源清麿

みなもときよまろ

概要

刀工・源清麿

幕末の名刀工。山浦真雄の弟。通称は内蔵助、のち環。
銘文から、刀工名ははじめ正行または秀寿。号は一貫斎。

弘化3年8月の改名、「清麿」と切り始めたのは恩師・窪田清音のために打った一振りからだろうと言われている。

「清麿」という名の由来も研究者の憶測が色々あるが、戦前の研究書あたりからは剣の師であり刀工としての後援者である窪田清音と友人であり支援者の斎藤昌麿から一字もらった名だと考えられているようである。

1813年(文化10年3月6日)、出生

信州小県郡滋野村赤岩の山浦治右衛門昌友の次男として誕生。
のちにこちらも刀工になる9歳年上の兄・山浦真雄(やまうらさねお)とともに鍛法を研究した。

清麿が兄と共に鍛錬に切磋琢磨したことは兄・山浦真雄自身の手記『老の寝覚』で語られている。
家系の話は山浦家の家譜等の記録によるという。

「刀剣 (戊申第6集)」(雑誌・データ送信)
発行年:1908年6月(明治41) 出版者:
目次:四谷正宗並に其兄と姪 / 飯島花月 ページ数:84~86 コマ数:2、3
目次:老の寢覺 / 山浦眞雄 ページ数:86~88 コマ数:3、4

『勤皇日本刀の研究』
著者:内田疎天 発行年:1942年(昭和17) 出版者:公立社
目次:第十六章 山浦清麿の事蹟と其作品
ページ数:256~285 コマ数:144~159

『山浦真雄清麿兄弟』(データ送信)
著者:山浦武重 編 発行年:1955年(昭和30) 出版者:山浦武重
目次:(一)、 山浦家――家系・家職・家族等について
ページ数:4 コマ数:14

河村寿隆の門人?

『老の寝覚』で語られている通り兄の山浦真雄が河村寿隆に弟子入りした関係で、弟の清麿も河村寿隆の門人扱いされたり、その可能性を検討されていることがある。

長岡家の養子となり、その後、養家を出て松代城下で鍛刀

長じて隣村・大石の長岡家の養子となり、男児までもうけたが、天保2年(1831)養家を飛び出し、暫時松代城下で鍛刀した。

養家を飛び出した理由ははっきりとはしないようである。
しかし種々の研究書では長岡家の墓地に建つ碑文中に清麿のことも書いてあるとのことなので、深い事情があったようだと推測されている。

松代藩は戦国武将として有名な真田信繁(幸村)の兄・真田信之が入封して以来幕末まで10代約250年続いた藩である。

天保3年(1832)以後、松代で修行したことは
「山浦正行於海津城造之 天保三年八月日」
などの刀の銘文からもはっきりしているという。
(海津城は松代の城名)

江戸に出て窪田清音のもとへ

江戸に出て、幕臣・窪田清音の指導と援助のもとに、鍛法の研究に没頭した。

『勤皇日本刀の研究』の研究によれば、松代藩士・柘植嘉兵衛の紹介状を携えて江戸へ出府し、窪田清音へ入門したということが書かれているが、詳細には疑問が加えられている。

清磨が窪田清音へ入門したのは最初は刀工としてではなく、武術修行のためだったと言われる。

窪田清音は武術家としての立場から刀剣を研究して数々の著書を残したことでも有名であり、その著書(『撰刀記』や『鍛記余論』など)の中に清麿のことも書かれているという。

窪田清音は交遊ある諸大名、旗本等に請うて名刀を借り受け、その模作や研究を重ねることによっ清麿の刀工としての手腕が鍛えられたという。

武器講と源清麿

天保10年(1839)、窪田清音が武器講を作ってくれたが、天保13年(1842)、工債を果たさぬまま、長州萩へ出奔してしまった。

天保15年(1844)、小諸城下に数か月駐槌したのち、再び江戸に出た。

武器講に関しての事情は清麿の弟子の一人、斎藤清人が書き残していると言う。
ただし斎藤清人の入門は嘉永5年というこれより後のことなので、その事情も聞き書き、伝聞に過ぎないことには注意が必要である。

清麿の刀の銘文に
「武器講一百之一 天保十年八月日山浦環正行」と切ったものが現存しているという。

天保13年に萩にいたことなども
「於萩城山浦正行造之 天保十三年八月日」などの銘文から明らかである。

天保15年小諸にいたことは
「於信小諸城製源正行 天保十五年八月日」という銘文が示している。

そもそも「武器講」とは何か?

