斬ると食うと、呪いの話(付舞台考)
前提として予想に予想を積み立てる砂上の楼閣建設なので以前の考察の説明が必要なのですが、さすがに話が長くなってきたのでもう興味あるなら読んどいてくれよな! という方式で行きます。興味がないならわからなくても問題ねーだろ(雑)。
考察しかも予想なんて所詮一個人の妄想だぜ!
この辺りの既・弊考察を下地に考察しています。
原作ゲームを前提に舞台中心の考察です。
「花と九十九考(長義極予想)」
「慈伝 日日の葉よ散るらむ考察」
「刀剣乱舞考補足」
「「混」から「分」へ「淆」から「離」へ」
「夢語を経て慈伝再考」
「煩悩即菩提、「山姥(謡曲)」と山姥切考」
「本歌と写しの逆転考」
「山姥(謡曲)と紅葉狩(謡曲)から予想する山姥切」
1.「斬る」と「食らう」の話
肥前くんのキャラ付けである「飯は食う専門」。
公式Twitterのキャラ紹介文もしかしてめちゃくちゃ重要じゃね……? というのはこれまでにもやったんですが、「めしは食う専門」も初出ここじゃん。
岡田以蔵が特に大食いというわけでもなさそうなので、ここの由来は基本不明なんですが、維伝から綺伝まで見て、もしかしてここやここと連動した設定なのではないかと。
主へ
……すまんな。この間は動転して、要領を得ない手紙だった。
正直なところ、俺もまだ混乱しているんだ。
俺は、山姥を斬った伝説を持つ刀、山姥切の写しであって、
山姥を斬ったのは俺じゃないと記憶している。
だが、俺が会った人々は、俺が山姥を斬ったから、
そのもとになった長義の刀が山姥切と呼ばれるようになったという。
これでは、話が全く逆だ。
写しの俺が、本科の存在感を食ってしまったようなものだ。
どう、受け止めていいかわからない。(山姥切国広、修行手紙の二通目)
本歌の存在感を「食って」しまった。
さらに今回は舞台の无伝の泛塵、大千鳥の言動に着目したいと思います。
无伝における泛塵は、史実での存在が確かではない大千鳥に真田十勇士を食わせることを望んでいました。
大千鳥の研究史はすでに出してあるのでそっちを見てもらうとして(未完成だけど)。
国広の修行手紙、そして无伝の泛塵の台詞からわかるのは、「物語を食らう」というとうらぶ独自の概念の存在です。
そして「食らう」「食う」とは言うものの、もちろん相手を丸かじりしている訳ではない。
刀剣男士にとっての「食う」は、相手を「斬って」物語を奪う、相手の物語を吸収することを指し示すと考えられます。
舞台では悲伝における鵺の状態も似たようなものでした。
もっと言ってしまえば、相手の物語を奪う、吸収するとは、物語の自分への「統合」ではないか。
相手と同化、一体化することを示すと見てもいいと思います。
相手を「斬る」ことは、物語を「食らう(統合)」こと、
すなわち、相手と「一体化(同化)」することである。
舞台などの派生作品を見ていると、一つの言葉はすべて同じ意味で繋がなければならない……つまり、「比喩(メタファー)としてどの作品でも同じ役割を持っている」と考えられます。
この構造なら一つの言葉が持っている意味は原作ゲームから派生作品まで「刀剣乱舞」の名を冠する全ての作品で同一とみていいと思われます。
ただし、一つの単語に絶対的な一つの意味を当てているわけではなく、火ならば「赤」や「熱」というそのものが持つ複数の属性が当然付与され、そこに更に「仏教的意味」が付け加えられているものと思われます。
仏教的な意味、仏教的な考えとは一言で言えば「禅問答」です。
舞台は仏教思想を中心的に構成されているようです。
他の派生をちょこちょこ見てもそこは共通のようです。
特に舞台の慈伝はOPタイトルが禅の公案を用いていますので、舞台が禅の思想を含むことは確定です。
ついでに先日の「山姥(謡曲」)と「紅葉狩(謡曲)」の考察から、原作ゲームからまず仏教思想、禅の知識を要していると考えられます。
あの後ちょっと調べましたが、能や歌舞伎などそもそも日本の伝統芸能の世界は仏教思想と不可分で、かつ禅の思想はかなり影響を与えているらしいです。
能と禅に関する論文もありますし、私が今読んでいる「仏教の思想」シリーズだと仏教が芸術にどのような影響を与えているかの話題も出てきます。
文学なら『源氏物語』は「天台本覚思想」だと解説されています。
禅の公案を素人が見ても何が何だかよくわからないのは、この禅における単語の仏教的解釈ができないからだと思います。というのが最近わかってきました。
キャラソンの歌詞のようにとうらぶがメタファーを多用するのも、要はこの禅の発想と同じことのようです。
言葉はその言葉でありつつも、原作から派生まで全ての「刀剣乱舞」で共通する意味設定を持っている。
そして「食う」は「斬る」と結びついた概念だと考えられます。
「斬る(殺す)」=「食う(物語の同化、統合)」
だからこそ、「人斬りの刀」である肥前忠広が「食う専門」。
「畑当番」という、「本丸の物語を育てる」行為よりも、最も「斬る」という性質が強く打ち出された「人斬りの刀」故に、「食う」性質の強さを現しているのだと思われます。
2.「斬る」と「呪い」の話
「斬る」ことは「食らう」こと、それによって物語の統合すなわち斬った対象との「同化」を招く。
原作ゲームで特に「南泉一文字」が口にする「呪い」の正体こそ、この原理ではないか。
猫を斬ったから猫に呪われているとは。
猫を斬ったから、猫と統合した、
猫と一体化している、ということではないか。
何かを「斬った」逸話持ちの男士を振り返れば、「斬る」と「統合」の関係が浮かび上がるように思われます。
回想9で自分は何故神剣になれないのかと悩むにっかり青江は、極で幽霊との関係性の変化というか真剣必殺時にあらわになる目の色の違いなど大きな変化があります。
五匹の虎を実は追い払ってはいないと言う五虎退は、極で虎の方が五匹統合されて一匹の巨大な虎になります。
斬った対象との同化、統合。
そして「統合」の反対の概念に「分離」が存在します。
敵を「斬る」、物語を「食らう」、そこからさらに極修行による男士自身の認識の変化も物語の「統合」や「分離」であると考えるならば、それぞれの男士は修行先で己を形作る物語への認識を変化させたことに伴って「統合」と「分離」を行っていると考えていいと思います。
青江や五虎退の例を見ても男士一振り一振りで境遇は違うようですが、「呪い」という「統合」と「分離」の原則が根底にあると感じます。
燭台切や蜻蛉切が斬った対象に呪われている様子はないので置いておくとして、この話である意味一番問題なのが「山姥切」、つまり長義と国広という本歌と写しの関係性だと思います。
「呪い」は相手を「斬る」、つまり「殺す」ことで発生する対象との「同化」。
ただし斬った側が南泉のように常に「呪い」を意識しているとは限らない。
長義・国広はその南泉との回想54、55からするとどちらも自分は「呪われていない」という認識です。
ただし青江や五虎退のように、認識の「統合」と「分離」の原則は発生していると考えられます。
回想54 呪い仲間
「んぁ? なんだか呪いよりも厄介な気がするなぁ……。オレはこの呪いさえ解けりゃ、自由の身だけどよぉ……お前はどうするんだ?」
回想55 猫斬りと山姥切
「猫斬ったオレがこうなったみたいに、化け物斬ったお前は心が化け物になったってこと……にゃ!」
山姥切の二振りに対する猫に呪われた刀こと南泉の、この評価は非常に興味深い。
先日の「山姥(謡曲」と「紅葉狩(謡曲)」の考察からすると回想56、57の冒頭の長義の言動は「山姥(謡曲)」の「山姥」と重ねられるので、そうなると南泉の言う「化け物(山姥)」を斬った長義は心が「山姥」になったとの説明に大きな意味が出てきます。
謡曲における「山姥」は都で名を博した遊女「百ま山姥」にとって恐ろしい化け物であると同時に、「煩悩即菩提」を自らの舞で示す仙女的存在でもあるからです。
一方、国広への評価は長義の「化け物(山姥)になった」よりよほど深刻な「呪いよりも厄介」というものです。
先日の考察をベースに考えると、長義が「山姥」なら国広は「百ま山姥」を拒絶して維茂を捕らえようとする「鬼女(紅葉)」に転じる存在なので、南泉の評価が的を射ているような気がします。
3.「クソ」の話
これも舞台の天伝で家康様がクソクソ言っていたので気づいたのですが、もしかして「花」や「斬る」や「食う」が全て同じ意味を持っているように、「クソ」も全作品共通解釈出さなければならないのでは?
