一期一振

いちごひとふり

概要

「刀 額銘吉光 名物一期一振(再刃)」

『享保名物帳』焼失の部所載、鎌倉時代の刀工・粟田口吉光作の太刀。
『享保名物帳』では焼失之部に載っているというだけで、その後焼き直し(再刃)されて現存している。

号の由来は「短刀の名手吉光がただ一振り製作した太刀だから」「吉光の生涯ただ一振りの傑作だから」の2種類の解釈がある。
(しかしそう解釈されているだけであって、根拠となる出典はないようである)

出所は朝倉・酒井・毛利の三説がある。

豊臣秀吉が入手してからは、大阪城の「一之箱」に入れられており、骨喰藤四郎に次ぐ扱いだと言われる。

大阪城落城の際に焼身となり、徳川家康が他の名刀と共に越前康継に焼き直させた。

その後、尾張徳川家の義直に伝わる。
(しかし、『享保名物帳』での扱いはほとんど将軍家の刀扱いであり、尾張徳川家の刀としている写本は一冊だけらしい)

幕末の孝明天皇の頃に、尾張徳川家から献上したという。

以後、現在まで御物として宮内庁が管理している。

号の由来について

1.短刀の名手吉光がただ一振り製作した太刀だから
2.吉光の生涯ただ一振りの傑作だから

昭和頭の『日本名宝物語』の時点で2説あると言われているが、どちらも根拠となる史料があるような話ではなく、刀剣研究界で提唱される憶測が2説あるというだけのようだ。

『日本名宝物語 第2輯』
著者:読売新聞社 編 発行年:1930年(昭和5) 出版者:誠文堂
目次:御物一期一振 帝室御貸下
ページ数:1~4 コマ数:11~13

吉光の太刀は一振りだけではないという話が下記の本でされている。
古剣書にいくつか吉光の太刀の押形が出ているという。

『日本刀講座 第10巻 新版』(データ送信)
発行年:1970年(昭和45) 出版者:雄山閣出版
目次:畿内
ページ数:27 コマ数:135

刀剣研究者は吉光の太刀が一振りだけではないことを知っているためか、吉光のただ一振りの太刀というよりは、生涯最大の傑作の意味だと説明している本が多いように思われる。
どちらにしろ確たる史料自体はない。

細川幽斎が名づけたという説

昭和初期の刀剣書複数に「細川幽斎が豊臣秀吉に献じ、大阪落城の際に焼けたのを直し、紀伊徳川家の頼宣に伝わった」としているものがある。

しかしこの説を出している本は出典を明記しているものがなく、実際に焼き直した一期一振を保管していたのが尾張徳川家の義直だったこと、時代の新しい本ではこの幽斎命名説を述べているものがなくなることを考えると、幽斎が名づけたという話はこの頃の誤伝だと考えられる。

『刀剣談』
著者:高瀬真卿(高瀬羽皐、羽皐隠史) 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第二門 御物 一期一振 ページ数:22 コマ数:36
目次:第四門 武将の愛刀 藤四郎吉光 ページ数:49、50 コマ数:49、50

出所3説

『日本刀大百科事典』によると、出所については、朝倉・酒井・毛利の三説があるという。

朝倉説(『三好下野入道口伝』)

越前の朝倉家にあった、というが、それ以上の記述はないという。

『三好下野入道口伝』という古剣書は国立国会図書館デジタルコレクションにもないので読めない。

堺説(『名物扣』本阿弥家、元禄時代)

本阿弥祐徳が堺で銀三十枚で買ったものを、豊臣秀吉に金十枚で召し上げられた。
その金のなかには釈迦の像も、鋳つぶさないでそのまま混じっていた。
それらは京都の仏光寺に寄進した。

本阿弥家の『名物扣』は国立国会図書館デジタルコレクションにもないので読めない。

毛利家説(『毛利秀元記』『天正十八年毛利亭御成記』)

