問題提起
1.大体のメディアミックス作品の山姥切長義を摂取してきたので
先日ちょっと私が一番最初に触れたとうらぶのメディアミックス作品であるところの無双の感想を発掘する機会があったのだが、それによると当時私が一番着目したのはどうやら長義くんの台詞に「発破をかける」というものがあるところだった。
「発破をかける」と言う言葉には、荒々しいことばで督励する・気合いをかける、という意味がある。
つまり、山姥切長義という刀剣男士は相手に気合を入れる、元気づける、奮起させるときにはあえて強い言葉を使ったり、挑発したりする性格ということになる。
そしてこの解釈は、おそらくメディアミックス作品全ての山姥切長義像に共通する、山姥切長義の根幹要素の一つではないだろうか。
私にとって無双は最初に触れたメディアミックス作品なので、この山姥切長義像が正しいかどうかは結構保留にしていた期間が長いが、去年舞台と花丸、今年はミュージカルでそれぞれのメディアミックス作品を実際に自分の目で確認したところ、少なくとも根幹要素は一致しているという結論を得られた。そして今回掘り返した、一番最初の無双の描写も一致。
一人の人間の中でひとりのキャラクターに対する評価が別々のメディアミックス作品にも関わらず一致するということは、大元のキャラクター造形に関して統制がとれていることの婉曲的な証左である。
メディアミックスの山姥切長義像の根幹部分はおそらくこの辺りだろう
・相手に発破をかける、奮起させるためにあえて喧嘩を売るような強い言葉を使う性格である
・写しである山姥切国広のことは基本的に大切に想っているが、上記の性格と国広側の気質との兼ね合いで本丸で顔を合わせると対立に近い状況になりがち
・へし切長谷部と性格上の相似がある
キャラクター造形に関しては表象に近い要素と本質に近い要素で分かれるだろうが、本質に近い要素で考えると上記の条件はほとんど全てのメディアミックス作品で満たしている。
2.メディアミックスの山姥切長義像
上記の繰り返しになるが、メディアミックスの山姥切長義像の根幹部分はおそらくこの辺りだろう。
・相手に発破をかける、奮起させるためにあえて喧嘩を売るような強い言葉を使う性格である
・写しである山姥切国広のことは基本的に大切に想っているが、上記の性格と国広側の気質との兼ね合いで本丸で顔を合わせると対立に近い状況になりがち
・へし切長谷部と性格上の相似がある
この三つの要素、舞台だけでも読み取れるはずだが、ミュージカル側の山姥切長義像と合わせるとかなり鮮明になる。
特にミュージカルの方は舞台と違って国広と同時に出演していないことと、へし切長谷部とのやりとりが多くなっていることから、両方見ると良い具合にスタンダードな山姥切長義を導き出せると思われる。
ただし、舞台とミュージカルの山姥切長義登場までには4年の隔たりがあるので、ミュージカルを完全に先に見た人はおそらくかなり少ない。普通に両方見ようとする人なら多くは舞台から見たと考えられる。
2018年 原作ゲームで山姥切長義の実装
2019年 舞台「慈伝 日日の葉よ散るらむ」(実装から1年以内)
2022年 刀剣乱舞無双、花丸「雪の巻」(実装から4年目)
2023年 映画「黎明」、ミュージカル「花影ゆれる砥水」(実装から5年目)
おもなメディアミックスにおける山姥切長義出演作品はこんなところだと思われる。
初出以外に言及すると、2022年に舞台は「綺伝 いくさ世の徒花」でこれに山姥切長義が登場している。
綺伝に関してはそもそも2020年に「科白劇 舞台『刀剣乱舞/ 灯』改変 いくさ世の徒花の記憶」というものの公演もあったらしいがこっちもちょっと私は見ていないので言及できない(綺伝は見たけど科白劇の方はまだ見れていない)。
ちなみに私は現時点だと映画もまだ未視聴なので具体的な言及はできない。
(ただ正直メディアミックスの山姥切長義像がここまで一致するなら最後に残した映画はもうそのうち答合わせ感覚で見ればいいかなと)
まだ見ていない作品は今後のお楽しみにしておいて、今回は初出での情報の出し方を確認しながら他のメディアミックス描写とすり合わせて山姥切長義という刀剣男士の根幹を探っていく。
舞台とミュージカルは合わせて見るとかなり補完できる要素を持っている、特に山姥切長義像に関しては現在ならおそらくミュージカルの「花影ゆれる砥水」から見たほうがわかりやすいだろうとさえ言える。
しかし実際には「慈伝」を見てから「花影ゆれる砥水」を見た人の方が多いのではないか。
長義くんが相手を奮起させるために喧嘩を売っていくスタイルであることが一番わかりやすいのが、この「花影ゆれる砥水」である。
仕掛けた相手は同じ部隊のへし切長谷部であり、長義自身の思惑が成功しているため、その行動に何の意味があったのかという結果まで含めて非常にわかりやすい。
相手のためにわざと挑発するようなことを言って手合せに持ち込んでいる。けれどそれをはっきりと「あなたのため」とは決して口にしないのが山姥切長義である。あくまでも「自分のため」という姿勢を貫く。
「慈伝」でも長義の性格は同じだと思うが、「花影ゆれる砥水」の方がかなりわかりやすく描かれているだろう。
「慈伝」を見た時点で山姥切長義の性格・行動の意味がそういうものだと読み取るためには、舞台のそれ以前の話をきちんと踏まえておく必要がある。
特に「外伝 此の夜らの小田原」でそれこそ長谷部がそのまんま、国広を奮起させるためあえて喧嘩を売るという行動を取っている。
だから「慈伝」の長義の行動は、それ以前の話である「外伝」の長谷部の行動と同じだと考えればすぐにその意図はわかるはずである。
