包丁藤四郎

ほうちょうとうしろう

概要

『享保名物帳』焼失之部所載、「包丁藤四郎」

『享保名物帳』、焼失之部所載。
粟田口吉光藤四郎作の短刀。

「包丁藤四郎」「庖丁藤四郎」、両方の表記が使われる。

もと江州多賀城主・多賀豊後守高忠の所持。

ある時、多賀高忠が鶴を料理することを頼まれたところ、鶴の腹の中に鉄の火箸が入っていた。
そのことを察した多賀高忠は、包丁藤四郎により火箸もろとも断ち切った。

その後、鳥養宗慶の所持となり、子息の与兵衛まで伝わった。

さらに豊臣秀吉が召上げたのか、秀吉から上杉景勝へ与えられ、その後、景勝は徳川秀忠へと献上した。
秀忠は父の徳川家康に贈り、家康は10男の紀州頼宣に贈り、その頼宣がまた兄の秀忠に献上している。

1657年、明暦の大火により焼失。

『享保名物帳』所載の包丁藤四郎は現存しないが、同名の刀が尾張徳川家にも伝わっていてこちらがは現存しているが、来歴などから享保名物とは別物と考えられている。

さらに『能阿弥本』と呼ばれる古剣書に大森彦七の重代の包丁藤四郎の話が載っていて、『日本刀おもしろ話』にて福永酔剣氏は彦七の重代と享保名物の包丁藤四郎を同物としているが、その説に確証と言えるほどのものはないようだ。

もと江州多賀城主・多賀豊後守高忠の所持

『日本刀大百科事典』では『享保名物帳』の記述をこのように解釈している。

江州多賀城主・多賀豊後守高忠は、京都所司代として令名のあった人だが、庖丁つまり料理法についても精通していた。

しかし、応仁(1467)の乱のころの人であるから、政敵もいたはずである。
その政敵からであろう、ある所で鶴を料理することを頼まれた。
相手は高忠に恥をかかせるため、鶴の腹のなかに鉄の箸を入れておいた。
それと察した高忠は、腰にさしていた本刀で、見事に鶴を断ち切って、喝采を博した。

『刀剣名物牒』(データ送信)
著者:中央刀剣会 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:中央刀剣会
目次:(下) 同右〔燒失の部〕
ページ数:66 コマ数:36

『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:名物「燒失之部」 庖丁藤四郎
ページ数:225 コマ数:127

庖丁藤四郎 長八寸六分 無代

多賀豊後守所持去る所にて鶴の腹の中へ金筋(鐵の火箸を入れ置くと一本にあり)を入置庖丁を所望しける、此事を悟り此脇差にて切る金筋ともに快く切れたり夫れ故名く其後鳥飼宗慶所持、息与兵衛へ伝、秀忠公へ上る家康公へ進せらる、紀伊国殿拝領又々上る。

のち、堺の町人から摂津の鳥養宗慶が買い取り、子息の与兵衛宗精に伝える

『享保名物帳』によると包丁藤四郎はのちに堺の町人所持になっていたのを、書道の大家として知られた摂津の鳥養宗慶が買い取り、子息の与兵衛宗精に伝えた。

『本阿弥光心押形』所載

『日本刀大百科事典』によると、本阿弥光心は、包丁藤四郎がまだ鳥養家にあったとき、この刀の押形を採った。

豊臣秀吉が召上げ、上杉景勝が拝領

『日本刀大百科事典』ではそれを豊臣秀吉が召し上げたとみえ、上杉景勝が拝領したとしている。

この部分の確認は『信濃史料 第18巻』に収録されている「上杉家記」と国立国会図書館デジタルコレクションに写本がある『藤林年表』の合わせ技でいけそうである。

文禄3年(1594)10月28日に、上杉景勝が豊臣秀吉から藤四郎吉光作の大小を拝領していることがわかる。
『藤林年表』の写本によるとそのうちの一振りの号が包丁になっている。
刀と脇差の違いに関しては、刀種の書き間違いや現在の分類との違いはわりとよくあることなのでこの場合は単に書き間違いではないだろうか。

『信濃史料 第18巻 (文禄3年7月-慶長5年12月)』(データ送信)
著者:信濃史料刊行会 編 発行年:1962年(昭和37) 出版者:信濃史料刊行会
目次:文禄三年十月
ページ数:81 コマ数:59

『藤林年表 2巻 [4]』
著者:中条備資 出版年月日:写本
コマ数:8

『光徳刀絵図』、『埋忠銘鑑』所載

『日本刀大百科事典』によると、本阿弥光徳が押形を描いたのは、豊臣家にあったころであろうとしている。

『光徳刀絵図集成』(データ送信)
著者:本阿弥光徳 画, 本間順治 編 発行年:1943年(昭和18) 出版者:便利堂
目次:三一 庖丁藤四郎 ページ数:16 コマ数:30