『毛利秀元記』『天正十八年毛利亭御成記』によると、
豊臣秀吉が天正18年(1590)9月18日、毛利邸に臨んだとき、毛利家から献上した。
拵えの金具は赤銅で、紋は総桐だったという。

『西国太平記 毛利秀元記』
著者:橘生斎 [著] ; 黒川真道 編, 三吉規為 [著] ; 黒川真道 編 発行年:1915年(大正4) 出版者:国史研究会
目次:毛利秀元記 巻之一
ページ数:323 コマ数:170

『続群書類従 第23輯ノ下 武家部』
著者:塙保己一 編 発行年:1923~1926年(大正12~15) 出版者:続群書類従完成会
目次:天正十八年毛利亭御成記
ページ数:272 コマ数:140

その他

『武将と名刀』によると「室町将軍家重代の一本で義昭から秀吉に献じた」と言われているが、ここまで調べた感じ寒山先生が出典書籍に触れずに名刀の来歴について話している時の知識は非常に怪しい、としか言いようのない結果なのでおそらく普通に間違いだと考えられる。

『武将と名刀』(データ送信)
著者:佐藤寒山 発行年:1964年(昭和39) 出版者:人物往来社
目次:太閤秀吉とその愛刀
ページ数:102~112 コマ数:56~61

豊臣時代は一之箱に納められていた

『豊臣家御腰物帳』によると、
大阪城では同じ吉光の作である骨喰藤四郎とともに、“一之箱”に納めてあった。

『豊臣家御腰物帳』(東京国立博物館デジタルライブラリ―)
時代:明治 写本 片桐且元
コマ数:1

東京国立博物館のデジタルライブラリーでは『豊臣家御腰物帳』の原文が見られるが、昔の文字なんて読めねぇ――!! となるので『光徳刀絵図集成』の解説部分を読んだ方がわかりやすいと思われる。

骨喰藤四郎だけでなく別の名刀も一緒に一之箱に収められていることがわかる。

『光徳刀絵図集成』(データ送信)
著者:本阿弥光徳画[他] 発行年:1943年(昭和18) 出版者:便利堂
目次:御太刀御腰物御脇指 太閤様御時ゟ有之分之帳
コマ数:115

後藤祐乗作の目貫と笄

豊臣家に入ると、目貫と笄は後藤祐乗作に取り換えられたらしい。
目貫は牽牛織女の図、笄は九曜の紋入り。

『刀剣史料 (35)』(雑誌・データ送信)
発行年:1961年11月(昭和36) 出版者:南人社
目次:後藤家の古文書――(一)/ 川口陟
ページ数:10 コマ数:7

1615年(慶長20)、大阪落城の際に焼身に

大阪落城の際に焼けたと考えられている。

異説 豊臣秀吉が明石掃部にくれていたとする説

『日本刀大百科事典』ではこんな異説を紹介している。

元和元年(1615)5月7日の戦における戦利品として、この刀が徳川家康のもとに送られてきた。
家康は喜んで「これは豊臣秀吉が明石掃部にくれていたそうだ。分捕りの様子を知りたい」と言った。
分捕った権田五太夫を呼んで聞いたが、掃部を知らないので、誰だったかわかりません、という曖昧な返事だった。
明石掃部助守重(全登(ジュスト))はもと宇喜田秀家に仕え、二万石を食んでいたが、関ヶ原の役で主家は滅亡。のち大阪城に入り、真田幸村と組んで奮戦していた(『石川忠総家臣大阪陣覚書』)。

家康はその消息を知りたがったが、確認できなかった。
実は7日の戦に敗れ、逃亡していた。
この異説によれば、焼けなかったことになるが、事実は焼けている。

これに関して『日本刀大百科事典』ではこう推測している。

・明石掃部は切支丹だったので、宗教がそうした行動を採らせたのであろう。
・そうなると、明石掃部から分捕った、という説と合致しなくなる。
・憶測するところ、掃部は自害と見せかけるため、天下に隠れもない秀頼よりの拝領刀を残しておいて、家に火をつけ逃亡したのであろう。
・権田五太夫が分捕りの状況を明白にしなかったのも、焼け跡から拾ってきたとはいえなかったからであろう。

