三日月宗近とは何物か
1.三日月宗近と織田信長
舞台は国広を中心にしてる構成上、極修行の話である「単独行(山姥切国広単独行―日本刀史―)」が重要、第一節もそれを踏襲する形になるだろうなとは結構前から(単独行見る前から)思ってたんですが、ちょっと前にようやく単独行見たのでその辺の考えをまとめようかと。
結論として、「単独行」の信長周りの回答って「虚伝」と同じじゃね?
「今お前の目に映るわしはどう見える」
「たくさんの織田信長がいる」
誰の心にもその人の信長が存在する。
「単独行」では国広と信長はお互いの生き様に思いを馳せようと約束し合って爽やかに別れたので美しい結論にも見えますが、これは本来「虚伝」で不動くんが苦悩と慟哭と共に受け入れた結論ではないか。
全ての信長を受け入れるということは、光秀が殺したいと願っている信長像も受け入れねばならないということ。
自分にとって都合の良い物語だけを受け入れることではない。
自分が絶対に認められないような物語も、受け入れねばならない、そういうこと。
三日月を追っていった先で信長と会っているんだから、この辺からすると三日月と信長様で互換かなーと薄っすら考えていたところに映画の第1作目がほぼ三日月と信長の話という情報を得たので。
えー、結論としてやはり「三日月」と「信長」で対応していると思います。ということは。
……もしかして舞台の第一節の〆となるテーマは
「三日月宗近とは何物か?」
なのか。第1作の虚伝が「織田信長とは何者か?」だった、その裏側。
あの時、話の中心でありながら事件としては脇役だった山姥切国広が、今度は事件の中心である不動行光の立場になるのではないか?
……三日月と信長が元々対応関係にあるなら、おそらく第一節最後の物語、山姥切国広の物語の〆から最初の物語である「虚伝」の踏襲は綺麗に繋がるなと。
単独行そのものが、そもそも虚伝の真裏ではないのか。
思い返せば確かに舞台は相手の像を固定化しないための言葉をちょこちょこ挟んでたけど、あれは歴史認識上の注意じゃなくガチでそういうテーマの話ってことなのぉ?
自分が見ている相手の姿が、本当に相手の真実であるかなど、誰にもわからない。
ミュージカルはずっと欠落とか喪失とかの話をやっているんですよね。
だからミュージカルの結論は「花影ゆれる研水」の一期の結論に近くなるだろうと思われる。
さらにその結論は、ミュージカルの第1作目の阿津賀志山に繋がる答だとも思うんですよね。
悲しいことの次に我らがいる。だから、歴史を変えない。空白は埋めない。
同じ要領で舞台のテーマを抜き出すと、代替とか犠牲とかの物語ではないのか。
広義に包括する「写し(模倣・代用)」の物語。
だから写しである山姥切国広が主人公の一振りなのだとも言える。
そしてその物語の行き着く先は、空白を埋める代用品の肯定。
単独行の「ありとあらゆる織田信長が全てお前」を以て、虚伝の問いへと返る。
舞台もミュージカルも基本は「空白(欠落、喪失)」と「代用(模倣、犠牲)」が絡み合った話だと思うんですよね。空白がなければそれを埋める代用品も必要ない。
ミュージカルに比べると舞台で一番重要なテーマは何かと思ったけど、三日月と信長で対応するならやはり最後は「虚伝」で示されたテーマ「織田信長とは何者か?」を以て、「虚伝」で得た結論、それぞれの心の中に織田信長がいるに還るんかなと。
三日月を救いたいというどうしようもない気持ち。
けれど、国広が救いたい「三日月宗近」こそ、本当は何者だったのか。
「単独行」のテーマこそが舞台で最も重要な話の骨格だとすると、「虚伝」の不動くんと同じように、国広がそれを受け入れるまでの物語として終わりと始まりがぴったり重なるような気がします。
2.代用と犠牲の物語
