ひぜんただひろ
概要
肥前忠広(肥前忠吉、肥前国忠吉)
受領後に「忠広」の銘もあるが、刀剣書では一般的には「(肥前)忠吉」の初代の項目にあたる。
初代・忠吉が受領後に名乗った「武蔵大掾藤原忠広」の他に二代目も「忠広」を名乗っている。
この項目の記述は基本的には『日本刀大百科事典』を参考にさせてもらうが、出典となっている古剣書類、
『新刃銘盡』『古今鍛冶備考』『古今鍛冶銘早見出』『慶長以来 新刀弁疑』鎌田魚妙『刀剣正纂』『本朝新刀一覧』
などは、国立国会図書館デジタルコレクションで直接読めないものか、素人が読んでもピンと来ない難解な研究書になる。
刀工の略伝についてつかむには現在でも入手できる本や図書館で借りられる刀剣・刀工関係の本を複数読んだ方がいいと思われる。ここではそれらの一般的に読みやすい本を主に参考とする。
「岡田以蔵の肥前忠広」に関しては、『維新暗殺秘録』の「五十嵐敬之(幾之助)」(土佐勤皇党員)の回顧で、岡田以蔵の肥前忠広は坂本龍馬の佩用だったと述べられていることから広まった説になる。
しかし、坂本龍馬の肥前忠広はもともと龍馬の兄・坂本権平の大切にしていた刀であり、友人とはいえ他人に渡したり売り払ったりするのは考えづらいことと、武市半平太の手紙に当時、刀工・南海太郎朝尊に岡田以蔵の折れた肥前の刀を脇差にこしらえ直させたという記述があることから、岡田以蔵が使ったとされる肥前忠広の刀の持ち主は武市半平太だと今日では目されている。
肥前忠吉(初代)
佐賀郡長瀬(佐賀市)に出生。元亀3年(1572)生まれと言われる。
橋本新左衛門。
13歳で父を失い、肥後伊倉(熊本県玉名市)の同田貫善兵衛(清国)に入門。
『日本刀大百科事典』によると出典は「刀剣と歴史」になっているが、同じような内容は複数の研究書で見かける。
弟子入りしたのが同田貫善兵衛(清国)という情報は昔の刀剣書にはなく珍しい情報のような気がするが、これは『日本刀大百科事典』の福永酔剣氏が肥前忠吉直筆の手紙を入手して発表した情報のようである。
『日本刀大百科事典』によると、『西肥遺芳』による、伊予掾宗次に師事説は誤りだそうだ。
『西肥遺芳』は国立国会図書館デジタルコレクションにもない。
この書籍に関する研究の一部は下記の雑誌で読める。
「刀剣と歴史 (489)」(雑誌・データ送信)
発行年:1976年1月(昭和51) 出版者:日本刀剣保存会
目次:忠吉の師父を捜して / 山本天津也
ページ数:32~38 コマ数:21~24
佐賀藩工となる
佐賀藩・鍋島家の抱え工となり、切米ニ十石を戴く。
この時の藩主は鍋島勝茂と言われるが、当時まだ勝茂は藩政には関与していなかったので誤伝とする説もある。
「Museum (321)」(雑誌・データ送信)
著者:東京国立博物館 編 発行年:1977年12月(昭和52) 出版者:東京国立博物館
目次:「埋忠明寿とその周辺」考補遺 / 小笠原信夫
ページ数:7 コマ数:5
初期は秀岸という僧の下書きによる銘を切っていた
初期の「肥前国忠吉」銘は、秀岸という僧の下書きによるので、秀岸銘・坊主銘・山伏銘などと呼ぶ。
『日本刀物語』
著者:前田稔靖 発行年:1935年(昭和10) 出版者:九大日本刀研究会
目次:一七 肥前國忠吉の硏究
ページ数:136 コマ数:78
1596年(慶長1)上京、埋忠明欽・明寿父子に師事
慶長元年(1596)、京都で埋忠明欽・明寿父子の弟子になる。
