山姥切長義極に関する予想
最低限にしてこれが全ての前置き
長義・国広の話にしては徳美の論文がほぼ全てなので、山姥切長義と山姥切国広の研究史を知らない人はあれを呼んで最低限の内容を頭に叩き込んでおいた方がいいと思います。
参考:
「「刀 銘 本作長義(以下、五十八字略)」と山姥切伝承の再検討」
1.これまでの振り返り
私が長義くんの極予想に関して一番最初にある程度まとまった形にしたのは、研究史とその解釈がある程度不動になって、そこから当時判明していた情報を基に「山姥切国広の修行手紙の内容を全て正反対にする」という手法で予想を出した2023年の4月頃の話です。
そしてその翌月舞台の戯曲本を読んでから「慈伝 日日の葉よ散るらむ」を見てうわーっと派生を含む大変な考察タイムに……(遠い目)。
ついでに約一年後の今年4月にはミュージカルをようやく長義くん登場の「花影ゆれる研水」まで見てやっぱりうおおおお!! とそれまでのあれこれを総合した大変な考察タイムに……(遠い目)。
原作ゲームの解釈は原作ゲームからの情報だけで出せるのが一番スマートでしょうが、とうらぶに関しては原作ゲームから派生作品まで全部同じ構造で作っていると思われますので、普通に原作ゲームの考察をする上でも派生からの情報をガンガンにフィードバックしたいと思います。
この辺の派生作品(メディアミックス)の扱いに関する考え方は前々回の「特命調査考――鬼と狐編――」で一度まとめましたのでそのスタンスで行きます。
と、いうわけで、今回はほとんど原作ゲームと現実の二振りの刀剣の研究史だけで出した当時の極予想をまず振り返り、そこから派生やここ最近のシナリオイベントを見て考え方が発展したりちょっと修正したりしたい部分を整理していこうと思います。
原作ゲームと研究史の解釈だけで出した予想は以前に雑な画像にまとめましたので、とりあえずこれです。
いつもここの考察を読んでくださっている方は正直耳タコでしょうからすっ飛ばして大丈夫です。
2.山姥切長義の自己認識とは(「花影ゆれる砥水」参照)
一年前の予想からちょっと修正したいのは、派生を見ると長義くん逸話の記憶もってないのでは? という方に意見が傾いたことですね。
特にミュージカルの「花影ゆれる砥水」での鬼丸さんとの会話にそれが顕著です。
「鬼なんて伝説上の生き物だろう」
「すまない 今のは忘れてくれ」
「化け物切りは強い刀の代名詞だ だからあなたは強い刀なのだろうな」
慈伝含む他の作品だと(と言いつつ私が見ていない作品もまだ結構あるんですが、とりあえず映画は未見)どうしても長義くんがどこまで知ってるか断言できなかったんですが、少なくともミュージカルの長義くんはこの口ぶりだと逸話の記憶なさそうだなって。
「化け物切りは強い刀の代名詞」
え? ってなるよね。
いや、違うでしょ。普通は単に化け物を斬った事実を写しただけのも……あ、この子逸話の記憶とかねーわ。
鬼を斬った逸話持ちの「鬼丸国綱」の前でうっかり「鬼なんて伝説上の生き物だろう」と零してしまったのも、「化け物切りは強い刀の代名詞」というのも、おそらく長義くん自身は本気でそう思っているんだろう。
何故なら「山姥切長義」は、別に山姥を斬ったわけでもないのに、いきなり「山姥切」と呼ばれ出した「本作長義(以下58字略)」だからだ。
普通はそれを己の性質自体に関係あるものと結びつける。だから逸話もないのにそう呼ばれ出した「山姥切長義」は、「化け物切り」を「強い刀の代名詞」程度にしか思っていない。
自分が強い刀だと自信に溢れ、他に臆することのない高慢で美しい刀にとっては、俺がそうだから尊称の意味で与えられたんだろうとそう考えている。
でもそれこそ花影鬼丸さんの反応通り、本物の化け物切りの刀たちの実情は違う。
鬼丸国綱は鬼を斬った。(『太平記』)
髭切は鬼を斬った。(『剣巻』)
にっかり青江は幽霊を斬った。(京極家の伝承や『武将感状記』等)
山姥切国広は、山姥を斬った。(『新刀名作集』)
斬った系の名前持ちが全振りそういう保証があるわけではないけれど、少なくとも鬼丸や青江などの化け物切りは、そういう伝承があるからこそ己を鬼や幽霊を斬った刀だと認識しているのだろう。
「花影ゆれる砥水」を根拠にすると、山姥切長義には山姥を斬った記憶がない。
それどころか、そもそもその名の根拠に逸話が必要という考え自体を持っていないものと思われる。
ミュージカルを全ての作品の基準にしていいのか? という疑問・保留要素は一応残しておくものの、この解釈で舞台や花丸、そして原作ゲームの山姥切長義の態度を考えても特に違和感はないと思う。
むしろ国広との間に名を巡る対立が発生するのは、少なくとも長義の視点からは「お互いに」逸話という根拠など存在しないし必要ないと考えているのではないか?
つまり、派生各本丸で長義が国広に勝負を吹っ掛けるのは実のところどっちが強いか白黒つけよーぜ! ぐらいの意味しかない。
その上で、長義行動は各派生の考察をした結果、結局のところ自分に自信が持てなかったり落ち込んでいたりする国広を元気づけたいだけの行動なのだと考えられる。
この考察も死ぬほど繰り返したが、特に「花影ゆれる砥水」がわかりやすく、長谷部を元気づけるためにわざと手合せを申し込んでいたりするので、慈伝も花丸も根幹は同じ考えだろうと考えられる。
とりあえず、山姥切長義の極要素のうちの逸話への言及に関しては、そもそも逸話の記憶がないどころか、山姥切の号を名乗るのにそもそも山姥を斬った逸話自体を必要としていないと考えているだろうというのは重要である。
山姥切の号に関する対立が単に「どちらが強いか」ぐらいの話だとしたら実際に国広に負けても感情的にはせいぜい悔しい程度の問題にしかならない上に、国広が力を示して写しも十分に強い刀だと周囲に認めさせることができるなら、長義視点では両方が並び立つことが最初から十分に可能だったという解釈の認識になる。
本丸に刀剣男士の「山姥切長義」はどちらかと言うと、「山姥切長義」とは名乗るけど自分が霊剣という自覚自体はなくて、強い刀の代名詞たる化け物切りの称号をもらえるほど自分は良い刀だからね! と考えている「本作長義(以下58字略)」、と言っていいと思います。
3.山姥切長義関連の話の相関性
3ー1.実装順の踏襲から見るフラグ
長義くんの極予想に関しては、原作ゲームの情報からだけ出した最初の予想の時点で関係がありそうなフラグがここ最近原作ゲームで立った。
今年の4月、大慶直胤の実装。
ここ最近の実装男士は、
後家兼光
火車切
富田江
大慶直胤
丙子椒林剣
九鬼正宗
このうち「火車切」の「火車」が猫の妖怪とも言われるのが重要である。
九鬼にも「猫ちゃん」扱いされている通り、火車切は広義の猫斬りとして南泉と同じ「猫(猫斬り)」メタファーと考えられる。
猫斬りはこの二振りだけでもないが、比較的珍しい性質と言えばそうではないか。
(猫関連だけならもう少し広がるけど)
これによって刀剣男士の実装順が一定の法則で踏襲している可能性を考えると上の六振りに対応するその順番は
静形薙刀
南泉一文字
千代金丸
山姥切長義
豊前江
祢々切丸
で、「山姥切長義」と「大慶直胤」は実装順というメタファーの配置に関して表裏の関係である可能性がある。
山姥切長義の極予想で、私が一番大事だと思うのはここである。
長義くんは事実誤認の真相を知り国広の逸話を知ったら――「喜ぶ」のではないか?
