三日月宗近

みかづきむねちか

概要

「太刀 銘三条(名物三日月宗近) 附 糸巻太刀拵鞘」

『享保名物帳』所載、平安時代の刀工・三条宗近作の太刀。

『長享銘盡』の記述から、室町時代にはすでに「三日月宗近」の号で呼ばれていた。

確実に判明している所有者は『享保名物帳』によると豊臣秀吉の正室・高台院からだが、それ以前の来歴について昔から様々な伝承があるようである。

高台院所有の時代に、一度その侍臣・山中鹿之助の手に渡り再び高台院の許に戻ってきたという。

高台院が亡くなった後は、遺物として江戸幕府2代将軍・徳川秀忠へ贈られる。

以後、将軍家伝来。

1933年(昭和8)1月23日、国宝(旧国宝)指定。

戦後、徳川宗家を出て個人蔵になる。
中島喜代一氏の所有となり、更に高橋金雄氏、渡辺三郎氏の所有となったことが官報または当時の刀剣書などで確認できる。

1951年(昭和26)6月9日、国宝(新国宝)指定。

新国宝指定時の名義は渡辺三郎氏の子息、渡辺誠一郎氏。
更に渡辺誠一郎氏は1991年、三日月宗近を含む渡辺コレクションを東京国立博物館に寄贈。

現在も東京国立博物館蔵である。

確定している話だけまとめれば上記のように簡素な文面になるが、根拠不明の諸説は名刀の中でもかなり多い方だと思われる。

号の由来は三日月型の打ち除けが多くあることから

『享保名物帳』によると、

刀号は刃縁に三日月形の打ち除けが、多くあることに因んだもの。

『長享銘盡』(長享2年)にすでに宗近は「三日月ト云太刀造之」とあるから、遅くても室町中期(1488年頃)には、すでに三日月宗近と呼ばれていたことになる。

『長享銘尽』
写本
コマ数:12

『刀剣名物牒』(データ送信)
著者:中央刀剣会 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:中央刀剣会
目次:(中) 同右 三日月宗近
ページ数:30 コマ数:18

御物
三日月宗近 三條とあり 長サ二尺六寸四分半 一本長さ貳尺四分半 拝観長賀

三ヶ月と申子細は三ヶ月形のうちのけ数に有之依て名付たる由秀吉公御後室高台院殿御召仕に山中鹿之助と云者あり此者に一度被下候事有之常に三ヶ月を信仰して武具に三ヶ月を記す御拵に三ヶ月有けるは右之者所持之内拵其造り之儘にて候哉台徳院様へ高台院殿爲御遺物被進三條と銘有

『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:宗近、國永、國俊、國次、長谷部、信國、了戒、當麻、包永の部 三日月宗近
ページ数:92、93 コマ数:61

御物(前将軍家)
三日月宗近 長貳尺六寸四分半 無代 (一本貳尺四分半)

三ヶ月と申す子細は三ヶ月形の打のけ数々有之依て名付たる由、秀吉公御後室高台院殿御召仕に山中鹿之助と申者あり此者に一度下され候事有之此者常々三日月を信仰して武具に三ヶ月を記す御拵に三ヶ月あるは右の者所持の内拵に其造りの儘にて候哉、台徳院様へ高台院殿御遺物として遺さる三條と銘有り

豊臣秀吉の正室・高台院所持

三日月宗近の所有者に関しては諸説紛々であり、時代的には高台院より前に所持していた人物の話が飛び出すこともある。
しかしそれらの説は十分な出典・根拠・信憑性に欠けるため、通説では高台院を判明している最初の所有者としているらしい。

『享保名物帳』によると、
もと豊臣秀吉の正室・高台院所持で、一度、侍臣の山中鹿之助が拝領していたが、再び高台院のもとに戻ったという。

『日本刀大百科事典』では『享保名物帳』の他に『豊臣家御腰物帳』を出典として挙げている。

『享保名物帳』に書かれた「山中鹿之助」は誰か?

『日本刀大百科事典』では、この『享保名物帳』に登場する名、「山中鹿之助」に関して検討を加えている。

この山中鹿之助は、尼子氏の忠臣とは同名異人としたうえで、このように推測している。

江州甲賀郡山中(滋賀県甲賀郡土山町)出身の山中山城守長俊は、秀吉に仕え一万石を給せられていた。
鹿之助はその一族であろうか。
この刀が高台院のもとに戻ってきた事情は不明であるが、本家の長俊は関ケ原の役で、その養子の紀伊守幸俊は、大阪落城により没落しているから、そのことと関連がありそうである。

異説として古い『享保名物帳』(享保八年本)には、山中鹿之助を毛利大膳大夫のもと家来としている。
毛利大膳大夫とは、元就の長男・隆元のことで、尼子氏討伐の大将だった人である。