埋忠明寿は新刀の祖とも呼ばれる刀工である。
佐賀への帰国が1598年なので、実際に師事した期間は3年と短いが、埋忠明寿と肥前忠吉のこの師弟関係に関して『日本刀の歴史 新刀編』では、
初代忠吉は大変誠実で几帳面な人柄であったので、師・埋忠明寿から非常に信頼された。
両者の関係は鎌倉時代の正宗と左文字の間柄によく似ているとされ、鍛刀界の美談の一つ。
と説明しているのが興味深い。
『日本刀の歴史 新刀編』(紙本)
著者:常石英明 発行年:2016年(平成28) 出版者:金園社
目次:第2部 全国刀工の系統と特徴 肥前国(佐賀、長崎県) 初代忠吉
ページ数:247~271
1598年(慶長3)帰国、佐賀城下の長瀬町に移住
慶長3年(1598)帰国、佐賀城下の長瀬町に移住。
『日本刀の歴史 新刀編』によると藩工として、一族15人と弟子60余りの大人数を引き連れての移住であり、以後はこの土地で製作に励んだらしい。
1624年(元和10年あるいは寛永1)2月18日、武蔵大掾を受領、忠広と改名
元和10年(1624)2月18日、再び上京して武蔵大掾を受領、忠広と改名。
基本的には元和10年と書かれていることが多いが、この年は改元して寛永元年となっている。
1632年(寛永9)、8月15日没
寛永9年(1632)8月15日死去。
享年には61歳、66歳、68歳、69歳などの4説がある。
『日本刀大百科事典』では直系の子孫は61歳説を採るという。
(これによって生年は元亀3とされることが多い)
『日本刀の歴史 新刀編』によると佐賀市西田町真覚寺に葬られたという。
最上大業物
幕府の御試御用と呼ばれる、刀の試し斬りをする役人であった山田浅右衛門の5代当主・吉睦は、死体を使った試し斬りの結果からその切れ味を分類・格付けして編纂した本を出している。
その著書、『懐宝剣尺』『古今鍛冶備考』などの切れ味のランキングで、肥前忠吉は最も切れ味の良い「最上大業物」と呼ばれる刀工作の刀に数えられている。
これらの古剣書を直接読むのは大変だが、この結果はよく刀剣関係の書籍にまとめられている。
『袖中鑑刀必携』
著者:近藤芳雄 編, 高瀬真卿 (羽皐) 閲 発行年:1912年(明治45) 出版者:羽沢文庫
目次:山田浅右衛門の切味目録
ページ数:10 コマ数:12
作風
地鉄は米糠をまいたような地沸えがつくので、肥前の糠目肌ともいう。
初代の刃文は、
「肥前国忠吉」と切った、いわゆる“五字忠吉”の時代は、中直刃を専ら焼き、匂い深く、ほつれや足を交え、古刀の来ものに見えるので、最も愛好される。
「肥前国住人忠吉」と切った、いわゆる“住人忠吉”は五の目乱れが多く、切れ味は最も良いという。
武蔵大掾時代になると、ほとんど大模様の五の目や丁子乱れだけとなり、沸え豊かにつき、足が長く入るので、肥前の足長丁子ともいう。しかし足先は刃中の三分の二くらいで止まり、刃先に抜けることはない。
乱れには蟹の目のような格好の刃も交じる。
帽子はつねに小丸に返る。
彫物も多く、剣巻き竜のような精巧なものもある。
それらは希れに埋忠明寿らの作もあるが、多くは宗長・吉長など、専門工の手になったものである。
『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:ただよし【忠吉】
ページ数:3巻P206、207
坂本龍馬の刀から岡田以蔵の刀になったという話の出典