要するに、一期一振の焼失は大坂城落城の際、というものが現在の定説だが、この異説に登場する明石掃部所持説をとると焼けないことになっておかしいので、このパターンでも一期一振が焼失にいたる事情を考えてみたよという話らしい。
明石掃部所持自体は並立してもおかしくないから、ということだろうと思われます。

この話の出典は国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索に下記の本が引っかかってきたので「大坂役石川家中留書」なのかもしれない。

『大日本史料 第12編之19』
著者:東京大学史料編纂所 編 発行年:1917年(大正6) 出版者:東京大学
目次:大坂役石川家中留書
ページ数:487、488 コマ数:265、266

徳川家康が越前康継に焼き直させる

越前康継が徳川家の命で豊臣家の名刀を再刃したことを記録する文献は『駿府政事録』と言われる。

『駿府政事録』は簡単に読めるものがなさそうなのでほぼ同一の内容だという『駿府記』で確認。
1615年(慶長20)閏6月、越前康継が焼けた刀の再刃を命じられているのが確認できる。

『史籍雑纂 第2』
発行年:1911年(明治44) 出版者:国書刊行会
目次:駿府記 慶長廿年 閏六月十六日
ページ数:307 コマ数:157

磨上げと額銘

『享保名物帳』によると、
焼き直した際に、二尺八寸三分(約85.8センチ)あったものを、二尺二寸八分(約69.1センチ)に磨り上げ、銘は額銘にした。

『刀剣名物牒』(データ送信)
著者:中央刀剣会 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:中央刀剣会 編
目次:(下) 同右〔燒失の部〕
ページ数:63 コマ数:34

御物(一本尾張殿とあり)

一期一振藤四郎 長さ貳尺貳寸八分、入銘
(根元は乱刃出直し直刃になる今は尾州徳川家より献上になり宮内省に有之地鉄細美出来能く容易に焼直しものとは見へ不申長賀)

右貳尺八寸三分余有之、焼直し右之寸に磨上り入銘に成、元は貳尺八寸三分有之由、中心先迄有之、

『詳註刀剣名物帳』
著者:羽皐隠史(高瀬羽皐、高瀬真卿) 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:名物「焼失之部」 一期一振
ページ数:210~212 コマ数:120、121

御物(一本尾張殿とあり)
一期一振 長二尺二寸八分 入銘

右二尺八寸余有り焼直し右の寸に磨上げ入銘になり元は二尺八寸三分有之由樋は忠まで有之。

焼ける前と後(『光徳刀絵図』の比較)

『光徳刀絵図』は写本の時期によって内容がかなり違うという。

文禄3年(1594)写しの毛利本
文禄4年(1595)写しの大友本
元和元年(1615)写しの壽斎本

『日本刀大百科事典』によれば、この3冊で鋩子を比較してみると、大阪落城前に取った押形は一致するが、落城後の元和元年(1615)極月写しは、毛利本の写本であるにも関わらず、鋩子の状態が明白に違っているという。

これは落城後、半年以内に焼き直したことを証明するもので、明暦の大火(1657年、明暦3)で焼けて、焼き直したとする説(『詳註刀剣名物帳』など)は誤りであるらしい。

国立国会図書館デジタルコレクションの『光徳刀絵図集成』は上記のうち2冊、文禄3年の毛利本と元和元年の壽斎本の押形を掲載しているので、凡例の解説と合わせながら比較すると確かに変化がわかる。

『光徳刀絵図集成』(データ送信)
著者:本阿弥光徳画[他] 発行年:1943年(昭和18) 出版者:便利堂
目次:凡例 コマ数:6
目次:二八 ページ数:14 コマ数:28
目次:二九 ページ数:15 コマ数:29

写し物の姿から推察する焼けた時期の話

下記の雑誌では一期一振、鯰尾藤四郎、骨喰藤四郎など越前康継が打った写しを参考にして焼直しものの考察をしている。

「Museum (72)」(雑誌・データ送信)
著者:東京国立博物館 編 発行年:1957年3月(昭和32) 出版者:東京国立博物館
目次:粟田口藤四郎吉光と越前康継 / 佐藤貫一
ページ数:16、17 コマ数:10

結局、焼けた時期と磨上の時期は?