喜び、すなわち慶び。大慶の「慶」と同じメタファー。
何百回でも言うが、国広が自分の極修行で事実誤認の事を知って悲しんだのは、自分のことより長義のことを考えて、本歌の逸話が喪われるのを悲しんだのだと考えられる。
この国広の態度は、自分よりも長義を大切に想っているものの態度である。
立場を逆にするなら、長義はむしろ、国広に逸話があることを知って喜ぶのではないかと考える。
それこそが、国広を大事に想っているものの態度だから。
このように実装順の踏襲から考えると、大慶と長義が表裏の関係で、大慶が実装された天保江戸の物語と山姥切長義関連に相関があることになる。
(逆にこれが確定するなら、江戸三作の物語の裏側に山姥切の物語があるので相互の表裏関係から考察していけることになる)
3-2.「嫉妬」のメタファーの存在
派生の一つである花丸の映画版、「雪の巻」では長義と国広がお互いに嫉妬を口にする場面がある。
長義は国広に「妬ましい」
国広は長義に「羨ましい」
と口にする。
この「嫉妬」、原作ゲームにはまったくない要素で花丸が何故あんな描き方をするのかかなり不思議だったのだが最近やはり大慶の実装で判明した。
大慶との回想155で清麿が「僕は君に嫉妬している」と口にする。
花丸は山姥切長義を表面的には割と小物っぽく描いているのだが、メタファーの配置だけを真剣に追っていくと、実は意外と他の派生などとその骨格となる構造自体は共通しているのではないかと考えられる。
花丸が長義・国広にお互いの間の「嫉妬」を口にさせたのは、実はもともとこの二振りの裏側にあたる天保江戸の江戸三作にその要素がある、表裏の関係の「裏」側を描くのが花丸の主題であったからではないかと思われる。
3-3.「八つ当たり(怒り)」のメタファーの存在
舞台の長義・国広はお互いに怒りを抱きつつも、それを呑みこんで向き合う間柄だと思われる。
慈伝の時点で長義にしろ国広にしろ相手に何らかの言いたいことがありそうな節がある。ただし慈伝時点では山姥切の本歌と写しはお互いへの本心からの要望を口にはしていないとも思われる。
更に、夢語刀宴会になると、国広が割と唐突に長義にキレてるシーンがある。
「山姥切長義 他人事だと思って勝手なことを言うな」
「おや 俺の知っている山姥切国広であれば これくらいのことで動じるはずがないのだが」
「くっ」
状況から言って、あれは「八つ当たり」ではないだろうか。
回想157で丙子椒林剣が七星剣に見せた「八つ当たり」と同じだと思われる。
だから怒りのメタファー繋がりで、多分舞台はここの裏。
舞台は構造からして特命調査期間=国広修行期間なので、第一節の結論と国広帰還(修行完了)が重なると思う。
つまり、国広の極修行のまつわる問題が原作ゲームの対大侵寇防人作戦と同じ構造をしていると考えられるので、対大侵寇防人作戦の報酬である七星剣と密接な関連があり、丙子椒林剣の示した「八つ当たり(怒り)」のメタファーはかなり重要なものと言える。
花丸の嫉妬といい、舞台の怒り(八つ当たり)といい、この二つの派生の物語が実は当時原作ゲームでまだ語られていなかったこの第二節の物語のちょうど裏側にあたっていた可能性が高いと思われる。
清麿が大慶に嫉妬する理由、そして丙子椒林剣が七星剣に八つ当たりする理由にどちらも「似ている」という要素があげられる。
大慶は水心子に似ている。七星剣は聖徳太子に姿が似ている。
その「似ている」要素が重要であり、だからこそ本歌と写し関係である以上当然似ている山姥切の二振りとも表裏関係にあるのではないか。
3-4.「生まれる前」というフラグ
花丸「雪の巻」の江戸への出陣で、敵の目的を長義がこのように分析している。
「田沼意次を生まれる前に殺す」
生まれる前に殺すというのはかなり強力な存在否定の概念で重要だと思うが、少なくとも今まで原作ゲームで見えている範囲でそんな話題が出たことはなかったと思う。
しかしついに今回、「対百鬼夜行迎撃作戦」において敵の口からそのセリフが出た。
異去 百鬼夜行 其の12 『戦鬼』
戦鬼「……我ラト、汝ラハ、ナニモ……変……ワラヌ……」
戦鬼「……ナ……ニガ、チガ……ウゥゥゥ……」
戦鬼「トウ剣……ダ、ンシ…ナ……ド……生マレナケレ……バ……ア……アアアァァァッ……!!」
「刀剣男士など生まれなければ」
存在の否定ならば単に現在存在するものを殺すという考えもあるが、「生まれなければ」というのはつまり、その存在が「生まれてきたという歴史」そのものを否定する。
ただの存在の否定ではなく、その存在の「歴史」の否定という概念を含む。
これはかなり重要な要素であり、このイベントの次に極が来る刀が最も強くこの要素を包括していてもおかしくない。
そしてこの「生まれなければ」に現在一番近い要素を描いている派生作品が上記花丸の「雪の巻」による江戸での戦闘。
山姥切長義の物語なのである……。
とうらぶの物語を構造的に分析すると、第一節はまず特命調査の開始前と後の二つに大きく分けられると考える。
特命調査の開始と同時に実装された山姥切長義は、ちょうど第一節の中盤に登場した刀剣男士であり、その山姥切長義実装(2018年10月)直前の出来事に山姥切国広の極(2018年8月)という流れが存在する。
原作ゲームがまさに今第二節の中盤だと仮定すると、花丸はあれでいてかなり正確にもともと原作ゲームの完全に裏側の展開を描いており、それが最初から長義関係の要素だったのではないか? と考えられる。
ちなみに原作ゲームの2018年は予定がずれ込んだらしく、
2018年8月本来の予定
聚楽第・山姥切長義実装
秘宝の里・豊前江実装
山姥切国広・極
だったようだが、実際の2018年は
山姥切国広・極(8月)
聚楽第・山姥切長義実装(10月)
秘宝の里・豊前江実装(11月)
になったようである。
3-5.「友」に関する物語の表裏関係
「対百鬼夜行迎撃作戦」は、火車切が「友を助ける」話。
一方、前々回の考察でまとめた通り、特命調査の「聚楽第」は最終ボスの名が「ゾーリンゲン友邦団」なので我々の目的、優獲得の鍵は「友を斬ること」。
「友」というメタファーに着目した場合、「対百鬼夜行迎撃作戦」と「聚楽第」の目的は逆になるので、表裏の関係になる。
また、「友を助ける」話と「友を斬る話」の対関係という意味では、「聚楽第」と「天保江戸」の関係も同じである。
大慶実装に伴う諸々の話からしても、もともと「聚楽第」と「天保江戸」はかなり密接な表裏関係で繋がっていると考えられる。
更に舞台の方を見てみると、現在予告されている来年の舞台のスケジュールは山姥切長義主役の短編連作集「十口伝」と、特命調査「天保江戸」を描く「士伝」になる。
以前の考察でやったが舞台の話は天伝と无伝のように明らかに関わりのある組み合わせや、綺伝と禺伝のように二作ずつテーマが対になっているような話もあるので、ここでも山姥切長義の要素と「天保江戸」が近接にしていると考えられる。
ちなみにこの考察は2024年8月31日(9月の予定表が出た翌日、極の情報は来たけどまだわからず審神者たちが頭を抱えている時期)に書いたものである。
9月の予定表からするとおそらく極と同時かその前に実施される秘宝の里で追加される近侍曲は水心子正秀と源清麿の二振りである。
今回の極は長義か豊前かで審神者の意見も割れているが、この結果においてその対象と天保江戸の関連性についてよく考える必要が出てくる。
とは言っても長義と「天保江戸」組の関連性はすでに上でまとめた通りで、実はミュージカルの方を考慮するとミュージカルの「江 おん すていじ」で水心子と江と大典太という組み合わせで一緒に演劇をしている関係上、実はどっちでも正直「天保江戸」との関係は強いと考えられる。
何せ豊前側で考えても大慶の前の実装が富田江で、豊前はその富田との間に回想が追加されたばかりなので。そしてその内容である光と闇にまつわる問題も要は「影(朧)」絡みなので。
4.山姥切伝承の研究史
「対百鬼夜行迎撃作戦」で戦鬼は言った。
「刀剣男士など生まれなければ」
この要素が、何故花丸が描いているように、山姥切長義という刀剣男士に結びつくのか、実際の刀剣の研究史から考えてみよう。
長義は江戸時代の知名度を示す資料はあまりないらしいが少なくとも明治時代に入ったら「尾州の長義」として尾張徳川家の所有する長義の傑作の一振りとして有名になったことが『刀剣談』などからわかる。
大正に入って山姥切国広が発見され、国広の発見者の杉原祥造氏が二振りの本歌・写し関係を唱えた時は「北条家の長義」呼びをしている。
『新刀名作集』(データ送信)
著者:内田疎天、加島勲 発行年:1928年(昭和3年) 出版者:大阪刀剣会
目次:堀川國廣
ページ数:44、45 コマ数:36
之れによって観るに、国広は北条家の長義を磨り上げ且つ其長義を顕長の為めに写せしことによって、相州伝の鍛法を会得せしめ為め、其作風に一輔機を割せしものと思ふ、
少なくともこの頃までは明らかに長義は「山姥切」とは呼ばれておらず、国広は最初から「山姥切」と呼ばれているが、発見したばかりでまずその存在を周知するために文献上では「長義の写し」呼びをされていることも多い。
それでも一応様々な資料の扱いから考えると、基本的に「山姥切」と呼ばれているのは国広である。
しかし大正時代に山姥切国広の発見者である杉原祥造氏が亡くなり、その後の国広の扱いがどうも曖昧になっている。
刀工・堀川国広の傑作であることまでは周知されていたようだが、逸話への言及は少ない。
文献的には昭和の途中から「関東大震災で焼失」という扱いになっているが、この証言の出所がそもそも伝聞であり、確実性がない。
そして山姥切国広の再発見は1962年(昭和37)発行の『堀川国広とその弟子』で発表されるが、どうもその再発見に関わっている本間薫山氏・佐藤寒山氏辺りの世代の証言には現在から考えると事実誤認らしきものが見られる。
『堀川国広とその弟子』の著者である佐藤寒山氏は山姥切国広の焼失扱いの理由を「井伊家の蔵が燃えたから」だと認識しているが、そもそも大正時代には山姥切国広は井伊家ではなくその家臣の三居家所有なので、この間に井伊家に移動していなければ焼失する理由はなく、現に焼失しておらず、また移動の記録や証言はない。
この辺りの理由を考えると、そもそも山姥切国広を直接見たことがない再発見世代がそもそも国広の最初の来歴を勘違い……事実誤認していたのではないか? と考えるのが妥当である。
『堀川国広とその弟子』の頃の関係者は直接山姥切国広発見当時の事情を知る者がすでにいなくなった後の世代であり、伝聞によって話が変化してしまったと考えられる。
そして「山姥切長義」が誕生したのは、まさにこの「事実誤認」が根底にある。
山姥切国広の逸話が十分に周知される前に発見者の杉原祥造氏が亡くなってしまったので、号の由来がわからなくなった。
その間に誰かがこの号は本歌由来だと判断したため、本歌の長義が山姥を斬ったという逸話が生まれ、後輩世代に伝えられた。
その後輩世代こそが佐藤寒山氏たち再発見時の刀剣研究の中心人物たちである。
佐藤寒山氏はその著書複数で、山姥切国広のことを「先輩から聞いた」と証言している。
その先輩が誰かは不明だが、杉原祥造氏と佐藤寒山氏の年齢差や当時の状況などから、山姥切国広の発見者である杉原祥造氏本人と直接面識はないと考えられるのでおそらくそれ以外の誰かによる伝聞となる。
つまり、
「山姥切長義」という名前は、「山姥切国広」の号の由来である逸話が喪われなければ、そもそも誕生しなかった。
そして他でもない「山姥切長義」の誕生こそが……当時の人々から他の選択肢、すなわち「国広の逸話をきちんと探す」という道を、奪ってしまったのではないか?
