「坂龍飛騰」「花影ゆれる研水」「結びの響き、始まりの音」から考える「記憶」の考察
注意
まだ「坂龍飛騰」を観ていない方は当たり前ですがネタバレなのでご注意ください。
今回は「坂龍飛騰」の結論を以て「花影ゆれる研水」の一期一振の心情を見直し、そこから更に「結びの響き、始まりの記憶」と「坂龍飛騰」を合わせて陸奥守吉行周りの物語の意義を探る考察になります。
「記憶」に関する考察でもある。
つまりこれまでの考察をある程度理解している方向けの内容です(いつも通り)。
これまでの考察結果を踏まえるので、ミュージカル以外のメディアミックスの話も大前提としてバンバンします。
1.「花影ゆれる研水」の一期一振の心情について
悲しみを埋めるものは、優しさではなく、愛。
「坂龍飛騰」から得られたこの結論をもとに、まずは「花影ゆれる研水」を話の中心である一期一振の心情を中核としたギミックの観点から考え直したいと思います。
と言っても、大まかな印象は前に「花影ゆれる研水」の感想として出したものから動かないと思います。
その印象がどういう理屈から成り立っているのかある程度言葉で説明できる検討がついたので、より深く「記憶」というギミックについて考察できる状態が整っただけで。
一期は、ただ秀吉に優しくしたかったんでしょね。
この結論自体は花影の感想から変わらない。
花影の感想や考察だとまるで悪人のように敵視された解釈をされることもある花影の秀吉ですが、実際の物語中の一期自身は秀吉に敵意や恨みどころか、反発のようなものさえ一切見せていないという事実に最も着目するべきだと思います。
我々が原作ゲームその他のメディアミックス等で目にする一般的な一期の印象から言っても、一期の本心として何らかに恨みを持ったりするよりは、元主にただ優しくしたかったのが本心なんだなと捉えてよいと思います。
ではこの「優しさ」とは何か?
というのが「坂龍飛騰」の方で得られた「悲しみに寄り添う」、あるいはただ相手に「寄り添う」という姿勢だと思われます。
ミュージカルというより、おそらく「刀剣乱舞」という作品全体で「優しさ」の定義をこの「寄り添う」感情や姿勢としていると考えると、これまでの作品や他のメディアミックスでいまいち不明瞭だった部分がかなりクリアになると思います。
そして一期一振は、豊臣秀吉に「寄り添いたい」「優しくしたい」と思いながらも。
――できなかった。
「記憶」がないから。
これを前提にサントラで言えば「映す己 映る己」が流れている辺りのシーンを見返すと一期の思考の流れが追いやすくなります。
「私は本当に一期一振なのでしょうか?」
こういう思いを抱くのは、一期が自分に記憶がないために、秀吉に「寄り添えない」ことを気にしていたからなのだと。
多分、「記憶」がないだけならそれほど重大なことではないんでしょう。
同じように「記憶」のない骨喰・鯰尾や、もともと物語を持たないと言う薙刀たちが過去や記憶を得ること、取り戻すこと自体にはあまり執着した様子を見せないように。
一期一振が「記憶」がないことを気にしているのは、そのせいで元主である秀吉に「寄り添えない」自分を知っているから。
一期は秀吉に寄り添いたかった。優しくしてあげたかった。
相手の幸福を同じように喜び、相手の悲しみを同じように悲しんで、相手と共に滅びる。
でもそれができなかった。そうしたかったのに、できなかった……。
だから「花影ゆれる研水」という話のスタンダードな解釈としてまず、一期一振は「記憶」がないことで自分自身が求める理想を叶えられず悩んでいる、ということになります。
そしてこれは原作ゲームから同じだと思います。
一期一振の極修行手紙を読み返しても、おそらく一期の願いとして、秀吉にも、過去の自分にも、本心では「寄り添いたい」が本音で、でもそれができないという現実が結果だったのでしょうね。
だから「花影ゆれる研水」で一期が影打のカゲに向けた言葉は、きっと本心以外の何物でもない。
「あなたの中に 私はひとときの夢を見たのでしょう」
豊臣秀吉に「寄り添える」一期一振……カゲという存在は、あまりにも「一期自身にとって理想的な一期一振」の姿だった。
一期一振とは豊臣秀吉に寄り添える、このような刀でありたいという一期の願い。