「武器講」、もとい「~~講」とは「積み立て」のようなものらしい。

刀関連は「刀剣講」であり窪田清音が源清麿のために作り上げた「武器講」はその一種だが、「伊勢講」や「冨士講」などの旅行積み立てや、「頼母子講」という富くじ的な講もあったという。

つまり「武器講を作る」とは、窪田清音がその職業上多くの剣士と知り合いである立場を活かし、彼らの作刀依頼によって清麿が安定した収入を得られるような仕組みを作ってくれた、という話になる。
(依頼した剣士たち側も比較的安価で刀を手に入れられるというメリットがある)

武器講の性質や詳細、そして一人あたり三両という掛け金が当時としてはどのような価値を持つか、また清麿による武器講用の刀の作刀が中断された理由はそもそも講元である窪田清音がこの時期失脚した関係ではないか、という検討は下記の『江戸の日本刀――新刀、新々刀の歴史的背景――』でされている。

『江戸の日本刀――新刀、新々刀の歴史的背景――』(紙本)
著者:伊藤三平 発行年:2016年(平成28) 出版者:東洋書院
目次:28章 武器講
ページ数:283~289

1842~1844年、萩へ行った二年間の事情

源清麿が長州萩へ行った事情は、武器講の刀を作る約束を果たさないままの出奔という見方がそれまでの定説であった。

しかし、近年ではこの時期長州へ赴いたのには事情があったという説(長州藩側から招かれたのではないかという推測)が採り上げられている。

『江戸の日本刀――新刀、新々刀の歴史的背景――』によると、長州藩の天保改革の中心人物の村田清風から注文を受けたことが、村田清風宛の前金受取の領収書などが残っていることから判明しているという。

『江戸の日本刀――新刀、新々刀の歴史的背景――』(紙本)
著者:伊藤三平 発行年:2016年(平成28) 出版者:東洋書院
目次:27章 いつの時代にも大切な芸術の支援者――清麿の場合――
ページ数:271~282

勤皇志士との関わり

『日本刀大百科事典』では、

それから円熟の腕で名刀をぞくぞく世に出すとともに、普勝伊十郎や斎藤昌麿など、安政の大獄に繋がれた志士たちとの交遊を深めていった。

とされている。

こうした勤皇家との付き合いから、清麿自身も勤皇家とみなす考え方がある。
昔から取沙汰されている話題らしく、戦前の研究書ではこの点をかなり気にしている。
清麿研究が載っている内田疎天氏の本の題が『勤皇日本刀の研究』という辺りからも察せられるであろう。

ただし、近年だと交遊はあくまでも交遊であって、清麿自身は勤皇刀匠ではないという見方が強いようである。

『日本刀大百科事典』で挙げられている名のうち、斎藤昌麿は特に付き合いが深い支援者でもあったようで、
『江戸の日本刀――新刀、新々刀の歴史的背景――』によると、清麿の自刃後は弟子の斎藤清人を援助し後事の処理にあたったとされている。

普勝伊十郎に関しては、刀の銘文に普勝家に関するものがあるという。

「四谷正宗」と呼ばれるようになる

江戸にもどってからは四谷の北伊賀町稲荷横町に居を構えていたため、“四谷正宗”と呼ばれるようになった。

『日本刀襍記』にはかなり伝聞の伝聞になるが甥の山浦兼虎談として清麿が生前に四谷正宗の名で呼ばれていることに言及していた記述があることから、この呼称に関しては清麿の生前から本人も知る異名であったことになる。

『日本刀襍記』(データ送信)
著者:川口陟 発行年:1943年(昭和18) 発行年:照文閣
目次:源清麿傳について
ページ数:69~93 コマ数:37~49

1854年(嘉永7年11月14日)、自刃による最期

『日本刀大百科事典』によると、

若年からの深酒がたたり、軽い脳溢血にかかったのを悲観して、嘉永7年(1854)11月14日、自刃して果てた。
行年42歳。四谷須賀町の宗福寺に葬られた。法名は「大道義心居士」。

