和泉守兼定

いずみのかみかねさだ

概要1 新選組副長・土方歳三の刀について

近藤勇が佐藤彦五郎(土方歳三の義兄(姉の夫))に送った手紙に登場

近藤勇が文久3年(1863)10月20日付けで土方歳三の義兄・佐藤彦五郎に送った手紙がある。
その中で土方歳三の差料は
大が二尺八寸(約84.8センチ)の「和泉守兼定」、
小は一尺九寸五分(約59.1センチ)の「堀川国広」の作と説明されている。

『新選組始末記』(データ送信)
著者:子母澤寛 発行年:1928年(昭和3) 出版者:万里閣書房
目次:四一 勇江戸入
ページ数:238 コマ数:142

和泉守を名乗った会津兼定十一代目の作

土方歳三の刀に関しては、子孫の方々が遺品として「和泉守兼定(会津兼定11代目)」の刀を保管していることから、和泉守を名乗った会津兼定十一代目(友弥兼元)だと目されている。

『新選組と刀』(紙本)
著者:伊東成郎 発行年:2016年(平成28) 出版者:河出書房新社
目次:5 土方歳三と和泉守兼定 副長が愛した会津の銘刀
ページ数:33、34

土方歳三はもう一振り和泉守兼定を持っている

『新選組と刀』によると、

二尺三寸一分六厘、「慶応三年二月 和泉守兼定」の銘がある。

1867年(慶応3)作ということは、1863年(文久3)の近藤勇の手紙に出てきた刀とは別の刀であることがわかる。

会津兼定の代数

会津兼定については初代を誰と考えるかで代数が変わるため、土方歳三の和泉守兼定は11代の作と言われたり12代の作と言われたりするのだが、実質的には同じ人物(友弥兼元)を指す。

初代 清右衛門(関住和泉守兼定(之定)の子)
2代目(初代) 孫四郎兼定
3代目(2代目) 孫一郎兼定
4代目(3代目) 孫左衛門兼定
5代目(4代目) 入道兼定
6代目(5代目) 数右衛門兼定
7代目(6代目) 近江兼定
8代目(7代目) 治太夫兼定
9代目(8代目) 近江兼定
10代目(9代目) 与惣右衛門兼定
11代目(10代目) 業蔵兼定
12代目(11代目) 友弥兼元

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5) 出版者:雄山閣
目次:かねさだ【兼定】
ページ数:2巻P24、25

上記の『日本刀大百科事典』に従うと之定の子(3代目関兼定)から12代目が会津和泉守兼定(友弥兼元)となるのだが、会津鍛冶の代数に関しては正直酔剣先生のこの説よりも之定の孫(4代目関兼定)から会津に移って11代目が友弥兼元こと会津和泉守兼定となる説の方がよく目にする。
他にも参考文献を挙げておく。

『刀剣と歴史 (556)』(雑誌・データ送信)
発行年:1987年3月(昭和62) 出版者:日本刀剣保存会
目次:会津鍛冶備考 佐藤清
ページ数:21、22 コマ数:15、16

11代(もしくは12代)友弥兼元の受領時期とのずれ

友弥兼元が和泉守を受領したのは文久3年12月4日とされる。

近藤勇の手紙の日付が同じ文久3年の10月20日なので、近藤勇の手紙に見える土方歳三佩刀は友弥兼元が和泉守を受領する前の話になってしまう。

『新選組と刀』の伊東成郎氏はこれを理解しつつも、和泉守を名乗った会津兼定が二代以外では十一代友弥兼元しかいないため、友弥兼元の刀だと判断している。

(何が言いたいかというと、11代友弥兼元の和泉守受領より近藤さんの手紙の方が日付が先なのでこの点に拘ってその時友弥兼元はまだ「和泉守兼定」ではなかったのだからこの時の和泉守兼定は「之定」だという説を唱える人もいるという話です)