私個人の流れで言うと、「慈伝」を見た時点でそういう感想になったが、その後さらに「花影ゆれる砥水」を見て、長義と長谷部の相似がかなり強調されていることにむしろ驚いた。
「長義と長谷部は性格がよく似ていて、同じ行動をとる」
これ自体がむしろ重要情報の一つなのだろう。
舞台は時間差で同じ行動を描いたが、同じ作品内で似ているところをはっきり見せた「花影ゆれる砥水」の方がわかりやすい。
むしろ「花影ゆれる砥水」を先に見れば、長義と性格が似ている長谷部が「慈伝」の事の発端であり、「外伝」の時点で同じ行動を取っていること自体がかなり重要であることに気づきやすいと思われる。
まぁ自分が作品を見た順番は変えられはしないので、作品の正しい解釈をすることを願うなら、こうして一作一作情報を増やす事にその整理をするしかない。
長義と長谷部が似ているという情報は、言われて振り返るとそう言えば無双でも花丸でも舞台やミュージカルほどはっきりしてはいないが、きっちり描いてあると言える範囲ではないか。
花丸に関しては、「雪の巻」で本丸の赤字に関して長義と長谷部が会話をしている。
無双に関しては、長谷部が長義の意見に賛同するシーンがあった(すまんが正確にどこかは忘れた)。
長義と長谷部の性格が似ている、一部共通することは原作ゲームだけだと判断が難しいが、メディアミックスから判定すると複数作品で一致する以上、ほぼ確実に公式設定の一つだろうと考えられる。
広げて考えると、長谷部が登場している作品の長谷部周辺事情は、長義の事情と構造が重なる部分があると考えられる。
刀剣本体の話を一度確認すると、長義と長谷部に関しては来歴上まったく関係ない刀剣同士なので、これに関してはまず確実にとうらぶが何らかの意図によって独自に入れている設定だとしか考えられない。さすがに正宗十哲のような広い括りだけでここまで性格や行動の相似が描かれるはずはない。
3.花丸の分析・評価にはちょっと注意が必要
メディアミックスの山姥切長義像の根幹は確かに一致していると考えられるが、雑に全部完全一致! と言えないのは花丸の描写の解釈にちょっと注意が必要な関係である。
結論から端的に言うと、花丸はアニメ映画本編、その脚本家の手掛けたノベライズ、それを基にしたコミカライズで得られる情報が違うので全部印象が異なる。
しかも花丸における山姥切長義像を導き出すのに一番重要な内面描写が元の脚本にあるのにがっつり削られたものが初出の映画「雪の巻」本編なので、これに関して初見で正しい解釈を出すのはまず不可能と言っていいと思われる。
「雪の巻」上映当時、それも最序盤に見に行った熱心なファンたちの感想をリアルタイムでチェックしたところ(私自身はリアルタイムでは見に行っていない)、初出の映画「雪の巻」の山姥切長義像に関して、熱心な山姥切長義推しの感想はかなり批判的なものが優勢だったと記憶している。
これに関しては、あの映画本編だけを見ればそういう感想になるのはむしろ自然なことだと思われる。
ただし、花丸という作品そのものの分析を出すためにはノベライズとコミカライズの情報も加味した総合的な情報が必要になる。
相手の内面は確かに相手が言葉にしてくれないとわからないので「わからない」というのも真実の一つかもしれないが、それこそ舞台とミュージカルはきちんとこれまでの話を追えば内面の分析ができるようになっているので、花丸だけその辺の情報がごっそり抜け落ちたものから判定してくださいというのはやはり無茶であろう。
そういうわけでノベライズとコミカライズの方の情報も参照すると、上で確認した「相手に発破をかけるために喧嘩を売る」「国広のことを基本的には大切に想っている」という重要ポイントは満たしていると考えてよくなる。
すでに上で書いた通り、長谷部との相似もさりげなくではあるが描かれていると言っていいだろう。
舞台などですでに見せられた山姥切長義像からすると初対面の相手への丁寧さ、物腰の穏やかさなども基本設定(これはむしろ2023年に原作ゲームに追加された後家兼光との回想141である程度追認できる)だと思われるが、花丸の要素からすると他の特徴に比すれば重要度が落ちる、なくてもいい要素なのかもしれない。
4.ミュージカル「花影ゆれる砥水」で確認する山姥切長義の知識量
私がここまで見た中だと、やはり「花影ゆれる砥水」が一番長義くんの内面を探る手掛かりが多いと思われる。
あの話はどちらかと言うと一期、鬼丸、長谷部辺りが話の中心で長義くんの重要性は一番下だと思うのだが、おそらく今の時点で山姥切長義の事情を判断するのに必要な情報はほぼ全部出ている。
相手の考えを理解するためにはまず価値観より先に相手の知識量を判断しなければならないのだが、その知識量こそ、「花影ゆれる砥水」の鬼丸さんとの会話シーンで測られると思う。
花影の長義くんは「鬼なんて伝説上の生き物だろう」と口にして、鬼丸さんから「ならば俺は何を斬ったんだろうな」とやんわりと反論される。
それで自分が相手の逸話を否定するような失礼なことを言ったことに気づいてすぐに謝罪する。
その後、長義くんから鬼丸さんに対して「化け物斬りは強い刀の代名詞だ だからあなたは強い刀なのだろうな」と自分の見解と鬼丸さんへの賞賛を添える。
すでに何度か考察で取り上げているが、この「化け物斬りは強い刀の代名詞」という考えは、はっきり言って変である。
普通、化け物斬りは単純に「化け物を斬った刀」という意味の名詞だと判断されるだろう。
と、いうことはつまり。
山姥切長義は――化け物を斬った逸話を、持っていない。
おそらく長義くんは、自分が「化け物を斬った逸話はないのに『山姥切』と呼ばれているから、化け物斬りは名刀への賞賛的表現」つまり「強い刀の代名詞」と捉えているのだと考えられる。