坂本龍馬が肥前忠広の刀を持っていたという話の出典は下記の本によると『維新土佐勤皇史』らしい。
国立国会図書館にはこの本はなかったが、下記の本ではその部分の内容が引用されている。
『坂本龍馬と刀剣』(紙本)
著者:小美濃清明 発行年:1995年(平成7年) 出版者:新人物往来社
目次:第6章 脱藩の刀――安田証言――
ページ数:84~100
そして『維新暗殺秘録』の「五十嵐敬之(幾之助)」(土佐勤皇党員)の回顧により、「岡田以蔵の刀は坂本龍馬の佩用」という話が広まった。
『維新暗殺秘録』
著者:平尾道雄 発行年:1930年(昭和5) 出版者:民友社
目次:浪士本間精一郞
ページ数:89、90 コマ数:50、51
しかし岡田以蔵が本間精一郞暗殺に使った刀が元龍馬の刀という話は武市半平太研究、岡田以蔵研究等の複数の書籍で否定されている。
下の項目通り、武市半平太の手紙に肥前の刀を南海太郎朝尊に脇差にこしらえ直させた記録があることから、今日では岡田以蔵が持っていた肥前忠広は武井半平太のものだったという見方が強い。
岡田以蔵の「肥前忠広」を脇差に直したのは刀工・南海太郎朝尊だという
武市半平太の入獄時代の手紙に、刀工・南海太郎朝尊に折れた肥前の刀を脇指にこしらえ直させた記録がある。
『武市瑞山関係文書 第2』
著者:日本史籍協会 編 発行年:1916年(大正5) 出版者:日本史籍協会
目次:入獄時代 慶応元年二月二十五日(瑞山ヨリ島村寿之助同寿太郎へ)
ページ数:67 コマ数:40
京ニテ七兒ノ折レシ肥前ノ刀朝尊ニ燒キ直サセ長キ脇指ニコシラヘ置候來吉歸リ之時取リ帰り有之候ハ、御預ヶ申候私留守へ置クトよろしあらば候
「七兒」というのが「岡田以蔵」を示す言葉だと同書に注釈がついている。
調査所感
・ゲーム内で刀工名そのまま顕現しているタイプの研究史のまとめ方
とりあえずここは個人によるとうらぶの非公式ファンサイトですので、ゲームを中心とした記事のまとめ方について。
新キャラ実装でこの件をもうちょっと考え直さなきゃいけなくなったんですが、肥前くんに関してはとりあえず割と最初から、同時に実装された南海先生と同じタイプと捉えたほうが良さそうという判断だったんで、当初の予定通り南海先生の紹介方式に合わせます。
刀工主体に持ち主の話追加方式です。
・肥前忠広だが、普通は「肥前忠吉」で本に載ってる
「肥前忠広」を検索する時の一番のトラップ、この刀工、普通は「肥前忠吉」とか「肥前国忠吉」って呼ばれてる方が多い。
それに関しては刀工が途中で改名したってだけなので別にいいのですが、息子も肥前忠広名乗ってるんだよね!
大変ややこしい状況ですが一応龍馬の肥前忠広を特に二代とせねばならない風潮はないようなので初代で考えています。
ただ一言「肥前忠広」と言われたら初代と二代のどちらを思い浮かべるか難しいところです。
そして現物がなければ結局、ここで初代か二代かに拘って追及する意味もあまりないのかもしれない。
・刀工・肥前忠吉の父とか祖父の話とか
龍造寺家の家臣である橋本道弘の子として云々というのが昔からある説なんですが、酔剣先生がこの説を検討した結果否定気味みたいなんで今回はこの辺には触れていません。
本格的に調べたい方はやはり種々の刀剣書を自分で読んでいただく方がいいと思われます。
・龍馬は以蔵に刀を渡したのか
そもそもの話、ゲーム云々の前に龍馬から以蔵に刀を渡した事実があったのか?
