これは「蜘蛛切り」という伝承になっている。
『剣巻』の説によって、「蜘蛛切り」を「薄緑」の前名とすれば、これが「薄緑」ということになるが、『剣巻』の記述が鵜呑みにできないことは前述のとおりである。
刃長二尺四寸三分(約73.6センチ)。
佩き表に素剣、裏に梵字があるが、磨り上げてあるため、中心に隠れている。
磨り上げを復元してみれも、『源平盛衰記』にいうように、三尺五寸(約106.1センチ)という大太刀にならないことは言うまでもない。
地鉄は板目肌に地沸えつく。
刃文は中直刃に五の目まじり沈む。
茎は折り返し銘に「長円」と二字銘がある。
下記、本庄家が将軍・綱吉より拝領したという出典の『寛政重修諸家譜』には「長円の御刀」とだけある。
『寛政重脩諸家譜 第2輯』
発行年:1923年(大正12) 出版者:国民図書
目次:巻第千四百 藤原氏 本庄 資俊
ページ数:352 コマ数:188
九月十二日常憲院殿資俊が邸に渡御あり。桂昌院御方も入せたまひ、長圓の御刀、時服三十領、鞍置馬一疋、三種二荷をたまひ、
調査所感
研究史の調査はできれば一振り一振りやりたいところですがどうしてもセット商法みたいになってしまう刀もいるというか、源氏兄弟に関してはセットでかつ髭切の方から入らないとダメですねこれ。
膝丸……というか、薄緑に関する最大のツッコミどころはここでしょう。
『曽我物語』の義経の太刀は
源頼光は「朝霞(てうか)」、
頼信は「虫喰み」、
頼義は「毒蛇」、
八幡太郎義家は「姫斬り」、
源為義は「友斬り」
と呼んでいたものを、源義朝は鞍馬の毘沙門天に奉納した。
それを源義経が盗み出し、隠しておいたが、平家討伐に西下するとき、箱根権現に寄進した。
朝霞、虫喰み、毒蛇、姫斬り、友斬りが改名の遍歴ですね。
へー……あれ??
『曽我物語』の義経の刀、「膝丸」どころかそもそも「薄緑」とすら呼ばれてねえ!!!
『曽我物語』の五郎(時宗、時致)の刀が薄緑という文言はそもそも存在せず、この認識は『剣巻』で義経が元膝丸を「薄緑」と呼んだことが理由であって資料の原文にそう書かれているわけではない、と。
うーん、これ自体はよくあるかないか、アウトかセーフかで言えば一応扱いとしてはセーフだと思います。
要は、原文で号で呼ばれていない刀を銘文作者所有者外観その他諸々を加味してこの資料のこの刀は今我々が〇〇って呼んでいる刀です、と説明するのと同じですから。
セーフと言えばセーフだけどなかなかアウト寄りの話に見えるのは改名の遍歴と逸話が「姫斬り」(宇治の橋姫由来だから鬼切と同じ意味)と「友斬り」ってそれは兄者の髭切じゃね?? ってところでしょうか。
混ざってる混ざってる。源氏の重宝が二振り混ざってる。
思いっきり逸話が混ざってるというか膝丸が髭切になってしまってるけど、いや『曽我物語』のこの刀はあくまで「膝丸」であって「膝丸」である以上、義経が手にしたときは『剣巻』と同じように「薄緑」になってるはずだから! と判断される理由は『曽我物語』の髭切の扱いに関係します。
『曽我物語』には頼朝の佩刀としての「髭切」が登場します。
だから源氏の重宝がもともと「髭切」「膝丸」の二振りあって、とくに「髭切」は基本頼朝の方に在り、「膝丸」は一度義経の手に渡るという来歴から考えると、『曽我物語』で髭切みたいな逸話を持っているこの義経の太刀でのちに五郎時致の手に渡る太刀は「膝丸(薄緑)」でないとおかしいよね、と。
『曽我物語』の義経の刀が「薄緑」、つまりは「膝丸」である、という人口に膾炙したこの認識自体がある程度整理された話、と見ることもできます。
ただし、そもそも『剣巻』も『曽我物語』も小説であって、もともと刀剣の来歴を保証する史料として信用できるような価値はない。
一方、何故源氏の重宝の二振りはこのように伝承を混在させながら語られ、その認識がこうして「薄緑」と呼ばれる刀があちこちに伝来しているような状況を生むほどに膾炙したのかを考えることには意味があって、そうなってくると『剣巻』や『曽我物語』成立の背景から考えることになりますので、研究のジャンルが刀剣の「歴史」から「文学」の方へ移動します。
髭切の項目でもちょろっとやりましたけど、もはやこれは歴史というより物語、文学ジャンルの話になるんですよね。