「花影ゆれる砥水」を見てからここ半年、これ以外の解釈があるかをじっくり考えてみたが、やはりこれしかない、この解釈が正解だと思われる。
自分が逸話を持たないのに化け物斬りの称号を持っているため、あまり逸話を重視しないタイプである。
ただ、だからといって他者の逸話を蔑ろにしているわけでもなく、鬼斬りの逸話を持つ鬼丸さんに対してその逸話を否定するのはとても失礼なことだとすぐに気づいて真摯に謝罪する性格でもある。
ここが一番重要なポイントだろう。
長義くんが逸話を重視しないのは、本来本作長義(以下58字略)が山姥切の逸話と号を持たないことを考えるとある意味当然である。
自分が持たないからそれに価値を感じないし重視しない。けれど、それを持っている人を馬鹿にするような性格でもない。
これが基本的な山姥切長義の性格であり、原作ゲームからメディアミックスまで全ての作品において共通していると考えると、2022年に個体差が激しく物議を醸しだした花丸の山姥切長義の内面を、順番的には後出しになるがもともと脚本として存在していたノベライズの情報と合わせて埋めることができる。
5.花丸の山姥切長義
舞台でもミュージカルでも、あるいは無双やあの花丸でさえ、基本的にメディアミックスの長義くんは頭脳キャラである。
最もわかりやすいのが舞台の慈伝で、個人戦力はぼろ負け(配属直後レベル1なので)にも関わらず戦術面の実力は三つ巴戦で国広相手に六対一を実現させるほどの頭脳を持っている。
本来なら年単位で付き合いのある国広チームの方がお互いに連携をとりやすいはずなので、その日初対面の太郎次郎兄弟や大般若さんたちに、向こうもかなり協力的とはいえ、自分の作戦をきちんと理解して実行してもらえるというのは相当頭が良い証拠である。
また、綺伝でも在原業平の和歌に関しての知識を披露するなど教養がある。
ミュージカルも舞台同様、頭脳・知識面で優れた男士である描写はちょこちょこ挟まれている。
鬼丸さんの逸話に関してもその時点では意識していなかっただけで当然内容は知っていたし、自分たちが出陣した時代・地域でその頃史実で起きた出来事(火事があったかないか)などをさらっと答えている。
無双でも花丸でもはっきり自分の意見を言う方で、その前提として自分の知識に自信があるのだと考えられる。花丸では長谷部と本丸の財政状況に関する話をしているので、配属数ヶ月で事務・経理などに関わる能力もある。
しかし、写しである山姥切国広との関係について長義くんがとっている行動を考えると、おそらく長義くんは、国広の事情に関しては全然知らないとしか思えない。
「花影ゆれる砥水」で鬼丸さん相手に逸話を否定するような失礼なことを言ったあとすぐに謝ったということは、長義くん自身も相手の逸話を軽んじてはいけないという意識はちゃんと持っている。
じゃあ、何故国広の号や逸話に関しては尊重してやらないかというと、単純に自分の写しが鬼丸さんたちと同じように逸話によって「山姥切」と呼ばれているタイプの刀であることを知らないのだろう。
ミュージカルの描写からは、やはりこの解釈になると思う。
国広の逸話に関しては他でもない国広自身が極修行に出るまで知らなかったくらいなので、長義くんが知らないのもまあ無理はないのである。
むしろ長義くんがどこまで知っていてあの言動なのかをずっと考えていたが、原作ゲームの言動と各メディアミックスの言動をこうしてがっつり照らし合わせてみると、やはり「知らない」のが基本設定で、しかも全てのメディアミックスで共通していると考えられる。
メディアミックス作品はそれぞれ作中のギミック(舞台の「朧」や無双の漂流本丸など)の設定が微妙に異なるようにも見えるので、こうした男士の背景事情として採る理由も異なるのではないかと今までここの判断は慎重にしていたが……。
メディアミックスの山姥切長義像、長義くん周辺事情をあれこれ検討してみた結果、やはり刀剣男士の設定の方は一貫していると判断していいと思う。
世界設定に関わるギミックなどは舞台の「朧」が原作ゲームとも共通の可能性が出てきたので、名前だけ同じなのか性質も完璧に一緒なのかまだ保留して続報を待った方がいいと思うが、少なくとも刀剣男士の設定はおそらく共通だろうと思われる。
そして、長義くんの国広に対する心理は、この「知らない」ことを前提に考えると花丸の内容に近くなる。
号を名乗るのに逸話の存在を必要としないということは、長義くんからすると、名刀が化け物斬りの名前で呼ばれたなら「じゃあ自分は凄い刀なんだ!」と自信を持って堂々と名乗ればいいという考えになる。
これまで山姥切長義の逸話への認識や思いに関しては数多くの人が研究史と照らし合わせながら憶測して、名前を強烈に主張する山姥切長義は自分の逸話に自信があり相手の逸話もめちゃめちゃ大切にするタイプと解釈している人が結構いるようだが、実はそれはメディアミックスをきちんと解釈するとどうやら「解釈間違い」のようである。
相手の逸話を大切にする性格なら、鬼丸さん相手に「鬼なんて伝説上の生き物」とか言わないだろうから妥当である。
長義くんは相手の逸話をめちゃめちゃ否定するタイプでは確かにないが、化け物斬りの逸話を本当にそういう化け物を斬ったからだと信じ込むタイプでもない。
鬼丸さんとのやりとりも、長義くん本来の価値観は「化け物斬りは強い刀の代名詞」という部分が中核になる。
そして、そういう山姥切長義からすると、山姥切国広の態度はどうか。
化け物斬りは強い刀の代名詞。つまり自分が名刀であるという自負があれば堂々と名乗ればいい、心意気の問題くらいにしか見えていないのではないか。
そういう長義くんからすると、山姥切国広はどこの本丸でも国広自身の実力や周囲の評価を完全に無視して一振りで延々とうじうじしている情けない奴としか見えないのではないか?