国広が山姥を斬った逸話を、本当の意味で殺したのは「山姥切長義の誕生」なのではないか?
だから、
「生まれなければ」
「山姥切長義」が生まれなければ、山姥を斬った「山姥切国広」は死ななかったのではないか。
5.ここから生まれる
長義くんの本当の想いがどこにあるのかという話は今までにもさんざんやりました。
舞台でも、花丸でも、国広と直接本丸で対峙するシーンのある山姥切長義は、結局のところ、山姥切国広に国広自身の名と物語に誇りを持ってほしいというのが本音ではないのか。
慈伝は理屈の上から行くとそうなりますし、その理屈、長義くんの行動原理は「花影ゆれる砥水」を見るとさらにわかりやすくなります。
花丸は一見無軌道に国広に喧嘩を売っているように見えますが、ノベライズの元脚本からするとどうやら最初から長義くんの本心がいつも卑屈な国広に苛立っている、みなに認められているはずなのにいつも俯いていることが気に食わない……つまり、国広を本心では心配し、自分の物語に自信を持て顔を上げろ! と思っているらしきことが判明します。
山姥切長義はそうやっていつも本心では国広を心配し、自分の物語に自信を持て! と思い、それができないからこそ国広を責めるような口振りになる。国広が国広自身の名や物語を否定する卑屈な態度しか見せないからこそ苛立つ、というものらしく。
けれど研究史の整理から言えば、
国広がそうやって卑屈にならざるを得ないその理由、二言目には本歌と比べられ否定されなければならないその理由こそが……たぶん「山姥切長義」が生まれたからで。
国広が卑屈な原因は結局、一周回って長義くん自身の存在なんですよね。
っていうのが長義くんの極修行の最大のポイントというか試練ではないかと思います。
長義くん自身が何かをした訳ではない。もちろん。
でも国広自身が別に何かをしたわけでもなく、自分の研究史・歴史を見て本歌の存在感を食ってしまったようなものだと感じたように、長義くんからすれば、国広が卑屈である事に誰より苛立っていた長義くんこそが、その卑屈の原因だったと判明するようなもんなんですよね……。
誰より「与えたい」と思っている子が、自分が一番「奪ってしまった」と突き付けられる瞬間。
それって物凄い辛いことだと思うんですよね……。
そして「正史」を前に選択を迫られる。
「山姥を斬った国広」を見捨てないと、「山姥切長義」という物語は生まれてくることができない。
自分が生まれて来なければ、国広から何も奪わずに済む。
「山姥切伝承」が正しく伝えられるための歴史改変なんて、過去に行けるならほんの簡単なことで済む。
山姥切国広再発見後の寒山先生に、『新刀名作集』の押形のページをもう一度しっかり確認するようにさりげなく仕向ければいい。
人を斬る必要も、実現の難しい細工も、どんな苛烈な戦いも必要ない。
ただ、ぽんと『新刀名作集』のそのページを開いておいておけばそれだけで済むかもしれない。誰にだってできる。刀剣男士ではなく、我々普通の人間にだって。
そんな……そんな簡単なことで、のちのちの事実誤認は防げるのに……!!
それでもそんな本来正しいはずの行動を全て我慢して、逸話を忘れ去られそうになっている国広を――見捨てなければならない。
「山姥切長義」は、生まれて来なければならないから。
初出の書籍の確認を怠って逸話を見落とすことは単純な研究のミスだ。本来やってはならない。
寒山先生に関してはなまじ『新刀名作集』に押形が載っていること、その押形一枚しか山姥切国広の情報がないこと、その押形の写真原版自体は加島勲氏から寄贈を受けて日刀保が保存していることまで知っているからこそ、そこまでわかっていてまだ押形から拾い上げていない情報があるとは思わなかったのだろう。
それでも、念のために『新刀名作集』も読んでおこうかと調べなおせば、本当にすぐ気づけるはずだった。実際後年、福永酔剣先生は『新刀名作集』からその記述を拾い上げているのだから。
山姥切国広がせっかく再発見されたからと、その発見を喜び、その時知る限りの情報を残そうと『堀川国広とその弟子』を書いている研究者の注意をほんのわずか、初出を確認するよう誘導すれば見落としは防げた。それだけなのに、それだけで良かったのに。
それをすることは、歴史を変えることは、許されない。
正しい事実を後世に伝えるための行動が、それができなかった歴史を正史として持つが故に正しくない。
我々の正史は、「山姥切長義」が生まれたこの歴史だ。
「山姥を斬った国広」の物語が一時、忘れられたこの世界だ。
だから「山姥切長義」の誕生を否定することは許されない。
「山姥切国広」には――確実に一度、死んでもらう必要がある……。
例えその手を、ほんの少し伸ばせば助けられる位置にいるのだとしても!!