つまり、天伝で家康が言う「クソ」と長義の破壊ボイスや回想57の「クソ」は、おそらく同じ意味である。
よし! じゃあクソの話するか!(汚)
とりあえず天伝の家康の発言でまず思いついたのは「禅の公案」の話です。
『無門関』の第21則に、「雲門屎橛」という公案があります。
『無門関 : 禅の心髄』(データ送信)
著者: 発行年:1965年(昭和40) 出版者:
目次:第ニ一 雲門屎橛
ページ数:156 コマ数:87
雲門、ちなみに僧問う、如何なるか是れ仏。
門云わく、乾屎橛。
雲門というのは人名です。中国の高名な禅僧です。
その雲門さんが、「仏ってなんですか?」と問われたときに一言こう言ったのです。
「乾いたクソだ」
仏になることを目指すお坊さんとも思えない発言?
まぁ、禅って大体こんな感じなんで……。
この返答のベースにある考えは、仏というのは聖なるものだという考えの否定、人間のありのままの姿、ありのままの人生そのものが仏だという発想だと思います。
「山姥(謡曲)」における「煩悩即菩提」と同ラインの考えと思えばわかりやすいかと。
仏教は仏を目指し仏を崇めますが、同時に人間はみんな本来仏だという考えがありますので、仏をまず聖なる非常に気高いものだという考えをやめて人間や人生をそのまま見つめるところか始めよという意味かと思われます。
禅の公案は非常に難しいので私も適当言ってます。気になる方はきちんと調べてください。
「クソ」について一番シンプルに考えると、「食ったら出る」「食ったら出す」ものじゃないですか。
本当に汚い話になってきましたがそれ以上に言いようもないというか、むしろここでお上品ぶっても仕方ねーだろ!
つまり、「クソ」という言葉が示すものは「食らった後の結果」です。
ここですでに上で説明した「斬る」「食らう」「呪い(統合)」の考察に結びついてくると思います。
食べる(斬る)ことが人の人生そのものであり、刀剣男士の役割と本能であるならば、その結果である「クソ」もまた同じ。
天伝の家康は「クソ」がどうのこうの言うのと同時に、大坂の陣に対して非常に積極的に戦を望んでいる人物像でした。
作中で加州が指摘していましたが、正直スタンダードな家康像と外れた非常に珍しい「徳川家康」像だと思います。
その理由が、物語同士の食らい合いである戦、すなわち相手を斬ることによる「統合」への意欲を示すこの「クソ」という言葉だと考えられます。
とうらぶ世界は鵺関連の話題をさらっても「人間」と「刀剣男士」に表象を外した本質的な差はないようですから、刀剣男士の戦いへの意欲と、家康の戦=クソへの意欲に違いはないのだと思われます。
己の力を発揮し、己自身の物語を紡ぎあげることに対する意欲。願い。
だから天伝では家康も、そして秀頼も戦を望んでいます。
家康がクソクソ言っているのは作中でも示された「しかみ像」、三方ヶ原の戦いでの敗北によるエピソードからでしょうが、原則はやはりこれまでと同じだろうと。
天伝は戦、すなわち相手を食らう「統合」への意欲として「クソ」という言葉が使われていると考えます。
クソという言葉が示すものは、食らったあとの結果。
ではここから、長義くんの言う「クソ」について考えてみたいと思います。
破壊ボイスに関しては『無門関』的な意味でストレートにそれが仏、それが生きた証という意味でいいのかもしれませんが、問題は回想57後半だと思います。
其の57 『ふたつの山姥切』
長義「やあ、偽物くん」
国広「……写しは、偽物とは違う」
長義「俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?」
国広「……名は、俺たちの物語のひとつでしかない」
長義「……なに?」
国広「俺たちが何によって形作られたのか。それを知ることで強くもなれる。けれど、もっと大切なことがあるのだと思う……」
長義「……なにを偉そうに語ってるんだよ」
国広「お前とこうして向き合うことで、またひとつわかった気がしたんだ……」
長義「俺が居る以上、『山姥切』と認識されるべきは俺だ! お前が御託を並べようと、それは変わらない」
国広「そうかもしれない。……すまんな、俺もまだ考えている。……こうして戦いながら」
国広「……また話をしよう」
長義「…………」
長義「……くそっ……くそっくそっくそっ! なんなんだよ!」
以前の考察でやりましたが、長義と国広の関係はお互いにお互いを殺すもの、相手を食い、相手に食われた後をスタートラインとしているのではないかと思います。
それが要するに、研究史上の事実誤認と目される物語から二振りの認識が始まっているということです。
国広の逸話を見落としたことにより長義が山姥切だという号と逸話への認識が生まれた。
(子殺し、長義側が国広の逸話を食ってしまった)
国広の逸話の再発見により、長義側の号と逸話が事実誤認だと否定されることになった。
(親殺し、国広側が長義の存在感を食ってしまった)
と、いうわけで、回想57ラストの長義の台詞は、この回想が山姥切の本歌と写しの物語が相手を食らい食らわれの関係性にあることを示すものだと考えます。
「なんなんだよ!」と長義くんは言う。
でも国広のスタンスが事実誤認の方の逸話の維持である以上、その答はむしろ国広の逸話を食ってしまった長義自身の中にあるものなのではないか?
煩悩即菩提、菩提は人が皆当たり前に持ち、煩悩がなければそれに気づくことができないように。
これ、国広側を埋める次の回想の更新が非常に楽しみなネタですね。
4.「影」について、天保江戸と綺伝
大事なこと忘れていたんですが。
維伝で遡行軍打刀の姿をした山姥切国広は、綺伝では「朧なる山姥切国広」「山姥切国広の影」と黒田官兵衛(遡行軍)から呼ばれています。
「影」
ってことは原作ゲームの「特命調査 天保江戸」のこれと一緒じゃね?
