斬ると食うと、呪いの話(付舞台考)2

斬ると食うと、呪いの話からの舞台予想続き

前回とばしたけど綺伝の右近様やっぱ重要じゃねえかな……ということで前回の考察の補完的な続き。
まずはあちらを読んでいないと、というかあれの前に色々読んでいないと通じない砂上の楼閣再び。

1.「クソ」の話再び

前回触れ忘れた鯰尾の馬糞ネタの話。

全ての単語を全て同じ意味で繋ぐなら、ここの「クソ」も前回の考察通り「食らった後の結果」になるわけですが、その前に「馬の」とつく意味を考える。

サンスクリット語で「癡」を現す「モーハ」の和訳が「馬鹿」であることから、とうらぶにおける「馬」は三毒の「癡」、転じて「無明」を意味すると思われます。

つまり馬糞が意味するものとは、無明、「何も知らないまま相手を食らった結果」。

……第一節の内容そのままでは?

我々は審神者と言っても敵の正体や歴史改変の意図を何も掴んでいないままただ相手と斬り合っている。
そして刀剣男士が敵と斬り合うことは、舞台の泛塵の言い分などを踏まえるならお互いに食らい合うことを意味する。

ついでに鯰尾について考えると、キャラクターの設定文、公式Twitterで兄弟である骨喰くんとの関係を特に強調されています。

骨喰くんの仏教的メタファーとしての役割は「骨相観」ではないかと思います。

死体、骨を思い浮かべることで真理を悟る修行の一つ。

舞台だと骨喰は三日月と関連深いキャラとなっていて、その三日月は「鵺」という概念を通じて三毒の「貪」を象徴している。

この「貪」に対抗する修行として勧められるのが「骨相観」だそうで。

煩悩が沸き起こるのが「無明」「癡」、真理を知らないことであるなら、「貪欲(渇愛)」への対抗に「骨相観」が必要となるというのは、結局どれも一周してブッダの教え「知恵と慈悲」に還ることになると思わないでもない(曖昧)。

鯰尾も骨喰も程度の差はあっても「記憶がない」という特徴がありますから、それはまさしく自分の事に関して知らないことがあるという意味で「無明」なのかと。

だからこその馬糞ネタなのかと思います。

2.「下戸(俺は酒は呑まない)」の話

同じように同じ単語を同じ意味で繋ぐなら、原作ゲームの南海先生の「下戸」設定と、舞台の長義くんが「俺は酒は呑まない」と言っているのも同じことを意味するのではないか?

最初は軽い気持ちで始めた「山姥(謡曲)」と「紅葉狩(謡曲)」のなぞらえという考察ですが、もう大体全部あれで説明できるっていうか。

斬ることは食らうこと、すなわち「統合」を意味する。

酒を呑まないことは逆、統合の拒否、婉曲的な「分離」を現す。

「紅葉狩(謡曲)」の維茂は、美女に誘われて酒を呑んで眠ってしまう。

物語を結末に導くにはこの過程が必要だと考えれば、酒を呑むことは最終的に鬼女を維茂が斬って「紅葉狩」という物語の完成、すなわち「統合」を意味する。

飲酒の固辞は逆、統合の拒否。

南海先生は原作ゲームの設定から下戸なので、最初から「分離」に近い概念の男士だと考えられます。

それこそ公式Twitterで「武市半平太の刀」「人斬りに相応しい刀」と説明されながら、自分では刀工の逸話が主体だと言い、それをむっちゃんに疑問に思われている。元主の要素を持っているのではないかと。

これが要するに分離要素ではないかと。

肥前は「めしは食う専門」。「食らう」ことによる「統合」。
南海は「実は下戸」。飲酒に絡んで統合の拒否、すなわち「分離」。

二振りセットで逆の概念を持つ一対ではないかと思います。

一方の長義に関しては、舞台では「酒は呑まない」「酒は呑めない」という要素を強調されていますが、これは原作ゲームには今のところない要素なので、長義が下戸という設定があるかどうかよりも、舞台のシナリオにとってそれを強調する配置であることが重要のように思えます。

まぁ極で下戸が判明するかもしれませんし、そうでなくとも酒を断るシーンは入るかもしれないですが。

原作ゲームだとあと酒要素で気になるところは回想其の88『妖物切りの酒気』辺りですかね。
これは天下五剣に絡む回想でもあるので、童子切が来てからが本番かもしれませんが。

酒を呑むことが統合への道のりだと考えると、次郎太刀や日本号の考察もそろそろ進めないとですかね。
(やっべまだ日本号の研究史全然手をつけてねぇ……)

「食らう」が「統合」、「呑む」が「統合」。

逆に「酒を断る」ことは「統合拒否」(分離)。

これを念頭に入れるといったんこれまでで「酒」が出てきた場面を全部見直さなきゃいけない、と。
(飲兵衛キャラとか酒飲み回想とか維伝とか无伝とか夢語とか)

3.「斬る」と「食らう」の話再び、「統合」と「超克」

「斬る」と「食らう」が同じ意味で「統合」に通じる。

だから敵を斬ることは相手を食らうことになる、相手を己に統合することになる。

ではその敵は何かと考えた時に、その男士とまったく関係のない物語であることもあるが、男士自身と関係が深かったりあるいは同一存在であることがありえるというのが刀剣乱舞の設定である。

具体的には「鵺」と「朧」。
そして「朧」を「影」とも呼ぶ。

国広にとっての「朧」のように、自分から分離した「影」をもしも自分自身で斬れたならばそれは何を意味するのか?

敵を斬るだけなら単に統合だと思うんですが、自分で自分から一度切り離した「影(煩悩)」を斬ってもう一度統合することは、「超克」を意味するのではないだろうか?

一度分離したのに統合して元通り、じゃ意味ないですもんね。

それとタイムリーな話題で最近追加された男士の「孫六兼元」。

この記事を書く前に回想138の考察をしましたが、兼元は自分自身の構成要素を「赤穂義士」の物語や「新選組」の物語等、複数で形成されていることを強く自覚したキャラです。

つまりこの性質を以前の考察の「混」「淆」「分」「離」で考えるなら「分」か「離」の男士だと思います。
赤穂義士と新選組、どちらも意識することでどちらからも距離を置いているように見えるから「離」かな……。

ついでに回想138により一文字則宗判定で兼元と似ていることが判明した長義くん。

長義に関しては極予想の考察で多分実装時「淆」認識から修行で「離」になるのでは? と考えたのでこの二振りが「離」だと考えると非常にしっくりはきます。

兼元以前の第二節のキャラもこれまでの「混淆」の気質が強い男士たちに比べると「分離」気質だなとは思いますが、一番わかりやすいのが兼元だと思うので兼元から考えよう。

兼元が顕現した意味は、対大侵寇で「混」を倒した結果ではないだろうか。

つまり斬ることが統合であり、更に一度自分自身から分離した「影」を斬ることが「超克」の意味を持つのであれば、我々は対大侵寇によって「混」を斬ったことにより「混」を超克できたのでは?