そして、決して己自身の名を得られず「一期一振」になりたいと思うカゲの願い。
「花影ゆれる研水」で起きた出来事を考えると、この辺が鍵のようですね。
ただ単に光徳さんが影打と一期を入れ替えたことが理由かという問いは作中で他の刀剣男士たちの会話で否定されていますから、むしろ一期一振自身が「記憶」のない己を「私は本当に一期一振なのでしょうか」と否定してしまった部分が大きい。
つまり、あの一件を引き起こしたのは一期自身の心。
ここでちょっと現実の事象と物語的な定義を整理しておくと、
現実で記憶喪失になった人がまったく優しくないとか言ってしまうと現実とズレる恐れがありますので、
「記憶がない」=「寄り添うことができない」
というこの図式自体は、あくまで「刀剣乱舞」という物語上の重要視すべきギミックだと考えられます。
むしろ他メディアミックスの骨喰くんが足利義輝の前で戸惑う様子が結構入る辺り、刀剣男士は人間的には相手に優しくしたいという想いを抱いていても、「記憶」がないと明確に相手に「寄り添う」ことができない、という描写だと思われます。
一期自身にとって理想の一期一振とは、「カゲ」。
豊臣秀吉の喜びや悲しみに寄り添い、鶴松を命懸けで救おうとし、鶴松を殺した刀剣男士たちに秀吉の代わりに「よくも鶴松さまを……!」と敵意を向けられるカゲ。
でも、だからってカゲに一期一振になってもらおうっていうのはさぁ……正直カゲに失礼じゃね?(言い方)
秀吉に優しくしたい、でもできなかった。
この空白が生む悲しみに端を発する一期の願いは真剣で切実。
けれど同時に、それは「一期一振」という「名」に囚われた考えでもあります。
「私は本当に一期一振なのでしょうか?」という文章は、「名」の方に重きを置いてる考えです。
名前や号があれば価値があるわけではなく、名がなければ価値がないというわけではない。
で、「花影ゆれる研水」というのは、話の中心である一期がそれに気づいたという物語でもあるんだと思います。
「記憶」がないから相手に優しくできないことに悩み、そんなものは「一期一振」に相応しくないと己を否定し、己の夢を叶えてくれる「カゲを一期一振として」希求する。
でもそれは構造的には、カゲの存在を一期一振という名のために利用し、取り込みたいという考えなんですよね。
一期は己という個を否定して名に引きずられてものを考えた結果、カゲの個も否定してカゲを己の物語、「一期一振」として取り込む羽目になった。
でもそれって違うよね。「一期一振」だろうが、「影打」だろうが、それぞれに同じ「吉光の太刀」の中の一振り同士としての価値が、歴史が、物語があるはず。
だからこそ、クライマックスの一期とカゲのやりとりに繋がる。
「流石吉光の太刀 よき刀ですな」
「伊達ではないその名を見せつけましょう」
「忘れろ! 覚えておくな!」
「そう言われても 自分の影 いや 私の兄弟のことを忘れるわけには行きませんな」
カゲはただの「一期一振の影」ではなく、同じ吉光の太刀という、兄弟刀の一振り。
一期一振は自分を見失うあまりに己と共に影打の物語も否定しかけた。だからここで入れ替わりが起きた。
そして一期一振が己を取り戻した時、影打の物語も元に戻る。
その名で語られず消えるだけの影ではなく、その時存在した吉光の太刀の一振り、我々も知る吉光の刀たちの、大切な兄弟の一振りとして。
だからこそ最後のカゲの笑顔に繋がる。
一期は己を否定していたけれど、同時に影も「一期一振」になりたくて己を否定していた。
だから秀吉に求められた時にも笑えなかった。あの時の彼はまだ己の物語を持っていなかった。
最後の戦いで一期に斬られて消えるその時にようやく、彼は彼の物語を得られた。
「結びの響き、始まりの音」の名もなき遡行軍たちが、土方さんと共に死ぬことを選んだその時ようやく物語に出会えたように。
「花影ゆれる研水」は「名」という呪縛から己を解放していく物語であって、だからこそ最後は忘れえぬ「よみびとしらず」の歌を捧げて終わる。
歴史の表舞台から消えたために名を残さなかった、けれど愛しいものたちへの歌を。
……今振り返ると、「坂龍飛騰」で提示された情報で「花影ゆれる研水」がすっきりと説明できる!