ミュージカル側が「欠落」や「喪失」の物語ならば、舞台側は「代用」や「犠牲」の意味が強い物語ではないのか。
より正確に言えばどちらの物語にもその要素はあって、ミュージカルは前半(「つはものどもがゆめのあと」まで)が「代用」の物語、後半が「喪失」を受け入れる物語のような気がします。
舞台は逆で、前半(「悲伝」まで)が「喪失」を受け入れるための物語であり、第一節終了までの後半戦が「代用」を受け入れる話になるような気がします。
以前からの考察で舞台は山姥切国広の極修行が重要な意味を持つ構造である以上、「単独行」の結論が舞台の第一節の総括たる結論の骨格になると思います、と言ってたんですが。
そうするとあの話でその結論にたどり着くまでに一番重要な展開は……「ふくのすけ」の犠牲だと思うんですよ……。
魔王である朧の信長と戦う国広を生き残らせ、生き返らせるための管狐・ふくのすけの犠牲。
身代わりと代替。
国広の位置を動かさずにこの物語を踏襲するなら誰か犠牲が必要ですね。
ところでもうすでに国広の「代替」になる発言してる刀いるじゃありませんか。
「山姥切国広 お前が帰るまであの本丸は俺が守ってやる」
「……」(思わず無言になる長義ファン)
うーん、うーん、「虚伝」から「慈伝」までの物語見るとお互いの位置は細かくシャッフルしながら同じ構造が繰り返されているのでむしろ同じ位置で踏襲するか? と言われるとそこは疑問なんですがね。
かといってここで国広の方を犠牲にして別の男士なりを交替で置いて第一節を締めることはあまり考えにくいと思うんですよ。メタ的にも。
そしてじゃあ国広の位置が変わらないままだとすると、代用・犠牲の位置は自ら国広の「代わり」を申し出ている長義くんしかいないと思うんですよね……(鬱)。
舞台は国広の物語は、国広の物語としてきっちり結論を出すのではないだろうか。
上の項でまとめた「三日月宗近とは何物か?」の問いはいわば原作ゲームのここに繋がる話だと思うんですよね。
回想其の57 『ふたつの山姥切』
国広「……名は、俺たちの物語のひとつでしかない」
長義「……なに?」
国広「俺たちが何によって形作られたのか。それを知ることで強くもなれる。けれど、もっと大切なことがあるのだと思う……」
「今お前の目に映るわしはどう見える」
「たくさんの織田信長がいる」
自分だけの物語を求めて修行に旅立ったはずの山姥切国広は、けれど己のそれが本歌を食うものだと知って、それを追うことを止めた。
逸話は二つある。それが極修行での答え。
その答えから本丸に来た長義とのやり取りのここに繋がる。
自分が大切にしているものも、誰かが大切にしているものの、この世にある大切なものの中のあくまで一つに過ぎない。
そこに囚われてはいけないと。
……うん、「単独行」を骨格に山姥切国広の極修行の本質を考えれば考えるほど綺麗に「虚伝」の踏襲として一つの円環構造の美しい物語が完成してしまうんですよね。
はー(色んな意味で溜息)。
「慈伝」を見た時から思っていたんですが、舞台は原作ゲームでは山姥切国広が我々に決して見せなかった感情の裏側をしっかり描き切る物語だと思うんです。
長義とのやり取りも、自分にとって重要な自分の物語を追う気持ちも。
そのせいで国広が喪ったものも、得たものも。
そこにある悲しみも、怒りも。
さて、予想を含む考察はこのぐらいにして、舞台本丸の第一節の〆としてどんな物語が展開されるのかは実際にクライマックスとエピローグを見てみないとわからない。
もしかしたらアクロバティックに本丸全員無事で乗り越える大団円かもしれんし。
まだだ……まだ胃を傷めるには早いわ。
はい、ここまでの考察は俺の妄想ね妄想。妄想なんてどうでもいいよね。
とりあえず今年で舞台の5つ目の特命調査が終わるので、来年以降の物語を注視したいと思います。