その前段階として、まず極修行という切っ掛けが存在する。

それこそ山姥切国広が顕著な例だが、国広は修行に行くまでは、本当の意味で山姥を斬った「山姥切」という号と逸話を持つ刀は本歌だけで、自分はその写しというだけでしかないと考えていた。

しかし修行で本歌と写しの両方に逸話があると知ったことで、国広の中で山姥を斬った刀の存在が自分と本歌の二つに分かれたと考えられる。

混ざり合った逸話を二つに分けた。すなわち「混」との「分離」。

その分離した「混」を斬ったイベントこそが対大侵寇であり、ここで「混」を超克したことによりその先の概念である「分」や「離」の男士が第二節から顕現できるようになったと考えればしっくりくるのではないか?

一方、そのような経緯で顕現されたと思われる孫六兼元という男士の性質はどうか。

回想138の考察ではその次の回想139にはあまり触れなかったが、実はここが重要なのではないだろうか。

国広は「混」。
けれどだからこそ、本歌の付属物から脱却したいと、独り立ちしたいと望んでいた。

「混」はそれゆえに「分」の願望を持つ。
その一方で、実際に逸話を分けて「分」になってきたら、今度は「淆」を望んでいるのではないか?

それが要するに長義とまた話をしようと望む回想57ではないか?

仏教の表裏一体の概念がここで効いてくるというか。
一つの性質に見えるものはその裏側に真逆の性質を秘めている。

私は以前、「混」「淆」「分」「離」と便宜上の性質を分けたんですが、
「混(分)」「淆(離)」「分(淆)」「離(混)」ぐらいかもしれない。

これの適用で一気に説明しやすくなるのは蜂須賀と石田くんの関係ですね。
どちらも結局半分は同じものを持っている。

というか単純に「混淆」と「分離」の二種を長義・国広のように時期をずらすことによって逆転させただけの関係かもしれない。

一見対極の性質を持つように見えるものは、実際には同じものの表と裏に過ぎないのでは?
そしてこの立場は話の展開に従って推移し、いずれは完全に逆転する。

本歌も写しも、敵も味方も。

回想139で兼元が「人斬り」の刀である肥前くんを煽っているのは分離の対極である「混淆」への誘いに見える。

肥前忠広と陸奥守吉行の物語である龍馬の暗殺事件、その後龍馬の暗殺犯だと目された人物を新選組が護衛した天満屋事件こそが、「斎藤一の関孫六」の出典(ただし講談)。

ある意味自分を生み出すことになった、自分と近い性質の物語に喧嘩を売る(発破かけに行く)か……。
いや孫六兼元、君なんて山姥切長義???

回想138がもてあたの解説なら、回想139こそ回想57と同じ(反対の)構造なんだなこれ……。

4.「斬る」と「呪い」の話再び、統合失敗としての「浸食」

前回ざっと舞台の予想をしたところで、綺伝のあとの禺伝、とくにガラシャ様を演じた七海さんが今度は歌仙を演じるという要件について考えたんですが。

意味の一つは、生まれ変わりで中の人が完全に入れ替わることもあるぜ! という夢語の三日月・国広のチェンジみたいな話だと思うんですが、もう一つ気になることが。

斬ったものを己に統合した時の影響。

禺伝まだ見ていなくて人のざっくりした感想聞いただけですけど、なんか逸話が混在してる存在としての歌仙たちが最後に自分自身に戻るというか、七海歌仙が和田歌仙を完全にトレースしていくだとか聞いたんですが。

前後の綺伝と夢語から考えて、この描写の意味するところは、斬った相手の浸食とその対抗としての自己の保持ではないかと考えます。

綺伝で歌仙は、彼の主・忠興ができなかった代わりに、ガラシャを斬った。

これが重要だと思います。
斬ることが統合ならば、この行為は歌仙に影響を及ぼすのか、及ぼさないのか。

及ぼすと考えたほうがいいのでは? 泛塵が大千鳥に真田十勇士を食らえと願っていたように。

その影響こそが、逸話が混ざり合った状態で、慶長熊本でガラシャを斬ることになった歌仙の中にガラシャがいる、ということなのでは?

呪いと言えば南泉一文字。
南泉は何故、己を猫に呪われていると判断しているのか。

語尾や行動、己の行動を猫に「浸食」されているからではないか?

斬ったはずの自分が、斬った対象からの影響を受けてしまう。

これが「呪い」という概念を突き詰めて出てくる答ではないかと。

前回は統合をそのまま呪いとしたのですが、そうすると他の斬った対象と同化組と南泉で意味に差が出てくるので更に突き詰めてみました。

青江や五虎退のように、逸話の対象と共存している場合は呪いにあらず。
長義・国広はお互いにお互いが対象で強く影響を受けているが、同じ刀剣男士同士だからこそ無自覚。
南泉だけが、猫を斬って、その猫に逆に影響を受けていることに自覚的。

それが「呪い」ではないか。

刀剣男士の中には今まで斬ってきた敵の物語が取り込まれている。
では斬ることはノーリスクの強化方法なのかというと、それはどうやら違うようだ。

刀剣男士の強化について触れているのは慶応甲府の御前の台詞。
刀剣男士が究極に強くなる方法は愛だと言っている。

一方、戦闘行為が単純強化ではないことを示す原作ゲーム内のフラグはおそらく信濃くんの台詞。

「勝ったけど……ちょっと疲れたね」

極信濃くんのMVPで疲れた疲れた連呼されるの正直むちゃくちゃ気になっていましたが、第二節からの気力可視化問題と合わせて考えたほうがいいかと。

何故勝ったのに疲労するのか。
その理由がこれかもしれない。

敵がおそらく過去の自分で、それを斬るから疲労する。

この話もそこからさらに突き詰めて考えたい。
何故敵を、過去の自分を斬ると疲労するのか?

呪いの正体はおそらく浸食。

舞台のシナリオ構造との合わせ技である程度直感的な推測になるんですが、要はこれ「消化」の問題なのでは?

