加州清光

かしゅうきよみつ

概要1 沖田総司佩刀・加州清光説について

池田屋事件で使われた沖田総司佩刀、鋩子折れの刀

近藤勇が池田屋事件の後、養父・周斎ほかに当てた手紙に池田屋事件で使用した刀のことが書かれている。

『新選組始末記』をはじめとする様々な資料に引用されているが、沖田総司の佩刀に関しては「帽子折れ」とだけ書かれ、製作者などの情報はまったく判明していない。

下拙僅々人数引連出で、出口に固めさせ、打込候もの、拙者始沖田、永倉、藤堂、倅周平(今年十七歳)、右五人に御座候。
一時余の間、永倉新八の刀は折れ、沖田総司刀の帽子折れ、藤堂平助刀は刃切出ささらの如く、倅周平は槍を斬折られ、下拙刀は、虎徹故に哉、無事に御座候

『新選組始末記』だと下記のページで読める。

『新選組始末記』(データ送信)
著者:子母澤寛 発行年:1928年(昭和3) 出版者:万里閣書房
目次:三七 池田屋事変
ページ数:178 コマ数:111

沖田総司の佩刀に関する創作と研究、大和守安定

藤島一虎氏の小説『剣豪風雲録』では沖田総司の佩刀は大和守安定となっている。
また、それを長野桜岳氏が雑誌「刀剣と歴史」に発表している。

この内容は次項の『定本 沖田総司おもかげ抄』を参考にしているが、時系列的にこちらの発表が先なのでここで一度整理する。

「刀剣と歴史 (431)」(雑誌・データ送信)
発行年:1966年(昭和41)5月 出版者:日本刀剣保存会
目次:幕末志士と佩刀 / 長野桜岳
ページ数:43 コマ数:26

『剣豪風雲録』は『新選組始末記』とは違って普通の小説のようなので、そもそも史実を知りたいときの参考文献として適切ではないと考える。

また、長野桜岳氏はそれを参考に森満喜子氏に沖田総司佩刀は大和守安定と答えているが、その時に挙げた出典のうち、原田道寛先生の著書には沖田総司佩刀に関する記述がないのでそれは明確な誤りである。
(原田先生の『日本刀私談』は最近『日本刀大全』と改題して発行されたばかりなので簡単に確認できる)

長野桜岳氏は、職業が「医博」、デジコレで読める他の記事でも「酔剣兄」と書いていることから、おそらく福永酔剣先生とも面識のある愛刀家で、特に新選組のような幕末志士の佩刀に興味を持ったために本(『幕末志士愛刀物語』)を出した方と考えられる。

『定本 沖田総司おもかげ抄』での口ぶりからすると藤島一虎氏とも面識がありそうというか、藤島一虎氏がある程度調べた上で小説を書いたことを知っていそうだが確証はない。

長野桜岳氏が何故その辺りをしっかり確認とらずに幕末志士の佩刀に関する本を出したのか、森満喜子氏も何故当時その話の裏付けを取らなかったのだろうか疑問である。

どちらによせ、沖田総司佩刀が大和守安定であると言う話に確かな根拠は何もなく、むしろ出典が小説なので普通に考えれば創作と考えるしかない。

沖田総司の佩刀に関する創作と研究、菊一文字

司馬遼太郎氏の『新選組血風録』に収録された短編小説「菊一文字」にて、沖田総司佩刀は「菊一文字則宗」として説明されている。

しかし、これは沖田総司研究者の森満喜子氏が小説上での沖田総司佩刀を一文字則宗の名刀にしてほしいと頼み込んだという事情が森満喜子氏の著書で説明されている。

『新選組血風録』(紙本)
著者:司馬遼太郎、発行年:1964年(昭和39年) 出版者:中央公論社
目次:菊一文字
ページ数:594

『定本 沖田総司おもかげ抄』(紙本)
著者:森満喜子 発行年:1975年(昭和50年) 出版者:新人物往来社

P71~75

沖田の佩刀

昭和二十三年二月に、子母澤寛氏に沖田の佩刀銘についておたずねした所、早速次のような返事を戴いた。
「佩刀不明、近藤、土方のものなどよりしてまづ相当のものなりしならん」
その後、現在まで諸説が出たが、やはり子母沢氏のこの答えが正しいようである。