源氏の重宝の話を考える時には、『剣巻』の成立過程や『曽我物語』受容の歴史から宝剣説話、宝剣継承譚についての見地を得る必要があるので、本格的な調査になると一朝一夕では終わらないですこれ。
その辺について考えるにしてもまずは最低限『剣巻』と『曽我物語』は読まなければならない、と(※現時点で全文は読んでません)。
そして本来歴史的背景を考える上での史料としては足りぬはずのそれらが、それでも長年歴史として受け入れられていった過程、その伝承がどのように波及したかという結果こそが、現在源氏の重宝、義経の刀、「薄緑」ですと伝来されている太刀の多さにつながります。
一対として存在した二振りの刀が遠く離れて別人の手に渡り、幾度も名を変えながら逸話を生み、あるいは相手に逸話を呑みこまれ、兄弟の復讐を経て再び頼朝の手に帰り一対へと戻る。
……『剣巻』関連の論文を読んで思いましたけどこの「宝剣説話」、多分めちゃくちゃ重要になるんじゃないですかね。
新たな気付きを得たところで、一振りの刀としての膝丸の研究史調査自体はここでいったん終わろうと思います。
ここではやはり最低限の情報しか確認していませんが、本格的にやりたい方は兄者と同じく無限に情報の出てくる刀ですので頑張ってください。
そこまで本格的な調査は無理かも、という方でも上記と下記に載せた通り、軍記物に登場する刀は資料がデジコレで誰でも読めるインターネット公開になっていることが多いので、見れるだけの記述を確認するだけでも違うと思います。
異本が多いのでちょっと珍しい版本を読んだらあまり聞いたことのない説が飛び出すかもしれません。
参考文献
『西藩野史』
発行年:1896年(明治29) 出版者:鹿児島私立教育会
目次:元祖 忠久公 ページ数:19、20 コマ数:42、43
目次:七代 元久公 ページ数:68 コマ数:67
『島津国史 3』(データ送信)
著者:山本正誼 発行年:1905年(明治38) 出版者:島津家編集所
目次:巻之十一 節山公
コマ数:57
『島津国史 9』(データ送信)
著者:山本正誼 発行年:1905年(明治38) 出版者:島津家編集所
目次:巻之二十八 大玄公
コマ数:3
『百家説林 正編下巻』(データ送信)
著者:吉川弘文館 編 発行年:1905~1908年(明治38~41) 出版者:吉川弘文館
目次:兎園小説
ページ数:573 コマ数:290
『益軒全集 巻4』(データ送信)
著者:貝原益軒 著, 益軒会 編 発行年:1910年(明治43) 出版者:益軒全集刊行部 (隆文館内)
目次:筑前国続風土記 巻之二十九 土産考(上)
ページ数:662 コマ数:336
『源平盛衰記 下 (友朋堂文庫) 』
著者:石川核 校 発行年:1911-1912年(明治44-45) 出版者:有朋堂
目次:第二十一巻 小坪合戦事
ページ数:715 コマ数:365
『保元物語平治物語 (新訳国文叢書 ; 第2編) 』
著者:須田正雄 編 発行年:1914年(大正3) 出版者:文洋社書店
目次:巻一 一四 源氏勢揃へ
ページ数:82、83 コマ数:50
『刀剣一夕話』
著者:羽皐隠史 発行年:1915年(大正4) 出版者:嵩山房
目次:一 鵜の丸、吼丸の剣 ページ数:4~8 コマ数:9~11
目次:一 膝丸髯切の太刀 ページ数:8、9 コマ数:11
目次:一 薄縁のこと ページ数:9、10 コマ数:11、12
『神堂剣記』
発行年:昭和年間 出版者:製作者不明
コマ数:8、9
『義経記・曽我物語』
著者:武笠三 校, 塚本哲三 編 発行年:1922年(大正11) 出版者:有朋堂書店
目次:曽我物語 巻第九 十三 十番斬の事 ページ数:702 コマ数:361
目次:曽我物語 巻第八 三 太刀刀の由来の事 ページ数:640~644 コマ数:330~332
『平家物語 (有朋堂文庫)』
著者:永井一孝 [校] 発行年:1927年(昭和2) 出版者:有朋堂書店
目次:劔卷
ページ数:1~32 コマ数:9~25
『未刊随筆百種 第2』(データ送信)
著者:三田村鳶魚 校訂, 随筆同好会 編 発行年:1927年(昭和2) 出版者:米山堂
目次:江戶拾葉
ページ数:101 コマ数:55
