福島光忠

ふくしまみつただ

概要1 「福島光忠」について

『享保名物帳』所載、備前長船光忠作の太刀、「福島光忠」

『享保名物帳』所載、備前長船光忠作の太刀。

もと福島正則佩刀。

その後、経緯ははっきりしないが『享保名物帳』の編纂時には常州茨城郡宍戸(茨城県西茨城郡友部町)の藩主・徳川頼道のもとにあった。

『本邦刀剣考』にも記載のある刀だが、その後の行方は不明。

ただし、一説によると現在国宝の「刀 金象嵌銘光忠 光徳花押」こそがこの「福島光忠」ではないかと言われている。

福島正則の佩刀

『享保名物帳』によると、もと福島正則の所持。

『刀剣名物牒』(データ送信)
著者:中央刀剣会 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:中央刀剣会
目次:(中) 同右
ページ数:53 コマ数:29

水戸筑後守殿
福島光忠 有銘長さ貳尺三寸七分半代金百三十枚
昔福島左衛門太夫所持表裏樋有之

福島家から将軍に献上か? 来歴に関する研究者の推測

『日本刀大百科事典』によると、福島正則の四男・正利が寛永元年(1624)7月13日、父の遺物として将軍に献上した「大光忠」を「福島光忠」だとしている。

「日本刀及日本趣味 2(3)」(雑誌・データ送信)
発行年:1937年3月(昭和12) 出版者:中外新論社
目次:不昧公御自慢の道具(其六) / 高橋龍雄
ページ数:27 コマ数:20

『寛政重脩諸家譜 第8輯』
発行年:1923年(大正12) 出版者:国民図書
目次:巻第千四百三十九 藤原氏(支流) 福島 正利
ページ数:567 コマ数:295

『徳川実紀 第2編』
著者:成島司直 等編, 経済雑誌社 校 発行年:1904~1907年(明治37~40) 出版者:経済雑誌社
目次:巻三 (寛永元年七月−十二月)
ページ数:32 コマ数:22

その後、常州茨城郡宍戸(茨城県西茨城郡友部町)の藩主・徳川頼道の所有に

享保時代(1716~1736年)に書かれた『享保名物帳』では常州茨城郡宍戸(茨城県西茨城郡友部町)の藩主・徳川頼道のもとにあった。

『日本刀大百科事典』ではこのことと上記の福島正利が将軍家に献上した推測と合わせ、

将軍家より頼道、またはその父・頼雄へ下賜されたものであろう、

と結論している。

『本邦刀剣考』に記載有り

榊原長俊(榊原香山)が安永8年(1779)に発行した『本邦刀剣考』に記載がある。
福島正則佩刀、水戸家に伝わった「福島光忠」としての記述はここが最後になるようだ。

『本邦刀剣考』
著者:榊原長俊 発行年:文政10 [1827] 写
目次:中古刀之寸尺之事
コマ数:48

『随筆文学選集 続 第3』(データ送信)
著者:楠瀬恂 編 発行年:1928年(昭和3) 出版者:続随筆文学選集刊行会
目次:本邦刀劒考
ページ数:228 コマ数:120

『百家叢説 第2編 (珍書文庫) 』(データ送信)
著者:田辺勝哉 編, 井上頼圀 校訂 発行年:1911~1912年(明治44~45) 出版者:図書出版協会
目次:本朝刀劒考(一卷)・榊原長俊
ページ数:164 コマ数:90

その後は不明? 諸説(憶測)紛々

1.焼失説

『詳註刀剣名物帳』や『刀剣刀装鑑定辞典』による説。
大正時代や昭和前期辺りでは、焼失説をいくつかの刀剣本が挙げている。
(根拠があるわけではなく、当時水戸家にそれらしき伝来の刀がなかったことからの憶測のようである)

『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:光忠、長光、包平、光包、兼光の部 福島光忠
ページ数:168、169 コマ数:99