菊一文字説

昭和三十八年夏、立川の沖田家の当主勝芳氏におたずねしてみたところ、次のような返事を戴いた。
「菊一文字細身の作りであったと父(要)からきいています。その刀は総司の死後、どこかのお寺に奉納したということですが、そのお宮の名も場所も聞き洩らしましたので分かりません」
さらにその後、勝芳氏の次男武司氏に直接お会いした時、たずねてみたところ、
「何でも千葉の方のお宮らしいと父が言っていました。しかし、それを探し出しても長年放っておいた刀はもう鉄屑同然で、刀としての生命はすでに終わっているし、それに人を斬った刀は家に置いておくと祟りがあるともいわれているので、父は強いて探し出そうとはしないようです」
と言われた。
菊一文字という刀は福岡一文字派の刀工、則宗(鎌倉初期)が代表的なものといわれている。
「太刀姿は細身で腰反りが高く、小鋒のつまった優美な姿であり、鍜は板目肌でよく約んで地沸えがつき、乱映りが目立っている。刃文は直刃調の小乱に小丁子がまじり、古備前物に比しては特に丁子が目立つ。鋩子より直ぐに小丸尋常なものが多い。総じて古備前物に比して匂口がやや明かるい点が小差で、小沸がよくつき、足や葉がしきりに入る点は同様である。ちなみに菊一文字の称呼であるが、後鳥羽院は諸国から名工を集めて月番を定めて院中で刀剣を鍜道せしめられた。これがいわゆる御番鍜治である。則宗はこの御番鍜治であった」(佐藤貫一著『日本の刀剣』より)
菊一文字則宗は時価一億円とさえいわれている。『新選組覚え書』の「おもかげ抄」に沖田の佩刀は菊一文字、と書いたところ、刀剣に詳しい多数の方から、
「沖田程度の浪人がとても入手できる刀ではない。大名でさえ入手困難といわれ、まず城一つと交換されるほどの宝剣だ」
とう意見を戴いた。刀剣に少し詳しい人なら、それはほとんど常識であるらしい。新選組の金箱を全部はたいても、とうてい買うことは不可能である。
昭和三十八年に沖田勝芳氏から、菊一文字と教えていただいた時、私はその頃『新選組血風録』執筆中の司馬遼太郎氏にすぐこのニュースをお知らせし、せめて小説の上だけでも沖田の佩刀は、神韻渺々とした七百年昔の鎌倉時代の則宗在銘のものにしていただきたい。沖田ほどの剣士にはそれが最もふさわしいから、とお願いした。
それで同氏も、沖田が買うのではなく、刀屋の主人が沖田に無料で進呈したという形をとられたのであろう。
往々にして小説を即、史実、と思い込む人がいる。歴史小説は史実とフィクションを巧みに織り込んだ精巧な織物のようなもので、その区別はむずかしいが、フィクションはあくまでもフィクションである。
とはいえ沖田家の菊一文字説は誰もその刀を経眼した者はいないので、百パーセント否定することもできない。事実は小説より奇なり、ということもあるから、入手できるはずがなくてもどういうことからか沖田の佩刀になっていたかもしれない。
『新選組隊士遺聞』で谷春雄氏は、
「菊紋と一の字を切った新刀の山城守国清か、伊賀守金道あたりの刀のことが誤り伝えられて『菊一文字』となっているのではないだろうか」
と書いておられるが、その辺が妥当な線であろう。また同氏は、
「町田市在住の某氏が沖田総司の佩刀であったと称する栗原筑前守信秀の刀を所持しておられた。これは沖田の親類の家から出たもので少し磨き上げられており、総司が病気になってから長い刀が使えなくなり、磨き上げたものであるといわれるが、真偽のほどは分らない」と述べておられる。

森満喜子氏や司馬遼太郎氏の場合は刀剣に関する知識がないため、沖田家の当主勝芳氏から「菊一文字細身の作り」という証言を得たときにそれがどういうものなのかしっかり調査・検討していない。

菊一文字と聞いてすぐに福岡一文字派と結び付けてしまって、ほかにも「菊一文字」と呼ばれる刀があることを見落としている。

この点は刀剣の知識がある谷春雄氏にすでに指摘されている。

沖田総司佩刀、菊一文字説に関する研究者たちの懐疑

『新選組隊士遺聞』(紙本)
著者:谷春雄/林栄太郎 発行年:1973年(昭和48年) 出版者:新人物往来社

P37~39

四 沖田の佩刀

司馬遼太郎氏の『新選組血風録』および森満喜子氏の『おもかげ抄』では沖田総司の佩刀は「菊一文字」であると、菊一文字則宗説を強調されている。しかし刀について少しでも知識のある人ならば、これは主人公に名刀をもたせたがる例の小説的な傾向であることに気づくのではあるまいか。
菊一文字則宗といえば、日本全国に現存するものは、五振以上は数えられまい。筆者も刀剣が好きで、機会があればみるようつとめているが、昭和三十二、三年頃銀座三越で開催された「日枝山王展」のおり、東京日枝神社所蔵の国宝則宗を観覧し、その神秘的ともいえる体配や地鉄の美しさと、華やかな一文字丁子の刃文に心を打たれた。これが私の則宗にめぐりあったただ一度の経験である。
こころみに三鷹市竜源寺にある「金銀出入帳」の中に書いてある、新選組で購入した刀を拾ってみよう。