その家来の鹿之助は、のち毛利家を去って、高台院に仕えたことになるが、ほかにも毛利の家臣に、山中姓のものがいたから、この説の可能性も多分にある。

高台院以前の所持者に関する様々な説

恵勝寺合戦で討死したもと権大納言・日野内光の所持説

『日本刀大百科事典』では、古い「刀剣と歴史」を出典として日野内光所持説を挙げている。

もと権大納言・日野内光(1489~1527)の所持というから、その頃はすでに三日月宗近という異名はついていたことになる。

柳本賢治が丹波に兵をあげ、京都に攻め上ってきた時、内光は細川高国の軍に加わり、防戦したが、大永七年(1527)2月13日、恵勝寺合戦で討死したと『野史』にある。

現存刀も物打ちより少し下に切込みが残り、奮戦の跡をとどめている。

その後、友軍だった畠山卜山が、その菩提を弔うため、三日月宗近を高野山に納めた。
そして元の名を“五阿弥切り”という、ということが徳川家の記録にあるという。

しかし、徳川将軍家の『御腰物台帳』に、そんな記事は一切ない。
畠山卜山とは畠山尚順のことであるが、卜山は内光より五年前、つまり大永2年(1522)7月17日に死去している。

『野史』では誤って卜山の死を、天文三年(1534)としているから、以上の話は『野史』の説を信じて作った、後人の創作ということになる。

と、いうのが『日本刀大百科事典』における福永酔剣氏の結論である。

尼子家の家臣・山中幸盛(山中鹿之助)所持説

『享保名物帳』では、三日月宗近を山中鹿之助が一時所持していたと書かれている。

「山中鹿之助」という名で有名なのは尼子氏の家臣・山中幸盛(1545~1578)である。

更に山中幸盛は、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話が戦前の教科書に載っていたほど有名である。

昭和初期辺りまでの刀剣書、一例として『大日本刀剣史』などでは三日月宗近はこの山中幸盛と関連付けて語られていた。

ただ研究者の性格によっては早くからこれを疑問視する声もあり、『詳註刀剣名物帳』の高瀬羽皐氏などはすでに大正時代から疑問を呈している。

そして昭和後期、平成に突入すると『日本刀大百科事典』のように『享保名物帳』の「山中鹿之助」はあくまで尼子氏家臣の山中幸盛とは同名の別人であるとされるようになった。

足利将軍家所持説

三日月宗近を足利将軍家が所持していたと記載した史料はないはずである。
しかし、昭和前期辺りの刀剣書、その後も三日月宗近をもと足利将軍家の刀であるとする説は特に前置きなしに記載されていることがある。

この形式からすると、三日月宗近が足利将軍家の刀だという話は一時期はかなり伝聞で言われていたようである。

『大日本刀剣史』などではさらに豊臣時代の所持者を高台院ではなく秀吉であったとし、遺物として秀忠へ献上ではなく、高台院から徳川家康へ渡されたとしているが、伝聞と憶測が主体であって、出典たる資料はないようである。

『大日本刀剣史 下巻』(データ送信)
著者:原田道寛 発行年:1941年(昭和16) 出版者:春秋社
目次:天下五名劍の三日月宗近
ページ数:231~235 コマ数:126~128

足利義輝が永禄の変で使った説

三日月宗近が足利将軍家の刀であったという説自体は上述の通り、遅くとも昭和初期から存在する。

現代ではこれに、13代将軍・足利義輝(1535~1565)が三好義重(義継)、松永久道、三好三人衆などに暗殺された永禄の変(1565)で刺客と交戦した際に使われたという情報が加わった説が刀剣の概説書などで説明されている。

しかし、足利義輝が刺客と戦ったと言う武勇を描く『足利季世記』には
「公方様御前に利剣をあまた立てられ、度々とりかへて切り崩させ給ふ御勢に恐怖して、近付き申す者なし」
とだけあって、この戦いで使われた刀の名前は書かれていない。

そもそも『足利季世記』は作者不詳であり書物の成立事情がよくわかっていない。

永禄の変に近い時代に遺された確実な史料として名が挙がるのは織田信長や豊臣秀吉と会見したこともある宣教師ルイス・フロイスの『日本史』や、その書簡類である。

ルイス・フロイスの書簡によれば足利義輝は部下と共に刺客に応戦したことまでは確実なようだが、その時に使った刀の名などは残っていない。『足利季世記』に見るような利剣をとりかえて戦ったという記述もない。