天保江戸 其の16 『両国橋東詰』
源清麿「ああ、ひとりは窪田清音によく似ていた。だが亡骸も残らず影のように消えてしまった」
水心子「いや、立ち止まっては駄目だ。仕立てられた影の可能性もある」
天保江戸で登場した敵が「影」と呼ばれていました。
これは天保江戸の「窪田清音」たちと舞台の「朧なる山姥切国広」の性質が同じであることを示すのではないだろうか。
天保江戸だけ「影」と言われる理由ちょっと気になっていたんですが、朧と同じと言われるとようやく説明つきそうですね。
今現在公演中の単独行の方でもっと情報出ているかもしれませんがまだ見ていないっていうか今年はもう舞台見る気力ないよ! ということで以前の考察から行きます。
舞台の「朧なる山姥切国広」はざっくり言って、本丸の国広の感情の一部が「分離」した存在だと思われます。
原作ゲームだと極修行で前の主のことを忘れると発言する刀がいること、国広も堀川国広の傑作であることを強調しても逸話の問題を置いてくること、などから考えて刀剣男士は極修行で己の物語への認識を更新した結果、本丸の存在と秤にかけて自分の感情の一部を「捨てる」と考えられます。
この「捨てる」が具体的にどういう行動なのか、どう言い表すのが良いのかはまぁ多分単独行見ればいいんじゃねで置いといて。とりあえず今は便宜上「捨てる」という言葉をあてます。
舞台の「朧なる山姥切国広」に関してはその言動から、「三日月を取り戻したい」想いを本丸の国広が捨てた存在だと考えられます。
いくら派生ごとに性格が違うとは言っても、舞台の国広が朧のように三日月を取り戻すために遡行軍に与して歴史改変を選ぶことはまず考えられない。
けれど、「三日月を取り戻したい」気持ち自体はまず国広の中にある。国広の本音である。あの国広の中で一、二を争い本丸と天秤にかけるような重要な感情である。
だからこそ、それでも歴史改変という過ちを犯さないように自分の心の一部、すなわち半身を自分の意志で捨てるんでしょう。それがおそらく極修行だと。
原作ゲームの天保江戸の敵もこのような存在だと考えられます。
天保江戸の最終ボスは悪名高い水野忠邦。
しかし名前が判明している敵のうちの一人、刀工・清磨の剣の師匠で刀工としてのパトロンでもある「窪田清音」は、正史では水野忠邦の天保の改革(の原案)に反対して罷免された人物です。
水野忠邦との敵対関係以上に、まず性格からして汚職まみれの水野忠邦とは違うまっすぐな性格のようです。刀工としての清磨のパトロンを引き受けた辺りの事情からもそこは伺えます。
そんな彼ともう一人、最終ボス一つ前の講武所関係者はどうして放棄された天保江戸では水野忠邦に与しているのか。
それがやはり、いくら正史では己の意志を貫いて水野忠邦と敵対したとはいえ、本音ではこのまま幕府を続けたかったという思いがあるからではないでしょうか。
影はあくまで影、本人ではない。本物ではない。
けれどその想いに関しては、本人のものなのだと。
正史に存在する本当の自分から分離してしまった心。
无伝の高台院がおのれを説明した言葉と同じ、あるいは逆なのかもしれません。
本当の自分は今も京都にいて、滅びゆく豊臣の物語から目を背け続けている。
高台院が正史から目を背けて物(鬼)たる自分を生み出し、その分身が歴史の改変を防ぐために真田十勇士に戦うなと命じた彼女であるならば。
天保江戸の「窪田清音」たちは、正史で己を貫いたからこそ、捨てた「影」が放棄された世界で己の正しき決断に反する行動をとっているのかもしれない。
原作ゲームの「特命調査 天保江戸」と舞台の「朧なる山姥切国広」の性質からこういうことが考えられます。
5.分離と統合の結末
それではこれまでの考察を踏まえ、「予想」という名のネガティブシンキングタイムを始めます。
今年の8月に維伝から綺伝まで見たので、綺伝で長義が「朧なる山姥切国広」を斬ったことの意味をずっと考えていたのですが……。
上の「斬る」「食う」「呪い」の考察から言ったらなんかこう……絶望的な予想にしかならなかった。
「斬る」ことは「食らう」こと。
そして「食らう」ことは物語の「統合」を示す。
ここで一つ問題が発生する。
斬ったら統合されるというなら、刀剣男士は誰を斬っても無制限に相手の物語を自分に統合吸収できるのか?
否、多分そうではない。
无伝で泛塵はなんと言っていた?
大千鳥と真田十勇士は似ている。
統合という名の「呪い」の発生にはおそらく条件がある。
性質が似た相手でないと、本当の意味でその物語を「食らう」ことはできない。
ここで思い出されるものこそ、原作ゲームの「対大侵寇防人作戦」で登場した敵「混」の存在です。
「七星剣」とは、一振りの刀剣ではない。
定義としては刀身に北斗七星が金象嵌された上古の剣のことであり、この条件に当てはまるものはすべて「七星剣」と呼ばれる。
防人作戦の敵「混」は、複数の「七星剣」が「同じ名前」という条件で融合した存在と考えられる。
つまり、「名前」が「同じ」であることが条件の一つ。
そして名もなき真田信繁の槍の伝説から生まれた「大千鳥十文字槍」と、講談や軍記で語られた創作の物語である「真田十勇士」は、その物語の性質が似ている。
名称の相似。
性質の相似。
似ているものは間違えやすい。だからこそ似ているものは統合される。
刀剣男士はただ敵を斬るだけでも強くなり原作ゲームだと気力が回復するようですが、同じ名前の敵を斬ればさらに自分自身に統合できるのだと思います。
原作ゲームだと「錬結」と「習合」のイメージの違いかもしれません。
どんな刀剣でもいい、ステータスをアップする「錬結」。
対象と同じ刀剣によって、様々な能力を開放していく「習合」。」
この概念の戦闘における結果が、敵を屠って誉を取ると一気に回復する「気力」。
対象を斬って統合されるが、それによって己の物語が増える「呪い」。
……なのではないかと。
斬ることによる統合の原則。
その最重要条件が「似ている」こと。
同じ名前。同じ性質の物語。よく似た二つのもの。
……山姥切国広は、文化財指定名称の最後に「号山姥切」とつくように、一般的には「山姥切」と呼ばれる刀である。
一方、本作長義以下58字略も、寒山先生系列の説明により「山姥切」と呼ばれる刀である。
ふたつの山姥切。
我々が普段そのあとに長義、国広と刀工名をつけるのはただの呼び分けの都合に過ぎない。
本歌と写しの号は本来同じである。
例え過去の事実誤認を証明しても、その名ですでに語られた歴史が変わるわけではないからだ。
現に今この世の中に、長義を山姥切と呼んでいる書籍はいくらでもあるだろう。
ならば本歌と写しが斬り合えば、お互いに相手の中の「山姥切」の物語を食うことができる。
相手の存在を、斬り殺すことによって自分の糧とする。そして一つの存在になる。
……綺伝で長義くん、「朧なる山姥切国広」を斬っちゃってるじゃん!!!(叫)
朧ちゃん(長々書くのがめんどうだからってついに適当な呼び方に)って国広の心の一部だから長義くんが斬っちゃったらまずいのでは?
