歌仙兼定

かせんかねさだ

概要

「刀 銘 濃州関住兼定作」

室町時代の関の刀工・和泉守兼定作。
「定」の字を「ウ冠の下に之」と切った和泉守兼定は「之定」とも呼ばれる。

銘「濃州関住兼定作」(定はウ冠に之)。

細川忠興入道三斎の差料。

『肥後金工大鑑』によると『肥後刀装録』に
細川忠興が八代城に引退していた頃、当主忠利の側近の奸臣を八代城に呼び寄せことごとくその首をはねた。
その数が三十六人に上ったところから、三十六歌仙に因んで、歌仙と名付けた。
という、伝説が紹介されている。

しかしこの記録は「細川五代年譜」『細川忠興公御年譜』などには存在しない。

1644年(正保1)、細川忠興の四男・立孝に伝えられる。
1645年(正保2)、細川立孝が病死したため細川光尚に遺物として進められる。

細川家五代綱利のとき、家老・柏原要人定常が拝領し、明治30年頃まで、柏原家に伝来していた。
柏原家を出た後転々としていたが、昭和の初めに細川家に復帰した。

現在も細川家伝来の美術品・歴史資料などを収蔵・展示する「永青文庫」の所蔵。

拵えが「歌仙拵」と呼ばれて有名。

細川忠興が息子の家臣を36人斬り殺したという逸話を持つ

細川忠興が八代城に引退していた頃、当主忠利の側近の奸臣を八代城に呼び寄せことごとくその首をはねた。
その数が三十六人に上ったところから、三十六歌仙に因んで、歌仙と名付けた、という。

『日本刀大百科事典』『肥後金工大鑑』などによると出典は『肥後刀装録』。
『肥後刀装録』を直接読むのは難しいが、『肥後金工大鑑』や寒山先生の『武将と名刀』などに内容が引用されているので孫引きでなら確認できる。

『武将と名刀』(データ送信)
著者:佐藤寒山 発行年:1964年(昭和39) 出版者:人物往来社
目次:細川三斉の信長及び兼定 コマ数:94

「寛永年間、三斎公八代城ニ隠退ノ際、当主忠利公、肥後国施政上ニ関シテ、老公ノ意ニ適セズ。其側近ノ奸臣ヲ八代城ニ召致シテ、悉ク其首ヲ刎ラレ、其数三十六人ニ及ビ、則チ止ム。其後、国政大イニ革マリ、仁恵領土ニ霑ヒタリト云フ。因テ三十六歌仙ニ做ヒ、此号アリ」

36人殺しの逸話は創作か?

歌仙兼定には基本的にどの本でも号の由来として説明される36人殺しの逸話が存在するが、この事件が細川家の記録には残っていないという。

36人も殺すような大きな事件が幕府の耳に入らないものか、そもそも忠興の三男忠利にしてもそのような奸臣を近づけることはないのでは、など様々な理由からこの逸話は史実とは考えにくい。

したがって、『肥後金工大鑑』では「歌仙」の号は何か別の理由での命名ではないかと検討されている。

『肥後金工大鑑』(データ送信)
著者:佐藤寒山、本間薫山、加島進編 発行年:1964年(昭和39) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:五 肥後の刀装 (三)歌仙拵
ページ数:115、116 コマ数:74~75

(三)歌仙拵

和泉守兼定の刀につけられた拵に歌仙拵えがある。伝説によれば、三斎、八代城に隠退の時に、「忠利公、肥後国施政上ニ関シテ、老公ノ意ニ適セズ、其ノ側近ノ奸臣ヲ八代城ニ召致シ、悉ク其ノ首ヲ刎ネラレ、其ノ数三十六人ニ及ビ則チ止む、ソノ後、国政大イニ革マリ、仁恵領土ニ霑ヒタリト云フ。因ッテ三十六歌仙ニ做ヒ、此ノ号アリ。此ノ拵ハ頭ニ四分一ノ平山道ノ深彫リ、縁ハ古革包ミ、鐔ハ正阿弥作ノ影蝶透シ、目貫ハ金ノ鉈豆、鐺ハ鉄の泥摺ヲ用ヒ、柄ハ燻革巻キ、鞘ハ鮫ノ腰刻ミナリ。此ノ刀ハ細川五代綱利公ヨリ、寵臣柏原定常ニ賜ハリシガ、明治三十年頃、同家ヨリ所々ニ転ジテ、最近細川子爵家ニ復帰ス」と肥後刀装録は述べている。
この伝説中に見る三十六人の首は、則ちこの兼定の作によって切られたことになる。しかし、この伝説は、伝説としては面白いが、政治上の粛正としては酷に過ぎることであり、一代の風雅人であり、優れた武将でもあり、且つは政治的手腕もなみなみならぬものがあった三斎忠興の行為としては受取りにくい。又二代忠利も名君の誉れがあり、それ程までに奸臣を近付けていたとは思われない。
歌仙といっても必ずしも三十六歌仙には限らず、十六歌仙もあり、六歌仙もある。例えば粛正があったにしても、三十六人は多すぎる。
恐らく六人位のところではなかったろうか。しかし、この事実は、「細川五代年譜」にも所載がない。これに就いて、村上説は「家臣を多数手討にしたことの御家の不名誉をかくすために、幕府への聞えもどうか」ということで、わざと逸しているものであろうかどうかと疑っているが、恐らくこれ程の事が例えば藩ではひた隠しにしたにしても、忽ち幕府に聞えることは当然で、御家の不始末として糾弾されることは勿論であろう。
以上のことから考えても恐らく他の理由による命名ではなかったろうか。