これらのことから、永禄の変で足利義輝が三日月宗近をはじめとして足利将軍家の名刀を使ったという話自体が後世の憶測だと考えられる。

『史籍集覧 第13冊 改定』
著者:近藤瓶城 編 発行年:1912年(明治45) 出版者:近藤出版部
目次:第百十六 足利季世記 巻第六 久米田軍記 光源院殿御最後之事
ページ数:233 コマ数:122

扨テ公方様御前ニ利劔ヲアマタ立ラレ度々トリカヘ切崩サセ給フ御勢ニ恐怖シテ近付申ス者ナシ

『異国叢書 第1』
発行年:1927年(昭和2) 出版者:聚芳閣
目次:二〇 一五六五年六月十九日附、都發、パードレ・ルイス・フロイスより豊後のパードレ及びイルマン等に贈りし書翰
ページ数:262 コマ数:161

公方様は火災及び必要に迫られ、部下と共に戦を始め、腹に一槍、頭に一矢、背に刀傷二つを受けて死したり。

(ルイス・フロイスの『日本史』は一部が国立国会図書館デジタルコレクションにも収録されているが、ちょうど永禄の変について書かれているという65章の載った部分がなかった。ただし、『日本史』の記述は」書簡類を基にしているので、史料の時代的には書簡の方が事件発生当時に近い)

高台院の遺物として、2代将軍・徳川秀忠に贈られる

『享保名物帳』によると、高台院の遺物として、徳川秀忠の手に渡った。

『日本刀大百科事典』では、秀忠所有となった日付を1624年12月13日と具体的に書いているため別の文献がありそうである。

埋忠家が拝見して押形を採ったというが

『日本刀大百科事典』では、このように説明されている。

埋忠家ではいつこれを拝見したのか、『埋忠銘鑑』にその押形を載せているが、現存の三日月宗近とは全く別物である。

それには樋があり、銘も太刀銘で、茎の中ほどにあり、目釘孔の位置も、現存刀とまったく相違する。

本阿弥光博氏もこの銘鑑の押形と現物が違うことに言及している。

『埋忠銘鑑』(データ送信)
著者:本阿弥光博 解説 発行年:1968年(昭和43) 出版者:雄山閣
目次:四、 本書の掲載諸刀散見
ページ数:9 コマ数:41

以後、将軍家伝来

1929年(昭和4)の時点で、徳川宗家16代目・徳川家達公爵所持。

『日本名宝物語 第1輯』
著者:読売新聞社 編 発行年:1929年(昭和4) 出版者:誠文堂
目次:三日月宗近太刀 公爵 德川家達氏藏
ページ数:95~98 コマ数:69~71

1933年(昭和8)1月23日、国宝(旧国宝)指定

昭和8年(1931)1月23日、国宝(旧国宝)指定。
徳川家達公爵名義。

「太刀 銘三條」

『日本刀分類目録』(データ送信)
著者:郷六貞治 編 発行年:1944年(昭和19) 出版者:春陽堂
目次:目録
ページ数:3 コマ数:18

『官報 1933年01月23日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1933年(昭和8) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第十五号 昭和八年一月二十三日
ページ数:460 コマ数:3

1941年(昭和16)1月16日、所有者変更

徳川家達公爵から徳川家正公爵へ所有者変更。

『官報 1941年01月16日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1941年(昭和16) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第十一号 昭和十六年一月十六日
ページ数:371 コマ数:2

その後、個人蔵へ

戦後は徳川宗家を出て個人蔵になった。

『日本刀全集』などでは中島喜代一氏や渡辺三郎氏の話に出てくる。

『日本刀全集 第9巻』(データ送信)
発行年:1968年(昭和43) 出版者:徳間書店
目次:愛刀家談義 中島喜代一 ページ数:261 コマ数:134
目次:愛刀家談義 渡辺三郎 ページ数:263 コマ数:135

下記の官報で所有者が昭和20年4月27日(1945)に徳川家正公爵から中島喜代一氏に変更されている。
(1947年の官報だが変更自体は1945年、変更申請からその受理迄の間に終戦を迎えているようである)

『官報 1947年04月17日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1947年(昭和22) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第五十四号 昭和二十二年四月十七日
ページ数:171 コマ数:16

下記の官報で所有者が昭和24年12月13日(1949)に所有者が中島タマ氏から高橋金雄氏に変更されている。
(1950年の官報だが変更自体は1949年)

『官報 1950年03月31日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1950年(昭和25) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第十六号 昭和二十五年三月三十一日
ページ数:393 コマ数:5

これらの話を整理すると

徳川宗家(1941年に家達公爵から家正公爵へ所有者変更を官報で確認)
→中島喜代一氏(1945年に家正公爵から所有者変更を官報で確認)
→高橋金雄氏(1949年に中島タマ氏から所有者変更を官報で確認)
→渡辺三郎氏(1951年死去)
→渡辺誠一郎氏(三郎氏の息子)(1951年に新国宝指定)