一、金拾六両二分 大和守刀三本(秀国)
一、金拾六両也 刀身二本 宗安
一、金拾両 岸嶋芳太郎脇差代
一、金八両 佐藤安次郎 刀代
一、金四十三両 中島渡 払 大小七本
一、金七十五両三分 刀 五本 脇差三本

以上が出入帳に記載されている刀、脇差代であるが、一振十両以上の刀は買っていない。
江戸時代に一流刀工の作った刀はその当時でも百石や二百石の武士には買うことができなかったと書いたものもある。
ところが、菊一文字則宗といえば現在では一億円以上もするといわれる刀である。武士とはいっても、足軽や御徒士の家にあるべき刀でないことはいうまでもない。
近藤勇が長曽祢虎徹、土方歳三が前述の和泉守兼定(十一代、慶応三年裏銘)である。
歳三が、佐藤俊宣に贈った刀が、三代目越前康継、近藤が池田屋事件のおり会津公から拝領した刀が三善長道であったことから考えても、あまりにも飛躍しすぎている。
また短刀説もあるが、則宗には短刀で現存するものは一振りもない。
江戸初期の名刀の価格としては、大般若長光の六百貫などがあり、名刀と名のつくものはほとんど大名家の所有であった。
子母沢寛氏が『新選組始末記』を書くために佐藤俊宣氏の談話を聞いたとき、同氏は土方歳三から贈られた越前康継の話をした。この康継は中心に徳川家から葵紋を切ることを許されていたので、俗称「葵康継」または「御紋康継」とよばれたが、子母沢氏はこの「葵康継」(江戸時代作)を「青江康次」(備中住、鎌倉初期作)と間違ってうけとり『始末記』には青江康次と記されている。
沖田の菊一文字も、菊紋と一の字を切った新刀の山城守国清か伊賀守金道あたりの刀のことが誤り伝えられて「菊一文字」となっているのではないだろうか。
また町田市の某氏が沖田総司の佩刀であったと称する、栗原筑前守信秀の刀を所蔵しておられた。これは沖田の親戚の家から出たもので少し磨上げられており、総司が病気になってから長い刀が使えなくなり磨上げたものであるといわれるが、真偽のほどはわからない。
なお沖田要氏が、「士族の家に刀が無くては」、と多くの刀を買い集めた。この話はその事実を知っている人から聞いたことも附記しておく。
以上で私の見た沖田総司を終るが、私が述べたことで、万一御迷惑をおかけすることがあったらお許し願いたい。ただ私は現存する史料にも合致せず、多くの粉飾を加えられた総司を、少しでも真実の姿にもどしてみたい気持でこの項を書いたままなのである。

以上が谷春雄氏による沖田総司佩刀・菊一文字説の検討である。

沖田総司佩刀が菊一文字であるという話は、初出が小説であることだけではなく、発表時点でろくな検討がされていないまま、それを小説上で沖田総司の身内から聞いた話として書いてしまったものが広まっている。

ただ、どちらにしろ森満喜子氏の結論は結局「沖田総司の佩刀は不明」というものなので、その結論があるからこそ過程のチェックが甘いとも考えられる。

どの研究者にしろ結局現物を見たわけでも詳細な情報を知っているわけでもなければ、何を言っても憶測にしかならない。

沖田総司佩刀に関してはこの時点(1970年代中頃)では、結論を「不明」としながらも、谷春雄氏をはじめ多くの人が「菊一文字説」を検討していた状況と言える。

沖田総司佩刀・加州清光説の誕生、「源龍斎俊永のメモ」

沖田総司佩刀・加州清光説の出典となる資料は

安本東品(権東品)氏の「新選組隊士愛刀録」(雑誌『歴史と旅』1979年)と
川西正隆氏の 「池田屋事変の新選組隊士戦刀列伝」(雑誌「歴史研究」1980年)

この二つの雑誌記事、ということになる。
この二つはデジタルコレクションでもまだ国立国会図書館内限定の記事なので、原文を読むのは面倒な部類である。
私みたいに調べ方手抜きの素人だけの意見かと思ったら、権東品氏と共同で本を出している汐海珠里氏もそのブログでなかなか原文を読むことができなかった旨を書いているので、みんなそんなものかもしれない。