つまり「食べ疲れ」。食べ過ぎると逆に胃に負担がかかって疲れちゃう。

「クソ」として食らった後に余分なものを「出す」(つまり分離)すら設定されているなら、食らった相手の物語を取り込む「消化」の問題が立ちふさがるのでは。

「消化(統合)」の失敗こそが「呪い(浸食)」だと考えると大分わかりやすくなるかなと思います。

原作ゲームだけやってたら絶対思い浮かばなかった気がするんですが、舞台で国広が三日月と入れ替わって右往左往したり、歌仙がガラシャ様斬ったら次の舞台でガラシャ様が歌仙に! したり、そしておそらく今後長義の半身を斬った国広が一時的にその物語を消化できずに発狂状態に陥ってからの消化完了で山姥切の自覚獲得(慈伝で長義の本当に言いたかったことを掴む)……という展開が予想されることを考えるとこれが一番しっくりくるよな、と。

南泉は猫を消化中。
禺伝の歌仙は己の中の統合を無事に終えて、ガラシャ様と本当の意味で一体化するから七海歌仙と和田歌仙が重なるのではないかと思います。まぁここは禺伝を見れたらまたちょっと考えるかもしれない。
禺伝は御前が出てるってことはその世界が本当に綺伝の本丸の直後かと言うと微妙ですから、まぁ公演そのものが転生という円環の繰り返しの中の一幕辺りと考えておくと無難かと。時系列出たら整理しますか。

そして長義と国広もお互いにお互いを食らい合い消化し排出し、という行動の繰り返しで最終的に純粋な己自身の物語を獲得するための輪廻の円環の中ではないかと。

私の頭の中をうまく説明できている気が自分でもしませんが、仏教思想と認識の進化段階と人間の生命活動の原理、そして「山姥(謡曲)」と「紅葉狩(謡曲)」の形成過程の重ね合わせのおかげで大分この辺の理屈がすっきり納得できてきた気がします。

5.「影」を生む「鬼」、『伊勢物語』は「在原業平」からただの「男」へ

綺伝は「鬼」である忠興が「花」であるガラシャ様を斬れなかった結果、歌仙が「鬼」として「蛇」であるガラシャ様を斬った話。

天伝は「鬼」である真田信繁が「花」である豊臣秀頼を救えなかった話。

无伝は「花」であったはずの秀頼を、己を「物(鬼)」と名乗った高台院が斬る話。

維伝は特に明示してこそいないが、才谷梅太郎という「花」に関する変名を持つ「龍馬」が武市半平太と岡田以蔵を救えなかった後悔から放棄された世界が始まり、陸奥守吉行に斬られる話。

仏教的には「蛇」と「龍」はほぼ同じもので、馬は上でも書いたけど「癡」の「無明」を意味する。

と、なると。

綺伝がやはり一番わかりやすいんですが、「鬼」が「花」を「斬れなかった(救えなかった)」という事実が放棄された世界の形成に関わってくるのと、

「花」はそれにより「蛇」に転じ、別の「鬼」に斬られることでようやく物語(放棄された世界)が一段落する関係性があると考えられます。

ただこれも天伝・无伝を挟むと、秀頼を斬った高台院を三日月が斬ることでまた別の鬼が発生する……という。

「花」は「蛇」。
そして結局のところ、「鬼」もまた「花」である。
そして「鬼」と「蛇」は本来同一の一対のもの。

だから「蛇」に転じた「花」こと秀頼を物という「鬼」を半分自覚していた高台院が斬ることで一つの終わりを迎えた物語は、結局彼女を斬ることになった三日月がまた最後に「鬼」を生み出す。

これを考えれば三日月の位置は「花」。
もともと刀剣男士は顕現シーンから言うと、桜の花に込められた物語。

言ってしまえば「鬼」だろうが「蛇」だろうが「花」だろうが「人」だろうが結局みんな同じ「物」。
少しのずれで立場を入れ替えながら転生を繰り返す。

前回の「影」の考察と合わせてそもそも鬼が発生する原理を文学的に突き詰めようと思います。

これも「山姥(謡曲)」で考えるのが一番わかりやすいのではないかと。

「山姥(謡曲)」の考察で、途中に挿入されている『伊勢物語』の「芥川」の考察をやりましたのでそこががっつり関わってきます。

『伊勢物語』第六段「芥川」は後半が肝で、前半の「女が鬼に食われる物語」の「種明かし」をしている。

つまり、史実では女が鬼に食われる事件など起こっていない、男が女をさらおうとして失敗したというだけのことだと。

これは結果をシンプルに捉えるとこう言えるのではないだろうか。

男は女をさらわなかったから、女を食う「鬼の物語」が生まれた。

そして、モデルでは「在原業平」だと言われている人物は「名前のない男」となった。

昔、男ありけり。

『伊勢物語』という文学作品の特徴です。
冒頭は大概「昔、男ありけり」の一文で始まる。

この話、主人公の男には「名前」がないんです。

モデルは「在原業平」であるとされ、「芥川」の段なんてそれこそ在原業平と二条の后の間で実際に起きた出来事だとほぼ特定してるも同然の種明かしがされている。
けれど『伊勢物語』の主人公自体は、「在原業平」本人ではなくただの「男」なのです。

男は女をさらわなかった。
女の兄に邪魔されてさらえなかったのか、泣かれたので罪悪感を刺激されてさらうのを諦めたのかまではよくわかりませんが。

結果だけ言うと、男は己の欲望のままに女を手に入れるということはできず、女は彼女自身の世界へ帰っていった。

だから――「史実」とは「逆」に、「名もなき男」による「鬼の物語」が生み出された。

己の煩悩を否定して正しい結果になったからこそ、「史実」と逆の結果が「物語」になる。

舞台の「朧なる山姥切国広」「山姥切国広の影」の誕生は同じ原理だと考えていいと思います。

国広はいくら三日月を取り戻したいからと言ったって、よーしじゃあ歴史変えちまおうぜ! とは決して考えない。

考えないからこそ「鬼」が生まれる。

己の煩悩を抑え込もうとすればするほど、分離した己自身の心が敵になる。
国広はまだ「朧」だけど、その願いが、あるいは憎しみが、強ければ強ければはっきりとした姿の敵になることが考えられます。

「山姥(謡曲)」で「百ま山姥」は自分も『伊勢物語』の女のように食べられてしまうのではないかと怖がりながらも、「山姥」の求めに応じることで無事に煩悩即菩提を示す山姥の舞を見て物語を終えた。