いや、野放しにしておくわけには行かないからそりゃ斬るしかないけど。
しかしあれによって、国広の心の一部が綺伝以降、長義に統合された扱いになるのではないだろうか。
その後は時系列不明もしくは不定の夢語ぐらいしか長義くんの出番ないからどんな影響があったかわからないけど。
とりあえずここで「長義に国広が一部統合された」ことに着目して、この先舞台のシナリオがどう進むのか考えたい。
最初は慶応甲府の後に当然来るだろう舞台の「大侵寇」の敵として朧がリターンズするのかと考えたんですが、そうでないほうがなんというかまずいし、上の斬る食らうから導き出した「統合」という呪いの原則から考えるともう一つの推測が成り立つ。
そしてそちらの推測を立てると、慈伝時点では予想不可能だったいくつかの部分が見事に埋まり、最初に想定したよりももっときちんと長義が三日月を、三日月が長義をなぞるというポジションの性質がはっきりしてきました……。
もはや私も自分の脳内組み立て、当たれば予想外せば妄想をどこから説明すればいいのかわからなくなってきたんですが。
……夢語考察の振り返りから行きましょう。
慈伝、綺伝、そして夢語。
この三作品から長義の意図、特に国広を何故「偽物」と呼ぶのかを考察すると、どうやらあの子は単純に「国広に国広自身の山姥切の名を誇ってほしい」からだという答になる。
これに関しては原作ゲームでも一応こういう結論になったし、なにより他の派生とかなり性格が違うと映画公開当時にさんざん言われていた「花丸長義」も、結局「花丸国広」に対しての不満は「周囲に認められているのにいつも俯いているのが気に食わない」という意図だったという情報が大きいと思います。
どの作品であっても、どんな性格であっても、「山姥切長義」という存在は、「山姥切国広」に自分自身を誇り、俯かず顔を上げて歩いて行ってほしいのだ。
他のどんな要素よりも、それこそが「山姥切長義」という刀剣男士の中核であると。
もうこれでファイナルアンサーしていいんじゃないですかね?
原作ゲームの回想56、57でも明らかに反論を想定してあえて喧嘩を売りに行っている言い方なので多分普通に考えればその答になるんでしょう。
とはいえ原作ゲームの情報量だけだとさすがに断定していいのか迷うところだったんですが、舞台と花丸、長義と国広の競演シーンが存在する二つの派生でどちらもその軸が動かなかったことを考えれば原作からそういう解釈をすべきものだと考えられます。
国広に、国広自身の「山姥切」の名を誇ってほしい。
いつも己の物語に、自信をもって歩んで行ってほしい。
それが何よりも、山姥切長義の願いだとしたら。
――その願いは、舞台の本丸では必ず裏切られる。
原作ゲームの回想57、国広は言う。
「……名は、俺たちの物語のひとつでしかない」
これだけでも長義には噴飯ものではありますが、舞台の国広はその部分が修行に出る前から原作と違うので、おそらく状況は更に悪化する。
普通より修行が長引いた極国広の、本丸への帰還。
原作の回想57をベースに、けれどあの舞台本丸だけのやりとりが展開する。
修行に出る前は本丸の近侍としての立場に固執していたあの国広は、おそらく修行で完全に、己の名への執着を捨ててくる。本丸を優先して。
三日月を取り戻したいという気持ちすら朧として切り離したのに、国広の性格で己の名に執着するとは思わない。
むしろ慈伝というか原作から多分そうだけど、名に関して自分は自分の名を主張しないほうが、長義に反論しないほうが円満な結末になると考えている舞台の国広はおそらく、自分の名への執着を極修行で完全に捨てる。
しかし国広が必死に出したその結論は、長義自身の思惑とは完全に逆になる。
俺は俺だ。「山姥切」の名はどうでもいい。この「本丸の物語」さえあれば。
――そう結論する国広を、長義は憎んでしまうんだろう。
軽い怒りを感じていた慈伝とは比べ物にならないレベルで、今度は心の底から本気で。
6.花は蛇になり
仏教でいうところの三心所の一つ、「慈」の裏側には三毒の一つ「瞋」がある。
「瞋」は「怒り」「憎しみ」を意味する煩悩で、象徴する動物こそが「蛇」である。
綺伝の感想すっとばしてこっちを書いてるのでいろいろ説明が性急かもしれませんが、綺伝は重要だと思います。
今現在の舞台の進捗を第二部とするならその真ん中あたりに来るだろうエピソードで、この章の中核だと思われます。
第一部を慈伝までとするなら第一部の真ん中に来るジョ伝もまた、近侍の立場に固執する国広の未熟により「身内」である山伏が弥助に殺される(刀剣破壊、ただしお守りで復活)というエピソードで重要というか、おそらく第二部のラストはこのジョ伝を踏襲して長義くん退場だと思います……ここまでは大分前から出している沈鬱な予想ですが。
構造論的には、多分綺伝のガラシャ様が歌仙を鬼と呼んだ台詞が、悲伝の三日月が国広を不如帰と呼んだ台詞をなぞると思います。
相手を自分の「〇〇」だと定めている台詞ですね。
だから第2部のラストは長義くんが綺伝のガラシャ様をなぞることになるんだろう。
対する相手のうち、彼女が本当に求めていた忠興は高山右近によって殺されてしまう。
そして彼女を斬ったのは、元主・細川忠興の刀である自分を理解した歌仙兼定。
綺伝の高山右近の言い分は国広側で言うなら研究史上の事実誤認の発覚さえなければ「山姥切長義とその写しの山姥切国広」の物語が否定されることもなかったという辺りの投影だろうという話で、綺伝は色々とめっちゃ面白いので細かく見たいところですが永遠に話が終わらなくなるのでちょっと右近様に関しては今回はカットで。
愛しているけど同時に心の底から憎む、というのが第2部の主題でしょう。
それでもやはり愛しているから……多分「山姥切」の名を捨てる国広を心から憎む長義は、それでもそんな己を律し、その感情を捨てる。
国広はただ投げやりに己の名を捨てているわけではない。
本丸を育てる近侍としての立場、この本丸で自分自身を作り上げていくことを選んだ。それだって国広自身の選択で、成長で、大事な答だ。
だから長義は、国広に自分の名に誇りを持ってもらいたいという願いを、それを選ばない国広に対する憎しみを自ら捨てる。
するとどうなるか。
悲伝で足利義輝への想いを自ら否定した三日月宗近と完全に同じことになるじゃん……。
慶応甲府の監査官、一文字則宗が「菊一文字則宗」のエピソードは創作確定にも関わらず沖田総司に思い入れを抱いて涙することを考えれば、刀剣男士にとってかつての主の重要さも明らか。
たとえ創作であっても足利義輝は三日月宗近にとっての最愛の主の一人。
その生涯が、暗殺という不幸な末路を迎えるから尚更。
三日月の本心は、どちらかと言えば悲伝の「鵺(時鳥)」こそが代弁している。
にも関わらず、三日月は足利義輝の刀として一緒に来てと願う鵺を、自分を助けてくれと誘う義輝を拒絶する。
歴史を守る、刀剣男士としての役目を貫く。
それでも己の心に嘘はつけない。
というかおじいちゃん、无伝で高台院を斬ったことでまた今度は「鬼(鬼丸さん)」を生み出してるし……。
だから多分、この流れだと長義くんが悲伝の三日月ポジションで「鵺」もとい「蛇(仮)」を生み出してしまうのではないか。
国広を心から憎み、それでもその感情を抑えようとすることによって。
そしておそらく、修行から帰ってきた国広が「蛇(仮)」を斬ってしまうのだと予想します。