だから、こういう評価になる。
あんなに手練れの刀剣男士たちから頼られているのに、いつも俯いていて、自信なさそうにしていて、それがずっと、気に食わなかった。
これは、花丸長義くんの内面描写である。
(※映画本編ではカット、ノベライズもしくはコミカライズでご確認ください。コミカライズが一番オススメ)
設定が全ての作品で共通しているなら、この花丸長義くんの内面は原作ゲームから舞台、ミュージカル、他の作品まで全て同じなのではないか。
そしてこれが全ての山姥切長義に通ずる心理だと考えても、上で整理した長義くんの認識を前提にすればおかしくない、むしろこれが一番自然な解釈になる。
山姥切長義は「山姥切」の逸話に関しては何も知らないし、こだわりがないからこそ、周りから認められているのに自分で自分を認められない国広への評価が花丸風に言えば「気に食わない」になるのだろう。
長義くんは割とこういう価値観であっけらかんとしているところがある一方で、ミュージカル「花影ゆれる砥水」によると、自分と長谷部を「考えすぎる」きらいがあると評している。
国広側の事情を知らないままで国広の態度について考え込んでしまうと、長義くんの目からは周囲が悪いのではなく、国広自身が周囲の意見や評価を軽んじて無視して殻に閉じこもっているんだと考えてしまうのではないか。
だからもともと相手を奮起させるために喧嘩を売る性格と合わさって、国広への働きかけは優しく寄り添うのではなく厳しく背を押すタイプのやり方になる。
それが、メディアミックスの断片的な情報を、刀そのものの研究史と合わせて一番きれいに繋ぎ合わせて全ての山姥切長義像を統合した解釈ではないだろうか。
この視点でもう一回花丸や他の長義くん描写を整理すると、例えば花丸では登場シーンで思いっきり安定にお前を認めない! されているのに反応が薄く、むしろ国広が気に食わない! としているコミカライズの構成がとても腑に落ちる。
長義くん自身が安定に喧嘩を売られているのだから、長義くん推しの私の目からすればここの安定めちゃくちゃ嫌な奴だな~としか見えないのだが、長義くん自身は全然気にしていない。俺がいる以上山姥切と認識されるべきは俺だと宣言して終わるだけである。
それより国広が気に食わない、という描写がされている。
この部分はノベライズの方がわかりやすいかもしれない。安定が国広のために怒っているということに驚き、それなのに国広自身が何も言わず俯いているので、「気に食わない」と感じている。
つまりこのシーンで長義くんにとって重要なのは、自分が拒絶されているということではなく、安定が国広のために怒ってくれているということ。
言われて思い返すと、他のメディアミックスでも長義くんがムッとしているシーンの理由はこれかもしれない。
長義くんが国広関連でムッとしているシーンは国広が周囲から山姥切だと呼ばれているシーンが多いと思われるが、そこで怒っている理由は自分が山姥切と呼ばれないからではなく、みんなが国広を山姥切として呼んで認めてくれているのに国広自身は俯いているシーンばかりではないか?
そんな周囲の様子を一切考えないお前に山姥切の名を渡せるもんか! という心理だと考えればしっくり来る。
と、いう訳で。
一見全然ばらばらに見えるメディアミックス各本丸の山姥切長義像は、その本丸独自の要素と全ての山姥切長義に共通してもおかしくない要素を丁寧により分けていくと、こちらの当初の想定よりも遥かに一貫してきちんと描かれている「山姥切長義」像なのではないか?