『新編相模風土記 巻1至38』
著者:相武史料刊行会 編 発行年:1929年(昭和4) 出版者:相武史料刊行会
目次:卷二十八 足柄下郡七 元箱根上
ページ数:735、736 コマ数:400、401
『吾妻鏡 第1』
著者:正宗敦夫 編 発行年:1930年(昭和5) 出版者:日本古典全集刊行会
目次:五卷 (文治元年九月―十二月)
ページ数:211 コマ数:119
『箱根神社大系 上巻』
著者:箱根神社社務所 編 発行年:1930年(昭和5) 出版者:箱根神社社務所
目次:二 記録
ページ数:439、440 コマ数:244、245
『秋霜雑纂 前編』
著者:秋霜松平頼平 編 発行年:1932年(昭和7) 出版者:中央刀剣会本部
目次:解説七十五條 百五十 剣の巻解題 ページ数:87 コマ数:69
目次:解説七十五條 百六十七 剣の巻解題続 ページ数:99 コマ数:75
『箱根神社大系 下巻』
著者:箱根神社社務所 編 発行年:1935年(昭和10) 出版者:箱根神社社務所
目次:寳物編 6 武器・武具
ページ数:110 コマ数:118
『刀剣刀装鑑定辞典』(データ送信)
著者:清水孝教 発行年:1936年(昭和11) 出版者:太陽堂
目次:ウスミドリ【薄緑】
ページ数:36、37 コマ数:29
『武将と名刀』(データ送信)
著者:佐藤寒山 発行年:1964年(昭和39) 出版者:人物往来社
目次:源氏の重宝膝丸・髭切・薄緑の太刀
ページ数:12~15 コマ数:11、12
『名刀と名将(名将シリーズ)』(データ送信)
著者:福永酔剣 発行年:1966年(昭和41) 出版者:雄山閣
目次:曽我兄弟の佩刀
ページ数:38~57 コマ数:26~35
『日本刀物語 続』(データ送信)
著者:福永酔剣 発行年:1969年(昭和44) 出版者:雄山閣
目次:曽我兄弟の偲佩刀
ページ数:38~57 コマ数:31~40
『新薩藩叢書 第2巻』(データ送信)
発行年:1971年(昭和46) 出版者:歴史図書社
目次:西藩野史 元祖 忠久公 ページ数:65、66 コマ数:46、47
目次:西藩野史 七代 元久公 ページ数:113 コマ数:70
『神奈川県郷土資料集成 第7輯 (紀行篇 続)』(データ送信)
著者:神奈川県図書館協会郷土資料編集委員会 編 発行年:1972年(昭和47) 出版者:神奈川県図書館協会
目次:二 山東遊覧志 安永八 葛郛
ページ数:22 コマ数:18
『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:うすみどり【薄緑】 ページ数:1巻P136~137
目次:ひざまる【膝丸】 ページ数:4巻P236~237
概説書
『名刀伝説』(紙本)
著者:牧秀彦 発行年:2004年(平成16) 出版者:新紀元社
目次:第二章 中世・戦国 今剣・薄緑――九郎判官義経――
ページ数:61~64
『名刀 その由来と伝説』(紙本)
著者:牧秀彦 発行年:2005年(平成17) 出版者:光文社
目次:源平の名刀 薄緑と今剣 ページ数:62~68
目次:源平の名刀 鬼切 ページ数:49~54
目次:源平の名刀 蜘蛛切 ページ数:55~61
『図解 武将・剣豪と日本刀 新装版』(紙本)
著者:日本武具研究界 発行年:2011年(平成23年) 出版者:笠倉出版社
目次:第3章 武将・剣豪たちと名刀 源氏重代の剣と膝丸
ページ数:102、103
『日本刀図鑑: 世界に誇る日本の名刀270振り』(紙本)
発行年:2015年(平成27) 出版者:宝島社
目次:膝丸(薄緑)
ページ数:6
『物語で読む日本の刀剣150』(紙本)
著者:かゆみ歴史編集部(イースト新書) 発行年:2015年(平成27) 出版者:イースト・プレス
目次:第3章 太刀 膝丸
ページ数:91
『図解日本刀 英姿颯爽日本刀の来歴』(紙本)
著者:東由士 編 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:消えた名刀たちの名鑑 膝丸
ページ数:91
『刀剣聖地めぐり』(紙本)
発行年:2016年(平成28) 出版者:一迅社
目次:膝丸
ページ数:38