(Twitter再録)
極修行の関連性。
23年最後の小烏丸から、24年組の大典太さんと豊前江まではそこはかとなく相関性があるような。
小烏丸が途中で翼が重いとか嘆きの子らの手を振り払うとか言っているのと、大典太さんの方で地に落ちた鳥の話をしているので両者は同じものと仮定したほうが、意味が通じる気がする。
大典太さんが気にしている地に落ちた鳥の思いとは、小烏丸が修行で嘆きの子らとやらに引っ張られそうになっていたように、その手を振り払えず飛び続けられなくなった存在ではないか。
小烏丸は自分と彼らの違いを自覚して戻ってきたけど、それができなければ鳥は地に落ちるだけ。
鳥は誰かを救いたいもので、落ちた鳥はその願いを叶えられなかったものではないか。
二通目の雰囲気的に大典太さんはそれまで地に落ちた鳥の方に自分を重ねていたけれど、三通目で病魔を斬り続け姫を救ったことで吹っ切れた。そして自分が空に還る時は地に落ちた鳥も連れていく決意をしたのではないか。
鳥の意味に見当がつくとその辺の哀惜と労りが実に美しい物語だと思います。
そして次は豊前。「疾」は「やまい(病)」とも読む字なので、「疾さ」を求める豊前の立場は大典太さんの手紙の中の病魔の方に近いのでないか?
鳥、鳥を供に病魔を斬る刀、病魔側と、それぞれで視点を交替している気がする
大典太さんが自分の内側に見たものが光であり、豊前が疾さの先に見たものもまた光。ここにテーマの連続性がある。
さらにメディアミックスの方を考えると、ミュージカルの三日月が水心子を通して平将門から「入れ込み過ぎると負けたものに引きずられる」と伝えられたのも小烏丸の修行と同意味ではないか。
三日月は舞台の方だと不如帰関連で「鳥」枠ですが、その「鳥」の意味を辿っていくと、ミュージカルの三日月像に行き着くのか。
極修行手紙はその刀それぞれの物語の意味の他に、前後の刀同士の連続性がやはり重要なのではないか? と思いました。
これそのうち全員検討しないと駄目か……。