悲伝で「鵺(時鳥)」を斬ったのが修行から帰ってきた長谷部・不動のコンビだったように。
しかし長谷部・不動と長義・国広の大きな違いは、敵の名が自分と「同じ」こと。
国広が生み出した「朧」は長義が斬って、長義に統合される。
長義が生み出す「蛇(仮)」は国広が斬って、国広に統合されるんだろう。
それでお互いの存在が混じってしまったことにより、三日月の刀解と同じ結末を迎えるのではないか。
時間軸を歪め、本丸を襲撃する敵を生み出した原因として、その刀を刀解する。
慈伝の鶯丸曰く、国広は「もう誰も喪うこともない」ために修行に行ってきたにも関わらず。
と、いうことで第二部で悲伝を踏襲する話のラストで長義刀解、それによって本歌への想いも本丸の仲間をこれ以上喪いたくないという想いも裏切られた国広がほぼ発狂することになるのではないかと思います。
无伝で三日月が鶴丸との話で無限に戦いが続くなら「どうすれば狂わずにいられる」というフラグ立てちゃったしね。
7.鳥は月になる
悲伝踏襲のエピソードまでは慈伝の時点でも第1部のひっくり返しから割と予想したんですが、その時わからんわからん言っていた慈伝踏襲のエピソードの予想も立てたいと思います。
長義の本音が、自分の名に、物語に自信を持ってもらいたいだということ。
斬ることで物語の統合を達成することにより、相手の想いが自分の中にあるということ。
これを考えると、慈伝で三日月の想いを国広に(行動で)教えたのが長義であるように、今度は三日月が長義の想いを(やっぱり行動で)教えるのだと思います。
薄々そうじゃないかなと思ってはいたんですが、長義くんが悲伝の三日月をほぼそのまんまなぞりそうなのでこちらもストレートに予想したいと思います。
第二部のラストエピソード、政府の刀として顕現した二振り目の三日月がさんざん国広を煽り倒して喧嘩売ってガチ勝負に持ち込むだろこれ(澄んだ目)。
長義くんが悲伝の三日月をそのままなぞるなら、じゃあ三日月も慈伝の長義くんの行動を完全にそのままなぞるよね……本丸の状況が逆というか慈伝より更に悪化して疑心暗鬼と絶望が渦巻いているとこに多分、長義くんと同じ政府の刀として二振り目の三日月がやってくるよなこれ……。
慈伝だと「刃持ちて語らおう」の台詞で国広がむしろ三日月の位置に行きましたが、次は多分三日月は長義くんの立ち位置をそのまま引き継ぐのかなこれ。
そして行動としてはガツガツ喧嘩を売っているように見えても、結局長義くんの行動ってのは国広のためと考えられるわけで、今度こそ国広はそれに気づかなければならない、という話になると推測します。
長義が国広に喧嘩を売るという行動で教えたもの、それは自分の物語を自分で示すという強さ。
近侍として本丸の物語を育てよ、お前はそれを立派に果たしているという、三日月の想い。
だったら三日月が国広に教える長義の想いは決まっている。
「山姥切」の「名」を誇れ。
本丸の物語に縋るのではなく、お前自身を、「山姥切国広」という物語を誇れ。
長義の生み出す「蛇」――「山姥」を国広が斬るのなら、そこにある想いもすでに国広に統合されているはず。
「山姥切」の名を、国広自身の存在を、歴史を、ただ誇ってほしい。
どれほど伝承の真偽が不鮮明であろうが、「山姥」を斬った刀としての輝きを示せるならば、それが「山姥切」だと。
本歌である長義の一見わかりにくいその想いを伝えてくれるのが三日月になると思います。
あの本丸にいずれ顕現するだろう二振り目の三日月は政府刀だろうという推測は慈伝の時点で出しましたが、无伝見たのでそこも掘り下げたいと思います。
无伝と綺伝で一見成立しなかったように見えるフラグに、无伝では泛塵が大千鳥に真田十勇士を食らわせるつもりだった、綺伝では長義はガラシャ様を殺す宣言をしていた、というものがあります。
Q:ところで大千鳥って真田十勇士斬ったんですか?
A:いえ、真田十勇士を撃破したのは三日月です
Q:長義ってガラシャ様斬ったんですか?
A:いえ、ガラシャ様を斬ることで救ったのは歌仙です
斬ることは統合。ただし、前提条件として名称や性質の相似を要求する。
三日月が真田十勇士の物語を食らえたか、歌仙とガラシャ様はどうかは、正直なところ微妙なラインなんですが、統合しなくても強化には繋がり、「立場の交換」つまり物語の中でのポジションの変異は引き起こされるのではないかなと思います。
長谷部と不動は悲伝で「鵺(時鳥)」を斬ったけれど、一応あれと同化した様子はない。
ただ慈伝の長谷部は他の刀が長義と国広の邂逅に関して楽観的だったのに対し、一振りだけ国広のコンプレックスを見通して言いたくても言えない感情に支配され胃を痛める立場だったことを考えると、長義くんとは別の意味で地味に三日月のポジションと交替した感があります。
三日月は一振りだけ円環の繰り返しを理解し、誰も知らないことを知って内心で苦しんでいるという立場だったので。
歌仙とガラシャ様の変更に関しては「禺伝の歌仙」を演じるのが「綺伝のガラシャ」こと七海ひろきさんだということに注目したいと思います。
円環の世界というのはすなわち仏教的な輪廻転生の世界でしょうから、その転生の中では「ガラシャ」が「歌仙」になることも、その逆もありえるということを配役そのもので示しているのではないでしょうか。
他の男士を演じた方々も、そのうちガラシャ様のように重要な人間の女性役で登場するんじゃないでしょうかねこれ。
无伝で秀頼の妻で秀忠の娘である千姫の名が出ていましたし、男士と女性という正反対の存在への輪廻転生の関係性において重要な配役のような気がします。
相手を斬ったことによる統合。
相手に斬られたことによる転生。
では真田十勇士と三日月の方はどうかと考えると、そもそも泛塵が真田十勇士を食わせようとしていた、「大千鳥」と「三日月」の顔合わせで、大千鳥が三日月を利用すると言っていたことを考えたいと思います。
大千鳥ではなく、三日月が真田十勇士を斬ったことは、ここの「三日月」と「政府刀・大千鳥」の逆転を意味するのではないかと思います。
今度は三日月が、大千鳥……「鳥」の立場になる。
今度は三日月が、泛塵、空に浮かぶ「塵」を救う立場になる。
塵は物質の最小サイズ的な存在であり、仏教では垢(穢れ)と共に煩悩の比喩でもありますが、それ故に本人にとっては大切なものとも言えます。煩悩即菩提。
禅の世界だとやはり真理とか光の比喩として一周回って大切に扱うべきもの的な存在です。
それは置いといても、鳥が形のない、でも自分にとっての大切なものつまり光を求める。
……二振り目の三日月が登場するなら、もしかして中身は「鵺(時鳥)」?
仏教のテーマ的に自分を救うのはあくまでも自分であることを考えると、三日月を救うのは三日月だろうとは思っていましたが、その内実は「三日月(鵺)」が「三日月(一振り目)」を救う構図……?
いや、でもすごい納得は行くよな。
そりゃ中身が鵺だったら国広が三日月を救いたいと思うよりよっぽど「三日月(自分自身)」を救いたいだろうよ。
とはいえ結局无伝の大千鳥も三日月を利用するどころか共闘するいい子で終わったので、第3部は国広と「三日月(鵺)」がそれぞれ己の本当の相方を取り戻すための共闘じゃないでしょうかね。
同じ名前の存在が相手を斬れば統合。
統合できない相手を斬ったならば、やはり「転生」で考えたほうが無難な気がします。
これで悲伝の三日月の「ならばあのとき俺は、足利義輝を守る刀であった」も明らかになった、か?