自刃の理由に関しては比較的古い(戦前)研究書だと定説はないとされているものもあるが、最近(戦後)になると『日本刀大百科事典』のように酒を過ごして体調・病状を悲観したという見解が有力になっているようである。

『日本刀襍記』など古い研究書では自刃の理由も諸説紛々であったことが伺える。

『勤皇日本刀の研究』には門人信秀と清人の実話筆記と呼ばれる文章や宗福寺の過去帳の記載など興味深い記述も載っている。

源清麿自刃後の後始末

清麿は刀鍛冶としての仕事を抱えたまま自刃した。
そのため、後に遺された身内(家族、弟子、支援者ら)がその後始末をしたという。

特に清麿の弟子の一人・斎藤清人は師匠の工債を返すために刀を打ったことがよく知られている。

このため清麿の銘が切られた刀の中にいくつか清人が打った刀が存在することになり代作・代銘の問題が研究者や愛刀家を悩ませてもいるが、清人の人柄自体はよく称えられている。

「刀剣と歴史 (502)」(雑誌・データ送信)
発行年:1978年3月(昭和53) 出版者:日本刀剣保存会
目次:清麿の周辺について / 村山汎悠
ページ数:27~31 コマ数:18~20

作風

時世を反映して、長大なものが多い。
鍛法は入念な“真の四方詰め”。
地鉄は杢目に柾まじり、地沸え美しく、地景・稲妻などしきりにかかる。
刃文は尖り心の五の目乱れで、覇気横溢している。

切れ味については、みずから「焼刃のあらん限りは、刃味毫も相替り候儀、決而有之間敷」と保証しているだけあって、抜群の評がある。

その劇的な生涯と相俟って、人気は幕末刀工中、随一である。

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:きよまろ【清麿】
ページ数:2巻P113

昭和になってから名声が上がる

源清麿は元々「四谷正宗」と異名がつくほどの名工ではあったわけだが、昭和になってからの人気は藤代義雄氏の影響も大きいと言う。

この時期は新々刀中では虎徹と並んで最高の価格を呼んでいたとこのことである。

『入門日本刀』(データ送信)
著者:清水澄 発行年:1963年(昭和38) 出版者:徳間書店(リビングライブラリー)
目次:新々刀期の主な刀匠 源清麿
ページ数:178、179 コマ数:93

江戸三作という言葉

清麿人気に一役買ったのも藤代義雄氏だが、そもそも「江戸三作」という言葉を作り上げたのも同じく藤代義雄氏だという。

「刀剣と歴史 (582)」(雑誌・データ送信)
発行年:1991年7月(平成3) 出版者:日本刀剣保存会
目次:好古庵刀話(一二五) / 今野繁雄
ページ数:19 コマ数:14

『図鑑江戸三作之研究 : 正秀・直胤・清麿』(データ送信)
著者:藤代義雄 発行年:1936年(昭和11) 出版者:藤代商店
目次:序
コマ数:3

著名作

恩師・窪田清音のために打った一振り(重要美術品)

「太刀 銘 爲窪田清音君 山浦環源清麿製 弘化丙午年八月日」

弘化3年(1846)、窪田清音のために打った一振りで、現存し重要美術品認定されている。
研究書でもこの刀のことはよく話題に挙がっている。
そして、この刀から「源清麿」の名を使い始めたとされている。

『新・日本名刀100選』(紙本)
著者:佐藤寒山 発行年:1990年(平成2) 出版社:秋田書店
(中身はほぼ『日本名刀100選』 著者:佐藤寒山 発行年:1971年(昭和46) 出版社:秋田書店)
目次:98 窪田清音の清麿
ページ数:249、250

近藤勇の「長曽祢虎徹」との関係

近藤勇が京都に出発する前、江戸の刀屋で名刀を求めた。
刀屋は虎徹の業物と称して虎徹と銘の切られた刀を売った。
しかしその刀はその頃湯島天神下で「鍛冶平」と異名をとる偽銘切りの名手・細田平次郎直光に偽銘を刻ませたものだった。
虎徹の偽銘を刻まれたその刀こそ、当時の名工・四谷正宗と呼ばれるほど上手の源清麿の刀である。
と、いう説がある。

近藤勇の長曽祢虎徹に関して、『日本刀大百科事典』によればこの説が最も有名だと言う。

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:こんどういさみのかたな【近藤勇の刀】
ページ数:2巻P295