とりあえず当面、これを私のメディアミックス情報を含む山姥切長義像考察の結論とします。
余談だが花丸安定が最初に話も聞かず長義くんを拒絶するシーンは、ノベライズとコミカライズでは後で長義の思いも知らず怒鳴ってしまったとその態度をきちんと反省しているシーンがある。
安定の成長物語として非常に重要だと思うのだが、この部分も花丸映画本編だとカットされている。
どうしてこんなめっちゃ重要なシーンを脚本からガンガンカットしているんだろう花丸は……やはりよくわからないよこの話……。
6.矛盾心理の行方
普段の考察の方で出した答えだが、言動を分析すると刀剣男士たちの心理はかなり矛盾している。
この前提を理解するのはかなり重要だと思われる。
長義くんや他の刀剣男士の心理に関して考えても考えてもしっくりこないという人は、おそらく彼らの言動から分析した論理がきちんと一貫する前提でものを考えていると思う。
考察的にはむしろそちらが普通なのだが、とうらぶは論理の方から考察すると刀剣男士の言動は「矛盾」するというのが答えのようである。
完全に矛盾している言動を整理しても論理的な整合性がとれないので、いつまで経っても答が出ないということになる。
きちんと物語上の描写を読み取って真剣に整理している人ほど陥りやすい落とし穴である……。
逆に論理の方を一貫させて言動を照合した方が、解釈として落ち着くというか、刀剣本来の研究史の方と矛盾せず一致するため、おそらくこっちの方が正解だろう。
その根拠となる補強情報こそが、上記の各メディアミックスの山姥切長義像の根幹はきちんと一致するという結論である。
矛盾を視野にいれて考察しなければいけない。つまり。
名前を主張する刀剣男士は、本当は名前より存在や本質を重視している。
名前などどうでもいいという刀剣男士は、実は名前をとても大切にしている。
と、いう結論になる。
この矛盾を前提とした研究史との照合で内面を一番説明しやすくなるのはおそらく山姥切国広である。
国広は名は物語の一つに過ぎないと言うが(回想57)、それは極修行で本当は自分が山姥を斬った刀だと知り、けれどそれを主張すれば長義の存在を食ってしまうことに悩み、そうしたくないからこそ自分にも本歌にも逸話があるんだという結論を得てきた男士である。
別に自分こそ本物の山姥切だと主張しても良かっただろうに、あえて長義の逸話も肯定できるように探してきた。これは、名前や逸話を本当は大事だと考えているからこその態度だろう。
そしてさらに、名前や逸話を大切にしながら、それでも、それが本歌である長義のためにならないなら譲ってしまうという性格が表れている。
こちらは原作ゲームよりメディアミックスの方が顕著で、舞台や花丸の国広は長義に偽物呼びを許してしまっている。
つまり極修行での行動やメディアミックスの山姥切国広像を考えると、山姥切国広の根幹には本歌である長義を常に大切にしているという要素がある。
長義に関しては、名前を主張するのはあくまでも存在や本質が重要であり、それを主張する手段が名前だからという価値観のようである。
名前を重視していないからこそ、名前を主張する。完全に矛盾だが行動を見るとその通り。
これに関しては一時期話題になったらしい蜂須賀の解釈などにも通ずると思われる。
真作・贋作に拘る蜂須賀が極の破壊ボイスでそれをどうでもよかったんだと言うのは衝撃を与えたらしいが、これは長義くんの名前への拘りと似たようなものだろう。
大事なのは存在や本質である、良い刀であるという事実である。
だから贋作でも名刀である長曽祢さんに本当は憧れているのが蜂須賀だが、その本質を重要視すればするほど、その真作・贋作という評価軸に拘らねばならないという矛盾を考えている。
逆に真作とか贋作とかどうでもいいよね! の浦島くんはそこに本当に拘りがないわけではなく、自分が虎徹であることと本質が良いものであることを認めることが結びついているからこそ要所要所では虎徹の名を出すし極修行も彫物の真実を確かめに行くと。
きっと刀剣男士はみんなそうなんじゃないか?
人によってはこの矛盾を解消するために、極修行で主張が反転したように見える男士の内面を、じゃあこれは大切ではないんだなという解釈するようですが、これもメディアミックスが補完してくれる情報から考えると間違いのようです。
長義くんがそうであるように、存在や本質を重要視するからこそ名前を主張する、と言う行動は優先順位を誤解しやすいけれども、結論としてどっちも大切であるというのは変わらないということになります。
1.本質 2.名前 の順番にはなるけどどっちも大切であることには変わりない。
極修行による心理の変遷は、それこそ「花影ゆれる砥水」の一期一振がわかりやすい。
刀剣はうぶ茎に詰まっている情報が多いので、磨上は何百年単位の情報、その刀剣の過去と未来を失わせてしまう行為であるということは間違いない。
それでも花影の一期が豊臣秀吉に磨上てでも佩刀したいと言ってくれたことが嬉しかったというのは、それだけ一期にとって元主秀吉への愛情が深いということに他ならない。
刀剣研究の知識が多少ある状態で花影を見ると、磨上がノーダメージでどうでもいいから一期がああいう選択をしたのではなく、命と等しいほど大切な過去未来を捧げても良いという相手がいる、というシーンであることがわかります。
この、刀剣ごとに内容は違うものの、命と等しいほどに大切なものがある、けれどそれを差し出しても良いほどに大切な相手がそれぞれの男士にいる、ということが重要じゃないですかね。
一期にとっては磨上られてでも共にいたかった元主の秀吉であり、
国広にとっては、名を差し出して偽物と呼ばれてもいいほどに大切にしている、本歌の長義。