これに関しては、無理してここで結論を出すよりも、文久3年10月の手紙に「和泉守兼定」が登場した頃にはまだ会津兼定11代目友弥兼元は和泉守受領前だった、これをそのまま頭に入れた方がいいと思います。

概要2 刀工・和泉守兼定(会津兼定)について

会津最後の名工・和泉守兼定(会津兼定11代目・友弥兼元)

代々刀工の家系(会津兼定)の11代目であるためか、しっかり史料が残っているようであり、どの研究書でも大体同じ略伝が書かれていて刀工の来歴としては非常に記述が安定していると思われる。

『日本刀大百科事典』が出典として参照しているだろう『古川家由来書』は素人が読む手段がなさそうだが、現在国立国会図書館デジタルコレクションで読める本の中だと、『会津若松史 第11巻』が非常に詳しい。

『会津若松史 第11巻』(データ送信)
著者:会津若松史出版委員会 編 発行年:1967年(昭和42) 出版者:会津若松市
目次:会津の刀匠 兼定 十一代
ページ数:282~284 コマ数:150、151

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5) 出版者:雄山閣
目次:かねさだ【兼定】
ページ数:2巻P25

『日本刀の歴史 新刀編』(紙本)
著者:常石英明 発行年:2016年(平成28) 出版者:金園社
目次:第3部 新々刀鍛冶の部 東北地方(東北六県) (2)新々刀の会津鍛冶 会津兼定
ページ数:347、348

1837年(天保8)生まれ

天保8年(1837)12月13日、浄光寺町一番地に生まれた。
幼名を友弥と称し、のち、27歳から清右衛門に改める。

父は会津兼定の10代目、初め業蔵、のち近江と称した業蔵兼定で、若い頃四代兼友に師事したと言われている。
嫡男友弥が和泉守を受領した文久3年(1863)12月頃から兼氏に改めた。

友弥は嘉永元年(1848)12歳の時、日新館書学寮に入り、嘉永三年(1850)6月学業特に進み、褒美として硯一面を賜った。
この歳から父について鍛冶の法を学んだ。

1852年(嘉永5)、16歳の時、会津藩の御用を勤める

嘉永5年(1852)16歳の時、お櫓のお手入れ見習として出仕し、同年11月武具奉行・御勘定頭・御目付立合いのもとで業を試されたが、出来がよかったので親の肩替り勤めを仰せつけられた。

嘉永7年頃から親の代作代銘がある。

安政7年(万延元年1860)から文久3年(1863)頃まで、自分の兼元銘と、親の兼定銘を刻んだものとがある。

1861年(文久1)、25歳の時退嫡、同年12月帰嫡

文久元年(1861)25歳の時、不敬の所行のあった虎という者を打ち果したので退嫡を仰せつけられたが、同年12月に帰嫡を許されている。

1863年(文久3)12月、27歳の時に和泉守を受領し、兼定と改銘

文久3年(1863)5月、清右衛門と改名。

同じく文久3年(1863)7月に上洛し、12月4日に和泉守を受領した。
京都においてもかなりの作刀がある。

『日本刀大百科事典』によると、滞洛中、中川宮の御用を承る。

この時期、友弥兼元が和泉守を受領して兼定を名乗るようになった関係で父の業蔵兼定は近江兼氏と改めた。

1864年(元治1)、蛤御門の戦に参加

元治元年(1864)、蛤御門の変には、御所警護の任についた。
慶応元年(1865)2月、会津に帰国して作刀に精励した。

1868年(慶応4)4月、会津戦争

慶応4年(明治元年、1868年)4月、命によって越後国(新潟県)観音寺村松宮雄次郎方で鍛刀するため、門人の越後加茂の兼元、同与坂兼行、京都の兼弘、会津の兼宗をつれて越後に赴いたが、間もなく、長岡に戦争が始まったので6月に帰藩した。