けれどもしも「百ま山姥」が「山姥」の求めに応じなかったその時は。

やはり『伊勢物語』の女のように、「鬼」に食われてしまったのかもしれない。

6.陰と陽は表裏一体の一対

ここまで整理したところでやっとこさ綺伝。

そして前回の舞台予想に加えてもうちょい構図を整理。

要は高山右近周り、綺伝の高山右近こそ国広の未来予想図じゃないのかなーって話です。

長義がすでに国広の半身である「朧」を斬って統合してしまったなら、ここまでの物語構成のバランス的に、長義の半身である蛇は国広が斬るはず。

慈伝時点で一度立てた予想より、こっちの方が構造的には離れ灯篭の歌詞みたいな長義・国広の行動を完全に対として構成しているのでなるほどな……と。

本来斬らねばならなかった相手を、別の刀が斬ってしまう、というのが舞台の第2部の核心ではないかと。

ガラシャは忠興に斬ってもらいたかった。
けれどそれは果たされなかった。

忠興を斬ったのは高山右近。
けれど、その右近にしても忠興は友人だった。

右近は忠興・ガラシャ夫妻の両方とも友人として愛していたはずなのに、忠興がガラシャに危害を加える様子を見せたなら彼女を守るために友人を殺さざるを得なかった。

そしてこの後の右近の苦悩に対し、これまでもセットで登場していた小西行長の

「ドン・ジュスト お優しいあなたが 何故このような目に合わなければならない」

これがな……。

この関係性というか言い方的に高山右近が国広で小西行長は長谷部をなぞるんだと予想される。

長義くんは行動や行為の結果が慈悲深くあっても性格をして優しいとは言われないだろうからな(キッパリ)。

右近が忠興を斬るという結末は、一体何を意味しているのか。

そもそも細川忠興・細川ガラシャ夫妻の関係性によって表現されているものは何か。

愛だけでも憎しみだけでもなく、「愛憎」がともにある夫婦関係。

愛だけでなく憎しみもある関係性を刀剣男士の側で考えると、舞台の場合は現時点だと国広・長義の関係一択になる。

同じくらい強い感情は三日月・国広にもあるけどあっちは憎しみが見当たらないので。
その素養たる「怒り」を伴いながらも相手に自分を認めさせたい・認められたいという方が本音だろう山姥切の本歌と写ししか今のところ候補がいない。

ただ、それだけでなくもう一つ考え方がある。

无伝の時点で高台院が自分を「もう一人の豊臣秀吉」だと言っている。
真田十勇士も高台院を豊臣そのものだとして守ろうとし、夫婦を一対、夫と妻は同じものとして扱っている。

綺伝で黒田孝高が「陰陽」に言及したけれど、その観点からすると夫婦は男(陽)と女(陰)が揃った完全な一対。

陰陽のバランスで言うなら一度道が分かれてしまった細川夫妻は、二人が望んだとおりガラシャ様が忠興に斬られることによって統合されなければならなかった。

右近がガラシャ様を守るために忠興を殺した行為は、そのバランスをこそ壊してしまうものだったと言える。だからそこから綺伝の物語はラストまで一気に破滅に向かう。

象徴的なのが右近が忠興を殺した直後のガラシャ様の変貌と地蔵くんとのやりとり。地獄までもガラシャ様と共に行こうとする地蔵くんと、待ってくれとは言うものの置いて行かれる右近。

――斬ることが「統合」なら、自分の「影」は自分自身の手で斬らねばならない。

忠興・ガラシャ夫妻に関してはガラシャ様が歌仙に斬られて最期に再会した忠興の詫びの言葉が「玉よ お前の最期を人に委ねたことすまなかった」であることからもやはり、忠興がガラシャを斬らねばならないというのが二人の望み、二人の心残り、歌仙が叶えた、この二人が叶えられなかった本当の結末なんだよね……。

その結末が意味するものは、統合の失敗と代役の存在。

端的に予想してみると、長義・国広の結末は、自分の半身である「蛇」に飲み込まれそうになった長義くんを国広が助けちゃうのではないかと。

斬られることによって統合しなければならない。

でもその絵面、愛し合う夫婦の夫が妻を殺そうとしているという第三者的にはショッキングな構図にしか見えないんだよな。

だから右近のように善良であればあるほど止めに入らざるを得ない。
けれど結果的には、それがあの放棄された世界のキリシタン大名たち全員の破滅へと繋がる。

そして歴史を守るためには、誰かがガラシャを斬らなければならない。

高山右近の立場は国広の立場を意味すると思うんだけど、同時に地蔵くんも国広だと思う。

基本的にガラシャ様の協力者で、けれど彼女を守ろうとするが故に彼女の最も愛する夫を殺してしまう右近。

ガラシャ様を守るためなら兄弟の古今も時の政府も裏切り、地獄まで付き従う覚悟だけど、最後の最後で手を離されてしまう地蔵行平。

囚われているのは相手そのものではなく、実際には自分自身の物語。

この一言はまさしく山姥切の本歌と写しの関係性だな……と回想57を死ぬほど考察した身としてはあああああってなりますね。

長義くんの内心は極来るまでグレーですが、少なくとも修行手紙で国広が囚われているのは長義くんであって長義くんではない。
本歌の「山姥切長義」を手放すことで嫌でも向き合わねばならない国広自身の逸話の方だろう……。

ガラシャ様と地蔵くんの関係っていうのはまさに長義が、そしてある意味国広が望んだものなのかもしれない。

綺伝のガラシャ様は自分を姉と呼ぶよう地蔵君に半強要してるからね。
別に地蔵君が納得してるからいいんだけど。

物語の外では我々プレイヤーによってさんざん呼び方の問題が横たわると言われながらも、実際の物語の中で、ふたつの山姥切はお互いに相手にどう呼ばれたいかを口にしない。

特に国広側は舞台では同田貫を通じて間接的に、花丸ではなんと正面からどう呼ばれたいのか聞かれたのに答えない。

相手と本当はどういう関係になりたいのかを決して口にしない長義・国広の関係はちょうど綺伝のガラシャ・地蔵の正反対。

……しかしこの考えで行くと第2部最終話手前(1部で言う悲伝相当の話)の国広一振り何役やるんだよ。
少なくとも右近と地蔵くんの立場は国広自身じゃないと無理だな。他の刀じゃ代わりがきかない。

ガラシャ様の半身、彼女を斬らねばならなかった忠興をガラシャ様を守るために殺してしまう右近と。

ガラシャ様の行くところなら地獄へでもついていくと決意し、全てを裏切る覚悟の地蔵と。

ある意味一番重要な最後の結末を決める歌仙の立場は……右近と地蔵と同じく本来は国広が追うべき役目ではあるけど、この立場は審神者がやる可能性がある。

斬ることが統合なら刀剣男士が斬ると少なからず相手の物語を統合・食らう羽目になって世界に影響を及ぼす恐れがあるんだから、それを介さない存在の消去方法として「審神者による刀解」が一番穏便な手段になるのと……。

この構造、要は人間である弥助に身内の山伏を折られたジョ伝の繰り返しでもあるだろうから、歌仙のポジションをなぞるのは同時に弥助をなぞる人間、審神者になるのかなと。

綺伝を基準に考えてますけど全体予想としては夢語が結構重要で、あの話で長谷部が出くわした「良い遡行軍」の暗示するものとそれを斬ろうとした長義を長谷部が止めたところに着目したい。

長義が斬らねばならないと考えて長谷部がそれを止める相手。

……修行から帰ってきた国広じゃね?