それが長義くんの性格からすれば、どれほど辛いことか。
けれどその辛さは、他の刀剣男士も通ってきた道。
源義経を、沖田総司を見殺しにしなければならない刀たちが、いつもしてきたはずの葛藤。
彼らの刀であるが故に、彼らが死んだその後に創られた物語。
元主を助ければ、自分で自分の存在を消してしまうことになる、悲しいことの次にいる刀たち。
刀剣男士は大なり小なり、みなそういう側面を持つのだろう。
だから山姥切長義も同じ道を辿る。
最も大切なものを喪うことになると知っていて、ここから本当の意味で「生まれる」。
最も救いたかった存在を踏み台にして、その立場を奪うことによって「名」を得る。
長義くんの認識、「本作長義(以下58字略)」の方が基準みたいだから、その認識上で本当の意味の写しは今目の前で喪われようとしている「大正時代に発見された、山姥を斬った国広」の方だろうに……。
「刀剣男士など生まれなければ」
いいえ、「山姥切長義」は生まれて来なければならない。
例えその選択が、他でもない「山姥切長義」自身にとって最も辛い選択だとしても。
6.廻り、廻る物語の立ち位置
「山姥切長義」が生まれなければ、山姥を斬った「山姥切国広」は死ななかった。
歴史の彼方に一度、葬り去られることはなかった。
けれど結局のところ、その国広を殺して生まれた「山姥切長義」にも終わりは来る。
1975年以降の、山姥切国広の逸話の発表。
私はよくこれを「逸話の再発見」扱いするが、正直発表している福永酔剣先生本人にはその意識はなさそうだ。
けれど佐藤寒山氏の唱える長義が山姥切であるという話を信じていた人々は、福永酔剣氏が改めて発表した山姥切国広の逸話の存在に動揺せざるを得ない。
山姥を斬ったのは本歌と写しの、果してどちらか。
いや、これに関しては写しの逸話の初出の方が早く、その出所は発見者が書き留めた当時の所有者の直接的な証言であり、本歌の逸話の説明は当時の状況を知らない世代の研究者の憶測しかない。
ならばこの現象は、本当は山姥を斬ったのは写しの国広であり、その縁で本歌の長義がのちに「山姥切」と呼ばれるようになったということだろう……。
……話を整理すると、本丸に最初からいる山姥切国広は1975年以降の逸話ベースの存在みたいですね、これ。
長義くんに関してはそもそも「山姥切長義」が生まれたのが1962年の『堀川国広とその弟子』以降だからそこからしかありえないんだけど、国広をどう考えるかでずっと迷っていたんですが。
国広視点だと存在としては1975年以降(再発見後の逸話)ベースだが、自己認識がそれ以前の長義の写しだから号の由来もコピーした存在ね! の方だと。うわ、ややこしいなお前。いや長義くんもだけど。
存在のベースと自己認識ずれてるなこれ。
上で「花影ゆれる砥水」を参考に考えた通り、長義くんの方は「山姥切長義」を名乗ってはいるけど基本的に「本作長義(以下58字略)」なんだと思います。
むしろ刀剣男士の「山姥切長義」が本当の「霊剣山姥切」になるのはこれから。極めてから。
「山姥切長義」とは、「山姥を斬った国広」を殺して生まれる存在。
その運命を受け入れて、本当の意味で「霊剣山姥切」としての「山姥切長義」になってくる。
国広側も多分、基本は1975年以降ベースの存在が極修行で別の段階に動いた感じがするので、多分どちらも極修行を契機に認識だけでなく存在の階梯も変化していると思います。
つまり、ここでとうらぶ全体の考察である「特命調査考」系の考察と合流します。
「聚楽第」は「友」のメタファー「ゾーリンゲン友邦団」を斬る話であり、この時点では敵側の動きは「友を助ける」ものであり、「友」の身代わりとなって死ぬものです。
国広の修行手紙の端々から窺える本音、本歌によらない自分の存在のよりどころを探しに行ったはずなのに結局自分を否定する行為、舞台の「諸説に逃がす」と同じで逸話を複数存在させることで山姥切長義の逸話を否定させず主に信じさせようとする行為の根底は、結局はこの「ゾーリンゲン友邦団」と同じことをしていると考えられます。
一方、特命調査も「天保江戸」になるとテーマが逆になる。
今度は「友を助ける」話の主体は我々側に近づきます。
政府刀である先行調査員の水心子正秀が、源清麿を救いたいと考えている。
この時のポイントとして、本来この特命調査の主役である蜂須賀の立場が「聚楽第」の長義に近いことがあります。
「聚楽第」では長義が国広を見ていた。監査官という立場で。
一方、私も文面だけだとあまりピンと来なくて復刻したイベントを直接やってようやくわかったんですが、「天保江戸」の蜂須賀って、清麿を助けようと必死な水心子くんを「見てる」んだなって。
だからこそ最終ボス直前で迷いが生じた水心子くんに「俺たちは刀剣男士として使命を果たす どんな想いも、力にして それでも進んだ先でだけ、出会える答えもある」(特命調査 天保江戸 其の73『一縷の』)と言葉をかけられる。
……うーん、これまでは「天保江戸」は単純に「聚楽第」の真逆と考えていたんですがちょーっとずれるかなこれ。
第一節後半は特命調査5つと対大侵寇の6章構成だと考えると、「本丸」「敵」「時の政府」の三陣営で考えた方がいいかもしれない。
長義くんと蜂須賀で立ち位置が逆になってるけど、本丸と政府刀は同陣営だけどちょっと別の存在としてずれ込みが発生すると考えると立場が変わる。
今回「対百鬼夜行迎撃作戦」に関しては話の主役が「政府の火車切(最果ての張番)」であったことが重要だと思うので、「政府刀」要素は多分無視できないですね。
「天保江戸」は政府刀が友を助ける話で、「慶長熊本」は政府刀が味方を裏切って敵を助けようとする話。うーむ。
長義くんは極で「本作長義(以下58字略)」から「霊剣山姥切」に移行で立場が逆転するような気がするけど、国広は極でどこに移動したかというと、名も逸話も否定するからどちらかというと逆に正史から遠ざかって朔月の闇の中の存在に移行したような気がします。
国広が自分は山姥を斬った刀だと素直に受け入れていたらああはならんやろ、と。
逆にそれを受け入れない方向に行っているから、極後の山姥切国広を大正の発見時の「山姥を斬った国広」と考えるのはちょっと難しい。それを否定する側だよなこれ……。
どちらにせよ、極修行で刀剣男士の自己認識が動くのは確定で、その動き方からすると反対に近い別陣営的な考え方になる。
長義・国広に関しては自分が山姥を斬った・斬らないの認識が変わることはアイデンティティほぼ正反対になってない? と言ってもいいくらいの大きな変化です。
この変化に関しては、前々回の特命調査考でやった通り、シナリオ進捗に合わせてメタファーの位置が変動(移動と変化)していることと無関係ではないと考えます。
敵側から見た特命調査は、
「友」を助けようとして「友」の身代わりになる「聚楽第」
「友」を助けたいが自分も結局一緒に死ぬ「偽物」の「文久土佐」
「友」を助けたい敵である政府刀に討たれる「天保江戸」
そして慶長熊本になると「友」のメタファーは高山右近と考えられるので話の中での存在感はかなり減り、代わりに「蛇」である行平刀が「花」から「蛇」に変わったガラシャ様を救おうとする話に移行する……。
多分、「聚楽第」から4視点に分けるのかな、と。
「ゾーリンゲン友邦団」が「友」のメタファー的にそのままこの特命調査の主役である「山姥切国広」のスタンスと相対するもののようなので、ここの釣り合いを重視しつつ、一方でその「友」に守られる「北条氏政」に「山姥切長義」が相対する構造なのではないか。
と、考えた時にその構造を簡単にまとめると。
山姥切国広――ゾーリンゲン友邦団・北条氏政――山姥切長義
天保江戸で同じように考えると
蜂須賀虎徹――源清麿・水心子正秀――水野忠邦
かなと。
……自分で書いといてなんだけど、この図、位置関係的に「月蝕・日蝕」の構造じゃねえか?
普通だったら
長義・国広――ゾーリンゲン・北条氏政
にするかと思うところなんですが、政府刀を一陣営でカウントする場合三つに分ける必要があるから必然的にこうなる。
とうらぶのシナリオ構造、メタファーの変動が回転する螺旋形だと思うんですが、その根幹に太陽、月、そして地球と言った天体の動きの図面があるんじゃないかなと思いますね……。
螺旋っぽいのは月の軌道(一つの輪が斜めになりながら回転するやつ)なんだろうか。
7.重陽の節句、陽(9)の重なる日
極の修行手紙の内容はそれ自体が刀剣男士の実装順や回想順、イベント順と結びついて一つの物語をなしているもので、その刀だけじゃなくとうらぶという物語全体の進捗に関わるものだと思います。
ここで長義くんが来ればほぼ国広の真裏と考えていいので、ある程度その辺を論理的に解釈できるようになって全体的に考察進むと思います。
1月の異去実装、もっと言えばその前の復刻・慶応甲府から第二節の中盤に入っているんじゃないかと思うんですが、特命調査が3つ復刻して新イベントが挟まった今がまさにその中盤スパンの中の更に真ん中の一点じゃないかと思うので、ここで長義くん極来るなら第一節で特命調査までの前半ラスト極の国広と本当に完全に対の位置にいますね……。
しかし中盤という概念を1イベントという点よりこの異去実装前後の一連の流れ、スパンで考えるなら正直もうここ最近の実装キャラとここから極める男士は同じテーマのグループでは? って感じなので多少前後しても意味合いは大きな意味では変わらないと思う。
仮にここが真ん中なら第二節の物語は
前半 対大侵寇終了・三日月極~異去実装まで
中盤 慶応甲府復刻・異去実装~天保江戸復刻・対百鬼夜行迎撃作戦~特命調査復刻終了
後半 特命調査復刻の流れ終了(この辺りまでに異去関係のシナリオ追加あるかも)~第二節最後のシナリオイベントまで
になる可能性が。
第一節が特命調査開始前後の2分割だったの比べ、前・中・後の3分割になるのではないかと。
中盤が1スパンだと特命調査復刻が半分終わって「対百鬼夜行迎撃作戦」が来た今がまさにその半分の中の更に半分。
ここで長義くん極来ると今までの諸々の歯車が全部噛み合って物凄く全体的にどういう話なのかわかりやすくなるんだけどね……さて、どうなることやら。
長義くんじゃなく豊前や祢々切丸でも「化け物斬り」と「化け物」のメタファーが近接しているので全体の話としては変わらないと思います。
ただ、天体系の話で9月の極は他にもう少し気になるフラグがあった。
9月9日は「重陽の節句」。
五節句の中で一番大きな陽数「9」が重なる9月9日を、陽が重なると書いて「重陽の節句」というらしいです。
この「陽」は陰陽の陽の気の意味での「陽」なんですが、それでもこの字的に当然天体の「太陽」と繋がる訳で。
舞台国広が三日月から「煤けた太陽」と呼ばれる理由。
「対百鬼夜行迎撃作戦」で実装された刀剣男士が「九鬼正宗」である理由。
この「九」が重要なのでないか?