8月15日、家督を継いだ。

8月23日、城中から進撃に出た。

籠城中は弾丸鋳造の御用を承っている。

9月24日開城後、猪苗代に謹慎。

維新後、1869年(明治2)~1874年(明治7)まで越後で鍛刀

明治2年(1869)2月、謹慎の場所を慶山村病院に移され、3月から旧宅において内々に鍛刀を始めた。

9月、6月に誕生した松平容大(藩領を没収された前会津藩主・松平容保の長男)の御守刀を鍛えて献上した。

9月10日、父・近江兼氏(会津兼定10代目・業蔵兼定)が亡くなる。
同日、藩命により越後へ出立。

その後、明治7年(1874)9月までの5年間、越後国加茂町に居住し、その間の作刀を、世に「加茂打ち」という。

1876年(明治9)、福島県庁に奉職

明治9年(1876)、福島県に奉職。
判仕官御用掛として土木課に勤務した。

1903年(明治36)1月には東京に出る

明治36年(1903)1月15日、陸軍砲兵工廠に召出され、新設の日本刀鍛冶所で鍛刀を始めた。
同行者は11代長道、日下部重道ら。

しかし、3月28日、これからというときに急逝。

1903年(明治36)3月28日没、行年67歳

明治36年(1903)3月28日没、行年67歳。

『日本刀大百科事典』によると、墓所は会津若松市馬場本町の実相寺にあるが、「古川家累代墓」一つにまとめられてしまっているという。

作風

大刀脇指短刀等を造る。
本造り姿良く庵棟高く又真棟もある。
兼定末代中11代目が最も上手である。短刀多し。

茎は初め化生鑢筋違い突掛筋違い鑢に丸棟高く、刃上り心の栗形、剣尻。
地鉄は小杢目肌細かく約み無地の如く見える美しきもの多く、小板目肌坪立ちたるもの又地錵あるもの又柾肌の美事のものもある。
刃文は互の目乱、小乱、丁子乱、直刃、錵深き濤乱刃もある。
鋩子は直小丸返り、小模様に乱込みて返るもの等。

『新々刀大鑑』(データ送信)
著者:飯村嘉章 発行年:1966年(昭和41) 出版者:刀剣美術工芸社
目次:新々刀大鑑研究図譜(附・五十音索引) 「東山道―岩代」(十一代)和泉守兼定(安政―明治)
ページ数:88 コマ数:106

作刀は世に多く、幕末における上工であった。
『日本刀の歴史 新刀編』によれば「会津最後の名工」らしい。

銘は太く、「奥州会津住兼元」「和泉守兼定」(之定)「奥州会陽臣和泉守兼定」などと切る。

『日本刀の歴史 新刀編』(紙本)
著者:常石英明 発行年:2016年(平成28) 出版者:金園社
目次:第3部 新々刀鍛冶の部 東北地方(東北六県) (2)新々刀の会津鍛冶 会津兼定
ページ数:347、348

調査所感

・調査所感2周目と、その間のとうらぶの動きに関して

刀剣の研究史はまとめてる私の知識が増えれば増えるほど初期に出したものの理解が怪しかったり単純に誤字ってたりするのがいろいろ判明してしまったので2周目の手直しに入っています。初期に出した「あ行」の刀程がっつり調べなおさなきゃならない。

そして私が作業してる1年の間にとうらぶでは新たに新選組関連の刀剣男士として「孫六兼元」が2023年に実装されてます。

講談で斎藤一の刀として語られたエピソードのある「孫六兼元」ですが、刀剣男士としては兼元の集合体としての要素が強いように思われる。
……ってことは、同じような新選組刀も刀工名で顕現している以上、本質は刀工作の集合体なのでは? という観点が発生したため、兼元実装以後に、新選組関連刀に関しては刀工の方の情報も付け足しています。