極国広は原作回想57の時点で長義を怒らせていますが、舞台は更に状況が悪い。
出発前から「名前などどうとでも呼べばいい」と結論している舞台国広は極修行でおそらく完全に名前へのこだわりを捨てる。

と、すると長義にとってそれはもはや完全に「敵」なのでは?

……これまでの構造展開的に「慈伝」をなぞった慈伝の逆転に見せかけた話、でも実は本当の意味でなぞって、その結末まで忠実に三日月をなぞる「悲伝」相当の話になるのではないかと。

夢語で長谷部が遡行軍を斬ろうとした長義くんを止めるタイミングは、ちょうど中身が入れ替わっていた三日月と国広がちゃんと自分自身の体に戻った直後なので。
……三日月を追うあまり日本刀史まで探りに行っちゃった国広の修業帰還ってことでは?

修行から帰る国広。
これまでとの違いに違和感を覚えて激しく拒絶する長義。
それを止める長谷部。

構図だけ見ると国広が本丸側で長義を迎えた慈伝と一転逆に見える、国広を上手く迎えられない長義みたいな図になる。

ただ、長義は最終的には国広を認めるためにむしろ自分の「瞋」――「憎しみ」という感情を捨てるだろう。
それによって表向きには国広と和解したように見える。
それが本丸にとって大侵寇相当の敵、「蛇」を生み出すと思われる。

その「蛇」が統合のために長義を飲み込もうとしたところを国広が斬ってしまう。

もう本丸の仲間を喪わないために強くなりたいと修行に出たはずの国広なので、一見望みが叶ったように見えるけれど、実際にはこれが破滅への引き金、ふたつの山姥切を誤った統合という結末に導く行為になる。

んんんん~そこからどうなるかな……。

候補1 蛇の正体に気づかないまま一見平和になったと思ったらラスト間際の突然の刀解命令で騒然からの阿鼻叫喚

候補2 蛇の原因は長義だよということで本丸側から追われる(悲伝の三日月の立場をなぞる)

2だとそれこそ国広が綺伝の地蔵くんのポジションをそのままなぞるんじゃないかな。
悲伝で本丸襲撃の後、一度三日月が鵺たちと共に行ってしまったのと逆の構図で本質をなぞる。
今度は国広自身がその鵺だと。

ただ綺伝をなぞるとなると、地蔵君を自ら斬って突き放すのは守られているガラシャ様本人なんだよね……。

悲伝の三日月から整理入れたほうがいいか。

悲伝の三日月はあくまで刀剣男士であるために、足利義輝の最期への想いを封じて、それが他の刀の想いと相まって鵺を生み出して、燭台切の不審を招いて、本丸襲撃を招いて、本丸を離れて仲間に追われる羽目になったけど何も事情は話せないまま、最後に海辺で国広と戦う……だっけ?(戯曲本一度読んだだけなので記憶がうろ覚え)

三日月の行動は徹頭徹尾本丸のためだったと思うけど、それを言葉にはしなかった。
无伝の台詞からすれば、本丸という存在を永遠に続く戦いの中でも狂わないよすがとして何よりも愛しているのに。

うん、嫌な予感がしてきたなヨシっ!(よくない)

「鬼」と「花(蛇)」な……。天伝で秀頼を救うはずの「鬼」であった真田信繁に国広が刺されてるよね。
「花」を斬る(救う)はずの「鬼」とどうやっても敵対するのが国広のポジションなんだよなこれ……。

そして第1部では慈伝がそのまま悲伝の答え合わせ回だったように、その次の実質その章のエピローグでようやくいなくなった相手の想いを知ることが出来る、と。

慈伝の時点で第2部ラストのその話は殺伐としたものになるだろう、それがどこまで続くかはわからないという予測立てたんですが、この分だとその殺伐は2部ラスト1回分できっちり綺麗に終わりそうですね。

本丸には長義と入れ違いに三日月(鵺)が戻ってくる。
「瞋(怒り・憎しみ)」の蛇を斬って我を無くす国広にその三日月(鵺)が教えるんだろう、長義の心を。

あ~~そうかこの位置そのまま般若(智慧)か。

糸を喪えば「隹(鳥)」、維伝は龍馬の刀のむっちゃんで「龍(蛇)」。
糸を喪えば「奇」しきもの、綺伝は歌仙兼定で「歌」。
次の慶応甲府は加州清光でそのまま「清い光」。

放棄された世界の話の頭文字は「鵺」要素で、その話の主役となる始まりの五振りに対応するのは「蛇」要素か。

慶応甲府のタイトル発表楽しみですね……(死んだ目)。

7.そして「蛇」の物語へ

綺伝では獅子王がキリシタン大名たちを「鵺みたい」と言っています。

維伝、綺伝と糸へんのある漢字の扱いからしても、第2部で明かされた敵の性質は「鵺」。

第1部の最後の敵であり、ある意味三日月の正体、最も重要な要素である「鵺」の説明を第2部でしていることになります。

そしてその性質こそ、愛し合いながら憎み合う、助けたいのに敵対する、維伝から描かれた人々の感情そのもの。

となると、第3部の各話タイトルの頭文字と敵の性質から描かれるものは「蛇」の説明ということになります。これはある意味長義の正体。

それと同時に、第2部では綺伝まで「朧」(朧なる山姥切国広、山姥切国広の影)が重要だったように、第3部初回のタイトルから次の敵の性質を表す名前が来ることも予想されます。

第1部 虚伝から慈伝まで

「虚」(前回の考察で出した仮称・大虚鳥)と「鵺」の話(解説なし?)