水戸筑前守殿(水戸徳川侯爵家)
福島光忠 銘あり長二尺三寸七分半 代金百三十枚

昔福島左衛門太夫所持表裏樋有あり。

この水戸筑前守殿とあるは誤写なり水戸殿と三字記せし本あり、今村長賀本にも水戸殿の三字とすべしとあり。
福島左衛門大夫太夫は正則の事なり、某子爵の云福島光忠は織田信長か光忠の刀廿五口集めたる其一刀なり福島正則之を佩びのち徳川将軍家に入り水戸威公(頼房)に賜ふ其子頼雄に譲られ弟の雄利に伝り同家にて焼失すと云ふ、さすれば今水戸家にはあらぬなるべし此焼失 月定かならぬ事なり。

2.清田正直氏の愛刀の光忠が福島光忠だという説

著者の佐藤寒山氏が細川家第16代当主・細川護立氏から聞いた話と書いている。
(細川護立氏は日本美術刀剣保存協会の初代会長であり永青文庫の創設者)

肥後藩の旧臣に清田直氏という愛刀家がおり、その愛刀の中に大磨上げ、金象嵌、表に「光忠」裏に「光徳」(花押)とあるものがあった。
一説には『享保名物帳』にある「福島光忠」がこの刀ではなかろうかとも言われているほどの健全無比、しかも最も華やかな大丁子に蛙子丁子を交えた代表的な傑作である。

細川氏は清田氏が旧臣でもあり、なんとかしてこの刀を召し取りたいとしばしば交渉したが、如何にお殿様でも、この刀だけは差し上げかねると断られた。
そこで細川氏はそれなら清田氏の光忠以上の光忠を何としてでも手に入れようと苦心して、大金を投じて「生駒光忠」を手に入れたという。

佐藤寒山氏によると「どうだ、清田の光忠に負けまいが」と時々自慢をされていたようである。

『武将と名刀』(データ送信)
著者:佐藤寒山 発行年:1964年(昭和39) 出版者:人物往来社
目次:織田信長と長船光忠その他 ページ数:91 コマ数:50
目次:生駒讃岐守親正と長船光忠の刀 ページ数:139~143 コマ数:74~76
目次:福島正則と名物福島兼光 ページ数:192~196 コマ数:101~103

作風

刃長二尺三寸七分五厘(約72.0センチ)、表裏に樋をかく。
在銘。

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:ふくしまみつただ【福島光忠】
ページ数:4巻P278、279

『日本刀大百科事典』では在銘であることと同時に金30枚の折紙付きとなっているが、『享保名物帳』の記述で確認できる範囲だと「代金百三十枚」となっていて、現在この名で伝来している刀がないため「折紙」の情報もない。

これが福永酔剣氏による金額の訂正なのかどうか判然としないのでもう少し情報が欲しいものである。

調査所感1

『享保名物帳』所載の福島光忠に関しては、享保名物という名刀中の名刀であるにもかかわらず斯界にこの名で伝来した刀がないという扱いです。

だから簡素な記述になるかなぁ……と思っていたんですが、どうもこれが「福島光忠」ではないか? と言われている刀の来歴を考えると結構説得力があるような気がしたので、どうせならとそちらも調べることにしました。

と、いうわけで今回の記述はここで一度これまでの調査の参考文献リストを挟んだ後に「概要2」に続きます。

参考文献

『刀剣講話 4』
著者:別役成義, 今村長賀 述 発行年:1898-1903年(明治31-36)
目次:第六 備前物
コマ数:111

『刀剣談』
著者:高瀬真卿 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第四門 武将の愛刀 水戸家の児手柏 ページ数:71 コマ数:60
目次:第十二門 名物牒(目録略す) ページ数:304 コマ数:177

『百家叢説 第2編 (珍書文庫) 』(データ送信)
著者:田辺勝哉 編, 井上頼圀 校訂 発行年:1911~1912年(明治44~45) 出版者:図書出版協会
目次:本朝刀劒考(一卷)・榊原長俊
ページ数:164 コマ数:90

『剣話録 下』
著者:剣話会 編(今村長賀) 発行年:1912年(明治45) 出版者:昭文堂
目次:七 備前物 ページ数:46 コマ数:29
目次:十 畠田物及長船一派 ページ数:74 コマ数:45