「和泉守兼定」に関してもそういうわけで今回刀工の方の来歴を付け加えましたが、新選組関連刀に関しては他の刀がほぼみんな「創作であって史実ではなかったり、贋作だと考えられる」という扱いであるのに比べると、「土方歳三の和泉守兼定」に関しては現存する遺品からいってほぼ会津兼定11代目友弥兼元で確定なので、その辺が確定している刀に近いまとめ方となりました。

・土方歳三の和泉守兼定に関する問題

御家族・子孫が保管されていた遺品は「慶応三年二月 和泉守兼定」の銘文なので近藤さんが手紙に書いた「和泉守兼定」とは別物ですね。

そして「土方歳三の和泉守兼定」が最初に登場するのは文久3年10月20日の手紙。
しかし、その頃まだ会津兼定11代目友弥兼元は、和泉守の受領前だった。

文久3年10月には会津兼定には「和泉守兼定」を名乗れる存在はいなかったことになる。
つまりこの時期に「和泉守兼定」と呼べるのは兼定2代目で名工と名高い之定だけ。

この受領の時期を気にして、では土方歳三佩刀は二代、つまり歌仙兼定を打った刀工と同じ之定だとする説もある……のですが。

『新選組史再考と両雄刀剣談』(紙本)
著者:汐海珠里/権東品 発行年:2020年(令和2) 出版者:レクテック出版部門出版舎風狂童子

しかし、個人的にはこの権東品氏の本は検証・検討が足りないように思える。

その頃土方歳三が持っていた刀については現存しておらず、近藤勇の手紙も正確な銘文を記述したのではなく、近藤勇が認識している名前を書いたものだというのがポイントだろう。
むしろ近藤勇の虎徹自体が、近藤勇は虎徹だと思っているが贋作だと考えるのが現実的だと判断されるように、土方歳三の和泉守兼定についても友弥兼元のことだと考える方が自然ではないか。
上記の本の文中で権東品氏が挙げた根拠はこの現実性を覆すものではないと思う。

『新選組と刀』の伊東成郎氏がいうように友弥兼元だと結論するのが自然だと思われます。

・個人的に「新選組の刀」に関して思うのは

刀に関してはむしろ専門家でも「名称・呼称」に関する認識が全っ然統一されていないというのが刀剣の研究書をざっくり読んでいて思うことですね。現代人が思う名前の認識と、古来よりの刀の呼び方に関する認識って大分違うんですよ。

そして新選組の歴史に関して研究書を1冊2冊読んだだけでもわかるのは、そのぐらいの時代だとまだ手紙の内容がかなり大雑把。場合によっては自分の名前すらあてる漢字が音だけ同じ適当な字だったりする時代です。

こういう事情から考えると、手紙の中で近藤さんがそれぞれの刀をどういうものだと認識していたかが重要です。

虎徹に関しても初代だったのか2代目以降でもヨシと考えていたのかで随分と変わりますが、「和泉守兼定」や「堀川国広」に関しても本当に厳密に刀剣研究の世界でそう呼べる刀工の刀だったのかで随分変わりますよね。

近藤さんの基準が和泉守兼定の子孫である会津兼定を全部和泉守兼定だと考えているレベルだった可能性もあるし、堀川派は全部堀川国広って言ってたかもしれない。
(近藤勇に適当な嫌疑をかけていくスタイル、実際どうだったのかはわかりはしない)

土方歳三は近藤さんが文久3年の手紙に書いたものとは別物とはいえ、会津最後の名工である会津兼定の方の和泉守兼定を実際に持っていた。
堀川国広に関しては江戸時代の評価が今よりはちょっと低く感じるという江戸時代の番付に関する研究なんかがあるのと、堀川国広その人じゃなくてその弟子の作品ぐらいだと新選組の財力で購入可能なのではないか? という話が。

沖田総司の菊一文字の方で『新選組隊士遺聞』を読みましたが、土方さんが持っていた刀だと佐藤俊宣氏に贈った三代目越前康継があり、この話を聞いた子母澤寛氏が古刀の青江康次と間違えている、という話があります。