『埋忠銘鑑』によると、慶長16年(1607)2月、埋忠寿斎は包丁藤四郎の金具を造っている。

『埋忠銘鑑』
著者:中央刀剣会本部 編 発行年:1932年(昭和7) 出版者:中央刀剣会本部
コマ数:44

上杉景勝から、2代将軍・徳川秀忠へ献上

『日本刀大百科事典』では上杉景勝から2代将軍・秀忠に献上したとしている。

『享保名物帳』の来歴にはこの部分が書かれていないが、『日本刀大百科事典』では『名物扣』を出典の一つに挙げているので、そちらにあるのかもしれない。

徳川秀忠から父の徳川家康へと贈る

『享保名物帳』によると、秀忠は包丁藤四郎を父の家康に贈った。

徳川家康から紀州頼宣へ与えられた

『享保名物帳』によると、家康は10男の頼宣へと与えた。

紀州頼宣は、再び2代将軍・秀忠へ献上した

『享保名物帳』によると、頼宣から再び将軍である兄・秀忠へ献上された。

1657年(明暦3)、明暦の大火で焼失

『日本刀大百科事典』によると、徳川家でも“一”の刀箱に納め、御腰物帳の六番目に記載する、という丁重ぶりだったが、明暦3年(1657)の江戸城炎上で焼失した。

『東京市史稿 市街篇第七』
著者:東京市 編 発行年:1930年(昭和5) 出版者:東京市
目次:今度於御城内焼失御腰物並御脇差之覚
ページ数:19 コマ数:30

『和歌山県史 近世史料 1』(データ送信)
著者:和歌山県史編さん委員会 編 発行年:1977年(昭和52) 出版者:和歌山県史編さん委員会
目次:七 三浦家文書 御城太刀刀焼失之記
ページ数:1059 コマ数:542

『継平押形 : 附・本阿弥光徳同光温押形集』
著者:羽沢文庫 編 発行年:1928年(昭和3) 出版者:羽沢文庫
ページ数:5 コマ数:13

作風

刃長八寸六分(約26.1センチ)、平造り。
刃文は直刃、鋩子は沸え崩れ、尖り心に少し返る。
中心は少し区送りか。
目釘孔二個。
「吉光」二字銘。

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:ほうちょうとうしろう【庖丁藤四郎】
ページ数:5巻P10、11

尾張徳川家伝来の同名の刀

尾張徳川家にも「包丁藤四郎」と呼ばれる刀があり、こちらは現存している。

同家の記録、『駿府御分物御道具帳』によれば、駿河御分け物、つまり徳川家康の形見分けの品で、もと刑部少輔所持という。

刑部少輔とは大谷吉隆(大谷吉継)のことで、『日本刀大百科事典』では関ヶ原の合戦で討死した時、分捕ったものであろう、としている。

以後、同家に伝来、現在は徳川美術館保管。

刃長七寸二分(約21.8センチ)、平造り、表裏に刀樋と連れ樋の彫物がある。
地鉄は小板目肌、よく詰まる。ただし、差し裏のハバキ元に、ふくれ破れがある。
刃文は直刃に小乱れまじり。鋩子は小丸。茎は少し磨り上げられ、目釘孔三個。
茎尻近くに「吉光」と二字がある。

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:ほうちょうとうしろう【庖丁藤四郎】
ページ数:5巻P10、11

『黎明会名刀図録』(データ送信)
著者:近藤周平、吉川賢太郎 共編 発行年:1960年(昭和35) 出版者:日本刀剣保存会本部
目次:一〇 短刀 吉光 名物庖丁藤四郎
ページ数:20、21 コマ数:36、37

『徳川美術館所蔵 刀剣・刀装具』(紙本)
著者:徳川美術館 編 発行年:2018年(平成30) 出版者:徳川美術館
目次:一一 重要美術品 短刀 銘 吉光 名物庖丁藤四郎 ページ数:52
目次:校刊史料「駿府御分物御道具帳」 刀剣・刀装具の部 ページ数:234

怨霊退治の包丁(カネウチ)藤四郎

駿河国の大森彦七が、重代の包丁藤四郎を所持していた。

ある時、美女に負けた鬼女に包丁藤四郎をうばわれそうになった。
鬼女は楠木正成の怨霊が化けたものだった。

大森の宿所で毎晩百人の兵が番をしたが疲れ果ててしまい、僧に座禅を頼むこととなった。

それに対抗して鬼女は蜘蛛に化けて兵たちの髪を糸でくくりつけてしまい、雷雨と共に現れると彦七を掴んで虚空に上がった。

家来たちがどうしようもできないなか、やがて屋根に大きなものが落ちる音がしたと思ったら彦七が半死半生の様子で落ちてきて、包丁藤四郎を奪われた、生きている甲斐もないと嘆いた。