『英雄と佩刀』
著者:羽皐隠史 発行年:1912年(大正1) 出版者:崇山房
目次:信長の光忠
ページ数:11 コマ数:17

『日本刀』(データ送信)
著者:本阿弥光遜 発行年:1914年(大正3) 出版者:日本刀研究会
目次:七、 本阿彌家 ページ数:118 コマ数:93
目次:第七章 刀匠の掟と其特徴 ページ数:380 コマ数:223

『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:光忠、長光、包平、光包、兼光の部 福島光忠
ページ数:168、169 コマ数:99

『日本趣味十種 国学院大學叢書第壹篇 (国学院大学叢書 ; 第1編) 』(データ送信)
著者:芳賀矢一 編 発行年:1924年(大正13) 出版者:文教書院
目次:八 刀剣の話 杉原祥造
ページ数:345 コマ数:193
(本によって1コマずれる)

『九段刀剣談叢. 第1輯』
著者:中央刀剣会本部 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:中央刀剣会本部
目次:四 山陽道の刀工 ページ数:39 コマ数:24
目次:四 山陽道の刀工 ページ数:68 コマ数:39

『刀剣名物牒』(データ送信)
著者:中央刀剣会 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:中央刀剣会
目次:(中) 同右
ページ数:53 コマ数:29

「刀剣と歴史 (210)」(雑誌・データ送信)
発行年:1928年6月(昭和3) 出版者:日本刀剣保存会
目次:目利の手引(31)「播磨、美作、備前」 / 近藤鶴堂
ページ数:20 コマ数:15

『随筆文学選集 続 第3』(データ送信)
著者:楠瀬恂 編 発行年:1928年(昭和3) 出版者:続随筆文学選集刊行会
目次:本邦刀劒考
ページ数:228 コマ数:120

『諸伝通解名刀鑑別法』(データ送信)
著者:清水孝教 発行年:1930年(昭和5) 出版者:太陽堂書店
目次:一 最も眼に觸れ易き刀(備前傳)
ページ数:108 コマ数:67

『大日本刀剣新考』(データ送信)
著者:内田疎天 発行年:1933年(昭和8) 出版者:岡本三郎
目次:第七章 古刀略志(第六) 山陽道
ページ数:604 コマ数:684

『大日本刀剣新考 訂』(データ送信)
著者:内田疎天 発行年:1934年(昭和9) 出版者:岡本偉業館
目次:第七章 古刀略志(第六) 山陽道
ページ数:604 コマ数:684

『日本刀研究便覧』(データ送信)
著者:内田疎天 発行年:1934年(昭和9) 出版者:岡本偉業館
目次:古刀第二期の鍛冶と刀 ページ数:34 コマ数:60
目次:刀工と其作品―附價格 古刀の部 ページ数:407 コマ数:246

『日本刀講座 第6巻 (刀剣鑑定・古刀)』(データ送信)
著者:雄山閣 編 発行年:1934年(昭和9) 出版者:雄山閣
目次:(刀劍鑑定)播磨・美作・備前 備前國 長船物
ページ数:33 コマ数:459

『日本刀通観』(データ送信)
著者:内田疎天 発行年:1935年(昭和10) 出版者:岡本偉業館
目次:第三十八章 一國縱觀 備前國鍛冶考
ページ数:668 コマ数:379

『剣甲新論』(データ送信)
著者:鈴木鐸 編 発行年:不明 出版者:不明
目次:劍甲新論
ページ数:10 コマ数:9

『怪談と名刀』(データ送信)
著者:本堂平四郎 発行年:1935年(昭和10) 出版者:羽沢文庫
目次:初櫻光忠
ページ数:277 コマ数:145

『刀剣刀装鑑定辞典』(データ送信)
著者:清水孝教 発行年:1936年(昭和11) 出版者:太陽堂
目次:フクシマミツタダ【福島光忠】
ページ数:414 コマ数:218