実際に新刀の葵康継(越前康継)を古刀の青江康次と、取材元じゃなくて取材した記者・作家の方で間違っている例があるわけですから、こういうパターンもっとありそうなんですよね……。
沖田総司の菊一文字も、そもそも素人が則宗の刀の見分けなんてつくわけないんだから、新刀で菊紋を切った刀のことを言っていたと考えたほうが無理のない話になりますし。

新選組に関しては大坂の刀は折れやすいからダメだと内輪で話していたよというエピソードがあり(これも近藤さんの手紙出典)、これは刀剣研究の世界の意見とも合致します。

戦のなくなった江戸時代の、特に大阪新刀は見た目が華麗な刃文を焼いた刀が流行ったけど、これは折れやすい、実用に耐えないという状況になってしまって、そのためにのちに新々刀の祖と呼ばれる水心子正秀が刀として実用に耐えうる古刀の時代に戻ろうとその製法を求めて動き出すわけで。

新選組のイメージに関しては解釈する側、創作する側の史料証言受け取り間違いが結構多いなーって感じです。

だからもしかしたら、新選組当人たち自体は呼称に関する認識が緩かっただけで、その当時できっちり実戦に耐えうる当時の名工クラスの刀を堅実に選んでいたんじゃないかって気がするんですよね。

まぁこれも結局は想像でしかないんですが。

・ところで改めて調べた会津最後の名工・和泉守兼定(会津兼定11代目・友弥兼元)の略伝がドラマティック

何この人、ドラマの主人公か何か??

刀剣に関してはみんなすーぐ古刀の名刀の方が価値があると思って古刀とその刀工ばっかり推すー。
けど明治維新頃、戊辰戦争真っただ中の会津で若松城で弾丸鋳造とか色々やりながらも生涯刀を作り続けた友弥兼元自身の人生がめっちゃドラマチックなんですが。

新々刀の刀匠は調べてるとみんな結構ドラマティックな人生生きててかなり面白かったりする。

こういう面白さの方をもっと推していきたい気もする。

参考文献

土方歳三佩刀・和泉守兼定関連

『新選組始末記』(データ送信)
著者:子母澤寛 発行年:1928年(昭和3) 出版者:万里閣書房
目次:四一 勇江戸入
ページ数:238 コマ数:142

「刀剣と歴史 (431)」(雑誌・データ送信)
発行年:1966年(昭和41)5月 出版者:日本刀剣保存会
目次:幕末志士と佩刀 / 長野桜岳
ページ数:43 コマ数:26

『幕末志士愛刀物語 (物語歴史文庫 ; 17) 』(データ送信)
著者:長野桜岳 発行年:1971年(昭和46) 出版者:雄山閣出版
目次:幕府附属隊士と佩刀 近藤勇ほか隊士の刀
ページ数:176、177 コマ数:94

「刀剣と歴史 (499)」(雑誌・データ送信)
発行年:1977年(昭和52)9月 出版者:日本刀剣保存会
目次:近藤勇の帯刀(補考) / 浦郷喜久男
ページ数:56~59 コマ数:33、34

『刀剣と歴史 (556)』(雑誌・データ送信)
発行年:1987年3月(昭和64) 出版者:日本刀剣保存会
目次:会津鍛冶備考 佐藤清
ページ数:21、22 コマ数:15、16

「刀剣と歴史 (532)」(雑誌・データ送信)
発行年:1983年3月(昭和58) 出版者:日本刀剣保存会
目次:会津藩の変遷とその刀工達 / 三嶋青山
ページ数:28~31 コマ数:19、20

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5) 出版者:雄山閣
目次:ひじかたとしぞうのかたな【土方歳三の刀】
ページ数:4巻P238、239