ただ、新選組研究の本では「源龍斎俊永 覚え書」についてたびたび触れられているために、内容自体は比較的簡単に知ることができる。

「源龍斎俊永のメモ」に対する研究者たちの懐疑

加州清光説(というか「源龍斎俊永のメモ」)に関しては、以前から新選組研究者たちの間ではずっと否定的な見解を持たれていたようである。

私が読んだ本の中だと『新選組と刀』の伊東成郎氏は「源龍斎俊永のメモ」について検討しています。
同書の中では、釣洋一氏や菊地明氏がすでにこのメモに関して疑問を呈していることにも触れられています。

2020年、「源龍斎俊永のメモ」研究の撤回

2017年に新選組史研究家の汐海珠里氏が、ブログで加州清光説の出典である

安本東品(権東品)氏の「新選組隊士愛刀録」(雑誌『歴史と旅』1979年)と
川西正隆氏の「池田屋事変の新選組隊士戦刀列伝」(雑誌「歴史研究」1980年)

について安本東品(権東品)氏から聞いた事情を語ってくれています。

現在(2023年頭)、加州清光説(というか「源龍斎俊永のメモ」)についての詳細を把握したい場合は正直このブログを記事が一番参考になると思われます。

(『新選組史再考と両雄刀剣談』自体ではそれほど詳細が書かれていたわけではないので)

・汐海珠里氏のブログ記事(2017年2月6日)
「江戸史談会特別講演 新選組隊士愛刀録、執筆顛末1ー②」

この記事を読むと、そもそも加州清光説の出典となる「源龍斎俊永 覚え書」が史料として疑わしく、これまでにも研究者たちから疑問や否定がされてきていたこと、
近頃(2014年)の刀剣ブームで、ついに釣洋一氏が権東品氏こと安本東品氏本人にどういうことなんだと(ハガキで)尋ねたということがわかります。

加州清光説を最初にこの世に生み出したのは権東品氏、しかしその権東品氏はその後ちょこちょこ自分でこの説を否定していたそうです。

「源龍斎俊永のメモ」は子母澤寛氏の遺品の中から見つけた縁者の老人がテープに吹き込んだものであり、一度はそれを信じて発表してしまった権東品氏も後で疑問を覚えて老人に確認したけどますます疑いを深め、あれは間違いだったと思ったようです。

しかし権東品氏が「源龍斎俊永のメモ」を発表したその翌年に、権東品氏にとって大先輩にあたる川西正隆氏が似たような内容、「源龍斎俊永 覚え書」を発表した後に病気で亡くなってしまったので、後輩である権東品氏には自説をなかなか撤回できる感じではなくなってしまったと。

権東品氏は汐海珠里氏と共に2020年に『新選組史再考と両雄刀剣談』という本を出しています。
その中で改めて自らのかつての研究「新選組隊士愛刀録」を撤回しています。

調査所感1

・加州清光の話に関しては、沖田総司佩刀全般の研究史から見る必要がある

沖田総司佩刀に関しては先輩審神者の先行研究でかなりしっかりまとめているものがあるので、まずそちらを読んだ方がいいかな、と思います。

審神者のそれらの研究は2016年辺りまでのものですが、2020年に権東品氏が本を出しているので今だとそれも読めば更に情報が更新されます。

「源龍斎俊永のメモ」に関する経緯が詳しく書かれているのが、上記で紹介した2017年の汐海珠里氏のブログ記事です。

紙の本で内容をまとめたものがあればよかったんですが正直権東品氏本人のこの件についての事情説明雑じゃねーか……? という私の感想と、汐海珠里氏は著書でもご自身のブログ記事の全タイトルを紹介しているぐらいブログ記事を研究成果の一つとして扱っているようなので、ここでもブログ記事のタイトルを紹介させていただきます。

結論としては、加州清光説の根拠である「源龍斎俊永のメモ」は、発表者自身が一次史料ではなく創作だと結論づけて撤回した、ということになります。

沖田総司佩刀が加州清光だというのは史実ではなく、完全な創作である、と。

更に「菊一文字」に関しては現在でも「子母澤寛・司馬遼太郎の創作」という説明をしているサイトなどがたまにありますが、この件もすでに先輩審神者が言及していて、子母澤寛氏自身は森満喜子氏の質問に対し沖田総司の佩刀は不明と答えています。
菊一文字説の出典はあくまで司馬遼太郎氏と森満喜子氏です。

これは子母澤寛氏の『新選組始末記』が創作でありながら、一級資料という複雑な属性を持つ作品であることに加え、司馬遼太郎氏が子母澤寛氏に強く影響を受けて一部のネタの使用許可をもらったというような両者の関係性が混ざり合って生まれたものと考えられます。