という遍歴と考えられる。

高橋金雄氏周りのことは検索してもよくわからなかったが、渡辺三郎氏の息子・誠一郎氏による新国宝指定が1951年でこの間が2年しかないこと、刀剣書では戦後の三日月宗近は主に中島喜代一氏の刀として語られ、その後渡辺三郎氏が入手したことが語られていることを考えると、この時期の所有者の移動はこれでほぼすべてではないかと考えられる。

1951年(昭和26)6月9日、国宝(新国宝)指定

昭和26年(1951)6月9日、国宝(新国宝)指定。
渡辺誠一郎氏名義。

「太刀 銘三条(名物三日月宗近) 附 糸巻太刀拵鞘」

官報の年月日と指定の年月日がずれていますが、この年月日であってると思います。
昭和26年6月9日に重要文化財から国宝指定された工芸品は昭和27年1月12日に告示が出されています。

『官報 1952年01月12日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1952年(昭和27) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文化財保護委員会告示第二号 昭和二十七年一月十二日
ページ数:140 コマ数:7

現在は「東京国立博物館」蔵

「国指定文化財等データベース」によると、

現在の所有者は「独立行政法人国立文化財機構 」
保管施設は「東京国立博物館 」

「東京国立博物館」のサイトによると、寄贈者は渡辺誠一郎氏。

下記の雑誌によれば寄贈時期は1991年頃。
何故か号が書いていないが亀甲貞宗と同じく渡辺誠一郎氏のコレクションとして国宝の「太刀銘三條」が寄贈されている。

「古美術 (104)」(雑誌・データ送信)
著者:三彩社 [編] 発行年:1992年11月(平成4) 出版者:
目次:特集記事 東京国立博物館120年のあゆみ・年表
ページ数:40 コマ数:22

作風

刃長二尺六寸四分五厘(約80.1センチ)。
踏張りあって、腰元で強く反る。

小板目肌に大肌まじり、地沸えのついた地鉄に、直刃に小乱れ、小足入りの刃文をやく。
刃文にそい地に二重刃や打ち除け、盛んに入る。
鋩子は尖って、やや深く返る。
茎はうぶで雉股形。
目釘孔三個、うち二個は埋める。

ハバキ近くの佩き裏に「三条」、と二字銘がある。

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:みかづきむねちか【三日月宗近】
ページ数:5巻P116、117

拵え

古い糸巻太刀の拵えがついている。
柄はないが、鞘には桐と菊の金蒔絵があり、金具にはすべて三日月・雲・桐などの色絵が施されている。

『国宝 第3 (平安時代 下) 解説』(データ送信)
著者:毎日新聞社国宝委員会 編 発行年:1965年(昭和40) 出版者:毎日新聞社
目次:工芸
ページ数:98 コマ数:110

『日本刀大百科事典』で福永酔剣氏は

鹿之助は三日月を信仰し、武具には三日月を記したというから、この拵えは、鹿之助が作らせたものかもしれない。

と、推測している。

調査所感

・「天下五剣で最も美しい」という評価はどこから来たのか?

もしかしてこれか?

『日本名宝物語 第1輯』
著者:読売新聞社 編 発行年:1929年(昭和4) 出版者:誠文堂
目次:三日月宗近太刀 公爵 德川家達氏藏
ページ数:95~98 コマ数:69~71

俗にいふ『天下五口の太刀』――鬼丸國綱、童子切安綱、三池大傳太、實丸經次のうへに立つて、天下随一と稱される名刀が、三日月宗近の一口。三条小鍛治の名と共に、獨り刀劔の覇を稱へて居りながら、かつて世間に姿を見せたことのない業物である。

この資料だと三日月は他の天下五剣、つまり鬼丸国綱、童子切安綱、三池光世作の大典太光世、そして実丸経次の上に……って

「実丸経次」って誰だぁ!?

知らない天下五剣おるっっっ!

『日本名宝物語』は序文が読売新聞社ですし、日本刀以外の美術品も扱っていますから記事を書いているのも刀剣の研究者ではなく、その研究者に取材した記者ではないかなと思います。

ただ、似たような表現は同じく昭和前期、上の『日本名宝物語』から12年くらい後の『大日本刀剣史』で原田道寛先生も使ってますね。

『大日本刀剣史 下巻』(データ送信)
著者:原田道寛 発行年:1941年(昭和16) 出版者:春秋社
目次:天下五名劍の三日月宗近
ページ数:232 コマ数:127

その何れにせよ天下出群の五名剣の随一たるは決して過褒ではなく、

と、いうことは昭和初期、昭和前期、戦前、くらいの表現で現わされる時期1929(昭和4)~1941(昭和16)年頃の評価としては三日月宗近は「天下出群の五名剣の随一」と実際に研究書の中で言われていて、これをとうらぶ風に言い直したものが「天下五剣で最も美しい」という表現だと思われます。

・そもそも「天下五剣」という呼称はいつできたか?