焼けた時期は明治辺りの古い研究書だと「明暦の大火」(1657年)だと言われているが、これに関しては『光徳刀絵図』の1615年の写本にすでに鋩子の状態が違う押形が載っているので、「大阪落城の際に焼けた」でほぼ確実。

明暦の大火説の存在は、同じように『享保名物帳』の「焼失之部」に載っている刀の話と混ざっていると考えられる。
こちらは明暦の大火で焼けた刀のリストに名前がないことからも否定できる。

磨り上げの時期に関しては、『享保名物帳』を素直に読めば「焼き直した時に磨上げて額銘にした」と読める。
(『日本刀大百科事典』でも異説紹介前にその文脈だったので、その読み方で合っていると思われる)

つまり、

「1615年の大阪落城の際に焼身になったので、初代越前康継が再刃した時に磨り上げて額銘にした」

が正しいと思われる。

一期一振の磨上時期に関する異説としては『武将と名刀』で佐藤寒山氏が「秀吉が磨り上げた」としているのだが、『武将と名刀』のその部分の記事に関しては、『享保名物帳』の記述が明治頃に「明暦の大火で焼けた」話と混ざっていたことに引きずられたもので、整理不十分に感じる。

『日本刀大百科事典』のように『光徳刀絵図』の写本の成立年代から大阪落城後の焼直しを確定させ、そこから『享保名物帳』の文面を素直に読んでその時に磨上げ、額銘にした押形を1615年の写本が載せている、でいいのではないだろうか。

尾張徳川家から維新後、朝廷へ献上

『名物帳』でも御物、つまり将軍家蔵としたものと、尾張殿または尾張様つまり尾張徳川家蔵としたものとの二種がある。

『日本刀大百科事典』では、大阪城落城後、名古屋城に預けっぱなしになった一期一振を、尾張家で所有権があると思っていたので文久3年(1863)、尾張家からこれを朝廷に献上したと説明している。

『日本名宝物語 第2輯』によると、孝明天皇の頃に献上、と言われている。

『日本名宝物語 第2輯』
著者:読売新聞社 編 発行年:1930年(昭和5) 出版者:誠文堂
目次:御物一期一振 帝室御貸下
ページ数:1~4 コマ数:11~13

現在も御物

現在も御物として宮内庁が管理している。

『銘刀押形 : 御物東博』(データ送信)
著者:佐藤貫一、沼田鎌次 編  発行年1958年(昭和33) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:一〇 御物 刀 額銘吉光 名物一期一振(再刃)
ページ数:14、15 コマ数:24、25

作風

刃長二尺二寸八分(約69.1センチ)。
表裏に棒樋をかき流す。
地鉄は板目肌流れる。
刃文は直刃調の小互の目乱れ。ただし焼直し前ほどの働きはない。
茎の佩き表に「吉光」と大振りな銘がある。

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5) 出版者:雄山閣
目次:いちごひとふり【一期一振】
ページ数:1巻P87、88

銘字が大きすぎる?