悲しみを埋めるものは、優しさではなく、愛。
一期は秀吉に優しくしたかった。
けれどそれができないことに悲しみを抱いた。
その悲しみを埋めるものは優しさ(寄り添うこと)ではなく、愛(寄り添わないこと)。
秀吉の悲しみに寄り添ってあげたかった一期一振の願いに最も反する行動、秀吉の大切な息子・鶴松の殺害。
一期は秀吉に寄り添う優しさを捨て、寄り添わないという愛を、歴史を守ることを決意した。
己自身、「一期一振」として。
それこそが、真に悲しみを埋めるもの。
優しさとは「寄り添う」ことだと考えると、「花影ゆれる研水」の光徳さんも基本的には「優しさ」で描かれていたと思います。
彼は磨上で多くの情報が失われてしまう刀の立場、刀に寄り添う優しさでものを考えた。
そして同時に、一期一振は粟田口吉光の生涯の傑作だという「名」の方に囚われてもいて、だからこそ一期一振と影打を入れ替えた。
それは己の見たいものだけを見た結果、己自身の心に惑わされた結果。
自分が優しさだと思っているものが、自分を騙すこともあるという結論。
けれど多分、一期はそれでも秀吉と同じく光徳さんのことも恨んではいない。
だからこそ相手に聞こえないと知っていても優しく語り掛けていた。
あなたの優しさは知っている。けれどそれは私を救わないし、私は応えられない。
ただ自分にできることをするだけ。人が己の人生を生きるように、刀剣男士も歴史を守り続けていくだけ。
と、いう感じで「坂龍飛騰」の情報を踏まえて「花影ゆれる研水」を見返すと、ここで触れなかった男士なども含めてより一振り一振りの内面を掘り下げることができると思います。
そして「優しさ(寄り添う)」と「記憶」という要素が深く結びついたギミックであることに気づいたところで、今度は「結びの響き、始まりの音」で言及された陸奥守吉行の「記憶」の話に移りたいと思います。
2.「結びの響き、始まりの音」の陸奥守吉行の記憶について
とうらぶのギミックって、基本的に双方向に作用してますよね、というのがこれまでの考察で得た前提の一つです。
世の中には一方通行で不可逆的なものがいくつもあるはずですが、とうらぶのギミックらしき要素は大体双方向。そして一方の属性が極まると逆転する関係性も多い。
それを踏まえた上で「花影ゆれる研水」の一期の心情を辿り直して得た図式を取り出します。
「記憶がない」=「寄り添うことができない」
双方向なので試しに逆転させてみましょう。
寄り添うことができないなら、記憶もまたない。
一般的な認識はともかく、「刀剣乱舞」という物語上のギミックで考えるならこうなるのではないか。
そして相手の悲しみに寄り添うことができないことと、記憶が失われていることに相関があるとするならば。
「結びの響き、始まりの音」でむっちゃんが龍馬の最期を「忘れた」と言った理由はこれなのではないか?
「坂龍飛騰」からすると、陸奥守吉行は元主・坂本龍馬を愛しているからこそ、龍馬に寄り添わず、龍馬の歴史を守ると言う愛を選んだ刀なわけでしょう。
寄り添わない。相手の死を表だって悲しんだり、その命を救おうとすることは選ばない。
相手のために泣くことはできない。
だから「忘れた」。……つまり、寄り添うための「記憶」を自ら捨てる道をある意味選んだということなのではないか?
物語的にどういうエピソードとして存在しているかは置いといて、論理的には一貫性として取り出すことができるようになったかなと思います。話の展開がそれだけ進んだということですね。
「結びの響き、始まりの音」では更に、和泉守兼定によって陸奥守吉行は「心がない」と評されています。
これも「花影ゆれる研水」の考察から持ってくるとわかりやすくなるなと。
光徳さんが自分の心に従おうと思って一期に寄り添う選択が、のちに否定されたように。
「優しさ(寄り添う)」=「心」と考え、それを否定するものが「愛(寄り添わない)」
という図式になります。
陸奥守吉行のキャラ造形に関しては「結びの響き、始まりの音」からこの論理で描写されていたと思います。
「結びの響き、始まりの音」で名もなき遡行軍にトドメを刺さなかったように、むっちゃん自身は本当は、「名もなきもの」に寄り添ってあげたい性格をしている。
けれど、そういう性格でありながら、他の誰より大切な存在である元主・坂本龍馬の歴史を守るためにそこだけは寄り添わないことを選んだ。
「名もなきもの」への寄り添い、つまり「坂龍飛騰」に登場した物部の名もなき青年への想い。
それでも「坂本龍馬」の歴史を守る。この葛藤の中にいるのが陸奥守吉行ということでしょう。
「坂龍飛騰」の物部くんは、彼も基本的には「優しさ」を全面に出した性格だと考えられます。
死んだ龍馬の亡骸の耳元で「あんたの人生 俺が引き継いでやるよ」と言い、龍馬の知り合いだったから岡田以蔵に肥前忠広を渡す。
彼は相手に寄り添い、相手のために動く。
けれどそれを否定し、龍馬の人生を己の人生として生き抜くことを選んだ。
龍馬に寄り添うのではなく、己の人生として生きるために本当の意味では龍馬に寄り添わないことを選んだ時に、あの世界の「坂本龍馬」という歴史になった。
「悲」という字は「心」に「非ず」と書く。
「心がない」という「悲しみ」を埋めるものこそ、「優しさ」ではなく「愛」。
って、これ舞台の「悲伝」「慈伝」の論理やないかい!