(新選組研究を考えるときはこの子母澤寛氏とその著作の背景が重要です。
子母澤寛氏は祖父が彰義隊の一員であり賊軍とされてしまったため、その祖父への想いから、新選組などの話を旧幕臣に実際に取材して『新選組始末記』等を書き上げた。そのため『新選組始末記』はただの小説ではなく、これ自体が幕末の一級資料として扱われている……と、この辺りはネットでも新選組関連の本でも調べられる話です。)

しかし実際には純粋に子母澤寛氏の創作とみなされるべきは加州清光の方で、菊一文字則宗は創作ながら、「菊一文字細身の作り」の刀として沖田総司の姉の孫、曾孫から得た証言が下敷きにあるので、その辺を無視するわけにもいきません。

権東品氏の研究の撤回は2020年なのでとうらぶ開始後にはなりますが、それこそゲーム開始当初の2015年辺りの審神者のツイートですでに「加州清光も子母澤寛の創作」という内容が見受けられましたので、新選組研究の中での加州清光はすでに否定的な見方をされていた、新選組関係の本の読者もそう認識していたと考えられます。

加州について考えるときはここからがスタートです。

つまり、なんかもう色々混ざってるところからスタートな! と。

・菊紋と一を切る刀工は複数、菊紋だけならもっと多数

少し新刀の菊紋を切る刀について補足しますと、沖田総司佩刀に関しては

菊一文字というのは菊紋を彫る山城守国清や伊賀守金道辺りの刀のことが誤り伝えられたのではないか?

ということを上の引用でも紹介した谷春雄氏が言っていて、昔の審神者のツイートとかだとこれを参考に菊一文字として山城守国清を想定するとかそういう呟きが引っかかることもあるんですが。

山城守国清と言っても、この名を名乗る刀工は一人ではありません。

堀川国広の弟子であった初代から、四代くらいまで知られていて二代目から菊紋と一を切っています。菊紋と一を切る山城守国清とだけ言うとその時点で候補が三人もいます。

さらに三品派の伊賀守金道ですが、こちらも伊賀守金道だけでなく三品派の刀工のほとんどが一はともかく菊紋を切る刀工です。新刀研究の京物の本とか読むとずらっと菊紋の彫られた刀の茎が並んでいるのを見ることができます。

つまり、新刀で菊紋と一を切る刀工もいれば、菊紋(と普通に銘文)だけを切る刀工も大量(数十人)にいるので、それだけでは到底一人に絞り切れません。

刀は同名異物、刀工の同名異人や改名などの話題が常に付きまとうので、気軽にこれは絶対にこれ、と言いにくい世界だというのを基本的に気を付けた方がいいってことなんでしょうね。

・追記 ゲームの方の進展による前提の見直し

とうらぶのゲームの方で新選組の記憶があるけど自分の意志でどの使い手も選ばない(集合体要素を重視している)孫六兼元が実装されたのを切っ掛けに、他の刀工名で顕現している刀ももしかして集合体が特定の使い手を自分で重視しているだけの存在として定義を見直した方がいいのでは? という前提の見直しを入れることにしました。

したがって、あくまで沖田総司佩刀が加州清光であるという説はそもそも出発時点で根拠薄弱、現在では発表者が直々に撤回、まず史実ではないだろう、ということをきちんと確認した上で、そもそも加州が刀工・加州清光の集合体だった場合のために刀工の略伝も調べておくことにします。

参考サイト

権東品氏と共同で『新選組史再考と両雄刀剣談』を出版した研究者・汐海珠里氏のブログ記事。

「江戸史談会特別講演 新選組隊士愛刀録、執筆顛末1ー②」(2017年2月6日の記事)

参考文献1

『新選組始末記』(データ送信)
著者:子母澤寛 発行年:1928年(昭和3) 出版者:万里閣書房
目次:三七 池田屋事変
ページ数:178 コマ数:111

「刀剣と歴史 (431)」(雑誌・データ送信)
発行年:1966年(昭和41)5月 出版者:日本刀剣保存会
目次:幕末志士と佩刀 / 長野桜岳
ページ数:43 コマ数:26

『新選組血風録』(紙本)
著者:司馬遼太郎、発行年:1964年(昭和39年) 出版者:中央公論社
目次:菊一文字
(司馬遼太郎氏の本は色々な版が発行されているのでページ数は割愛)

『定本 沖田総司おもかげ抄』(紙本)
著者:森満喜子 発行年:1975年(昭和50年) 出版者:新人物往来社
目次:沖田の佩刀
ページ数:71~75

『新選組隊士遺聞』(紙本)
著者:谷春雄/林栄太郎 発行年:1973年(昭和48年) 出版者:新人物往来社
目次:四 沖田の佩刀
ページ数:37~39

「自警 60(5)」(雑誌・データ送信)
著者:警視庁警務部教養課 編 発行年:1978年5月 出版者:自警会
目次:新撰組シリーズ(2)池田屋騒動 / 赤間倭子
ページ数:165 コマ数:83