大正13年の『日本趣味十種』だとこう言われています。

『日本趣味十種 国学院大學叢書第壹篇』(データ送信)
著者:芳賀矢一 編 発行年:1924年(大正13年) 出版者:文教書院
目次:八 刀剣の話 杉原祥造
ページ数:328 コマ数:184

此刀も童子切安綱と同様天下出群の五刀の一である。

上で紹介した昭和16年の『大日本刀剣史』では本文で「天下出群の五名剣」と説明し、目次が「天下五名剣」となっています。

……で、昭和40年代の研究書になるといつの間にか「天下五剣」という表現になっています。

ここから考えるに単純に元は『諸家名剣集』からとった「天下出群の五名刀」という表現だったものが言いやすさから「天下五名剣」「天下五剣」と変化していったとするのが自然でしょうね。

そもそも「天下五剣」はいつそう呼ばれ始めたのかという問題はすでに議題とされているようでWikipediaなどにも記事が立っています。

「天下出群の五名刀」という表現自体はどこから来たのかというと、『諸家名剣集』が今の天下五剣の項目でそれぞれ「天下出群」のという表現を使っているらしく、これだと目されています。
ネットで見れる『諸家名剣集』だとこの内容載っていない気がするんですが私も古い字が読めないんでその辺は自信ないっす。

天下五剣という名称が「室町時代」からと説明している本が研究書レベルから多いんですが、『諸家名剣集』が江戸時代の『享保名物帳』の写本の一種なので、それ以前の資料がないとしたら「天下五剣」改め「天下出群の五名刀(剣)」という表現の成立は室町時代ではなく江戸時代になります。

細かく話していくと何か凄い大きな問題のように聞こえますが、ざっくりまとめると、昭和時代の研究者はまだ伝聞で刀の来歴や逸話を理解している部分が大きく出典に基づいた表現・表記に拘っていなかったので、なんとなく使っているうちに言葉も変化した上にみんなそう言ってるもんだから室町時代から天下五剣と呼ばれているような感じになってしまったという、いつものあれだと思います。

現象としては今までも刀や刀工の来歴で死ぬほど見てきたパターンです。
みんな言ってるから大体そうだと思ったらこの話よく考えたら出典がねぇ! 事実に即してねぇ! という。

今それについて、いや室町時代からは天下五剣って言われてなくない? というツッコミが入り始めたということはこれまでなんとなく信じて伝えてきてしまった話をもう一度最初から、出典から見直そうと言う動きが出てきたということになりますね。

・昭和前期頃の三日月宗近に対する認識

とうらぶにおける三日月宗近の認識は昭和初期・前期辺りの研究史がベースではないかなと思います。

足利将軍家が持っていたと説明する資料は大体その根拠・出典を述べてはおらず、研究書レベルで確かにそういう話はされているが、現代の感覚だとその説明では史実だと断定できない。

一方、その説明から更に妄想を逞しくして後世で創作してしまったと考えられる説が、永禄の変で足利義輝が振るったとする話であり、これは研究書にすら書かれていない。
刀剣の専門家ではない人間が書いた概説書にしか存在しませんから、ますます史実としては扱えない。

『日本刀大百科事典』が日野内光などそれ以前の話に一応触れながらも、わざわざ「通説では」として高台院所持から話を始めているので、現在では史実と確定できる最初の所有者は豊臣秀吉の正室・高台院からになります。

・そしてとうらぶの三日月という面倒なおじいちゃん

永禄の変の足利義輝はともかく、足利将軍家の刀だと昔の研究書でさかんに言われていたこともあるので、どうもとうらぶに関しては研究書レベルのその内容を三日月の話のベースとして採用し、永禄の変から史実ではない創作扱いにしていると考えられます。

そしてわざわざ史実ではない扱いにしながらも派生でガンガン永禄の変の話をぶち込んでいるということは、史実だろうが創作だろうが「その刀の物語」として語られているものは全部頭に入れておいてね☆ ってことになるんですよね。
観る方のハードルが一番高い! 俺たちプレイヤーは一体何の能力を要求されているんだ……!?