第2部 維伝以降

「朧」と「蟒(前回の考察で出した蛇の仮称)」の話(第1部の鵺を解説)

第3部

「?1」と「?2」(第2部の蛇の解説)

第4部

「?3」と「?4」(第3部の「?2」の解説)

っていう構成になるのではないかと。

ついでにもう一歩踏み込んで考えるなら、第3部のメイン敵こと「?2」は鬼にまつわる何かじゃないかな。

三日月が无伝で今度は鬼丸さんっていうか鬼生み出してる……ってなったのと、花から蛇に転じたガラシャ様を斬るはずだった忠興や、花である秀頼を救おうとした真田信繁が「鬼」なので、次の敵は「鬼」にまつわる何かだと思います。

誰かなんか格好いい敵名予想してください(いつもの丸投げ)。

虚が大虚鳥なら鴉の蔑称だからつまり金烏こと「太陽の鳥」。
朧は「月」の「龍」。

じゃあ次の「?1」は「鬼」の「星」で「魁(さきがけ)」あたりじゃねーかと思いますが俺の鬼部・鬼にょうにまつわる漢字知識が少なすぎてあてずっぽう以外の何物でもない。いい言葉だよね。魁は。
いや「斗」の意味は主に「柄杓」なんですけど北斗七星の北斗の意味でも一応使われるので。

この法則から行くと「?2」は「魑(虎の形をした山神)」じゃないかと思いますがここまで行くともういつ答をもらえるかもわからない……。

南海先生が維伝で「魑魅魍魎」って言葉を使っていたのでそこから「魑」。

更に夢語で始まりの五振りの一振りとしてこれまで言及なかった蜂須賀「虎徹」がついに登場したのと、第3部の過去偏は第2部でとばした特命調査・天保江戸になる可能性が高いこと。

ついでに理由はよくわからないが禅語の世界だと「虫」を「虎」と訳す話があるので、虫偏の蛇からすっと繋がることを考えると、この古代中国の妖怪らしい「魑(虎の形をした山神)」が来るかなと。

右の部首「离」の意味は「離れる、別れる」の意味で異字体がそのまま「離」らしいのでわーお。

そうか、分離の「離」って「鳥と別れる」って意味の字なのか……。

「魑魅魍魎」の残りの字に関しては「魅」が猪頭人形の沢神で魍魎は川や木石の精霊とされるとかあるのでこの辺も怪しい。

言葉遊びの世界は面白いですね。

しかしこのネタ自分で書いててその時まで覚えていられる気がしない。
とうらぶは余裕で続いてそうだけど単純に俺が飽きてたらどうするんだこの考察記事は……。

来年どころか数年単位で先の話をして鬼を爆笑させていくスタイルでお送りいたします。

ちなみにまんま鬼にょうに虎の字の漢字もあるみたいなんですがなんだこれ。
ここまで行くともうネット上にまったく解説すら出ない謎の字過ぎるのでないかなー。

名称の予想はこのぐらいにしておくとして、一つ確実に言えそうなのは、「貪」を象徴する鳥こと「鵺」の性質が「愛し合いながらも敵対する」関係だとしたら、次の「瞋」を象徴する蛇の性質を語る第3部は登場人物の関係の描かれ方がそのまま「怒り」と「憎しみ」を強く描くものになりそうってことですかね。

「鵺」から「朧」へと敵の性質が変化して、そのおかげであの世界の敵がどうやって生まれるのかはっきりしたように、話が進むにつれて敵の性質がはっきりするほど世界の真実に近づくけれど、同時に貪の渇愛よりも瞋の憎しみを抱く敵の方が殺意全開でかかってくる分手強くなるのは自明の理。

敵の性質がはっきりするほど手強い、けれどそのほうが敵についての情報は増える。真理に近づく。

原作から派生まで多分全部この流れだと思うんですよね。

8.酒は飲んでも呑まれるな

「呑む」ことは「斬る」ことに繋がる「統合」。

よく考えたら、維伝の龍馬や无伝の真田十勇士と飲んでた意味はこれか。
そして逆に綺伝の長義くんは、ガラシャを斬る宣言したけど「呑まなかった」。

「呑まない」ことは統合の拒否。

「紅葉狩(謡曲)」は、維茂が美女の懇願に負けて酒を呑んで眠りについたことが後半の鬼女との戦いに繋がる統合への布石。

そして維茂が酒を呑んだ理由は結局「情」なんだよね。
かつて友情のために禁忌を破った僧を例に持ち出して。

「呑む」ことは「統合」。

原作ゲームでも舞台でも長義くんの基本スタンスは「統合拒否(離)」だろうけど、舞台は「情」のためにその戒めを破ってしまうんだろう。

……酒豪・大酒呑みのことを俗語で「蟒蛇(うわばみ)」という。

大蛇が獲物を丸呑みする様子から。
あるいは記紀神話に登場する「八岐大蛇」が酒飲んで眠り込んだところを退治されたことから。

舞台の長義くんあれだけ「呑まない(呑めない)」って言ってたけど最終的には呑んでしまうんだね。

そして倒される。スサノオに倒された八岐大蛇のように。

記紀神話からの考察やったの結構前だけど、あれを基準にすると第2部で修行に出てる国広のポジションは黄泉の国にいる母・イザナミに会うために旅したスサノオが最終的にクシナダ姫を救うために八岐大蛇を退治する辺りだろうからね……。

三日月が長義と入れ替わりで戻ってきそうだからある意味国広によるスサノオの旅は達成されそうだな。三日月を探しに行って三日月を連れ帰る。ただし母(三日月)探しにって連れ帰ってくる嫁は「鵺」だろうけど。

しかしあれだけ呑まないって言った子が情に負けたとき全てを呑みこむ大蛇となるのか……やるせないな……(なら何故毎回こんなネガティヴな予想を……)。

慈伝における南泉の台詞がめっちゃフラグでは。

「心を化け物にするな」と南泉一文字は言う。

己が斬ったせいで、己と統合してしまった対象に、内側から乗っ取られるなよと。

その指摘はまったくもって正しいのだろうけど……そのために化け物を捨てても、結局は化け物が生まれてしまう。
在原業平が二条の后をさらわなかったからこそ、女を一口で食う鬼の物語が生まれたように。

慈伝自体が南泉の「寝言」から始まる。

「早く呪いを解かねーと」

そしてその裏側では、「虎」である五虎退が三日月の「心」を探している……。

「虎」は「大蟲」として「蛇」に通じる。そして「鵺」の手足……。
もしかして「猫」の重要性って虎もネコ科の動物だから……?