「重陽の節句」、「陽(九)」が重なる日。
今現在実施されている「夜花奪還作戦」が9月10日までなので、予定表の並び的に9月の極はどんなに早くても「重陽の節句(9月9日)」以降になります。
太陽が二つ重なった後に来る極、そもそも「対百鬼夜行迎撃作戦」が百鬼夜行の中に九鬼が取り込まれてある意味鬼が重なり合っていた物語ですから、「鬼」自体が「太陽」と同一の役割を持つメタファーであった場合、「対百鬼夜行迎撃作戦」自体を「重陽」と考える可能性があります。
……というか、舞台の夢語で審神者が目を覚ます合図だったように夜花、花火自体がもしかして太陽の比喩? 夜花自体の解釈もまた改めて出しなおさないとですね。
前々回の考察を読んでいる方には伝わるかと思いますが、「猫はげんじつ(幻日)」の解釈からすると、「重陽の節句」、「太陽が重なる」はこの第一節で猫斬りに真っ二つにされた太陽の合一を示すという意味でも第二節の「対百鬼夜行迎撃作戦」は「対大侵寇防人作戦」の逆転、と捉えるんじゃないかと思います。
月と軌道、月の見え方の話になると月の朔望(満ち欠け)に関して、月の位相を八つ位に分けた図で考えると九番目は元の位置に戻って円環を一周する形になります。
とうらぶの円環螺旋構造図は完全に「月」そのものなのかも。
メタファーの重要度というだけでなく、描いているものが月そのものだとするとその軌道や満ち欠けは月を照らす太陽の位置と、まず月は我々のいる地球の周りをまわっているという衛星事情、天文学が重要になる。
「重陽の節句」的にはこれまでの長義・国広関係の考察でさんざん光・太陽のメタファーが近接して出てきたことを考えると、ここで長義くんの極が来ればまあ解釈がすっと行くかなと。
ただ豊前も回想148「光と闇のさきへと」でめっちゃ光と闇の話してるな!(結局絞れない)
光と闇、天下に影がつきまとうのはそれこそ舞台で「朧」=「影」の図式が確定して以降ずっと分析していた要素なので、豊前でも正直おかしくないと思います。
「闇」がどうの「影」がどうのという会話は長義・国広系とはまた別の意味で「朧」要素と直通だから豊前極が「対百鬼夜行迎撃作戦」と一対だとすると今後の思考をかなり「朧」メタファーの分析にもっていく必要がありますね。
ただ……。
長義くんなら「化け物斬り(鬼斬り)」要素が強くなると思うけど、豊前なら「朧(月の竜)」要素が強くなると思われるので、長義くんがここで来るなら次はその裏側に聚楽第、豊前が先に来るなら花であり蛇であるガラシャ様が話の中心だった慶長熊本が次の特命調査復刻に来るような気がします。
前々回の考察と合わせて今までの流れを踏まえて実装順、イベント順のメタファー刻みを予想してみるとこんな感じ?
→対百鬼夜行(友(鬼)を救う)
→九鬼正宗実装(友を救う・重陽)
→長義極(化け物切り)
→聚楽第復刻(友斬り)
→豊前極(化け物)
→(この前後で異去に何度か進展あるかも? こんちゃん回想みたいな)
→「化け物」関連の新刀剣男士実装(年末の連隊戦?)?
→慶長熊本復刻(蛇斬り・蛇を救いたい)
→「蛇」≒「朧」の「友」にあたる刀剣男士実装?
→第二節中盤の流れ〆のシナリオイベント?
異去関連がさっぱり読めないのでやはり順番は前後する気がしますが、この流れだとだいたい異去関連の流れを〆たところで祢々切丸極になる予想。
長義・豊前・祢々切丸だとメタファーが「化け物」関連で近接するから順番を入れ替えても通用するだろうけど、入れ替える意味あんまりなくねというか。
むしろこの予想だと最後の「蛇」=「朧」=「友」で一周するメタファーの持ち主が「童子切」ならこの辺りで祢々切丸が来ると「祢」という漢字の意味が「父の御霊屋・廟に祀った父」なので、新刀剣男士と極刀剣男士で「親子」(を葬る)メタファーが綺麗にハマる気がする……。
火車切は広義の「猫斬り」だけれど、大倶利伽羅の兄弟でもあるから回想143通り竜を引っ張り出したい男士であり、「竜」方面の要素も強い。
「猫斬り」と「鬼斬り(化け物斬り)」はほぼ同じ意味で、かつこれ自体が「竜」でもある。
と考えるとやっぱりこの位置は童子切になりそうなんだよな……。
これが「朧」の対極で。
そしてまったく予想が立たない今年の連隊戦で実装される男士……(少しはそっちも考えろや)。
ここまでの流れを特命調査の復刻みたいに繰り返した後、数年後に第二節の〆かなって。
と、言うことで9月の極予想であわあわして落ち着かない心を落ち着けようと「対百鬼夜行迎撃作戦」の「生まれなければ」の意味を中心として大体現時点でできそうな考察はしてみました。
あとはもう続報待機でいいよね?
最速だと夜花後の9月10日に極? そうなると一週間前の来週にはシルエット? 正直極とか毎回間が空きすぎて情報解禁ペース覚えてないんですけお!
期待が強すぎて逆に今から心臓が止まりそうです。俺の死が……来る!? だっておめー迎撃作戦とかこんなでかいシナリオイベの後の極が重要じゃねーわけないだろうが!! 誰が来ても死ぬ!!(力強い宣言)
とりあえず今は荒ぶる気持ちを落ち着けて精神統一したいです。
追記分 8.鬼から蛇へ、メタファーの変化
精神統一できませんでした。一度書いたことで頭が整理され、また思考が進んでいく無限ループです。
あと数日でシルエット出るのに……!!(落ち着けない)
慶応甲府の復刻からここまでの流れは第二節の異去編とも言うべき流れですが、ここまでの敵の属性で重要なメタファーは戦鬼の「鬼」でした。
次の敵、異去編の〆は、もしかして「蛇(竜)」になるんじゃ?
昨日自分で書いた部分が自分の頭の中でもう一度整理された結果なんですが、オイラ何気に重要なこと言ってないですかね。
豊前の物語が進むならそれは鬼よりも朧寄り。
祢々切丸も化け物切り、「祢」の意味が「父の御霊屋」なので、童子切と合わせて「親子」のメタファー。
……いや、待って。これじゃね? 答。
長義くんと祢々さん、そして今回の対百鬼夜行の主役の火車切もそれぞれどういう性質の化け物切りかって話ですよね。
まず、鬼と蛇の話から行きましょう。
派生で「鬼と蛇」の組み合わせが強調されてるのは舞台の綺伝だと思います。細川夫妻がそれぞれ夫が鬼、妻が蛇に見立てられている。そして原作ゲームでもたびたび「鬼と蛇」のメタファーは出てくる。
舞台の第一節後半分では前半部の綺伝辺りまで「鬼」に関するメタファーが真田信繁とか細川忠興など肝心なところでちょこちょこ強調されています。
だから私は後半でもこのメタファーを強調していくかと思ったんですが、心伝は「鬼」要素なかったと思います。
舞台の敵はある意味みんな「もの(物・鬼)」だと思うのであるっちゃあるとも言えますが、台詞で明確に「鬼」を使っているポイントがなかったかと。
強いて言えば土方さんが鬼の副長ですが慶応甲府は沖田総司・近藤勇の方が重要なので、天伝の真田信繁や綺伝の細川忠興に比べるとかなり重要度が下がったと思います。この状態が意味するものは?
……メタファーの変動、回転と変化、つまり。
「鬼」のメタファーは物語の回転により脇に寄ったことで見えにくくなった。
代わりに重要になったものは別のメタファー。そしてそれは何か?
……「蛇」ではないか?
しかもこれ、直接的に「蛇」と表現するのではなく、「水の中」「水」「川」などの水に関わるメタファーに紛れるのではないか?
だから心伝の敵、沖田総司は「鬼」というより「蛇(水の中=沖)」というメタファーでは?
ここまでの考察でメタファーの回転により敵も味方もぐるぐると属性を移行していることがわかりました。
味方側の動きを見ると特に、「聚楽第」は友斬りの話であり、その主役を見つめるものは政府刀の長義であったものが、「天保江戸」になると主役の蜂須賀が見つめる側になり、一方で政府刀は友を助ける話になっている。
物語の回転によって、敵、政府刀、本丸側で立ち位置がずれこんだ。
「聚楽第」と「天保江戸」を比較するとおそらく
友を助ける 敵(ゾーリンゲン友邦団)→政府刀(水心子・清麿)
相手を見守る 政府刀(長義)→本丸(蜂須賀)
友を斬ろうとする 本丸(国広)→敵(水野忠邦)
三竦みの形式で全員きれいに立場を移動したのでは?
「聚楽第」から「天保江戸」まででまず一度全体的に立場が逆転する。
しかし、第一節における「特命調査」の話はこれで終わらない。
「天保江戸」の次は「慶長熊本」。
そのボスは細川ガラシャ、ガラシャの意味は「神の恩恵」。
おそらくガラシャ様の名前も全部メタファー的に重要ですね。細い川に神の恩恵。
「物」が鬼であるように、「神」もまた「鬼」である。
細川夫妻の間に「鬼と蛇」のエピソードがあるのは史実ですが、それを差し引いても舞台の綺伝でガラシャ様が自分を「蛇」と称していたのがヒントかなと。
これまではどちらかというと「花」に着目していましたが、舞台の綺伝、「慶長熊本」に関してはその「花」が変化した先が「蛇」であることに着目したいと思います。
綺伝では歌仙はガラシャ様から細川忠興の代役の意味で「あなたが私の鬼なのね」と言われていましたが、同時に多分、歌仙自身も「蛇」なんじゃないでしょうか。
というか、細川忠興という「鬼」から、細川ガラシャを斬って「蛇」へ物語が移行するのがもともとの原作ゲームの「慶長熊本」の性質なんじゃないか?