「刀剣と歴史 (498)」
発行年:1977年7月(昭和52) 出版者:日本刀剣保存会
目次:近藤勇の帯刀 / 浦郷喜久男
ページ数:36~40 コマ数:23~25

このエピソードは刀の研究書や新選組の小説だけでなく、源清麿中心の小説にも登場する。

『名剣士名刀匠』
著者:本山荻舟 発行年:1942年(昭和17) 出版者:天佑書房
目次:五 四谷正宗數奇傳
ページ:235~276 コマ数:122~143

しかしこの説は根拠がないどころか新選組の研究者が「原典は不明」とまで繰り返す信憑性の不確かな説となっている。

『新選組と刀』(紙本)
著者:伊東成郎 発行年:2016年(平成28) 出版者:河出書房新社
目次:1 近藤勇と虎徹 究極の銘刀の翳り
ページ数:8~15

その人気故に贋作が多い

偽物(ぎぶつ)、つまり贋作が多い刀工として知られる。

『日本刀襍記』などの頃から贋作について言及され、研究上の注意について触れている。
『新・日本名刀100選』でも古来愛好家に珍重されてきたが偽物が非常に多いとされている。

源清麿を題材にした小説

清麿は刀工としては小説の題材に挙がることが多いように思われる。

いくつか存在するが、そのうち斎藤鈴子氏の『刀工源清麿』に関しては、もともと鈴子氏の父・斎藤一郎氏が清麿ファンであったことなどが刀剣雑誌の記事でも触れられている。

「刀剣と歴史 (420)」(雑誌・データ送信)
発行年:1964年7月(昭和39) 出版者:日本刀剣保存会
目次:刀工源清磨の出版
ページ数:47 コマ数:28

(コメントしているのは酔剣先生)

ちなみに上の雑誌で酔剣先生は刀匠を主題とした初めての小説という言い方をしているが、源清麿を主人公とした小説はこれよりも出版が早いものだと吉川英治の『山浦清麿』(1938年(昭和13)初出)などがある。

吉川英治の『山浦清麿』は青空文庫で読める。

源清麿の墓に関するエピソード

宗福寺は安政2年の大地震と翌3年の大風害によってほとんど壊滅してしまい、清麿の墓も影響を受けた。
明治31年に刀匠・櫻井正次氏の主唱で墓石を再建した。

昭和15年にも福永酔剣氏の主唱によって山浦真雄清麿兄弟建碑会が成立した。

この辺りのことは『勤皇日本刀の研究』に詳しく載っている。

清麿の墓は上の宗福寺のもの以外にも

・清麿の故郷・長野県の滋野村赤岩の養家長岡家の墓
・清麿の弟子の一人・栗原信秀が紀州の高野山に建てた墓

など複数ある。

「刀剣史料 (16)」(雑誌・データ送信)
発行年:1960年4月(昭和35) 出版者:南人社
目次:墓所行脚 / 渡辺淳一郞 ; 川口大臥
ページ数:15~18 コマ数:9~11

調査所感

・新々刀一番人気の名刀匠

42歳で自刃だの社会の教科書にも名前が出てくる窪田清音の弟子だの派手なエピソードに事欠かない刀工。
新々刀の刀工としてはトップの実力者。

兄や弟子、支援者の話から場合によっては同じ四谷の名工・固山宗次とその地位を争って飲み比べをしたなんていう話まで飛び出してくる(この話の出典も知りたいが不明……)。

デジコレにも清麿関係の話が載っている研究書が多いので研究史を辿ることはそう難しくないと言えばないはずなんですが、その劇的な生涯からか、もともと色々なことを言われている刀工だけあって、様々なポイントで諸説紛々だったりします。

大正から昭和初期辺りの戦前の研究書だと研究者の先生たちがあっちこっち出掛けたり調査を頼みあったりして必死に情報を集めている様子も知ることができます。

清麿の墓(碑)に関しては、私もよくお世話になっている『日本刀大百科事典』の著者である福永酔剣先生が主唱して建て直したとか。これは水心子研究の本とかにも載っています。