言葉遊びが極まってきたな。維茂が流される「情」は「青い心」なんだね。

9.名前鬼――大切なのは内か外か――

今の時点であんまはっきり予想が立たない部分についてちょっと考えたい。

夢語の「名前鬼」について。

鬼に触れられる前に別の刀の名を呼べばそちらが鬼となる。

このルールの意味するものは何か。

しかもこれ、人数が減れば減るほど名を呼べる相手が減って厳しくなると。

うーん。統合による自分たちの整理?
朧が斬られて国広一振り、蛇が斬られて長義一振り。
もう他にその名を呼べる相手はいない……?

夢語は夢くじのせいで三日月と国広が入れ替わって、そこでくじを引けば事態が好転するのではないか? と試したら名前鬼が発生して、それが終わったところで夢くじを遡行軍に盗まれる、と。

そしてここでCMが入ります。いや、CMってなんだよ(ツッコミ)

いや……これ、あれか。

国広三兄弟による「国広特性筋肉栄養剤」のCMはそれこそ消化・吸収の重要性だろう。
ぽっこりお腹が気になるあなたへ……って、本当に国広お前自身が食うのかよ! スパゲティ(縁の糸)な!

次の「粟田口だよ! 全員集合だよ!」といい、兄弟で対になる関係性をさんざん描いてるからやっぱ同じ男士の分裂という意味で一つの話に複数同じキャラがいるんだよな。

問題は国広がなぞるのが右近と地蔵くんだけか、その先の歌仙の役目まで自分で果たすのかそっちは別なのかどうかだ。

悲伝では倒しきれなかったとはいえ、三日月自身と戦った。

第2部は……どうなるんだろうか。

悲伝をなぞりながらも変える部分。逆転する部分。

戦わないのか?
それとも、戦ったうえで、今度は倒してしまうのか?

高山右近は歌仙に「玉様を救ってくれ」と託したけれど、こっちはどうなるのか。
忠興がガラシャを斬れず、地蔵くんにもできず、だから歌仙にまでその役目が回ってきた。

花が求める鬼。斬られることを望む鬼。

……慈伝で傍から見ていてなんでそこまで? と思うほどに山姥切の二振りが一対一に拘った理由がここに収束しそうなんですが。

右近も歌仙も両方国広の役目かもしれなくて、そして地蔵くんはガラシャ様に置いていかれる。
地獄まででもついていくと、歴史を変えてでも生きていてほしい、それができないなら自分も終わりたいとすらと願ったのに……。

蛇だけか、長義くん自身にも始末をつけることになるのかわからないけれどどちらにしろ長義が「朧」を斬って統合したように、国広は「蛇」を斬って統合になるだろう。

そうしたら次の話は悲伝の意味を明かす慈伝の繰り返し。

綺伝で歌仙がガラシャを斬った次の話が禺伝であるように、斬った対象との統合、相手に呑まれるのではなく、己が相手を本当の意味で取り込む物語になるのではないか。
それを引き出すものこそ、長義と入れ替わりでやってくるだろう二振り目の三日月で。

ちなみに繰り返しますが 私は まだ 禺伝 見てません!(この予想はガバガバです)

だからこれ以上なんとも言えないけど禺伝見たらはっきりするかねえ。すでに脳みそパンク済なのですが……。

綺伝から禺伝の流れにおいて重要なのがそれこそ「女性が演じる男士」「ガラシャ役が歌仙役になる」という配役の問題なのですが、ここ考えると二振り目の「三日月」は「鵺」役の人と交替したりするんだろうか。

ところで大事な話をしますが、私は悲伝を戯曲本で読んだだけなので そもそも 鵺のビジュアル わからない!(この推測はガバガバです)

この問題、後で黒田官兵衛が朧国広含めていっぱい登場したあたりで結構やべえなと気づいた。
ここの黒田勘兵衛が如水が……って言っても画面見てないとどの勘兵衛? そもそもジョ伝と同じなのか朧ちゃん変装してる勘兵衛どれだよ!? って大分混乱してきた!

鵺のビジュアルわからんのでそもそも入れ替えできるのかさっぱりわかりませんが、七海さんがガラシャから歌仙をやって、その上で和田さんの歌仙と重なるような演技を禺伝で見せてくれた(という人様の感想を見かけた)ということは、中の魂が別物であっても、外見に合わせて変化し、真なる意味で統合を果たすというテーマではないのか。

第2部のラストがこれかつ第3部のメインテーマではないのか。

斬った相手に浸食を受ける「呪い」を解いて、真なる意味での「統合」を果たす。
要は「消化」。食べた相手をきちんと自分自身の力にする。

中の人に交替してもらうのがイメージ的には一番早いというか。

夢語の三日月・国広の入れ替わりみたいに中の人にそれまでとは別人のつもりで演技してくださいっていうのも面白いんでいいんですけど。

どちらなのか非常に楽しみです。

役者が交替する場合、三日月役の鈴木さんは今度は第2部の朧パターンで第3部の鬼を演じることになるよね、と。一見舞台に出てないように見えて実はやっぱりお前が主役! パターンやこれ。

時系列順に話を整理すると悲伝より无伝が先なので、元の三日月は鵺を生む前に无伝の鬼の方にも分離しちゃってるじゃないかと。
三日月(鵺)が三日月(一振り目)と統合するためには少なくとも「无伝の鬼」と「悲伝(陽伝?)の鵺」の両方斬る必要があるってことでは……?

そしてこのパターンだと次の長義くんは「蛇」の方になる……。

統合されたら復活できるのかできないのか? というところから考えなければいけないのですが、食らうことは誰でもできるけれど本当の意味で統合できるのが自分自身だけとすれば、国広は長義と本当の意味で同化はそもそもできないのか?