しばらくすると庭に物の落ちる音がした。
松明で照らしてみればそれは舌だけ残ったしゃれこうべと包丁藤四郎だった。

それは楠木正成の首であり、望みが絶えたからかその後は公方様の御蔵に納まった。

と、言うような伝説が酔剣先生が『能阿弥本』と呼んでいる古剣書に載っているらしく、酔剣先生の『日本刀おもしろ話』と下記の『日本刀剣の研究 第2輯』などで説明されている。

更に、『日本刀おもしろ話』ではこの伝説を享保名物の包丁藤四郎と結びつけているが、他の研究者がこの説を検討しているものを見たことがないので、この伝説が本当に享保名物の包丁藤四郎と断定していいのかはわからない。

『日本刀剣の研究 第2輯』(データ送信)
著者:雄山閣編輯局 編 発行年:1935年(昭和10) 出版者:雄山閣
目次:隱れたる愛刀家の刀劍文學 源定正
ページ数:344、345 コマ数:181

『日本刀おもしろ話』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1998年(平成10年) 出版者:雄山閣
目次:妖怪変化編 楠正成の怨霊と包丁藤四郎
ページ数:53~58

調査所感

・尾張徳川家に同名の刀あり

享保名物で焼失した「包丁藤四郎」と尾張徳川家に現存している「庖丁藤四郎」。
完全に同じ名前の刀ですが、この二振りは、はっきり別物と言われています。
まぁ来歴もサイズもかなり違いますしね。

・大森彦七の刀の伝説は享保名物と同物か?

古剣書に載っているらしい楠木正成の怨霊(何故か女に化けている)と関連付けて語られる包丁藤四郎は果たして同物なのか?

興味深い話ですがそもそもこれに関してあまり着目している記事を見たことがありません。

尾張徳川家の方の『黎明会名刀図録』に載っている「庖丁藤四郎」の項目でこの話に触れられているのは多分あれ、酔剣先生が文面を監修しているからだと思います。

『黎明会名刀図録』は酔剣先生が協力していることは明言されていて、文章からほとんど関わっていないと判断できる刀もあるんですが、庖丁藤四郎に関しては文体がめっちゃ酔剣先生っぽいなと思いました。

つまり、この伝説について熱心に調べているの実質酔剣先生だけではないかと。

『日本刀剣の研究 第2輯』は伝説については載っているんですが、享保名物や尾張徳川家現存の刀と関連付けて語っているわけではないので、そこまで興味持って考察しているのは酔剣先生だけかもしれない。

・大森彦七の宝刀と種々の創作

『太平記』に大森彦七と楠木正成の怨霊の話があり、『能阿弥本』の記述もこれと関連があると思われますが、それだけでなく色々な芸能作品でこの伝説がとりあげられているようです。

謡曲、浄瑠璃、歌舞伎、草双紙、俳諧・川柳

とうらぶの派生作品がこれらの日本芸能と関連深いことを考えると、やはり大森彦七の重代説を完全に無視はできないと思います。

・一番の謎はとうらぶ上での扱い

とうらぶWikiにリアルタイムプレイヤーが書き留めてくれた興味深い情報が載っています。
尾張徳川家の庖丁藤四郎が含まれる展示ととうらぶがコラボした際に、包丁くんがコラボ対象に含まれていなかったと。

ゲーム側では享保名物と尾張徳川家の刀をはっきり区別していることになります。

別物かもしれない同名の刀を同じ名称で統合している男士が多いとうらぶでは正直すごく珍しい扱いだと思います。

ただ何というか、とうらぶに関しては話の展開に合わせて刀剣男士自身が自分の来歴を更新してくる例もある以上、当時別物と考えられたとしてもそれが継続するか、変化するかはちょっとわからないんですよね。

ゲーム側で享保名物と尾張徳川家の刀をどうしても区別したい理由があるとしたら「焼失」と「鉄の火箸ごと鶴を斬った逸話」「大森彦七の重代との関連」のどれかだと考えられます。

今のところ答が出ないのでそれらも含めて色々と考えるしかないと思います。

原作ゲームに限らず派生作品まで含めて考えると鳥を斬った逸話は結構重要だなと思います。

・我々は彼を理解できるのか

包丁藤四郎の来歴をこうして調べたわけですが、ではその知識をゲームに活かせるだろうか。

享保名物の包丁藤四郎も尾張徳川家の庖丁藤四郎もどちらも徳川家康の刀であった時代があるので、普段の言動だけだと普通にはこの二振りを区別できない……?

包丁くんの言動ではっきり二振りを区別できるとしたら、もしかして破壊ボイスだけ……?