「好古 3(6)(26)」(雑誌・データ送信)
発行年:1940年6月(昭和15) 出版者:日本美術社
目次:鑑定小話
ページ数:30、31 コマ数:17

『日本刀大観 下巻』
著者:本阿弥光遜 発行年:1942年(昭和17) 出版者:日本刀研究会
目次:第三章 各國刀匠の略歴と其の掟と特徴 第一 古刀の部
ページ数:640 コマ数:195

『日本刀と無敵魂』
著者:武富邦茂 発行年:1943年(昭和18) 出版者:彰文館
目次:名刀の名
ページ数:152 コマ数:91

「刀剣史料 (51)」(雑誌・データ送信)
発行年:1963年3月(昭和38) 出版者:南人社
目次:武将武人の愛刀熱――(三) / 向井敏彦
ページ数:12 コマ数:8

「刀剣史料 (54)」(雑誌・データ送信)
発行年:1963年5月(昭和38) 出版者:南人社
目次:武将武人の愛刀熱――(五) / 向井敏彦
ページ数:20 コマ数:12

『武将と名刀』(データ送信)
著者:佐藤寒山 発行年:1964年(昭和39) 出版者:人物往来社
目次:織田信長と長船光忠その他 ページ数:91 コマ数:50
目次:生駒讃岐守親正と長船光忠の刀 ページ数:139~143 コマ数:74~76
目次:福島正則と名物福島兼光 ページ数:192~196 コマ数:101~103

「刀剣と歴史 (423)」(雑誌・データ送信)
発行年:1965年1月(昭和40) 出版者:日本刀剣保存会
目次:備前刀の作風 / 吉川賢太郎
ページ数:11 コマ数:10

「刀剣と歴史 (424)」(雑誌・データ送信)
発行年:1965年3月(昭和40) 出版者:日本刀剣保存会
目次:名物帳に記された備前の名刀 / 辻本直男
ページ数:4 コマ数:7

『日本刀講座 第9巻 新版』(データ送信)
発行年:1968年(昭和43) 出版者:雄山閣出版
目次:長船物 概説および系図
ページ数:212 コマ数:179

『須高 (27)』(雑誌・データ送信)
発行年:1988年9月(昭和63) 出版者:須高郷土史研究会
目次:福島正則と抱工 / 﨤町武士
ページ数:102 コマ数:54

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:ふくしまみつただ【福島光忠】
ページ数:4巻P278、279

概要2 「福島光忠」ではないかと言われる清田直氏の光忠に関して

「太刀 金象嵌銘光忠 光徳花押」、「刀 金象嵌銘光忠 光徳花押」

水戸徳川家から常陸宍戸藩へ譲られた刀。

織田信長の集めた光忠の一振りでそのご徳川家康へ伝えられ、家康から11男で水戸徳川家の祖・頼房へ与えられたと言われる。

その後、水戸藩主徳川光圀が弟の松平頼雄に1万石を分与して新たに立藩させた際に、本家より譲ったという。

幕末に宍戸藩9代藩主・松平頼徳が天狗党の乱によって切腹を命じられたため、宍戸藩が手放したあと、愛刀家として知られた福地桜痴居士が入手。

福地桜痴居士の没後、こちらも愛刀家として名高い清田直氏が600金で購入した。

『日本刀講座 第9巻』の「名士と刀剣」によれば宍戸藩はこの時期に清田直氏からこの刀を買い戻そうとしたが、交渉は失敗に終わった。

また、『武将と名刀』によれば細川護立氏もこの刀を欲して清田直氏と交渉したがいくらお殿様でもこの刀は渡せないと断られ、細川護立氏は対抗心から生駒光忠を手に入れたと言われている。

1935年(昭和10)4月30日、国宝(新国宝)指定。
1951年(昭和26)6月9日、国宝(新国宝)指定。

清田家を離れた後は田口儀之助氏蔵。

現在確認できる情報はこの辺りまで。

もと織田信長所持、信長から徳川家康へ伝え、家康から水戸頼房へ

『名刀図譜』によると、もと織田信長所持。

織田信長が好んで収集した光忠の中の一口で、信長から徳川家康へ伝え、家康から水戸頼房へ与えたとされる。
出典となる史料名はない。

『名刀図譜』
著者:本間順治 発行年:1935年(昭和10) 出版者:大塚工芸社
目次:六〇 太刀 金象嵌銘 光忠 光德(花押) コマ数:72
目次:名刀図譜 解説 コマ数:140、141