『日本刀大百科事典』では、本阿弥光刹は、正真ではない、と言っていたが、本阿弥光徳は正真と言っていたという話を紹介している。

「吉光」という銘字が、同じ粟田口の他工の太刀銘と比較して大き過ぎるというのがその理由らしい。

『日本刀大百科事典』では、
一期一振という刀号が示すとおり、一生のうちに一振しか太刀は造らなかった、とすれば、他に比較するものがないから、同派の他工の銘と比較するほかないが、大き過ぎることは否定できない。

と説明している。

越前康継の写し物

越前康継は焼身となった名刀を再刃することで模造の腕を磨いたらしく、名刀の写しを多数打っている。

下記の本で一期一振の写しの押形を見ることが出来る。

『康継大鑑』(データ送信)
著者:佐藤貫一 発行年:1960年(昭和35) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:第七章 康継と写し物の研究 (附)享保名物帳 (二) 本科と康継模作 (7) 一期一振
ページ数:96 コマ数:292

調査所感

・出所と来歴の曖昧さの問題

一度とうらぶに実装されてる刀全部(2024年1月時点で110振り)調べてから最初期に出した記事をちまちま修正する作業に入ったんですが、えー、研究史調査一周して戻ってきた感想としては一期の情報いろいろ入り乱れて曖昧過ぎる……!! ってことですかね。

出所がまず3説ある。あとなんか寒山先生が足利将軍家の重大とかいうまた新しい説を出している。いや多分これは間違いでしょ普通に……。

調査二週目である程度知識を持った状態で改めて参考文献をチェックするとですね、寒山先生の一期一振に関する情報は大分混乱していますね。
何年も何冊も本書いてらっしゃるので研究書の時期によって内容が変更されることも当然あるんですが、この件に関しては単に一期一振の来歴に関する研究があまい、でいいんじゃないかと。

寒山先生は時期によって焼けたのは明暦の大火だとか3代康継の再刃だとか天下五剣の一振りだとか(!?)そういう情報を出していますが、明暦の大火で焼失は明治時代の研究に引きずられてる、3代康継再刃は明暦の大火に再刃を合わせちゃってる、天下五剣の間違いに関しては以前から指摘されている(鬼丸さん外して一期を入れてるミス)とまぁ色々ありまして。

ただ一期一振の出所、伝来先などの来歴、号の由来などに関して混乱しているのは寒山先生だけじゃなく割と昔(明治~昭和初期)の本があちこち違うんで、一期一振自体の来歴がそもそもはっきりしていない、と捉えたほうがいいと思います。

享保名物の来歴は『享保名物帳』がやっぱり一つの基準となるんですが、一期に関しては焼き直し磨上額銘元の長さのことしか書いてねえ! という状態なので、ばらばらの情報を的確に繋ぎ合わせて組み立てるのは大変なんでしょう。

焼ける前の記憶(情報、資料)がない(物理)。

・焼身と磨上と額銘の時期の問題

上でも検討部分を載せましたが、純粋に史料をもとにして組み立ててる福永酔剣先生の『日本刀大百科事典』の記述を参照したほうがいいですね。
「1615年の大阪落城で焼けて、初代越前康継が再刃し、その時に磨り上げて額銘にした」と。

参考文献

『諸家名剣集』(東京国立博物館デジタルライブラリー)
時代:享保4年(1719) 写本
コマ数:46

『豊臣家御腰物帳』(東京国立博物館デジタルライブラリ―)
時代:明治 写本 片桐且元
コマ数:1

『故実叢書 武家名目抄(塙保己一)』
著者:今泉定介 編 発行年:1899~1906(明治32~39) 出版者:吉川弘文館
目次:第二百七十二冊刀剣部五
ページ数:3396 コマ数:43

『刀剣談』
著者:高瀬真卿(高瀬羽皐、羽皐隠史) 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第二門 御物 一期一振 ページ数:22 コマ数:36
目次:第四門 武将の愛刀 藤四郎吉光 ページ数:49、50 コマ数:49、50

『史籍雑纂 第2』
発行年:1911年(明治44) 出版者:国書刊行会
目次:駿府記 慶長廿年 閏六月十六日
ページ数:307 コマ数:157

『西国太平記 毛利秀元記』
著者:橘生斎 [著] ; 黒川真道 編, 三吉規為 [著] ; 黒川真道 編 発行年:1915年(大正4) 出版者:国史研究会
目次:毛利秀元記 巻之一
ページ数:323 コマ数:170

