番外編 私が「メロい」を理解できないというどうでもいい話
注意
もとはTwitterに書いていた話の流れの一部をまとめたものなんですが、この考察をまとめようとしたまさにその日に「メロい」という用語の解釈の件でTwitterで「メロい」=「シコい」と同一視する意見により「メロい」という語の解釈が揺らいでいます。
私がこの内容をTwitterに書き込んでいた頃の「メロい」の解釈は「メロメロになる」「胸キュン」「格好よい、魅力的」と、他の審神者の皆さんはあくまで性欲ではなく相手に純粋な魅力を感じるという健全な意味で使っていたという前提で論を進めております。
というか普通に「メロい」ってそっちの意味だろ、と思ってる。
「メロい」という語がこのまま健全な意味で使われていくか、性欲由来と捉えられたことで反発によって廃れていくかはわかりませんが、とりあえず2025年1月当時に長義くん極に対して「メロい」という表現をしていた審神者は純粋に「メロメロになる、魅力を感じる」の意味で使っていたという認識で話を進めます。
「メロい」と「殺意」の境界線
基本的に腐女子である私が夢小説を理解できないというどうでもいい話にちょっと普通の考察が混ざるんですが。
長義くん極の言われてる「メロい(?)」がわからん。
いや三通目からのあの帰還台詞からは殺意しか感じねーけど!?
これもう解釈というより感性の問題じゃないかなーって。俺には夢小説の才能がない!
「歴史を守ろうとする限り」ってことは歴史を守れなかったら殺されますね。あ、はーい。ありがとございやしたー。
まぁ長義くんて元々こういう性格なので特に変わったとかはあんま感じないというか、これが山姥切長義の愛だろ愛。
慈伝の国広に対する態度と寸分たがわず同じ同じ、メディミと解釈一致。
……ん? 国広への態度と同じ。ということはつまり?
国広「……折る気か」
長義「実践さながらの訓練って大事だろう?」(内番手合、初国広と初長義)
私が感じてる「ヘマしたら殺される気しかしねえ」はただの手合わせなのに相手に自分を折る気があるのかと感じる国広の心情と同じようなものではないのか。
長義くん自身のスタンスは正直極める前も後もほぼ変わっていないような気がするんですよね。どっちにしろ
「お前がお前である限り、俺は俺である」
が山姥切長義の基本スタンスなのではないか。
これはメディアミックスに顕著なように、極める前は国広に向けられていることが多く、極後は審神者にも向けられる
「花影ゆれる研水」で長義側が何らかの意図を持って国広に「似せている」らしい台詞がありましたが、それも要はこういう心境なのかもしれない。
相手に常に「お前自身であれ」と強いるスタンスで、受け止める側の心持でその態度の意味は変わる。
「慈伝」の国広は手合の意図に気づかない。
「花影ゆれる研水」の長谷部は気づいた。
長義「力比べといこうか。なまくらならば、折るだけだ」
国広「痛い目を見るのはどちらの方かな?」(内番手合、極長義と極国広)
こっちの台詞通り、不適格ならば殺すという気迫自体は長義くん側にはいつもあるんだけど、相手がそれを跳ね返す前提で言っている言葉でもある。
あとは受け手の姿勢次第。
台詞自体の性質や構造から考えると「極める前に国広へ向けていたもの」と「極めた後に審神者に向けるもの」は、同一ではないかと思います。
ただ受け止める我々の方が、自分の性質やスペックによってこれが見えたり見えなかったりする。
もともと極修行で前の主と今の主への感情が逆になる男士は多い。
長義・国広は修行でも元主よりお互いへの言及の方が強いので、お互いへの態度と主への態度が修行を境に逆転してる構造じゃないか。
振り返ってみると極国広の審神者への態度ってメディアミックスで長義くん相手に見せてる対応と大して変わらないような気がする。相手を悪く言わず自分で全部引き受けようとする。
やっぱ極はその男士が手紙で言及している対象(多くは元主だがたまに別)と今主への態度のある意味逆転なのではないか。
ところで私には絶望的に夢小説的な才能がないことが判明しましたが、一部の男士は極で夢小説みたいになる! って言ってる人は俺より全然その才能あるんじゃねえか……?
しかしそうなると極後の長義くんが審神者に対してメロい(?)なら極める前からずっと国広に対してはメロかった(?)ということになるのではないだろうか。
正直、ここが腐女子と夢女子の境目じゃねえかな。
他人の他人に対する愛に着目するのが腐女子。
他人の自分に対する愛に着目するのが夢女子。
長義くん自体はずっと愛そのものだろう。
誰に対しても、常に「お前自身であれ」という愛の持ち主。
歴史を守るに足る存在でなければ殺すという態度は、正直登場時からずっと変わらないし、結局氏政様に対しても写しに対しても主に対しても、全部同じだと思う。
同じ愛。強く深く激しい、山姥切長義の愛。
受け取る側の我々が、愛を向ける方向性を変えられると途端に理解できなくなるのではないか?
理屈的には長義自身の基本スタンスは変わっていないと思うので、今回のがメロい(?)なら慈伝の国広への態度も好意的に見られていていい気がする。
でも多分、私と逆にそっちがわからない人もいそうだなと。
まあとりあえず、手合台詞の初国広の「……折る気か」って台詞が出てくる心理がよくわかったと言うのは考察としては一歩前進ではないかと。
うーん、私も他のゲームみたいに審神者にしっかり名前と外見や人格が設定されているゲームならそこから判断したんだろうけど、それがないからこその結論だよな。
他人同士のことだから冷静に判断できるという要素。
自分のことのように考えるから実感できるという要素。
どちらも対象の理解には必要ってことではないのか。
何故か自分に夢的素養ZEROなことでよくわからない方面からの理解が進みました。
と、言うわけで慈伝国広の肩ポンしてわかるよお前の本歌厳しいわ……って言って終わります。