水戸徳川家伝来の宝物から、常陸宍戸藩へ

刀剣商の網屋氏が清田直氏について語っている記事でこの刀の来歴も説明されている。

1682年(天和2)、水戸藩主徳川光圀が弟の松平頼雄に1万石を分与して新たに立藩させた際に本家より譲ったという。

『日本刀講座 第9巻』(データ送信)
著者:雄山閣 編 発行年:1935年(昭和10) 出版者:雄山閣
目次:名士と刀劍 清田直先生
ページ数:255~274 コマ数:287~297

宍戸藩9代藩主・松平頼徳が佩用

幕末に宍戸支藩松平大炊頭こと松平頼徳が佩いて出陣した。

水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱・天狗党の乱の時らしい。
しかし松平頼徳はこの乱の関係でその後切腹させられている。

『武田耕雲斎詳伝 : 一名水戸藩幕末史 上』(データ送信)
著者:大内地山 発行年:1936年(昭和11) 出版者:水戸学精神作興会
目次:武田伊賀守湊より来り援く
ページ数:691 コマ数:399

その後、福地桜痴居士が入手

松平頼徳が天狗党の乱で武田耕雲斎に加担して出陣したのを不祥事とし、明治の初めに天野某という撃剣家に託して手放した。

他の刀屋が後難を恐れるなか、浅草の刀屋・町田平吉が買い取り、岩崎男爵に売った。

しかし、岩崎家に入ってから古今村長賀氏をはじめとする当時の鑑定家たちがこの刀の正作は大村加卜くらいのものと否認した。

それを聞いた明治時代の政論家・劇作家・小説家である福地源一郎(福地桜痴)が岩崎家から購入した。

福地桜痴居士はこの刀の入手のために知人に借金までしたらしい。

「刀剣と歴史 (46)」(雑誌・データ送信)
発行年:1914年7月(大正3) 出版者:日本刀剣保存会
目次:はり扇
ページ数:31 コマ数:17

福地桜痴居士から、清田直氏が購入

福地桜痴居士秘蔵の光徳金銘光忠を、清田直氏は600金で購入した。

この後、松平家がこの刀を清田氏が入手したことを聞き買い戻そうとしたが、交渉が不成立に終わったため、その後も清田家にあった。

『日本刀講座 第9巻』(データ送信)
著者:雄山閣 編 発行年:1935年(昭和10) 出版者:雄山閣
目次:名士と刀劍 清田直先生
ページ数:255~274 コマ数:287~297

1935年(昭和10)4月30日、国宝(新国宝)指定

昭和10年(1935)4月30日、国宝(旧国宝)指定。
清田政人氏名義。

「太刀 金象嵌銘光忠 光徳花押」

『官報 1935年04月30日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1935年(昭和10) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第百七十二号 昭和十年四月三十日
ページ数:863 コマ数:3

1951年(昭和26)6月9日、国宝(新国宝)指定

昭和26年(1951)6月9日、国宝(新国宝)指定。
清田政人氏名義。

「刀 金象嵌銘光忠 光徳花押」

官報の年月日と指定の年月日がずれていますが、この年月日であってると思います。
昭和26年6月9日に重要文化財から国宝指定された工芸品は昭和27年1月12日に告示が出されています。

『官報 1952年01月12日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1952年(昭和27) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文化財保護委員会告示第二号 昭和二十七年一月十二日
ページ数:140 コマ数:7

『指定文化財総合目録 [昭和43年版] (美術工芸品篇)』(雑誌・データ送信)
発行年:1968年(昭和43) 出版者:文化財保護委員会
目次:大阪府
ページ数:656 コマ数:340