ということは我々はどれだけ研究史を調べても、あの子を一度折らねばその正体を知ることはできない? いや別に無理に折れって話じゃなくて、破壊ボイスを聞く機会は結局戦いに出して実質死に至る状況に直面した時だけだよねって話で。お守り自体は持たせる前提だとしても。

死の瞬間にこそ本質を知ることができる? それまでは無明の闇の中?

一応ゲームのグラフィックで刀本体に樋があるかどうかでも見分けられるという話がとうらぶWikiでされているんですけど、どうでしょうねこれ。どんなに小さく見えてもそのぐらい見分けろよな! って暗に言われてる?

コラボでの扱いはあくまでも外部情報ですし、ゲームとして我々は包丁藤四郎を区別できる前提で進んでいるのか、それともできない方(これまで一度も包丁くんを折ったことがない)方が普通なのか……。

よくわからなくなってきました。

参考文献

『諸家名剣集』
(東京国立博物館デジタルライブラリー)
時代:享保4年(1719) 写本
コマ数:47

『藤林年表 2巻 [4]』
著者:中条備資 出版年月日:写本
コマ数:8

『刀剣談』
著者:高瀬真卿 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第九門 焼けた名刀(目録略す) 庖丁藤四郎
ページ数:232 コマ数:141

『剣話録 上』
著者:剣話会 編(別役成義) 発行年:1912年(明治45) 出版者:昭文堂
目次:一 京物(上)
ページ数:6 コマ数:13

『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:名物「燒失之部」 庖丁藤四郎
ページ数:225 コマ数:127

『刀剣雑話』
著者: 室津鯨太郎(川口陟) 発行年:1925年(大正14) 出版者:南人社
目次:六 第一別家光二系
ページ数:125、126 コマ数:86、87

『刀剣談 再版』(データ送信)
著者:羽皐隠史 著, 高瀬魁介 訂 発行年:1927年(昭和2) 出版者:嵩山房
目次:第七、焼けた刀剣 包丁藤四郎
ページ数:226、227 コマ数:125

『継平押形 : 附・本阿弥光徳同光温押形集』
著者:羽沢文庫 編 発行年:1928年(昭和3) 出版者:羽沢文庫
ページ数:5 コマ数:13

『東京市史稿 市街篇第七』
著者:東京市 編 発行年:1930年(昭和5) 出版者:東京市
目次:今度於御城内焼失御腰物並御脇差之覚
ページ数:19 コマ数:30

『埋忠銘鑑』
著者:中央刀剣会本部 編 発行年:1932年(昭和7) 出版者:中央刀剣会本部
コマ数:44

『刀剣刀装鑑定辞典』(データ送信)
著者:清水孝教 発行年:1936年(昭和11) 出版者:太陽堂
目次:ハウチヤウトウシラウ【庖丁藤四郎】
ページ数:375 コマ数:198

『大日本刀剣史 下巻』
著者:原田道寛 発行年:1941年(昭和16) 出版者:春秋社
目次:名物牒記載の名物 ページ数:67 コマ数:44
目次:燒失せる名物中の逸品傑作 ページ数:70 コマ数:46

『日本刀と無敵魂』
著者:武富邦茂 発行年:1943年(昭和18) 出版者:彰文館
目次:多賀豐後守の粟田口藤四郎吉光 コマ数:131

「刀剣史料 (41)」(雑誌・データ送信)
発行年:1962年(昭和37) 出版者:南人社
目次:埋忠家の人々(4) / 川口陟
ページ数:3 コマ数:3

『信濃史料 第18巻 (文禄3年7月-慶長5年12月)』(データ送信)
著者:信濃史料刊行会 編 発行年:1962年(昭和37) 出版者:信濃史料刊行会
目次:文禄三年十月
ページ数:81 コマ数:59

『埋忠銘鑑』(データ送信)
著者:本阿弥光博 解説 発行年:1968年(昭和43) 出版者:雄山閣
目次:埋忠銘鑑 全
コマ数:98

『和歌山県史 近世史料 1』(データ送信)
著者:和歌山県史編さん委員会 編 発行年:1977年(昭和52) 出版者:和歌山県史編さん委員会
目次:七 三浦家文書 御城太刀刀焼失之記
ページ数:1059 コマ数:542

「刀剣と歴史 (516)」(雑誌・データ送信)
発行年:1980年7月(昭和55) 出版者:日本刀剣保存会
目次:名作の紹介(二) / 吉川皎園
ページ数:3 コマ数:6

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:ほうちょうとうしろう【庖丁藤四郎】
ページ数:5巻P10、11

概説書

『刀剣目録』
著者:小和田康経 発行年:2015年(平成27) 出版者:新紀元社
目次:≪第二章 鎌倉時代≫ 山城国粟田口 吉光 包丁藤四郎
ページ数:116