で、多分一振り目の方の三日月は今度は无伝のラスト通り「鬼」をやっていると。
无伝ラストの鬼丸(?)を即三日月として判断していいかはともかく、三日月自身は今度はどこかで「鬼」をやっているからそれを二振り目三日月こと「鵺」が斬れば統合完了で最初の三日月を取り戻せるということになりますね。
「花」は「憎しみ」により「蛇」となって愛する「鬼」に斬られ。
「鳥」は闇を照らす「月」となって、自分にとって本当に大切な「塵」を救うために飛び立つ。
仏教的、禅的思想では、ほんの小さな塵が積もったものこそが山であり、世界であり、宇宙そのものですから。
悲伝と慈伝を通した三日月と長義のスイッチング、そして二振り目の三日月が「鵺(時鳥)」ではないかと考えると、斬る(食らう)ことによる統合の円環という世界観の構造が更にはっきりしてきたと思います。
舞台の第2部で「長義」と「国広」が繰り広げる物語は、実は第1部で表立って描かれなかった「三日月」と「鵺」の真相と逆転だと考えられます。
己の中の煩悩を捨てたい理性と、捨てたくないという本心。
三日月の願う分離、鵺の願う統合。
愛しているから憎む、憎んでいるけど愛している。
だから斬ってほしい。それでやっと一つに戻れるからと。
斬って斬られて、統合して分離して。
円環の輪廻を幾度も転生しながら、本当の自分自身を取り戻していく。
魂の分離と統合に関しては道教辺りの考えじゃないかなーと思います。
人間の魂は魂魄、つまり陽の「魂」と陰の「魄」から成っているという考え方がありますので。
生まれ変わりはある魂と別の魂の掛け合わせだとかどうとか。
魂魄の二分割どころか四魂って概念もあるぜとかなんとか。
ただ道教の知識がまったくないのでこの辺掘り下げられないので今回はこの辺りにしておきます。
8.再び、天保江戸と綺伝の話
これまでの考察により刀剣男士の「分離」と「統合」が行為としては「斬る(殺す、食らう)」、そして認識としては原作の極修行のように知識の更新、研究史の捉えなおしから行われるという世界観が大分明らかになってきたと思います。
その件で舞台の今度は第3部をもう少し予想したいというか、時期的には第3部に入るけど内容的には第2部にあたる第3部の過去偏について考えたいと思います。
具体的に言うと、第2部の特命調査を慈伝で一応聚楽第、維伝で文久土佐、綺伝で慶長熊本、そして次の話で慶応甲府を消化するのに何故か天保江戸だけとばされたのは、第3部の過去偏でやるからではないかという予想です。
物語の構造論的な話で、綺伝(あるいはその次の禺伝も含む)がおそらく第2部の話としては中心に来るだろうという考えの延長で、どの章も真ん中辺りの話がテーマとしては最も重要ではないかという発想です。
第1部の
虚伝
義伝
ジョ伝
外伝
悲伝
慈伝
だったら中心は過去偏の「ジョ伝」と「外伝」。
第2部は
維伝
天伝
无伝
綺伝
禺伝
夢語
単独行
慶応甲府
悲伝踏襲話
慈伝踏襲話
ぐらいですかね?
真ん中と言っても戯曲本がジョ伝にプラスして外伝なので大分ずれるなこれ。
俺の真ん中の定義が大雑把すぎる……!
まぁいいや大体真ん中で。
第1部は6作品中の第3作ジョ伝+第4作の外伝が第2部のラストに移動した形だと思います。
第2部は10ぐらいで推定しますが慶応甲府からあと3作も4作もやらずにさすがに「大侵寇」相当の悲伝踏襲話が来ると思います。
そうなるとど真ん中そのものは「夢語刀宴会」と「禺伝 矛盾源氏物語」辺りですね。
夢の話と創作の世界で、国広と「三日月(鵺)」で第3部は物語出陣に伴うテーマを掘り下げるんじゃないでしょうかね。
綺伝は真ん中よりちょっと前でしたが、第1部ラストの慈伝の中心テーマはむしろ2作目の義伝の修行への送り出し踏襲だったと考えるならある意味中心の捉え方はあっているような気もします。
章立てをものすごいざっくりいうと大体全体の真ん中にその章で一番重要なテーマを置いて、そのすぐ次で次の章のテーマをやっているように見えます。
真ん中を引っ張り出して次のラストに置く構造というか……。
何を言いたいのかというと、原作ゲームの初期刀ファイブと特命調査の配置と同じ構図に見える。
国広の合戦場回想の位置が3面なのと、特命調査が第一節ではトップバッター、そして今回慶応甲府から復刻が始まることで今度はその逆転と考えられるからです。
まぁこれはざっくりとした構造の印象なので一度置いといて。
重要なのは第2部でとばされた天保江戸を第3部でこれまでの「ジョ伝」や「天伝」と「无伝」のように「過去偏」としてやる可能性について。
原作ゲームの「天保江戸」の解釈から考えると、そこから次の慶長熊本の「綺伝」に繋がると考えられます。
これ……多分、「天保江戸」の話が綺伝で長義くんが「朧なる山姥切国広」を躊躇いなく斬った理由につながるのではないかと思います。
ジョ伝は本丸発足間もない話で、国広が三日月と出会う前から、三日月が骨喰くんにお守りを渡すアシストに助けられていた話。
外伝は国広が長尾顕長にとりついた山姥を斬る話。
天伝はまだ三日月がいた頃の過去偏だけど、三日月自身は出ていない。
国広は因縁の弥助と再会し、弥助が信長を救うために、命をかけても神になれない哀れな化け物を生み出したのを見送った話。
无伝は三日月が登場する過去偏。
そこで三日月にとっての本丸が永遠の戦いの中でも狂わないよすがであるほどに大切であることと、国広は近侍として立派になったという本心が明かされる話。
長義くんが慈伝で持ってきた答はある意味この无伝の三日月の想いそのものだと言える。
となれば、第2部が三日月がいなくなってから三日月の本心を明かす話であり、それが悲伝の三日月の態度に繋がっているように、
第3部の過去偏は、長義がいなくなってから長義の本心を明かす話であり、第2部ラストの長義の態度に繋がる話になるのでは?