矛盾する言動の行方は、この心理的な優先順位の天秤と連動している。
7.改めてメディアミックスの山姥切長義像における2018年の山姥切問題の影響について考える
最後にやはりここに触れておきましょう。
メディアミックスの山姥切長義像に関して、ある程度(舞台、ミュージカル、花丸、無双で4つ)見たので今回一度すり合わせてみたところ、やはり初見印象と根幹の設定は一致するのではないか、という結論が得られました。
その上で各作品について考えると、舞台の慈伝だけ賛否両論だけど長義推しは否が多い、みたいな印象(2022年辺りに考察・感想を探した印象)で、脚本の出来に対して評価が低すぎるような気がします。
比較的舞台に好意的な人の評価でも「慈伝は悲伝の後でお通夜に来ちゃったみたいなもんだからしょうがない」とか「慈伝と綺伝の山姥切長義は違う」みたいな微妙なフォローが入っておりますが、正直それは解釈間違いだと思います。
まず、慈伝と綺伝の長義が違うという意見に関しては、書いてるのが同じ末満氏である以上、普通は違うと解釈する方がおかしいです。
そして実際に見た感じ、普通に同じ人が同じように描いた、連続性のある性格の山姥切長義です。
慈伝と綺伝で山姥切長義の性格を変える必要性もなければ、変えた形跡らしきものもありません。
舞台がループで割と過去編が多くてどこまでがメインの本丸の刀剣男士なのか違うのかという問題に関しても、慈伝と綺伝の本丸が別と考えることはないと思います。これに関しては他の人の感想でも綺伝の長義くんがなんかどっか別の本丸の特殊な長義と考えている意見は見た覚えがありません。舞台本丸の時系列に関しては慎重に考察している方の人でも、基本ここは同じ本丸と考える意見が多いと思います。
そして、「慈伝は悲伝の後だから~」という意見に関しては、前半の状況認識はまあその通りなんですけど、後半が問題です。
長義推しが慈伝評価にマイナスをつけるのは、長義くんが慈伝で歓迎されていないように見える、ということが主な理由のようです。
しかし、長義推し以外はもともと、次郎太刀や大般若さんは歓迎してたでしょ、という異論を上げています。
こうした他者の感想がすでに出ている状態で私が実際に見た感じの判断としては、やはり、慈伝は長義くんが登場する派生作品の中ではかなり発表時期が早いために、2018年の山姥切問題の直撃を受けてまともな見方がされず、不当に評価を下げられているように思いました。
慈伝そのものの考察は以前出したというか以後ずっと普段の考察に組み込んでいるからいいとして、慈伝がどう評価されているか、それが妥当かということに関して最終判断を下したいと思います。
特命調査の開始と同時に登場する監査官の一振り、山姥切長義の存在はそれだけですでに、とうらぶの物語の中核にがっちり食い込んでいます。長義くんのまともな考察なくしてとうらぶを理解することは不可能だと思います。どうしても長義くんの考察をしたくない人は、逆に長義くん以外の全てを考察してその穴を埋めるぐらいの労力が必要となります。
しかし、私が舞台の視聴を迷っていた2022年、原作ゲームで対大侵寇防人作戦が実施された辺りには正直まだ慈伝のまともな考察はなかったと思います。
それがあったら対大侵寇防人作戦の時点で、今回対百鬼夜行迎撃作戦で舞台やミュージカルとの相関性を意識した人が多かったように、その頃からすでに原作ゲームとメディアミックスのストーリーの相関性を重視する方向が強かったと思います。
むしろ、あの時期は慈伝の考察がなかったからこそ、対大侵寇防人作戦の時点で「原作もループなの!?」「え!? 関係ないでしょ!!」というただ動揺する反応が強かったように思います。
長義くんも実装からすでに6周年ということで、もしかしたら2018年と言われてもピンとこない人もいるかもしれませんので軽く説明しますと、2018年の山姥切長義の実装時に、一部の山姥切国広推しを名乗る人間が聚楽第イベントで入手した山姥切長義をわざと殺した(刀剣破壊)という事件が起こり、これが普通にゲームをプレイしていた善良なプレイヤーの猛反発を生み、山姥切長義と山姥切国広に関するあらゆる問題に発展した、という事情があります。
この件に関して私は後追いで当時から現在まで運営されている種々のサイトのログなどをある程度掘り返して確認しましたが、一応私自身は直接折ったとかそういうツイートそのものを目にしたわけではありません。ただその事件の情報が舞い込んだ頃に、それまで和気藹々としていた界隈が一気に騒然となった痕跡は色々と確認できます。
現在でも冷遇ものと呼ばれる二次創作作品や、そのキャプションなどで当時の状況を古参審神者が説明している文章、上記の慈伝感想のようにたまに流れてくる舞台への批判等々、2018年の山姥切長義実装時の一件があちこちに影を落としている痕跡というものは確認できます。
そして、正直この件に一番影響を受けているものこそ、舞台の「慈伝 日日の葉よ散るらむ」の評価ではないかと思うのです……。
普通にキャラクターを愛して原作ゲームをプレイしている善良な古参プレイヤーにとっては、特定の刀剣男士をろくに理解しようともしないうちから勝手に悪者に仕立て上げて殺す、というのは大変ショックな出来事で、今も冷遇ものの二次創作が作られるのは、そうした悪質プレイヤーへの批判の意味があるでしょう。
この事件で長義推しは当然激怒し、普通の山姥切国広推しはまあそんなことはしないでしょうが、頭のおかしい一部のプレイヤーの行動のせいでまともな山姥切国広推しはこの時点でほとんど沈黙することしかできず、逆にこの二振りにまったく興味のない他の男士のファンは、いつまでも両者の闘争を見せられてうんざりして、その中のさらに悪質なものは両者とも排除しようとする、という端的に言って地獄が出来上がっています。