「刀剣と歴史 (532)」(雑誌・データ送信)
発行年:1983年3月(昭和58) 出版者:日本刀剣保存会
目次:会津藩の変遷とその刀工達 / 三嶋青山
ページ数:31 コマ数:20

『新選組99の謎』(電子書籍)
著者:鈴木亨 発行年:2011年 出版者:株式会社PHP研究所
(1993年発売のPHP文庫『新選組99の謎』を底本としたもの)
目次:49 沖田総司の佩刀は“菊一文字”か

(鈴木亨氏の本は内容自体はこれまでの沖田総司佩刀研究をざっくりかつ的確にまとめているので、調査をする上で最初の一冊として選ぶのにはお勧めです。ただ私が購入した電子書籍版は電子書籍にする上での入力間違いと思われる謎の誤字があちこちにあるので、できれば底本の紙本を探したほうがいいと思います。)

『新選組と刀』(紙本)
著者:伊東成郎 発行年:2016年 出版者:河出書房新社
目次:18 伝池田屋出動隊士佩刀 総員戦力リストの翳り
ページ数:117~124

『新選組史再考と両雄刀剣談』(紙本)
著者:汐海珠里/権東品 発行年:2020年(令和2) 出版者:レクテック出版部門出版舎風狂童子
目次:両雄刀剣談
ページ数:28、29

『日本刀物語』(紙本)
著者:杉浦良幸 発行年:2009年(平成21) 出版者:里文出版
目次:Ⅱ 名刀の生きた歴史 2 剣豪と刀 新選組と刀 その他の隊士の所持刀
ページ数:79

概説書

『剣技・剣術三 名刀伝』(紙本)
著者:牧秀彦 発行年:2002年(平成14) 出版者:新紀元社
目次:第五章 幕末の志士 菊一文字 沖田総司
ページ数:262~267

『刀剣目録』(紙本)
著者:小和田康経 発行年:2015年(平成27) 出版者:新紀元社
目次:≪第四章 安土桃山・江戸時代≫ 加賀国金沢 清光 加州清光
ページ数:330

『物語で読む日本の刀剣150』(紙本)
著者:かゆみ歴史編集部(イースト新書) 発行年:2015年(平成27) 出版者:イースト・プレス
目次:第5章 打刀 加州清光
ページ数:112、113

『図解日本刀 英姿颯爽日本刀の来歴』(紙本)
著者:東由士 編 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:古今東西天下の名刀 加州清光
ページ数:85

『刀剣物語』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:名刀の逸話 加州清光
ページ数:216、217

『刀剣説話』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2020年(令和2) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
(『刀剣物語』発行年:2015年を加筆修正して新たに発行しなおしたもの)
目次:江戸・幕末の名刀 加州清光
ページ数:198、199

『刀剣聖地めぐり』(紙本)
発行年:2016年(平成28) 出版者:一迅社
目次:加州清光
ページ数:56

概要2 刀工・加州清光(非人清光)について

非人清光(乞食清光)について

加州新刀の長兵衛清光の異名。乞食清光とも言う。

石川郡泉(金沢市内)に室町時代から代々、清光と名乗る刀工がいた。
非人清光はその6代目にあたるという。
(ただし刀工の代の数え方は資料によって度々異なる)

『加能郷土辞彙』によると、
金沢藩は、寛文9年(1669)の大凶作で、乞食になるものが多かったため、翌十年(1670)、窮民に粥を与えるとともに、城南の笠舞村に収容所を建て、生活できない貧民を収容した。

『日本刀大百科事典』では、
長兵衛清光が非人小屋に収容された時期については、金沢藩にも記録がなかったが、延宝(1673)年間であろう、と推測している。

『国事雑抄』によると、
清光はそこで鍛刀したので、飯米を一日に七合五勺ずつ支給された。
家族のうち、妻には二合五勺、男児には三合五勺ずつ支給された。

元禄元年(1688)には、長兵衛の子息で、次郎九郎と長右衛門の両人が収容されていた。
注文があって鍛刀する際には、末弟の太郎も手伝いをしていた。

享保五年(1720)の全国鍛冶改めのさいも、長右衛門とその子・長兵衛が、非人小屋に収容されていた。

『日本刀大百科事典』によると、
その後についての記録はないが、非人小屋から出ていたようである、とのことである。

『石川県史 第3編』
著者:石川県 [編] 発行年:1929年(昭和4) 出版者:石川県
目次:第四章 美術工藝 第五節 刀工
ページ数:915~922 コマ数:527~531