1644年(正保1)、細川忠興の四男・立孝に伝えられる

『肥後金工大鑑』によると、
正保元年(1644)、細川忠興の四男・立孝に伝えられる。

細川忠興の四男、細川立孝。
この立孝の子孫が現在の細川家に繋がっている。

『肥後金工大鑑』(データ送信)
著者:佐藤寒山、本間薫山、加島進編 発行年:1964年(昭和39) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:五 肥後の刀装 (三)歌仙拵
ページ数:115、116 コマ数:74~75

同書「忠興公御年譜」の最後に「御家名物の大概」の一項があって、それには彫貫盛光、清水藤四郎、無銘藤四郎等の名物をかかげ、その中に、一、和泉守(兼定作・歌仙拵の中身のことと解される)「従三斎公、細川中務殿へ被遣候。中務殿遺物、光尚公へ御進上。」(三斎公ヨリ、細川中務殿へ遣ハサレ候。中務殿遺物トシテ光尚公へ御進上)とある。

1645年(正保2)、細川立孝が病死したため細川光尚に遺物として進められる

『肥後金工大鑑』によると、
正保2年(1645)、細川立孝が病死したため3代肥後守・細川光尚に遺物として進められた。

細川光尚は細川忠利の長男。細川家3代目にして熊本藩2代藩主。

細川家5代綱利のとき、家老・柏原要人定常が拝領

『肥後金工大鑑』内の『肥後刀装録』引用文によると、

細川家の五代綱利の時代に、寵臣の柏原定常が拝領した。
以後明治30年頃まで柏原家に伝来した。

柏原家を出たあと転々としていたが、昭和の初めに細川家に復帰

『肥後金工大鑑』内の『肥後刀装録』引用文によると、
柏原家を出たあと転々としていたが、昭和の初めに細川子爵家に復帰した。

昭和4年の「日本名宝展覧会」ではすでに細川護立侯爵家蔵。

『日本名宝物語 第2輯』
著者:読売新聞社 編 発行年:1930年(昭和5) 出版者:誠文堂
目次:名刀関兼定 侯爵 細川護立家所蔵
ページ数:158~162 コマ数:90~92

現在は「永青文庫」蔵

昭和に復帰してから現在まで、旧熊本藩主細川家伝来の美術品・歴史資料などを収蔵・展示する「永青文庫」の所蔵。

『歌仙兼定登場』(紙本)
著者:永青文庫/編集・執筆 発行年:2016年(平成28) 出版者:永青文庫
ページ数:8~13、38~41、52、53

作風

刃長一尺九寸九分五輪(約60.5センチ)。
地鉄は板目やや肌立ち、刃文は小彎れに五の目交じり。
鋩子は丸く長く返る。

茎はうぶ。
「濃州関住兼定作」(定はうかんむりに之)と在銘。

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:かせんかねさだ【歌仙兼定】
ページ数:1巻P287

外装 「歌仙拵え」と呼ばれる有名な拵

歌仙兼定の打刀拵えは肥後拵の一典型として有名。

柄頭は四分の一に山道の彫り。
縁は青革着せ。
目貫は金の鉈豆。
柄は黒塗り鮫をきせ、ふすべ革で巻く。
鐔は正阿弥作の鉄鐔に影蝶透し。
鞘は鮫鞘で、中央近くまで印籠刻みとなる。
栗形と返りは黒塗りの角。
下緒は金茶色の平組み緒をつける。

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:かせんごしらえ【歌仙拵】
ページ数:1巻P287

調査所感

・歌仙の号はおそらく創作

考察の方で結構言及したので簡単に。

『肥後金工録』(著者:長屋重名 発行年:1902年(明治35年) 出版者:吉川半七)

43コマ
刀関兼定ノ作其歌仙ト号スル所以ハ略ス

デジコレだとこの明治35年の『肥後金工録』の時点で少なくとも歌仙という号が知られていますが、号の由来は略されています。

昭和5年の『日本名宝物語 第2輯』辺りだとすでに歌仙兼定は逸話と共に有名なことが伺えます。

そして昭和39年の『肥後金工大鑑』になると、寒山先生がこの逸話は何か他の理由による命名ではないか、と創作の可能性について検討しています。

ただその寒山先生も『武将と名刀』みたいな割と一般向けっぽい本では逸話の内容といくつか異説を紹介しつつも、創作なんじゃないかとは言っていない感じですかね。

それと酔剣先生側の意見ですが、歌仙に関してはこう言ってます。

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:かせんかねさだ【歌仙兼定】 ページ数:1巻P287

その斬られたのはスパイだったとか、三斎が京都にいた若い頃、無頼の徒三十六人を斬ったから、などと異説もあるが、前説が熊本に伝わった由来であるから、正しいと見るべきである。ただし、『細川忠興公御年譜』に、この御手討ちの記事が見当たらないのは、残酷すぎる話だからか――。