3.「心」とは寄りそうもの?
もともと考察上に「言葉遊び」の要素を組み込み始めたのは舞台の「悲伝」から「慈伝」への流れがあるからなんですよね。
「心」に「非ず」と書いて「悲」。
心があるからこそ悲しいのに、という「悲伝」のシナリオの中で示された言葉遊びです。
そして「心」「茲(ここ)」に在りと書いて「慈」。
「慈伝」で国広が探したかったのは、知りたかったのは三日月の心。本丸に帰りたいと願う想い。
……ところでここ最近、無双の漫画版や映画刀剣乱舞の考察を進めた結果ですが、「慈伝」にしろ無双の第1章伯仲の章にしろ、長義・国広の「山姥切」の物語の周辺にはいつも同じテーマがあるっぽいんですよね。
「自分を見失うな」「心を取り戻せ」
無双の漫画版が一番わかりやすいと思いますが、振り返ると「慈伝」もそういう話じゃなかったか? と。
三日月が刀解されて以来、上の空の山姥切国広に本歌である長義が喝を入れる話だよな、と。
そうして自分を取り戻した国広の結論がどう呼ばれようとも「俺は俺だ」、であり、その時五虎退の探していたどんぐりを通じて三日月の「心は茲に在った」ということを知ることになる。
心に非ずと書いて「悲しみ」。
「悲しみ」を埋めるものは、「優しさ」ではなく「愛」。
無双の漫画版で敵に操られている状態の黒田官兵衛が甥の秀次を殺した秀吉の所業を非難し、「心を取り戻してもらわなければ」と言う。
その黒田官兵衛に対し、山姥切国広が「あんたも心を取り戻せ」と告げる。
龍馬に寄り添わぬことを選んでいる陸奥守吉行は「心がない」と評され、
一期一振に寄り添おうとした光徳の心は、一期自身が彼の推測とは別の結論を出したことで否定される。
この辺を総合して考えると、
「心」とは、あくまでも「自分の中の相手に寄り添う気持ち、優しさ」辺りを指していると考えられます。
「優しさ」ではあるけれど絶対的なものではなく、正解でもない。
むしろ「花影ゆれる研水」や「坂龍飛騰」はここを否定する結論として目立つけれど、無双の第1章のようにそれが必要な場面もある。
「心がない」=「悲しみ」
「寄り添わない」という選択は「記憶」の喪失や否定に通じ、陸奥守吉行は龍馬の最期を「忘れた」とも言う。
「忘」は「心」を「亡くす」ですから、大和守安定の修行手紙で沖田くんを「忘れる」と書いていたのは、沖田くんに寄り添う気持ち、沖田くんと共に死にたいと願う気持ちを捨てることができたら、ということでしょうね。
その「悲しみ」を埋めるものは、寄り添う「優しさ」ではなく、寄り添わない「愛」。
以前の考察でやった通り、話数的にミュージカルの「結びの響き、始まりの音」と舞台の「慈伝」が対応している感じで、ミュージカルの「結びの響き、始まりの音」と今回の「坂龍飛騰」、舞台の「慈伝」と今回の「十口伝」は中心人物である陸奥守吉行・山姥切長義の物語として表裏の構成と言う形で対応している。
となると、この辺りの関連ワードは全部もともとこの位置にあって、ミュージカルは陸奥守吉行、舞台は山姥切長義中心にそれぞれ展開させたのではないか?
「心」に関してもう一つかなり大きい位置を占めているのは「心伝 つけたり奇譚の走馬灯」なんですよね。
ただ、あの話を一口で言い表すにはまだ全然ピンと来てないんですよね。うーん、うーん。
あれかな……光徳さんの想像した一期一振の本心が間違っていたように、相手に寄り添おうとする優しさが生むものこそ作り話、つまり「つけたり」だということでしょうかね?