『加能郷土辞彙』
著者:日置謙 編 発行年:1942年(昭和17) 出版者:金沢文化協会
目次:キヨミツ 清光
ページ数:245 コマ数:127

『国事雑抄 上』
著者:森田柹園 [著], 日置謙 訂 発行年:1932年(昭和7) 出版者:石川県図書館協会
目次:卷二 十四 非人清光之事
ページ数:46~48 コマ数:37、38

「刀剣と歴史 (431)」(雑誌・データ送信)
発行年:1988年5月(昭和63) 出版者:日本刀剣保存会
目次:好古庵刀話(一〇六) / 今野繁雄
ページ数:16~20 コマ数:13~15

非人小屋(お救い小屋)と非人清光の評判

「非人」は差別用語とされるが、刀工・清光の異名「非人清光」は「乞食清光」とも言われるように単に「乞食」の意味合いである。

「非人」という名称は時代によってかなり指しているものが変わるため、その名で呼んでいる時の時代背景や状況は軽く確認したほうがいいようである。

加賀藩4代藩主・前田家5代の綱紀による「非人小屋」は後に「御救い小屋」と呼ばれるようになり、災害や飢饉で生活に困ったものを収容していた。

これは慈善事業の成功例として識者に賛美され、江戸時代の儒学者・荻生徂徠が「加賀候非人小屋を設けしを以て、加賀に乞食なし。真に仁政と云ふべし」と褒めたたえたという。

非人清光の話題は、この前田綱紀の名君としての事蹟、「非人小屋(御救い小屋)」の特徴や評判と結びついて語られることが多い。

『救荒要心集』
著者:東方籌 発行年:1941年(昭和16) 出版者:東方籌先生慰労会
目次:丙、 前田綱紀(松雲)の非人小屋/
ページ数:66、67 コマ数:49

播磨大掾清光との同一視と、その否定

『加州新刀集』によると、江戸時代の『新刀銘鑑』から富山の播磨大掾清光と同一視する説があったという。

『加州新刀集』は、播磨大掾清光と金沢笠舞の悲人清光は別人であるとしている。

『加州新刀集』(データ送信)
発行年:1965年(昭和40) 出版者:日本美術刀剣保存協会金沢支部
目次:第二章 各論
ページ数:12~14 コマ数:36~38

十二月清光という呼び名の否定

金沢の非人清光を富山の播磨大掾清光と同一視した上で、播磨大掾清光の「清」の字の青の部分が「十二月」と書いてあるように見えることから俗に「十二月清光」という異称を持つとされていた。

しかし、この部分も現在では否定されている。
青の部分の切り方が「十二月」に見えるのは播磨大掾清光の方の特徴のようである。

「於笠舞丸鍛作之清光」の評判

非人小屋のある笠舞の地名が入った「於笠舞丸鍛作之清光」という銘文の刀がある。

加賀前田家の5代目・綱紀が材料費を与えて刀を打たせたところ、素晴らしい業物ができたという。

「刀剣と歴史 (431)」(雑誌・データ送信)
発行年:1988年5月(昭和63) 出版者:日本刀剣保存会
目次:好古庵刀話(一〇六) / 今野繁雄
ページ数:16~20 コマ数:13~15

墓所と碑

『加州新刀集』によると、藤江氏の菩提寺である金沢市伝馬町真宗大谷派浄照寺の境内に貞享四年と刻まれた墓碑があり、長兵衛清光の墓として知られるという。

『加賀能登史蹟の散歩 : 地方史の視点』によると、昭和42年4月7日、笠舞町の非人小屋のあった付近に「非人清光の碑」が建てられた。
高さ1.5メートルの円筒形御影石の台石に直刃を形どったブロンズのモニュメントが乗っているという。

『加賀能登史蹟の散歩 : 地方史の視点』(データ送信)
著者:田中喜男 発行年:1971年(昭和46) 出版者:北国出版社
目次:非人小屋と刀匠―金沢市・笠舞台地―
ページ数:100~104 コマ数:53~55

非人清光を主人公とした文学

泉鏡花が『妖剣紀聞』という、刀工・非人清光を題材とした小説を書いているという。

『もうひとりの泉鏡花 : 視座を変えた文学論』(データ送信)
著者:蒲生欣一郎 発行年:1965年(昭和40) 出版者:東美産業企画
目次:(7) 二人の妹が他家へ養女にやられたことなど ページ数:170 コマ数:92
目次:(11) 〝部落〟をテーマの作品でも矛盾 ページ数:213 コマ数:113