古今と地蔵、行平刀は刀剣男士の紹介文の時点で「蛇」の言葉が使われているので最初から属性「蛇」です。
ガラシャ様も蛇。
ならば歌仙も原作ゲームだと本来は最初から「蛇」で考えるか、舞台を参考にするなら「鬼から蛇への移行」のどちらかではないかと。
(舞台の慶長熊本こと綺伝は原作ゲームだと天保江戸の位置なのでその調整で歌仙の鬼要素が強調されているとも考えられる)
最初に「聚楽第」と「天保江戸」を比べましたが、その間にはもちろん「文久土佐」があります。
つまりこの三つの特命調査の流れは
「聚楽第」 友斬りの話
「文久土佐」 友に関する話の移行期
「天保江戸」 友を救う話(この時点で立場が逆転)
という、物語の回転の間、完全に立場が逆転するまでの移行期を間に挟むのではないか?
舞台の維伝の話でちょこちょこやっていますが、維伝だと坂本龍馬は友を救おうとして片方である岡田以蔵とは意志を同じくする場面がありますが、武市半平太にははっきりと拒絶されています。
友であるが救おうとしても救えない、救わせてはくれない。
維伝及び文久土佐は、友を救う話の移行期、だと思われます。
この「移行」という途中概念が重要なのではないかと。
長義くんは山姥という山の鬼女斬り、つまり広義の「鬼斬り」。
そして祢々切丸は、「祢々」という怪獣の正体はよくわからないというのが真相なんですが(刀剣研究あるある)……もしどうしてもその正体に見当をつけるなら、『日本刀大百科事典』だと酔剣先生が日光地方の方言で「河童」のことをねねというので河童かもしれないという一説を挙げています。
河童。水棲の妖怪で、子どもを意味する「童」という言葉のつくもの。
祢々切丸の逸話は基本的に川の近くの話題ですね。
だから祢々さんを属性で考えると水棲のものを斬るという性質から、同じ化け物切りでも広義の鬼斬りである長義くんよりずっと「蛇斬り」に近い属性だと言えます。
そしてその間の豊前。
豊前に関してはそもそも化け物斬りではなく、「化け物」そのもののメタファーで、しかも「江」という水属性です。
豊前の話が進むなら鬼より朧寄りになるとざっくり書きましたが、いやまさにそれが重要なのでは?
対百鬼夜行迎撃作戦は明らかに「鬼斬り」の話。
だからその裏側で広義の鬼斬りこと鬼女斬り、山姥切の話の裏側をやって、
さらに「江」、「水」を作る化け物こと豊前江の話をやり、
最終的に鬼斬りとは逆の立場、「蛇斬り」に転換されるのでは?
つまり7の重陽の節句絡みでざっくり書いた予想のライン、メタファーを整理していくとまんま舞台の構成と同じじゃない?
舞台の対大侵寇編、つまり第一節の結論の中心は「朧(国広)」であることは間違いないと思います。その「朧(国広)」を斬った長義も重要ですが、そもそも大前提として「朧」とは何か。
「朧」は字的には「月の竜」と書く。
「対百鬼夜行迎撃作戦」の中で「朧(三日月)」はある意味己の半分と同じメタファーである「月」と一緒にいることが判明しましたが、そもそもこの「朧(三日月)」が最初に火車切に説明した、異去の奥から己を呼んだ「友」は何者か?
「竜」、なのでは?
「月の竜」、この両方の性質を併せ持つから「月」と「竜」と一緒にいる。
突き詰めていくと、文字通りのそのシンプルな構図になるのでは?
舞台の「朧(国広)」関係も、原作ゲームの「朧(三日月)」もそのメタファーの関係上、最後に合流する「友」は己の半身たる「竜」なのでは?
そして多分、「朧(三日月)」の「友」であるその「竜」こそが、「鬼」の対極である「鬼斬り」。
すなわち、童子切安綱。
童子――子どもを斬るという名を持つ刀。
この「童子」自体は鬼である「大江山」の「酒呑童子」という鬼の名前(ただしこの逸話は創作)から来ていますが、字面をそのまま漢字の意味から捉えるとうらぶのメタファーのルールからするとそのまま「子殺し」の意味だと思います。
祢々切丸の「祢」は「父の御霊屋」。
やはり一回考えた通り、祢々切丸と童子切を合わせると「父子」のメタファーが完成する上に、「朧(三日月)」の「友」は鬼というより「竜」ではないか? ということを合わせると全体的なメタファーの変動の方向性がなんとなく一定してきてきちんと整理されてくると思います。
「友」→「父子」
「鬼」→「蛇(竜)」
ついでに異去編が張番である火車切の実装から始まったことを考えるなら、
「火」→「水」
というそれぞれの属性の転換が起こると思われます。
……以前特命調査の考察で陰陽五行に則って特命調査の性質を考えた奴があるのですが、第二節がまるまる「文久土佐」だとするとこの「火→水」がもしかして「文久土佐(土を助ける)」?
特命調査の順番と連動して考えていてそっちの予想を外したのでちがったかーと忘れるつもりだったんですがもしかして単に練りがあまいだけだ、やり直し! コース……?(頭を抱える)
メタファーの変動、変化と移動がきちんとした順番でぐるぐる回り、三竦みの陣営を交替しながら起きているというポイントを押さえて考えるとこんな感じで変化が一定方向に整理されてくる上に、特命調査のようなひとまとまりの流れの中の半分で最初の位置から逆のポジションに行った上に、残り半分で逆属性をもう一度反転した結果、最後は一番最初の要素に戻ってくる形の円環の物語になります。
第一節における「友」のメタファーの正体こそが「竜」だと言うのなら、舞台の国広・長義の立ち位置がかなりわかりやすくなると思うんですよね。
「聚楽第」 友斬り=蛇斬り(最終ボスはゾーリンゲン友邦団)
「文久土佐」 蛇の進化系・竜斬り(最終ボスは坂本龍馬)
「天保江戸」 蛇・竜の住む場所、水斬り(最終ボスは水野忠邦)
「慶長熊本」 竜から鬼へ(最終ボスは細川ガラシャ、細い川と神の恩恵)
「慶応甲府」 竜と離れ、水の鬼へ(最終ボスは沖田総司、水の中)
「対大侵寇防人作戦」 鬼斬り(最終ボスは混=七星剣)
ああああああ! 「混」は「水」に「昆」だけどこれ「昆」の意味めっちゃ重要だな!!
「昆」
1.虫(「昆虫」とか)
2.兄(「昆弟」とか)
3.のち。よつぎ。(「昆孫」「後昆」)
んでもって成り立ちは……
「日と、比(ならぶ)とから成る」
「おなじ、同類である意を表す」
「借りて、「あに」の意に用いる」
「日」と、「比べる」と書いて「ならぶ」から成る……?
「同じ、同類である」意を表す……?
そして「兄」……?
いや、もうこれ答じゃね? 答じゃね??(頭を抱える)
日を比べると書いてならぶ、つまり、
日日
舞台の「慈伝 日日の葉よ散るらむ」の「日日」じゃんこれ!!
じゃあ七星剣の「混」は「水」の中の「日日」じゃん。慈伝の長義・国広じゃん!
そんでもって「強」メタファーでさんざんやった「虫」だし神官の意味がある「兄」だし。
ちなみに虫さんに関してはゾーリンゲンもドイツこと「独」なのでこれ「けもの」の「虫」だなとか考えていたんですが「混」ちゃんの中にもいたとは。
更にのち、世継ぎだから子どもや孫の意味もあると。
そしてこの「混」を斬って出てきたものは七星剣であり、漢字の「七」は刀で斬る意味があるってのはえーと前にやりましたっけ?(うろ覚え)
「星」はそのまま「日」が「生まれる」ですね。
二つの太陽が並ぶ「日日」を斬って改めて「星」になる(日が生まれる)。
猫斬りこと南泉の極修行内容から、「猫は幻日(げんじつ)」を意識して第一節直前にまっぷたつになったものは二つの太陽、ただし幻である「幻日」だという話をしましたが、それがここに繋がるのでは。
幻日=水の中の二つの太陽=竜
第一節が思ったより最初から竜寄りの話っぽい。
加州と沖田くんがどっちも「川の下」で「水の中」だって話は慶応甲府周りでちょっと触れたと思うんですが、その「水の中に棲むもの」それ自体が「竜」メタファーなんでは。
そしてこの竜は祢々切丸の逸話からすると河童でもある。
というか、日本の妖怪あるあるで、そもそもの「河童」が緑の皮膚をして頭に皿のある生き物っていう見解自体が割と最近(18、19世紀)できた固定イメージで妖怪の正体なんぞ土地によって話に幅があってわからんって言うか……。
どちらにしろ「河の子ども」を斬るというのが重要で、そこが太陽、星と言った天体系メタファーに繋がっていきます。
追記分 9.生むために生まれる、親子の物語
たとえ事実誤認であったとしても、「山姥切長義」は生まれて来なければならない。
それが正しい歴史だから。そして。
「山姥切長義」自身もまた――「山姥切国広」を生まねばならないから。
大正時代に発見されたときの逸話通り、「山姥を斬った国広」ではなく、「山姥切長義の写しだから号を写しただけで、山姥を斬っていない国広」……それ故に本歌と比べられるのを嫌がる、卑屈な国広を。
自分の写しの卑屈さを憎み、もっと己に自信を持て、誇りを持てと願う山姥切長義自身が、その卑屈な山姥切国広を生み出す。
「本作長義(以下58字略)」自身にとってはそちらが正しい本歌・写し関係になるはずの、「山姥を斬った国広」を見殺しにして。
「山姥を斬っていない国広」を生み落とすために、「山姥切長義」として生まれねばならない。
自分の本来の写しである、「山姥を斬った国広」を助けたいという想いを自ら否定して。
……つまりはこの「助けたい」という気持ちのメタファーこそが「友」という漢字一字なんでしょうね。
その「友」……「助けたい」という想いを斬り捨てて、新たに生まれる太陽。「日」が「生まれる」と書いて星。
斬られた猫は幻日、幻の太陽。
並ぶ日こと日日は「混」、「混」を斬り捨て「星」を得る。
生まれることが、生むことに繋がっている。
だから「生まれなければ」と己を否定することは許されない。
それはつまり、相手を助けたいという「友」の物語を斬り捨てて親から生まれ子を生む「親子」に物語が移行する、と受け取っていいのでは?