・近年にその歴史が見直されてきた

最近は、これまで長州へ出奔したとか武器講のために集めた金をもって逃げたとか言われていた時期のことが、長州藩側から招かれて仕事しに行ったという説が出ています。

幕末頃の話で明治からの研究者がいるなら正しいことが判明しているかといえばそうではなく、当時に近い年代の人物であってもやはり直接見聞きしたわけではないことには間違いが含まれている、というのが清磨研究などを見ているとよくわかりますね。

師匠の工債を返すのに尽力してその人格を讃えられる弟子・斎藤清人さんの覚書がちょこちょこ研究書で引用されていますが、それもちょいちょい間違っているというくらいです。
正しい記録を残すのはいつだって難しく、史実を導き出すには先入観に捉われず当時の状況を調べなおす必要があると。

まぁ、色々調べてみると面白い刀工の一人だと思います。

・デジコレや青空文庫で清麿主題の小説が読める。

斎藤鈴子氏の『刀工源清麿』はデジコレにありました。
吉川英治氏の『山浦清麿』は青空文庫でも読めます。

刀匠が脇役や関係者に留まらず作品の主題、主人公とまでなるのはやはり珍しいと思います。
これも清麿人気の一端を示すと考えられます。

・『清麿大鑑』という本もあるらしいですが

デジコレにはないんすよね。
近藤勇の虎徹が鍛冶平の偽銘を切った贋作説はここが出典と調べた審神者が話していたりもします。

湯島天神に住んでいた鍛冶平の押形が書籍として出版されているくらいですからその辺の住人から当時の研究者たちが聞いて調べた辺りがニュースソースとして妥当だろうなと納得はできるところです。

ただそれも結局根拠としては確実性のない噂程度の話になるので、この話はどこまで行っても、例え出典を突き止めたとしても結論は現在と同じ、史実とは考えにくい話なのでしょう。

それはそれとして『清麿大鑑』は読めるものなら読みたいのですが。

参考文献

「刀剣 (戊申第6集)」(雑誌・データ送信)
発行年:1908年6月(明治41) 出版者:
目次:四谷正宗並に其兄と姪 / 飯島花月 ページ数:84~86 コマ数:2、3
目次:老の寢覺 / 山浦眞雄 ページ数:86~88 コマ数:3、4

『名人畸人 續 7版』(データ送信)
著者:本山荻舟 発行年:1920年(大正9) 出版者:玄文社
目次:山浦淸麿
ページ数:233~263 コマ数:122~137

『新刀鍛冶綱領 上』(データ送信)
著者:神津伯 発行年:1921年(大正10) 出版者:吉川弘文館
目次:源淸麿
ページ数:189~191 コマ数:105、106

『図鑑江戸三作之研究 : 正秀・直胤・清麿』(データ送信)
著者:藤代義雄 発行年:1936年(昭和11) 出版者:藤代商店
目次:序
コマ数:3

『日本刀の研究 後編』(データ送信)
著者:倉田七郎 発行年:1937年(昭和12) 出版者:偕行社
目次:第三節 源清麿一派
ページ数:477、478 コマ数:109、110

『名剣士名刀匠』
著者:本山荻舟 発行年:1942年(昭和17) 出版者:天佑書房
目次:五 四谷正宗數奇傳
ページ:235~276 コマ数:122~143

『勤皇日本刀の研究』
著者:内田疎天 発行年:1942年(昭和17) 出版者:公立社
目次:第十六章 山浦清麿の事蹟と其作品
ページ数:256~285 コマ数:144~159

『日本刀襍記』(データ送信)
著者:川口陟 発行年:1943年(昭和18) 発行年:照文閣
目次:源清麿傳について
ページ数:69~93 コマ数:37~49

「鏨をたづねて (1)」(雑誌・データ送信)
発行年:1956年2月(昭和31) 出版者:
目次:かたな岡山三十年 / 杉野一太
ページ数:15~17 コマ数:9、10

「刀剣史料 (16)」(雑誌・データ送信)
発行年:1960年4月(昭和35) 出版者:南人社
目次:墓所行脚 / 渡辺淳一郞 ; 川口大臥
ページ数:15~18 コマ数:9~11

『日本刀の見どころについて (文化講座シリーズ ; 第4回 第12巻) 』(データ送信)
著者:本間順治 [述] 発行年:1960年(昭和35) 出版者:大東急記念文庫
目次:四 復古刀について
ページ数:24 コマ数:14