『大日本史料 第12編之19』
著者:東京大学史料編纂所 編 発行年:1917年(大正6) 出版者:東京大学
目次:大坂役石川家中留書
ページ数:487、488 コマ数:265、266

『詳註刀剣名物帳』
著者:羽皐隠史(高瀬羽皐、高瀬真卿) 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:名物「焼失之部」 一期一振
ページ数:210~212 コマ数:120、121

『大日本古文書 家わけ八ノ三 毛利家文書之1-4』
著者:東京帝国大学文学部史料編纂所 編 発行年:1922年(大正11) 出版者:東京帝国大学
目次:八六五 豊臣秀吉御成日記
ページ数:115 コマ数:83

『日本趣味十種 国学院大學叢書第壹篇』(データ送信)
著者:芳賀矢一 編 発行年:1924年(大正13) 出版者:文教書院
目次:八 刀剣の話 杉原祥造
ページ数:337 コマ数:189(もしくは188)

『刀剣名物牒』(データ送信)
著者:中央刀剣会 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:中央刀剣会 編
目次:(下) 同右〔燒失の部〕
ページ数:63 コマ数:34

『続群書類従 第23輯ノ下 武家部』
著者:塙保己一 編 発行年:1923~1926年(大正12~15) 出版者:続群書類従完成会
目次:天正十八年毛利亭御成記
ページ数:272 コマ数:140

『刀剣談 再版』(データ送信)
著者:羽皐隠史 著, 高瀬魁介 訂 発行年:1927年(昭和2) 出版者:嵩山房
目次:第二 御物 御物 一期一振 ページ数:23、24 コマ数:23、24
目次:第四、武将の愛刀 一期一振と骨喰藤四郎 ページ数:159 コマ数:91

『日本名宝物語 第2輯』
著者:読売新聞社 編 発行年:1930年(昭和5) 出版者:誠文堂
目次:御物一期一振 帝室御貸下
ページ数:1~4 コマ数:11~13

『埋忠銘鑑』
著者:中央刀剣会本部 編 発行年:1932年(昭和7) 出版者:中央刀剣会本部
ページ数:33 コマ数:39

『秋霜雑纂 前編』
著者:秋霜松平頼平 編 発行年:1932年(昭和7) 出版者:中央刀剣会本部
目次:雑話三十三條 三百三十八 明暦焼失の名刀
ページ数:201 コマ数:126

『刀剣夜話』(データ送信)
著者:前田稔靖 発行年:1932年(昭和7) 出版者:九州帝国大学刀園会
目次:二 赤穗義士と日本刀
ページ数:20、21 コマ数:18

『日本刀物語』
著者:小島沐冠人 編著  発行年:1937年(昭和12) 出版者:高知読売新聞社
目次:大坂城壕中の吉光
ページ数:78 コマ数:47

『大日本刀剣史 中巻』(データ送信)
著者:原田道寛 発行年:1949年(昭和15) 出版者:春秋社
目次:粟田口吉光の一期一振と鯰尾吉光
ページ数:266~269 コマ数:143、144

『光徳刀絵図集成』(データ送信)
著者:本阿弥光徳画[他] 発行年:1943年(昭和18) 出版者:便利堂
目次:凡例 コマ数:6
目次:二八 ページ数:14 コマ数:28
目次:二九 ページ数:15 コマ数:29
目次:解説 ページ数:2~4 コマ数:112~114
目次:御太刀御腰物御脇指 太閤様御時ゟ有之分之帳 コマ数:115

『刀剣鑑定手帖』(データ送信)
著者:佐藤貫一 発行年:1955年(昭和30) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:再刃の見分け方
ページ数:251 コマ数:134

『銘刀押形 : 御物東博』(データ送信)
著者:佐藤貫一、沼田鎌次 編  発行年1958年(昭和33) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:一〇 御物 刀 額銘吉光 名物一期一振(再刃)
ページ数:14、15 コマ数:24、25