「友」の物語こそ「混」つまり「日日」の葉で、その「混(日日)」を斬って、新たな「日」を「生む」「星」を手に入れる、それが「親子(本歌と写し)」の物語。
この本歌と写しの物語のうち、「写し」は「偽物」。
「人」の「為」の「物(鬼)」であり、「似せ物」であり、回想10の「お守り」であり、「文久土佐」の坂本龍馬に繋がる。
模倣要素であり、愛から生まれる代役であり、土を助けるもの。
「友」であることを否定し、「親子(本歌と写し)」になる。
長義くんの極修行はこの傾向だと予想します。
人々の憶測という名の愛から生まれた山姥切長義こそがその憶測を否定し、しかしその憶測の結果である「山姥切長義」の名を肯定してくる。
「本作長義(以下58字略)」にとっての写しである「山姥を斬った国広」を否定して、本歌と写しの絆を否定しながら、「山姥切長義」の写しである「山姥を斬っていない国広」を生むという、本歌と写しの縁を作り出す。
矛盾ですね……たぶん、みんなそうなんでしょうね。
否定は肯定、肯定は否定。
そしてこの要素、回想141からの考察の方でやったんですけど、どんどん遡っていくんじゃないかと思います。
第一節は存在することそのものへの否定。
第二節は、生まれることへの否定。
第三節、第四節も「男女、すなわち夫婦が愛し合うこと」や「出会いの否定」という要素が中核に来ると思います。
ここでちょっと国広とは別の意味でやはり長義くんの対極に位置するキャラの考察を入れようと思います。
と、いう訳で、後家兼光の極修行はどうなるか? の話です。
ついこの間実装された子の極修行の内容を考えるとかもはや狂気レベルの気の早さ!!
追記分 10.愛を否定せよ
長義くんの対極、「強」メタファーの反対側にいる、ごっちんの極修行を考えましょう。
多分ごっちんに関しては、回想141がそもそも回想57の踏襲なんでは? ということを考えたらごっちんも多分長義くんと同じ理屈の極修行になると思うんですよね。
じゃあその理屈とは何か?
それはおそらく、憶測と模倣の否定。
憶測を止め、男女の情愛を否定し、男女の情愛を肯定してくる。
修行先は多分、御館の乱以前。
……いや待て、その時代だと「後家兼光の来歴にかすりもしない」。
上杉家の歴史に詳しい人は多分そう考えると思うんですよね。
後家兼光は太閤遺物ですから、秀吉が死ぬまでは豊臣家に在って、のちに上杉家縁になるとはいえ、御館の乱時代なんてまったく関係のない刀です。
ただし、後家兼光と一番縁の深い人物にとっては御館の乱が最も重要。
それは直江兼続……ではなく、その妻のお船の方。
後家兼光の号である「後家」、お船さま。
彼女こそが夫である直江兼続という存在を生み出し、直江夫妻の歴史を作り出した。
何故なら直江兼続という存在は、御館の乱の戦後処理の関係で殺された直江信綱の代わりに直江家を継ぐために、その信綱の妻だったお船の方と結婚して得た物語であるから。
人物としては生まれていても、お船の方と結婚して直江家を継がなければ、その人は「直江兼続」にはならないのだ。
そういう歴史の果てに「後家兼光」はいる。
だから、
ごっちんは過去に戻ってお船さまが兼続ではなく信綱と幸せそうに暮らしている姿を見る時が、一番歴史を守る気持ちに迷いが生じるのではないか?
彼女が兼続と結婚しなければ、後家兼光は、その主の直江兼続の数々の物語は、決して生まれなかった。
けれど、そのために、彼女の夫の死を肯定してもいいのか?
直江信綱とお船さまの愛を否定して、直江兼続の物語を誕生させる。
結局お船さまはその兼続にも先に死なれて後家となる。
その時代こそが、「後家」の号を持つ兼光にとってのゴール。
いつか来る別れのために、兼続とお船さまを出会わせる。
お船さまは、信綱と生きた方が幸せだったかもしれない。
そういう、愛にまつわる憶測を否定して。
「名」にこだわっているように見える山姥切長義がその「名」をある意味否定し、憶測の誕生を肯定してくるように。
「憶測」を賛美する後家兼光は、夫婦の未来に関する「憶測」を否定し、歴史に残った男女の情愛を肯定する。
……っていう、移行パターンじゃないかと思うんですよね。
ごっちんはほぼそのまんま長義くんの立ち位置踏襲ではないかと思います。
長義くんが「憶測」からできた山姥切長義がその「名」を否定してくるなら、「愛」故に「憶測」を肯定してきた後家兼光は、その「憶測」を否定する。
自分の守るべき、愛のために。
もう一つの愛を、否定する。
……えーと、この文章、一回考えた内容がどうもずれていたようで細部修正して流用してるんでまだちょっと違和感あるかも。
第一節の山姥切国広の物語から、第二節の山姥切長義の物語へ。
第二節の山姥切長義の物語から、第三節の後家兼光の物語へ。
と、言うことはごっちんが否定するのは最初に自分が長義くんに対して主張した「憶測」要素であり、しかもこれは同時に長義くんが選び取ってくる「親子」要素だと思うんですよね。
ここの「憶測」=「親子」要素をストレートに繋いでいいかで迷ってごっちんの極が第四節、間に別の一振りが入るパターンで考えてみましたが色々な意味でしっくりこない。
やはりごっちん極は第三節で、長義くんを否定する形になるので「親子」を否定して「夫婦」への話になると思われます。
この「親子」要素とはつまり「模倣」要素なんでしょう。
ごっちんが姫鶴相手に主張したのは「模倣」要素、長義くん相手に主張したのは「憶測」要素。
どちらも愛から生み出される縁と言えばそう。「写し(模倣)」の親は「愛」と言える。
火車切と九鬼の関係が、火車切によると「助けられたから友だち」。
ということは特命調査のテーマにおける関係性は
「聚楽第」 無から友へ(死の否定)
「文久土佐」 友から親子へ(友の否定)
「天保江戸」 親子から夫婦へ(親子、偽物、模倣の否定)
「慶長熊本」 夫婦から他人へ(男女の情愛の否定)
「慶応甲府」 他人から無へ(出会いの否定)
……か?
全部の要素をうまく埋めることが正直まだできないのですが、前回の回想141からの考察通り関係性を遡って否定していく流れはあるのかと。
そしてその関係性こそが各節の真ん中に来る主題ではないかとも思います。
舞台は天保江戸の位置が慶長熊本をやっている綺伝ですが、あそこで細川夫妻の愛憎、男女の情愛の問題を中心的にやっているのも、三番目にあたる物語の中核の一つが夫婦要素であるということなのかなと。
追記分 11.「猫」から「狐」へ、「幻日」から「瓜二つ」へ、そして
真の肯定は、否定とセットでなければ意味がない……。
だからこそ極修行は自分の最初の思い込み、これが一番大事だという価値観を揺さぶられるものを見せられてくる。
と、思います。
山姥切長義のこだわりの中心は「名」ですが、これは南泉関連との考察からまあ「呪い」と同義であり、「呪い」は「猫」と同義であり、さらに派生との位置関係から「糸(縁)」でもあるという。
そして「猫」はまた、眠る「こ」……すなわち「寝子(ねこ)」であり、「寝狐(ねこ)」である。
第一節はこの「寝子」であり「寝狐」であるものを真っ二つにするところで終わりました。
「狐」の字は「けもの」へんに「瓜」と書く。
瓜が二つで瓜二つ。よく似た二つのもの。
瓜だけならただの果物、そこにけもの……「化物(けもの)」が加わることによってようやく「狐」になるのではないか?