調査所感2

・エピソードは語り手によって脚色があるかも

前田綱紀が庇護していたという話に関しては、どうも資料の読み方によって脚色した意見が出回っているかもしれない。
今回読んだ資料の印象と比べて審神者によるそれっぽいエピソードの説明が大分美化されている気がする……。

非人清光に限った話でもなく聞き手は話の面白い部分だけ見て自分の趣味で話を盛って語るもんですから、きちんと出典史料に言及していない話はニュアンスがたまにえらいことになってます。

笠舞で鍛えた刀の話は研究書や雑誌記事見る限り、実際にはあの銘文くらいしか情報なさそう。
刀剣の研究者は丸鍛という言葉から藩が全部材料費出してくれたんだろうと判断してる感じですね。

・小説の主人公

泉鏡花が小説に書いてる……だと!?
まぁ刀工主人公小説って伝記と違って本当に単に名前を借りただけって感じでしょうけど。

・ここまで調べておいてなんですが

とうらぶの作品そのものを調べる中で思いましたが、名前から来る言葉遊び要素が大きくて厳密に研究史に関係あるかというと微妙なところです。

「非人」という言葉の範囲に「河原者」も含まれるとはありましたが、とうらぶの加州の言う「川の下の子、河原の子」はむしろ川、下、子、河原といった言葉からの要素が中核だと思います。

自分で刀工の略伝を調べておいて全部否定していくスタイル!

まあ一度は調べないとその結果、あんまり「関係がなかった」という成果も得られませんから。

加州の台詞の根源はたぶん、刀工としての清光自体にはないと思う。
あるとしたら「非人」清光……つまり仏教由来の人外を示す意味での「非人」とかそっちの要素が大きそうなんですよね。
「物」が「鬼」のことだというのと同じで。

逆に言葉遊び以外で刀の研究史や刀工の略伝が明確に反映されているものがわかったら情報欲しいです。
どうも調べて調べて調べてわかるのは、この要素あんまり関係ないというか、話のとば口程度で核心は別だなって感じなんですよね。

参考文献2

『地方行政史料小鑑』
発行年:1910年(明治43) 出版者:内務省
目次:一六 刀工非人清光
ページ数:39 コマ数:25

『羽皐刀剣録』(データ送信)
著者:高瀬魁介 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:嵩山房
目次:加賀の非人清光
ページ数:292、293 コマ数:156

『石川県史 第3編』
著者:石川県 [編] 発行年:1929年(昭和4) 出版者:石川県
目次:第四章 美術工藝 第五節 刀工
ページ数:915~922 コマ数:527~531

『国事雑抄 上』
著者:森田柹園 [著], 日置謙 訂 発行年:1932年(昭和7) 出版者:石川県図書館協会
目次:卷二 十四 非人清光之事
ページ数:46~48 コマ数:37、38

『救荒要心集』
著者:東方籌 発行年:1941年(昭和16) 出版者:東方籌先生慰労会
目次:丙、 前田綱紀(松雲)の非人小屋/
ページ数:66、67 コマ数:49

『加能郷土辞彙』
著者:日置謙 編 発行年:1942年(昭和17) 出版者:金沢文化協会
目次:キヨミツ 清光
ページ数:245 コマ数:127

『加州新刀集』(データ送信)
発行年:1965年(昭和40) 出版者:日本美術刀剣保存協会金沢支部
目次:第二章 各論
ページ数:12~14 コマ数:36~38

『もうひとりの泉鏡花 : 視座を変えた文学論』(データ送信)
著者:蒲生欣一郎 発行年:1965年(昭和40) 出版者:東美産業企画
目次:(7) 二人の妹が他家へ養女にやられたことなど ページ数:170 コマ数:92
目次:(11) 〝部落〟をテーマの作品でも矛盾 ページ数:213 コマ数:113

『加賀能登史蹟の散歩 : 地方史の視点』(データ送信)
著者:田中喜男 発行年:1971年(昭和46) 出版者:北国出版社
目次:非人小屋と刀匠―金沢市・笠舞台地―
ページ数:100~104 コマ数:53~55

『城下町金沢 : 封建制下の都市計画と町人社会 改訂版』(データ送信)
著者:田中喜男 発行年:1983年(昭和58) 出版者:弘詢社
目次:鍛冶
ページ数:68 コマ数:44

「刀剣と歴史 (431)」(雑誌・データ送信)
発行年:1988年5月(昭和63) 出版者:日本刀剣保存会
目次:好古庵刀話(一〇六) / 今野繁雄
ページ数:16~20 コマ数:13~15

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:ひにんきよみつ【非人清光】
ページ数:4巻P250、251