また、今回三日月の認識としては研究書レベルの内容を史実とする判断がベースではないかと推測しましたが、これもたまたま三日月に関してはそういう結果になっただけで、他の刀剣男士の判断基準としては採用できません。明確に概説書レベルの誤説から採用している刀の例があるので。

そしてとうらぶの派生の話になると誤説・創作としながらもわざわざ三日月絡みで何度も永禄の変・足利義輝の話をやっているので、刀剣男士は創作上の主への激重感情がばっちりあるということになり、やはりとうらぶの解釈には史実創作両方の情報をありったけ調べたうえでその性質を区別した上で分析する必要があります。

刀剣の研究史は確かに面倒……難しい。様々な憶測や諸説が入り混じり、何が史実だかわかったものではない。

しかし、こうしてまとめると、どう考えても一番面倒なことをしているのは刀剣乱舞でしょ(断定)。

そしてなんだかんだ言いつつ、その面倒な部分こそが話の肝であり、突っ込んで調べていけばいくほど、今までと違った景色が見えてきて刀の物語を魅力的にするものでもあると思います。

参考文献

『長享銘尽』
写本
コマ数:12

『諸家名剣集』(東京国立博物館デジタルライブラリー)
時代:享保4年(1719) 写本
コマ数:24、25

『刀剣談』
著者:高瀬真卿 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第六門 諸家の名刀 宗近の名作
ページ数:145、146 コマ数:97、98

『英雄と佩刀』
著者:羽皐隠史 発行年:1912年(大正1) 出版者:崇山房
目次:宗近の小狐丸
ページ数:48、49 コマ数:36

『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:宗近、國永、國俊、國次、長谷部、信國、了戒、當麻、包永の部 三日月宗近
ページ数:92、93 コマ数:61

『日本趣味十種 国学院大學叢書第壹篇』(データ送信)
著者:芳賀矢一 編 発行年:1924年(大正13年) 出版者:文教書院
目次:八 刀剣の話 杉原祥造
ページ数:328 コマ数:184

『刀剣名物牒』(データ送信)
著者:中央刀剣会 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:中央刀剣会
目次:(中) 同右 三日月宗近
ページ数:30 コマ数:18

『刀剣談 再版』(データ送信)
著者:羽皐隠史 著, 高瀬魁介 訂 発行年:1927年(昭和2) 出版者:嵩山房
目次:第五、諸家の名刀 宗近の名作【宗近】
ページ数:186~188 コマ数:105、106

『日本名宝物語 第1輯』
著者:読売新聞社 編 発行年:1929年(昭和4) 出版者:誠文堂
目次:三日月宗近太刀 公爵 德川家達氏藏
ページ数:95~98 コマ数:69~71

『諸伝通解名刀鑑別法』(データ送信)
著者:清水孝教 発行年:1930年(昭和5) 出版者:太陽堂書店
目次:三 最も姿の優しき刀(山城傳)
ページ数:181 コマ数:103

『官報 1933年01月23日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1933年(昭和8) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第十五号 昭和八年一月二十三日
ページ数:460 コマ数:3

『日本刀講座 第6巻 (刀剣鑑定・古刀)』(データ送信)
著者:雄山閣 編 発行年:1934年(昭和9) 出版者:雄山閣
目次:(古刀鑑定)山城・攝津・和泉・河內 一 槪說
ページ数:2 コマ数:248

『日本刀講座 第8巻 (歴史及説話・実用及鑑賞)』(データ送信)
著者:雄山閣 編 発行年:1934年(昭和9) 出版者:雄山閣
目次:(實用及鑑賞四)國寶刀劍解題(上) コマ数:448
目次:(實用及鑑賞四)國寶刀劍解題(上) ページ数:78 コマ数:508

『名刀図譜』(データ送信)
著者:本間順治 発行年:1935年(昭和10) 出版者:大塚工芸社
目次:六 太刀 銘 三條 名物三日月宗近 コマ数:28
目次:名刀図譜 解説 コマ数:126

『刀剣刀装鑑定辞典』(データ送信)
著者:清水孝教 発行年:1936年(昭和11) 出版者:太陽堂
目次:ミカヅキムネチカ【三ヶ月宗近】
ページ数:456 コマ数:239

『鑑刀随録』(データ送信)
著者:小泉久雄 発行年:1937年(昭和12) 出版者:小泉久雄
目次:畿内 山城・大和・攝津國
ページ数:1 コマ数:133

『武道全集 第5巻』(データ送信)
著者:原田道寛 発行年:1935年(昭和10) 出版者:平凡社
目次:天下出群の五名劍
ページ数:257~264 コマ数:140~144

『日本刀の研究 後編』(データ送信)
著者:倉田七郎 発行年:1937年(昭和12) 出版者:偕行社
目次:第三節 名刀の發見
ページ数:199 コマ数:114

『日本刀の研究 後編』(データ送信)
著者:倉田七郎 発行年:1937年(昭和12) 出版者:偕行社
目次:第二節 山城傳
ページ数:270、271 コマ数:6

『国宝刀剣図譜 古刀の部 山城』(データ送信)
著者:本間順治 編 発行年:1938年(昭和13) 出版者:岩波書店
目次:〔古刀の部〕 山城
コマ数:13、15