その後

時期は不明だが清田政人氏蔵から田口儀之助氏蔵になる。

国宝日本刀特別展の時点では田口儀之助氏蔵。

『国宝日本刀特別展目録 : 刀剣博物館開館記念』
発行年:1968年(昭和43) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:刀 金象嵌銘 光忠 光徳(花押) 田口儀之助氏蔵
コマ数:64

作風

下記の本に作風が載っている。
(インターネット公開分なので誰でも読めます)

『紀元二千六百年奉祝名宝日本刀展覧会出陳刀図譜』
著者:遊就館編 発行年:1940年(昭和15) 出版者:遊就館
目次:古刀の部
コマ数:184

調査所感2

・追加調査の結果

デジコレを「福島光忠」で検索するとどちらも引っかかってきてしまうので区別のために両方を調べなければならない。ということで調べてみました。

素人考えだと一緒くたにしてしまいたい気もするが研究者はあくまでも「一説」にとどめているのでどうしたものだろうか。

『享保名物帳』の福島正則佩刀の光忠は「在銘」、
清田直氏の光忠は「金象嵌銘」、

この違いはやはり大きいか。

・参考文献調査は軽くに留めています

この光忠も有名な刀でいろいろな本に載っていますが参考文献全部メモろうとするとキリがないので結構さぼっています。
後は個人的に興味ある方が追加でお調べください。

・同一視があったかどうか、そもそも同物か?

昭和の研究者はあくまで違うものとして伝えられたことを前提に同じものではないか? という意見を出しているようです。

一方で、宍戸藩9代藩主・松平頼徳が使用したという資料で「福島光忠」と呼ばれている、その後の所持者である福地桜痴居士も「福島光忠」と呼んでいることを考えると、幕末の扱いは「福島光忠」という名の刀である、というものですね。

それが『享保名物帳』の福島光忠と同じものだと考えているのかはよくわからないんですが……。

これだけはっきり「福島光忠」と呼んでいたならむしろその名で伝わって同物か否かの検討がされていてもよさそうなものですが、清田直氏の家族だろう清田政人氏名義の資料ではその件について何も言われていないという不思議な現象が見られます。

いやまぁ……こんな感じに変な情報の抜け落ち方する刀も初めてではありませんが……。

・まとめると多分こういうことかと思います

『享保名物帳』の「福島光忠」とこの「刀 金象嵌銘光忠 光徳花押」に関して、同一物である証拠はありません。
特に在銘と金象嵌銘の差は大きく、『享保名物帳』を書いた鑑定の名家・本阿弥家がそんな間違いをするとは簡単には言えません。

しかし、この「在銘」と「金象嵌銘」の違いを棚に上げると、両者はむしろ同一と考えられそうなくらい自然に歴史が繋がります。

家康が持っていたのか福島家から将軍家に拝領したかは少し変わりますが、『享保名物帳』の時期に徳川頼道が持っていたことは動かないようです。

信長所持辺りの内容は出典史料名がないので伝聞かもしれず、そうなってくるとここが間違っている可能性はありえます。

本阿弥家が在銘品と金象嵌銘を間違える可能性は低いとはいえ、『享保名物帳』における来歴などの細部事情は結構間違っていますし、人間ですからうっかり書き間違いくらいはするかもしれません。『享保名物帳』の「福島光忠」の項目はそもそもそんな熱心に書かれた文面でもありませんし。

そうなってくると、当の宍戸藩側がそれを知らなかったが、『享保名物帳』を熱心に研究する研究者側の目線だとこれは享保名物の「福島光忠」では? という疑問が芽生えると思います。

大正時代の『刀剣談』で高瀬羽皐氏が『享保名物帳』の福島光忠について「在銘ではない」とはっきり言いきっていること、『詳註刀剣名物帳』の解説部分でも水戸家からこう言っていることを考えると、この頃の研究者は両者同一と考えている人が結構いると思います。

『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:光忠、長光、包平、光包、兼光の部 福島光忠
ページ数:168、169 コマ数:99