相手に寄り添ってその心を想像するからこそ、時に推測を外してどんどん余計なものを付け加えて行ってしまう。
けれど現存しない新選組の刀たちのほとんどがそうであるように、人のその行為自体が一文字則宗の言う通り「愛」でもある、と。
「愛」と「優しさ」は突き詰めると逆転するよねという結論は以前出しましたが、これもそれかな、と。
作り話を付け加えること、その維持を望むこと。それは相手がそれを望んでいるだろうからそうしてあげましょうという一種の優しさであり、ある意味「愛」だと言える。
でも、本当のところはわからない。それって自分の一方的な思いなのかもしれない。
「優」と「愛」のタイプ分けは国広と長義、正反対の性質を持つ山姥切二振りを基準にするとわかりやすい。
国広は相手から物語を奪うのは可哀想だ相手のために物語を残しておこうと考える「優しい」性格であり、それがある意味「愛」だと言える。
でも、長義くんがそれを望むとは限らない。
長義の極修行手紙は確かに情報が少ないが、あの文面からはそうした逸話という装飾を望んでいない性格に見える。逸話よりも己という刀の切れ味、本質的な強さを重視している。
だからこそ己と写しの関係を「それだけのこと」とばっさり切り捨て、本歌と写しの間に特別な繋がりがあることをある意味否定し、個としての己を確立する。
でも一方で、メディアミックスなどを見ていると、寄り添わないその姿勢こそが最大の「優しさ」であるとも言える刀でもある。
舞台は国広の修行である「単独行」でいくつもの織田信長像をやった後に、「心伝」が入り、その次に今度は長義中心の「十口伝」か。う~ん、この連続性。
「心伝」の分析自体は進んでいませんが、「単独行」で思いを馳せよと幾つもの信長像を生むことが許された後に無数の作り話、つけたりである「心伝」の話をやって、その次に江戸時代の刀剣学者の名を背負ってあの世界に存在する、創作の刀剣学者・昭和の鎌田魚妙の物語を「十口伝」でやる、か……。
「心」と「作り話」を中心に、なんとなく薄っすら相関性が浮かび上がって来たような……。
舞台の次は「士伝 真贋見極める眼」か。
例え愛によって増えた作り話であっても、増えすぎた物語はやはり真実を探すための真偽判定によっていつか削られていく。というところか?
もとの天保江戸にない要素が明らかに付け加えられているので今考えるには難しい。実際の舞台を見てから考えましょう。
ミュージカルの方は「花影ゆれる研水」でカゲによる一期への成り代わりを却下。
「陸奥一蓮」で阿弖流為・母禮の二人は生き延びるための成り代わりや逃亡を否定、己として死ぬことを選ぶ。
今回の「坂龍飛騰」は成り代わりを否定した上二つとは逆で、成り代わりを肯定する。ただしそれもあくまでも自分が自分であるための成り代わり。
漫画版無双で国広・秀吉双方が「自分を見失う」話をやっていたことから考えると、「花影ゆれる研水」の秀吉はあくまで一期自身のもう一つの姿であったのかもしれない。
一期が記憶を失っても刀剣男士として前に進まなければならないように、秀吉も息子を喪っても前に進まなければならない。それが自分自身の歴史だからと。
寄り添って共倒れになることはできない。お互いに自分が自分であるために、相手には寄り添わない。
一期は自分が「記憶」を失う未来に通じると知っていて、秀吉の大事な息子を殺す。
喪ったものの大切さが、それを取り戻せない事実が、今の欠けた自分を形作っている。
一見静かに物事に対処している一期一振の内面の本当の嵐は、息子を失うまいと足掻く秀吉の狂乱にこそ重ね合わせられるのかもしれない。
無双と映画の考察を踏まえると、やはり刀剣男士側と人間側、遡行軍側それぞれ同じことを描いていないか? 同じ問題に対処していないか? という点ももうちょっと突っ込んだ方がいいっぽいっすね。
「愛」と「優しさ」の性質分けと「自分」「心」「名」「記憶」
この辺りのギミックを中心に、本当にごく薄っすらと全体でどういうことを言いたいのかというテーマに足が掛かりました。
今回はこの辺りにしておきます。
「坂龍飛騰」の「悲しみを埋めるものは優しさではなく愛」という結論はやはり重要だと思われるので、「花影ゆれる研水」だけでなく他の作品も一度ちょっと見返して一振り一振りの想いをもっと深く掘り下げた方がいい気がする。今後の方針とします。