そしておそらく一番多いのは、どちらを推してなくとも、刀剣男士が酷い目に遭うこと、そのせいで延々ファン同士の争いが続くことに純粋に心を痛めている層です。
慈伝は長義くん実装から一年も経たずに、ファン心理がそういう状況にある中で公演が始まりました。
そういう状況だったので、おそらく多くの人が慈伝に求めていたのは、
1.山姥切長義が、現実の2018年で起きた事件とは違って当たり前に本丸に受け入れられること
2.山姥切長義がどうして写しである山姥切国広に突っかかるのか、その内面が説明されること
の、2点だったと思われます。
実際に慈伝という作品がどうであるかというと、2の長義くんの内面に関しては、そこまでの話をしっかり見ていれば察せられるものの、読解力のない人が一発でわかるほどにわかりやすいか、と言われるとそこまでわかりやすくはない作品です。
舞台は戯曲本で「大河ドラマ」のような続き物であることを明言されていますが、舞台演劇という性質上、どうしても最初から話を見ずに自分の好きなキャラが出ている作品だけ見たいという人もいます。そういう人にとっては、更に難易度が上がります。
慈伝の長義くんの内面をある程度察するには、そこまでの話をきちんと理解していることが重要だからです。
そして1の、長義くんが本丸に受け入れられるかどうかの話に関しては、すでに配属されているのだから普通に受け入れられていると言っていいのですが、国広が悲伝の件で落ち込みっぱなしなので長谷部がそれを心配して、しばらくは顔を合わせない方がいいのではないかと気を回して色々やらかす話となっております。
長義くん自身の登場描写としては大般若さんと共に和やかに談笑しながら登場、太郎太刀や次郎太刀は歓迎の為にいろいろやってくれている、という状況ですので、何の先入観もない人が見れば、何の問題もないごく普通の構成となっております。
しかし、2018年の事件を引きずっている古参プレイヤーの感覚だと、少しでも長義くんを拒絶しよう(国広には会わせないでおこう)とする行動と、その後の一対一で長義くんが国広に結構ボコボコにされるシーンが入ることもあり、この物語でも長義くんが迫害されているように感じて理解を頭から放り投げてしまっているのではないかと思います。
後半で長義くんがボコボコにされている理由ですが、その状況を作り出しているのは、むしろ長義くん側が降参せずにガンガン国広に挑むからというもので、国広は基本的に長義くんと戦いたくない素振りを見せています。
物語と言うのは、所詮人が作ったものです。だからこそ、その構成には必ず意味がある。
長義くんが本丸に受け入れられない(実際にはそんなことないがそう考えられている)のは、三日月が死んだ直後だからしょうがないという意見は、そもそも、作者はわざと、計算してそのタイミングで山姥切長義を登場させているのだという根本的な大前提を無視しています。
国広が落ち込んでいる時期と長義くん登場が被るのがまずいのであれば、時系列も登場メンバーも、作者はいくらだって入れ替えて調整することが可能なのです。
末満氏はそれまでだって時系列が入り組んで過去と未来を行き来するテクニカルな構成の物語を描いているのですから、そのぐらいやろうと思えば造作もないことです。
舞台本丸において長義くんは、あのタイミングで登場することに意味がある。
あのタイミングで登場したから、手合せで国広にある意味心の区切りをつけさせ、三日月喪失の痛みを乗り越えて修行に旅立たせることができた、という話です。
だからこそ綺伝でも、国広がいない間は自分が本丸を守ってやると言っているんでしょう。
自分が国広を立ち上がらせ修行に旅立つよう、最後の背を押した自覚がある。
だからただ本丸にいるだけではなく、国広を送り出した以上はその留守を国広の代わりに守らねばならないと言う意識がある。
しかし、他の作品はブログやnoteなどで男士たちの内面に触れてがっつり考察しているものがあるにも関わらず、慈伝の山姥切長義周りに関してはそういうものが私が探した2022年辺りでは見受けられませんでした。
たまーに慈伝に関して二次創作のキャプションなどで言及するものを見かけても、長義くんの内面や国広の立ち回りなど、話のど真ん中である要素は避けられていることが多いように思います。
慈伝は話の性質からすると、本来なら山姥切国広の本歌である山姥切長義とはどういう刀で、山姥切長義という刀剣男士はどういう性格で、長義くんがどう動いたからどういう結果になった、それが前の話とどう関係し、次の話とどう繋がっていくかをしっかり考えなければ、むしろ舞台の物語全体の読解に支障が出るタイプの話のはずです。
なにせこの話の次の維伝から、現在原作ゲームでも最重要と判明したギミックの一つ、「朧」が登場するわけですから。
坂本龍馬が「名無しの国」を作る、名前を捨てたいという願いを抱く一方で、吉田東洋は頭の中が朧げじゃと嘆き、山姥切国広と同じ姿の「朧」が登場する維伝。
今後の話が「名前」と「朧」という存在が話の中核になっている以上、慈伝の時点で長義と国広が名前を廻る手合せをしたという事実の考察は避けて通れません。
けれど、「名前」の問題に一番関わりが強い山姥切長義の描写に関して、慈伝は熱心な古参の長義推しほど長義くんが本丸に受け入られていないと見て考察を放棄し、長義推し以外の人々も、この件からは比較的距離を置いているように思います。