で、第3部の過去偏としてやる可能性が一番高いのは2部でやらなかった特命調査の真ん中の話、天保江戸
原作の地域指定回想で言うなら国広だけでなく蜂須賀も3面なので法則性ないように見えますが、回想追加タイミングも踏まえると蜂須賀の登場は第二節からの回想追加のように遅れるのも計算に入れるのかなと。
天保江戸の敵はどうやら本人ではないが本人の心の一部である影のようですが、それを考えると原作ゲームの天保江戸の水心子の態度と綺伝の長義の態度の差について考える必要があります。
特命調査 天保江戸 其の74 『一縷の』
水心子「あくまで武士として、忠を尽くそうというのか」
源清麿「ここでも亡骸は残らなかったけど。どうだろうね……」
水心子「……くっ」
蜂須賀「俺たちは刀剣男士として使命を果たす」
蜂須賀「どんな想いも、力にして」
水心子「…………」
蜂須賀「それでも進んだ先でだけ、出会える答えもある」
蜂須賀「誰かを想うなら」
水心子「……ああ。私は、進む」
源清麿「水心子……」
原作ゲームの考察ですでに出しましたが、天保江戸の最終戦一つ前のボスは「講武所頭取」という役職から考えて「男谷精一郎信友」だと考えられます。
そもそも正史で講武所の設置を求めた人物で、「窪田清音」とセットで有名。
「講武所」関係者のうち一人が「窪田清音」と判明している以上、もう一人はこの「男谷信友」でほぼ確定ではないかと。
性格は人格者だったようです。剣士としてものすごく強いけど性格は良かったと。
そしてこの人物は、勝海舟の親戚でもあります。
刀工由来と名乗っている刀剣男士であっても、元の主に対しての想いがあることはすでに文久土佐で武市半平太の刀である南海先生が示しています。
水心子正秀は勝海舟の佩刀と言われているので、勝海舟の親戚である「男谷信友」のことも当然知っていると考えられます。
「あくまで武士として、忠を尽くそうというのか」
このセリフの時、水心子は元主の身内を倒して動揺があると考えられます。
そこで迷う水心子に蜂須賀が言葉をかけるのです。
「それでも進んだ先でだけ、出会える答えもある」
「誰かを想うなら」
敵は自分のよく知った相手である。
本人であれば斬りたいはずもない。そして「影」は本人ではないが、本人の面影を強く宿す、その心の一部。
けれど歴史を、正史を守るならば倒さねばならない。
それが、誰かを想って、進んだ先でだけ出会える答を求めての行為だと、そう蜂須賀は言うのです。
正史を守るために、影と呼ばれる、本人の心の一部さえを斬り捨てる。それを躊躇うな。
自らが最初に信じたこの道を進んだ先でだけ、出会える答がきっとある。
これが最重要テーマだろう天保江戸を、舞台が第3部における過去偏、長義がいた頃の本丸の話としてやるのなら、長義が綺伝で朧を躊躇いなく斬ることが出来た理由はこれになると思います。
誰かを想うなら。
――お前が帰るまであの本丸は俺が守ってやる。
あ、これ露骨に泣かせに来てるやつですね。
无伝の三日月の本心、「山姥切国広は近侍として立派になったものだ」に対応するやつでしょ。
わかりましたフェイスタオルならぬバスタオル用意して待ってます(気が早い)。
しかし構造的に見て、比喩(メタファー)的に見て、文法的に見て、仏教的に見て。
結局どの方向から考えてもさ、長義にしろ国広にしろ、三日月にしろ鵺にしろ、他の刀剣男士にしろ他の人物たちにしろ。
みんな誰かを想っているんだよ、この話。
9.「虚」と「朧」、太陽の鳥と月の蛇
「山姥(謡曲)」と「紅葉狩(謡曲)」の考察をしたときには、
原作ゲームの配役は
長義(山姥)、国広(百ま山姥)
国広(鬼女)、長義(維茂)
で考えたのでスタートは国広こそがのちに「紅葉」の名を得る鬼女だったんですが、舞台は配役が違うのでやっぱりここ逆になって長義くんが「紅葉」だよなと。
最初は朧なる山姥切国広が山姥に進化するのかなーと考えていましたが綺伝で長義くんに斬られてるじゃーん。
ということはこの章の敵は?
……悲伝の三日月の位置を完全に踏襲するなら長義くんが生み出すことになるのか……。
(どうして毎度推しに関して鬱な予想ばっかりするの)
三日月と鵺の関係を、国広と長義で再現している配置ですねたぶん。
第2部は維伝の「朧の志士たち」という言葉で始まったので、ここにまず「朧」がいます。
悲伝踏襲話で、「朧」に対応するもう一つ別の種類の敵の名が判明すると思います。
「朧」の字が「月」の「龍」で構成されていることを考えても綺伝でさんざん「蛇」を強調したことから考えてもまぁ次は多分「蛇」に関する敵。誰か格好いい蛇の名前を予想してください。
維伝に「朧」がいるということと、二振り目三日月が「鵺」になりそうだということから第1部のタイトルでちょっと考えたのですが、
大虚鳥(おほをそどり)
という言葉があります。これは「鴉の蔑称」だそうです。おおうそどり。
「虚」に「口」がつけば「嘘」だけど、なくてもこれで「おおうそどり」と読むそうです。
「虚伝 燃ゆる本能寺」から始まって「悲伝 結いの目の不如帰」で円環と逆転を繰り返す三日月の物語。
第1部は「大虚鳥(三日月)」と「鵺(時鳥)」というふたつの「不如帰」の話だったのではないかと考えます。
第2部は「朧」と「蛇に関する何か」を敵の名称として持ってくると考えられます。
「大蛇」? 「山姥」? 「真蛇」?
「朧」は「月」の「龍」ですが、それを言うなら「鴉」は「金烏」という「日に鳥がいる」という伝承がありますね。つまりカラスは「太陽」。
「太陽(三日月)」と「月(国広)」の対応です。
「鵺」が「夜の鳥」なら「蛇」は……「蛇」は……ぐぎぎ、ダメだ、調べても見つからない。
お客様の中に漢字に超詳しい審神者様はいらっしゃいませんか――!?
ちなみに蛇蛇言ってもそもそも三毒の貪の象徴は鶏なんで蛇そのものじゃなくて捻る可能性あるからめちゃくちゃ捜索範囲広いんですけどね――!!
鵺が複数の刀の逸話を持ったつぎはぎのキメラを意味する化け物なら、これまで要所要所で「酒」フラグ立てたのと、統合により全てを飲み込む化け物の意味で「蟒蛇(うわばみ)」とかどうでしょうかね。
記紀神話で言うところの八岐大蛇。
「蟒」だけでも「うわばみ」と読むようです。
「虫」に「奔」か……。
奔走の「奔」は「走る」という意味がある。
走ると言うと縁起の「起」を思い出しますね……。
どちらにしろ蛇なら「虫偏」の化け物であることはほぼ確だと思うんですが、「虫」は禅の公案だと何故か「虎」と解釈されていることがあります。
「大蟲」は「大虎」だと。なんで……?
なんでかはわからないけれど、「虫」が「虎」ならますます「走(奔)」る四つ足の獣につながり、糸とひっくり返った豚からなる「縁」という字を連想させます。うむむ。
酒豪のことを「蟒蛇(うわばみ)」と呼ぶけれど、同じく「大虎」と呼ぶこともある。
鳥の「慈悲」に続く蛇の「縁起」の話が出たところで、ついでに次回作、慶応甲府の〇伝、この字だけは勘弁して☆ 要望を出しておこうかと思います。
「絆」
放棄された世界の話は聚楽第を除いて「維伝」「綺伝」と続いているから次もまた糸偏の漢字の可能性がある。来てほしくないのは「絆」。
「糸」に「隹(鳥)」で「維」、「糸」に「奇」で「綺」、「糸」に「半」で「絆」。
「奇」しき「縁」の「糸」を喪えば、「彖」。
囲いの周辺を走る「ひっくり返った豚」。
それは己の「半身」たる「鳥」。
「鵺」、「不如帰」が完全に完成するなヨシッ!(泣)
10.刀は光そのもの
「斬る」は「殺害」
「斬る」は「食う」
「斬る」は「統合」
「斬る」は「呪い」
けれど、「愛」もまた「呪い」。
ならば斬ることは、憎しみではなくむしろ愛なのか。
そもそも「斬る」という概念は何なのか、「刀剣乱舞」はここにどんな意味を持たせているのか。
仏教的に考えてみるぜ!