『日本の刀剣 (日本歴史新書) 』(データ送信)
著者:佐藤貫一 発行年:1961年(昭和36) 出版者:至文堂
目次:14 源清麿
ページ数:184~186 コマ数:104、105

『入門日本刀』(データ送信)
著者:清水澄 発行年:1963年(昭和38) 出版者:徳間書店(リビングライブラリー)
目次:新々刀期の主な刀匠 源清麿
ページ数:178、179 コマ数:93

『趣味の日本刀』(データ送信)
著者:大河内常平, 柴田光男 共著 発行年:1963年(昭和38) 出版者:雄山閣出版
目次:新々刀・現代刀篇 ページ数:108、109 コマ数:59
目次:偽虎徹と近藤勇 ページ数:275~279 コマ数:142~144

「刀剣と歴史 (420)」(雑誌・データ送信)
発行年:1964年7月(昭和39) 出版者:日本刀剣保存会
目次:刀工源清磨の出版
ページ数:47 コマ数:28

『刀匠一代』(データ送信)
著者:宮入昭平 発行年:1964年(昭和39) 出版者:人物往来社
目次:一一、 郷党の先輩、源清麿
ページ数:208~229 コマ数:108~118

『後継ぎはいないのか : かくれた名匠たち』(データ送信)
発行年:1965年(昭和40) 出版者:毎日新聞社
目次:めきき師 ロウソクの光に浮かび出る刃紋
ページ数:58~62 コマ数:33~35

『新々刀大鑑』(データ送信)
著者:飯村嘉章 発行年:1966年(昭和41) 出版者:刀剣美術工芸社
目次:新々刀大鑑研究図譜(附・五十音索引) (キ)清磨
ページ数:100 コマ数:118

『日本刀講座 第5巻 (新々刀鑑定編) 新版』(データ送信)
発行年:1967年(昭和42) 出版者:雄山閣出版
目次:源清麿一門
ページ数:391~403 コマ数:249~255

『日本刀全集 第4巻』(データ送信)
発行年:1967年(昭和42) 出版者:徳間書店
目次:新々刀 柴田和雄 墨賢蔵
ページ数:125~127 コマ数:65、66

『日本刀全集 第5巻』(データ送信)
著者:加島新、藤代松雄、池田末松、高橋信一郎(監修:本間順治、佐藤貫一) 発行年:1967年(昭和42) 出版者:徳間書店
目次:新々刀 高橋信一郎
ページ数:228~230 コマ数:122、123

『新宿区史跡散歩 (東京史跡ガイド ; 4) 』(データ送信)
著者:高橋庄助 発行年:1978年(昭和53) 出版者:学生社
目次:源清麿墓
ページ数:140、141 コマ数:74

「刀剣と歴史 (502)」(雑誌・データ送信)
発行年:1978年3月(昭和53) 出版者:日本刀剣保存会
目次:清麿の周辺について / 村山汎悠
ページ数:27~31 コマ数:18~20

『新・日本名刀100選』(紙本)
著者:佐藤寒山 発行年:1990年(平成2) 出版社:秋田書店
(中身はほぼ『日本名刀100選』 著者:佐藤寒山 発行年:1971年(昭和46) 出版社:秋田書店)
目次:98 窪田清音の清麿
ページ数:249、250

「刀剣と歴史 (530)」(雑誌・データ送信)
発行年:1982年11月(昭和57) 出版者:日本刀剣保存会
目次:好古庵刀話(74) / 今野繁雄
ページ数:5~10 コマ数:7~10

「刀剣と歴史 (582)」(雑誌・データ送信)
発行年:1991年7月(平成3) 出版者:日本刀剣保存会
目次:好古庵刀話(一二五) / 今野繁雄
ページ数:19 コマ数:14

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:きよまろ【清麿】
ページ数:2巻P113

「刀剣と歴史 (599)」(雑誌・データ送信)
発行年:1994年5月(平成6) 出版者:日本刀剣保存会
目次:鑑刀随感(三七) / 片岡銀作
ページ数:8~16 コマ数:9~13

「刀剣と歴史 (610)」(雑誌・データ送信)
発行年:1996年3月(平成8) 出版者:日本刀剣保存会
目次:復習・源清麿とその一門 / 酒井一郎
ページ数:27~32 コマ数:18~21