これに関してのそもそもはまずこの話間違っているんじゃないの? が現在の研究結果ですね。
話のでどころは土佐勤皇党員の五十嵐敬之とのことですが、岡田以蔵と坂本龍馬が直接やりとりしたところを見たわけでもなく、岡田以蔵の刀は元坂本龍馬の佩用という証言をしています。
同じ肥前忠広の刀と聞いたから、五十嵐敬之が龍馬の刀と同じだと思い込んだのではないかと考えられます。
デジコレの検索結果を見る限り、以蔵が龍馬から借りた、もらったというのはその話を膨らませた小説中の表現だけだと思います。
一時期は遊就館に展示されていたとも言われるけれど現在この刀が残っているという話もなく。
細部がまったく不明な情報で証言を聞いた側が想像を膨らませた結果、坂本龍馬からもらった説、借りた説が生まれたようです。
私は直接読んだことありませんが、今回の参考文献内の情報からすると『武市半平太伝―月と影と』ではすでに武市半平太の差料だろうと言われているそうです。
岡田以蔵の刀と言いつつ実際の持ち主は武市半平太でよく語られるのは坂本龍馬所有の方の肥前忠広なんですよね。
参考文献
『袖中鑑刀必携』
著者:近藤芳雄 編, 高瀬真卿 (羽皐) 閲 発行年:1912年(明治45) 出版者:羽沢文庫
目次:山田浅右衛門の切味目録
ページ数:10 コマ数:12
『武市瑞山関係文書 第2』
著者:日本史籍協会 編 発行年:1916年(大正5) 出版者:日本史籍協会
目次:入獄時代 慶応元年二月二十五日(瑞山ヨリ島村寿之助同寿太郎へ)
ページ数:67 コマ数:40
『肥前国忠吉考 上巻』(データ送信)
著者:中央刀剣会 編 発行年:1928年(昭和3) 出版者:中央刀剣会
『維新暗殺秘録』
著者:平尾道雄 発行年:1930年(昭和5) 出版者:民友社
目次:浪士本間精一郞
ページ数:89、90 コマ数:50、51
『日本刀物語』
著者:前田稔靖 発行年:1935年(昭和10) 出版者:九大日本刀研究会
目次:一七 肥前國忠吉の硏究
ページ数:131~144 コマ数:75~82
「刀剣と歴史 (431)」(雑誌・データ送信)
発行年:1966年(昭和41)5月 出版者:日本刀剣保存会
目次:幕末志士と佩刀 / 長野桜岳
ページ数:41 コマ数:25
「刀剣と歴史 (489)」(雑誌・データ送信)
発行年:1976年1月(昭和51) 出版者:日本刀剣保存会
目次:忠吉の師父を捜して / 山本天津也
ページ数:32~38 コマ数:21~24
「Museum (321)」(雑誌・データ送信)
著者:東京国立博物館 編 発行年:1977年12月(昭和52) 出版者:東京国立博物館
目次:「埋忠明寿とその周辺」考補遺 / 小笠原信夫
ページ数:7 コマ数:5
『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:ただよし【忠吉】
ページ数:3巻P206、207
『坂本龍馬と刀剣』(紙本)
著者:小美濃清明 発行年:1995年(平成7年) 出版者:新人物往来社
目次:第6章 脱藩の刀――安田証言――
ページ数:84~100
『日本刀の歴史 新刀編』(紙本)
著者:常石英明 発行年:2016年(平成28) 出版者:金園社
目次:第2部 全国刀工の系統と特徴 肥前国(佐賀、長崎県) 初代忠吉
ページ数:247~271
『真説 岡田以蔵 幕末暗殺史に名を刻んだ「人斬り」の実像 』(電子書籍)
著者:菊地明 発行年:2011年(平成23) 出版者:学研パブリッシング
電子書籍は媒体によってページ数が変わるかもしれないのでページ数は割愛
概説書
『剣技・剣術三 名刀伝』(紙本)
著者:牧秀彦 発行年:2002年(平成14) 出版者:新紀元社
目次:第五章 幕末の志士 肥前忠広 岡田以蔵
ページ数:278、279