「斬る」と「統合」の図式で気になったのは「紅葉狩(謡曲)」の考察なんですよね。
現在「紅葉伝説」として流布される伝承は、もともとの史料がないのでむしろ「紅葉狩(能・謡曲)」という創作が伝承を作ったという話。
「紅葉狩(謡曲)」に登場する「鬼女」自体に名前はない。
むしろ作品名が紅葉見物の意味の「紅葉狩」だったから、そこから名を取って「紅葉」という名の鬼女の伝承が存在したかのように語られているのではないか?
「鬼女」は「維茂」に「斬られる」ことによって「紅葉」という名を得た。
「斬られる」ことによって維茂の伝承と統合を果たし、一つの物語として完成したのではないか?
「斬る」ことは「統合」。
「斬る」ことは「救済」
綺伝のガラシャ様は愛する夫・忠興に「斬られる」ことをこそ望んだ。
彼にそれが出来なくなったとき、彼の刀である歌仙はガラシャのための「鬼」になることを選んだ。
それが救い。それが幸福。
あの時のガラシャに必要だった存在は、「神」よりも「鬼」なのだ。
その言葉を誰よりよく考えたからこそ、歌仙にはガラシャを救うことが、斬ることができた。
しかしそれでは、「斬る」ことを選べなかった古今と地蔵は何なのか。
彼らと歌仙にどんな違いがあったのか。
慶長熊本も原作ゲームと舞台で大分話が違うと思いますが、斬ることこそがガラシャ様を解放する救済であることは変わらないと思われます。
「斬る」とは何なのか?
仏教的に考えるなら……もしかして重要なのは「刀剣」そのもの?
『碧巌録 下 (岩波文庫) 』(データ送信)
著者:圜悟 [原著], 朝比奈宗源 訳註 発行年:1940年(昭和15) 出版者:岩波書店
目次:第一百則 巴陵吹毛劒
ページ数:395 コマ数:199
擧す、僧、巴陵に問ふ、如何なるか是れ吹毛の剣。
陵云く、珊瑚枝枝月を撐著す。
『碧巌録』の第100則に「巴陵吹毛剣」という話があります。
巴陵は雲門と同じく人名、禅僧の名前です。
そして「吹毛の剣」「吹毛剣」とは吹きかけた毛さえ斬れるような名剣の意味です。
僧は巴陵さんに聞きました。
「吹毛剣」ってなんですか。
巴陵さんは言いました。
「海底の珊瑚の枝々に、明るい月の光を宿すことだ」
……多分、仏教について全然知識がないとまったく意味わかんねーってなると思います。
ある程度知識がついてくると、こ、この巴陵和尚の返答はなんて美しいんだ……! ってなるようです。なった。
仏教において名剣・利刀、つまり刀剣は「智慧の剣」として扱われます。
「智慧の剣」は煩悩を断つ「般若(智慧)」の光そのものです。
つまり一番シンプルに突き詰めて考えると、
刀は、光そのもの。
というのが仏教的回答なのかもしれません。
真理にたどり着くことのできない愚かさ、「無明」という闇を払う「般若」こと「智慧の剣」。それは太陽や月と同じく、光そのもの。
良く斬れる刀、「名剣」とは何ですか?
――「生死即涅槃」のこの輪廻転生という暗い海底で、己の本当の美しさを知らない珊瑚の枝の一つ一つに、明るい「月の光」を宿すものだ。
だから刀で「斬る」ことが「殺害」でありながら「統合(捕食)」であり「救済」を兼ねるのは、刀そのものが「智慧(般若)」の「光」だから、ではないでしょうか。
仏教的には煩悩を己の手で断つことが「統合」という「悟り」への道のりです。
悟り、「認識の超越」こそが生死を自在にするそうです。
仏教的には統合の反対は多分分離じゃなくて「散乱」、「乱れる」ではないかと思います。
精神統一のための座禅による瞑想法の一つに「止観」というものがあって、これが出来ていない状態が心が「乱れる」です。
と、言うことは。
刀で斬ることを意味する「刀剣」は「統合」、
乱れ舞う「乱舞」は「分離」を意味するのか?
刀で斬る、戦うに対する「乱舞」、つまり「舞」、踊りや歌に関する仏教的な解釈が必要ですねこれ。
多分舞台の「斬る」「戦う」に対し「踊る」「舞う」「歌う」、そっちがミュージカル側の受け持ちだろう。
綺伝の篭手切江が戦闘中にも関わらず獅子王に「踊れますか?」という話題を振ったのと関連してくると思います。
綺伝はいずれ悲惨な運命が待ち受けるキリシタンたちの物語で、彼らの救済とは何かというのも隠れたテーマの一つでしょうから……。
最近読んでる仏教の方がインド哲学からようやく中国・日本の仏教観に入ってちょいちょい馴染みのある単語が出て来たので思ったのですが。
乱舞、すなわち「舞」は時宗の一遍の「踊念仏」の解釈ではないか?
踊りながら念仏を唱えることで極楽往生が約束されるとか。
興奮の末に煩悩を捨て仏と一つになる、とか。
つまり「舞」「踊り」「歌」もまた意味するところは「救済」。
「刀(智慧)」で「斬る」ことが「統合」という救いならば、「乱れ」「舞う」ことは「分離」による救い。
これがもしかして「慈悲」か?
ブッダの象徴する概念の中核は「智慧」と「慈悲」。
般若の光たる刀で切ることが智慧ならば、浄土を約束する舞や踊りは慈悲か。
舞台の第1部が三日月の物語だということを考えると、鵺との分離である悲伝と慈伝から考えて確かに「分離」と「慈悲」が結びついていると言っていいのかもしれない。己の煩悩を捨てただ「慈悲」に転換する。それが「分離」の真意なのかも。
まぁ仏教は基本二つの概念がセットの「表裏一体」を重視するので究極的にはどちらも持っているんでしょう。
外伝で阿波守在吉が「斬ることはいつか斬らぬための願いであってほしい」と言った感じで。
刀で斬ることと、乱れ舞うことは表裏一体。
「統合」と「分離」はどちらも真理への階梯。
そしてどちらもその先に救いへの願いがある。
第1部の三日月は、国広を育て上げる。本丸の近侍として。
では三日月は国広になんか過剰な期待をかけていたのか?
煤けた太陽に望む願いは?
第2部の長義は、国広を叱咤する。「山姥切」の名を持つ本歌として。
じゃあ長義は国広に理不尽な対応を強いていたのか?
偽物と呼ぶ写しに教えたかったものは?
多分、両方とも同じこと。
お前は、お前自身であれ。
名刀は「智慧の剣」、「般若」。
お前は、もともと闇を照らす光そのものだから。
……で、いいのではないかと思います。
自分が名刀であることに自信を持たない国広に。
自分が「山姥切」であることを誇らない国広に。
知らせたかったのは、ただそれだけではないかと。
「斬る」ことによって「般若(智慧)」を得、煩悩がもたらす無明の闇を抜けること。
「舞う」ことによって真理や空への道のり、煩悩即菩提を諭すこと。
これは「山姥(謡曲)」と「紅葉狩(謡曲)の組み合わせという構図からも得られた結論と一致します。
大分考察が固まってきたので慈伝見ただけではわからんわからん言ってた部分の予想も出来上がりました。あとはもう答え合わせで、大幅に外したらその差異から再検証ターンに移ります。
毎度毎度、長義くん関係があまりにも嬉しくない予想ばっかり出してるので普通に外れていいよね……て思うんですが……。
とりあえず今回はこの辺で。