今回の対百鬼夜行迎撃作戦でついに名前が発表された政府のクダ屋さんですが、「狐ヶ崎」という刀なので刀工名にあたる部分は「為次」ですね。
その「狐ヶ崎」について面白い考察を見たのですが。
こんのすけが呼ばれているのは「狐が先」だからではないか、と。
駄洒落ですがとうらぶ運営は明らかに駄洒落大好きなのでその観点は重要ではないかと思います。
「狐」「が」「先」――「次」に生まれる、物語の「為」に。
第一節の本丸にはすでに南泉が顕現して「猫」=「呪」のメタファーとして機能していましたが、今本丸にいる狐関連刀はほぼ極済です。
残るは白山くんくらいですが、小狐丸や鳴狐と違って名前に狐はついていないのでちょっと気になるところですね。
白山くんの好物が瓜なのは史実にその要素がなさそうなのでそれこそ瓜二つの狐関連かなと思いますが……。
第一節は猫(幻日)をまっぷたつ、水の中の日日こと「混」を生み出して斬る物語でしたが、第二節はむしろ、二つの瓜こと瓜二つという縁の糸を断ち切り、「化物(けもの)」である「狐」に「成る」物語なのではないか?
追記分 12.特命調査の構造論2―火と鉄の船―
ごっちんの極予想を考えてみて思いましたが、男女の物語のために歴史の中の大きな戦乱を否定……ってこれ「慶長熊本」の要素じゃね?
本能寺の変さえなければ! って細川夫妻の離別を嘆く高山右近ポジのような……。
あの話なんで関ケ原の戦い関連で死ぬガラシャ様がそもそも1596年に? という疑問から始まりますが、その要素がこれなのでは?
男女の在り方の関係性から修正を考えるにはそのぐらい遡らないと、と。
後家兼光の極修行は多分第三節の真ん中近くになると思いますが、第三節のテーマが特命調査の踏襲ならここは「天保江戸」に対応していることになります。
国広・長義に見る第一節組と第二節組の極修行の関係性、そして後家兼光の予想も同じ要領で出せる以上、極修行に関しては前の節の刀の要素を引き継ぎ、かつそれを否定していく要素でできているんですよね。
しかもその結果は多分特命調査の踏襲順に見る。
第三節が天保江戸で、第四節が慶長熊本。
そして第三節に極が来るだろう後家兼光の極修行予想を考えると第四節の慶長熊本に近くなるということは……
第一節が第二節を生み、第二節が第三節を、第三節が第四節を、第四節が第五節を……と生み出していく構造。
そして今回の「対百鬼夜行迎撃作戦」と「文久土佐」、更に「聚楽第」を比べるとある共通点がある。
「聚楽第」は、北条氏政に逃げられ、我々は彼を捕まえることができずに「ゾーリンゲン友邦団」を討った。
「文久土佐」は、中ボス戦で吉田東洋が逃げ出す。その吉田東洋を罠を使って捉え、今度は確実に仕留める。
そして今回、「文久土佐」を踏襲していると思われる「対百鬼夜行迎撃作戦」で、我々はまた戦鬼に逃げられていると言える。
特命調査の中盤要素、「聚楽第」はただ敵を倒し続けるだけであまりギミックは感じないが、文久土佐からは中ボス戦にそれぞれ特徴がある。
この中ボス戦の特徴、前の特命調査の最終ボス戦を引き継いでるようだ。
「聚楽第」 敵を大量に倒す、最終ボスは「友」、しかし北条氏政に逃げられる
「文久土佐」 中ボス、逃げる吉田東洋を討つ、最終ボスは「偽物」の坂本龍馬
「天保江戸」 中ボス、鳥居耀蔵、鑑札により炮烙箱を探す、最終ボスは「老中」の水野忠邦
「慶長熊本」 中ボス、大村純忠、闇り通路を提灯で進む、最終ボスは「細川ガラシャ」
「慶応甲府」 タワーディフェンスと敵に見つからないよう進む2つのギミック、最終ボスは沖田総司と近藤勇
ということは、そもそも特命調査の構造は「聚楽第」が「文久土佐」を、「文久土佐」が「天保江戸」を……と、一つの物語が次の物語を生み出していく構造なのではないか?
我々は「聚楽第」で「友」こと「ゾーリンゲン友邦団」に邪魔されて逃げる北条氏政を捕まえることができなかった。
しかし、「文久土佐」では確実に吉田東洋を捕まえなければならない。
そのためなら南海太郎朝尊に敵の死骸から生み出した罠さえも作らせる。
……あのー、上で長義くんの極修行予想で国広を見殺しに国広を生み出す話をしたばっかだとこの構造ってさああああ!!
南海先生が敵の死骸として何をいじっているかについてはそれこそ回想152「新々刀の秘め事」で大慶と話していますがそういうことじゃないですかね。
死骸から生み出されるものは逃げた物語を捉える罠。
山姥を斬った国広を見殺しにして、その逸話から新たに山姥切長義を生み出すその研究史。
どの派生作品でも決して山姥切長義を無視できない山姥切国広。
じゃあ、「ゾーリンゲン友邦団」とは。逃げた「北条氏政」とは。
これに関してはまあ考え方が二つあって結局決着がつかない気がしますので飛ばしますが。
「天保江戸」の中ボスギミックが炮烙箱という爆弾なのは、「文久土佐」の火属性部分じゃないですかね。
「土」を生み出すものは火、また、火車切の存在も強く関わっている「文久土佐」の火要素。
「慶長熊本」の「闇り通路」に関しては、「天保江戸」の敵が「影」であることを考えれば、無明要素だろうなと。
光と影の物語、老中とだけある水野忠邦、水の中の心の国。
「慶応甲府」は陣取り合戦とハイラル城もとい敵に見つからないよう進むギミック。
……第五節ぐらいになると遡って否定される関係性が「出会い」ではないかと思うので、後半の敵に見つからないように進む甲府城ギミックは出会いの否定ではないかと思うんですよね。
「慶長熊本」はそれぞれの刀の性質の二面性が強調されているようですし、原作ゲームは元より舞台の綺伝を参考にすると細川夫妻は夫の忠興と妻のガラシャ、どちらかしか生き残れない関係のようです。その部分が陣取り合戦に象徴されているのかと。
前の特命調査の最終ボス戦でやり残したことを、次の特命調査の中ボス戦で解決する。そして最終ボス戦で新たな物語と戦う。
そういう構造になっていると考えられます。
……そうか、「天保江戸」の炮烙箱で江戸を火の海にする計画は「文久土佐」の名残なのか。
これに関しては実際に歴史の中で江戸を火の海にしようとした人が勝海舟なので、勝海舟の存在を示すものではないかという考察を原作ゲーム情報と史実からだけで以前に出したのですが……。
今回でようやく気付いたけど、これ、どっちでも結果的にメタファー同じだわ。
勝海舟は「海」の「舟」。
そして構造論から「天保江戸」を火の海にするものを考えても、やはり「船」。
回想其の151『鋼の先に』
笹貫「だけれど、いくら勇ましく鬼のような薩摩隼人であろうと火砲の前ではただの人間。その勇ましさを発揮することなく、機械的に排除されて死ぬ」
回想其の159『夢を運ぶ船』
陸奥守吉行「ああ、元の主が船で貿易することを夢見よったがじゃ。でっかい鉄の船で世界を巡る言いよったがよ」
九鬼正宗「でっかい鉄の船か! それなら、元の主の中に鉄の船を作ったもんがおった。鉄甲船言うて、織田信長の命令でな」
……第二節の最終ボスは、異去の奥から「船」に乗ってやってくるものではないか?
第二節の物語である「文久土佐」の最終ボスに関しては、正体がほぼ判明しているようなものなので大体いつも坂本龍馬と書いていますが、より正確に原作ゲームの情報を記すならこう書かねばならない。
「幻影主幹隊」
他の人を差し置いて龍馬が「主幹」という役職であるなら、その目的は海援隊……船で海外に出ることではないか?
笹貫と大慶の回想や、陸奥守と九鬼の回想で船の話題に触れているのは、最終戦のフラグではないだろうか。
第一節のような空を飛ぶものに代わって、第二節の敵は海を行く船によって攻めてくるのでは?
メタファーは回転し、物語は移行する。
最初は「鬼」を討つ側が、メタファーの変動によって最終的には自分自身が「鬼」となる。
その「鬼」に勝つために敵の「龍」が持ちだすものこそ「船」ではないか? 鬼のような薩摩隼人を殺すための鉄の船。
「船」のメタファーは大慶辺りからちょこちょこ触れてて、役割的にはいつも通り「般若(般若の船)」かもしれないけど原作ゲームの物語の中でどう描くのかなと思ったのですが、ここじゃないか、と。
「文久土佐」の決着、第一節が謎の空を飛ぶ物体だったのに対し、今度は海の上を行く船でやってくる。
さて、特命調査に関しての発想はここまでにして、続報を待ちます。
いや書こうと思えばまだまだ書けることはあるんですが体力の限界とカテゴライズの関係で……ごにょごにょ。