『東京帝室博物館復興開館陳列目録 第6』
著者:東京帝室博物館 編 発行年:1938年(昭和13) 出版者:東京帝室博物館
ページ数:105 コマ数:56

『官報 1941年01月16日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1941年(昭和16) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第十一号 昭和十六年一月十六日
ページ数:371 コマ数:2

『大日本刀剣史 下巻』(データ送信)
著者:原田道寛 発行年:1941年(昭和16) 出版者:春秋社
目次:天下五名劍の三日月宗近
ページ数:231~235 コマ数:126~128

『刀剣鑑定秘話 2版』
著者:本阿弥光遜 発行年:1942年(昭和17) 出版者:金竜堂
目次:古名刀を語る 三日月宗近
ページ数:253~255 コマ数:132、133

『日本刀分類目録』(データ送信)
著者:郷六貞治 編 発行年:1944年(昭和19) 出版者:春陽堂
目次:目録
ページ数:3 コマ数:18

『官報 1947年04月17日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1947年(昭和22) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第五十四号 昭和二十二年四月十七日
ページ数:171 コマ数:16

『官報 1950年03月31日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1950年(昭和25) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第十六号 昭和二十五年三月三十一日
ページ数:393 コマ数:5

『官報 1952年01月12日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1952年(昭和27) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文化財保護委員会告示第二号 昭和二十七年一月十二日
ページ数:140 コマ数:7

「刀剣史料 (6)」(雑誌・データ送信)
発行年:1959年(昭和34) 出版者:南人社
目次:三条宗近の事跡 / 川口陟
ページ数:2 コマ数:3

『趣味の日本刀』(データ送信)
著者:大河内常平, 柴田光男 共著 発行年:1963年(昭和38) 出版者:雄山閣出版
目次:一、 日本刀の歩み 古刀篇
ページ数:10 コマ数:10

『入門日本刀 (リビングライブラリー) 』(データ送信)
著者:清水澄 発行年:1963年(昭和38) 出版者:徳間書店
目次:太刀 銘 三条(名物三日月宗近) コマ数:5
目次:三条小鍛冶宗近 ページ数:114、115 コマ数:61

「研修 (6)(192)」(雑誌・データ送信)」
発行年:1964年6月(昭和39) 出版者:誌友会事務局研修編集部
目次:籠釣瓶奇談(五) / 柴田和徹
ページ数:14~16 コマ数:9、10

『国宝 第3 (平安時代 下) 解説』(データ送信)
著者:毎日新聞社国宝委員会 編 発行年:1965年(昭和40) 出版者:毎日新聞社
目次:工芸
ページ数:98 コマ数:110

『日本刀講座 第1巻 新版』(データ送信)
発行年:1966年(昭和41) 出版者:雄山閣
目次:茎の話(1)
ページ数:83 コマ数:61

『日本刀講座 第2巻 新版』(データ送信)
発行年:1966年(昭和41) 出版者:雄山閣
目次:山城・摂津・和泉・河内国 概説 山城国
ページ数:4 コマ数:59

『日本刀全集 第1巻』(データ送信)
発行年:1966年(昭和41) 出版者:徳間書店
目次:名物と国宝 辻本直男
ページ数:55~65 コマ数:32~36

『日本刀新価格総鑑』(データ送信)
著者:刀剣春秋新聞社 編 発行年:1966年(昭和41) 出版者:徳間書店
目次:天下五名剣
ページ数:337~340 コマ数:180~182

「刀剣と歴史 (429)」(雑誌・データ送信)
発行年:1966年1月(昭和41) 出版者:日本刀剣保存会
目次:山城物の作風 / 吉川賢太郎
ページ数:7 コマ数:6

『日本刀の鑑定と鑑賞 (実用百科選書) 』(データ送信)
著者:常石英明 発行年:1967年(昭和42) 出版者:金園社
目次:第四部 全国刀工の特徴と系統 一 古刀の部 近畿地方
ページ数:92、93 コマ数:75

『日本刀全集 第5巻』(データ送信)
著者:加島新、藤代松雄、池田末松、高橋信一郎(監修:本間順治、佐藤貫一) 発行年:1967年(昭和42) 出版者:徳間書店
目次:古刀I 加島進
ページ数:20 コマ数:18

『日本刀入門 : 選び方買い方』(データ送信)
著者:柴田光男 発行年:1967年(昭和42) 出版者:光芸出版
目次:日本刀の歩みと名刀を残した人々 日本刀のあけぼの
ページ数: コマ数:

『日本刀全集 第9巻』(データ送信)
発行年:1968年(昭和43) 出版者:徳間書店
目次:愛刀家談義 中島喜代一 ページ数:261 コマ数:134
目次:愛刀家談義 渡辺三郎 ページ数:263 コマ数:135

『埋忠銘鑑』(データ送信)
著者:本阿弥光博 解説 発行年:1968年(昭和43) 出版者:雄山閣
目次:四、 本書の掲載諸刀散見
ページ数:9 コマ数:41

『原色日本の美術 21』(データ送信)
著者:尾崎元春、佐藤寒山 発行年:1970年(昭和45) 出版者:小学館
目次:刀剣 ページ数:82 コマ数:88
目次:図版解説Ⅲ ページ数:103 コマ数:109
目次:一、日本刀概説 ページ数:222 コマ数:228

『日本刀講座 第10巻 新版』(データ送信)
発行年:1970年(昭和45) 出版者:雄山閣出版
目次:図―1 コマ数:15
目次:畿内 ページ数:4 コマ数:124

『大田錦城伝考 下』(データ送信)
著者:井上善雄 発行年:1973年(昭和48) 出版者:加賀市文化財専門委員会[ほか]
目次:管生石部神社と錦城
ページ数:236~238 コマ数:132、133

「刀剣と歴史 (495) 」(雑誌・データ送信)
発行年:1977年1月(昭和52) 出版者:日本刀剣保存会
目次:口絵 名物三日月宗近
コマ数:3

「刀剣と歴史 (525)」(雑誌・データ送信)
発行年:1982年1月(昭和57) 出版者:日本刀剣保存会
目次:日本刀の姿の大要(上) / 吉川皎園
ページ数:6 コマ数:8

『新・日本名刀100選』(紙本)
著者:佐藤寒山 発行年:1990年(平成2) 出版社:秋田書店
(中身はほぼ『日本名刀100選』 著者:佐藤寒山 発行年:1971年(昭和46) 出版社:秋田書店)
目次:2 三日月宗近
ページ数:112

「古美術 (104)」(雑誌・データ送信)
著者:三彩社 [編] 発行年:1992年11月(平成4) 出版者:
目次:特集記事 東京国立博物館120年のあゆみ・年表
ページ数:40 コマ数:22

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5年) 出版者:雄山閣
目次:みかづきむねちか【三日月宗近】
ページ数:5巻P116、117

『日本刀を嗜む』(紙本)
著者:刀剣春秋編集部監修 発行年:2016年(平成28) 出版社:ナツメ社
目次:名刀図譜1 三日月宗近
ページ数:22、23

概説書

『剣技・剣術三 名刀伝』(紙本)
著者:牧秀彦 発行年:2002年(平成14) 出版者:新紀元社
目次:第一章 天下五剣・天下三槍 三日月宗近 徳川将軍家
ページ数:30、31

『名刀 その由来と伝説』(紙本)
著者:牧秀彦 発行年:2005年(平成17) 出版者:光文社
目次:徳川将軍家の名刀 三日月宗近
ページ数:155~159

『図解 武将・剣豪と日本刀 新装版』(紙本)
著者:日本武具研究界 発行年:2011年(平成23年) 出版者:笠倉出版社
目次:第3章 武将・剣豪たちと名刀 直江兼続と三条宗近 ページ数:150、151
目次:第四章 名匠伝 宗近 ページ数:198~201

『日本刀図鑑: 世界に誇る日本の名刀270振り』(紙本)
発行年:2015年(平成27) 出版者:宝島社
目次:天下五剣 三日月宗近
ページ数:16

『図解日本刀 英姿颯爽日本刀の来歴』(紙本)
著者:東由士 編 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:大名家が所有した名刀たち 三日月宗近
ページ数:24、25

『刀剣目録』(紙本)
著者:小和田康経 発行年:2015年(平成27) 出版者:新紀元社
目次:≪第一章 平安時代≫ 山城国三条 宗近 三日月宗近
ページ数:30

『物語で読む日本の刀剣150』(紙本)
著者:かゆみ歴史編集部(イースト新書) 発行年:2015年(平成27) 出版者:イースト・プレス
目次:第2章 天下五剣 三日月宗近
ページ数:34~37

『刀剣物語』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:天下・神代・伝説の刀 三日月宗近
ページ数:42、43

『刀剣説話』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2020年(令和2) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
(『刀剣物語』発行年:2015年を加筆修正して新たに発行しなおしたもの)
目次:戦国大名が所有した刀 三日月宗近
ページ数:138、139

『刀剣聖地めぐり』(紙本)
発行年:2016年(平成28) 出版者:一迅社
目次:三日月宗近
ページ数:39