2018年の事件の発端は国広推しを名乗る悪質なプレイヤーでしたが、それで激怒した長義推しのプレイヤーがやたらと他者に噛みついて余所に迷惑をかけているという例もあったようなので、他の男士推しは割とこの問題に言及すること自体うんざりしている人が多いようです。
そして悪質な国広推し、悪質な長義推しはもちろん、悪質な他男士推しもそれはそれでまた普通に過ごしている人に喧嘩を売ってくるわけですね。はい、地獄です。
この辺の事情が絡まって、やはり正直慈伝ほどまともな考察が少ない話はないと思います。
もともと、話の性質としても山姥切問題は論文一本書ける程度の調査量は必要で、それだけ熱心に時間と労力をかけて作業したら、今度は悪質なプレイヤーに絡まれるんだからそりゃあ地獄です。
考察が少なくなるのも仕方がないのですが、特命調査開始と同時に登場する監査官とかどう考えても長義くんは話の中心で、長義くん周りを整理しなければ他の子の情報も増えないのですよ……。
やはり、2018年の事件が様々なところに影を落として、界隈全体でこの部分の考察が進んでいないのは大変な問題だと思います。
今年、2024年は対百鬼夜行迎撃作戦で原作ゲームの話が進んだ関係で、二年前の対大侵寇防人作戦よりは余程全体の考察が進んだように思えます。
ジャンルの状況はだんだんと良くなってきているように思いますが、それでもまだ慈伝が内容の出来に反してあまりきちんと考察されていないように思いますし、長義くんにはなんだか常に迫害される側のようなイメージがついて回ってしまっています。
最初は同情から書かれた冷遇ものの二次創作は、しかし国広をはじめとした他の男士を、例え結果的にではあっても迫害を止められない無能な悪役としてしまう関係で、あまりにやりすぎるものはまた別の男士推しを傷つけていますし、長義くん自体のイメージを毀損しているものもあるでしょう。
私のように2018年当時はゲームをプレイしていなかった後発の審神者がとうらぶ界隈や特に慈伝周りの意見を見ると、完全になんだこりゃ? な状況になるのはやはり困った話です。
とうらぶの物語自体、読解が面倒なところがあるので、こうしていつまでも舞台を含むメディアミックスという公式作品から目を背けることを良しとするとすると、より一層解釈が進まなくなると思われます。
その作品から生まれたキャラクターを愛した以上、救いとなる正解もまた、作品そのものに存在すると考える方が自然です。
私自身メディアミックスを自分の目で確認した結論として、やはり公式作品にはきちんと向き合って考察したほうが、自分にとって最高の物語に出会えると思います。
特定のメディアミックスがどうしても性に合わないから見ないと言うスタンスの人がいること自体は普通なのですが、作品を見たのに同じ人が描いた同じキャラクターの性格が作品ごとに別であるかのように捉えられているのはさすがにまずいですよ……。
と、いうわけで、正直いつも言っていることですが、今回メディアミックス作品の印象・総評を出すと共に、改めてメディアミックスの評価に2018年の山姥切問題が影を落とし過ぎていることを問題提起したいと思います。
EXな舞台考察の断片
以下は先にくるっぷの方で出した考察未満の断片です。
いつもの考察を継続して読んでくれている人向けの話ですが、ちょっと手抜きの箇条書き形式です。
・矛盾する心理の解消と回収は、舞台では二振り目の三日月宗近を投入することでやるんじゃないか?
・以前の考察で言葉遊びの観点から舞台の第一節は二振り目の三日月登場で〆るんじゃないか? という予想をしたが、そもそもそこに二振り目の三日月を投入しなければならない理由はこれではないのか
・一振り目だろうが二振り目だろうが、三日月は三日月である、しかし舞台国広の心理的に、もしあの本丸に二振り目が来たらおそらく国広は素直には受け入れられない
・その状況は、要するに国広と長義の立場を入れ替えた構造の再現、慈伝の反転なのではないか
・一振り目と二振り目の三日月を区別しようと名前の問題を考えたとき、名前に拘るのはむしろ名前そのものが大事なのではなく、本質や過去に紐づいた情報だから大事だという、長義の本心と同じ考えに辿り着くのではないか
・舞台本丸が一振り目の三日月と二振り目の三日月はどう違うのか、両者をどう呼び分ければいいのかという問題に本気でぶつかった時、慈伝の長義くんが本当は何に拘っていたのか、自然と理解される、これによって完成される構図こそが名前と存在の本質に結び付いたとうらぶ第一節の〆なのではないか
・国広の性格上、例え二振り目の三日月に
「そうかお前にとって一振り目の三日月が本物で二振り目の俺は偽物だものな」
と挑発されたりしても、それでそうだ二振り目は偽物だなどとは絶対に考えない
・むしろ、一振り目とは大切な思い出があり、二振り目も個は個として受け止めたいからこそ名前についてしっかり区別したいのに、どうしてそういう言い方をするんだと反発するだろう
・その考えこそが、むしろ「名前などどうでもいい」と偽物呼びを許容した国広自身への長義の反発そのものである
・国広はおそらく、長義と同じ立場になった時初めて長義の本心に気づかされる
・長義と国広の山姥切問題の本質は間に二振りの三日月宗近を挟むことによってようやく可視化されるのではないか
・その時判明するものこそ、名前に拘るように見えているものが拘っているのは本当は本質、名前などどうでもいいと言うものは実際には名前を大切にしている、というこの矛盾心理だと考えられる
この辺りです。長義・国広の心理は三日月を失った舞台本丸に、二振り目の三日月を投入したら自然と説明できちゃいそうだなー。いや最初からそこ狙いなんじゃ? と思いました。はてさて実際はどうなることやら。