となると、国広が蛇を斬って統合する相手は長義くん自身じゃなくて、綺伝で長義くんが斬った「朧」の方なんだろうか。

これだと国広は一度自ら捨てた「三日月を取り戻したい気持ち(朧)」と再統合果たしたうえに、その痛みから目を背けるとまた鬼を生むのがもう自分でもわかってるから今度は絶対に長義を取り戻したい気持ちから目を逸らさない、その痛みを抱え続けたまま進むことになる。

第3部の敵(?2)が无伝で三日月が生み出した「鬼」だとしたら、第4部の敵(?4)は第3部の過去偏(多分天保江戸)で長義くん側も何か分離してる可能性があってそっちが実質一振り目の長義くんって可能性があるなこれ……いや今回大体可能性の話しかしてないけど一応……。

物語の一番最初、今のところ最も時系列的に早い話は「ジョ伝」。

ここで山伏を折った宿命の敵であるところの「弥助」が国広に教えたことこそ「汝の敵を愛せ」。

第4部は二振り目の長義くんの中身が「蛇」で、出てくる敵(?4)が元の一振り目の長義くんになるだろうから……どっちも国広が斬っちゃダメな相手ってことに気づく、すなわち「汝の敵を愛せ」をここで達成しなければならないのでは。

魂魄の概念を検索で軽く調べてみると道教儒学伝統中国医学と結構面白いんですが(理解は追いつかない)、どちらにせよ重要なのは人間の魂魄は複数の要素からできている、分離っていうか死ぬと気が散じたり魂魄のうちの魂は神に、魄は鬼になるぜ! という分割可能な集合体としての概念ですね。

刀剣男士がどうのこうのいう以前に東洋ではむしろ我々人間の魂は分割されるものなんだ。

しかも仏教だと唯識的にはこの世は夢のようなもので、華厳的には心は巧みな画師であり、禅の世界には作者という言葉がある。

この現実そのものが我々の心が作り上げている一つの物語という名の世界である、と。

ではその認識を成立させている中で大事なものは何なのか。

悲伝の三日月がかつて自分は足利義輝を守る刀だったと言いながらも、今は三日月宗近だからという理由で鵺と義輝の手を取らなかったように、外見や名前の問題なのか。

夢語の長義が国広に言ったように、たとえ姿・肉体が変わっても己の本質を保つ、内側の魂のことなのか。

……最終的に両方の概念を段階的に獲得させられるんじゃね? って気がします。

名前鬼。鬼に触れられる前に名を呼んだ相手を「鬼」にできる。

綺伝のガラシャ様と忠興の関係を基準に置けば、鬼はそれこそガラシャ様の求めた忠興。

花が本当に愛するもの、だからその物語に「鬼と蛇」という名がついているもの。

名を呼んで鬼にする。

その鬼に斬られる(救われる)ために。

10.散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき

慈伝の時点でなんだこの美しい地獄はって感想だったんですが、綺伝まで見たらもはやみんな全力で地獄に向かってるなと思いました。

地蔵くんの立ち位置本当にどうするんだ。
国広右近やって地蔵くん両方やるのお前忙しくねーかこれ……。
そして下手すると歌仙役もやる羽目になる。

ううん。歌仙……歌仙までやるのかなやっぱりこれ。

審神者の命。長義の願い。本丸の未来。すべてが一致してしまう気がするこれ。

綺伝の地蔵くんのガラシャ様への想いは本当これさぁ……原作ゲームの極修行で国広が自分の山姥切の逸話を背負ってこなかった理由そのものだろう。
イコールで離れ灯篭の歌詞。

長義に「山姥切」でいてもらいたい。そのためなら自分の名は物語の一つでしかないと、切り捨ててもかまわない。

慈伝時点での予想から、維伝から綺伝まで見たうえでの今回と前回の考察で結構内容動かした気がしますが、そうすると構造が離れ灯篭の歌詞解釈の方に見事に一致してきたなと。

慈伝時点での言葉遊びだけだとどうしても長義と国広それぞれに起こるイベントが区別つかないな……と思っていたらなんのことはない、二振りとも意味的には同じことをやらせます、というだけの話だった。

一対はまさしく表裏一体の関係性。表があれば裏がある。
光があれば影がある。影は光と同じものを差す。すなわち影あれば光あり。

慈伝で同田貫の代弁する偽物呼びへの怒りよりも、本音ではむしろ次郎ちゃんの代弁する呼称なんてどうだっていいから仲良くしよう! の方が強いと感じたように、国広側から長義への想いで一番強いものは、地蔵くんのガラシャ様への想いと同じものだと思われる。

「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし(在原業平)」

『伊勢物語』の主人公のモデルとされる在原業平。

綺伝は地蔵がガラシャをさらい、古今がこの歌を詠みながら本丸に助けを求めてくるところから始まる。
古今には決して兄弟である地蔵を傷つけられない。
その会話は、原作ゲームだと歌仙と古今だけのシーンとして演出されますが、綺伝だとこの場面に長義くんもいるし、上の和歌の作者が在原業平であると冒頭で皆に説明する役も長義だった。

鬼神大夫行平こと刀工・豊後行平は刀に「桜の紋」を切る。
そして行平の刀二振りは、それぞれ実装時の公式Twitterの紹介で「蛇」であることを明示されてもいます。

古今と地蔵の二振りは原作の最初から「花」であり「蛇」、すなわちガラシャと同じものである。

そして同時に、舞台の長義・国広も同じであると。

地蔵行平の詳細はほとんど残ってはいないけれど、歌仙兼定と同じく細川忠興が一振りもっていて明智光秀に贈ったことが確実。

同じ忠興の刀のはずなのに、ガラシャの対応を巡っては、歌仙と地蔵で心が分かれてしまっている。

そうだな……地蔵・歌仙が同じ忠興の刀と考えるとやっぱり地蔵とガラシャと歌仙の結末をなぞる……国広は歌仙役もなぞるのかねぇ……。
というか歌仙と地蔵自体が本来「忠興の刀」の分割された一対なのか。
だから忠興が死んだそのあとこそ、この二振りはそれぞれ忠興の心と役目を分担しなければならない……。

ガラシャ様は地蔵くんが自分を斬れないことを許したけど長義くんはあらゆる意味で国広に逃げを許さないだろうし。

慈伝で自分と勝負するよう喧嘩を吹っ掛けたのは長義くんの方からで、綺伝でガラシャ様が終わりを求めたように、長義くんも事態が抜き差しならなくなったのを悟った時点で自ら終わりへと突き進むんだろう。

ガラシャ様は地蔵くんには姉呼びを求めたくらいで基本優しいですが、歌仙のことは「鬼」とも呼ぶし、自分を斬らせるために結構煽っていったからね。

慈伝で秋の日日の葉に春への想いを隠していた時からずっと、第2部は「花」への想いの話なんだよね。

「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし(在原業平)」

もしもこの世に桜の花が存在しなければ、春にもこの心は穏やかでいられただろうに。
己の心を騒がせる桜への恨み言の体で、むしろ心を惑わすほどに美しい花への愛を詠う。

在原業平のこの歌には、返歌が存在する。

返歌「散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき(詠み人知らず)」

散るからこそ、桜の花は素晴らしい。この憂き世に、永遠など存在するだろうか。
端的に「諸行無常」の精神ですね。

つまり舞台の第2部の帰結もこの歌になると……。

構図が整理されてきて物語としてはどこまでも美しいけれど。

もはやどうあがいても地獄。きっと美しい地獄の物語になる。