水戸筑前守殿(水戸徳川侯爵家)
福島光忠 銘あり長二尺三寸七分半 代金百三十枚

昔福島左衛門太夫所持表裏樋有あり。

この水戸筑前守殿とあるは誤写なり水戸殿と三字記せし本あり、今村長賀本にも水戸殿の三字とすべしとあり。
福島左衛門大夫太夫は正則の事なり、某子爵の云福島光忠は織田信長か光忠の刀廿五口集めたる其一刀なり福島正則之を佩びのち徳川将軍家に入り水戸威公(頼房)に賜ふ其子頼雄に譲られ弟の雄利に伝り同家にて焼失すと云ふ、さすれば今水戸家にはあらぬなるべし此焼失 月定かならぬ事なり。

「刀 金象嵌銘光忠 光徳花押」の説明文は上記引用部の「某子爵の云福島光忠は~」以降と重なりますね。
徳川頼房の7男・松平頼雄 (宍戸藩主)はググればすぐに出てくる人ですが、雄利がわからない。

そうなると某子爵の談のうちこの雄利が間違っている可能性があって、松平頼雄が亡くなった後、五兄・頼利(つまり雄利ではなく頼利の間違いか? あるいは別名の一つか?)の子で養嗣子の頼道が宍戸藩主の立場と共に水戸家から相続したというのが正しいのではないかと考えられます。

この頼道が『享保名物帳』編集時の「福島光忠」の所持者と考えられていますので、いつもは重要視される『享保名物帳』の記述もこれに関しては本阿弥さんの方がうっかりしてたのでは? と考えた方が綺麗に別物の二つと考えられていた刀たちの来歴を一つにしてくれます。

宍戸藩側が「福島光忠」の価値を知らないという憶測は、それこそ「刀 金象嵌銘光忠 光徳花押」の話に出てきた、天狗党の乱で藩主が武田耕雲斎に加担して出陣したのを不祥事としてこの刀を手放したが、後に清田直氏が大金を払って入手したことを知ってから買い戻そうとしたことなどからも微妙に裏付けられる気がします。

そして宍戸藩側がこの刀についてその程度の認識しかなかったかもしれないと考えると、刀の情報が抜け落ちても不思議ではない、と。

証拠はなくとも憶測としてはかなり綺麗につながる部類ですので、明治から大正期辺りの研究者や愛刀家がそういう認識であったとしてもおかしくはないですね。

とはいえ、現在はどうなんでしょうかね。
表に出てきた話を聞かないのでまだ個人蔵だとすると、話題が1964年の『武将と名刀』の同物説から特に動いていない可能性もあります。

・とうらぶの「福島光忠」について考えると

実際の「福島光忠」と「刀 金象嵌銘光忠 光徳花押」が同じものかどうかはわかりません。ここは慎重になっていいと思います。

ではゲームの話として、とうらぶの刀剣男士の福ちゃんはどうか?

一緒だと思います(あっさり)。

今までの研究史と実装された男士の言動の差からすると、同物の可能性がある刀は普通にそっちの記憶も持っているみたいですから、「刀 金象嵌銘光忠 光徳花押」がこれだけはっきりと「福島光忠」と呼ばれているなら福ちゃんは両方交じってると思います。

まぁゲームでその辺りの話が出ないとわからないことですけど、もしもあれ? と思ったらこちらの来歴も一度チェックしてみるという感じでいいんじゃないでしょうか。

現実の研究史をチェックしつつも、とうらぶ内だと「物語」「名称」の方を軸に置いて語られる場合がありますので、ここまで同物と考えられているのなら無視はできないですね。

・余談 福ちゃんと古今さんと細川護立氏

細川護立氏と言えば永青文庫の創設者で、歌仙、古今、そして生駒光忠などが現在も永青文庫にいるわけです。

その細川護立氏が少年の頃に人生で一番初めに手に入れた刀が生駒光忠らしいっすよ。
入手した理由は、清田直氏が「福島光忠」と同一かもしれない「刀 金象嵌銘光忠 光徳花押」をどうしても譲ってくれなかったのであの光忠よりすごい光忠を手に入れるんだと張り合って。これが『武将と名刀』の寒山先生談なわけですが。