『日本刀物語』(紙本)
著者:杉浦良幸 発行年:2009年(平成21) 出版者:里文出版
目次:Ⅱ 名刀の生きた歴史 2 剣豪と刀 新選組と刀 土方歳三の刀
ページ数:76、77

『新選組と刀』(紙本)
著者:伊東成郎 発行年:2016年(平成28) 出版者:河出書房新社
目次:5 土方歳三と和泉守兼定 副長が愛した会津の銘刀
ページ数:33、34

刀工・和泉守兼定(会津兼定11代目・友弥兼元)関連

『会津史談会叢書 第12集-第17集』(データ送信)
発行年:1953年(昭和28) 出版者:会津史談会
目次:兼定 十一代
ページ数:11~13 コマ数:8、9

『新々刀大鑑』(データ送信)
著者:飯村嘉章 発行年:1966年(昭和41) 出版者:刀剣美術工芸社
目次:新々刀大鑑研究図譜(附・五十音索引) 「東山道―岩代」(十一代)和泉守兼定(安政―明治)
ページ数:88 コマ数:106

『会津若松史 第11巻』(データ送信)
著者:会津若松史出版委員会 編 発行年:1967年(昭和42) 出版者:会津若松市
目次:会津の刀匠 兼定 十一代
ページ数:282~284 コマ数:150、151

『刀剣と歴史 (556)』(雑誌・データ送信)
発行年:1987年3月(昭和62) 出版者:日本刀剣保存会
目次:会津鍛冶備考 佐藤清
ページ数:21、22 コマ数:15、16

「刀剣と歴史 (567)」(雑誌・データ送信)
発行年:1989年1月(平成1) 出版者:日本刀剣保存会
目次:会津兼定補筆 / 佐藤清
ページ数:45、46 コマ数:27、28

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5) 出版者:雄山閣
目次:かねさだ【兼定】
ページ数:2巻P24、25

『日本刀の歴史 新刀編』(紙本)
著者:常石英明 発行年:2016年(平成28) 出版者:金園社
目次:第3部 新々刀鍛冶の部 東北地方(東北六県) (2)新々刀の会津鍛冶 会津兼定
ページ数:347、348

概説書

『剣技・剣術三 名刀伝』(紙本)
著者:牧秀彦 発行年:2002年(平成14) 出版者:新紀元社
目次:第五章 幕末の志士 土方歳三の歴代愛刀
ページ数:260、261

『図解 武将・剣豪と日本刀 新装版』(紙本)
著者:日本武具研究界 発行年:2011年(平成23年) 出版者:笠倉出版社
目次:第3章 武将・剣豪たちと名刀 土方歳三と和泉守兼定
ページ数:184、185

『日本刀図鑑: 世界に誇る日本の名刀270振り』(紙本)
発行年:2015年(平成27) 出版者:宝島社
目次:和泉守兼定
ページ数:109

『刀剣目録』(紙本)
著者:小和田康経 発行年:2015年(平成27) 出版者:新紀元社
目次:≪第四章 安土桃山・江戸時代≫ 陸奥国会津 兼定 和泉守兼定
ページ数:331

『物語で読む日本の刀剣150』(紙本)
著者:かゆみ歴史編集部(イースト新書) 発行年:2015年(平成27) 出版者:イースト・プレス
目次:第5章 打刀 和泉守兼定
ページ数:108、109

『図解日本刀 英姿颯爽日本刀の来歴』(紙本)
著者:東由士 編 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:古今東西天下の名刀 和泉守兼定
ページ数:87

『刀剣物語』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:名刀の逸話 和泉守兼定
ページ数:222、223

『刀剣説話』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2020年(令和2) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
(『刀剣物語』発行年:2015年を加筆修正して新たに発行しなおしたもの)
目次:江戸・幕末の名刀 和泉守兼定
ページ数:202、203

『刀剣聖地めぐり』(紙本)
発行年:2016年(平成28) 出版者:一迅社
目次:和泉守兼定
ページ数:52