酔剣先生の出典は『肥後金工大鑑』なので、そこで挙げられた仮説をまとめた形ですね。

『忠興公御年譜』とか細川家関連の史料はデジコレだと読めなさそうですね。残念。

・「歌仙拵」が有名

歌仙拵と呼ばれる拵が有名な刀、というかそもそも歌仙拵が有名でその中の刀という扱いが昭和の刀剣書に散見されます。

もしかしたら歌仙拵の方で探って行った方が情報あるかも?

参考文献

『肥後金工録』
著者:長屋重名 発行年:明35.10 出版者:吉川半七
目次:附録
コマ数:43

『日本名宝物語 第2輯』
著者:読売新聞社 編 発行年:1930年(昭和5) 出版者:誠文堂
目次:名刀関兼定 侯爵 細川護立家所蔵
ページ数:158~162 コマ数:90~92

『日本刀講座 第6巻 (刀剣鑑定・古刀)』(データ送信)
著者:雄山閣 編 発行年:1934年(昭和9) 出版者:雄山閣
目次:六 兼定と兼元・兼吉
ページ数:55、56 コマ数:213、214

『日本刀大観 下巻』
著者:本阿弥光遜 発行年:1942年(昭和17) 出版者:日本刀研究会
目次:第三章 各國刀匠の略歴と其の掟と特徴 第一 古刀の部
ページ数:301 コマ数:125

『刀剣要覧 2版』(データ送信)
著者:飯村嘉章 発行年:1959年(昭和34) 出版者:刀剣美術工芸社
目次:肥後刀剣名物拵に付て
ページ数:317 コマ数:170

『肥後金工大鑑』(データ送信)
著者:佐藤寒山、本間薫山、加島進編 発行年:1964年(昭和39) 出版者:日本美術刀剣保存協会
目次:(三)歌仙拵
ページ数:115、116 コマ数:74~75

『武将と名刀』(データ送信)
著者:佐藤寒山 発行年:1964年(昭和39) 出版者:人物往来社
目次:細川三斉の信長及び兼定
ページ数:176~180 コマ数:93~95

『日本刀全集 第1巻』(データ送信)
発行年:1966年(昭和41) 出版者:徳間書店
目次:武将と刀剣 沼田鎌次
ページ数:205 コマ数:106

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:かせんかねさだ【歌仙兼定】 ページ数:1巻P287
目次:かせんごしらえ【歌仙拵】 ページ数:1巻P287

『日本刀物語』(紙本)
著者:杉浦良幸 発行年:2009年(平成21) 出版者:里文出版
目次:Ⅱ 名刀の生きた歴史 1 武将と日本刀 細川藤孝・忠興親子と刀剣
ページ数:56~58

『歌仙兼定登場』(紙本)
著者:永青文庫/編集・執筆 発行年:2016年(平成28) 出版者:永青文庫
ページ数:8~13、38~41、52、53

概説書

『図解 武将・剣豪と日本刀 新装版』(紙本)
著者:日本武具研究界 発行年:2011年(平成23年) 出版者:笠倉出版社
目次:第3章 武将・剣豪たちと名刀 細川忠興と歌仙兼定
ページ数:126、127

『日本刀図鑑: 世界に誇る日本の名刀270振り』(紙本)
発行年:2015年(平成27) 出版者:宝島社
目次:歌仙兼定
ページ数:20

『刀剣目録』(紙本)
著者:小和田康経 発行年:2015年(平成27) 出版者:新紀元社
目次:≪第三章 南北朝・室町時代≫ 美濃国関 兼定 歌仙兼定
ページ数:306

『物語で読む日本の刀剣150』(紙本)
著者:かゆみ歴史編集部(イースト新書) 発行年:2015年(平成27) 出版者:イースト・プレス
目次:第5章 打刀 歌仙兼定
ページ数:116、117

『図解日本刀 英姿颯爽日本刀の来歴』(紙本)
著者:東由士 編 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:古今東西天下の名刀 歌仙兼定
ページ数:82

『刀剣物語』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:名刀の逸話 歌仙兼定
ページ数:220、221

『刀剣説話』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2020年(令和2) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
(『刀剣物語』発行年:2015年を加筆修正して新たに発行しなおしたもの)
目次:戦国大名が所有した刀 歌仙兼定
ページ数:144、145

『刀剣聖地めぐり』(紙本)
発行年:2016年(平成28) 出版者:一迅社
目次:歌仙兼定
ページ数:56