『日本刀講座 第9巻』の「名士と刀剣」、網屋氏の談によれば、細川護立氏はこの件、というか清田直氏の大振りの好みにかなり影響を受けて生茎の細造りの姿・形の良い刀よりも大磨上げでも身巾の豊な刀を好むようになったそうです。

で、「中山家の行平」を見た時に『自分は此の如き細身は貧弱に見えて嫌ひだ』と言ったとか。

ここまでの調査にお付き合いいただいた方はもう知っていると思いますが、「中山家の行平」って「古今伝授の太刀」のことなんですよね。

古今さんを調べた時に細川護立氏がこう言ってることだけは知ったのであれー? なんでかなー? と密かに気になっていたんですが、明確な理由あったのかこれ。
っていうか福ちゃん、許を辿ると君のせいか(笑)

福島光忠は現代に伝わっていないかと思われましたが、もしも「刀 金象嵌銘光忠 光徳花押」と同一だとすれば、御先祖様の逸話と共に伝えられる古今伝授の太刀すらもそう言わせてしまうほど細川護立氏に影響を与えるなんて、罪作りな刀ですね。

どっちにしろ古今さんにしたら複雑かもしれませんが、こんなこと言っといて結局中山家から古今さんを細川家に買い戻してるのも細川護立氏ですし、ちょっとした笑い話かもしれません。

古今さんだけ調べてても対抗馬が実は福ちゃん(かもしれないと言われている刀)とは気づかなかったので、両方わかるようになるとこの辺の話も面白いですよね、と。

直接この刀二振りを比べているわけではなくあくまでも影響を受けているという話なので、具体的な記載はぜひ参考文献を直接読んでご確認ください。

参考文献2

「刀剣と歴史 (46)」(雑誌・データ送信)
発行年:1914年7月(大正3) 出版者:日本刀剣保存会
目次:はり扇
ページ数:31 コマ数:17

『名刀図譜』
著者:本間順治 発行年:1935年(昭和10) 出版者:大塚工芸社
目次:六〇 太刀 金象嵌銘 光忠 光德(花押) コマ数:72
目次:名刀図譜 解説 コマ数:140、141

『武田耕雲斎詳伝 : 一名水戸藩幕末史 上』(データ送信)
著者:大内地山 発行年:1936年(昭和11) 出版者:水戸学精神作興会
目次:武田伊賀守湊より来り援く
ページ数:691 コマ数:399

『二千六百年歴史展覧会図録』(データ送信)
著者:大阪毎日新聞社 編 発行年:1940年(昭和15) 出版者:大阪毎日新聞社
コマ数:72

『紀元二千六百年奉祝名宝日本刀展覧会出陳刀図譜』
著者:遊就館編 発行年:1940年(昭和15) 出版者:遊就館
目次:古刀の部
コマ数:184

『日本刀分類目録』(データ送信)
著者:郷六貞治 編 発行年:1944年(昭和19) 出版者:春陽堂
目次:目録
ページ数:73 コマ数:53

『名刀集美』(データ送信)
著者:本間順治 編 発行年:1948年(昭和23) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:古刀の部 解説
コマ数:99、196

『官報 1952年01月12日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1952年(昭和27) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文化財保護委員会告示第二号 昭和二十七年一月十二日
ページ数:140 コマ数:7

『京都の新国宝 第1集』(データ送信)
著者:京都市産業観光局観光課 編 発行年:1953年(昭和28) 出版者:京都市
目次:工芸 京都国立博物館技官 藤岡了一
ページ数:96、97 コマ数:81

『日本古刀史 改訂増補版』(データ送信)
著者:本間順治 著 発行年:1963年(昭和38) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:三、 鎌倉時代
ページ数:84 コマ数:78

『国宝日本刀特別展目録 : 刀剣博物館開館記念』
発行年:1968年(昭和43) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:刀 金象嵌銘 光忠 光徳(花押) 田口儀之助氏蔵
コマ数:64

『指定文化財総合目録 [昭和43年版] (美術工芸品篇)』(雑誌・データ送信)
発行年:1968年(昭和43) 出版者:文化財保護委員会
目次:大阪府
ページ数:656 コマ数:340