『康継大鑑』(データ送信)
著者:佐藤貫一 発行年:1960年(昭和35) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:第七章 康継と写し物の研究 (附)享保名物帳 (二) 本科と康継模作 (7) 一期一振 ページ数:96 コマ数:292

『刀剣史料 (35)』(雑誌・データ送信)
発行年:1961年11月(昭和36) 出版者:南人社
目次:後藤家の古文書――(一)/ 川口陟
ページ数:10 コマ数:7

『武将と名刀』(データ送信)
著者:佐藤寒山 発行年:1964年(昭和39) 出版者:人物往来社
目次:太閤秀吉とその愛刀
ページ数:102~112 コマ数:56~61

『埋忠銘鑑』(データ送信)
著者:本阿弥光博 解説 発行年:1968年(昭和43) 出版者:雄山閣
目次:埋忠銘鑑 全
ページ数:18 コマ数:93

『日本刀講座 第10巻 新版』(データ送信)
発行年:1970年(昭和45) 出版者:雄山閣出版
目次:畿内
ページ数:27 コマ数:135

「刀剣と歴史 (520)」(雑誌・データ送信)
発行年:1981年3月(昭和56) 出版者:日本刀剣保存会
目次:再刃物について / 三嶋青山
ページ数:37 コマ数:23

『新・日本名刀100選』(紙本)
著者:佐藤寒山 発行年:1990年(平成2) 出版社:秋田書店
(中身はほぼ『日本名刀100選』 著者:佐藤寒山 発行年:1971年(昭和46) 出版社:秋田書店)
目次:22 平野藤四郎吉光
ページ数:145

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5) 出版者:雄山閣
目次:いちごひとふり【一期一振】
ページ数:1巻P87、88

『日本刀物語』(紙本)
著者:杉浦良幸 発行年:2009年(平成21) 出版者:里文出版
目次:Ⅱ 名刀の生きた歴史 1 武将と日本刀 豊臣秀吉執心の愛刀 刀 額銘 吉光(号 一期一振藤四郎)
ページ数:45

概説書

『剣技・剣術三 名刀伝』(紙本)
著者:牧秀彦 発行年:2002年(平成14) 出版者:新紀元社
目次:第三章 戦国武将 一期一振 豊臣秀吉
ページ数:136

『名刀 その由来と伝説』(紙本)
著者:牧秀彦 発行年:2005年(平成17) 出版者:光文社
目次:武将・大名の名刀 一期一振
ページ数:119

『図解 武将・剣豪と日本刀 新装版』(紙本)
著者:日本武具研究界 発行年:2011年(平成23年) 出版者:笠倉出版社
目次:第3章 武将・剣豪たちと名刀 豊臣秀吉と一期一振
ページ数:168~171

『日本刀図鑑: 世界に誇る日本の名刀270振り』(紙本)
発行年:2015年(平成27) 出版者:宝島社
目次:一期一振
ページ数:17

『刀剣目録』(紙本)
著者:小和田康経 発行年:2015年(平成27) 出版者:新紀元社
目次:≪第二章 鎌倉時代≫ 山城国粟田口 吉光 一期一振藤四郎
ページ数:88、89

『物語で読む日本の刀剣150』(紙本)
著者:かゆみ歴史編集部(イースト新書) 発行年:2015年(平成27) 出版者:イースト・プレス
目次:第3章 太刀 一期一振
ページ数:58、59

『図解日本刀 英姿颯爽日本刀の来歴』(紙本)
著者:東由士 編 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:古今東西天下の名刀 一期一振
ページ数:84

『刀剣物語』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:粟田口吉光作の刀 一期一振
ページ数:106、107

『刀剣説話』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2020年(令和2) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
(『刀剣物語』発行年:2015年を加筆修正して新たに発行しなおしたもの)
目次:天皇家に伝わる御物 一期一振
ページ数:82、83

『刀剣聖地めぐり』(紙本)
発行年:2016年(平成28) 出版者:一迅社
目次:一期一振
ページ数:29